押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第54話 泡石の冷風箱

 

 ヴァルディス侯爵家の客間は、見た目だけなら涼しげだった。

 

 白い薄布が窓辺に垂れ、磨かれた石床には、朝のうちに打ち水をした跡がうっすら残っている。卓上には冷えた果実水の壺が置かれ、窓の外では庭師が日差しを遮る布の角度を直していた。

 

 けれど、暑い。

 

 澪は椅子に座った瞬間、背筋を伸ばしたまま、内心でそっと汗をかいた。

 

 貴族の客間でも暑いものは暑い。むしろ、品よく暑い。汗をかいても騒げない分、庶民の屋台より静かに追い詰めてくる。

 

 アルベルト・ヴァルディスは、卓の向こうで手元の書類を閉じた。額に汗は見えないが、首元の襟がいつもより少し緩められている。

 

「屋台で、暑さをしのぐ仕組みを作ったと聞いた」

 

「屋台用なので、すごい冷房ではありません」

 

 澪は先に逃げ道を作った。

 

 リュシアの屋台で作ったのは、井戸水、大甕、濡れ布、日陰、補水飲料、冷製スープ、冷製麺の組み合わせだ。涼しくするというより、暑さで倒れないための配置と運用である。

 

 その横で、エレナ・ヴァルディスが前のめりになった。今日も護衛付きだ。護衛は客間の入口近くに立っているが、エレナが少しでも椅子から身を乗り出すと、視線だけが一歩分近づく。

 

「だが、あの冷たい麺と霧はよかった。客間にも、あの涼しさが欲しい」

 

 護衛が静かに言った。

 

「姫様、屋台の霧を客間へそのまま入れるのは無理がございます」

 

「そのままとは言っていない。もっとよい形にすればよい」

 

 エレナは当然のように返した。

 

 澪は、すごく簡単に言う、と思った。

 

 アルベルトはそのやり取りを止めず、果実水の壺へ視線を向けた。

 

「氷を使えば一時は冷える。しかし高い。毎日使うものではない。来客、執務室、病人の部屋、どれも夏には熱がこもる。氷室に頼らず、涼を取る道具があるなら欲しい」

 

 氷なしで、涼しい風を作る道具。

 

 澪の頭の中に、白いエアコンの室内機が浮かんだ。

 

 浮かんだが、その後ろに、室外機、配管、冷媒、コンプレッサー、電源、工事、排水、全部が一緒に浮かんだ。

 

 無理です、と言いそうになって、澪は口を閉じた。

 

 無理で止めるなら、ここまで来ていない。

 

 異世界には異世界の素材がある。セルマがいる。澪の整形もある。何より、今回の相手は冷房を買いたいのではなく、暑さを減らしたいのだ。

 

「氷なしで、涼しい風を作る道具……」

 

 澪は小さく繰り返した。

 

 エレナが期待に満ちた目で見ている。護衛は、期待より先に危険を探している顔をしている。アルベルトは、侯爵家として実用に足るかを見ている。

 

 澪は手元のハンカチを握った。

 

「一度、セルマさんに相談してみます」

 

 アルベルトは頷いた。

 

「頼む。涼しさは贅沢だが、夏に人を動かすには必要なものでもある」

 

 その言葉は、屋台の木板に書いた「澪がいない日でも回す」と同じ重さを持っていた。

 

 

 

 

 

 セルマ工房は、いつも通り暑かった。

 

 薬液の匂い、乾いた薬草の香り、金属皿の熱、炉の残り火。外より日差しは弱いが、工房の奥には熱が沈んでいる。窓辺には前に澪が持ち込んだ風鈴が揺れていて、ちりん、と涼しげな音だけは出していた。

 

 音だけは。

 

 澪は、作業台の前でセルマに事情を話した。

 

「侯爵家から、涼しい風を作る道具を相談されました」

 

 セルマは瓶の蓋を閉め、すぐに考え込んだ。

 

「氷を作る薬? それとも冷たい水を循環させる箱?」

 

「それも候補なんですけど、あたしの国には、冷たい空気を出す機械があります」

 

「氷を入れる箱?」

 

「違います。たぶん、熱を外へ捨てる機械です」

 

 セルマの目が少し細くなった。

 

「熱を捨てる?」

 

「そうなんですけど、ええと、冷媒が……圧縮して……膨張して……それで、室内機が冷えて、室外機が熱くなって……」

 

 言えば言うほど、澪自身の頭の中でエアコンが分解されていく。冷媒。圧縮機。膨張弁。熱交換器。密閉配管。どれも説明できるようで、実物を作れるほど分かっていない。

 

 セルマは澪の顔を見て、容赦なく言った。

 

「澪、説明するほど迷子になっているわ」

 

「一回、先生に聞いてきます」

 

「また先生ね」

 

「はい。こういう時の先生です」

 

 セルマは笑ったが、止めなかった。

 

「では、聞いてきて。氷を作る話ではなく、熱をどう動かすかを知りたいわ」

 

「分かりました」

 

 澪は六畳間へ戻る前に、工房の暑さをもう一度見回した。

 

 この場所にも必要だ。

 

 客間だけではない。工房、教会、屋台、家具工房。全部に、少しでも涼しい風がいる。

 

 

 

 

 

 六畳間に戻ると、現代側の冷房が静かに動いていた。

 

 澪は、その風に当たった瞬間、少し負けた気がした。

 

「あたしの国、便利すぎる……」

 

 けれど、この箱をそのまま異世界へ持っていくわけにはいかない。電源、取り付け、室外機、配管、故障、冷媒。考えただけで、セルマ工房の机の上が部品だらけになる。

 

 澪はノートパソコンを開き、ChatGPT先生に質問を打ち込んだ。

 

 異世界にある素材で冷房に近いものを作るには。

 

 水と石と風で冷たい風を作れるか。

 

 現代エアコンをそのまま作らず、井戸水、石、錬金術、風で実現したい。

 

 しばらく画面を見つめていると、回答が出た。

 

 澪は読みながら、ノートにメモを取った。

 

 水が蒸発するときに熱を奪う。

 

 濡れ布、打ち水、ミストと同じ原理。

 

 水を含む多孔質素材へ風を通すと、少し冷たい風が出る。

 

 素焼き板より、軽石、凝灰岩、多孔質石。

 

 上部に水槽を作り、下までじわじわ染み込ませる。

 

 下部に受け桶が必要。

 

 水量調整。

 

 多すぎると漏れる。

 

 少なすぎると乾く。

 

 目詰まり、苔、カビ、洗浄、乾燥。

 

 湿気が多い日は効きにくい。

 

 電気がある場所なら扇風機。ない場所なら手回し羽根やうちわ。

 

 澪は画面を見ながら、小さく呟いた。

 

「エアコンじゃない」

 

 けれど、次の瞬間、指が止まった。

 

「でも、異世界で作れる」

 

 泡石ならありそうだ。

 

 水を吸う石。穴の多い石。素焼きより水を抱えられるもの。

 

 セルマなら崩れ止めができるかもしれない。

 

 澪なら、整形で波形にできるかもしれない。

 

 ただし、穴を潰してはいけない。

 

 澪はその注意を、ノートに太く書いた。

 

 穴を潰さない。

 

 2回書いた。

 

 不安だったので、3回目も書いた。

 

 

 

 

 

 プリンターが、かたかたと音を立てた。

 

 澪はChatGPT先生の回答を印刷し、余白に赤ペンで線を引いた。そのままでは文章が多いので、別紙に手描きの図も描く。

 

 上に浅い水槽。

 

 その下に波形の泡石板。

 

 泡石板には縦溝。

 

 水は上から下へじわじわ染みる。

 

 下に受け桶。

 

 後ろから風。

 

 前から冷たい風。

 

 横に、小さく水量調整栓。

 

 掃除できるように取り外し。

 

 さらに赤ペンで書く。

 

 穴を潰さない。

 

 水を入れすぎない。

 

 乾かさない。

 

 洗えるようにする。

 

 苔・汚れ注意。

 

 子どもが手を入れないよう格子。

 

 床を濡らさない。

 

 澪はプリントを並べ、しばらく眺めた。

 

 現代のエアコンではない。

 

 でも、目的は同じだ。

 

 暑い場所に、少しでも涼しい風を送る。

 

 それなら、作れるかもしれない。

 

 澪は資料をクリアファイルに入れ、ついでに手描き図へ大きく書き足した。

 

 冷房ではなく、冷風箱。

 

 言葉にすると、急に異世界で作れそうな気がしてきた。

 

 

 

 

 

 セルマは、澪が持ち帰ったプリントを、思っていた以上に真剣に読んだ。

 

 作業台の上には、紙が3枚広げられている。セルマは文章を読み、手描きの図を指でなぞり、上部水槽から波形板を通って下部受け桶へ落ちる水の流れを目で追った。

 

「ChatGPT先生に聞いてきました」

 

「また先生ね」

 

「今回は、冷房じゃなくて冷風箱です」

 

「冷風箱」

 

 セルマはその言葉を気に入ったように繰り返した。

 

「水を含ませた石に風を通して、水が蒸発するときに熱を持っていかせます」

 

「冷やすのではなく、水に熱を運ばせるのね」

 

「はい」

 

 セルマは図の泡石板のところを指で叩いた。

 

「素焼きでもできそうだけれど、もっと水を抱える石が欲しいわ」

 

「泡石、軽石、凝灰岩みたいな多孔質石です」

 

「泡石ならあるわ。軽くて穴が多くて、崩れやすい石」

 

 言いながら、セルマは工房の奥へ行った。

 

 棚ではなく、床に近い石材置き場から、灰色がかった薄茶色の石を持ってくる。見た目は石なのに、机へ置いた音が軽い。澪が両手で持ち上げると、予想よりずっと軽かった。

 

「軽い……」

 

「穴が多いからね」

 

 セルマは小さな水差しを取り、泡石の端に水を垂らした。

 

 水は表面で玉にならず、すっと吸い込まれて消えた。澪は思わず身を乗り出す。

 

「水を吸いますね」

 

「ただ、このまま薄くすると割れるわ」

 

 澪は鑑定をかけた。

 

----------------------------------

泡石

 分類:多孔質石材

 特徴:軽量、多孔、水を含む

 加工性:高

 欠点:欠けやすい、粉が出やすい

 冷却材適性:高

 注意:孔を潰すと吸水性低下

 注意:補強なしでは薄板加工に不安

----------------------------------

 

 表示を見て、澪はゆっくり頷いた。

 

「整形で形は作れます。でも、穴を潰したら意味がないです」

 

「穴を残したまま整える。そこが今回の仕事ね」

 

 セルマは楽しそうだった。

 

 澪は少しだけ不安になった。

 

 楽しそうなセルマは、だいたい難しいことを簡単そうに言う。

 

 

 

 

 

 最初の試作は、失敗した。

 

 澪は泡石を薄い板にしようとした。整形は効いた。石は割れずに、平たい板になった。形だけ見れば、見事だった。

 

 だが、表面が妙に滑らかだった。

 

 水を垂らす。

 

 吸い込みが遅い。

 

 澪は嫌な予感とともに鑑定した。

 

----------------------------------

泡石試作板

 加工:整形

 状態:表面圧縮過多

 吸水:低下

 冷却材適性:低下

 原因:孔の潰れ

 推奨:圧縮を弱め、孔を残す

----------------------------------

 

「やりました。失敗です」

 

 澪が即座に言うと、セルマが吹き出した。

 

「早いわね」

 

「穴を潰したら意味がないです。本当に意味がないです」

 

「見事なただの石板ね」

 

「褒めないでください。褒められてないですけど」

 

 澪は失敗した板を横へ置いた。

 

 次は薄くしすぎた。端が欠けた。

 

 その次は溝を太く入れすぎた。水を垂らすと、泡石に染みる前に溝を通って下へ逃げた。

 

 その次は溝を浅くした。上だけが濡れて、下が乾いたままだった。

 

 澪は、泡石を前に両手をついた。

 

「ちょうどいいが難しい」

 

 セルマは失敗した板を順番に触り、粉の出方、欠けた縁、水の吸い方を見ていた。

 

「石なのに、布みたいに考えないと駄目ね。水を流すのではなく、抱えさせる」

 

「はい。上から下へ、じわじわです」

 

「でも割れたら終わり」

 

「そこを言わないでください」

 

 澪はもう一度、整形をかけた。

 

 今度は押し固めない。表面をつぶさない。穴が残るように、形だけを少しずつ寄せる。平板ではなく、波形。薄くしすぎず、表面積を増やす。縦に細い溝を入れる。ただの溝ではなく、水が急いで逃げない浅い道。

 

 泡石は、少しずつ形を変えた。

 

 手応えは、粘土とも木とも違う。無理に押すと詰まる。引くと欠ける。石の中にある空洞を潰さないよう、周りの形だけを整える。

 

 澪は息を止めていたことに気づき、ゆっくり吐いた。

 

「これ、整形の練習としては最悪です」

 

「最高ではなくて?」

 

「難しすぎるという意味では最高です」

 

 セルマは満足そうに頷いた。

 

 

 

 

 

 形ができた泡石板は、そのままではまだ弱かった。

 

 持ち上げると粉が落ちる。縁を軽く叩くと、細かい欠片が出る。これを箱の中に立てて、水を吸わせ、風を当て続けるなら補強が必要だった。

 

 セルマは樹脂を薄めた液を用意し、泡石板の端へほんの少し塗った。

 

 水を垂らす。

 

 弾いた。

 

「固めればいいわけではないわね」

 

「水を吸わなくなります」

 

 次に、鉱物粉を混ぜた薄い錬金膜を試す。今度は粉落ちは減ったが、表面の穴が一部ふさがった。

 

 水を垂らすと、吸う場所と吸わない場所がまだらになる。

 

「これは駄目ね」

 

「冷却板というより、まだら板です」

 

「名前をつけないで。腹が立つわ」

 

 さらに薄く、さらに弱く。セルマは補強を、面ではなく縁と脆い部分へ寄せた。穴をふさがず、崩れだけ止める。泡石の表面に、目にはほとんど見えない薄い支えを残す。

 

 水を垂らす。

 

 今度は、吸った。

 

 粉も、前より落ちない。

 

 セルマは少し目を細めた。

 

「穴を残して、崩れだけ止める。面倒な素材だわ」

 

「でも、そこが冷えるところです」

 

「分かっている。腹が立つくらい面白いわ」

 

 澪は、その言い方に少し笑った。

 

 セルマが腹を立てながら面白がっている時は、だいたい先に進む。

 

 

 

 

 

 完成に近い泡石板は、平らではなかった。

 

 波形にうねり、縦に細い溝が入り、木枠の中に収まっている。上から水が来れば、波の山と谷を伝いながら広がり、内部の細かな孔にも吸い込まれるはずだった。

 

 澪は鑑定した。

 

----------------------------------

波形泡石冷却板

 素材:泡石

 加工:澪の整形

 補強:セルマの錬金処理

 形状:波形板、縦溝付き

 吸水:良

 浸透:上から下へ緩やか

 通風:良

 冷却材適性:高

 注意:水量調整必須

 注意:定期洗浄・乾燥必須

----------------------------------

 

「平らより、波形の方が風が当たります」

 

 澪が言うと、セルマは板の横から覗き込んだ。

 

「水も広がるわね」

 

「上から下へ、じわじわ染みる感じです」

 

「流すのではなく、湿らせ続ける」

 

「はい。水漏れ箱にしないために」

 

 その直後、本当に水漏れ箱になった。

 

 上部に浅い水受け槽を置き、井戸水を入れた。最初の水量が多すぎた。泡石が水を飲む前に、溝を勢いよく走った水が下へ落ち、受け桶の外へ跳ねた。

 

 床が濡れた。

 

 ちょうど顔を出したリュシアが、それを見て言った。

 

「これは冷風箱じゃなくて水漏れ箱だね」

 

「今、それは言わないでください」

 

 澪は濡れた床を布で拭きながら言った。

 

 セルマは冷静に泡石板を見ていた。

 

「水が多すぎる。石が飲む前に逃げているわ」

 

「次は少なめにします」

 

 次は少なすぎた。

 

 上だけ濡れて、下が乾いたまま。

 

「今度は下まで届いていない」

 

「ちょうどいいが難しい」

 

 澪は小さな栓を削り、セルマが布芯を細く差し込み、傾きを変え、溝の入り方を少し整えた。水が一気に落ちないように、上の水槽から泡石へ触れる場所を広げる。

 

 何度も入れて、何度も拭いた。

 

 リュシアは途中から床に濡れ跡が増えるのを見て、手伝い衆のように受け桶の位置を直し始めた。

 

「屋台に置くなら、床が濡れないことが第一だね」

 

「まだ屋台には置きません」

 

「置く時の話だよ」

 

「早いです」

 

「商売は早い方が勝つ」

 

「開発は早すぎると漏れます」

 

 リュシアは濡れた床を見て、否定しなかった。

 

 

 

 

 

 冷風箱の外枠は、木で組んだ。

 

 上部に水受け槽。中央に波形泡石冷却板。下部に受け桶。背面には手回し羽根を仮に取り付け、後で扇風機にも変えられるようにする。前面には、格子をつけることになった。

 

 理由は、エレナだった。

 

 侯爵家へ途中報告をする前に、アルベルト、エレナ、護衛がセルマ工房へ試作を見に来た。エレナは工房に入った瞬間から、泡石板と水受け槽を見ていた。

 

 そして、当然のように近づいた。

 

「姫様、手を入れてはなりません」

 

 護衛が即座に止める。

 

「まだ入れていない」

 

「入れる顔です」

 

 エレナは少しむっとした。

 

 澪はそのやり取りを見て、前面に格子を描き足した。

 

「格子を付けましょう」

 

 セルマも頷く。

 

「客間用でも必要ね」

 

 リュシアは腕を組んだ。

 

「屋台なら絶対に必要だよ。子どもは必ず触る」

 

 トトの顔が、全員の頭に浮かんだ。

 

 誰も口には出さなかったが、格子は即決だった。

 

 護衛は、泡石冷却板だけでなく、上の水槽、下の受け桶、手回し羽根、濡れた床まで一つずつ見ている。

 

「客間用には、倒れにくい台も必要です」

 

「それも作ります」

 

 澪が返事をすると、セルマが木枠の底を指で叩いた。

 

「重心を下へ。水を入れても傾かない形ね」

 

 ただ涼しい風が出ればいいわけではない。

 

 人が触る。子どもが覗く。姫様が手を入れようとする。客間で倒れたら大惨事。屋台で漏れたら客が滑る。

 

 冷風箱は、風だけでなく安全も作らなければならなかった。

 

 

 

 

 

 最初の風を送る時、工房にいた全員が前面の格子を見ていた。

 

 上部水槽に井戸水を入れる。水は小さな栓を通り、泡石の上端へ触れた。すぐには落ちない。波形の板の山と谷へ広がり、細かな穴へ吸い込まれていく。

 

 泡石の色が、上からゆっくり濃くなった。

 

 縦溝を伝い、水が下へ下へと進む。下部の受け桶へ、ぽたり、と最初の一滴が落ちた。

 

 セルマが手回し羽根を回す。

 

 背面から風が送られ、湿った泡石を通る。

 

 前面の格子から、風が出た。

 

 澪は手をかざした。

 

 ただの風ではない。

 

 少し湿っている。少し冷たい。真夏の冷房のような強い冷たさではない。けれど、工房の熱を含んだ空気とは違う。肌の上の汗が、ふっと軽くなる。

 

「出ました……冷たい、ですよね?」

 

 セルマも手をかざし、目を細めた。

 

「冷たいというより、熱が少し抜けた風ね」

 

 エレナが前に出た。

 

「ただの風ではない。涼しい」

 

「姫様、近すぎます」

 

 護衛が一歩寄る。

 

 リュシアは格子の前で、すでに別の顔をしていた。

 

「屋台の休憩所に欲しいね」

 

「まだ試作です」

 

「試作でこれなら、売れるよ」

 

 セルマがすぐに釘を刺した。

 

「まずは洗浄と乾燥の手順を決めてからよ」

 

 リュシアは少し肩をすくめた。

 

「売る前に掃除かい」

 

「掃除できない冷風箱は、すぐ臭うわ」

 

 その一言で、リュシアは真顔になった。

 

「それは駄目だね」

 

 澪は鑑定をかけた。

 

----------------------------------

泡石の冷風箱

 分類:冷却補助具/気化冷却装置

 素材:泡石冷却板、木枠、上部水槽、下部受け桶

 加工:澪の整形、セルマの錬金補強

 冷却方式:水の気化熱

 効果:通過する風の体感温度を下げる

 適性:屋台休憩所、工房、教会、客間

 弱点:湿度が高い日は効きにくい

 注意:水量調整必須

 注意:目詰まり、苔、汚れ対策

 注意:定期洗浄、乾燥必須

 注意:密閉室ではなく風通しのある場所向き

----------------------------------

 

「冷房ではないけど、冷却補助具」

 

 澪が表示を読み上げると、セルマは頷いた。

 

「今はそれで十分よ」

 

 リュシアは格子を軽く叩いた。

 

「客に出すなら、名前は冷風箱だね」

 

「侯爵家にも欲しい」

 

 エレナが即座に言う。

 

 護衛は冷静に続けた。

 

「客間用には、倒れにくい台が必要です」

 

「それも作るわ」

 

 セルマは当然のように返した。

 

 澪は、完成した瞬間に改良点が増えていく様子を見て、少し遠い目になった。

 

 ものづくりは、できたら終わりではない。

 

 できた瞬間から、使うための問題が増える。

 

 

 

 

 

 アルベルトへの報告は、セルマ工房の一角で行われた。

 

 侯爵家の客間へ運ぶ前に、まずは試作の動作を見せる。冷風箱は木枠のままだが、泡石板の波形、水の落ち方、前面の格子は確認できる。

 

 アルベルトは前面の風に手をかざし、しばらく黙っていた。

 

「氷を使わず、この風が出るのか」

 

 セルマが答える。

 

「井戸水と泡石と風です」

 

 澪は急いで補足した。

 

「万能冷房ではありません。部屋全体を冬にするものではないです。湿気が多い日は効きにくいですし、風通しがある場所向きです」

 

 エレナは格子の前から離れない。

 

「だが、客間に置けば涼しい」

 

 アルベルトは頷いた。

 

「夏の来客用として価値はある。病人の部屋にも使えるかもしれない。ただ、静かで倒れにくく、見た目も整える必要がある」

 

 リュシアがすかさず言った。

 

「仕様を分ければ、売り先も分けられますね」

 

「すぐ売り先の話になる」

 

 澪が言うと、リュシアは平然としていた。

 

「屋台用は頑丈で掃除しやすく安く。教会用は子どもが触れないよう格子を細かく。工房用は大きめで換気も兼ねる。侯爵家用は木枠を美しくして、陶器の水槽にして、静かな羽根」

 

 アルベルトはリュシアを見た。

 

「商人としては、どう見る」

 

「売れます。ただし、手入れの説明を付けないと苦情も出ます。水を入れれば勝手に冷える箱と思われたら困る」

 

 セルマが頷く。

 

「乾かす日を決める。洗う。目詰まりを取る。苔が出たら使わない。そこまで含めて品物ね」

 

 澪はその場でメモを取った。

 

 冷風箱本体。

 

 取扱説明。

 

 洗浄手順。

 

 乾燥日。

 

 水量目安。

 

 設置場所。

 

 子ども接触禁止。

 

 リュシアが横から覗き込む。

 

「また説明書が増えたね」

 

「説明しないと危ないんです」

 

「高い品ほど説明が値段の一部、だったね」

 

「言った気がします」

 

 付け爪の時も、家具の時も、同じようなことを言った。

 

 どうやら押入商会は、説明書が増える商会である。

 

 

 

 

 

 夕方のセルマ工房で、泡石の冷風箱は静かに風を吐いていた。

 

 上部の水槽から、細い水筋が泡石の溝へ落ちる。波形の板は、上から下までゆっくり湿っていく。下の受け桶には、ぽたり、ぽたりと水が落ちた。

 

 作業台には、プリントアウトした資料、失敗した泡石板、割れた試作片、補強しすぎて水を弾いた板、そして完成した波形泡石冷却板が並んでいる。

 

 澪は資料の端に赤ペンで書き足した。

 

 冷房ではない。

 

 でも、涼しい風は作れる。

 

 その横で、セルマが失敗した泡石板を持ち上げた。

 

「穴を潰すと、ただの石板」

 

「今日、何回も学びました」

 

 リュシアが笑う。

 

「穴があるから価値があるって、不思議な商品だね」

 

 エレナは泡石板を興味深そうに覗き込んだ。

 

「穴のある石で、風が涼しくなる。面白い」

 

「姫様、持ち上げないでください。崩れます」

 

 護衛がすぐに言う。

 

「まだ持っていない」

 

「持つ顔です」

 

 エレナは少しだけ不満そうにしたが、手は引いた。

 

 背面の羽根が回ると、前面の格子から、ほんの少し冷たい風が出る。

 

 澪はその風に手をかざして、息を吐いた。

 

「エアコンじゃない。でも、これはこれで異世界の冷房です」

 

 セルマは風を受けながら、楽しそうに目を細めた。

 

「次は、もっとよく冷やすわ」

 

 澪は即座に顔を上げた。

 

「次があるんですか」

 

 セルマは当然のように頷いた。

 

「あるわ。これは、第一号機でしょう?」

 

 リュシアがすぐに乗る。

 

「屋台用もいるしね」

 

 エレナも続いた。

 

「侯爵家用も必要だ」

 

 護衛まで、少し考えてから言った。

 

「客間用の台座も必要です」

 

 澪は全員を見回した。

 

 冷たい風は、確かに出た。

 

 けれどその風は、次の仕事まで運んできたらしい。

 

 泡石の冷風箱は、ぽたり、ぽたりと水を受け桶へ落としながら、静かに風を吐き続けていた。

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