セルマの工房は、朝から暑かった。
窓は開けてある。扉も少し開けてある。けれど、炉を持つ工房という場所は、どうしても熱が残る。
壁際の棚には薬瓶と金属片と乾いた草束が並び、天井から吊られた古い鎖が、時々、風もないのにかすかに鳴った。作業台の上には、前日に完成したばかりの冷風箱が置かれている。
上の小さな水受け槽。
その下に入った波形の泡石板。
手回しの風車。
下の受け皿には、余った水がぽたり、ぽたりと落ちていた。
リュシアは腕を組んで、その箱を見ていた。
「……これは売れるね」
言い方は軽かったが、目はまったく笑っていなかった。
商人の目だった。
侯爵家から来た実務担当の男も、少し離れたところで冷風箱を見つめていた。貴族の屋敷に出入りする人間らしく、服はきちんとしている。汗をかいても、袖で拭ったりはしない。ただ、首筋に浮いた汗が、彼の我慢を少しだけ裏切っていた。
「侯爵家としても、同じものを屋敷に置けるなら、ぜひ検討したいとのことです」
「検討、ね」
セルマが、机の端に腰を預けたまま言った。
「検討するだけなら涼しい顔でできるけど、作る方は涼しくないよ」
澪は、冷風箱の横に立っていた。
前の日、冷たい風が出た瞬間のことをまだ覚えている。
泡石に水が染みて、風が通って、ただの風が少しだけ冷たくなる。
それを見た時は、思わず嬉しくなった。
けれど今は、嬉しさよりも、作業台の上に置かれた泡石板の不揃いな形が気になっていた。
あれは、自分が整形したものだ。
セルマが補強した。
偶然と失敗と、何度もこぼした水と、工房中に散った石粉の末にできた一枚だった。
「欲しいと言われてもね」
セルマは泡石板を指で軽く叩いた。
乾いた部分が、こつ、と頼りない音を立てる。
「同じものを十個作れと言われたら困る。二十個ならもっと困る。百個なら逃げる」
「逃げないでください」
澪が思わず言うと、セルマは真顔で返した。
「逃げるよ。錬金術師には逃げ足も必要だ」
リュシアが、あきれたように息を吐いた。
「でも、言っていることは分かるよ。これ、澪が作ったんだろう?」
「私だけじゃないです。セルマさんが補強してくれて」
「そうじゃなくて」
リュシアは澪を見た。
「澪がいない日に作れるのか、って話だよ」
澪は、手を止めた。
工房の奥で、水が一滴落ちる音がした。
ぽたり。
「……それは」
「今ここで作れるかどうかじゃない。あんたがいない日でも、同じものが作れるか。壊れた時に直せるか。汚れた時に取り替えられるか。売り物にするなら、そこを考えないといけない」
リュシアの声は厳しくなかった。
けれど、甘くもなかった。
澪は、冷風箱を見る。
自分が来た日だけ涼しい。
自分が手を出した時だけ使える。
それでは、屋台改善の時に決めたことと同じ失敗になる。
澪がいない日でも回ること。
そのためには、この冷風箱も、この世界の人たちだけで作れなければならない。
「泡石を薄く整える必要がある」
セルマが指折り数え始めた。
「穴を潰したら水が染みない。溝が浅いと流れない。深すぎると割れる。上から下まで水が通る道が必要で、端は崩れないように残す。そこに風を当てるから、表面もある程度そろっていないといけない」
「……難しいですね」
「難しいよ。だから面白いんだけどね」
セルマは少し笑った。
けれど、その笑いは長く続かなかった。
「ただ、面白いものと、売れるものは別だ」
リュシアがうなずく。
「売るなら、数と修理と値段だね」
侯爵家の実務担当が、静かに口を挟んだ。
「屋敷に置く品となれば、見た目も必要になります。客間に置くとなれば、粗末な箱では困りますので」
リュシアの目が、今度はそちらに向いた。
「見た目か。確かに、貴族相手には大事だね」
セルマは少し考え、工房の入口へ声をかけた。
「バルトを呼んでおくれ。金属で試す」
しばらくして、重い足音が工房の入口に近づいてきた。
入ってきたのは、肩幅の広い男だった。
日に焼けた腕に細かな火傷の跡があり、腰には工具を吊っている。手には布で包んだ長方形の部品を抱えていた。
「セルマさん、持ってきたぞ」
「早いね」
「面白そうな仕事は早く見るに限る」
男は作業台に布包みを置き、ほどいた。
中から出てきたのは、細かな金属網だった。
一枚ではない。
何枚もの網が、少しずつ間を空けて枠に収まっている。網の目は細かく、光を受けると水面のようにきらきらした。
澪は思わず身を乗り出した。
「わ、きれい……」
バルトは少し得意そうに鼻を鳴らした。
「金属なら寸法が揃う。枠も歪まない。侯爵家に置くなら、石よりこちらでしょう」
侯爵家の実務担当が、目を細めた。
「見た目は確かに良いですね」
リュシアも腕を組んだまま、網の端を覗き込んだ。
「貴族相手なら、こういう光り方は受けるだろうね」
「だろう?」
バルトは気分よく笑った。
「上の槽から水を落とす。水は網に当たって細かく散る。何段も通れば、もっと細かくなる。そこに風を送る。どうだ、石を削るよりずっと楽だ」
澪はうなずきかけて、途中で止まった。
たしかに、見た目はいい。
掃除もしやすそうだ。
金属枠なら歪みにくい。交換もしやすい。侯爵家の客間に置くなら、木箱よりずっと品がある。
けれど、何かが気になった。
泡石は、水を吸った。
この網は、吸わない。
「試してみよう」
セルマが言った。
工房の中央に、金属網の試作箱が置かれた。
上の小さな水受け槽に井戸水を入れる。下には受け皿。横には手回しの風車。
バルトが調整した穴から、水が落ち始めた。
ぽた。
ぽたぽた。
水は一段目の網に当たり、細かく弾けた。
二段目でさらに散り、三段目で霧のように見えた。
見た目は涼しかった。
音も涼しかった。
ぽたぽた。
ぱたぱた。
ちょろちょろ。
夏の工房の中で、その音だけは少しだけ川辺のようだった。
「ほらな」
バルトが風車を回した。
金属網の向こうから、湿った風が出てくる。
リュシアが手をかざした。
しばらく黙った。
もう一度、手の角度を変えた。
「……濡れた風だね」
「冷えていませんか?」
侯爵家の実務担当が問う。
セルマも手をかざした。
「前の泡石ほどじゃない」
バルトの眉が動いた。
「水は細かくなっているだろう」
「なってる」
セルマはうなずいた。
「ただ、落ちるのが早い」
澪は、下の受け皿を見た。
水がすぐ溜まっている。
網に当たって細かくなった水は、きれいに散って、きれいに下へ落ちていた。
散る。
落ちる。
それだけだった。
「網は、水を細かく分けるのは得意です」
澪は慎重に言った。
バルトの視線がこちらへ来る。
「でも、水を抱えるのは苦手なんだと思います」
「水を抱える?」
「はい。泡石は水を中に持っていられます。だから表面がずっと湿って、風が当たる時間が長いんです。でも網は、水がすぐ下に落ちちゃうので……」
澪は言いながら、自分の説明が合っているのか少し不安になった。
学校の理科で習ったような気もする。
ネットで見たような気もする。
そして、どこかの動画で「表面積が大事」と聞いた気もする。
気もするばかりだ。
だが、目の前の受け皿は正直だった。
水はすでにそこにいた。
セルマは金属網を指先で軽く叩いた。
「金属網は補助にはなる。でも、冷やす心臓部にはならないね」
「心臓部」
リュシアが泡石板を見た。
「見た目は金属。中身は泡石。そういうことかい」
「そうなりそうです」
澪が答えると、バルトは納得しきれない顔をした。
「泡石なんて、脆い石だろう。加工も揃わない。貴族向けの商品にするには不安が残るぞ」
「そこだね」
セルマが、泡石の見本を作業台へ置いた。
前日に使ったものとは別の、まだ厚みのある泡石だ。
軽く触っただけで、白っぽい粉が指につく。
全員が、その石を見た。
工房の空気が、少し重くなる。
「問題は、これを誰が作るかだね」
澪は無意識に手を伸ばした。
自分がやれば、ある程度は形にできる。
前にもやった。
たぶん、今日もできる。
けれど、伸ばした手は途中で止められた。
リュシアだった。
「澪」
「はい」
「今ここで作れるかどうかじゃない」
その言葉は、さっきより少しだけ柔らかかった。
「あんたがいない日に作れるかどうかだ」
澪は、手を引っ込めた。
指先に、まだ泡石の粉がついているような気がした。
セルマが、工房の奥へ向かって声を投げた。
「土魔法持ちを呼ぶ」
澪は瞬きをした。
「土魔法?」
セルマは棚から布を取り、手についた水を拭った。
「ああ。収納が空間魔法の一種って話はしただろう? あれと同じで、土を動かす、固める、削る、石を直す魔法もある」
「あるんですね」
「あるよ。派手じゃないから、あまり持ち上げられないけどね」
バルトが、金属網の枠を片付けながら小さく笑った。
「土魔法で泡石を薄く? 穴掘りならともかく、そんな細かいことができますかね」
澪は、そちらを見た。
すぐには言わなかった。
言葉が喉の奥で引っかかった。
土魔法。
穴掘り。
地味。
その三つが並んだ瞬間、澪の頭の中で、読んできた小説の数々が妙な勢いで棚から落ちてきた。
不遇職。
外れスキル。
地味魔法。
序盤で笑われるやつ。
だいたい、あとで化けるやつ。
「ノーラを呼んできな」
セルマが弟子らしき少年に言った。
しばらくして、工房の入口に、小さな影が立った。
若い女性だった。
背は澪より少し高いくらい。髪は後ろで簡単に束ねている。服は飾り気のない作業着で、袖口には乾いた泥の跡がついていた。指先にも、石粉が入り込んでいる。
華やかな魔法使い、という感じではなかった。
どちらかといえば、現場から呼ばれてきた職人だった。
「セルマさん、お呼びですか」
ノーラは、工房の中に入るなり頭を下げた。
「石壁の補修でしたら、できます」
「今日は壁じゃない」
セルマは泡石を指した。
「これを加工してほしい」
ノーラは泡石に手を伸ばした。
指の腹で表面をなでる。
その瞬間、表情が少し曇った。
「脆いですね」
「脆い。だから力任せに押すと潰れる。中の穴が潰れたら、水が染みない」
ノーラの肩が、少し縮こまった。
「私の土魔法は、そんなに細かいことは……」
バルトが、聞こえるか聞こえないかくらいの声で言った。
「やっぱりな」
澪は、その声を聞いてしまった。
聞かなかったことにはできなかった。
「地味じゃないです」
思ったより大きな声が出た。
工房の中の視線が、澪に集まった。
ノーラも驚いたようにこちらを見る。
澪は、少しだけ恥ずかしくなった。だが、言ってしまったものは仕方ない。
「土を固める。削る。形を変える。割らずに薄くする。穴を潰さずに溝を入れる。それ、ものすごく難しいです」
ノーラは困ったように笑った。
「でも、火魔法みたいに見栄えはありません」
「見栄えより、使えるかどうかです」
澪は、作業台の泡石を指した。
「これを割らずに薄くして、水の通る道を作れるなら、それは職人技です」
「職人技……」
ノーラは、その言葉を口の中で転がすように繰り返した。
澪の頭の中では、まだ小説の棚が倒れていた。
火魔法は派手だった。
風魔法は格好よかった。
水魔法は便利だった。
土魔法は、よく最初に馬鹿にされていた。
でも、家を建てる。道を作る。水路を掘る。炉を直す。壁を補強する。畑の畝を整える。
生活に近いのは、いつも土だった。
「土魔法って、生活を変える魔法だと思います」
澪は、ノーラに向かって言った。
「穴掘りだけじゃないです」
工房が少し静かになった。
ノーラは目を伏せ、もう一度泡石に触れた。
今度は、先ほどより長く。
「……やってみます」
一回目は、見た目だけなら成功に見えた。
ノーラは泡石に両手を置き、静かに息を吸った。
彼女の指先の周りで、石粉がかすかに震えた。泡石の表面が、薄くなめらかになっていく。でこぼこが消え、平らになる。工房の誰かが、小さく感心したように息を漏らした。
けれど、澪は途中で嫌な予感がした。
水を落としてみる。
上から落ちた水は、泡石の表面をつるりと流れた。
染みない。
水は石の中へ入らず、そのまま端から落ちた。
受け皿に、ぱしゃ、と小さな音がした。
バルトが口を開きかけた。
「やは――」
「まだ一回目だよ」
リュシアが即座に遮った。
バルトは口を閉じた。
ノーラの顔が青くなる。
「すみません。穴を……潰しました」
「失敗じゃないです」
澪はすぐに言った。
ノーラが顔を上げる。
「条件が一つ分かりました。押し固めたら穴が潰れるんです。なら、押すんじゃなくて、削る方がいいんだと思います」
セルマも泡石を手に取り、表面を見た。
「そうだね。崩れ止めは私がやる。ノーラは形を作ることに集中しな」
「でも」
「でもじゃない。錬金術師は、できるところだけ手を出す。できないところは、できる人間にやらせる」
セルマは、あっさりと言った。
「澪は仕組みを見る。リュシアは売れるか見る。バルトは枠と網を見る。私は補強を見る。あんたは泡石を見る」
ノーラは、何度か瞬きをした。
自分だけが試されているわけではない。
そう言われたような顔だった。
二回目は、表面に波形の溝ができた。
ノーラは力を入れず、指先で石をなでるように魔法を通した。
泡石の表面が、少しずつ削れる。
白い粉が作業台に落ちる。
細い山と谷ができた。
澪は思わず身を乗り出した。
「おお……」
「声が出てるよ、澪」
リュシアに言われ、澪は口を押さえた。
水を落とす。
今度は染みた。
泡石の表面が、じわりと色を変える。
ただ、水は右側の大きな溝に集まった。
そこだけが濡れ、そこだけから下へ流れる。
風を送る。
リュシアが手をかざした。
右に動かす。
左に動かす。
「半分だけ涼しいね」
「半分だけ……」
ノーラが肩を落とす。
「悪くないよ」
セルマは泡石を斜めから見た。
「水の道が片寄ってるだけだ」
澪は近くの紙を引き寄せ、木炭で簡単な線を描いた。
上から下へ、太い線を一本。
その横に、細い線を何本も。
「太い水路が一本だと、そこだけ流れて終わります。上から下まで、細い道が何本もある方がいいです。たぶん、水が分かれて、全体が湿るので」
「細い道を、何本も……」
ノーラは、紙を見た。
それから、自分の手を見た。
泥の跡が残った指。
爪の間に入った土。
澪は、ノーラの顔つきが少し変わるのを見た。
彼女は泡石ではなく、どこか別の場所を見ているようだった。
「石壁を直す時」
ノーラが、ぽつりと言った。
「割れ目を全部埋めると、雨の後で膨らんでまた割れることがあります。少し逃がす筋を残すんです」
セルマが黙って聞いていた。
「炉の土台を直す時も、熱の逃げる場所を作ります。畑の畝を作る時は、水が片側に溜まらないように筋を切ります」
ノーラは、泡石に目を戻した。
「水を逃がす道を、細かく分けます。押さえず、なでるように」
澪は、ぱっと顔を明るくした。
「それです」
セルマが口元を緩める。
「やってごらん」
三回目。
工房の空気は、さっきより静かだった。
バルトも、もう笑わなかった。
ノーラは泡石の前に立ち、両手を置いた。
押さない。
潰さない。
なでる。
石粉が、音もなく浮いた。
泡石の表面に、細い溝が少しずつ増えていく。
太い溝ではない。
何本もの細い筋。
山は低く、谷は浅く、けれど上から下まで途切れず続いている。
端は崩れないように残されていた。
波形の板は、前のものより少し不格好だった。左右も完全には揃っていない。
けれど、澪はそれを見て、きれいだと思った。
人の手で作った道具の顔をしていた。
セルマが横から薬液を少し塗り、低い声で短く呪文を唱えた。泡石の端が、崩れにくい程度に締まる。固めすぎない。穴を潰さない。セルマの指先も、さっきより慎重だった。
バルトが、無言で金属枠を出した。
「入るか」
「少し端を」
ノーラが答え、端をほんのわずか削る。
枠に、泡石板が収まった。
上の水受け槽を取り付ける。
下に受け皿を置く。
風車をつける。
全員が、少し離れて見た。
セルマが水を注いだ。
水は、穴から落ちた。
最初の一滴が泡石に触れる。
すぐには流れなかった。
じわりと吸われた。
次の水が落ちる。
細い溝に沿って、ゆっくり下へ進む。
右だけではない。
左にも分かれる。
中央にも染みる。
泡石の表面が、少しずつ均一に湿っていく。
澪は息を止めていた。
リュシアも黙っていた。
侯爵家の実務担当が、無意識に一歩前に出た。
バルトが風車の取っ手を握った。
ぎい、と木が鳴る。
風車が回った。
最初の風は、ただの風だった。
工房の熱を含んだ、ぬるい風。
一呼吸。
二呼吸。
水がさらに泡石に染みる。
三呼吸。
風が変わった。
最初に気づいたのは、リュシアだった。
彼女は目を細め、手を風の前に出した。
「……冷えた」
セルマも無言で手をかざした。
その眉が、ほんの少し上がる。
侯爵家の実務担当も手を出した。
そして、表情が変わった。
きちんと整えられていた顔から、仕事用の硬さが一瞬だけ抜ける。
「これは……」
バルトも手をかざした。
何も言わなかった。
何も言わないことが、答えだった。
澪は、ノーラを見た。
ノーラは、自分の作った泡石板ではなく、皆の手を見ていた。
冷たい風を確かめる手。
黙る顔。
もう一度風に触れようとする指。
その全部を、信じられないものを見るように見ていた。
澪は言った。
「土魔法です」
ノーラが驚いて澪を見る。
澪は続けた。
「穴掘りだけじゃありません」
工房に、ぽたり、と水の落ちる音がした。
今度の音は、さっきの金属網だけの音とは違って聞こえた。
リュシアが笑った。
「これは売れるね。しかも、澪がいなくても作れる」
セルマが、ノーラに向き直った。
「この冷却板は、あんたの仕事だ」
ノーラは慌てて手を振った。
「いえ、私は少し削っただけで、セルマさんの補強があって、澪さんの説明があって、それに」
「その“少し”が、一番大事です」
澪が遮った。
ノーラの言葉が止まる。
「穴を潰さずに、水の通る道を作ったのはノーラさんです」
ノーラは、何か言おうとして、言えなかった。
目元が少し赤くなっている。
暑さのせいだけではなかった。
バルトが、気まずそうに金属枠の端を指でこすった。
「……金属だけでは無理だったな」
ノーラの肩が、びくっと動いた。
バルトは、彼女を見た。
「枠は俺が作る。網も使えるところには使う。水を散らすところと、子どもが手を突っ込まないようにするところだ。だが、冷やす板はあんたが作れ」
ノーラは返事に詰まった。
リュシアが、にやりと笑う。
「ほら、仕事が増えたよ」
「仕事……」
ノーラは、その言葉を小さく繰り返した。
澪は、そっと横から言った。
「土魔法、地味じゃないでしょう?」
ノーラは、しばらく泡石板を見ていた。
それから、小さく、けれど今度ははっきりとうなずいた。
「……はい」
その声は、まだ弱かった。
けれど、最初に工房へ入ってきた時の声とは違っていた。
冷風箱は、作業台の上に移された。
そこから先は、涼しい風を喜ぶ時間ではなかった。
リュシアの目が、完全に商売用に戻ったからである。
「さて。高い方と安い方を分けるよ」
「もうですか」
澪が言うと、リュシアは当然の顔をした。
「冷えているうちに決めるんだよ。暑さが引いたら、人は財布の紐も締める」
侯爵家の実務担当が、苦笑とも感心ともつかない顔をした。
リュシアは指を折る。
「侯爵家向けは金属枠。見た目がいる。泡石板は交換できるようにする。網は前面につけて、指や布が入らないようにする。装飾は……バルト、できるね?」
「できる。金はかかるぞ」
「高く売るからいい」
即答だった。
バルトが少し笑った。
「商人は怖いな」
「涼しい顔で値切る職人よりは優しいよ」
二人の間に、少しだけ職人同士の空気が流れた。
セルマは別の紙を引き寄せる。
「屋台や店向けは木枠でいい。金属は必要なところだけ。泡石板は割れたら交換。水槽は外せるように。受け皿も外せるように」
「洗えないものは売らない方がいい」
リュシアが言う。
「水は毎日替える。受け皿は空にする。泡石板は乾かす日を作る。ぬめりや臭いが出たら洗う」
澪は、聞きながら少しずつ嫌な予感がしていた。
こういう時、だいたい自分のところに何かが来る。
「あと、子どもが手を入れる」
リュシアが言った。
「絶対に入れるね」
セルマもうなずく。
「風車部分に髪を近づける馬鹿も出る」
「水を入れすぎる人もいますね」
侯爵家の実務担当が、真面目な顔で言った。
澪は、遠い目になった。
「説明書、要りますよね」
リュシアが、当然の顔でうなずいた。
「いるね」
「またですか」
「今回は絵も入れておくれ」
セルマがさらっと言った。
「水を入れすぎる馬鹿が必ず出る」
リュシアが続ける。
「あと、子どもが指を入れる」
バルトも真面目な顔で足した。
「網を外して使うやつも出るぞ。掃除の後に戻し忘れる」
侯爵家の実務担当まで、少し考えて言った。
「使用人が水を毎日替える手順も必要です。どの水を使うか、どの程度まで入れるか、どの部分を触ってよいかも」
澪は机に両手をついた。
「注意書きが増えていく……」
「生活を変える道具ってのはね」
リュシアが楽しそうに言った。
「使い方を書かないと、生活を壊すんだよ」
「名言みたいに言わないでください」
工房の中に、小さな笑いが広がった。
その横で、ノーラはもう一枚の泡石に手を置いていた。
誰に言われたわけでもない。
ただ、自分で試していた。
今度は、さっきより少し早い。
まだ形は不揃いだった。
溝も完全にはそろっていない。
それでも、水を落とすと、泡石はちゃんと水を吸った。
細い筋を伝い、表面を湿らせる。
バルトが作った仮の枠に入れて、風を送る。
少し待つ。
風が冷たくなる。
ノーラは、冷風箱の前に手をかざした。
自分の手に、自分の魔法で作った冷たい風が当たっている。
澪は、その横顔を見ていた。
自分がいなくても、この世界の人たちは作れる。
セルマがいて、リュシアがいて、バルトがいて、ノーラがいる。
誰か一人の不思議な力ではなく、それぞれの仕事が組み合わさって、夏の空気を少しだけ変えていく。
ノーラは、風を受けながら、小さく笑った。
ほんの少しだけ、背筋が伸びていた。
土魔法は、穴を掘るだけの魔法ではなかった。
少なくともこの日、セルマの工房では、そういうことになった。