押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第55話 土魔法は地味じゃない

 

セルマの工房は、朝から暑かった。

 

窓は開けてある。扉も少し開けてある。けれど、炉を持つ工房という場所は、どうしても熱が残る。

 

壁際の棚には薬瓶と金属片と乾いた草束が並び、天井から吊られた古い鎖が、時々、風もないのにかすかに鳴った。作業台の上には、前日に完成したばかりの冷風箱が置かれている。

 

上の小さな水受け槽。

 

その下に入った波形の泡石板。

 

手回しの風車。

 

下の受け皿には、余った水がぽたり、ぽたりと落ちていた。

 

リュシアは腕を組んで、その箱を見ていた。

 

「……これは売れるね」

 

言い方は軽かったが、目はまったく笑っていなかった。

 

商人の目だった。

 

侯爵家から来た実務担当の男も、少し離れたところで冷風箱を見つめていた。貴族の屋敷に出入りする人間らしく、服はきちんとしている。汗をかいても、袖で拭ったりはしない。ただ、首筋に浮いた汗が、彼の我慢を少しだけ裏切っていた。

 

「侯爵家としても、同じものを屋敷に置けるなら、ぜひ検討したいとのことです」

 

「検討、ね」

 

セルマが、机の端に腰を預けたまま言った。

 

「検討するだけなら涼しい顔でできるけど、作る方は涼しくないよ」

 

澪は、冷風箱の横に立っていた。

 

前の日、冷たい風が出た瞬間のことをまだ覚えている。

 

泡石に水が染みて、風が通って、ただの風が少しだけ冷たくなる。

 

それを見た時は、思わず嬉しくなった。

 

けれど今は、嬉しさよりも、作業台の上に置かれた泡石板の不揃いな形が気になっていた。

 

あれは、自分が整形したものだ。

 

セルマが補強した。

 

偶然と失敗と、何度もこぼした水と、工房中に散った石粉の末にできた一枚だった。

 

「欲しいと言われてもね」

 

セルマは泡石板を指で軽く叩いた。

 

乾いた部分が、こつ、と頼りない音を立てる。

 

「同じものを十個作れと言われたら困る。二十個ならもっと困る。百個なら逃げる」

 

「逃げないでください」

 

澪が思わず言うと、セルマは真顔で返した。

 

「逃げるよ。錬金術師には逃げ足も必要だ」

 

リュシアが、あきれたように息を吐いた。

 

「でも、言っていることは分かるよ。これ、澪が作ったんだろう?」

 

「私だけじゃないです。セルマさんが補強してくれて」

 

「そうじゃなくて」

 

リュシアは澪を見た。

 

「澪がいない日に作れるのか、って話だよ」

 

澪は、手を止めた。

 

工房の奥で、水が一滴落ちる音がした。

 

ぽたり。

 

「……それは」

 

「今ここで作れるかどうかじゃない。あんたがいない日でも、同じものが作れるか。壊れた時に直せるか。汚れた時に取り替えられるか。売り物にするなら、そこを考えないといけない」

 

リュシアの声は厳しくなかった。

 

けれど、甘くもなかった。

 

澪は、冷風箱を見る。

 

自分が来た日だけ涼しい。

 

自分が手を出した時だけ使える。

 

それでは、屋台改善の時に決めたことと同じ失敗になる。

 

澪がいない日でも回ること。

 

そのためには、この冷風箱も、この世界の人たちだけで作れなければならない。

 

「泡石を薄く整える必要がある」

 

セルマが指折り数え始めた。

 

「穴を潰したら水が染みない。溝が浅いと流れない。深すぎると割れる。上から下まで水が通る道が必要で、端は崩れないように残す。そこに風を当てるから、表面もある程度そろっていないといけない」

 

「……難しいですね」

 

「難しいよ。だから面白いんだけどね」

 

セルマは少し笑った。

 

けれど、その笑いは長く続かなかった。

 

「ただ、面白いものと、売れるものは別だ」

 

リュシアがうなずく。

 

「売るなら、数と修理と値段だね」

 

侯爵家の実務担当が、静かに口を挟んだ。

 

「屋敷に置く品となれば、見た目も必要になります。客間に置くとなれば、粗末な箱では困りますので」

 

リュシアの目が、今度はそちらに向いた。

 

「見た目か。確かに、貴族相手には大事だね」

 

セルマは少し考え、工房の入口へ声をかけた。

 

「バルトを呼んでおくれ。金属で試す」

 

しばらくして、重い足音が工房の入口に近づいてきた。

 

入ってきたのは、肩幅の広い男だった。

 

日に焼けた腕に細かな火傷の跡があり、腰には工具を吊っている。手には布で包んだ長方形の部品を抱えていた。

 

「セルマさん、持ってきたぞ」

 

「早いね」

 

「面白そうな仕事は早く見るに限る」

 

男は作業台に布包みを置き、ほどいた。

 

中から出てきたのは、細かな金属網だった。

 

一枚ではない。

 

何枚もの網が、少しずつ間を空けて枠に収まっている。網の目は細かく、光を受けると水面のようにきらきらした。

 

澪は思わず身を乗り出した。

 

「わ、きれい……」

 

バルトは少し得意そうに鼻を鳴らした。

 

「金属なら寸法が揃う。枠も歪まない。侯爵家に置くなら、石よりこちらでしょう」

 

侯爵家の実務担当が、目を細めた。

 

「見た目は確かに良いですね」

 

リュシアも腕を組んだまま、網の端を覗き込んだ。

 

「貴族相手なら、こういう光り方は受けるだろうね」

 

「だろう?」

 

バルトは気分よく笑った。

 

「上の槽から水を落とす。水は網に当たって細かく散る。何段も通れば、もっと細かくなる。そこに風を送る。どうだ、石を削るよりずっと楽だ」

 

澪はうなずきかけて、途中で止まった。

 

たしかに、見た目はいい。

 

掃除もしやすそうだ。

 

金属枠なら歪みにくい。交換もしやすい。侯爵家の客間に置くなら、木箱よりずっと品がある。

 

けれど、何かが気になった。

 

泡石は、水を吸った。

 

この網は、吸わない。

 

「試してみよう」

 

セルマが言った。

 

工房の中央に、金属網の試作箱が置かれた。

 

上の小さな水受け槽に井戸水を入れる。下には受け皿。横には手回しの風車。

 

バルトが調整した穴から、水が落ち始めた。

 

ぽた。

 

ぽたぽた。

 

水は一段目の網に当たり、細かく弾けた。

 

二段目でさらに散り、三段目で霧のように見えた。

 

見た目は涼しかった。

 

音も涼しかった。

 

ぽたぽた。

 

ぱたぱた。

 

ちょろちょろ。

 

夏の工房の中で、その音だけは少しだけ川辺のようだった。

 

「ほらな」

 

バルトが風車を回した。

 

金属網の向こうから、湿った風が出てくる。

 

リュシアが手をかざした。

 

しばらく黙った。

 

もう一度、手の角度を変えた。

 

「……濡れた風だね」

 

「冷えていませんか?」

 

侯爵家の実務担当が問う。

 

セルマも手をかざした。

 

「前の泡石ほどじゃない」

 

バルトの眉が動いた。

 

「水は細かくなっているだろう」

 

「なってる」

 

セルマはうなずいた。

 

「ただ、落ちるのが早い」

 

澪は、下の受け皿を見た。

 

水がすぐ溜まっている。

 

網に当たって細かくなった水は、きれいに散って、きれいに下へ落ちていた。

 

散る。

 

落ちる。

 

それだけだった。

 

「網は、水を細かく分けるのは得意です」

 

澪は慎重に言った。

 

バルトの視線がこちらへ来る。

 

「でも、水を抱えるのは苦手なんだと思います」

 

「水を抱える?」

 

「はい。泡石は水を中に持っていられます。だから表面がずっと湿って、風が当たる時間が長いんです。でも網は、水がすぐ下に落ちちゃうので……」

 

澪は言いながら、自分の説明が合っているのか少し不安になった。

 

学校の理科で習ったような気もする。

 

ネットで見たような気もする。

 

そして、どこかの動画で「表面積が大事」と聞いた気もする。

 

気もするばかりだ。

 

だが、目の前の受け皿は正直だった。

 

水はすでにそこにいた。

 

セルマは金属網を指先で軽く叩いた。

 

「金属網は補助にはなる。でも、冷やす心臓部にはならないね」

 

「心臓部」

 

リュシアが泡石板を見た。

 

「見た目は金属。中身は泡石。そういうことかい」

 

「そうなりそうです」

 

澪が答えると、バルトは納得しきれない顔をした。

 

「泡石なんて、脆い石だろう。加工も揃わない。貴族向けの商品にするには不安が残るぞ」

 

「そこだね」

 

セルマが、泡石の見本を作業台へ置いた。

 

前日に使ったものとは別の、まだ厚みのある泡石だ。

 

軽く触っただけで、白っぽい粉が指につく。

 

全員が、その石を見た。

 

工房の空気が、少し重くなる。

 

「問題は、これを誰が作るかだね」

 

澪は無意識に手を伸ばした。

 

自分がやれば、ある程度は形にできる。

 

前にもやった。

 

たぶん、今日もできる。

 

けれど、伸ばした手は途中で止められた。

 

リュシアだった。

 

「澪」

 

「はい」

 

「今ここで作れるかどうかじゃない」

 

その言葉は、さっきより少しだけ柔らかかった。

 

「あんたがいない日に作れるかどうかだ」

 

澪は、手を引っ込めた。

 

指先に、まだ泡石の粉がついているような気がした。

 

セルマが、工房の奥へ向かって声を投げた。

 

「土魔法持ちを呼ぶ」

 

澪は瞬きをした。

 

「土魔法?」

 

セルマは棚から布を取り、手についた水を拭った。

 

「ああ。収納が空間魔法の一種って話はしただろう? あれと同じで、土を動かす、固める、削る、石を直す魔法もある」

 

「あるんですね」

 

「あるよ。派手じゃないから、あまり持ち上げられないけどね」

 

バルトが、金属網の枠を片付けながら小さく笑った。

 

「土魔法で泡石を薄く? 穴掘りならともかく、そんな細かいことができますかね」

 

澪は、そちらを見た。

 

すぐには言わなかった。

 

言葉が喉の奥で引っかかった。

 

土魔法。

 

穴掘り。

 

地味。

 

その三つが並んだ瞬間、澪の頭の中で、読んできた小説の数々が妙な勢いで棚から落ちてきた。

 

不遇職。

 

外れスキル。

 

地味魔法。

 

序盤で笑われるやつ。

 

だいたい、あとで化けるやつ。

 

「ノーラを呼んできな」

 

セルマが弟子らしき少年に言った。

 

しばらくして、工房の入口に、小さな影が立った。

 

若い女性だった。

 

背は澪より少し高いくらい。髪は後ろで簡単に束ねている。服は飾り気のない作業着で、袖口には乾いた泥の跡がついていた。指先にも、石粉が入り込んでいる。

 

華やかな魔法使い、という感じではなかった。

 

どちらかといえば、現場から呼ばれてきた職人だった。

 

「セルマさん、お呼びですか」

 

ノーラは、工房の中に入るなり頭を下げた。

 

「石壁の補修でしたら、できます」

 

「今日は壁じゃない」

 

セルマは泡石を指した。

 

「これを加工してほしい」

 

ノーラは泡石に手を伸ばした。

 

指の腹で表面をなでる。

 

その瞬間、表情が少し曇った。

 

「脆いですね」

 

「脆い。だから力任せに押すと潰れる。中の穴が潰れたら、水が染みない」

 

ノーラの肩が、少し縮こまった。

 

「私の土魔法は、そんなに細かいことは……」

 

バルトが、聞こえるか聞こえないかくらいの声で言った。

 

「やっぱりな」

 

澪は、その声を聞いてしまった。

 

聞かなかったことにはできなかった。

 

「地味じゃないです」

 

思ったより大きな声が出た。

 

工房の中の視線が、澪に集まった。

 

ノーラも驚いたようにこちらを見る。

 

澪は、少しだけ恥ずかしくなった。だが、言ってしまったものは仕方ない。

 

「土を固める。削る。形を変える。割らずに薄くする。穴を潰さずに溝を入れる。それ、ものすごく難しいです」

 

ノーラは困ったように笑った。

 

「でも、火魔法みたいに見栄えはありません」

 

「見栄えより、使えるかどうかです」

 

澪は、作業台の泡石を指した。

 

「これを割らずに薄くして、水の通る道を作れるなら、それは職人技です」

 

「職人技……」

 

ノーラは、その言葉を口の中で転がすように繰り返した。

 

澪の頭の中では、まだ小説の棚が倒れていた。

 

火魔法は派手だった。

 

風魔法は格好よかった。

 

水魔法は便利だった。

 

土魔法は、よく最初に馬鹿にされていた。

 

でも、家を建てる。道を作る。水路を掘る。炉を直す。壁を補強する。畑の畝を整える。

 

生活に近いのは、いつも土だった。

 

「土魔法って、生活を変える魔法だと思います」

 

澪は、ノーラに向かって言った。

 

「穴掘りだけじゃないです」

 

工房が少し静かになった。

 

ノーラは目を伏せ、もう一度泡石に触れた。

 

今度は、先ほどより長く。

 

「……やってみます」

 

一回目は、見た目だけなら成功に見えた。

 

ノーラは泡石に両手を置き、静かに息を吸った。

 

彼女の指先の周りで、石粉がかすかに震えた。泡石の表面が、薄くなめらかになっていく。でこぼこが消え、平らになる。工房の誰かが、小さく感心したように息を漏らした。

 

けれど、澪は途中で嫌な予感がした。

 

水を落としてみる。

 

上から落ちた水は、泡石の表面をつるりと流れた。

 

染みない。

 

水は石の中へ入らず、そのまま端から落ちた。

 

受け皿に、ぱしゃ、と小さな音がした。

 

バルトが口を開きかけた。

 

「やは――」

 

「まだ一回目だよ」

 

リュシアが即座に遮った。

 

バルトは口を閉じた。

 

ノーラの顔が青くなる。

 

「すみません。穴を……潰しました」

 

「失敗じゃないです」

 

澪はすぐに言った。

 

ノーラが顔を上げる。

 

「条件が一つ分かりました。押し固めたら穴が潰れるんです。なら、押すんじゃなくて、削る方がいいんだと思います」

 

セルマも泡石を手に取り、表面を見た。

 

「そうだね。崩れ止めは私がやる。ノーラは形を作ることに集中しな」

 

「でも」

 

「でもじゃない。錬金術師は、できるところだけ手を出す。できないところは、できる人間にやらせる」

 

セルマは、あっさりと言った。

 

「澪は仕組みを見る。リュシアは売れるか見る。バルトは枠と網を見る。私は補強を見る。あんたは泡石を見る」

 

ノーラは、何度か瞬きをした。

 

自分だけが試されているわけではない。

 

そう言われたような顔だった。

 

二回目は、表面に波形の溝ができた。

 

ノーラは力を入れず、指先で石をなでるように魔法を通した。

 

泡石の表面が、少しずつ削れる。

 

白い粉が作業台に落ちる。

 

細い山と谷ができた。

 

澪は思わず身を乗り出した。

 

「おお……」

 

「声が出てるよ、澪」

 

リュシアに言われ、澪は口を押さえた。

 

水を落とす。

 

今度は染みた。

 

泡石の表面が、じわりと色を変える。

 

ただ、水は右側の大きな溝に集まった。

 

そこだけが濡れ、そこだけから下へ流れる。

 

風を送る。

 

リュシアが手をかざした。

 

右に動かす。

 

左に動かす。

 

「半分だけ涼しいね」

 

「半分だけ……」

 

ノーラが肩を落とす。

 

「悪くないよ」

 

セルマは泡石を斜めから見た。

 

「水の道が片寄ってるだけだ」

 

澪は近くの紙を引き寄せ、木炭で簡単な線を描いた。

 

上から下へ、太い線を一本。

 

その横に、細い線を何本も。

 

「太い水路が一本だと、そこだけ流れて終わります。上から下まで、細い道が何本もある方がいいです。たぶん、水が分かれて、全体が湿るので」

 

「細い道を、何本も……」

 

ノーラは、紙を見た。

 

それから、自分の手を見た。

 

泥の跡が残った指。

 

爪の間に入った土。

 

澪は、ノーラの顔つきが少し変わるのを見た。

 

彼女は泡石ではなく、どこか別の場所を見ているようだった。

 

「石壁を直す時」

 

ノーラが、ぽつりと言った。

 

「割れ目を全部埋めると、雨の後で膨らんでまた割れることがあります。少し逃がす筋を残すんです」

 

セルマが黙って聞いていた。

 

「炉の土台を直す時も、熱の逃げる場所を作ります。畑の畝を作る時は、水が片側に溜まらないように筋を切ります」

 

ノーラは、泡石に目を戻した。

 

「水を逃がす道を、細かく分けます。押さえず、なでるように」

 

澪は、ぱっと顔を明るくした。

 

「それです」

 

セルマが口元を緩める。

 

「やってごらん」

 

三回目。

 

工房の空気は、さっきより静かだった。

 

バルトも、もう笑わなかった。

 

ノーラは泡石の前に立ち、両手を置いた。

 

押さない。

 

潰さない。

 

なでる。

 

石粉が、音もなく浮いた。

 

泡石の表面に、細い溝が少しずつ増えていく。

 

太い溝ではない。

 

何本もの細い筋。

 

山は低く、谷は浅く、けれど上から下まで途切れず続いている。

 

端は崩れないように残されていた。

 

波形の板は、前のものより少し不格好だった。左右も完全には揃っていない。

 

けれど、澪はそれを見て、きれいだと思った。

 

人の手で作った道具の顔をしていた。

 

セルマが横から薬液を少し塗り、低い声で短く呪文を唱えた。泡石の端が、崩れにくい程度に締まる。固めすぎない。穴を潰さない。セルマの指先も、さっきより慎重だった。

 

バルトが、無言で金属枠を出した。

 

「入るか」

 

「少し端を」

 

ノーラが答え、端をほんのわずか削る。

 

枠に、泡石板が収まった。

 

上の水受け槽を取り付ける。

 

下に受け皿を置く。

 

風車をつける。

 

全員が、少し離れて見た。

 

セルマが水を注いだ。

 

水は、穴から落ちた。

 

最初の一滴が泡石に触れる。

 

すぐには流れなかった。

 

じわりと吸われた。

 

次の水が落ちる。

 

細い溝に沿って、ゆっくり下へ進む。

 

右だけではない。

 

左にも分かれる。

 

中央にも染みる。

 

泡石の表面が、少しずつ均一に湿っていく。

 

澪は息を止めていた。

 

リュシアも黙っていた。

 

侯爵家の実務担当が、無意識に一歩前に出た。

 

バルトが風車の取っ手を握った。

 

ぎい、と木が鳴る。

 

風車が回った。

 

最初の風は、ただの風だった。

 

工房の熱を含んだ、ぬるい風。

 

一呼吸。

 

二呼吸。

 

水がさらに泡石に染みる。

 

三呼吸。

 

風が変わった。

 

最初に気づいたのは、リュシアだった。

 

彼女は目を細め、手を風の前に出した。

 

「……冷えた」

 

セルマも無言で手をかざした。

 

その眉が、ほんの少し上がる。

 

侯爵家の実務担当も手を出した。

 

そして、表情が変わった。

 

きちんと整えられていた顔から、仕事用の硬さが一瞬だけ抜ける。

 

「これは……」

 

バルトも手をかざした。

 

何も言わなかった。

 

何も言わないことが、答えだった。

 

澪は、ノーラを見た。

 

ノーラは、自分の作った泡石板ではなく、皆の手を見ていた。

 

冷たい風を確かめる手。

 

黙る顔。

 

もう一度風に触れようとする指。

 

その全部を、信じられないものを見るように見ていた。

 

澪は言った。

 

「土魔法です」

 

ノーラが驚いて澪を見る。

 

澪は続けた。

 

「穴掘りだけじゃありません」

 

工房に、ぽたり、と水の落ちる音がした。

 

今度の音は、さっきの金属網だけの音とは違って聞こえた。

 

リュシアが笑った。

 

「これは売れるね。しかも、澪がいなくても作れる」

 

セルマが、ノーラに向き直った。

 

「この冷却板は、あんたの仕事だ」

 

ノーラは慌てて手を振った。

 

「いえ、私は少し削っただけで、セルマさんの補強があって、澪さんの説明があって、それに」

 

「その“少し”が、一番大事です」

 

澪が遮った。

 

ノーラの言葉が止まる。

 

「穴を潰さずに、水の通る道を作ったのはノーラさんです」

 

ノーラは、何か言おうとして、言えなかった。

 

目元が少し赤くなっている。

 

暑さのせいだけではなかった。

 

バルトが、気まずそうに金属枠の端を指でこすった。

 

「……金属だけでは無理だったな」

 

ノーラの肩が、びくっと動いた。

 

バルトは、彼女を見た。

 

「枠は俺が作る。網も使えるところには使う。水を散らすところと、子どもが手を突っ込まないようにするところだ。だが、冷やす板はあんたが作れ」

 

ノーラは返事に詰まった。

 

リュシアが、にやりと笑う。

 

「ほら、仕事が増えたよ」

 

「仕事……」

 

ノーラは、その言葉を小さく繰り返した。

 

澪は、そっと横から言った。

 

「土魔法、地味じゃないでしょう?」

 

ノーラは、しばらく泡石板を見ていた。

 

それから、小さく、けれど今度ははっきりとうなずいた。

 

「……はい」

 

その声は、まだ弱かった。

 

けれど、最初に工房へ入ってきた時の声とは違っていた。

 

冷風箱は、作業台の上に移された。

 

そこから先は、涼しい風を喜ぶ時間ではなかった。

 

リュシアの目が、完全に商売用に戻ったからである。

 

「さて。高い方と安い方を分けるよ」

 

「もうですか」

 

澪が言うと、リュシアは当然の顔をした。

 

「冷えているうちに決めるんだよ。暑さが引いたら、人は財布の紐も締める」

 

侯爵家の実務担当が、苦笑とも感心ともつかない顔をした。

 

リュシアは指を折る。

 

「侯爵家向けは金属枠。見た目がいる。泡石板は交換できるようにする。網は前面につけて、指や布が入らないようにする。装飾は……バルト、できるね?」

 

「できる。金はかかるぞ」

 

「高く売るからいい」

 

即答だった。

 

バルトが少し笑った。

 

「商人は怖いな」

 

「涼しい顔で値切る職人よりは優しいよ」

 

二人の間に、少しだけ職人同士の空気が流れた。

 

セルマは別の紙を引き寄せる。

 

「屋台や店向けは木枠でいい。金属は必要なところだけ。泡石板は割れたら交換。水槽は外せるように。受け皿も外せるように」

 

「洗えないものは売らない方がいい」

 

リュシアが言う。

 

「水は毎日替える。受け皿は空にする。泡石板は乾かす日を作る。ぬめりや臭いが出たら洗う」

 

澪は、聞きながら少しずつ嫌な予感がしていた。

 

こういう時、だいたい自分のところに何かが来る。

 

「あと、子どもが手を入れる」

 

リュシアが言った。

 

「絶対に入れるね」

 

セルマもうなずく。

 

「風車部分に髪を近づける馬鹿も出る」

 

「水を入れすぎる人もいますね」

 

侯爵家の実務担当が、真面目な顔で言った。

 

澪は、遠い目になった。

 

「説明書、要りますよね」

 

リュシアが、当然の顔でうなずいた。

 

「いるね」

 

「またですか」

 

「今回は絵も入れておくれ」

 

セルマがさらっと言った。

 

「水を入れすぎる馬鹿が必ず出る」

 

リュシアが続ける。

 

「あと、子どもが指を入れる」

 

バルトも真面目な顔で足した。

 

「網を外して使うやつも出るぞ。掃除の後に戻し忘れる」

 

侯爵家の実務担当まで、少し考えて言った。

 

「使用人が水を毎日替える手順も必要です。どの水を使うか、どの程度まで入れるか、どの部分を触ってよいかも」

 

澪は机に両手をついた。

 

「注意書きが増えていく……」

 

「生活を変える道具ってのはね」

 

リュシアが楽しそうに言った。

 

「使い方を書かないと、生活を壊すんだよ」

 

「名言みたいに言わないでください」

 

工房の中に、小さな笑いが広がった。

 

その横で、ノーラはもう一枚の泡石に手を置いていた。

 

誰に言われたわけでもない。

 

ただ、自分で試していた。

 

今度は、さっきより少し早い。

 

まだ形は不揃いだった。

 

溝も完全にはそろっていない。

 

それでも、水を落とすと、泡石はちゃんと水を吸った。

 

細い筋を伝い、表面を湿らせる。

 

バルトが作った仮の枠に入れて、風を送る。

 

少し待つ。

 

風が冷たくなる。

 

ノーラは、冷風箱の前に手をかざした。

 

自分の手に、自分の魔法で作った冷たい風が当たっている。

 

澪は、その横顔を見ていた。

 

自分がいなくても、この世界の人たちは作れる。

 

セルマがいて、リュシアがいて、バルトがいて、ノーラがいる。

 

誰か一人の不思議な力ではなく、それぞれの仕事が組み合わさって、夏の空気を少しだけ変えていく。

 

ノーラは、風を受けながら、小さく笑った。

 

ほんの少しだけ、背筋が伸びていた。

 

土魔法は、穴を掘るだけの魔法ではなかった。

 

少なくともこの日、セルマの工房では、そういうことになった。

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