七月も中盤に入ると、大学の空気は急に軽くなった。
講義棟の前を通る学生たちの声には、もう次の授業を気にする固さがない。駅までのバスの時間を調べている学生が、スマホを見ながら「帰省ラッシュ前に出たいんだよね」と笑い、サークル棟の前では、大きなスポーツバッグを肩にかけた集団が合宿の集合時間で揉めていた。
澪のスマホにも、大学ポータルから通知が届いている。
夏季休業期間中の窓口対応について、という件名だった。
続けて図書館の短縮開館の知らせが来て、さらに学内システムのメンテナンス予定が届いた。
夏休みの気配は、どれも事務的だった。
SNSのおすすめ欄には、海の写真とかき氷の写真と、誰かが空港で撮ったらしいスーツケースの写真が流れてくる。澪はそれを親指で送ってから、机の上に視線を戻した。
そこには、夏休みらしさとは別方向のものが広がっていた。
澪は法人銀行口座の明細を画面で確認しながら、領収書の角をそろえてクリップで留めた。白金インゴットの保管メモは、折れないようにクリアファイルへ入れる。飯島さんの会社へ持っていく法人関係の控えは、前回の換金時に書いた手書きメモと一緒に重ねた。
修さんの工房へ持っていく小さな箱は、机の端に置いてある。
その横には、今日作りたいヘアバレッタのラフが挟まったノートがあった。
さらに、白金インゴット一キログラムが入ったケース。
澪はケースを両手で持ち上げた。
ずしり、と腕に重さが来る。
「……白金って、名前はきれいなのに、現実は重い」
ケースをバッグの底へ入れる。ぶつからないように、彫金用の小箱を薄いタオルで包んで隣へ入れた。書類は曲がらないように背中側のポケットへ差し込む。
最後にノートを入れたところで、バッグはすでに夏休みの学生の持ち物ではなくなっていた。
澪はノートパソコンの会計ソフトを見つめた。
入力待ちの数字が、静かにこちらを見返している。
「大学生の夏休みって、もっとこう、寝て起きてアイス食べるものじゃないんですか」
部屋のエアコンは動いている。
冷気も出ている。
それなのに、机の上の書類とバッグの中身のせいで、心だけがやけに暑苦しかった。
今日は修さんの彫金教室へ行く。その後、飯島さんの会社で白金インゴット一キログラムを換金する。終わったら、修さんにご飯を奢ってもらう。
澪は最後の予定だけを、もう一度心の中で強調した。
ご飯。
そこだけが、かろうじて夏休みだった。
玄関を出てすぐ、湿った熱気が首筋にまとわりついた。
澪は歩きながら髪を払った。まとめているはずなのに、細い髪が汗で首に張りつく。信号待ちの間にも、無意識に何度か手が上がった。
そのたびに、異世界側の光景が思い出される。
セルマは工房で、髪を布でざっくりまとめていた。炉の熱気と薬液の匂いの中で、額に浮いた汗を手の甲で拭いながら、それでも手元から目を離さなかった。
リュシアは屋台で客をさばきながら、緩んだ髪を素早く結び直していた。暑さで赤くなった顔で、皮と種の回収場所を指示しながら、商人の目だけは涼しかった。
ノーラは泡石の粉を浴びながら、何度も前髪を耳にかけていた。土魔法で細い水筋を作る時、髪が落ちてくるたびに、少し困ったようにまばたきをしていた。
紐でもいい。
布でもいい。
髪はまとめられる。
けれど、働く人が使えて、少しだけ嬉しくなるものがあってもいいのではないか。
前回作ったのは、首に下げて見せるものだった。
今回は、髪を留めるものにしたい。
作業の邪魔をしないもの。
でも、ただの実用品ではなくて、グラデーションストーンと透かし模様を使った、少し上品なヘアバレッタ。
澪はバッグの中に入れたラフを思い出し、歩きながら小さく息を吐いた。
「……最初から難しすぎる気もします」
言ったところで、足は修さんの工房へ向かっている。
作りたいと思ってしまったものは、もう仕方がなかった。
修さんの工房に入ると、外の熱気とは違う匂いがした。
金属の匂い。
磨き粉の匂い。
少しだけ油の混じった、工具の匂い。
作業灯の白い光が、机の上に並んだヤスリやピンセットを照らしていた。小さな金槌の柄には使い込まれた艶があり、糸鋸の刃は細く、頼りないほどまっすぐだった。
修さんは作業台の向こうで、銀色の小さな部品を見ていた。
澪が入ると、顔を上げる。
「来たね」
「はい。お願いします」
澪が頭を下げてバッグを床に置くと、いつもより低い音がした。
修さんはその音に少しだけ目を向けたが、何も聞かなかった。
澪は彫金用の小箱を取り出し、今日のメモと一緒に作業台へ置いた。小箱の中には、赤紫から青紫へ色が移るグラデーションストーンが入っている。
「今日は、ヘアバレッタを作りたいです」
修さんは、すぐに道具を出さなかった。
まず澪の髪を見た。
次に、石を見る。
それから、メモに描かれた横長の髪飾りを見た。
「ネックレスじゃなくて?」
「はい。前回は首に下げるものでした。今回は、使うものにしたいです」
「飾りじゃなくて?」
澪は少し考えた。
ただの飾りではない。
でも、ただの道具でも嫌だった。
「どっちも、です。作業中に髪を留められて、でも少しきれいなものがいいです」
修さんは、小さくうなずいた。
「いいね。使うものは、飾るものより見るところが増えるよ」
その言い方は穏やかだったが、澪は少し背筋を伸ばした。
見るところが増える。
つまり、難しいということだ。
修さんは引き出しから、いくつかの透かし土台を出した。葉のような模様、唐草のような模様、細かな穴が連続したもの。さらに細い銀線、小さな爪のついた石座、バレッタ金具が並ぶ。
「本物の線細工を最初から全部やると、今日は帰れないよ」
「帰れないんですか」
「帰れないね」
修さんは淡々と言った。
澪は、帰れないという言葉だけで少し固まる。
「だから今日は、フィリグリー風。透かしの土台を使って、銀線を添える。石を爪で留める。裏はバレッタ金具を付ける」
「接着剤ですか?」
「接着でも付くけど、髪に使うものは力がかかる。汗もある。接着だけだと不安が残るから、今日は留めるところまでやろう」
「留める」
「穴を開けて、細い鋲でカシメる」
澪は、前回のネックレスよりも急に道具らしくなった気がした。
首元に見せるものではなく、髪を支えるもの。
使う人の動きに耐えるもの。
きれいならいい、ではない。
修さんが透かし土台を並べた。
澪はグラデーションストーンを一つ、そっと土台の上に置く。
赤紫を中央に置くと、華やかになる。
青紫を端に向けると、落ち着く。
淡い橙を光の入る側へ向けると、石の中が少し明るくなる。
澪が石を指先で少し回した時、視界の端に、いつもの表示が浮かんだ。
----------------------------------
グラデーションストーン
分類:装飾石/髪飾り用候補
素材:着色ガラス
形状:楕円カボション
色:淡橙、赤紫、青紫のグラデーション
光抜け:青紫側は光量不足で沈みやすい
注意:中央の赤紫は爪で隠すと濁って見える
注意:裏面は完全な平面ではなく、中央がわずかに浮く
注意:強く押さえると縁から欠ける可能性あり
推奨:青紫側を透かし穴の多い側へ向けると光が抜けやすい
推奨:爪は赤紫の中央を避け、色の境目に置くこと
備考:髪飾り用途では石座を高くしすぎないこと
----------------------------------
澪は表示を見て、石をもう少しだけ回した。
青紫の端が、透かし穴の多い側に来る。
赤紫の中央に爪がかからない位置を探す。
ほんの少し角度を変えるだけで、石の中の色の出方が変わった。
「そこにする?」
修さんが聞いた。
「はい。こっちから光が入ると、端の青が沈まないので」
言ってから、澪は少し口を閉じた。
見えたから言えた。
見えすぎている。
修さんは、石と澪の顔を見比べた。
「よく見てるね」
「なんとなく、です」
「なんとなくで済ませないで、手でも確認しよう」
修さんは石をピンセットで持ち上げ、作業灯へかざした。
「光にかざす。横から見る。高さを見る。髪に当たった時に邪魔にならないか見る。見えていても、確認は別だよ」
「はい」
鑑定は表示してくれる。
でも、修さんは手で確かめさせる。
澪は石を横から見た。
たしかに、中央がわずかに浮いている。石座を高くしすぎると、髪飾りとしては出っ張りすぎる。飾りとしてはきれいでも、使う時に引っかかれば失敗だった。
「飾りだけなら、高く見せてもいい。でも髪に使うなら、引っかかる高さは減らしたい」
「はい」
前回は、石が主役だった。
今回は、石だけが主役ではない。
髪を留める。
邪魔をしない。
触れても痛くない。
そのうえで、きれいであること。
澪は細い銀線を手に取った。
想像より柔らかく、想像より扱いにくい。
ピンセットで少し曲げる。
曲がる。
もう少し曲げる。
曲がりすぎる。
「あ」
唐草模様になるはずだった線は、どこかで踏まれた針金のような形になった。
修さんは横から見て、静かに言った。
「線は押すと折れる。逃がしながら曲げる」
「逃がす」
「無理に曲げたいところだけ見ない。前後も一緒に動かす」
澪は新しい銀線を取り、今度は押さえ込まないように曲げた。
指先が、前より安定しているのは分かった。
ピンセットの先が震えにくい。
細い線の戻ろうとする力も、少し手に伝わる。
だが、そこで調子に乗ると失敗する。
銀線を透かし土台に沿わせたところで、鑑定がまた反応した。
----------------------------------
銀線装飾・調整中
分類:装飾線/唐草模様
素材:銀線
状態:右上の唐草部分に浮きあり
浮き:約0.4mm
状態:左下の曲げが急で、線に歪みあり
注意:浮いた銀線は髪に引っかかる可能性あり
注意:押し込みすぎると唐草模様全体が歪む
注意:線端を裏側へ逃がすと髪に絡む可能性あり
推奨:浮いた部分だけを押さえず、前後の曲線ごと少し戻して調整する
推奨:ピンセットで一点を強く押さえない
----------------------------------
「ここ、浮いてます」
澪が言うと、修さんが覗き込んだ。
「よく見えたね。じゃあ直して」
澪はピンセットを入れ、浮いたところを押さえようとした。
銀線が、すっと横へ逃げた。
全体の流れが、ほんの少し崩れる。
「……あ」
澪は固まった。
見えた。
見えていた。
直し方まで表示されていた。
それなのに、指はその通りに動かなかった。
「……見えるのと、直せるのは違いました」
修さんはうなずいた。
「そこが今日の授業だね」
その声は厳しくなかった。
でも、甘くもなかった。
澪は銀線をいったん戻し、曲線の前後ごと少し動かした。浮いた部分だけを押さえない。線が逃げる方向を見て、少しずつ合わせる。
鑑定は答えを出す。
けれど、指の代わりに動いてはくれない。
彫金の感覚は、どこを触ればいいかを教えてくれる。
手仕事は、ピンセットの先を少しだけ安定させてくれる。
それでも、作るのは澪の手だった。
完璧ではない。
線の流れは少し硬い。
けれど、雑ではなくなっていく。
グラデーションストーンを爪で留める時、澪は何度も息を吐いた。
爪を倒す角度は見える。
押しすぎると、石の縁に負担がかかることも分かる。
だが、分かっているのに力が入る。
四つ目の爪で、少し強く押しすぎた。
「押さえればいいわけじゃない。石は逃げ場がないと割れる」
修さんの声で、澪は手を止めた。
「はい」
力を抜く。
爪をほんの少し戻し、角度を変える。
石は動かない。
けれど、押し潰されてもいない。
澪は自分の肩が固まっていたことに気づき、ゆっくり息を吐いた。
「息も止めない」
「はい……」
修さんはそれだけ言って、また黙った。
その沈黙がありがたかった。
騒がれたら、たぶんもっと手が震える。
表の細工が形になると、修さんは裏にバレッタ金具を合わせた。
「火で付ける方法もあるけど、金具ごと炙るとバネが弱ることがある。今回は穴を開けて、細い鋲で留める」
澪は金具を動かしてみた。
開く。
閉じる。
その動きが髪を挟む。
ここで雑にすると、使う時に困る。
澪が印をつけようとした瞬間、鑑定が表示を出した。
----------------------------------
バレッタ金具・取付位置確認
分類:金具固定/裏面加工
状態:現在の印位置は透かし模様の細い橋に近い
危険:この位置で穴を開けると、使用時の曲げで割れる可能性あり
注意:外側へずらしすぎると金具の開閉に干渉する
注意:内側へ寄せすぎると髪に当たる面に段差が出る
推奨:現在位置より約1mm内側
推奨:透かし模様の支柱を避けること
注意:穴開け後、裏面のバリを必ず落とすこと
備考:カシメ後に金具の開閉確認が必要
----------------------------------
澪は、印をつけかけた手を止めた。
「ここ、駄目ですね」
修さんが見る。
「どうして?」
「たぶん、ここに穴を開けると、模様の細いところが負けます」
修さんは土台を横から見た。
指で透かし模様の細い橋を軽く押す。
「うん。そこは割れやすい。よく気づいたね」
澪は印を消し、少しだけ位置をずらした。
穴を開ける。
細い鋲を通す。
カシメる。
金具は固定されたが、そこで終わりではない。
裏に、小さなバリが残っている。
爪の裏にも、ほんの少し角が立っている。
銀線の端も、指の腹でなぞると、かすかに引っかかった。
「髪に使うものは、裏が大事だよ」
修さんが言う。
「表がきれいでも、裏で髪が引っかかったら駄目」
「はい」
「尖っているところは、全部敵だと思っていい」
「敵」
「敵だね」
澪はヤスリを持った。
磨く。
指でなぞる。
まだ少し引っかかる。
もう一度磨く。
またなぞる。
今度は金具の端が気になる。
そこも磨く。
鑑定は、髪に絡む危険がある小さなバリや磨き残しを拾ってくる。
澪はそのたびに手を止め、角度を変え、また磨いた。
地味な作業だった。
石を置いた時のような華やかさはない。
銀線を曲げた時の緊張もない。
けれど、この地味な作業を飛ばしたら、使う人の髪を傷める。
澪は、ノーラの前髪を思い出した。
泡石の粉で白くなった髪を、何度も耳にかけていた指。
セルマの布でまとめた髪。
リュシアが屋台の合間に結び直した髪。
前回のネックレスは、石を見せるものだった。
今回のバレッタは、使う人の髪に触れるものだった。
きれいなだけでは足りない。
完成したヘアバレッタは、作業台の上で静かに光っていた。
横長の透かし土台。
中央には、赤紫から青紫へ色が移るグラデーションストーン。
その周りを、細い銀線の唐草模様が囲んでいる。
小さな爪は石を邪魔しない位置で押さえ、裏の金具はカシメで固定されていた。
派手ではない。
けれど、安っぽくもない。
クラシカルで、落ち着いている。
修さんはまず表を見なかった。
裏返した。
金具を動かす。
指で裏をなぞる。
爪の高さを見る。
銀線の浮きを横から見る。
それから、静かに言った。
「うん。人に渡せるところまでは来てる」
澪は、自分が息を止めていたことに気づいた。
ゆっくり吐く。
修さんは続ける。
「裏がいいね。髪に当たるところをちゃんと見てる」
「本当ですか」
「まだ線は硬い。慣れていないところもある。でも雑じゃない」
澪はバレッタを見た。
線は少し硬い。
もっと上手な人なら、唐草模様はもっと自然に流れるのだろう。
でも、雑ではない。
その言葉は、思った以上に嬉しかった。
「これは、作った人間が最後まで触って確認したものだね」
修さんは、値段の話をしなかった。
どこかに置けるとも言わなかった。
ただ、人に渡せるところまで来ていると言った。
澪には、それが少し重く、少し嬉しかった。
澪は作業台の端で、こっそり完成品に鑑定をかけた。
----------------------------------
銀線細工のグラデーションバレッタ
分類:髪飾り/実用品/一点物
素材:銀、透かし土台、グラデーションストーン、バレッタ金具
加工:透かし装飾、銀線装飾、爪留め、カシメ固定、裏面研磨
形状:横長ヘアバレッタ
石留め:安定
金具:開閉良好
裏面:髪に触れる面の処理は良好
使用感:髪に引っかかりにくい
評価:★★★★★
微弱加護:作業守り:1
加護効果:髪がほどけにくい
加護効果:長時間の作業中、わずかに集中を保ちやすい
加護効果:身につけた者の所作を少し整える
注意:量産品ではなく一点物
注意:現代側での一般販売は非推奨
備考:実用品として高い完成度。使用者との相性確認は別途必要
----------------------------------
澪は固まった。
「……星、五つ」
「どうしたの」
修さんが顔を上げる。
澪は慌てて表示から目をそらした。
「いえ、ちょっと、自分の中の評価が予想より高くて」
修さんは笑わなかった。
「自分で作ったものを低く見すぎるのも、よくないよ」
「はい……」
澪はバレッタを見る。
鑑定上は、売り物になる。
しかも、加護つき。
作業守りの加護・微。
微、というところが逆に怖い。
派手な魔法ではない。
髪がほどけにくい。
集中を少し保ちやすい。
所作を少し整える。
小さな効果だ。
けれど、現代で普通に売っていいものではない気がした。
修さんは、売れるとは言わなかった。
人に渡せると言った。
その違いが、今の澪にはやけに大きく感じられた。
セルマか。
リュシアか。
ノーラか。
それとも、まずは自分で使って様子を見るべきか。
澪はバレッタを布で包み、小箱へ入れた。
その小箱をバッグにしまうと、バッグの中には白金インゴット一キログラムと、星五つ加護つきヘアバレッタが同居することになった。
澪はバッグを見下ろした。
「今日のバッグ、情報量が多すぎませんか」
修さんは聞こえなかったふりをした。
外へ出ると、午後の熱が歩道から上がっていた。
澪はバッグを肩にかけず、両手で持った。
一キログラムなら持てる。
持てるが、持ちたいとは少し違う。
白金インゴットそのものの重さより、それが法人名義でお金に変わるという事実の方が重かった。
「一人で持って歩くものじゃないね」
隣を歩く修さんが言った。
「ですよね」
「でも、誰かに任せきりにするものでもない」
澪はバッグの持ち手を握り直した。
「はい」
飯島さんの会社は、派手な買取店ではなかった。
受付は落ち着いていて、壁も床も静かな色でまとめられている。冷房が効いた空気の中に、紙と金属と事務機器の匂いが少しだけ混じっていた。
澪が名前を告げると、受付の人は確認してから応接室へ案内してくれた。
しばらくして、飯島さん本人ではなく、以前にも見たことのある担当者が入ってきた。
「本日も、白金インゴットのお持ち込みですね」
「はい。お願いします」
澪はバッグからケースを出した。
担当者は、澪が出した法人関係の控えを確認し、書類の番号と前回の記録を照らし合わせた。澪の前では、紙が一枚ずつ静かにめくられていく。大げさな声も、驚きもない。
その淡々とした手つきが、逆に緊張を強くした。
担当者は白金インゴットを検査用の台へ置き、刻印を確認した後、秤に乗せた。
数字が表示される。
澪はそれを見た。
ただの重さのはずなのに、現実がそこに固定されたように感じた。
異世界では、白い重砂だった。
金でも銀でもない、炉で扱いにくい、重くて邪魔な白い砂。
それが現代では、検査され、重さを測られ、書類になり、法人名義の資金になる。
担当者が明細を作っていく。
キーボードを打つ音。
プリンターが紙を吐き出す音。
確認のために置かれる印鑑。
その一つ一つが、澪には妙に大きく聞こえた。
「会社っぽいです」
明細を受け取った時、澪は思わずつぶやいた。
修さんは横で静かに答えた。
「会社だからね」
「うちは六畳間の会社ですから、まだ気持ちが……」
「気持ちより先に、お金は動くよ。だから記録を残す」
澪は、封筒に入れられた売却明細を両手で受け取った。
白金の重さが、紙の重さに変わったような気がした。
換金が終わると、ようやく本日の希望枠だった。
修さんが連れて行ってくれた店は、高級すぎないが、静かで落ち着いた場所だった。木のテーブルは手触りがよく、照明は明るすぎない。席に座ると、澪は初めて自分がかなり緊張していたことに気づいた。
白金インゴットが手元から離れ、明細になった。
その反動で、急にお腹が空いた。
「遠慮しなくていいよ」
修さんが言った。
澪はメニューを見た。
見て、もう一度見た。
「……遠慮しないと、けっこういきます」
「いいよ。今日は約束だから」
澪はしっかり注文した。
料理が来るまでの間、バッグの中の小箱が気になった。
星五つ。
加護つき。
人に渡せる。
でも、売っていいのか分からない。
修さんはお茶を一口飲み、静かに言った。
「白金は高いけど、持っているだけなら塊だよ」
澪は顔を上げた。
「形にするか、必要なところへ流すか。そこを間違えると、重いだけになる」
「今日のバレッタもですか」
「うん」
修さんは少し考えてから続けた。
「あれも、ただ飾るだけならもっと派手にできる。でも髪に使うなら、裏を整える方が大事になる」
澪は、作業台で裏を磨いた時間を思い出した。
何度も指でなぞった。
引っかかりを消した。
表からは見えない場所。
けれど、使う人には一番近い場所。
「人に渡せるものって、どう決めるんですか」
澪は聞いた。
修さんはすぐには答えなかった。
湯呑みを置き、少しだけ視線を落とす。
「自分が見ないふりをした場所がないか、かな」
澪は黙った。
見ないふりをした場所。
爪の浮き。
銀線の端。
金具の裏。
白金の出どころ。
法人名義の入金。
会計ソフトの入力。
見ないふりをしたら、後で必ず引っかかるものばかりだった。
料理が運ばれてくる。
澪は箸を持ち、ひとまず考えることをやめた。
まず食べる。
ひと口食べると、体の奥から力が戻ってきた。
「おいしいです」
「よかった」
「夏休みっぽいです」
「それはよかった」
「今日、ほぼ会社と彫金と白金でしたけど」
修さんは少しだけ笑った。
「ご飯は夏休みに入れていいと思うよ」
「じゃあ今日は、最後の一時間だけ夏休みです」
澪はそう言って、もう一口食べた。
その一時間は、たしかに少しだけ夏休みだった。
帰宅すると、現実が机の上で待っていた。
澪はバッグから封筒を取り出し、売却明細をファイルへ入れた。会計ソフトを開き、明細の数字を一つずつ入力する。法人銀行口座の入金予定を確認し、前回の記録の隣に今回の日付を書き足した。
彫金教室のメモ帳も開く。
グラデーションストーンの向き。
銀線の浮き。
カシメ位置。
裏面のバリ。
修さんの言葉。
見えるのと、直せるのは別。
澪はその一文の下に線を引こうとして、少し迷い、やめた。
強調しなくても、忘れそうになかった。
机の右側には、完成したヘアバレッタの小箱がある。
澪はふたを開け、もう一度だけ鑑定した。
評価は星五つ。
微弱加護は、作業守り。
注意欄には、現代側での一般販売は非推奨。
澪は両手で頭を抱えた。
「夏休み初日に、加護つきアクセサリーを作る予定はなかったんですけど」
スマホが鳴った。
友人からの遊びの誘いではない。
大学ポータルから、夏季休業期間中のシステム停止予定が届いていた。
続けて、母からメッセージが入る。
『暑いから、ちゃんと食べてる?』
SNSのおすすめ欄には、海とかき氷と、空港の写真が流れてくる。
澪はそれらを見てから、横にある会計ソフトへ視線を戻した。
手帳を開く。
入金確認。
仕入れ。
異世界側へ持ち込む品の整理。
冷風箱の説明書。
バレッタの扱い検討。
澪はペンを持ったまま、しばらく動かなかった。
休みの文字を探した。
なかった。
大学の夏休みは始まったばかりだった。
けれど澪の予定表には、休みという文字だけが、なぜか一行も見当たらなかった。
最後の1行(´;ω;`)