押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第56話 社長に夏休みはない

 

七月も中盤に入ると、大学の空気は急に軽くなった。

 

講義棟の前を通る学生たちの声には、もう次の授業を気にする固さがない。駅までのバスの時間を調べている学生が、スマホを見ながら「帰省ラッシュ前に出たいんだよね」と笑い、サークル棟の前では、大きなスポーツバッグを肩にかけた集団が合宿の集合時間で揉めていた。

 

澪のスマホにも、大学ポータルから通知が届いている。

 

夏季休業期間中の窓口対応について、という件名だった。

 

続けて図書館の短縮開館の知らせが来て、さらに学内システムのメンテナンス予定が届いた。

 

夏休みの気配は、どれも事務的だった。

 

SNSのおすすめ欄には、海の写真とかき氷の写真と、誰かが空港で撮ったらしいスーツケースの写真が流れてくる。澪はそれを親指で送ってから、机の上に視線を戻した。

 

そこには、夏休みらしさとは別方向のものが広がっていた。

 

澪は法人銀行口座の明細を画面で確認しながら、領収書の角をそろえてクリップで留めた。白金インゴットの保管メモは、折れないようにクリアファイルへ入れる。飯島さんの会社へ持っていく法人関係の控えは、前回の換金時に書いた手書きメモと一緒に重ねた。

 

修さんの工房へ持っていく小さな箱は、机の端に置いてある。

 

その横には、今日作りたいヘアバレッタのラフが挟まったノートがあった。

 

さらに、白金インゴット一キログラムが入ったケース。

 

澪はケースを両手で持ち上げた。

 

ずしり、と腕に重さが来る。

 

「……白金って、名前はきれいなのに、現実は重い」

 

ケースをバッグの底へ入れる。ぶつからないように、彫金用の小箱を薄いタオルで包んで隣へ入れた。書類は曲がらないように背中側のポケットへ差し込む。

 

最後にノートを入れたところで、バッグはすでに夏休みの学生の持ち物ではなくなっていた。

 

澪はノートパソコンの会計ソフトを見つめた。

 

入力待ちの数字が、静かにこちらを見返している。

 

「大学生の夏休みって、もっとこう、寝て起きてアイス食べるものじゃないんですか」

 

部屋のエアコンは動いている。

 

冷気も出ている。

 

それなのに、机の上の書類とバッグの中身のせいで、心だけがやけに暑苦しかった。

 

今日は修さんの彫金教室へ行く。その後、飯島さんの会社で白金インゴット一キログラムを換金する。終わったら、修さんにご飯を奢ってもらう。

 

澪は最後の予定だけを、もう一度心の中で強調した。

 

ご飯。

 

そこだけが、かろうじて夏休みだった。

 

 

 

 

玄関を出てすぐ、湿った熱気が首筋にまとわりついた。

 

澪は歩きながら髪を払った。まとめているはずなのに、細い髪が汗で首に張りつく。信号待ちの間にも、無意識に何度か手が上がった。

 

そのたびに、異世界側の光景が思い出される。

 

セルマは工房で、髪を布でざっくりまとめていた。炉の熱気と薬液の匂いの中で、額に浮いた汗を手の甲で拭いながら、それでも手元から目を離さなかった。

 

リュシアは屋台で客をさばきながら、緩んだ髪を素早く結び直していた。暑さで赤くなった顔で、皮と種の回収場所を指示しながら、商人の目だけは涼しかった。

 

ノーラは泡石の粉を浴びながら、何度も前髪を耳にかけていた。土魔法で細い水筋を作る時、髪が落ちてくるたびに、少し困ったようにまばたきをしていた。

 

紐でもいい。

 

布でもいい。

 

髪はまとめられる。

 

けれど、働く人が使えて、少しだけ嬉しくなるものがあってもいいのではないか。

 

前回作ったのは、首に下げて見せるものだった。

 

今回は、髪を留めるものにしたい。

 

作業の邪魔をしないもの。

 

でも、ただの実用品ではなくて、グラデーションストーンと透かし模様を使った、少し上品なヘアバレッタ。

 

澪はバッグの中に入れたラフを思い出し、歩きながら小さく息を吐いた。

 

「……最初から難しすぎる気もします」

 

言ったところで、足は修さんの工房へ向かっている。

 

作りたいと思ってしまったものは、もう仕方がなかった。

 

 

 

 

修さんの工房に入ると、外の熱気とは違う匂いがした。

 

金属の匂い。

 

磨き粉の匂い。

 

少しだけ油の混じった、工具の匂い。

 

作業灯の白い光が、机の上に並んだヤスリやピンセットを照らしていた。小さな金槌の柄には使い込まれた艶があり、糸鋸の刃は細く、頼りないほどまっすぐだった。

 

修さんは作業台の向こうで、銀色の小さな部品を見ていた。

 

澪が入ると、顔を上げる。

 

「来たね」

 

「はい。お願いします」

 

澪が頭を下げてバッグを床に置くと、いつもより低い音がした。

 

修さんはその音に少しだけ目を向けたが、何も聞かなかった。

 

澪は彫金用の小箱を取り出し、今日のメモと一緒に作業台へ置いた。小箱の中には、赤紫から青紫へ色が移るグラデーションストーンが入っている。

 

「今日は、ヘアバレッタを作りたいです」

 

修さんは、すぐに道具を出さなかった。

 

まず澪の髪を見た。

 

次に、石を見る。

 

それから、メモに描かれた横長の髪飾りを見た。

 

「ネックレスじゃなくて?」

 

「はい。前回は首に下げるものでした。今回は、使うものにしたいです」

 

「飾りじゃなくて?」

 

澪は少し考えた。

 

ただの飾りではない。

 

でも、ただの道具でも嫌だった。

 

「どっちも、です。作業中に髪を留められて、でも少しきれいなものがいいです」

 

修さんは、小さくうなずいた。

 

「いいね。使うものは、飾るものより見るところが増えるよ」

 

その言い方は穏やかだったが、澪は少し背筋を伸ばした。

 

見るところが増える。

 

つまり、難しいということだ。

 

修さんは引き出しから、いくつかの透かし土台を出した。葉のような模様、唐草のような模様、細かな穴が連続したもの。さらに細い銀線、小さな爪のついた石座、バレッタ金具が並ぶ。

 

「本物の線細工を最初から全部やると、今日は帰れないよ」

 

「帰れないんですか」

 

「帰れないね」

 

修さんは淡々と言った。

 

澪は、帰れないという言葉だけで少し固まる。

 

「だから今日は、フィリグリー風。透かしの土台を使って、銀線を添える。石を爪で留める。裏はバレッタ金具を付ける」

 

「接着剤ですか?」

 

「接着でも付くけど、髪に使うものは力がかかる。汗もある。接着だけだと不安が残るから、今日は留めるところまでやろう」

 

「留める」

 

「穴を開けて、細い鋲でカシメる」

 

澪は、前回のネックレスよりも急に道具らしくなった気がした。

 

首元に見せるものではなく、髪を支えるもの。

 

使う人の動きに耐えるもの。

 

きれいならいい、ではない。

 

修さんが透かし土台を並べた。

 

澪はグラデーションストーンを一つ、そっと土台の上に置く。

 

赤紫を中央に置くと、華やかになる。

 

青紫を端に向けると、落ち着く。

 

淡い橙を光の入る側へ向けると、石の中が少し明るくなる。

 

澪が石を指先で少し回した時、視界の端に、いつもの表示が浮かんだ。

 

----------------------------------

グラデーションストーン

 分類:装飾石/髪飾り用候補

 素材:着色ガラス

 形状:楕円カボション

 色:淡橙、赤紫、青紫のグラデーション

 光抜け:青紫側は光量不足で沈みやすい

 注意:中央の赤紫は爪で隠すと濁って見える

 注意:裏面は完全な平面ではなく、中央がわずかに浮く

 注意:強く押さえると縁から欠ける可能性あり

 推奨:青紫側を透かし穴の多い側へ向けると光が抜けやすい

 推奨:爪は赤紫の中央を避け、色の境目に置くこと

 備考:髪飾り用途では石座を高くしすぎないこと

----------------------------------

 

澪は表示を見て、石をもう少しだけ回した。

 

青紫の端が、透かし穴の多い側に来る。

 

赤紫の中央に爪がかからない位置を探す。

 

ほんの少し角度を変えるだけで、石の中の色の出方が変わった。

 

「そこにする?」

 

修さんが聞いた。

 

「はい。こっちから光が入ると、端の青が沈まないので」

 

言ってから、澪は少し口を閉じた。

 

見えたから言えた。

 

見えすぎている。

 

修さんは、石と澪の顔を見比べた。

 

「よく見てるね」

 

「なんとなく、です」

 

「なんとなくで済ませないで、手でも確認しよう」

 

修さんは石をピンセットで持ち上げ、作業灯へかざした。

 

「光にかざす。横から見る。高さを見る。髪に当たった時に邪魔にならないか見る。見えていても、確認は別だよ」

 

「はい」

 

鑑定は表示してくれる。

 

でも、修さんは手で確かめさせる。

 

澪は石を横から見た。

 

たしかに、中央がわずかに浮いている。石座を高くしすぎると、髪飾りとしては出っ張りすぎる。飾りとしてはきれいでも、使う時に引っかかれば失敗だった。

 

「飾りだけなら、高く見せてもいい。でも髪に使うなら、引っかかる高さは減らしたい」

 

「はい」

 

前回は、石が主役だった。

 

今回は、石だけが主役ではない。

 

髪を留める。

 

邪魔をしない。

 

触れても痛くない。

 

そのうえで、きれいであること。

 

澪は細い銀線を手に取った。

 

想像より柔らかく、想像より扱いにくい。

 

ピンセットで少し曲げる。

 

曲がる。

 

もう少し曲げる。

 

曲がりすぎる。

 

「あ」

 

唐草模様になるはずだった線は、どこかで踏まれた針金のような形になった。

 

修さんは横から見て、静かに言った。

 

「線は押すと折れる。逃がしながら曲げる」

 

「逃がす」

 

「無理に曲げたいところだけ見ない。前後も一緒に動かす」

 

澪は新しい銀線を取り、今度は押さえ込まないように曲げた。

 

指先が、前より安定しているのは分かった。

 

ピンセットの先が震えにくい。

 

細い線の戻ろうとする力も、少し手に伝わる。

 

だが、そこで調子に乗ると失敗する。

 

銀線を透かし土台に沿わせたところで、鑑定がまた反応した。

 

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銀線装飾・調整中

 分類:装飾線/唐草模様

 素材:銀線

 状態:右上の唐草部分に浮きあり

 浮き:約0.4mm

 状態:左下の曲げが急で、線に歪みあり

 注意:浮いた銀線は髪に引っかかる可能性あり

 注意:押し込みすぎると唐草模様全体が歪む

 注意:線端を裏側へ逃がすと髪に絡む可能性あり

 推奨:浮いた部分だけを押さえず、前後の曲線ごと少し戻して調整する

 推奨:ピンセットで一点を強く押さえない

----------------------------------

 

「ここ、浮いてます」

 

澪が言うと、修さんが覗き込んだ。

 

「よく見えたね。じゃあ直して」

 

澪はピンセットを入れ、浮いたところを押さえようとした。

 

銀線が、すっと横へ逃げた。

 

全体の流れが、ほんの少し崩れる。

 

「……あ」

 

澪は固まった。

 

見えた。

 

見えていた。

 

直し方まで表示されていた。

 

それなのに、指はその通りに動かなかった。

 

「……見えるのと、直せるのは違いました」

 

修さんはうなずいた。

 

「そこが今日の授業だね」

 

その声は厳しくなかった。

 

でも、甘くもなかった。

 

澪は銀線をいったん戻し、曲線の前後ごと少し動かした。浮いた部分だけを押さえない。線が逃げる方向を見て、少しずつ合わせる。

 

鑑定は答えを出す。

 

けれど、指の代わりに動いてはくれない。

 

彫金の感覚は、どこを触ればいいかを教えてくれる。

 

手仕事は、ピンセットの先を少しだけ安定させてくれる。

 

それでも、作るのは澪の手だった。

 

完璧ではない。

 

線の流れは少し硬い。

 

けれど、雑ではなくなっていく。

 

グラデーションストーンを爪で留める時、澪は何度も息を吐いた。

 

爪を倒す角度は見える。

 

押しすぎると、石の縁に負担がかかることも分かる。

 

だが、分かっているのに力が入る。

 

四つ目の爪で、少し強く押しすぎた。

 

「押さえればいいわけじゃない。石は逃げ場がないと割れる」

 

修さんの声で、澪は手を止めた。

 

「はい」

 

力を抜く。

 

爪をほんの少し戻し、角度を変える。

 

石は動かない。

 

けれど、押し潰されてもいない。

 

澪は自分の肩が固まっていたことに気づき、ゆっくり息を吐いた。

 

「息も止めない」

 

「はい……」

 

修さんはそれだけ言って、また黙った。

 

その沈黙がありがたかった。

 

騒がれたら、たぶんもっと手が震える。

 

表の細工が形になると、修さんは裏にバレッタ金具を合わせた。

 

「火で付ける方法もあるけど、金具ごと炙るとバネが弱ることがある。今回は穴を開けて、細い鋲で留める」

 

澪は金具を動かしてみた。

 

開く。

 

閉じる。

 

その動きが髪を挟む。

 

ここで雑にすると、使う時に困る。

 

澪が印をつけようとした瞬間、鑑定が表示を出した。

 

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バレッタ金具・取付位置確認

 分類:金具固定/裏面加工

 状態:現在の印位置は透かし模様の細い橋に近い

 危険:この位置で穴を開けると、使用時の曲げで割れる可能性あり

 注意:外側へずらしすぎると金具の開閉に干渉する

 注意:内側へ寄せすぎると髪に当たる面に段差が出る

 推奨:現在位置より約1mm内側

 推奨:透かし模様の支柱を避けること

 注意:穴開け後、裏面のバリを必ず落とすこと

 備考:カシメ後に金具の開閉確認が必要

----------------------------------

 

澪は、印をつけかけた手を止めた。

 

「ここ、駄目ですね」

 

修さんが見る。

 

「どうして?」

 

「たぶん、ここに穴を開けると、模様の細いところが負けます」

 

修さんは土台を横から見た。

 

指で透かし模様の細い橋を軽く押す。

 

「うん。そこは割れやすい。よく気づいたね」

 

澪は印を消し、少しだけ位置をずらした。

 

穴を開ける。

 

細い鋲を通す。

 

カシメる。

 

金具は固定されたが、そこで終わりではない。

 

裏に、小さなバリが残っている。

 

爪の裏にも、ほんの少し角が立っている。

 

銀線の端も、指の腹でなぞると、かすかに引っかかった。

 

「髪に使うものは、裏が大事だよ」

 

修さんが言う。

 

「表がきれいでも、裏で髪が引っかかったら駄目」

 

「はい」

 

「尖っているところは、全部敵だと思っていい」

 

「敵」

 

「敵だね」

 

澪はヤスリを持った。

 

磨く。

 

指でなぞる。

 

まだ少し引っかかる。

 

もう一度磨く。

 

またなぞる。

 

今度は金具の端が気になる。

 

そこも磨く。

 

鑑定は、髪に絡む危険がある小さなバリや磨き残しを拾ってくる。

 

澪はそのたびに手を止め、角度を変え、また磨いた。

 

地味な作業だった。

 

石を置いた時のような華やかさはない。

 

銀線を曲げた時の緊張もない。

 

けれど、この地味な作業を飛ばしたら、使う人の髪を傷める。

 

澪は、ノーラの前髪を思い出した。

 

泡石の粉で白くなった髪を、何度も耳にかけていた指。

 

セルマの布でまとめた髪。

 

リュシアが屋台の合間に結び直した髪。

 

前回のネックレスは、石を見せるものだった。

 

今回のバレッタは、使う人の髪に触れるものだった。

 

きれいなだけでは足りない。

 

完成したヘアバレッタは、作業台の上で静かに光っていた。

 

横長の透かし土台。

 

中央には、赤紫から青紫へ色が移るグラデーションストーン。

 

その周りを、細い銀線の唐草模様が囲んでいる。

 

小さな爪は石を邪魔しない位置で押さえ、裏の金具はカシメで固定されていた。

 

派手ではない。

 

けれど、安っぽくもない。

 

クラシカルで、落ち着いている。

 

修さんはまず表を見なかった。

 

裏返した。

 

金具を動かす。

 

指で裏をなぞる。

 

爪の高さを見る。

 

銀線の浮きを横から見る。

 

それから、静かに言った。

 

「うん。人に渡せるところまでは来てる」

 

澪は、自分が息を止めていたことに気づいた。

 

ゆっくり吐く。

 

修さんは続ける。

 

「裏がいいね。髪に当たるところをちゃんと見てる」

 

「本当ですか」

 

「まだ線は硬い。慣れていないところもある。でも雑じゃない」

 

澪はバレッタを見た。

 

線は少し硬い。

 

もっと上手な人なら、唐草模様はもっと自然に流れるのだろう。

 

でも、雑ではない。

 

その言葉は、思った以上に嬉しかった。

 

「これは、作った人間が最後まで触って確認したものだね」

 

修さんは、値段の話をしなかった。

 

どこかに置けるとも言わなかった。

 

ただ、人に渡せるところまで来ていると言った。

 

澪には、それが少し重く、少し嬉しかった。

 

澪は作業台の端で、こっそり完成品に鑑定をかけた。

 

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銀線細工のグラデーションバレッタ

 分類:髪飾り/実用品/一点物

 素材:銀、透かし土台、グラデーションストーン、バレッタ金具

 加工:透かし装飾、銀線装飾、爪留め、カシメ固定、裏面研磨

 形状:横長ヘアバレッタ

 石留め:安定

 金具:開閉良好

 裏面:髪に触れる面の処理は良好

 使用感:髪に引っかかりにくい

 評価:★★★★★

 微弱加護:作業守り:1

 加護効果:髪がほどけにくい

 加護効果:長時間の作業中、わずかに集中を保ちやすい

 加護効果:身につけた者の所作を少し整える

 注意:量産品ではなく一点物

 注意:現代側での一般販売は非推奨

 備考:実用品として高い完成度。使用者との相性確認は別途必要

----------------------------------

 

澪は固まった。

 

「……星、五つ」

 

「どうしたの」

 

修さんが顔を上げる。

 

澪は慌てて表示から目をそらした。

 

「いえ、ちょっと、自分の中の評価が予想より高くて」

 

修さんは笑わなかった。

 

「自分で作ったものを低く見すぎるのも、よくないよ」

 

「はい……」

 

澪はバレッタを見る。

 

鑑定上は、売り物になる。

 

しかも、加護つき。

 

作業守りの加護・微。

 

微、というところが逆に怖い。

 

派手な魔法ではない。

 

髪がほどけにくい。

 

集中を少し保ちやすい。

 

所作を少し整える。

 

小さな効果だ。

 

けれど、現代で普通に売っていいものではない気がした。

 

修さんは、売れるとは言わなかった。

 

人に渡せると言った。

 

その違いが、今の澪にはやけに大きく感じられた。

 

セルマか。

 

リュシアか。

 

ノーラか。

 

それとも、まずは自分で使って様子を見るべきか。

 

澪はバレッタを布で包み、小箱へ入れた。

 

その小箱をバッグにしまうと、バッグの中には白金インゴット一キログラムと、星五つ加護つきヘアバレッタが同居することになった。

 

澪はバッグを見下ろした。

 

「今日のバッグ、情報量が多すぎませんか」

 

修さんは聞こえなかったふりをした。

 

 

 

 

外へ出ると、午後の熱が歩道から上がっていた。

 

澪はバッグを肩にかけず、両手で持った。

 

一キログラムなら持てる。

 

持てるが、持ちたいとは少し違う。

 

白金インゴットそのものの重さより、それが法人名義でお金に変わるという事実の方が重かった。

 

「一人で持って歩くものじゃないね」

 

隣を歩く修さんが言った。

 

「ですよね」

 

「でも、誰かに任せきりにするものでもない」

 

澪はバッグの持ち手を握り直した。

 

「はい」

 

飯島さんの会社は、派手な買取店ではなかった。

 

受付は落ち着いていて、壁も床も静かな色でまとめられている。冷房が効いた空気の中に、紙と金属と事務機器の匂いが少しだけ混じっていた。

 

澪が名前を告げると、受付の人は確認してから応接室へ案内してくれた。

 

しばらくして、飯島さん本人ではなく、以前にも見たことのある担当者が入ってきた。

 

「本日も、白金インゴットのお持ち込みですね」

 

「はい。お願いします」

 

澪はバッグからケースを出した。

 

担当者は、澪が出した法人関係の控えを確認し、書類の番号と前回の記録を照らし合わせた。澪の前では、紙が一枚ずつ静かにめくられていく。大げさな声も、驚きもない。

 

その淡々とした手つきが、逆に緊張を強くした。

 

担当者は白金インゴットを検査用の台へ置き、刻印を確認した後、秤に乗せた。

 

数字が表示される。

 

澪はそれを見た。

 

ただの重さのはずなのに、現実がそこに固定されたように感じた。

 

異世界では、白い重砂だった。

 

金でも銀でもない、炉で扱いにくい、重くて邪魔な白い砂。

 

それが現代では、検査され、重さを測られ、書類になり、法人名義の資金になる。

 

担当者が明細を作っていく。

 

キーボードを打つ音。

 

プリンターが紙を吐き出す音。

 

確認のために置かれる印鑑。

 

その一つ一つが、澪には妙に大きく聞こえた。

 

「会社っぽいです」

 

明細を受け取った時、澪は思わずつぶやいた。

 

修さんは横で静かに答えた。

 

「会社だからね」

 

「うちは六畳間の会社ですから、まだ気持ちが……」

 

「気持ちより先に、お金は動くよ。だから記録を残す」

 

澪は、封筒に入れられた売却明細を両手で受け取った。

 

白金の重さが、紙の重さに変わったような気がした。

 

 

 

 

換金が終わると、ようやく本日の希望枠だった。

 

修さんが連れて行ってくれた店は、高級すぎないが、静かで落ち着いた場所だった。木のテーブルは手触りがよく、照明は明るすぎない。席に座ると、澪は初めて自分がかなり緊張していたことに気づいた。

 

白金インゴットが手元から離れ、明細になった。

 

その反動で、急にお腹が空いた。

 

「遠慮しなくていいよ」

 

修さんが言った。

 

澪はメニューを見た。

 

見て、もう一度見た。

 

「……遠慮しないと、けっこういきます」

 

「いいよ。今日は約束だから」

 

澪はしっかり注文した。

 

料理が来るまでの間、バッグの中の小箱が気になった。

 

星五つ。

 

加護つき。

 

人に渡せる。

 

でも、売っていいのか分からない。

 

修さんはお茶を一口飲み、静かに言った。

 

「白金は高いけど、持っているだけなら塊だよ」

 

澪は顔を上げた。

 

「形にするか、必要なところへ流すか。そこを間違えると、重いだけになる」

 

「今日のバレッタもですか」

 

「うん」

 

修さんは少し考えてから続けた。

 

「あれも、ただ飾るだけならもっと派手にできる。でも髪に使うなら、裏を整える方が大事になる」

 

澪は、作業台で裏を磨いた時間を思い出した。

 

何度も指でなぞった。

 

引っかかりを消した。

 

表からは見えない場所。

 

けれど、使う人には一番近い場所。

 

「人に渡せるものって、どう決めるんですか」

 

澪は聞いた。

 

修さんはすぐには答えなかった。

 

湯呑みを置き、少しだけ視線を落とす。

 

「自分が見ないふりをした場所がないか、かな」

 

澪は黙った。

 

見ないふりをした場所。

 

爪の浮き。

 

銀線の端。

 

金具の裏。

 

白金の出どころ。

 

法人名義の入金。

 

会計ソフトの入力。

 

見ないふりをしたら、後で必ず引っかかるものばかりだった。

 

料理が運ばれてくる。

 

澪は箸を持ち、ひとまず考えることをやめた。

 

まず食べる。

 

ひと口食べると、体の奥から力が戻ってきた。

 

「おいしいです」

 

「よかった」

 

「夏休みっぽいです」

 

「それはよかった」

 

「今日、ほぼ会社と彫金と白金でしたけど」

 

修さんは少しだけ笑った。

 

「ご飯は夏休みに入れていいと思うよ」

 

「じゃあ今日は、最後の一時間だけ夏休みです」

 

澪はそう言って、もう一口食べた。

 

その一時間は、たしかに少しだけ夏休みだった。

 

 

 

 

帰宅すると、現実が机の上で待っていた。

 

澪はバッグから封筒を取り出し、売却明細をファイルへ入れた。会計ソフトを開き、明細の数字を一つずつ入力する。法人銀行口座の入金予定を確認し、前回の記録の隣に今回の日付を書き足した。

 

彫金教室のメモ帳も開く。

 

グラデーションストーンの向き。

 

銀線の浮き。

 

カシメ位置。

 

裏面のバリ。

 

修さんの言葉。

 

見えるのと、直せるのは別。

 

澪はその一文の下に線を引こうとして、少し迷い、やめた。

 

強調しなくても、忘れそうになかった。

 

机の右側には、完成したヘアバレッタの小箱がある。

 

澪はふたを開け、もう一度だけ鑑定した。

 

評価は星五つ。

 

微弱加護は、作業守り。

 

注意欄には、現代側での一般販売は非推奨。

 

澪は両手で頭を抱えた。

 

「夏休み初日に、加護つきアクセサリーを作る予定はなかったんですけど」

 

スマホが鳴った。

 

友人からの遊びの誘いではない。

 

大学ポータルから、夏季休業期間中のシステム停止予定が届いていた。

 

続けて、母からメッセージが入る。

 

『暑いから、ちゃんと食べてる?』

 

SNSのおすすめ欄には、海とかき氷と、空港の写真が流れてくる。

 

澪はそれらを見てから、横にある会計ソフトへ視線を戻した。

 

手帳を開く。

 

入金確認。

 

仕入れ。

 

異世界側へ持ち込む品の整理。

 

冷風箱の説明書。

 

バレッタの扱い検討。

 

澪はペンを持ったまま、しばらく動かなかった。

 

休みの文字を探した。

 

なかった。

 

大学の夏休みは始まったばかりだった。

 

けれど澪の予定表には、休みという文字だけが、なぜか一行も見当たらなかった。




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