朝の光は、カーテンの隙間から細く入っていた。
七月の光は、朝からもう遠慮がない。白っぽくて、暑くなる予告のような明るさだった。
澪は寝ぼけたまま起き上がり、しばらく布団の上で固まった。
昨日のことを思い出したからだ。
修さんの工房。
グラデーションストーン。
銀線。
裏面のバリ。
白金インゴット。
飯島さんの会社。
会計ソフト。
そして、星五つの加護つきバレッタ。
澪は、ゆっくりと両手で顔を覆った。
「……夢じゃなかったですね」
夢なら、机の上にあの小箱はないはずだった。
けれど机の上には、布に包まれたヘアバレッタがきちんと置かれている。
澪は布団から出て、まず小さな器を取った。台所で水を注ぎ、こぼさないように両手で持って戻る。
同居の神様用の場所へ、水を置いた。
水面が、朝の光を受けて静かに揺れた。
澪は正座まではしなかったが、背筋だけは少し伸ばした。
手を合わせる。
パンパン。
乾いた音が、部屋に響いた。
「昨日、星五つの加護つきバレッタができました」
言ってから、澪は自分で首をかしげた。
「……報告でいいんですかね、これ」
返事はない。
いつものことだ。
「あと、現代側で一般販売非推奨って出たので、売るのはやめます」
また返事はない。
ただ、水面がやけに澄んで見えた。
澪は器をじっと見る。
「……今、笑ってません?」
水は何も答えない。
朝の光だけが、器の中で少しきらっと揺れた。
澪はしばらくそれを見ていたが、何か言い返されたわけでもないので、結局小さく息を吐いた。
「はい。朝ごはんにします」
誰に向けて言ったのか、自分でも少し分からなかった。
朝食を済ませると、澪は机の前に座った。
布に包んだ昨日のバレッタを、そっと広げる。
作業灯ではなく、朝の光の中で見ると、また違って見えた。赤紫から青紫へ移る石の色は、派手すぎないのに目を引く。透かし模様の土台と銀線は、まだ少し硬さが残っている。それでも、裏面は何度も磨いた。髪に引っかからないように、指の腹で確かめた。
澪は腕を組んだ。
きれいだ。
そして、面倒だ。
「一個だけ作ったのが間違いでした」
声に出してから、澪はすぐに自分で首を振った。
「いや、最初の一個ができないと話が始まらないんですけど」
セルマに渡せば、たぶんリュシアが気づく。
リュシアに渡せば、たぶんセルマが気づく。
ノーラには渡したい。泡石の粉で髪が白くなっていたし、第56話の土魔法の件もある。
エレナは、見たら絶対に欲しがる。
欲しがるというか、あの目になる。
「……配るしかないですね」
澪は引き出しを開けた。
昨日のために多めに買っておいた材料箱を机の上へ出す。ふたを開けると、透かし模様の土台が薄紙に包まれて並び、細い銀線が小さな輪になって収まっていた。グラデーションストーンは一つずつ小袋に分けてある。バレッタ金具と小さな爪、カシメ用の鋲は、混ざらないように小箱の中で区切られていた。
澪は一つずつ取り出し、昨日の作業台を思い出しながら配置していく。
土台の向き。
石の色。
銀線の長さ。
金具の位置。
「人数分、いける……?」
一瞬、そんな気がした。
けれど、昨日ひとつ作るだけで、どれだけ時間がかかったかを思い出す。
修さんの工房で、光にかざし、横から見て、裏を磨き、何度もやり直した。
普通に一つずつ作ったら、今日が終わる。
「普通に一個ずつ作ったら、今日は終わります」
澪は机の上の材料を見た。
それから、自分の右手を見た。
さらに、何もない空間を見た。
収納。
現代側ではありえない便利機能。
異世界小説でよくある、空間収納。
中で時間が止まるかどうかはともかく、ものを整理しておける。必要なものを取り出せる。形を保ったまま置いておける。
では、作業台も置けるのではないか。
澪は声を落とした。
「小説だと、こういう時って……並行作業とか、できるんですよね」
自分で言って、少し恥ずかしくなった。
けれど、昨日のバレッタが星五つになった時点で、もう恥ずかしいとか言っている場合ではない気もする。
澪は深呼吸した。
「まず、二つ」
机の上に一組。
収納の中に、もう一組。
澪は、収納の中に小さな作業台を置くように意識した。目の前の机と同じように、透かし土台を置き、石を置き、銀線を置く。実際には空間の中に収まっているだけなのに、澪の感覚では、半透明の作業台がもう一つ、頭の奥に浮かんだ。
「二つなら……たぶん、いけるはず」
一つ目は、手で触れる。
二つ目は、収納の中で位置を保つ。
グラデーションストーンの向きを見る。
机の上の石は、青紫を透かし穴の多い方へ。収納内の石も同じように回す。
銀線を曲げる。
机の上ではピンセットを持つ。収納の中では、手の代わりに意識を伸ばすような感覚で、銀線を少しずつ曲げる。
「頭の中に作業台が二つある……」
澪は思わずつぶやいた。
石の角度を見ると、収納内の石も見たくなる。
銀線を押さえると、収納内の銀線も動く。
鑑定が二つ分、薄く反応する。
「便利というより、脳みそが二か所で正座してる感じです」
その時、収納内の銀線が少し浮いた。
鑑定が、するりと表示を出す。
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収納内作業・銀線装飾
分類:同時制作/二並列
状態:二番作業台の銀線に浮きあり
浮き:約0.6mm
注意:現実側の手元に集中しすぎると収納内の保持精度が下がる
推奨:同一工程ごとに確認してから次へ進むこと
備考:同時進行は可能。ただし脳は一つ
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「脳は一つ、知ってます」
澪は即座に言った。
誰に返したのかは分からない。
ただ、鑑定表示にそう言われると、なぜか言い返したくなる。
澪は机の上の作業を一度止めた。収納内の銀線だけを意識し、浮いている部分を押さえ込まず、前後の曲線ごと少し戻す。
昨日、修さんに言われた。
線は押すと折れる。
逃がしながら曲げる。
浮いたところだけを押さえず、流れごと戻す。
収納内の銀線が、透かし土台に沿った。
澪は小さく息を吐いた。
それから、二つ分の爪を留め、カシメ位置を確認し、裏面を磨いた。机上のものを指でなぞり、収納内のものも同じ感覚でなぞる。収納内のバリは手触りではなく、鑑定の警告として見える。けれど、そこに意識を向けて磨くと、表示が薄く消える。
二つのバレッタが並んだ。
一つは机の上。
もう一つは収納から取り出したもの。
完全に同じではない。銀線の流れが少し違う。石の角度も、ほんの少しずれている。
でも、どちらも髪に使える。
澪は椅子にもたれた。
「二つなら、いけました」
達成感はある。
ただし、もう少し疲れている。
澪は麦茶を飲んでから、三つ目の材料を出した。
机の上に一組。
収納内に二組。
頭の中に、三つの作業台が並ぶ。
一つ目の石は、青紫が少し沈みそうだった。
二つ目は、爪が赤紫にかかりそうだった。
三つ目は、銀線の曲げが急すぎる。
鑑定の反応が、三方向から来る。
澪は眉間を押さえた。
「次、三つ……。急にうるさいです」
どれがどれか分からなくなる。
一番の石だったのか。
二番の銀線だったのか。
三番の爪だったのか。
澪は慌てて紙片を切り、小さく数字を書いた。机の上の材料に一番、収納内の作業台にも二番、三番と意識の中で札を置く。
「番号、大事。番号がないと、頭の中で迷子になります」
それから、やり方を変えた。
まず、石の向きだけを三つ見る。
一番、二番、三番。
次に銀線だけを三つ曲げる。
一番、二番、三番。
爪留めも、カシメも、裏面処理も、同じように工程ごとに進める。
全部を同時にやろうとすると、頭が詰まる。
同じ作業を三つ並べると、少しだけ見通しがよくなる。
三つ目の銀線だけは、どうしても硬さが残った。曲線に少し無理がある。けれど裏面はきちんと磨けた。爪も石を隠していない。金具も開閉する。
鑑定をかける。
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銀線細工のグラデーションバレッタ・三番
分類:髪飾り/実用品/一点物
加工:透かし装飾、銀線装飾、爪留め、カシメ固定、裏面研磨
状態:銀線の流れにわずかな硬さあり
裏面:髪に触れる面の処理は良好
評価:★★★★☆
微弱加護:作業守り:1
注意:一点物としては使用可能
備考:三並列制作としては安定
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澪は表示を見て、肩を回した。
「三つもできました……できましたけど、これ、便利というより集中力の分割払いです」
机の上には、完成したバレッタが増えていく。
でも、澪の集中力は減っていく。
便利と楽は違う。
澪は、それをかなり実感していた。
それでも、まだ足りない。
セルマ。
リュシア。
ノーラ。
エレナ。
配る人数を考えると、四つは必要だった。
澪は材料箱を見た。
まだ、いける。
「四つ……四つまで、いきます」
声に出すと、少しだけ覚悟が決まった。
机の上に一組、収納内に三組。
あるいは、収納の中に四つの小さな作業台が横並びになっている。
石の向きが四つ。
銀線が四つ。
爪が四つ。
裏面が四つ。
鑑定の反応が、一気に増えた。
一つは石座が高い。
一つは銀線が浮く。
一つはカシメ位置が危ない。
一つは裏面のバリが残る。
澪は全部を同時に直そうとして、手が止まった。
頭の中で、作業台がぐらりと傾くような感覚がした。
「待って。全部同時に直そうとすると無理です」
澪は目を閉じた。
全部を一度に見ない。
工程ごとに見る。
石の向きだけを四つ。
銀線だけを四つ。
爪留めだけを四つ。
カシメだけを四つ。
裏面処理だけを四つ。
そう意識した瞬間、収納の中に並んでいた作業台の輪郭が、少し整った。
鑑定が表示を出した。
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収納内作業・工程保持
分類:同時制作/四並列
状態:工程別管理へ移行中
効果:同一工程をまとめて処理すると安定性が上がる
注意:異なる工程を同時に進めると確認漏れが増える
注意:集中消耗が大きい
推奨:石位置、銀線、爪留め、裏面処理を工程ごとに区切ること
備考:並行思考の兆候あり
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「兆候」
澪はその言葉に少しだけ引っかかった。
けれど、今は考えている余裕がない。
表示に従い、やり方を変える。
石の向きだけを四つ見て、青紫が沈まないようにする。赤紫の中央に爪がかからないようにする。
銀線だけを四つ曲げる。浮いたところは前後ごと戻す。
爪留めだけを四つ進める。ひとつ、強く押しすぎた。澪は慌てて戻し、呼吸を整えた。
カシメ位置を四つ確認する。ひとつ、透かし模様の細い橋に近すぎる。鑑定が止めてくれた。印を消し、少しずらす。
裏面を四つ磨く。
指でなぞる。
収納内のものは、鑑定で引っかかりを見る。
見えたところを磨く。
また確認する。
時間の感覚が少し薄くなった。
けれど、ひとつずつ、確実に進む。
最後に四つ目の金具を開閉させた時、澪は机に手をついた。
「四つ……できました」
机の上には、バレッタが並んでいる。
昨日作ったものほど完璧ではない。
全部星五つではない。
でも、どれも使える。どれも裏面は処理してある。どれも髪に引っかからないよう確認した。
完全な量産品ではなかった。
同じように作ったはずなのに、銀線の流れが少しずつ違う。石の色の出方も違う。手仕事の揺らぎがある。
同時に作った一点物たち。
澪は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「便利ですけど、普通に疲れます」
それでも、少しだけ調子に乗った。
「五つも……いけるんでしょうか」
澪は材料箱へ手を伸ばした。
ふたを開ける。
同じ透かし土台がない。
グラデーションストーンの色味も、揃わない。青紫が強すぎるものと、淡橙が足りないものばかりになっている。
バレッタ金具も一つ足りない。
澪は、しばらく材料箱を見つめた。
そして、そっとふたを閉じた。
「……現実的な敗因」
五並列失敗。
理由は、能力の限界ではない。
材料不足。
なんというか、とても現実的だった。
澪は神様の水の器を見た。
「異世界小説なら、ここで素材が増えたりしませんか」
水面は、やけに澄んでいる。
増えない。
「しませんね。はい」
澪は素直にうなずいた。
完成したバレッタを机に並べると、なかなかの量に見えた。
昨日の星五つ加護つきの一本。
今日作った、二並列、三並列、四並列の中で仕上げたものたち。
それぞれ少しずつ違う。
澪は机に突っ伏した。
「収納、便利ですけど、普通に疲れます」
額を机につけたまま、ふと思う。
さっきの表示に、兆候と出ていた。
並行思考の兆候。
嫌な予感と、少しだけ好奇心が同時に来る。
澪はゆっくり顔を上げ、自分に鑑定をかけた。
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澪
分類:人間/大学生/代表取締役社長
状態:軽度疲労/集中消耗
技能:鑑定、収納、彫金、手仕事
新規発現:並行思考:芽あり
達成:二並列制作成功
達成:三並列制作成功
達成:四並列制作成功
未達:五並列制作
未達理由:材料不足
効果:複数の作業工程を同時に意識しやすくなる
効果:収納操作中の同時処理精度がわずかに向上する
注意:処理数が増えるほど疲労が急増する
注意:材料不足、集中切れ、確認漏れは防げない
備考:小説でよく見るやつの初期段階
備考:なお、現実は材料が尽きる
神様コメント:やったね澪ちゃん、作業が増えるよ
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澪は固まった。
「やったね澪ちゃん、作業が増えるよ、じゃないんですよ」
机に向かって言った。
それから、水の器を見る。
「増やしたくて生やしたんじゃないんですけど」
水面が妙に澄んでいる。
朝より澄んでいる気さえする。
「絶対、面白がってますよね」
返事はない。
ただ、神様コメントは残っている。
澪はしばらく表示を見ていたが、やがて両手で顔を覆った。
「生えた……」
生えた。
スキルか、スキルの芽か、よく分からないものが。
しかも名前が並行思考。
便利そうだ。
便利そうだが、注意欄が不穏だった。
処理数が増えるほど疲労が急増する。
材料不足、集中切れ、確認漏れは防げない。
非常に正しい。
非常に現実的。
そして、神様コメントがいらない。
澪は完成したバレッタを一つずつ布で包み、収納へ入れた。
誰にどれを渡すか考える。
セルマには落ち着いた青紫系。
リュシアには、客前や商談でも使えそうな赤紫が映えるもの。
ノーラには、柔らかい橙と青が入ったもの。
エレナには少し華やかなもの。
昨日の星五つは、まだ迷う。
自分で試すべきか。
誰かに渡すべきか。
澪は結局、全部収納へ入れた。
「配るだけです。今日は配るだけ」
言ってから、自分で少し不安になる。
こういう台詞は、だいたい配るだけで終わらない。
押し入れの向こうへ抜けると、異世界側の空気は現代とは違う暑さだった。
土と石の匂いが混じっている。
遠くで人の声がし、荷車の車輪が軋む音が聞こえた。
澪は収納の中のバレッタを確認しながら、まずセルマの工房へ向かった。
工房の中では、薬液の匂いと石粉の匂いが混じっていた。前より少し涼しい。冷風箱の試作品が隅で動いているからだ。けれど、完全に涼しいわけではない。水音がして、風が通り、作業場の熱気を少しだけ和らげている。
セルマは泡石板を見ていた。
髪はいつものようにまとめてあるが、額に汗が浮いている。
「おや、澪。今日は早いね」
「配り物に来ました」
「配り物?」
澪は収納から布包みを出し、セルマに差し出した。
セルマは少し意外そうに眉を上げる。
「私に?」
「はい。工房だと、髪が邪魔になりそうだったので」
セルマは包みを開けた。
青紫が落ち着いて光るバレッタが出てくる。
セルマは表を見てから、すぐに裏を見た。
澪は少し嬉しくなった。
修さんも、裏を見た。
職人は、やはり裏を見る。
「髪に引っかからないようにしてあるね」
「昨日、かなり磨きました」
「そうだろうね。表だけ見て作った感じじゃない」
セルマは髪を留め直して、バレッタを試した。
銀線の模様が、セルマの灰色がかった髪に静かに光った。
派手ではない。
けれど、工房の光の中でよく似合った。
澪がほっとした時、工房の隅で、ぽた、ぽた、と水の落ちる音が少し乱れた。
冷風箱の泡石板から、水が片側へ寄って落ちている。
セルマも気づいたが、手元の材料から目を離さずに言った。
「後で見るよ」
澪は、見てしまった。
見てしまったので、鑑定してしまった。
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泡石冷却板
分類:冷風箱部品/試作品
状態:右側水筋に目詰まりあり
状態:中央補強部に水の偏りあり
原因:細かな石粉と水垢の付着
注意:強く削ると泡石の穴が潰れる
推奨:水筋を洗い流し、補強部を削らず表面のみ整えること
----------------------------------
「……右側が詰まってます。あと、中央の補強の端で水が寄ってます」
セルマの手が止まった。
「見ただけで?」
「いえ、鑑定です」
「それでも早いよ」
澪は収納から水桶と細い布、それから前に使った小さな木べらを出した。
水を少しずつ流す。
泡石の穴を潰さないように、表面だけを布で撫でる。
補強部は削らず、縁の石粉だけを落とす。
水がどこを通っているかを見ながら、手元では布を動かし、収納内では予備の布と桶を待機させる。
冷風箱の下へ落ちる水の音が、ぽたぽたから、細く続く音に変わった。
セルマがじっと見ていた。
「今、いくつ同時に見てる?」
澪は手を止めずに答えた。
「水の通りと、泡石の穴と、補強の端です」
セルマが黙った。
水が均等に染み始める。
風が少しだけ冷たくなる。
セルマはバレッタをつけたまま、肩をすくめた。
「それを普通に言うのかい」
澪は首をかしげた。
「普通に、見えたので」
「うん。そこがもう普通じゃないね」
澪は聞かなかったことにした。
リュシアの屋台の準備場は、すでに忙しかった。
冷製スープの大きな器が並び、細い麦麺を冷やす水桶が置かれている。日よけ布の下でも暑い。井戸水で冷やした器に、手伝いの子がつゆを入れようとして、別の子が麺をほぐそうとして、少し渋滞していた。
リュシアは声を張っていた。
「器を先に出しな。麺を持ったまま止まらない。つゆはこぼすんじゃないよ」
澪を見ると、リュシアは片眉を上げた。
「今度は何を持ってきたんだい」
「配り物です」
澪は赤紫が映えるバレッタを出した。
リュシアは受け取ると、すぐに商人の目になった。
「これは客前でも使えるね」
「作業中にも使えると思います」
「そこがいいんだよ」
リュシアは手早く髪をまとめ、バレッタで留めた。顔周りがすっきりする。汗を拭く手が少し楽になったように見えた。
「うん。これはいい」
そう言った直後、手伝いの一人が困った声を出した。
「リュシアさん、麺がくっつきます」
見ると、冷やした細麺が桶の中で少し固まりかけている。別の子は器を探し、つゆを持った子は置き場所がなくて立ち止まっていた。
澪は、配るだけのつもりだった。
本当にそのつもりだった。
しかし、目の前で詰まっている。
「少しだけ手伝います」
リュシアが澪を見る。
「頼むよ」
澪は収納の中に器、麺、つゆ、薬味、布巾を分けて置いた。出す順番を意識する。鑑定で麺のくっつき具合を見る。つゆの冷え具合を見る。器の数を見る。
全部を同時にやろうとすると混乱する。
今朝と同じだ。
工程ごとに分ける。
まず器を並べる。
次に麺を少量ずつほぐして分ける。
つゆは後から注ぐ。
薬味は最後。
手伝いの子が迷わないよう、収納から出す位置を決める。
右から器。
中央に麺。
左につゆ。
最後に薬味。
澪は一つずつ手を動かしながら、収納から必要なものを出していった。
「器はここです。麺はこの量で。つゆは後で大丈夫です。薬味は最後に乗せてください」
手伝いの子たちの動きが、少しずつそろった。
立ち止まる人が減る。
麺がくっつく前に器へ移る。
つゆがこぼれにくい位置で注がれる。
リュシアが腕を組んで見ていた。
「澪、昨日までより手際がいいね」
「収納で分けたら分かりやすくなっただけです」
リュシアが笑った。
「それを普通とは言わないんだよ」
澪は器を並べながら、やはり聞かなかったことにした。
ノーラは、泡石板の前で真剣な顔をしていた。
作業場には石粉が薄く舞っている。日よけの布はあるが、熱気はある。ノーラの前髪は汗と石粉で少し重くなり、何度も頬へ落ちてきていた。
ノーラはそのたびに、手の甲で髪を避ける。
その手も石粉で白い。
澪は、柔らかい橙と青の入ったバレッタを取り出した。
「ノーラさん、これ」
ノーラは振り向いた。
そして固まった。
「私に、ですか」
「はい。泡石の粉が髪につくと大変なので」
ノーラは、恐る恐る受け取った。
まるで壊れものを渡されたような手つきだった。
「私が、こういうものを……」
「使うためのものですから」
澪がそう言うと、ノーラは少しだけ顔を上げた。
髪をまとめ、バレッタで留める。
前髪が落ちてこない。
ノーラはまばたきをした。
それから、少しだけ笑った。
「前が、見やすいです」
その言葉に、澪も嬉しくなる。
だが、目の前には泡石板が何枚もあった。
ノーラは追加の冷却板を作っているところだった。前回よりはずっと上手くなっている。けれど、一枚ずつ感覚を合わせているため、時間がかかっているようだった。
一枚目はよい。
二枚目は溝が浅い。
三枚目は片側に水が寄りそう。
澪は鑑定で、溝の深さと穴の潰れを見た。
ノーラが困った顔をする。
「同じつもりでやっているのですが、少しずつ違ってしまいます」
澪は今朝のことを思い出した。
机の上と収納内の作業台。
二並列。
三並列。
四並列。
同じ工程を並べる感覚。
「作業台を頭の中に並べて、一枚目の溝を、横の泡石にも重ねる感じです」
言ってから、自分でもかなり感覚的だと思った。
セルマが聞いたら、もっと具体的に言えと言われるかもしれない。
けれど、ノーラは真剣に聞いていた。
「一枚目を、横に……」
ノーラは泡石に手を置いた。
土魔法の気配が、石の表面に薄く広がる。
一枚目の波形を思い出す。
それを二枚目へ重ねるように、三枚目へも並べるように。
押し固めない。
削りすぎない。
水が通る細い筋を、横へ揃える。
完璧ではない。
けれど、さっきよりずっと近い。
ノーラが息を呑んだ。
「同じ形を、頭の中で横に並べる……」
「たぶん、そんな感じです」
澪は自信なくうなずいた。
ノーラはもう一度、泡石へ手を当てた。
バレッタで留めた髪は落ちてこない。
目元がよく見える。
その目は、さっきより少し明るかった。
リュシアの屋台近くへ戻ると、いつの間にか見慣れた護衛の姿があった。
その少し後ろに、エレナがいる。
きちんとした服装で、視察という名目にふさわしい顔をしている。
だが、視線はすでに澪の手元へ向いていた。
護衛はそれに気づいているのか、最初から半歩前へ出る準備をしていた。
「今日は何をしている」
エレナが言った。
短い。
けれど、興味が隠れていない。
澪は布包みを持ち直した。
「髪を留めるものを配っていました」
包みを少し開く。
透かし模様のバレッタが、日よけ布の下で光を受けた。
エレナの目が変わった。
「髪飾りか」
「はい。作業中に髪を留めるものです」
「見せろ」
エレナが一歩近づこうとした瞬間、護衛が半歩前へ出た。
「エレナ様、まず金具の確認を」
エレナはむっとした。
「噛まぬ」
「噛みませんが、引っかかります」
エレナは少し考えた。
「ならば確認しろ」
澪は、エレナ用に用意していた少し華やかなバレッタを出した。赤紫が明るく、青紫も深い。透かし模様は少しだけ華やかだが、裏面は昨日と同じようにきちんと磨いてある。
澪は裏返し、爪の高さを見せた。
金具を開閉する。
裏面を指でなぞる。
「ここは髪に当たるので、引っかからないように磨いてあります。爪も、石を押さえていますが、髪に触れる側には出ないようにしています」
護衛は真剣に見ていた。
澪は鑑定をかける。
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グラデーションバレッタ・華
分類:髪飾り/実用品/一点物
状態:金具開閉良好
裏面:髪に触れる面の処理は良好
使用感:髪に引っかかりにくい
注意:強く引っ張ると髪を傷める可能性あり
推奨:着脱は侍女または本人が鏡の前で行うこと
備考:お転婆行動の抑制効果はありません
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澪は最後の一行で固まった。
「そこは効果ないんですね」
護衛が真顔でうなずいた。
「そこが一番必要なのですが」
エレナが眉を寄せる。
「聞こえているぞ」
リュシアが横から言った。
「聞こえるように言ったんだよ」
エレナはさらにむっとした。
けれど視線はバレッタから離れない。
「つける」
護衛が即答する。
「鏡の前で」
「今だ」
「鏡の前で」
「なぜだ」
「前回、締めすぎました」
「今日はフタではない」
「髪でも、強く引けば痛みます」
エレナは少し考えた。
「では、強く引かぬ」
「その確認を鏡の前でします」
護衛の返答は淡々としていた。
澪は、護衛が慣れていると思った。
止め方が早い。
そして的確だった。
エレナは少し不満そうにしたが、バレッタは受け取った。
指先で触れようとして、護衛の視線だけで止まる。
「触らぬ」
護衛は黙っている。
「確認だ」
護衛はまだ黙っている。
エレナは少しだけ視線をそらした。
「……あとで確認する」
それでも、嬉しそうだった。
日が少し傾く頃には、澪は自分が何をしに来たのか、少し分からなくなっていた。
セルマの工房では、冷風箱の泡石板の目詰まりを直した。
リュシアの屋台では、冷製スープと細麺の提供手順を組み直した。
ノーラの作業場では、泡石板の溝を横に並べる感覚を一緒に試した。
エレナには、髪飾りの安全確認までした。
本人としては、バレッタを配りに来ただけだった。
本当に、そのつもりだった。
セルマが腕を組む。
「澪、今日、配りに来ただけだったんじゃないのかい」
澪は少し考えた。
「そのはずでした」
リュシアが笑う。
「そのはずで、ここまで片づけるのかい」
ノーラはバレッタで髪を留めたまま、尊敬の目で見ている。
「澪さん、すごいです」
「いえ、普通に見えたところを直しただけで……」
「それを普通と言うから驚かれるんだよ」
セルマが言った。
エレナは、髪に留めたバレッタを触ろうとして、護衛に視線だけで止められていた。
「触らぬ」
護衛は黙っている。
「確認だ」
護衛はまだ黙っている。
エレナは少し不満そうにしながらも、澪を見た。
「次は何を作る」
澪は一歩引いた。
「次、ですか」
「今日はこれだ。次もあるだろう」
なぜ当然のように次があるのか。
澪は周囲を見た。
セルマは否定しない。
リュシアは面白そうに笑っている。
ノーラは期待している。
エレナはもう次を待っている顔だった。
澪は悟った。
これは褒められているのではない。
仕事が増える流れだ。
少しだけ一人になったところで、澪は壁際に寄った。
手元のメモを開く。
今日持ってきたのは、バレッタを渡す相手の候補を書いた紙だったはずだ。
だが、いつの間にか余白に文字が増えている。
冷風箱の泡石板は、水筋の清掃手順を書いた方がいい。
屋台の冷製スープと細麺は、器、麺、つゆ、薬味の置き順を決めた方がいい。
泡石板の溝は、ノーラ用に深さの見本を作った方がいい。
バレッタは、追加材料を買い足した方がいい。
澪はメモを閉じた。
そして、自分に鑑定をかけた。
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澪
分類:人間/大学生/代表取締役社長
状態:疲労/仕事増加予兆
技能:鑑定、収納、彫金、手仕事
技能成長:鑑定:精度上昇
技能成長:収納:工程保持に適性あり
技能成長:手仕事:安定性向上
新規発現:並行思考:芽あり
効果:複数の作業手順を同時に保持しやすい
注意:本人の自覚が薄い
注意:便利に使われすぎる危険あり
達成:二並列制作成功
達成:三並列制作成功
達成:四並列制作成功
未達:五並列制作
未達理由:材料不足
備考:配達のつもりが巡回修理になりました
神様コメント:お仕事できる子になりました
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澪はしばらく黙った。
それから、小さく言った。
「お仕事できる子になりました、じゃないんですよ」
返事はない。
ここは異世界側で、朝の水の器は部屋に置いてきたはずだ。
それなのに、なぜか神様が見ている気がする。
「私は配りに来ただけなんです」
メモを見る。
増えた予定を見る。
収納の中には、空になりかけた材料箱がある。
澪は深く息を吐いた。
レベルアップした澪は、たしかに凄かった。
ただし、一番凄いのは、増えた仕事の量だった。