押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第57話 やったね澪ちゃん、作業が増えるよ

 

朝の光は、カーテンの隙間から細く入っていた。

 

七月の光は、朝からもう遠慮がない。白っぽくて、暑くなる予告のような明るさだった。

 

澪は寝ぼけたまま起き上がり、しばらく布団の上で固まった。

 

昨日のことを思い出したからだ。

 

修さんの工房。

 

グラデーションストーン。

 

銀線。

 

裏面のバリ。

 

白金インゴット。

 

飯島さんの会社。

 

会計ソフト。

 

そして、星五つの加護つきバレッタ。

 

澪は、ゆっくりと両手で顔を覆った。

 

「……夢じゃなかったですね」

 

夢なら、机の上にあの小箱はないはずだった。

 

けれど机の上には、布に包まれたヘアバレッタがきちんと置かれている。

 

澪は布団から出て、まず小さな器を取った。台所で水を注ぎ、こぼさないように両手で持って戻る。

 

同居の神様用の場所へ、水を置いた。

 

水面が、朝の光を受けて静かに揺れた。

 

澪は正座まではしなかったが、背筋だけは少し伸ばした。

 

手を合わせる。

 

パンパン。

 

乾いた音が、部屋に響いた。

 

「昨日、星五つの加護つきバレッタができました」

 

言ってから、澪は自分で首をかしげた。

 

「……報告でいいんですかね、これ」

 

返事はない。

 

いつものことだ。

 

「あと、現代側で一般販売非推奨って出たので、売るのはやめます」

 

また返事はない。

 

ただ、水面がやけに澄んで見えた。

 

澪は器をじっと見る。

 

「……今、笑ってません?」

 

水は何も答えない。

 

朝の光だけが、器の中で少しきらっと揺れた。

 

澪はしばらくそれを見ていたが、何か言い返されたわけでもないので、結局小さく息を吐いた。

 

「はい。朝ごはんにします」

 

誰に向けて言ったのか、自分でも少し分からなかった。

 

 

 

 

 

朝食を済ませると、澪は机の前に座った。

 

布に包んだ昨日のバレッタを、そっと広げる。

 

作業灯ではなく、朝の光の中で見ると、また違って見えた。赤紫から青紫へ移る石の色は、派手すぎないのに目を引く。透かし模様の土台と銀線は、まだ少し硬さが残っている。それでも、裏面は何度も磨いた。髪に引っかからないように、指の腹で確かめた。

 

澪は腕を組んだ。

 

きれいだ。

 

そして、面倒だ。

 

「一個だけ作ったのが間違いでした」

 

声に出してから、澪はすぐに自分で首を振った。

 

「いや、最初の一個ができないと話が始まらないんですけど」

 

セルマに渡せば、たぶんリュシアが気づく。

 

リュシアに渡せば、たぶんセルマが気づく。

 

ノーラには渡したい。泡石の粉で髪が白くなっていたし、第56話の土魔法の件もある。

 

エレナは、見たら絶対に欲しがる。

 

欲しがるというか、あの目になる。

 

「……配るしかないですね」

 

澪は引き出しを開けた。

 

昨日のために多めに買っておいた材料箱を机の上へ出す。ふたを開けると、透かし模様の土台が薄紙に包まれて並び、細い銀線が小さな輪になって収まっていた。グラデーションストーンは一つずつ小袋に分けてある。バレッタ金具と小さな爪、カシメ用の鋲は、混ざらないように小箱の中で区切られていた。

 

澪は一つずつ取り出し、昨日の作業台を思い出しながら配置していく。

 

土台の向き。

 

石の色。

 

銀線の長さ。

 

金具の位置。

 

「人数分、いける……?」

 

一瞬、そんな気がした。

 

けれど、昨日ひとつ作るだけで、どれだけ時間がかかったかを思い出す。

 

修さんの工房で、光にかざし、横から見て、裏を磨き、何度もやり直した。

 

普通に一つずつ作ったら、今日が終わる。

 

「普通に一個ずつ作ったら、今日は終わります」

 

澪は机の上の材料を見た。

 

それから、自分の右手を見た。

 

さらに、何もない空間を見た。

 

収納。

 

現代側ではありえない便利機能。

 

異世界小説でよくある、空間収納。

 

中で時間が止まるかどうかはともかく、ものを整理しておける。必要なものを取り出せる。形を保ったまま置いておける。

 

では、作業台も置けるのではないか。

 

澪は声を落とした。

 

「小説だと、こういう時って……並行作業とか、できるんですよね」

 

自分で言って、少し恥ずかしくなった。

 

けれど、昨日のバレッタが星五つになった時点で、もう恥ずかしいとか言っている場合ではない気もする。

 

澪は深呼吸した。

 

「まず、二つ」

 

机の上に一組。

 

収納の中に、もう一組。

 

澪は、収納の中に小さな作業台を置くように意識した。目の前の机と同じように、透かし土台を置き、石を置き、銀線を置く。実際には空間の中に収まっているだけなのに、澪の感覚では、半透明の作業台がもう一つ、頭の奥に浮かんだ。

 

「二つなら……たぶん、いけるはず」

 

一つ目は、手で触れる。

 

二つ目は、収納の中で位置を保つ。

 

グラデーションストーンの向きを見る。

 

机の上の石は、青紫を透かし穴の多い方へ。収納内の石も同じように回す。

 

銀線を曲げる。

 

机の上ではピンセットを持つ。収納の中では、手の代わりに意識を伸ばすような感覚で、銀線を少しずつ曲げる。

 

「頭の中に作業台が二つある……」

 

澪は思わずつぶやいた。

 

石の角度を見ると、収納内の石も見たくなる。

 

銀線を押さえると、収納内の銀線も動く。

 

鑑定が二つ分、薄く反応する。

 

「便利というより、脳みそが二か所で正座してる感じです」

 

その時、収納内の銀線が少し浮いた。

 

鑑定が、するりと表示を出す。

 

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収納内作業・銀線装飾

 分類:同時制作/二並列

 状態:二番作業台の銀線に浮きあり

 浮き:約0.6mm

 注意:現実側の手元に集中しすぎると収納内の保持精度が下がる

 推奨:同一工程ごとに確認してから次へ進むこと

 備考:同時進行は可能。ただし脳は一つ

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「脳は一つ、知ってます」

 

澪は即座に言った。

 

誰に返したのかは分からない。

 

ただ、鑑定表示にそう言われると、なぜか言い返したくなる。

 

澪は机の上の作業を一度止めた。収納内の銀線だけを意識し、浮いている部分を押さえ込まず、前後の曲線ごと少し戻す。

 

昨日、修さんに言われた。

 

線は押すと折れる。

 

逃がしながら曲げる。

 

浮いたところだけを押さえず、流れごと戻す。

 

収納内の銀線が、透かし土台に沿った。

 

澪は小さく息を吐いた。

 

それから、二つ分の爪を留め、カシメ位置を確認し、裏面を磨いた。机上のものを指でなぞり、収納内のものも同じ感覚でなぞる。収納内のバリは手触りではなく、鑑定の警告として見える。けれど、そこに意識を向けて磨くと、表示が薄く消える。

 

二つのバレッタが並んだ。

 

一つは机の上。

 

もう一つは収納から取り出したもの。

 

完全に同じではない。銀線の流れが少し違う。石の角度も、ほんの少しずれている。

 

でも、どちらも髪に使える。

 

澪は椅子にもたれた。

 

「二つなら、いけました」

 

達成感はある。

 

ただし、もう少し疲れている。

 

 

 

 

 

澪は麦茶を飲んでから、三つ目の材料を出した。

 

机の上に一組。

 

収納内に二組。

 

頭の中に、三つの作業台が並ぶ。

 

一つ目の石は、青紫が少し沈みそうだった。

 

二つ目は、爪が赤紫にかかりそうだった。

 

三つ目は、銀線の曲げが急すぎる。

 

鑑定の反応が、三方向から来る。

 

澪は眉間を押さえた。

 

「次、三つ……。急にうるさいです」

 

どれがどれか分からなくなる。

 

一番の石だったのか。

 

二番の銀線だったのか。

 

三番の爪だったのか。

 

澪は慌てて紙片を切り、小さく数字を書いた。机の上の材料に一番、収納内の作業台にも二番、三番と意識の中で札を置く。

 

「番号、大事。番号がないと、頭の中で迷子になります」

 

それから、やり方を変えた。

 

まず、石の向きだけを三つ見る。

 

一番、二番、三番。

 

次に銀線だけを三つ曲げる。

 

一番、二番、三番。

 

爪留めも、カシメも、裏面処理も、同じように工程ごとに進める。

 

全部を同時にやろうとすると、頭が詰まる。

 

同じ作業を三つ並べると、少しだけ見通しがよくなる。

 

三つ目の銀線だけは、どうしても硬さが残った。曲線に少し無理がある。けれど裏面はきちんと磨けた。爪も石を隠していない。金具も開閉する。

 

鑑定をかける。

 

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銀線細工のグラデーションバレッタ・三番

 分類:髪飾り/実用品/一点物

 加工:透かし装飾、銀線装飾、爪留め、カシメ固定、裏面研磨

 状態:銀線の流れにわずかな硬さあり

 裏面:髪に触れる面の処理は良好

 評価:★★★★☆

 微弱加護:作業守り:1

 注意:一点物としては使用可能

 備考:三並列制作としては安定

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澪は表示を見て、肩を回した。

 

「三つもできました……できましたけど、これ、便利というより集中力の分割払いです」

 

机の上には、完成したバレッタが増えていく。

 

でも、澪の集中力は減っていく。

 

便利と楽は違う。

 

澪は、それをかなり実感していた。

 

それでも、まだ足りない。

 

セルマ。

 

リュシア。

 

ノーラ。

 

エレナ。

 

配る人数を考えると、四つは必要だった。

 

澪は材料箱を見た。

 

まだ、いける。

 

「四つ……四つまで、いきます」

 

声に出すと、少しだけ覚悟が決まった。

 

机の上に一組、収納内に三組。

 

あるいは、収納の中に四つの小さな作業台が横並びになっている。

 

石の向きが四つ。

 

銀線が四つ。

 

爪が四つ。

 

裏面が四つ。

 

鑑定の反応が、一気に増えた。

 

一つは石座が高い。

 

一つは銀線が浮く。

 

一つはカシメ位置が危ない。

 

一つは裏面のバリが残る。

 

澪は全部を同時に直そうとして、手が止まった。

 

頭の中で、作業台がぐらりと傾くような感覚がした。

 

「待って。全部同時に直そうとすると無理です」

 

澪は目を閉じた。

 

全部を一度に見ない。

 

工程ごとに見る。

 

石の向きだけを四つ。

 

銀線だけを四つ。

 

爪留めだけを四つ。

 

カシメだけを四つ。

 

裏面処理だけを四つ。

 

そう意識した瞬間、収納の中に並んでいた作業台の輪郭が、少し整った。

 

鑑定が表示を出した。

 

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収納内作業・工程保持

 分類:同時制作/四並列

 状態:工程別管理へ移行中

 効果:同一工程をまとめて処理すると安定性が上がる

 注意:異なる工程を同時に進めると確認漏れが増える

 注意:集中消耗が大きい

 推奨:石位置、銀線、爪留め、裏面処理を工程ごとに区切ること

 備考:並行思考の兆候あり

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「兆候」

 

澪はその言葉に少しだけ引っかかった。

 

けれど、今は考えている余裕がない。

 

表示に従い、やり方を変える。

 

石の向きだけを四つ見て、青紫が沈まないようにする。赤紫の中央に爪がかからないようにする。

 

銀線だけを四つ曲げる。浮いたところは前後ごと戻す。

 

爪留めだけを四つ進める。ひとつ、強く押しすぎた。澪は慌てて戻し、呼吸を整えた。

 

カシメ位置を四つ確認する。ひとつ、透かし模様の細い橋に近すぎる。鑑定が止めてくれた。印を消し、少しずらす。

 

裏面を四つ磨く。

 

指でなぞる。

 

収納内のものは、鑑定で引っかかりを見る。

 

見えたところを磨く。

 

また確認する。

 

時間の感覚が少し薄くなった。

 

けれど、ひとつずつ、確実に進む。

 

最後に四つ目の金具を開閉させた時、澪は机に手をついた。

 

「四つ……できました」

 

机の上には、バレッタが並んでいる。

 

昨日作ったものほど完璧ではない。

 

全部星五つではない。

 

でも、どれも使える。どれも裏面は処理してある。どれも髪に引っかからないよう確認した。

 

完全な量産品ではなかった。

 

同じように作ったはずなのに、銀線の流れが少しずつ違う。石の色の出方も違う。手仕事の揺らぎがある。

 

同時に作った一点物たち。

 

澪は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。

 

「便利ですけど、普通に疲れます」

 

それでも、少しだけ調子に乗った。

 

「五つも……いけるんでしょうか」

 

澪は材料箱へ手を伸ばした。

 

ふたを開ける。

 

同じ透かし土台がない。

 

グラデーションストーンの色味も、揃わない。青紫が強すぎるものと、淡橙が足りないものばかりになっている。

 

バレッタ金具も一つ足りない。

 

澪は、しばらく材料箱を見つめた。

 

そして、そっとふたを閉じた。

 

「……現実的な敗因」

 

五並列失敗。

 

理由は、能力の限界ではない。

 

材料不足。

 

なんというか、とても現実的だった。

 

澪は神様の水の器を見た。

 

「異世界小説なら、ここで素材が増えたりしませんか」

 

水面は、やけに澄んでいる。

 

増えない。

 

「しませんね。はい」

 

澪は素直にうなずいた。

 

 

 

 

 

完成したバレッタを机に並べると、なかなかの量に見えた。

 

昨日の星五つ加護つきの一本。

 

今日作った、二並列、三並列、四並列の中で仕上げたものたち。

 

それぞれ少しずつ違う。

 

澪は机に突っ伏した。

 

「収納、便利ですけど、普通に疲れます」

 

額を机につけたまま、ふと思う。

 

さっきの表示に、兆候と出ていた。

 

並行思考の兆候。

 

嫌な予感と、少しだけ好奇心が同時に来る。

 

澪はゆっくり顔を上げ、自分に鑑定をかけた。

 

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 分類:人間/大学生/代表取締役社長

 状態:軽度疲労/集中消耗

 技能:鑑定、収納、彫金、手仕事

 新規発現:並行思考:芽あり

 達成:二並列制作成功

 達成:三並列制作成功

 達成:四並列制作成功

 未達:五並列制作

 未達理由:材料不足

 効果:複数の作業工程を同時に意識しやすくなる

 効果:収納操作中の同時処理精度がわずかに向上する

 注意:処理数が増えるほど疲労が急増する

 注意:材料不足、集中切れ、確認漏れは防げない

 備考:小説でよく見るやつの初期段階

 備考:なお、現実は材料が尽きる

 神様コメント:やったね澪ちゃん、作業が増えるよ

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澪は固まった。

 

「やったね澪ちゃん、作業が増えるよ、じゃないんですよ」

 

机に向かって言った。

 

それから、水の器を見る。

 

「増やしたくて生やしたんじゃないんですけど」

 

水面が妙に澄んでいる。

 

朝より澄んでいる気さえする。

 

「絶対、面白がってますよね」

 

返事はない。

 

ただ、神様コメントは残っている。

 

澪はしばらく表示を見ていたが、やがて両手で顔を覆った。

 

「生えた……」

 

生えた。

 

スキルか、スキルの芽か、よく分からないものが。

 

しかも名前が並行思考。

 

便利そうだ。

 

便利そうだが、注意欄が不穏だった。

 

処理数が増えるほど疲労が急増する。

 

材料不足、集中切れ、確認漏れは防げない。

 

非常に正しい。

 

非常に現実的。

 

そして、神様コメントがいらない。

 

澪は完成したバレッタを一つずつ布で包み、収納へ入れた。

 

誰にどれを渡すか考える。

 

セルマには落ち着いた青紫系。

 

リュシアには、客前や商談でも使えそうな赤紫が映えるもの。

 

ノーラには、柔らかい橙と青が入ったもの。

 

エレナには少し華やかなもの。

 

昨日の星五つは、まだ迷う。

 

自分で試すべきか。

 

誰かに渡すべきか。

 

澪は結局、全部収納へ入れた。

 

「配るだけです。今日は配るだけ」

 

言ってから、自分で少し不安になる。

 

こういう台詞は、だいたい配るだけで終わらない。

 

 

 

 

 

押し入れの向こうへ抜けると、異世界側の空気は現代とは違う暑さだった。

 

土と石の匂いが混じっている。

 

遠くで人の声がし、荷車の車輪が軋む音が聞こえた。

 

澪は収納の中のバレッタを確認しながら、まずセルマの工房へ向かった。

 

工房の中では、薬液の匂いと石粉の匂いが混じっていた。前より少し涼しい。冷風箱の試作品が隅で動いているからだ。けれど、完全に涼しいわけではない。水音がして、風が通り、作業場の熱気を少しだけ和らげている。

 

セルマは泡石板を見ていた。

 

髪はいつものようにまとめてあるが、額に汗が浮いている。

 

「おや、澪。今日は早いね」

 

「配り物に来ました」

 

「配り物?」

 

澪は収納から布包みを出し、セルマに差し出した。

 

セルマは少し意外そうに眉を上げる。

 

「私に?」

 

「はい。工房だと、髪が邪魔になりそうだったので」

 

セルマは包みを開けた。

 

青紫が落ち着いて光るバレッタが出てくる。

 

セルマは表を見てから、すぐに裏を見た。

 

澪は少し嬉しくなった。

 

修さんも、裏を見た。

 

職人は、やはり裏を見る。

 

「髪に引っかからないようにしてあるね」

 

「昨日、かなり磨きました」

 

「そうだろうね。表だけ見て作った感じじゃない」

 

セルマは髪を留め直して、バレッタを試した。

 

銀線の模様が、セルマの灰色がかった髪に静かに光った。

 

派手ではない。

 

けれど、工房の光の中でよく似合った。

 

澪がほっとした時、工房の隅で、ぽた、ぽた、と水の落ちる音が少し乱れた。

 

冷風箱の泡石板から、水が片側へ寄って落ちている。

 

セルマも気づいたが、手元の材料から目を離さずに言った。

 

「後で見るよ」

 

澪は、見てしまった。

 

見てしまったので、鑑定してしまった。

 

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泡石冷却板

 分類:冷風箱部品/試作品

 状態:右側水筋に目詰まりあり

 状態:中央補強部に水の偏りあり

 原因:細かな石粉と水垢の付着

 注意:強く削ると泡石の穴が潰れる

 推奨:水筋を洗い流し、補強部を削らず表面のみ整えること

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「……右側が詰まってます。あと、中央の補強の端で水が寄ってます」

 

セルマの手が止まった。

 

「見ただけで?」

 

「いえ、鑑定です」

 

「それでも早いよ」

 

澪は収納から水桶と細い布、それから前に使った小さな木べらを出した。

 

水を少しずつ流す。

 

泡石の穴を潰さないように、表面だけを布で撫でる。

 

補強部は削らず、縁の石粉だけを落とす。

 

水がどこを通っているかを見ながら、手元では布を動かし、収納内では予備の布と桶を待機させる。

 

冷風箱の下へ落ちる水の音が、ぽたぽたから、細く続く音に変わった。

 

セルマがじっと見ていた。

 

「今、いくつ同時に見てる?」

 

澪は手を止めずに答えた。

 

「水の通りと、泡石の穴と、補強の端です」

 

セルマが黙った。

 

水が均等に染み始める。

 

風が少しだけ冷たくなる。

 

セルマはバレッタをつけたまま、肩をすくめた。

 

「それを普通に言うのかい」

 

澪は首をかしげた。

 

「普通に、見えたので」

 

「うん。そこがもう普通じゃないね」

 

澪は聞かなかったことにした。

 

 

 

 

 

リュシアの屋台の準備場は、すでに忙しかった。

 

冷製スープの大きな器が並び、細い麦麺を冷やす水桶が置かれている。日よけ布の下でも暑い。井戸水で冷やした器に、手伝いの子がつゆを入れようとして、別の子が麺をほぐそうとして、少し渋滞していた。

 

リュシアは声を張っていた。

 

「器を先に出しな。麺を持ったまま止まらない。つゆはこぼすんじゃないよ」

 

澪を見ると、リュシアは片眉を上げた。

 

「今度は何を持ってきたんだい」

 

「配り物です」

 

澪は赤紫が映えるバレッタを出した。

 

リュシアは受け取ると、すぐに商人の目になった。

 

「これは客前でも使えるね」

 

「作業中にも使えると思います」

 

「そこがいいんだよ」

 

リュシアは手早く髪をまとめ、バレッタで留めた。顔周りがすっきりする。汗を拭く手が少し楽になったように見えた。

 

「うん。これはいい」

 

そう言った直後、手伝いの一人が困った声を出した。

 

「リュシアさん、麺がくっつきます」

 

見ると、冷やした細麺が桶の中で少し固まりかけている。別の子は器を探し、つゆを持った子は置き場所がなくて立ち止まっていた。

 

澪は、配るだけのつもりだった。

 

本当にそのつもりだった。

 

しかし、目の前で詰まっている。

 

「少しだけ手伝います」

 

リュシアが澪を見る。

 

「頼むよ」

 

澪は収納の中に器、麺、つゆ、薬味、布巾を分けて置いた。出す順番を意識する。鑑定で麺のくっつき具合を見る。つゆの冷え具合を見る。器の数を見る。

 

全部を同時にやろうとすると混乱する。

 

今朝と同じだ。

 

工程ごとに分ける。

 

まず器を並べる。

 

次に麺を少量ずつほぐして分ける。

 

つゆは後から注ぐ。

 

薬味は最後。

 

手伝いの子が迷わないよう、収納から出す位置を決める。

 

右から器。

 

中央に麺。

 

左につゆ。

 

最後に薬味。

 

澪は一つずつ手を動かしながら、収納から必要なものを出していった。

 

「器はここです。麺はこの量で。つゆは後で大丈夫です。薬味は最後に乗せてください」

 

手伝いの子たちの動きが、少しずつそろった。

 

立ち止まる人が減る。

 

麺がくっつく前に器へ移る。

 

つゆがこぼれにくい位置で注がれる。

 

リュシアが腕を組んで見ていた。

 

「澪、昨日までより手際がいいね」

 

「収納で分けたら分かりやすくなっただけです」

 

リュシアが笑った。

 

「それを普通とは言わないんだよ」

 

澪は器を並べながら、やはり聞かなかったことにした。

 

 

 

 

 

ノーラは、泡石板の前で真剣な顔をしていた。

 

作業場には石粉が薄く舞っている。日よけの布はあるが、熱気はある。ノーラの前髪は汗と石粉で少し重くなり、何度も頬へ落ちてきていた。

 

ノーラはそのたびに、手の甲で髪を避ける。

 

その手も石粉で白い。

 

澪は、柔らかい橙と青の入ったバレッタを取り出した。

 

「ノーラさん、これ」

 

ノーラは振り向いた。

 

そして固まった。

 

「私に、ですか」

 

「はい。泡石の粉が髪につくと大変なので」

 

ノーラは、恐る恐る受け取った。

 

まるで壊れものを渡されたような手つきだった。

 

「私が、こういうものを……」

 

「使うためのものですから」

 

澪がそう言うと、ノーラは少しだけ顔を上げた。

 

髪をまとめ、バレッタで留める。

 

前髪が落ちてこない。

 

ノーラはまばたきをした。

 

それから、少しだけ笑った。

 

「前が、見やすいです」

 

その言葉に、澪も嬉しくなる。

 

だが、目の前には泡石板が何枚もあった。

 

ノーラは追加の冷却板を作っているところだった。前回よりはずっと上手くなっている。けれど、一枚ずつ感覚を合わせているため、時間がかかっているようだった。

 

一枚目はよい。

 

二枚目は溝が浅い。

 

三枚目は片側に水が寄りそう。

 

澪は鑑定で、溝の深さと穴の潰れを見た。

 

ノーラが困った顔をする。

 

「同じつもりでやっているのですが、少しずつ違ってしまいます」

 

澪は今朝のことを思い出した。

 

机の上と収納内の作業台。

 

二並列。

 

三並列。

 

四並列。

 

同じ工程を並べる感覚。

 

「作業台を頭の中に並べて、一枚目の溝を、横の泡石にも重ねる感じです」

 

言ってから、自分でもかなり感覚的だと思った。

 

セルマが聞いたら、もっと具体的に言えと言われるかもしれない。

 

けれど、ノーラは真剣に聞いていた。

 

「一枚目を、横に……」

 

ノーラは泡石に手を置いた。

 

土魔法の気配が、石の表面に薄く広がる。

 

一枚目の波形を思い出す。

 

それを二枚目へ重ねるように、三枚目へも並べるように。

 

押し固めない。

 

削りすぎない。

 

水が通る細い筋を、横へ揃える。

 

完璧ではない。

 

けれど、さっきよりずっと近い。

 

ノーラが息を呑んだ。

 

「同じ形を、頭の中で横に並べる……」

 

「たぶん、そんな感じです」

 

澪は自信なくうなずいた。

 

ノーラはもう一度、泡石へ手を当てた。

 

バレッタで留めた髪は落ちてこない。

 

目元がよく見える。

 

その目は、さっきより少し明るかった。

 

 

 

 

 

リュシアの屋台近くへ戻ると、いつの間にか見慣れた護衛の姿があった。

 

その少し後ろに、エレナがいる。

 

きちんとした服装で、視察という名目にふさわしい顔をしている。

 

だが、視線はすでに澪の手元へ向いていた。

 

護衛はそれに気づいているのか、最初から半歩前へ出る準備をしていた。

 

「今日は何をしている」

 

エレナが言った。

 

短い。

 

けれど、興味が隠れていない。

 

澪は布包みを持ち直した。

 

「髪を留めるものを配っていました」

 

包みを少し開く。

 

透かし模様のバレッタが、日よけ布の下で光を受けた。

 

エレナの目が変わった。

 

「髪飾りか」

 

「はい。作業中に髪を留めるものです」

 

「見せろ」

 

エレナが一歩近づこうとした瞬間、護衛が半歩前へ出た。

 

「エレナ様、まず金具の確認を」

 

エレナはむっとした。

 

「噛まぬ」

 

「噛みませんが、引っかかります」

 

エレナは少し考えた。

 

「ならば確認しろ」

 

澪は、エレナ用に用意していた少し華やかなバレッタを出した。赤紫が明るく、青紫も深い。透かし模様は少しだけ華やかだが、裏面は昨日と同じようにきちんと磨いてある。

 

澪は裏返し、爪の高さを見せた。

 

金具を開閉する。

 

裏面を指でなぞる。

 

「ここは髪に当たるので、引っかからないように磨いてあります。爪も、石を押さえていますが、髪に触れる側には出ないようにしています」

 

護衛は真剣に見ていた。

 

澪は鑑定をかける。

 

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グラデーションバレッタ・華

 分類:髪飾り/実用品/一点物

 状態:金具開閉良好

 裏面:髪に触れる面の処理は良好

 使用感:髪に引っかかりにくい

 注意:強く引っ張ると髪を傷める可能性あり

 推奨:着脱は侍女または本人が鏡の前で行うこと

 備考:お転婆行動の抑制効果はありません

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澪は最後の一行で固まった。

 

「そこは効果ないんですね」

 

護衛が真顔でうなずいた。

 

「そこが一番必要なのですが」

 

エレナが眉を寄せる。

 

「聞こえているぞ」

 

リュシアが横から言った。

 

「聞こえるように言ったんだよ」

 

エレナはさらにむっとした。

 

けれど視線はバレッタから離れない。

 

「つける」

 

護衛が即答する。

 

「鏡の前で」

 

「今だ」

 

「鏡の前で」

 

「なぜだ」

 

「前回、締めすぎました」

 

「今日はフタではない」

 

「髪でも、強く引けば痛みます」

 

エレナは少し考えた。

 

「では、強く引かぬ」

 

「その確認を鏡の前でします」

 

護衛の返答は淡々としていた。

 

澪は、護衛が慣れていると思った。

 

止め方が早い。

 

そして的確だった。

 

エレナは少し不満そうにしたが、バレッタは受け取った。

 

指先で触れようとして、護衛の視線だけで止まる。

 

「触らぬ」

 

護衛は黙っている。

 

「確認だ」

 

護衛はまだ黙っている。

 

エレナは少しだけ視線をそらした。

 

「……あとで確認する」

 

それでも、嬉しそうだった。

 

 

 

 

 

日が少し傾く頃には、澪は自分が何をしに来たのか、少し分からなくなっていた。

 

セルマの工房では、冷風箱の泡石板の目詰まりを直した。

 

リュシアの屋台では、冷製スープと細麺の提供手順を組み直した。

 

ノーラの作業場では、泡石板の溝を横に並べる感覚を一緒に試した。

 

エレナには、髪飾りの安全確認までした。

 

本人としては、バレッタを配りに来ただけだった。

 

本当に、そのつもりだった。

 

セルマが腕を組む。

 

「澪、今日、配りに来ただけだったんじゃないのかい」

 

澪は少し考えた。

 

「そのはずでした」

 

リュシアが笑う。

 

「そのはずで、ここまで片づけるのかい」

 

ノーラはバレッタで髪を留めたまま、尊敬の目で見ている。

 

「澪さん、すごいです」

 

「いえ、普通に見えたところを直しただけで……」

 

「それを普通と言うから驚かれるんだよ」

 

セルマが言った。

 

エレナは、髪に留めたバレッタを触ろうとして、護衛に視線だけで止められていた。

 

「触らぬ」

 

護衛は黙っている。

 

「確認だ」

 

護衛はまだ黙っている。

 

エレナは少し不満そうにしながらも、澪を見た。

 

「次は何を作る」

 

澪は一歩引いた。

 

「次、ですか」

 

「今日はこれだ。次もあるだろう」

 

なぜ当然のように次があるのか。

 

澪は周囲を見た。

 

セルマは否定しない。

 

リュシアは面白そうに笑っている。

 

ノーラは期待している。

 

エレナはもう次を待っている顔だった。

 

澪は悟った。

 

これは褒められているのではない。

 

仕事が増える流れだ。

 

 

 

 

 

少しだけ一人になったところで、澪は壁際に寄った。

 

手元のメモを開く。

 

今日持ってきたのは、バレッタを渡す相手の候補を書いた紙だったはずだ。

 

だが、いつの間にか余白に文字が増えている。

 

冷風箱の泡石板は、水筋の清掃手順を書いた方がいい。

 

屋台の冷製スープと細麺は、器、麺、つゆ、薬味の置き順を決めた方がいい。

 

泡石板の溝は、ノーラ用に深さの見本を作った方がいい。

 

バレッタは、追加材料を買い足した方がいい。

 

澪はメモを閉じた。

 

そして、自分に鑑定をかけた。

 

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 分類:人間/大学生/代表取締役社長

 状態:疲労/仕事増加予兆

 技能:鑑定、収納、彫金、手仕事

 技能成長:鑑定:精度上昇

 技能成長:収納:工程保持に適性あり

 技能成長:手仕事:安定性向上

 新規発現:並行思考:芽あり

 効果:複数の作業手順を同時に保持しやすい

 注意:本人の自覚が薄い

 注意:便利に使われすぎる危険あり

 達成:二並列制作成功

 達成:三並列制作成功

 達成:四並列制作成功

 未達:五並列制作

 未達理由:材料不足

 備考:配達のつもりが巡回修理になりました

 神様コメント:お仕事できる子になりました

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澪はしばらく黙った。

 

それから、小さく言った。

 

「お仕事できる子になりました、じゃないんですよ」

 

返事はない。

 

ここは異世界側で、朝の水の器は部屋に置いてきたはずだ。

 

それなのに、なぜか神様が見ている気がする。

 

「私は配りに来ただけなんです」

 

メモを見る。

 

増えた予定を見る。

 

収納の中には、空になりかけた材料箱がある。

 

澪は深く息を吐いた。

 

レベルアップした澪は、たしかに凄かった。

 

ただし、一番凄いのは、増えた仕事の量だった。

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