押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

59 / 94
第59話 異世界混乱

 

 夏休みという言葉には、もっと甘い響きがあったはずだった。

 

 少なくとも澪の中では、七月の半ばに入った大学構内は、講義の圧が抜け、掲示板に貼られた事務連絡と、図書館の短縮開館時間と、どこか浮ついた学生たちの声でできているものだった。

 

 けれど、澪の机の上に開かれた手帳は、夏休みらしさをまったく持っていなかった。

 

 昨日の欄には、最初、ただ「農場視察」とだけ書いてあった。

 

 大豆と芋の様子を見る。

 

 リュシアと仕入れの相談をする。

 

 それだけのはずだった。

 

 そこへ、細い字で追加された言葉が、余白を少しずつ食い潰している。

 

 ラージラット対策の確認、殺鼠剤の追加購入、リュシアへの卸値、設置場所の手順、数日後の食害確認、司祭様への相談、ジョブツリー、スキルツリー、スキルポイント、世界改変。

 

 澪はペンを持ったまま、手帳を見下ろした。

 

 ページの端まで埋まりかけている。

 

 ただの農場視察だったはずの一日が、どうして世界の仕組みまで連れてくるのか。

 

「夏休みって、休むための休みですよね」

 

 自分の部屋に向かって言ったところで、当然返事はない。

 

 エアコンの低い音と、外から聞こえる蝉の声だけが返ってくる。

 

 澪は椅子の背にもたれかかった。

 

「どうして予定表だけ見ると、会社と異世界の合同会議みたいになってるんですか」

 

 合同会社押入商会。

 

 その名前を書類に書いた時点で、何かが戻れない方向へ行った気はしていた。

 

 それでも、昨日の表示は別だった。

 

 世界改変:第一段階。

 

 対象:異世界全域。

 

 文字を思い出すだけで、胃のあたりが重くなる。

 

 澪は席を立ち、神棚の水を替えた。

 

 小さな器の水は、朝の光を受けて澄んでいる。いつもなら、手を合わせて今日もよろしくお願いします、で済む。

 

 けれど今日は、見上げる気持ちより、問い詰めたい気持ちの方が強かった。

 

 それでも、澪はいきなり神様に文句を言うのをこらえた。

 

 まずは異世界側へ行く。

 

 リュシアに、昨日の表示を話す。

 

 その後で、必要なら神様を問い詰める。

 

 澪は手帳を閉じた。

 

 閉じても、予定は消えなかった。

 

 

 

 

 

 押し入れを抜けた先の空気は、昨日と同じように夏だった。

 

 現代側の湿った熱とは少し違う、石と土と日差しの混ざった暑さがある。市場の入口に近づくと、日よけ布の下で商人たちが品物を並べ、買い物客が水を片手に立ち止まっていた。

 

 リュシアは、すでに店先で帳面を開いていた。

 

 昨日の殺鼠剤の袋は、空になったものを見本として置いてある。横には、小さな木札と、農場主から聞いた被害箇所の簡単な図があった。

 

「おはようございます」

 

「おはよう。ちょうどよかった」

 

 リュシアは帳面から顔を上げた。

 

 その顔は、もう昨日の驚きの顔ではない。

 

 商人の顔だった。

 

「昨日の品、追加で仕入れられるかい。農場ごとに使う量を変える必要がある。芋と大豆だけじゃなく、穀物の倉庫にも使えるかもしれない。置き方を間違えると無駄になるから、最初は被害が出た場所に絞った方がいいね」

 

「もうそこまで考えてるんですか」

 

「寝て起きたら忘れるようじゃ、商人はできないよ」

 

 リュシアは当たり前のように言った。

 

 澪は、昨日の表示を思い出しながら、少しだけ迷った。

 

 どこから話すべきか。

 

 世界改変。

 

 ジョブ。

 

 スキル。

 

 レベルアップ。

 

 その言葉だけ並べると、また自分が変なことを言っているように見える。

 

 だが、リュシアは昨日の畑で、澪が何もない場所を見て殺鼠剤を置くところを見ている。

 

 少なくとも、完全に笑い飛ばされることはない。

 

「リュシアさん」

 

「何だい」

 

「たぶん、今まではスキルを持っている人と、持っていない人がいたんです」

 

 リュシアの手が止まった。

 

 帳面の上に置かれていた指が、ぴたりと動かなくなる。

 

「でも、今回の表示を見る限り、これからはジョブとレベルで、後からスキルが開く可能性があります」

 

 澪はゆっくり言葉を選んだ。

 

 自分でも整理しながら話している感じだった。

 

「商人なら、商才だけじゃなくて、鑑定とか、収納とか。最初は小さいものかもしれませんけど、レベルが上がると使えるようになるかもしれません」

 

 リュシアは黙った。

 

 市場の向こうで、子どもが走る音がした。

 

 屋台の鍋が湯気を上げる音がした。

 

 リュシアは、それらの音から少し離れた場所にいるような顔をした。

 

 そして低く言った。

 

「……流通が、大きく変わるね」

 

 澪はうなずいた。

 

「やっぱり、そうなりますか」

 

「なるよ」

 

 リュシアは帳面を閉じた。

 

「鑑定を持つ商人が増えたら、偽物や傷物を見抜きやすくなる。収納が開けば、運べる量が変わる。馬車の数も、倉庫の大きさも、腐りやすい品の扱いも変わる。関所の検査も、市場の場所代も、税の取り方も変わるかもしれない」

 

 そこまで一気に言って、リュシアは澪を見た。

 

「便利、だけじゃないね」

 

「はい」

 

「商人は動くよ。早い者は、今日にでも」

 

 澪は一緒に考える流れになると思っていた。

 

 このまま、リュシアと危険性を整理し、侯爵家か司祭様へ相談する段取りを決めるのだと思っていた。

 

 だが、リュシアは椅子から立ち上がった。

 

「なら、確かめてくるよ」

 

「え」

 

「農場だよ。殺鼠剤の置き方、被害の見方、仕入れの流れ。商人が扱う品なら、自分で見ないとね」

 

「今からですか」

 

「今からだよ」

 

 リュシアはもう、帳面と木札を手に取っている。

 

 店の奥に声をかけ、必要な留守番と伝言を短く済ませる。その動きに迷いがない。

 

「レベルアップするなら、それも見てくる」

 

「行動が早い……」

 

「商人は、遅いと損をするんだよ」

 

 リュシアは帽子を手に取った。

 

 そのまま、澪を置いて市場の外へ向かう。

 

「リュシアさん、待っ」

 

「待たない。澪は侯爵家に行きな」

 

 リュシアは振り返らずに言った。

 

「これは、私だけで抱える話じゃない。領地の上の方に伝える話だよ」

 

 澪は口を閉じた。

 

 言われる前に、自分でもそう思っていた。

 

 リュシアの背中は、もう人混みに入りかけている。

 

「あと、殺鼠剤の次の仕入れ、頼むよ」

 

「仕事だけ置いていった!」

 

 澪の声は、市場のざわめきに半分飲まれた。

 

 リュシアは片手を上げただけで、そのまま農場へ向かっていった。

 

 

 

 

 

 澪はしばらくその場に立っていた。

 

 セルマへ相談することも考えた。

 

 錬金術師であるセルマなら、スキルや素材の反応について冷静に考えてくれる。泡石や冷風箱のときもそうだった。便利なものほど、扱い方を決めなければ危ないと分かっている人だ。

 

 けれど、澪はすぐに首を振った。

 

 これは、工房だけの話ではない。

 

 商人が鑑定や収納を得るかもしれない。

 

 ジョブ変更は教会で行うことになる。

 

 レベルアップを狙う人が増えるかもしれない。

 

 市場、農場、税、倉庫、関所、治安、スキル持ちの囲い込み、悪用する人。

 

 考えれば考えるほど、個人で抱える話ではなかった。

 

「……これ、セルマさんに相談する前に、侯爵家ですよね」

 

 澪は小さくつぶやいた。

 

 収納の中には原付がある。

 

 使えば早い。

 

 だが、町中で白い原付を出せば、それだけで別の騒ぎになる。侯爵家の門前に原付で乗りつける自分を想像して、澪は少しだけ顔をしかめた。

 

 今日はやめよう。

 

 便利だからといって、出す場所を間違えると、それだけで仕事が増える。

 

 澪は歩き出した。

 

 夏の日差しが石畳に白く反射している。

 

 侯爵家へ向かう道が、いつもより少し長く感じた。

 

 

 

 

 

 侯爵家の応接室は涼しかった。

 

 厚い壁と高い天井のおかげで、外の熱が少し遠い。窓から入る光は柔らかく、磨かれた机の上で淡く反射している。

 

 アルベルト・ヴァルディスは、澪の話を遮らずに聞いていた。

 

 エレナもいた。

 

 もちろん護衛もいる。護衛は扉のそばではなく、エレナが動けばすぐ止められる位置に立っていた。家令と文官も控えている。澪が来た時点で、ただの雑談ではないと判断されたのだろう。

 

 澪は、昨日の農場で起きたことを話した。

 

 ラージラット対策で殺鼠剤を設置したこと。

 

 鑑定で置く場所が光ったこと。

 

 設置するたびにレベルアップしたこと。

 

 レベル10に到達し、ステータス画面、スキルポイント、ジョブツリー、スキルツリーが開いたこと。

 

 そして、世界改変:第一段階、対象:異世界全域と表示されたこと。

 

 話している途中で、エレナが何度か口を開きかけたが、そのたびに護衛が視線だけで止めた。

 

 最後に澪は、リュシアへ話したことも伝えた。

 

「商人ジョブでレベルアップすると、鑑定や収納が後から開く可能性があると思います。今まではスキルを持っている人と持っていない人がいたんですけど、それが変わるかもしれません」

 

 アルベルトの表情が変わった。

 

 驚きではない。

 

 計算する顔だった。

 

「商人が鑑定と収納を後天的に得る可能性がある、ということか」

 

「はい」

 

「それは市場の仕組みが変わる」

 

 アルベルトは机の上に指を置いた。

 

 指先が、磨かれた木の上で一度止まる。

 

「流通だけではない。税、検査、倉庫、関所、商会の力関係まで変わる」

 

 文官が小さく息を吸った。

 

 家令の視線も鋭くなる。

 

 護衛はまだ黙っているが、目だけが少し細くなった。

 

「リュシアさんも、流通が大きく変わるって言っていました」

 

「リュシアがそう言ったなら、商人はすぐ動く」

 

 アルベルトは静かにうなずいた。

 

 エレナが短く聞く。

 

「悪いことか」

 

 アルベルトはすぐには答えなかった。

 

 妹を見るのではなく、澪を見たまま言う。

 

「良いこともある。だが、危ない」

 

 その言葉で、部屋の空気が少し重くなった。

 

 澪は、手の中で膝の上の布を握った。

 

「たぶん、私以外にも表示が出る可能性があります」

 

「では、この場にいる者にも、何か表示されるのか」

 

 アルベルトの声は落ち着いていた。

 

 落ち着いているからこそ、返事に詰まる。

 

「たぶん、鑑定すれば……見えると思います」

 

「見ろ」

 

 エレナが即座に言った。

 

 護衛が半歩前に出る。

 

「エレナ様、まず順番を」

 

 エレナがむっとする。

 

「確認だ」

 

「確認でも順番があります」

 

 アルベルトが手で制した。

 

「私からでいい」

 

 澪はうなずいた。

 

 アルベルトへ鑑定を向ける。

 

----------------------------------

アルベルト・ヴァルディス

 分類:人間/貴族

 役割:侯爵家嫡男/領地政務

 現在ジョブ:ロード見習い

 レベル:18

 既得スキル:統率:6

 既得スキル:政務:5

 既得スキル:交渉:4

 既得スキル:文書判断:5

 既得スキル:危機判断:4

 未開放系統:あり

 注意:役割とジョブは別に表示されます

 注意:表示形式は対象者の理解に合わせて変化します

----------------------------------

 

 澪は表示を見て、思わず息を止めた。

 

 役割とジョブが分かれている。

 

 そこが、はっきり表示されていた。

 

「役割とジョブが、分かれてます」

 

 アルベルトの目が細くなる。

 

「どういうことだ」

 

「アルベルトさんは、役割としては侯爵家嫡男で、領地政務に関わっています。でも現在ジョブはロード見習いです」

 

 言葉にしてから、澪は少しだけ寒くなった。

 

「たぶん、神様が世界をそう変えました。この世界の人の仕事や役割を、RPGっぽいジョブに変換して見せてます」

 

「つまり、これは鑑定者の表記の癖ではなく、世界側の再整理か」

 

「はい。たぶん」

 

 部屋の空気が、さらに重くなった。

 

 家令が視線を下げる。

 

 文官は、すでに手元の紙へ何かを書き始めている。

 

 エレナは一歩前に出た。

 

「次は私だ」

 

 護衛がまた半歩出る。

 

「動かないでください」

 

「動いていない」

 

「動こうとしました」

 

「確認だ」

 

 澪はアルベルトを見た。

 

 アルベルトが小さくうなずく。

 

 澪はエレナを鑑定した。

 

----------------------------------

エレナ・ヴァルディス

 分類:人間/貴族

 役割:侯爵家令嬢

 現在ジョブ:貴族令嬢

 レベル:9

 既得スキル:礼法:3

 既得スキル:観察:4

 既得スキル:行動力:6

 既得スキル:好奇心:7

 未開放系統:あり

 注意:護衛の制止を聞くことで安全性が上がります

 神様メッセージ:まず止まりましょう

----------------------------------

 

 澪は最後の行で固まった。

 

 神様。

 

 そこまで言いますか。

 

 エレナが聞く。

 

「何と出た」

 

 澪は少し迷った。

 

 言わない方がいい気もする。

 

 けれど、エレナの目が逃がしてくれない。

 

「……まず止まりましょう、と」

 

 エレナはむっとした。

 

「余計だ」

 

 護衛が静かに言う。

 

「必要です」

 

「聞こえているぞ」

 

「聞こえるように申し上げました」

 

 エレナは護衛を見上げた。

 

「護衛も見ろ」

 

 護衛は一瞬だけアルベルトを見る。

 

 アルベルトがうなずくと、護衛は小さく頭を下げた。

 

 澪は護衛を鑑定する。

 

----------------------------------

侯爵家護衛

 分類:人間/侯爵家所属

 役割:エレナ護衛

 現在ジョブ:騎士

 レベル:22

 既得スキル:警戒:7

 既得スキル:護衛術:7

 既得スキル:危険察知:6

 既得スキル:制止:8

 未開放系統:あり

 注意:護衛対象の突発行動に注意

----------------------------------

 

 エレナがすぐ反応した。

 

「制止が八」

 

 護衛は無言だった。

 

 エレナがむっとする。

 

「高すぎる」

 

「必要です」

 

「なぜだ」

 

「エレナ様が動くからです」

 

「確認だ」

 

「確認で前へ出るからです」

 

 部屋の空気が重いまま、そこだけ少しだけ緩んだ。

 

 澪は助かったような、助かっていないような気持ちになった。

 

 アルベルトは家令へ目を向ける。

 

「家令も確認しておきたい」

 

 家令は静かに頭を下げた。

 

 澪は鑑定する。

 

----------------------------------

侯爵家家令

 分類:人間/侯爵家所属

 役割:屋敷管理

 現在ジョブ:家政官

 レベル:25

 既得スキル:家政管理:8

 既得スキル:人員配置:7

 既得スキル:帳簿確認:6

 既得スキル:危機対応:6

 未開放系統:あり

----------------------------------

 

 続けて文官も鑑定する。

 

----------------------------------

侯爵家文官

 分類:人間/侯爵家所属

 役割:領内文書管理

 現在ジョブ:書記官

 レベル:17

 既得スキル:記録:7

 既得スキル:文書作成:6

 既得スキル:帳簿確認:5

 既得スキル:通達作成:5

 未開放系統:あり

----------------------------------

 

 文官は、表示の内容を澪から聞くと、手元の紙にさらに書き加えた。

 

 家令は、何も言わない。

 

 だが、口元が少しだけ固くなっている。

 

 自分の仕事が、神様の作った表示に書き出される。

 

 それは便利であると同時に、気味が悪いことでもあった。

 

 アルベルトはしばらく黙っていた。

 

 沈黙の間、部屋の外で庭木の葉が揺れる音がした。

 

「それが広まれば、皆がレベルを上げようとする」

 

 アルベルトが言った。

 

 低い声だった。

 

「商人は取引へ走る。職人は無理に数を作る。若者は魔物を探しに行くかもしれない。教会には転職希望者が並ぶ」

 

 澪は黙った。

 

 そこまで一気には考えていなかった。

 

 自分がレベルアップした時は、ただ困惑していた。

 

 スキルツリーが開いた時も、ゲーム画面だと驚いた。

 

 けれど、それを人々が知ったらどう動くか。

 

 その先まで、まだ見ていなかった。

 

 家令が静かに言う。

 

「無理な作業で怪我人が出ます」

 

 護衛も口を開いた。

 

「訓練場も荒れます」

 

 文官は筆を持ったまま続ける。

 

「記録と順番を決めなければ、争いになります」

 

 エレナが短く言った。

 

「強くなれるなら、皆行く」

 

 アルベルトがうなずく。

 

「だから危ない」

 

 澪は息を呑んだ。

 

 便利になるだけではない。

 

 努力が見えるようになるだけではない。

 

 人は、得をすると分かれば動く。

 

 強くなれると分かれば、危険にも近づく。

 

 そして、善い人だけが動くわけではない。

 

「良い者だけが強くなるとは限らない」

 

 アルベルトは机の上に置いた指を、少し強く押さえた。

 

「商人が鑑定や収納を求めるなら、盗賊も収納を求める。詐欺師は鑑定を避ける方法を探す。悪徳商人はスキル持ちを囲い込む」

 

 護衛が低く続けた。

 

「対抗する力が要ります」

 

「そうだ」

 

 アルベルトはうなずいた。

 

「これは祝福だ。だが、祝福だけでは領地は回らない。祝福を悪用する者に対抗する力を、先に作る」

 

 澪は、手のひらが少し冷たくなるのを感じた。

 

 神様の読書感想文、などと軽く言える話ではなくなってきている。

 

 いや、読書感想文で世界改変する時点で、最初から軽くなかった。

 

「ジョブ変更は、司祭様のところで可能と出ました」

 

 澪は慎重に言った。

 

「でも、その場で勝手に変わるんじゃありません。本人の意思確認と、司祭様の確認が必要みたいです」

 

「教会が窓口になるのか」

 

「たぶん」

 

 アルベルトは目を伏せた。

 

 考える時間は短かった。

 

「教会に制度を持ち込めば、反発は出る」

 

 澪は顔を上げた。

 

「反発、ですか」

 

「神の御業を人が管理するのか、と言う者は必ずいる。侯爵家が教会を支配しようとしている、と騒ぐ者も出る」

 

 澪は口を閉じた。

 

 そこまでは考えていなかった。

 

 自分に見えた表示を、司祭様に伝える。

 

 それだけなら、まだ単純だった。

 

 けれど教会は、神様に関わる場所だ。

 

 そこへ侯爵家が手順を持ち込むとなれば、反発する人が出るのは当然だった。

 

「制度という言葉を前に出しすぎない」

 

 アルベルトは続けた。

 

「これは支配ではない。神の御業を穢さず、本人の意思を守り、弱い者を守るための手順だ」

 

「守りの手順……」

 

 澪はその言葉を繰り返した。

 

「本人の意思を確かめる。順番を決める。未成年者を守る。危険な職への転職を制限する。スキル持ちを囲い込ませない。危険なレベル上げを禁じる。記録を残す」

 

 アルベルトの指が、机の上で一つずつ場所を押さえていく。

 

 文官がそれに合わせて筆を走らせる。

 

 家令はすでに、誰へ先に知らせるべきかを考えている顔になっていた。

 

 エレナはじっと兄を見ている。

 

 護衛は、扉の位置とエレナの位置とアルベルトの位置を同時に見ていた。

 

 アルベルトは顔を上げた。

 

「これは、侯爵家の中だけで決める話ではない」

 

 澪の背筋が伸びた。

 

「教会、ですか」

 

「そうだ。ジョブ変更の場所が教会であるなら、司祭と話さなければならない」

 

 アルベルトは席を立った。

 

「ただし、命令ではない。制度を押しつけるわけでもない。神の御業を人が管理するのではなく、神の御業で人が傷つかないための手順を作る。その話をする」

 

 澪は驚いた。

 

 話が早い。

 

 リュシアが農場へ行ってしまった時と同じ種類の早さだった。

 

「今からですか」

 

「早い方がいい」

 

 アルベルトは家令に視線を向ける。

 

「司祭へ先触れを。私はすぐに向かう」

 

「承知いたしました」

 

 家令は静かに頭を下げた。

 

 その動きには迷いがない。

 

 エレナが一歩前に出た。

 

「私も行く」

 

 護衛が半歩前へ出る。

 

「なりません」

 

 エレナはむっとした。

 

「なぜだ」

 

 アルベルトが淡々と言う。

 

「教会で話すのは、まず大人の仕事だ」

 

「私は聞くだけだ」

 

「聞くだけで済まない」

 

 エレナは少し黙った。

 

 それから澪を見る。

 

「澪は行くのか」

 

 澪は固まった。

 

 行かない、と言いたい。

 

 ものすごく言いたい。

 

 だが、昨日の表示には、起点:篠原澪と出ていた。

 

 見えたものを説明できるのは、自分だけだ。

 

「……たぶん、行きます」

 

 エレナがすぐに言う。

 

「なら私も」

 

 護衛がさらに半歩前へ出た。

 

「なりません」

 

「確認だ」

 

「確認は戻ってから聞いてください」

 

 エレナは唇を結んだ。

 

 かなり不満そうだった。

 

 アルベルトは澪へ視線を戻す。

 

「澪。君には来てもらう。見えたものを説明できるのは、今は君だけだ」

 

 澪は小さく息を吐いた。

 

「はい」

 

 返事をしてから、澪は一つだけ手を上げた。

 

「あの、その前に一度だけ、神様へ確認してもいいですか」

 

 アルベルトの眉がわずかに動く。

 

「神に直接か」

 

「直接というか……鑑定で、たぶん」

 

 澪は自分でも説明が下手だと思った。

 

 けれど、アルベルトは短くうなずいた。

 

「急いで戻ってくれ」

 

「はい」

 

 澪は立ち上がった。

 

 エレナがまた何か言いかけたが、護衛が視線で止めた。

 

 澪はそのやり取りを見て、鑑定表示の制止八を思い出した。

 

 必要です。

 

 本当に必要だった。

 

 

 

 

 

 押し入れを抜けると、自室は静かだった。

 

 異世界側の侯爵家で話していた流通、税、治安、教会、転職、悪用対策の重さと、現代側の部屋の静けさの落差が大きい。

 

 机の上には、朝閉じた手帳がある。

 

 エアコンの風がカーテンをわずかに揺らしている。

 

 澪は神棚の前に座った。

 

 水を替える。

 

 小さく柏手を打つ。

 

 いつもの朝なら、それで終わりだ。

 

 けれど今日は違う。

 

 問い詰めるための対話だった。

 

 澪は供えた水の前に座る。

 

 朝に替えたばかりの水は、妙に澄んでいる。

 

 澪はその水面を見ながら、ゆっくり口を開いた。

 

「世界改変:第一段階って出ました。対象:異世界全域って出ました。説明してください」

 

 返事はない。

 

 ただ、水面が一度だけ、光を返した。

 

 澪は嫌な予感がして、供え水を鑑定した。

 

----------------------------------

神様掲示板

 板名:押し入れ神域板

 スレ名:【相談】世界改変が始まった件【説明してください】

 001:澪

 世界改変:第一段階って出ました。

 対象:異世界全域って出ました。

 説明してください。

 002:同居の神様

 説明します。

----------------------------------

 

 澪は表示を見た。

 

「逃げないでください」

 

 もう一度、水面が光る。

 

----------------------------------

神様掲示板

 板名:押し入れ神域板

 スレ名:【相談】世界改変が始まった件【説明してください】

 001:澪

 世界改変:第一段階って出ました。

 対象:異世界全域って出ました。

 説明してください。

 002:同居の神様

 説明します。

 003:澪

 逃げないでください。

 004:同居の神様

 逃げていません。

----------------------------------

 

 澪は口を閉じた。

 

 今、自分の声が、そのまま掲示板に書き込まれた。

 

 そう理解した瞬間、頭の中で何かが一段ずれた。

 

 鑑定は、ここまで来た。

 

 掲示板形式まで来た。

 

 神様が、異世界小説だけでなく、現代側の掲示板文化まで取り込み始めている。

 

 澪は深く息を吸った。

 

 もう、声に出さなくてもよさそうだった。

 

 けれど最初は、はっきり言っておきたかった。

 

----------------------------------

神様掲示板

 005:澪

 あたしの持ち込んだ異世界小説、読みましたよね。

 006:同居の神様

 読みました。

 007:澪

 読みました、じゃないんですよ。

 008:同居の神様

 面白かったです。

 009:澪

 感想文を世界改変で提出しないでください。

 010:同居の神様

 感想文ではありません。

 011:同居の神様

 努力と適性を、見える形にしました。

 012:澪

 それを世界全体にやったんですか。

 013:同居の神様

 はい。

 014:澪

 はい、じゃないんですよ。

----------------------------------

 

 澪は額に手を当てた。

 

 掲示板になっても、神様は神様だった。

 

 軽い。

 

 軽いようで、返してくる内容は重い。

 

 澪は続ける。

 

----------------------------------

神様掲示板

 015:澪

 教会で転職できるようになったんですよね。

 016:同居の神様

 はい。

 017:同居の神様

 ただし、本人の意思を無視した転職はできません。

 018:同居の神様

 司祭による確認が必要です。

 019:澪

 レベル上げに走る人が増えます。

 020:同居の神様

 想定しています。

 021:澪

 悪い人も動きます。

 022:同居の神様

 想定しています。

 023:澪

 想定しているなら、止めてください。

 024:同居の神様

 成長そのものは止めません。

 025:同居の神様

 ただし、人が傷つかないための手順は必要です。

----------------------------------

 

 澪は表示を読んだまま、しばらく動けなかった。

 

 想定しています。

 

 その言葉は、安心できるようで、まったく安心できない。

 

 神様は分かっている。

 

 分かっていて、止めない。

 

 止めないかわりに、人間側に手順を作れと言っている。

 

----------------------------------

神様掲示板

 026:澪

 商人がレベルアップすると、鑑定や収納が開く可能性がありますか。

 027:同居の神様

 あります。

 028:同居の神様

 職に必要な技能は、努力と適性に応じて芽が出ます。

 029:同居の神様

 ただし、最初から大きな力として開くわけではありません。

 030:澪

 それでも流通が変わります。

 031:同居の神様

 変わります。

 032:澪

 そこは認めるんですね。

 033:同居の神様

 変化は起きます。

 034:同居の神様

 だから、守る手順が必要です。

----------------------------------

 

 澪は、リュシアの顔を思い出した。

 

 流通が、大きく変わるね。

 

 低い声だった。

 

 商人の声だった。

 

 そして、アルベルトの顔も思い出す。

 

 祝福だけでは領地は回らない。

 

 神様の返答は、二人の判断とつながっていた。

 

----------------------------------

神様掲示板

 035:澪

 侯爵家と教会で、守りの手順を作っていいんですね。

 036:同居の神様

 必要です。

 037:同居の神様

 職を選ぶ力は、本人のものです。

 038:同居の神様

 その力を奪わせないために、記録と確認を置いてください。

 039:澪

 侯爵家が教会を支配する形にはしない方がいいですよね。

 040:同居の神様

 はい。

 041:同居の神様

 神の御業を管理する制度ではなく、人が傷つかないための守りの手順です。

 042:澪

 言い方まで用意してるじゃないですか。

 043:同居の神様

 必要だと思いました。

----------------------------------

 

 澪は小さく息を吐いた。

 

 そこまで考えているなら、最初から説明してほしかった。

 

 だが、神様が最初から丁寧に説明してくれるなら、そもそも掲示板形式で出てこない。

 

 たぶんそういう神様なのだ。

 

----------------------------------

神様掲示板

 044:澪

 本人の意思を無視した転職や成長はできませんね。

 045:同居の神様

 できません。

 046:同居の神様

 成長は、本人の努力と願いに沿います。

 047:同居の神様

 職を変える時は、本人の意思と司祭の確認が必要です。

 048:澪

 つまり、悪用を完全には防げないけど、守る仕組みは作れる。

 049:同居の神様

 はい。

 050:澪

 神様、やっぱり小説の読みすぎです。

 051:同居の神様

 次巻も読みます。

 052:澪

 そこは反省してください。

----------------------------------

 

 掲示板は、ふっと薄くなった。

 

 供え水は、ただの澄んだ水に戻る。

 

 澪はしばらく、神棚の前に座っていた。

 

 悪意ではない。

 

 世界改変は止まらない。

 

 職とスキルは、努力と適性に応じて見える形になる。

 

 商人が鑑定や収納を得る可能性はある。

 

 教会で転職できるようになる。

 

 本人の意思を無視した転職はできない。

 

 それでも、悪用する人は動く。

 

 だから、侯爵家と教会で守りの手順を作る必要がある。

 

 頭の中で一つずつ確かめるたびに、澪の肩が少しずつ重くなっていく。

 

「確認は取れました」

 

 声に出すと、部屋の静けさが返ってきた。

 

 確認が取れた。

 

 説明も受けた。

 

 けれど、仕事が減ったわけではない。

 

 澪は机に戻り、手帳を開いた。

 

 神様掲示板で確認した内容を書き込んでいく。

 

 本人の意思確認。

 

 司祭様の確認。

 

 守りの手順。

 

 侯爵家と教会の共同対応。

 

 悪用対策。

 

 スキル持ち保護。

 

 書きながら、ページの余白がまた狭くなっていく。

 

 澪はペンを止めた。

 

 朝より、やることが増えている。

 

 説明を受けたはずなのに、増えている。

 

 澪は手帳を閉じ、押し入れの方を見た。

 

 アルベルトは、もう教会へ向かう準備をしているはずだ。

 

 戻らなければならない。

 

「神様の返事はあった」

 

 澪は立ち上がった。

 

「でもこれ、問題が解決したんじゃなくて、正式に始まっただけですよね」

 

 神棚は返事をしなかった。

 

 澪は押し入れへ向かった。

 

 夏休みは、また少し遠ざかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。