押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第6話 ムシメガネを探しに行っただけなのに

 篠原澪は、朝の六畳間でちゃぶ台に向かって正座していた。正座をする必要はない。誰かに叱られる予定もなければ、玄関の向こうに税務署の人が立っているわけでもない。それでも、押入商会の帳簿を開き、飯島貴金属から届いた明細を右側へ置き、百円ショップとハンズのレシートを日付順に並べ直していると、自然に膝がそろってしまった。帳簿というものは、畳の上に置くだけで人間の背筋を伸ばす力があるらしい。

 

 交通費を書いた小さなメモが、レシートの下に半分隠れていた。澪はそれを指先で引っ張り出し、帳簿の端に重ならないよう置き直す。スマホは帳簿の向こうに伏せてある。触らない、と決めていたのに、銀行アプリをもう一度開きたい気持ちだけが、さっきから指先に残っていた。押入れの横には、ハンズで買った透明なポリカーボネートの盾が立てかけてある。前回、リュシアに「目立つ」と言われた盾だ。澪はそれを一瞬だけ見たが、今日は盾の反省会ではない、と自分に言い聞かせる。今日は帳簿の時間だった。

 

 結局、澪はスマホを手に取った。銀行アプリを開くと、飯島貴金属からの入金が表示されている。小金貨三枚分、約二十五万円。息を止めたまま画面を見つめ、いったんアプリを閉じる。三秒待ってからもう一度開く。数字は変わらない。画面を下へ引いて更新しても、入金はそこにあった。澪は「夢じゃない」と小さく言い、声に出した瞬間、その数字が画面の中の表示から、自分の生活に乗ってくる重さを持ったように感じた。

 

 飯島貴金属の明細には、小金貨がただの「異世界の金貨」ではなくなった痕跡が並んでいた。澪は重量の欄を見て、金含有の欄を見て、精錬後の金額と手数料の欄へ視線を移す。市場で受け取った時には、あれは小さな金貨だった。けれど現代日本の明細の上では、グラムと純度と手数料で処理された金属だった。物語の宝物が、現代では数字になる。そのことに少しだけ背筋を冷やしながら、澪は電卓を叩いた。

 

 入金は約二十五万円。そこから百円ショップでの仕入れがおよそ五千円、ハンズで買った安全装備がおよそ二万四千円、飯島貴金属の分析と精錬の手数料がおよそ一万二千円、交通費と細かな雑費を合わせて約二千円。レシートとメモを見比べながら二度計算し直すと、諸費用はだいたい四万三千円になった。税引前利益は、約二十万円強。澪はペン先を止め、帳簿に書かれた数字をしばらく見つめた。

 

「強……」

 

 利益に強いも弱いもないはずなのに、今の澪にはその二文字がやけに頼もしく見えた。家賃が払える。スマホ代も落ちる。食費も少し楽になる。次の仕入れ資金もある。駅前のケーキ屋で、いつも横目で見て通り過ぎる季節のタルトだって買えるかもしれない。スーパーで半額シールを待たずにお惣菜を買うことも、理論上は可能だった。

 

 澪は誰もいない六畳間に向かって、少しだけ胸を張った。

 

「押入商会、黒字です」

 

 返事はない。社員一名、報告先なし。拍手もなければ、株主総会もない。壁際のギターも、作業机の銀線も、澪の黒字に特に感動していないようだった。それでも黒字は黒字で、澪の胸の中には少し遅れて温かいものが広がった。

 

 その高揚は、赤ペンを取った瞬間にしぼんだ。澪の頭の中で、修さんの低く落ち着いた声がよみがえる。入金があったからといって、全部使っていいわけじゃないよ。澪は帳簿の端に、赤字で「税金用に残す」と書き、続けて「全部使わない」と囲んだ。赤い線を引いた途端、二十万円強という数字は、触っていい部分と触ってはいけない部分に分かれたように見える。

 

「商売、喜びが遅れてくる……」

 

 澪は肩を落とした。嬉しい。嬉しいのは間違いない。だが、嬉しいだけで終われない。税金を考え、仕入れを考え、生活費を考え、レシートを整理し、明細を保管する。異世界で金貨を受け取った時より、現代の帳簿の方が静かに怖い。

 

 少しだけ良い朝ご飯にしようかと思って、澪は冷蔵庫を開けた。卵が二つ、納豆が一つ、半分残った麦茶がある。黒字になった朝の食卓としてはかなり地味だったが、澪は納豆を責めなかった。納豆は悪くない。納豆は庶民の味方だ。黒字になったからといって、朝からステーキを焼くような人間になってはいけない。そういう人間はたぶん破滅する。少なくとも、小説ではよく破滅する。

 

 澪は納豆を混ぜ、卵を一つだけ使い、麦茶を飲んだ。食べ終えると赤ペンを片づけ、大学の鞄にノートを入れる。異世界商売で黒字が出ても、大学の出席は増えない。単位も金貨では買えない。たぶん。

 

 大学の講義室は、いつも通り少し乾いていた。空調の低い音が天井から落ちてくる。前方では教授が淡々と話していて、学生たちはノートを取ったり、パソコンを開いたり、机の下でスマホを見たりしていた。澪は端の席に座り、隣の空席へ鞄を置く。寂しくないと言えば嘘になるが、荷物を横に置けるのは助かる。特に最近のように、鞄の中身が普通の大学生から少しずつ離れている時には、これはわりと重要な利点だった。

 

 教授は、現代社会における流通と供給について話していた。

 

「需要が急に増えた場合、供給が追いつかなければ、価格や流通に影響が出ます」

 

 澪は顔を上げた。需要が急に増えた場合。供給が追いつかなければ。それは今、まさに澪の話だった。教授と一瞬だけ目が合い、澪は何も悪いことをしていないのに、慌ててノートへ視線を落とす。

 

 頭の中では、リュシアからの注文数が勝手に並んでいた。虫眼鏡が五つ、手鏡が六つ、裁縫針セットが十、爪切りが八つ。前回までに価格表を作ったからこその注文だった。価格表ができたのなら、次はそれに応えなければならない。気づくと、澪はノートの端に「ムシメガネ五」と書き、その下に手鏡六、針十、爪切り八、と続けていた。

 

 書いてから、はっとする。隣には誰もいない。いないのに、澪は慌てて手で隠した。ボッチの防衛本能だった。

 

「こうした場合、事前の在庫管理や仕入れ先の確保が重要になります」

 

 教授の声が続く。澪はペンを止めた。教授、それは私のムシメガネの話ですか。もちろん違う。教授は現代企業の物流について話しているのであって、押入れの向こうの市場や、赤茶色の布を頭に巻いた商人娘のことなど一ミリも知らない。それでも澪のノートには、講義の言葉と押入商会の現実が混ざっていく。供給不足、価格上昇、流通管理。その余白に、小さく、虫眼鏡A、虫眼鏡B、JANコード確認。

 

 消しゴムで「ムシメガネ五」を消そうとすると、紙が少しよれた。消した跡というものは、どうしてあんなに「ここに何か書いてありました」と主張するのだろう。澪は紙の毛羽立ちを指で押さえ、さらに恥ずかしくなった。講義を聞きに来たはずなのに、頭の中では仕入れが走っている。大学生として、かなり危ない。

 

 講義が終わる頃には、ノートは妙な姿になっていた。流通経路、中間業者、価格形成、需要と供給。その余白に、虫眼鏡A型、手鏡丸型、爪切り標準型、JANコード確認。澪はノートを閉じ、鞄へしまいながら今日の講義で学んだことを整理する。供給は大事。在庫は大事。そしてムシメガネは足りない。最後だけ講義の内容ではなかった。

 

 澪は鞄を肩にかけ、大学を出た。外の光はまだ明るい。利益はある。仕入れ資金もある。今なら買える。そう思っていた。この時点では。

 

 

 

 

 

 最初の百円ショップで、澪は虫眼鏡の棚の前に立った。

 

 あった。黒い持ち手に丸いレンズ。前に買ったものと同じ形だった。澪は一瞬、勝った気がした。これならリュシアに見せても、前回と同じ品だと言える。価格表にもそのままつながる。だが、棚にあったのは二つだけだった。欲しいのは五つ。棚にあるのは二つ。当たり前の計算が、今日は妙に重い。

 

 澪は棚の奥を覗いた。ない。隣の商品を少しずらして、もう一度奥を見る。ない。上の段も下の段も確認する。ない。しゃがんだ姿勢で棚の奥をのぞき込み、ふと商品の透明ケースに映った自分の横顔に気づいた。かなり真剣な顔だった。百円ショップの虫眼鏡のために棚の奥を覗き込む女子大生としては、相当怪しい。しかも本人は本気である。

 

 百円ショップの棚は、ダンジョンの宝箱ではない。奥から同じ商品が無限に出てくるわけではなかった。

 

 澪は虫眼鏡を二つかごに入れ、次に手鏡の棚へ向かった。似たものはある。だが、縁の色が違う。前のものより少し軽い。鏡面も、ほんのわずかに小さい気がする。澪は手に取り、戻し、また手に取り、横から見て、正面から見た。最後に鏡へ映った自分の顔と目が合い、顔が真剣すぎることに気づいた。百円ショップの手鏡に向ける顔ではない。

 

 けれど、価格表はもう完成している。前回の手鏡と違うものなら、同じ値段で売っていいのかリュシアに説明しなければならない。「似ています」で済ませるには、押入商会は少しだけ商売らしくなりすぎていた。裁縫針もパッケージが違う。前のものより本数が多いようにも見えるし、太さも少し違うかもしれない。爪切りは小型ばかりで、標準型が少なかった。小型も売れるかもしれないが、旅人や職人には使いづらいかもしれない。

 

 お金はある。でも、棚になければ買えない。澪はかごの中の虫眼鏡二つを見下ろし、小さく息を吐いた。

 

「すごい。貧乏とは違う方向で困ってる」

 

 二軒目へ向かう途中、エコバッグはまだ軽かった。けれど気持ちは少し重い。駅前を自転車が抜けていき、学生が笑いながら通り過ぎる。その横で、澪は虫眼鏡五つの不足分を考えている。普通の午後なのに、頭の中だけが完全に仕入れだった。

 

 二軒目には、別の虫眼鏡があった。持ち手の形が違い、レンズが少し小さい。同じ虫眼鏡ではある。でも、同じではない。三軒目には、そもそも虫眼鏡がなかった。代わりに老眼鏡が並んでいて、澪は思わず手に取った。文字を読む商人、細工師、年を取った仕立て屋には需要があるかもしれない。けれど視力に関わるものは責任が重い。合わない度数を使わせて目が疲れたらどうするのか。そもそも度数の説明ができない。

 

 澪は老眼鏡を棚に戻した。戻したあと、もう一度だけ見た。便利そうではある。だが今ではない。そう言い聞かせて、澪はレジへ向かった。

 

 かごには虫眼鏡二つ、爪切り、針セットが入っている。店員は普通に会計した。澪だけが妙に緊張していた。違うんです、虫博士ではないんです、探偵でも自由研究でもないんです、と心の中で言い訳する。本当の理由は、もっと言えない。澪は黙ってレシートを受け取り、財布の中で折れないように丁寧に入れた。レシートはもう、ただの紙ではない。押入商会の命綱だった。

 

 同じ店内で、澪は虫眼鏡の棚がある通路を三回歩いた。一回目は在庫を確認するため。二回目は、本当にもうないのか自分を納得させるため。三回目は、店員に声をかける勇気を集めるためだった。品出しをしている店員は、若い女性だった。澪は手の中の虫眼鏡のパッケージを握りしめる。指先に汗をかいて、薄い袋が少し滑った。聞けばいいだけだ。聞けばいいだけなのに、喉が妙に乾く。

 

 このままでは何も進まない。澪は小さく息を吸った。

 

「あの、すみません。これと同じ商品って、注文できますか」

 

 言った瞬間、心拍数が少し上がった。店員はパッケージを受け取り、澪の顔をちらりと見た。あまりに真剣だったせいか、少し不思議そうな表情をした。

 

「同じ商品なら、JANコードが分かれば確認できる場合がありますよ」

 

「じゃん」

 

 思わず聞き返してしまった。

 

「バーコードの下にある番号ですね」

 

 店員がパッケージの裏を指で示す。澪はそこを見た。数字が並んでいる。ずっとそこにあった。今まで、見ていなかった。異世界で価格表まで作ったのに、現代側の商品コードを見ていなかった。澪は静かに殴られた気分になった。見えない拳だった。JANコードという拳だった。

 

「取り寄せできる商品と、できない商品があります。在庫がない場合もありますし、メーカー欠品や廃番になっていることもあります」

 

 廃番、という言葉がさらに澪を殴った。異世界では小金貨一枚の虫眼鏡が、現代では廃番で消えるかもしれない。商売は、どちらの世界でも容赦がない。

 

「ありがとうございます。確認してみます」

 

 澪は頭を下げた。

 

「たくさん必要なんですか?」

 

 店員にそう聞かれ、澪は固まった。

 

「ええと、観察に」

 

「観察ですか」

 

「小さいものを……」

 

 自分でも説明が薄いと思った。店員は笑わずにうなずいてくれたが、その優しさがかえって澪の胸に刺さる。店を出ると、江古田の町はいつも通りだった。自転車が通り、学生が歩き、駅の方から人の流れが来る。その普通の町並みの中で、澪の頭だけがJANコードでいっぱいになっている。

 

 スマホのメモを開き、澪は歩道の端に寄って立ち止まった。虫眼鏡Aは同型二つ確保、JAN確認、追加可否確認。手鏡丸型は縁色違いあり、同型不明。針セットAはパッケージ変更。爪切り標準型は在庫不足。友達との予定でも、サークル連絡でもない。澪のスマホには、ムシメガネとJANコードが並んでいる。

 

「私は大学生のはず……」

 

 画面を見て、澪は遠い目をした。

 

 虫眼鏡は、まだ足りない。

 

 午後の光が少し傾き始めた頃、澪は広めの百円ショップでアウトドア用品コーナーに捕まった。捕まった、という表現がいちばん近い。虫眼鏡を探しに来たはずだった。けれど、通路の先に吊られた小さな金具や袋が、澪の足を止めた。エコバッグの持ち手は、いつの間にか手のひらに食い込んでいる。中身は軽いはずの爪切りや針や虫眼鏡なのに、歩き回ったせいで妙に重かった。

 

 最初に目に入ったのは、銀色のカラビナだった。澪は一つ手に取り、開閉部分を押す。ばねは思ったより素直に戻った。金具の噛み合わせを見て、メッキの端を爪でそっとなぞる。彫金をやっているせいか、こういうところはつい見てしまう。軽い。安い。用途が分かりやすい。危険が少ない。思わず「優等生?」とつぶやき、すぐ周囲を見た。誰も聞いていない。たぶん。

 

 隣には防水ポーチが吊られていた。澪は口の閉まり方を指で確かめる。硬貨や紙を濡らさずに持てるかもしれない。前回、金貨を表で見せないと決めたばかりだ。硬貨袋として使えるなら、リュシアも客を選びやすいかもしれない。小型フックは荷車や店先に使えそうだったし、メッシュポーチは中身が見えるので小物管理に向いている。

 

 小型LEDライトも目に入った。暗い路地を照らせる。倉庫でも使える。異世界で夜道を歩く時に、これがあれば安心できるかもしれない。澪は一度かごに入れかけて、止まった。明るすぎるものは目立つ。目立つものは人を集める。人が集まれば、リュシアに怒られる。電池の説明も面倒だ。壊れた時の責任もある。澪は棚に戻したが、未練はかなりあったので、戻したあともう一度だけ見た。

 

「……今は、なし」

 

 調味料ケースも迷った。薬草屋が欲しがりそうだ。粉を分けられるし、粒も保管できる。ただし食品用を薬に使わせてよいか分からない。火に関わる道具や薬品っぽいものも、今回は避けた。

 

 昔なら、便利そうだと思っただけで買っていたかもしれない。けれど今は、継続して仕入れられるか、型番を管理できるか、壊れた時に交換できるか、リュシアが客を選べるか、危ない使われ方をしないかまで考えてしまう。澪は棚の前で、真剣に商品を面接していた。百円ショップの商品面接である。かなり変だが、今の澪には必要な変さだった。

 

「商売、棚の前で疲れる……」

 

 結局、澪はカラビナを五つ、防水ポーチを三つ、小型フックを四つ、メッシュポーチを少しだけ買った。虫眼鏡を探しに来ただけなのに、エコバッグの中身は完全に別方向へ増えている。百円ショップは危険だ。異世界より危険かもしれない。少なくとも、財布には危険だった。

 

 

 

 

 

 その日の夜、澪は修さんに晩御飯を奢ってもらった。

 

 江古田駅近くの小さな居酒屋は、騒がしすぎない店だった。木のテーブルは少し年季が入っていて、壁には手書きの品書きが貼られている。厨房から流れてくる焼き魚の匂いを嗅いだ瞬間、澪は朝から納豆と卵しかまともに食べていないことを思い出した。昼は百円ショップを歩き回っているうちに、食べるタイミングを逃していた。

 

 修さんはビールを頼み、澪には烏龍茶をすすめた。

 

「澪ちゃん、無理に飲まなくていいよ」

 

「ありがとうございます。私、居酒屋ってあまり来ないです」

 

「お酒を飲む場所というより、ご飯を食べる場所だと思えばいい」

 

「そう言われると、少し生きられます、修さん」

 

 修さんは少し笑った。澪は烏龍茶を両手で持つ。グラスの氷が小さく鳴る。彫金教室の講師で、飯島貴金属の社長で、金属のことになると静かに細かい人。澪にとっては、珍しく相談できる大人だった。

 

 もちろん、異世界のことは言えない。押入れの向こうに市場があります、とは言えない。

 

「最近、ずいぶん細かいものを買ってるね」

 

 修さんが、焼き魚の骨を外しながら言った。澪は烏龍茶の氷を見つめる。

 

「趣味です」

 

「彫金用?」

 

「広い意味で……小物です」

 

 自分でも分かるくらい説明が不自然だった。修さんは深入りしなかった。ただ、少しだけ分かっているような顔で、魚の身をほぐし続ける。

 

「澪ちゃん、入金があったからといって、全部使っていいわけじゃないよ」

 

「税金ですね」

 

「そう。税金の分は先に分けておく。次に仕入れるお金も残す。生活費と、何かあった時の予備費も、最初から別に考えた方がいい」

 

 澪は運ばれてきた唐揚げを箸でつまんだまま止まった。

 

「修さん、怖いことを普通の声で言いますね」

 

「普通のことだからね」

 

「普通が怖いです」

 

「怖いくらいでちょうどいいよ。怖くなくなると、雑になる」

 

 唐揚げが急に重く感じた。けれど空腹には勝てなかったので、澪はそれを口へ運ぶ。衣は熱く、中は柔らかく、噛むとじゅわっと味が広がった。現代日本の揚げ物は偉大である。税金と在庫管理の話をしていても、唐揚げはおいしい。そこだけは揺るがなかった。

 

 澪は、同じ虫眼鏡がそろわなかったこと、同じ商品だと思っていたものが微妙に違ったこと、店員にJANコードを教えられたことを話した。異世界のことだけを避けるため、ところどころ説明が妙に遠回りになる。修さんはそれを急かさずに聞いていた。澪の箸が止まると、話す速度を少し落とす。

 

「同じ銀線に見えても、ロットが違えば微妙に違うことがあるよ」

 

「銀線でもですか」

 

「もちろん。金属はね、重さと純度が数字で出る。逃げられない。帳簿も同じだよ。あとから見て分からないものは、仕事では使えない」

 

 澪は烏龍茶を飲み込んだ。

 

「百円ショップの商品にも、ですか」

 

「商売に使うならね」

 

「全然、百円の顔をしていない」

 

「値段と管理の手間は、別の話だよ」

 

 正しいことは、だいたい少し嫌だ。澪はだし巻き卵を見つめながら、心の中でそう思った。

 

「大学の方は大丈夫?」

 

 修さんが急に聞いた。澪は箸を止める。

 

「大丈夫、の範囲を広げれば大丈夫です」

 

「課題は?」

 

「あります」

 

「寝てる?」

 

「寝ています。たぶん」

 

「たぶんは、よくないね」

 

 澪は小さくなった。修さんはだし巻き卵を澪の皿に分ける。

 

「まず、ちゃんと食べよう」

 

「はい」

 

「続けるなら、続けられる生活にしないとね」

 

 その言葉は、唐揚げより重かった。異世界商売は刺激的だ。金貨も入る。百円ショップの商品が、異世界で価値を持つ。でも澪は大学生で、課題があり、食事があり、睡眠があり、税金があり、帳簿がある。全部、現代側に置いていけない。

 

 澪は小さくうなずき、だし巻き卵を食べた。やさしい味がして、それがまた少し胸に刺さった。

 

 

 

 

 

 翌日、澪は押入れの前で透明盾を一度見た。

 

 手に取るかどうか迷って、やめた。今日は人通りのある道を選ぶ。リュックの内側には商品を入れ、硬貨袋は外から見えない位置へ押し込む。金貨を表で見せないこと。細い路地を一人で歩かないこと。盾は目立つので必要時だけ。前回までの学びをひとつずつ指先で確認してから、澪は押入れの向こうへ足を踏み出した。

 

 市場裏の道は、昨日の江古田とはまるで違う匂いがした。焼いた肉、香草、革、土埃。澪は人の声が聞こえる方の道を選び、細い横道には入らない。リュックの肩紐を握り直しながら、リュシアの倉庫へ向かった。

 

 注文を満たせていない。そのことが、歩いている間ずっと胸にあった。虫眼鏡五つと言われたのに、同じものは三つしかない。B型を二つ持ってきたが、同じ商品ではない。怒られるだろうか。信用を落としただろうか。次から注文をくれないかもしれない。

 

 倉庫に入ると、リュシアは木札を持って待っていた。澪には読めない文字がいくつも並んでいる。けれどリュシアが木札の位置を何度も入れ替えている様子で、誰に何を売るか考えているのは分かった。

 

「ミオ、ムシメガネ、五つって言ったわ」

 

 澪の背筋が、大学の出席確認を受ける時よりも伸びた。

 

「同じものは三つしかありませんでした。申し訳ありません。同型品の在庫が……店にありませんでした」

 

「店?」

 

「私の国の、仕入れ場所です」

 

 リュシアは怒らなかった。ただ、木札を置いて、真面目な顔になった。澪は虫眼鏡AとBを木箱の上に並べる。

 

「こっちが前と同じものです。持ち手が黒くて、レンズの大きさも同じです。三つあります。こっちは似ていますが、持ち手の形とレンズの大きさが少し違います」

 

 リュシアは二つを見比べた。最初は本当に分からない顔をした。

 

「同じムシメガネに見えるわ」

 

「気づく人は気づくと思います。薬草を見る人とか、宝石を見る人とか」

 

 澪はレンズの端を指で示した。リュシアは虫眼鏡を持ち上げ、倉庫の入口から入る光にかざす。それから木札へ視線を落とした。

 

「薬草屋はAがいいわね。前に見たものを欲しがっていたから。宝石を見る人にはBを見せてもいいけど、値段は少し変えた方がいいかもしれない」

 

「Bは新規扱いで、試し売りにした方がいいと思います」

 

 言ってから、澪は自分で少し驚いた。異世界の倉庫で、虫眼鏡の型違いと試し売りの話をしている。大学生の人生として、かなり変だ。

 

 リュシアは少し考え、うなずいた。

 

「同じものが揃わないなら、違う品として売る。隠して同じと言うより、その方がいいわ」

 

 澪は胸の奥が少し軽くなった。失敗しても、隠さず分ければ商売になる。それは今日、澪が一番知りたかったことかもしれなかった。

 

 次に、澪はカラビナを出した。リュシアは最初、不思議そうに眉を寄せる。金具の開く部分を指で押し、何度か戻りを確かめた。それから自分の腰袋に当て、倉庫の棚の縁へ引っかけ、最後に近くの荷車の木枠へ通してみる。

 

「これはいいわ。紐を結ばなくても、小袋を留められる」

 

 澪は思わず身を乗り出した。

 

「分かりますか」

 

「使えば分かるわ。荷運びの子に一つ持たせてみる。すぐ壊れなければ、売れるかもしれない」

 

 防水ポーチを見せると、リュシアは口の部分を指で押して、硬貨袋にできるか考えている顔になった。

 

「雨の日に硬貨袋を濡らした商人がいたわ。こういうものは、困ったことがある人ほど欲しがる」

 

 小型フックを渡すと、リュシアは店先や荷車の縁を見回した。

 

「これは吊れる場所がある人向けね。派手じゃないけど、使う人は毎日使うかもしれない」

 

 リュシアはカラビナを木札の横に置いた。商人の目で、もう一度その小さな金具を見る。澪はその横顔を見ながら、虫眼鏡を探しに行っただけなのに、次の主力候補は金具かもしれない、と思った。

 

 

 

 

 

 その夜、澪は江古田の六畳間で、押入商会の帳簿に新しいページを開いた。

 

 ちゃぶ台の上には、今日買った商品のパッケージを広げてある。レシートは折れ目を伸ばし、店名と日付が見えるようにしてからスマホで写真を撮った。インクはいつか薄くなる。レシートは紙だが、今の澪にとっては証拠であり、帳簿の命綱だった。

 

 澪はまず、ページの左端に商品名を書く欄を作った。隣に型番を書く場所を取り、その右に購入店と購入日を並べる。数量の欄を書いたところで、今日、店員に言われたことを思い出し、少しスペースを広げてJANコードの欄を足した。さらにリュシアの価格表とつなげるため、異世界側価格を書く欄も必要になった。最後に、再入荷見込みと備考欄を足す。欄が増えるたびに、ページはどんどん商売らしくなっていく。その分、澪の眠気も増えていった。

 

 虫眼鏡Aの行には、在庫三、同型品不足と書く。虫眼鏡Bは在庫二、新規扱い。カラビナAは在庫五、試験販売。防水ポーチAは在庫三、硬貨袋候補。小型フックAは在庫四、荷車や店先用の候補。JANコードを書き写す途中で、一桁見間違えそうになり、澪は目をこすった。スマホのライトをつけると明るすぎて目が痛くなり、すぐ消す。

 

 カラビナAの備考欄には、「リュシア、荷運びの子に試す」と書いた。それを書いた瞬間、少しだけ次が楽しみになった。ちゃんと使えるだろうか。壊れないだろうか。荷運びの子は何と言うだろうか。

 

 その横で、大学の課題ノートが開きっぱなしになっている。講義中に消したはずの「ムシメガネ五」の跡が、まだ薄く残っていた。澪はそれを見て、そっとノートを半分閉じる。閉じたところで課題が消えるわけではない。

 

 澪は付箋を一枚取り、税金分を分けること、虫眼鏡の取り寄せ確認、カラビナの反応待ち、大学の課題を順番に書き込んだ。そこまで書いてから少し迷い、最後に「睡眠」と足す。自分の字を見て、澪はしばらく固まった。

 

「睡眠がタスクになっている」

 

 よくない。これはかなりよくない。けれど、消さなかった。必要なものは書いておいた方がいい。修さんの声が、頭の中に戻ってくる。続けるなら、続けられる生活にしないとね。

 

 澪はペンを持ったまま、在庫表と課題ノートの間で視線を行き来させた。虫眼鏡の取り寄せ確認は明日でいい。カラビナの反応も、明日にならなければ分からない。けれど大学の課題は、明日の朝になっても自動では終わらない。

 

 澪は小さく息を吐き、在庫表の上にレシートをそっと重ねた。それから課題ノートを引き寄せる。

 

 押入商会は、少しだけ商売らしくなった。

 

 その分だけ、澪の睡眠時間は、少しだけ商売に削られていた。

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