押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第6話 ムシメガネを探しに行っただけなのに

 

 篠原澪は、朝の六畳間でミニテーブルに向かって正座していた。

 

 正座をする必要はない。誰かに叱られる予定もなければ、玄関の向こうに税務署の人が立っているわけでもない。

 

 それでも、押入商会の帳簿を開き、飯島貴金属から届いた明細を右側へ置き、百円ショップとハンズのレシートを日付順に並べていると、自然と背筋が伸びた。

 

 帳簿というものは、畳の上に置くだけで人間の姿勢を正す力があるらしい。

 

 交通費を書いたメモがレシートの下から半分だけ出ていたので、それも引っ張り出して横へ置く。

 

 スマホは伏せてあった。

 

 今日は先に帳簿をつける。

 

 そう決めていたのだが、その後の取引で増えた小金貨3枚を飯島貴金属へ持ち込み、そろそろ入金されているはずだった。

 

「……確認するだけ」

 

 澪はスマホを取った。

 

 銀行アプリを開くと、飯島貴金属から約25万円が振り込まれている。

 

 一度画面を閉じ、もう一度開いてみる。

 

 変わらない。

 

 念のため更新しても、やはり数字はそこにあった。

 

「夢じゃない」

 

 市場で受け取った時には手のひらに載る金貨だった。それがゲンダイへ持ち帰り、金として調べてもらうと円になって口座へ入る。

 

 最初の5枚を売った時ほどの衝撃はない。それでも25万円は25万円だった。

 

 澪は電卓を手に取る。

 

 今回の入金が約25万円。

 

 これまで百円ショップで使った仕入れ代がおよそ5,000円。ハンズで買った安全装備がおよそ24,000円。飯島貴金属の分析や精錬の費用、それに交通費などを足していく。

 

 レシートを1枚ずつ確認し、計算し直した。

 

「……ちゃんと残る」

 

 税金のことは別としても、仕入れや安全装備に使った分を引いてまだ余裕がある。

 

 家賃も払えるし、次に持っていく商品も買える。

 

 駅前のケーキ屋で見かける季節のタルトくらいなら、値段を見ずに買えるかもしれない。

 

 そこまで考え、澪は財布を見た。

 

「タルトはまだいいかな」

 

 急に使い始めるのも怖い。

 

 前と同じように、入金した金額の半分ほどは手をつけないことにした。

 

 半分に何か根拠があるわけではない。ただ、何が起きるか分からないうちは残しておいた方が安心できる。

 

 数字を帳簿へ書き込み、澪はページを眺めた。

 

「押入商会、黒字です」

 

 六畳間から返事はない。

 

 壁際のギターも、彫金道具も、冷蔵庫も興味がないらしい。

 

 それでも少し嬉しかった。

 

 朝食を豪華にしようと思い、冷蔵庫を開ける。

 

 卵と納豆が目に入った。

 

「……黒字になっても納豆かあ」

 

 納豆に罪はない。

 

 結局、いつもの朝食を食べてから帳簿を片づけた。

 

 その時、昨日リュシアから受け取った前払いの小袋が目に入る。

 

 澪は手を止めた。

 

「ムシメガネ、多め……」

 

 何個なのか聞いていない。

 

 前払いまで受け取っておいて、数を確認せず帰ってきたらしい。

 

 時計を見る。

 

 大学へ行くまで、まだ少し時間があった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

「澪、朝からどうしたんだい?」

 

 市場裏の倉庫では、リュシアが木札を並べていた。

 

「昨日の注文なんですけど」

 

「うん?」

 

「虫眼鏡、多めって何個ですか?」

 

 リュシアの手が止まった。

 

「聞いてなかったのかい?」

 

「はい」

 

「前払いは持って帰ったよね?」

 

「はい」

 

「それでよく帰ったね」

 

「帰ってから気づきました」

 

 リュシアは呆れた顔をしながら木札を確認した。

 

「ムシメガネは5つ。鏡が6つ、針が10組、爪切りが8つだよ」

 

「ちょっと待ってください」

 

 澪はメモ帳を取り出した。

 

「虫眼鏡5、鏡6、針10、爪切り8……」

 

「ムシメガネは前に持ってきたのと同じ物を頼むよ。もう客には見せてるからね」

 

 澪のペンが止まった。

 

「同じ物ですね」

 

「そう。なかったら、似た物を勝手に混ぜないで先に言いな」

 

「分かりました」

 

 単に虫眼鏡を5つ買えばいいわけではなかった。

 

 すでに客へ見せた物と同じ商品を5つ。

 

 朝のうちに聞きに来て正解だった。

 

 澪がメモ帳を閉じると、リュシアは倉庫の外へ声をかけた。

 

「トト!」

 

 少しして、少年が走ってくる。

 

「なに?」

 

「澪をいつもの通りまで送ってきな」

 

「大学に行くだけなので、1人でも大丈夫ですよ」

 

「この前もそう思ってたんだろ?」

 

「……はい」

 

 それを言われると弱い。

 

 リュシアはトトへ顔を向けた。

 

「変なのがいたら大声で叫びな。それから私を呼びに戻ってくるんだよ。自分で何とかしようとするんじゃない」

 

「分かってるよ」

 

「なら行ってきな」

 

 トトに通りまで送ってもらい、澪は押入れを抜けて大学へ向かった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

「需要が急に増えた場合、供給が追いつかなければ価格や流通にも影響が出ます」

 

 教授の話を聞きながら、澪はノートを取っていた。

 

 今日は流通と供給の話だった。

 

 以前なら試験に出るかどうかを考えながら聞いていたはずなのに、今朝リュシアから聞いた注文数が頭から離れない。

 

 ノートの余白を見ると、いつの間にか「ムシメガネ5」と書いていた。その下には手鏡6、裁縫針10組、爪切り8と続いている。

 

「……混ざってる」

 

 小声で呟き、周囲を見た。

 

 隣の席は空いていた。

 

「商品を安定して供給するためには、仕入れ先の確保や在庫管理も必要になります」

 

 教授はもちろん押入商会の話などしていない。

 

 それなのに、今日の講義は妙に身に覚えがあった。

 

 これまでは、百円ショップへ行けば同じ物をまた買えると思っていた。

 

 自分で使うだけなら、それでも困らない。爪切りがなければ別の物を買えばいいし、手鏡の縁の色が変わっていても大した問題ではない。

 

 だが、リュシアはすでに客へ現物を見せている。

 

 客が欲しがったのは、ただの虫眼鏡ではなく、澪が持っていったあの虫眼鏡だった。

 

 澪は余白へ「同じ商品」と書き足した。

 

 講義を聞きながら、供給も在庫も大事なのだと納得する。

 

 ついでにムシメガネが足りないことまで頭に浮かんだが、そこだけは教授の話ではなかった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 講義が終わると、そのまま百円ショップへ向かった。

 

 前と同じ虫眼鏡は、すぐに見つかった。

 

「あった」

 

 黒い持ち手に丸いレンズ。

 

 1つ取る。

 

 もう1つ取る。

 

 3つ目へ手を伸ばしたところで、棚が空になった。

 

「……2つ?」

 

 必要なのは5つ。

 

 澪は棚の奥を覗き込んだ。

 

 隣の商品を少し動かしてみるが、ない。上の段にも下の段にも見当たらなかった。

 

「お金はあるのに買えない……」

 

 少し前までとは違う困り方だった。

 

 2つをかごへ入れ、手鏡も確認する。

 

 似た商品はあるが、縁の色が違った。鏡の大きさも少し違う。

 

 裁縫針は包装が変わっており、爪切りも前に持っていった大きさが少ない。

 

 今までなら気にもしなかった。

 

 使えればそれでいい。

 

 ところが商売に使うとなると、同じなのか違うのかが急に気になってくる。

 

 2軒目にも虫眼鏡はあった。

 

 ただし、持ち手の形が違い、レンズの大きさも少し違う。

 

 使えないわけではなさそうだが、リュシアが客へ見せた物とは別物だった。

 

 澪は迷った末に2つだけ買った。

 

 同じ商品として渡さず、別の品としてリュシアに見てもらえばいい。

 

 3軒目では虫眼鏡そのものが見つからなかった。

 

 代わりに老眼鏡が並んでいる。

 

「これも細かい物を見る道具ではあるんだけど……」

 

 商人や細工師なら使うかもしれない。

 

 一度は手に取ったが、度数表示を見て棚へ戻した。

 

 人によって合う物が違う。

 

 その違いを澪は説明できない。

 

「これはまだやめよう」

 

 戻したあとで、少し惜しくなってもう一度だけ見た。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 最初の店へ戻った。

 

 棚を見ても、やはり虫眼鏡は2つしかない。

 

 少し離れたところで女性店員が品出しをしていた。

 

 聞けばいい。

 

 この商品、ほかにありませんか。

 

 それだけなのだが、澪はすぐには声をかけられなかった。

 

 一度その前を通り過ぎ、少し先まで歩いてから戻る。2回目も店員のそばまで行ったところで、そのまま棚を見るふりをして通り過ぎた。

 

 三度目に同じ通路へ戻った時には、虫眼鏡のパッケージを握る手が少し汗ばんでいた。

 

「……何してるんだろ、私」

 

 店員に在庫を聞くだけである。

 

 澪は一度息を吐いた。

 

「あの、すみません」

 

「はい」

 

 店員が振り返った。

 

 ようやく声が出た。

 

 澪は虫眼鏡のパッケージを差し出す。

 

「これと同じ商品って、注文できますか?」

 

「同じ商品でしたら、JANコードで確認できる場合がありますよ」

 

「じゃん?」

 

「バーコードの下にある番号です」

 

 店員がパッケージを裏返した。

 

 数字が並んでいる。

 

 何度も百円ショップで買い物をしているのに、そこを気にしたことはなかった。

 

 異世界ではリュシアと価格表まで作り始めているのに、ゲンダイの商品についている番号は今まで一度も見ていなかった。

 

「この番号で同じ商品か分かるんですか?」

 

「はい。ただ、取り寄せできない商品もあります。在庫がなかったり、メーカー欠品だったり、廃番になっている場合もありますね」

 

「廃番……」

 

 ヴァルデスでは小金貨で売れる虫眼鏡でも、ゲンダイでは普通に棚から消えるらしい。

 

「何個くらいお探しですか?」

 

「あと3つです」

 

「観察用ですか?」

 

 澪の動きが止まった。

 

「ええと……細かい物を見るのに」

 

「工作とか?」

 

「……そんな感じです」

 

 かなり広い「そんな感じ」だった。

 

 嘘ではない。宝石の傷も硬貨の刻印も、細かい物には違いない。

 

 それでも、自分の答えが薄いことくらいは澪にも分かった。

 

 店員は特に不思議そうな顔もせず、普通に頷いた。

 

 その普通の反応が、かえって少し恥ずかしい。

 

「確認してみますね」

 

「ありがとうございます」

 

 店を出ると、澪は歩道の端へ寄ってスマホを取り出した。

 

 すぐにJANコードを保存する。

 

 同じ商品を続けて仕入れるなら、商品名だけでは足りない。

 

 虫眼鏡の型やJANコード、手鏡の違いまでメモへ入れていく。

 

 顔を上げれば、江古田はいつもと変わらなかった。

 

 自転車が走り、大学生らしい二人組が駅の方へ歩いている。コンビニから出てきた学生は、飲み物を片手にスマホを見ていた。

 

 澪もスマホを見た。

 

 画面には、虫眼鏡の商品名とJANコードが並んでいる。

 

「私は大学生のはず……」

 

 大学の予定より、今日は虫眼鏡の情報の方が充実していた。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 何軒か回っているうちに、澪は広めの百円ショップのアウトドア用品売り場に捕まった。

 

 虫眼鏡を探して店内を歩いていただけなのに、吊り下げられた銀色の金具が目に入ってしまった。

 

 カラビナだった。

 

 1つ手に取り、開閉部分を押してみる。

 

 ばねの戻りは悪くない。

 

 噛み合わせを見ていると、彫金をやっているせいか、金具の作りまで気になった。

 

 腰袋や小物をつけ外しするには便利そうだった。

 

 ただし、重い荷物を吊るす物ではない。

 

 澪は試す分として5つだけかごへ入れた。

 

 近くには防水ポーチや小型フック、メッシュポーチもある。

 

 リュシアや市場の商人が使っているところを想像しながら、少量ずつ選んだ。

 

 小型LEDライトも見つけた。

 

 便利なのは自分でも知っている。

 

 だが、電池が切れれば交換が必要になる。夜に強い光を出せば目立つし、故障した時に澪が直せるわけでもない。

 

 手に取ったまま少し考え、棚へ戻した。

 

 老眼鏡もそうだったが、売れそうだから何でも持っていけばいいわけではない。

 

 使い方を自分で説明できるか。危ない使われ方をしないか。リュシアが客へ出せる物か。

 

 考えながら棚を見ると、かごへ入れる商品は思ったほど増えなかった。

 

「買い物って、こんなに時間かかったっけ」

 

 結局、虫眼鏡とは別に、カラビナ5つ、防水ポーチ3つ、小型フック4つ、それにメッシュポーチを少し買った。

 

 ムシメガネを探しに来ただけだったはずなのに、エコバッグはかなり膨らんでいた。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 その日は彫金教室の日だった。

 

 買い物を終えて教室へ向かい、授業が終わる頃には、昼食をまともに取っていなかったことも忘れていた。

 

 片づけをしていると、修さんが澪の足元に置いた袋を見た。

 

「澪ちゃん、今日はずいぶん買ったね」

 

「そんなには買ってないですよ」

 

「昼は?」

 

「食べました」

 

「何を?」

 

「パンです」

 

「何時に?」

 

 澪は答えに詰まった。

 

 修さんはそれ以上追及せず、道具を片づけながら言った。

 

「夕飯、まだでしょう。食べて帰ろうか」

 

「……はい」

 

 この流れで断るのは無理だった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 江古田駅近くの小さな居酒屋へ入り、修さんはビール、澪は烏龍茶を頼んだ。

 

 焼き魚とだし巻き卵、それに唐揚げが運ばれてくる。

 

 匂いを嗅いだ途端、自分がかなり空腹だったことに気づいた。

 

「最近、細かい物をよく買ってるね」

 

 修さんが澪の買い物袋へ目をやった。

 

「趣味です」

 

「彫金の?」

 

「広い意味では……小物です」

 

 自分でも苦しい。

 

 修さんは笑っただけで、それ以上は聞かなかった。

 

「追加で持ってきた金貨の分も、振り込まれてるはずだよ」

 

「確認しました」

 

「全部使わないようにね」

 

「半分は残してます」

 

「それならいいけど、仕入れが増えてきたなら、お金だけじゃなくて生活の方も気をつけた方がいいよ」

 

 澪は唐揚げへ伸ばしかけた箸を止めた。

 

「生活ですか?」

 

「今日みたいに昼をパン1つで済ませたりね」

 

「……ばれてますね」

 

「聞いたからね」

 

 修さんはビールを一口飲んだ。

 

「こういうのが気になるのは、娘がいるせいかもしれないな」

 

 澪は顔を上げた。

 

「娘さん、いるんですか?」

 

「いるよ。理央っていうんだ。16歳」

 

「16歳」

 

「今は学校には通ってないんだけどね」

 

 修さんは焼き魚の骨を外しながら話した。

 

「本人もいろいろ考えてるんだろうし、無理に急かすつもりはない。妻の妙子も、そこは同じ考えなんだ」

 

「妙子さん?」

 

「うちの奥さん」

 

 澪は頷いた。

 

 修さんに娘がいることも、奥さんが妙子という名前なのも今日初めて聞いた。

 

「進路のことは気にならないんですか?」

 

「気にはなるよ。でも、それより先に気になることがある」

 

「何です?」

 

「ちゃんと食べてるか、ちゃんと寝てるか」

 

 澪は少し意外だった。

 

「そっちなんですか?」

 

「そっちだよ。体を壊したら、その先のことを考えるどころじゃないでしょう」

 

 修さんは苦笑する。

 

「理央が夜遅くまで起きてると、何をしてるのかより先に、ちゃんと寝るのかなって思う。妙子も同じだよ」

 

「本人には、うるさいって言われません?」

 

「言われることもあるね」

 

「やっぱり」

 

「でも親だからね。そこは言うよ」

 

 澪は唐揚げを口へ入れた。

 

 熱かった。

 

 黙って食べていると、修さんがふと思い出したように聞いた。

 

「大学の方は大丈夫?」

 

 澪は少し考えた。

 

「大丈夫、の範囲を広げれば大丈夫です」

 

 修さんの箸が止まった。

 

「それは大丈夫って言わないよ」

 

「やっぱり駄目ですか」

 

「課題は?」

 

「あります」

 

「今日、昼はパン1つ」

 

「はい」

 

「それで買い物して、教室にも来た」

 

「はい」

 

「寝てる?」

 

「……そこにつながります?」

 

「つながるよ」

 

 修さんは澪を見た。

 

「澪ちゃんも1人暮らしだったね」

 

「はい。実家は山梨です」

 

「離れて暮らしてるなら、ご両親も同じことを心配してると思うよ」

 

 澪の箸が止まった。

 

「ちゃんと食べてるか、風邪ひいてないか、夜は寝てるか。親からすると、まずそこだから」

 

「そんなものですか」

 

「そんなものだよ」

 

 修さんは澪の皿へ、だし巻き卵を1切れ移した。

 

「澪ちゃんが何をやってるのか、親御さんに全部話す必要はないと思う。でも、元気でいることくらいは見せてあげた方が安心するんじゃないかな」

 

 澪はだし巻き卵を見た。

 

 押入れの向こうへ行って商売をしていることなど、両親には話せない。

 

「……睡眠も親孝行ですか?」

 

「かなり安上がりな親孝行だね」

 

「寝るだけですもんね」

 

「その寝るだけが、若い時はなかなかできないんだよ」

 

「修さん、経験者ですか?」

 

「その辺は聞かない方がいいよ」

 

 返事が妙に早かった。

 

 澪は少し笑った。

 

「まずはちゃんと食べること。それから、睡眠もきちんと取る。親御さんを安心させるためにもね」

 

「分かりました」

 

「本当に?」

 

「……努力します」

 

「そこは寝ますでいいんだよ」

 

「寝ます」

 

「よし」

 

 修さんは満足そうにビールを飲んだ。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 翌日、澪は買ってきた商品をリュックへ詰めた。

 

 前と同じ虫眼鏡は、結局3つしか確保できなかった。

 

 別の型が2つある。

 

 数だけなら5つだが、リュシアが注文した「前と同じ物5つ」には足りていない。

 

 市場へ出ると、前に教えてもらった人通りのある道を使って倉庫へ向かった。

 

 歩いているうちに、同じ商品を揃えられなかったことがだんだん気になってきた。

 

 注文を受けたのに3つしか用意できなかった。

 

 これで信用を落としたらどうしよう。

 

 次から注文を任せてもらえなくなるのではないか。

 

 店に在庫がなかったのだから仕方ない、と自分では分かっている。それでもリュシアへ報告するまでは落ち着かなかった。

 

 倉庫へ入る。

 

「澪。ムシメガネ、5つだったね」

 

「はい」

 

 背筋が伸びた。

 

 大学で出席を取られる時より、たぶん姿勢がいい。

 

「ただ、先に言っておくことがあります」

 

「何だい?」

 

「同じ物は3つしかありませんでした」

 

 澪はリュックから前と同じ型を3つ出し、木箱へ並べた。

 

「ゲンダイ側の店に在庫がなかったんです。何軒か探したんですけど、同じ物はこれだけでした」

 

 その横へ別の型を2つ置く。

 

「こっちは使い方は同じなんですけど、持ち手とレンズの大きさが違います」

 

 リュシアは両方を手に取り、交互に覗いた。

 

「私にはどっちもムシメガネに見えるね」

 

「使う人なら違いが分かるかもしれません。前に見せた物を頼んでるなら、薬草屋にはこっちを渡した方がいいと思います」

 

 澪が前と同じ型を指す。

 

「そうだね。あの人は見せた物を欲しがってたから」

 

 リュシアは3つを自分の側へ寄せた。

 

「違う方は、宝石を見る商人に見せてみようか。こっちの方がレンズも少し大きいしね」

 

「別の商品として?」

 

「その方がいいだろ?」

 

「私もそう思います」

 

 そこで澪は、ふと木箱の上を見た。

 

 異世界の市場の裏にある倉庫で、百円ショップの虫眼鏡をAとBに分けて、どちらを誰へ試し売りするか相談している。

 

 昨日までなら、こんなことをするとは思わなかった。

 

「どうしたんだい?」

 

「いえ。ちょっと商売っぽいなと思って」

 

「商売してるんだから当たり前だろ?」

 

「そうなんですけど」

 

 リュシアは別に不思議そうでもなかった。

 

「同じ物がないなら仕方ないよ。違うのを黙って混ぜるよりはいい」

 

 澪の肩から少し力が抜けた。

 

「次からはJANコードっていう番号も確認することにしました」

 

「ジャン?」

 

「ゲンダイの商品についてる番号です。同じ物を探す時に使えます」

 

「そんなものまで見るのかい」

 

「私も昨日知りました」

 

「澪も知らないことがあるんだね」

 

「ありますよ。いっぱい」

 

 リュシアは笑った。

 

「それで、ほかにも買ってきただろ?」

 

「なぜ分かります?」

 

「リュックが膨らんでる」

 

「……はい」

 

 澪はカラビナを取り出した。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

「これは?」

 

「金具です。ここを押すと開きます」

 

 リュシアは何度か開閉してから、自分の腰袋へ引っかけた。

 

「紐を結ばなくていいんだね」

 

「軽い物なら便利だと思います。ただし、重い荷物には使わないでください」

 

「壊れるのかい?」

 

「その可能性があります。重い物を吊るすための商品じゃないので」

 

「じゃあ、そこは売る時に言わないと駄目だね」

 

「お願いします」

 

 防水ポーチは、リュシアが硬貨袋を入れて確かめた。

 

「雨の日には使えそうだね」

 

「完全防水だと思わないでください。水へ沈めたりはなしです」

 

「そんなことしないよ」

 

 小型フックも、店先で軽い袋を吊るすなら使えそうだった。

 

「派手な品じゃないけど、こっちの方が毎日使うかもしれないね」

 

「虫眼鏡を探しに行ったんですけどね」

 

「ついでに売れる物を見つけたならいいじゃないか」

 

「財布の中身は減りました」

 

「売れば戻るよ」

 

 そこは迷いがなかった。

 

 帰る頃になると、リュシアは倉庫の外へ顔を出した。

 

「トト!」

 

 すぐに少年が来る。

 

「澪をいつもの通りまで送ってきな」

 

「うん」

 

 リュシアはトトの顔を見た。

 

「変なのがいたら大声で叫ぶ。それから戻って私を呼ぶ。いいね?」

 

「分かってるよ」

 

「自分で追いかけるんじゃないよ」

 

「しないって」

 

「なら行ってきな」

 

 トトと一緒に市場を歩き、押入れへ続く通りが見えるところで別れた。

 

「今日は変なのいないね」

 

「いませんね」

 

「じゃあ俺、戻る」

 

「ありがとう」

 

「危なかったら大きい声だよ」

 

「覚えてます」

 

 トトは満足したように頷き、市場の方へ走って戻っていった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 夜。

 

 澪はミニテーブルへ、今日買った商品のパッケージとレシートを並べた。

 

 帳簿を開き、虫眼鏡のところで手が止まる。

 

 これまでは商品名と金額を書けば済んでいた。

 

 今は同じ虫眼鏡でも型が違い、買った店も違う。次に同じ物を探すならJANコードも残しておきたい。

 

「帳簿に全部書くのは違うな……」

 

 金の出入りを見る帳簿に商品情報まで詰め込めば、かえって分かりにくくなる。

 

 澪は別のノートを1冊出した。

 

 最初のページの上へ、

 

『押入商会 在庫表』

 

 と書く。

 

「表ってほど立派じゃないけど」

 

 虫眼鏡A。

 

 購入店、購入日、JANコード、在庫数。

 

 虫眼鏡Bは別の型として書く。

 

 カラビナには数量と購入先、それから備考へ「重い荷物には使わせない」と加えた。

 

 防水ポーチ、小型フックも続ける。

 

 書いているうちに、欲しい欄が増えてきた。

 

 ゲンダイ側の仕入れ値。

 

 次も買えるかどうか。

 

 リュシアと決めた値段。

 

 試し売り中なのか、すでに注文があるのか。

 

「……増えるなあ」

 

 商品は百円で買えるのに、管理することまで百円で済ませてはくれないらしい。

 

 その横には、大学の課題ノートが開いたままになっている。

 

 講義中に書いた「ムシメガネ5」の文字も残っていた。

 

 澪は付箋を1枚取り、明日確認することを書き出す。

 

 虫眼鏡の取り寄せ。

 

 カラビナの使用結果。

 

 在庫表の続き。

 

 大学の課題。

 

 そこまで書いたところで、修さんとの夕食を思い出した。

 

 ペン先が止まる。

 

 少し迷って、最後に書き足した。

 

『睡眠』

 

 澪は付箋を眺めた。

 

「……睡眠がタスクになってる」

 

 これはかなりまずい。

 

 けれど消したら、もっとまずい気もする。

 

 澪は『睡眠』を残したまま、課題ノートを手前へ引いた。

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