押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第61話 異世界混乱3

 

 教会の扉を開けた瞬間、澪は足を止めた。

 

 石段の下に、人がいる。

 

 大勢ではない。まだ、押し合うほどではない。けれど、さっき礼拝堂にいた人数より明らかに増えていた。通りがかりの者が足を止め、買い物籠を持ったまま首を伸ばし、仕事途中らしい男が荷を肩にかけたまま、教会の扉の方を見ている。

 

 声は小さい。

 

 でも、小さい声ほど、こういう時は耳に残る。

 

「職を見てもらえるらしい」

 

「レベルを上げれば、別の職になれるらしいぞ」

 

「商人なら収納が開くのか」

 

「戦士になれるなら、訓練すればいいのか」

 

 澪は背中に嫌な汗が浮くのを感じた。

 

 さっきまで礼拝堂の中で、司祭様とアルベルトが「守りの手順」を作ろうとしていた。寄進で順番を買わせないこと、本人の意思を確認すること、教会と侯爵家で記録を残すこと。まだ紙の上に言葉を置き始めたばかりだ。

 

 それなのに、外ではもう、人の想像が走り始めている。

 

 アルベルトは足を止めなかった。

 

 だが、目だけで教会前の人の流れを見た。

 

「散らすな。追い立てれば余計に騒ぐ。だが、入口を塞がせるな」

 

 護衛がすぐにうなずいた。

 

「承知しました」

 

 護衛たちは、人々を押しのけるのではなく、石段の左右へ静かに誘導した。声を荒げず、道を空けさせる。教会の入口に人が固まらないよう、自然に通路を作っていく。

 

 司祭様も教会の中から一歩出た。

 

「今日は確認のための話です。今すぐ個別確認は行いません。順番と手順を整えてからです」

 

 その声は大きくない。

 

 けれど、石段の下まで届いた。

 

 人々は静かになったが、完全に納得した顔ではなかった。

 

 不満だけではない。

 

 期待がある。

 

 不安もある。

 

 自分にも何か開くのかもしれない。子どもが強くなれるかもしれない。商売が変わるかもしれない。そういう気持ちが、足をその場に留めさせていた。

 

 澪は、隣で手帳を抱えたまま、ぽつりと言った。

 

「噂が、本当に制度より早く走ってます」

 

 アルベルトが短く答える。

 

「だから、今すぐ最初の線を引く」

 

 線。

 

 神様掲示板にも似た言葉が出ていた。

 

 人が傷つかないための手順。

 

 けれど、その手順はまだ紙になっていない。

 

 澪は、石段の下でこちらを見ている少年と目が合った。

 

 少年はすぐに視線をそらした。

 

 その目には、怖さより期待の方が強かった。

 

 澪はますます嫌な汗をかいた。

 

 

 

 

 

 教会の脇部屋には、急いで机が運び込まれていた。

 

 大きな机ではない。礼拝堂の隣にある、記録や寄進帳を整理するための部屋らしい。壁際には古い帳面の棚があり、窓から入る光が紙の束の上に落ちている。

 

 文官が紙を広げた。

 

 家令は、すでに頭の中で使いを走らせる順番を考えている顔をしている。

 

 司祭様は、机を挟んでアルベルトの向かいに座った。助祭が記録帳を抱えて控えている。澪は端の席に座ったが、まったく落ち着かない。

 

 アルベルトは紙の上に視線を落とした。

 

「まず、職業確認は準備が整うまで一般受付しない」

 

 文官が筆を動かす。

 

 紙に文字が増えていく。

 

「教会前に並んでも順番は発生しない。寄進や金銭による優先確認は認めない」

 

 司祭様が静かに手を上げた。

 

「その書き方ですと、神の御業を教会が閉ざすように読まれるかもしれません」

 

 文官の筆が止まる。

 

 司祭様は言葉を選びながら続けた。

 

「神の御業を妨げる、と読める言い方は避けましょう。神の名を使って人を傷つけることを防ぐ、としてください」

 

 アルベルトはうなずいた。

 

「強すぎる言葉は反発を招く。だが弱すぎれば、誰も止まらない」

 

 文官は一度書いた文を細く線で消し、別の文へ置き換えた。

 

 澪は、その横顔を見ながら思った。

 

 異世界で利用規約を作ってる……。

 

 声に出すつもりはなかった。

 

 けれど、小さく漏れてしまったらしい。

 

 アルベルトがこちらを見る。

 

「何だ、それは」

 

「私の国の、面倒な紙です」

 

「必要なものか」

 

「読まれないけど、ないと困るものです」

 

 アルベルトは一瞬だけ考えた。

 

「なら、今作っているものに近いな」

 

「近いのが嫌です」

 

 澪は本気でそう思った。

 

 文官は、澪の小声を聞かなかったことにして筆を進めている。

 

 家令が口を開いた。

 

「掲示場所ですが、教会前、市場の掲示板、農場へ向かう道、訓練場の入口、門番詰所には必要でしょう。衛兵詰所にも写しを置きます」

 

「使いは足りるか」

 

「屋敷から二人、教会から一人、市場へ一人。訓練場と門番には護衛を通じて回せます」

 

 司祭様は助祭へ視線を向けた。

 

「教会側の記録帳は、通常の寄進帳とは分けます。確認を希望する者の名だけを先に集めることもしません。順番を作る前に名を書かせれば、そこから争いになります」

 

 助祭は、わずかに緊張した顔でうなずいた。

 

「承知いたしました」

 

 アルベルトが続ける。

 

「危険なレベル上げは禁止。未成年者の確認には、保護者または後見人の同席が必要。本人の意思を無視した転職要求は禁止。スキル持ちを強制的に雇うこと、囲い込むことも禁じる」

 

 文官の筆が追いつかない。

 

 少し遅れて、文官が顔を上げた。

 

「『強制的に雇う』では、商家の通常雇用と混同される恐れがあります。本人の同意なく拘束、または契約を強いることを禁じる、とした方がよろしいかと」

 

「そうしてくれ」

 

 司祭様が静かに付け加える。

 

「神前での意思確認を重んじる、という文も入れてください。これは教会として譲れません」

 

「入れましょう」

 

 アルベルトは即答した。

 

 紙の上に、急ごしらえの言葉が少しずつ形になる。

 

 それはまだ制度ではない。

 

 それでも、人が傷つかないための最初の線だった。

 

 

 

 

 

 通達の文面がまだ整いきらないうちに、外から小さなざわめきが近づいてきた。

 

 護衛が先に動く。

 

 廊下で誰かを止める声がして、すぐにリュシアの声が聞こえた。

 

「急ぎだよ。通しておくれ」

 

 澪は顔を上げた。

 

 リュシアは、本当に来た。

 

 しかも、土のついた靴で。

 

 教会の脇部屋の入口に立ったリュシアは、いつもの商人らしい整った姿ではあったが、裾に土が少し跳ねていた。額には汗が浮いている。農場から急いで戻ったのが分かる。

 

「すまないね。農場からそのまま来た」

 

「リュシアさん、本当に行ってたんですね」

 

「言っただろう。確かめてくるって」

 

 リュシアはそう言って、机の上の紙を一瞥した。

 

「通達かい」

 

「ええ、まだ暫定です」

 

 アルベルトが答える。

 

「君の報告も聞きたい」

 

「なら、短く言うよ」

 

 リュシアは息を整えた。

 

「ラージラットの被害跡を見て、昨日の殺鼠剤の置き方を農場主に説明した。どこへ置くか、どのくらい離すか、畑の中に入りすぎないこと、子どもや家畜が触れないようにすることも確認した」

 

 その言い方は、もう商売の報告だった。

 

 澪は、リュシアがただレベルアップ目当てで農場へ行ったのではないことを改めて理解した。

 

 品を扱う。

 

 使い方を覚える。

 

 危険も説明する。

 

 その流れを丸ごと商人の仕事として見ている。

 

「それでね」

 

 リュシアは少しだけ眉を寄せた。

 

「見える、というより、品物の横に余計な値札がつく感じだね」

 

「値札?」

 

 澪が聞き返す。

 

「傷あり、扱い注意、継続需要あり。そんなふうに頭に残る。被害跡を見た時も、ここはまた荒らされる、ここは置き方を間違えると無駄になる、みたいな感じがした」

 

 澪は息を止めた。

 

 リュシアは、澪のように表示画面を見ていない。

 

 けれど、明らかに何かが起きている。

 

「鑑定します」

 

「頼むよ」

 

 リュシアは少し肩をすくめた。

 

 澪はリュシアを見る。

 

----------------------------------

リュシア

 分類:人間/商人

 役割:商会見習い/仕入れ補助

 現在ジョブ:商人

 レベル:3 → 4

 既得スキル:商才:4

 既得スキル:交渉:3

 既得スキル:仕入判断:3

 既得スキル:帳簿:2

 芽生え:鑑定:1

 未開放系統:あり

 注意:表示形式は対象者の理解に合わせて変化します

----------------------------------

 

 澪は固まった。

 

「本当に開いてる……」

 

 声が、思ったより小さくなった。

 

 リュシアは、自分の手を見る。

 

「画面みたいなものは見えないよ。けど、たしかに少し分かりやすくなってる」

 

 アルベルトの表情が引き締まる。

 

 司祭様も、静かに目を伏せた。

 

 教会の中で見えたものが、農場でも起きている。

 

 しかも、商人に。

 

 リュシアは机の上の通達文へ目を戻した。

 

「便利だけど、これを目当てに畑へ押しかけられたら迷惑だね」

 

「すでに、そうなりかけています」

 

 アルベルトが言った。

 

「なら、急いだ方がいい」

 

 リュシアは即答した。

 

「商人は早いよ。得になると思ったら、もう動いてる」

 

 澪は、朝から何度目か分からない頭痛を感じた。

 

 

 

 

 

 市場へ出ると、リュシアの言葉がすぐ現実になっていた。

 

 教会前から市場へ向かう通りの途中で、数人の商人が集まって話している。布地を扱う者、干し肉を並べる者、木箱を運ばせている者。みな、仕事の手を完全には止めていないが、耳と目は完全にこちらを向いていた。

 

「本当に商人でも鑑定が開くのか」

 

「なら、農場へ行けばいいのか」

 

「取引量を増やせば経験が入るのか」

 

「倉庫整理でもいいんじゃないか」

 

 一人が、もう歩き出そうとしていた。

 

「農場へ行って、被害跡を見ればいいんだろう」

 

 リュシアがその前に立った。

 

 小柄な少女が、年上の商人の前に立つ。

 

 けれど、その声は揺れなかった。

 

「ただ農場に行けばいいわけじゃないよ」

 

 商人が足を止める。

 

「けど、あんたは行ったんだろう」

 

「行ったよ。扱う品の責任を持つためにね」

 

 リュシアは、土のついた靴を少しだけ見下ろした。

 

「見て、覚えて、農場主に説明して、次に同じ品を売る時に間違えないようにする。そこを飛ばしても、たぶん何も開かない」

 

「たぶん?」

 

「神様じゃないから断言はしないよ。でも、畑を踏み荒らして経験が入るなら、商人じゃなくて迷惑客だ」

 

 周りの商人たちが黙った。

 

 澪は、リュシアを見た。

 

 走る時は早い。

 

 止める時も早い。

 

 しかも、相手が年上でも引かない。

 

 アルベルトもそれを見ていた。

 

 リュシアが市場側の抑え役になる。

 

 たぶん、今それを判断した顔だった。

 

 商人たちは完全には納得していない。

 

 それでも、一斉に農場へ向かう空気は少し止まった。

 

 リュシアは畳みかける。

 

「農場主の許可なしに畑へ入るな。品を扱いたいなら、まず責任者と話す。仕入れも販売も、順番を飛ばせば信用を失う。鑑定より先に、商売が終わるよ」

 

 その一言は効いた。

 

 商人たちは視線を交わし、何人かは気まずそうに荷の方へ戻った。

 

 澪は小さく言う。

 

「リュシアさん、レベルより商人力が強いです」

 

「何だい、それは」

 

「たぶん、今のが商才四です」

 

「低くないかい」

 

「少女としては高いです」

 

「ならいいよ」

 

 リュシアはあっさり言った。

 

 

 

 

 

 安心する間もなく、別の方向から騒ぎが起きた。

 

 市場の端を、若者たちが三人ほど駆け抜けようとしていた。木剣を持っている者もいる。顔には、怖さより興奮が浮かんでいた。

 

「レベルを上げれば騎士になれるんだろ」

 

「魔物を倒せば戦士になれるんじゃないか」

 

「外へ行こう」

 

 澪の背筋が冷えた。

 

 異世界小説の序盤で若者がやるやつ。

 

 そう思った。

 

 でも、笑えなかった。

 

 本当にやれば怪我人が出る。

 

 門の方へ向かおうとした若者たちの前に、衛兵が立った。

 

「止まれ」

 

「何だよ、訓練に行くだけだ」

 

「門の方へ向かっていた」

 

「外で魔物を倒せば、強くなれるんだろ」

 

 衛兵の顔が厳しくなった。

 

「許可なく外へ出るな」

 

「でも、騎士になれるかもしれないんだろ」

 

「訓練と無謀は違う」

 

 衛兵は木剣を持った若者の手元を見た。

 

「騎士になりたいなら、まず戻って訓練場の中で木剣を握れ。門の外で魔物を探すな」

 

「けど、魔物を倒せば」

 

「死んだ者は転職できない」

 

 その一言で、若者たちは黙った。

 

 澪も黙った。

 

 重い。

 

 でも、必要な重さだった。

 

 アルベルトが少し離れた場所からそのやり取りを見ていた。

 

 表情は変わらない。

 

 けれど、通達を急ぐ必要を改めて理解した顔だった。

 

 澪は、手帳を抱え直した。

 

 噂は、本当に速い。

 

 しかも、都合よく曲がる。

 

 商人は農場へ走ろうとし、若者は魔物へ走ろうとする。

 

 どちらも悪意ではない。

 

 期待と焦りだ。

 

 だからこそ、止めるのが難しい。

 

 

 

 

 

 教会側と侯爵家側の文官が、最後の文面を合わせた。

 

 文官が通達の写しを読み上げる。

 

 職業確認は、教会と侯爵家の準備が整うまで一般受付しない。

 

 教会前に並んでも順番は発生しない。

 

 寄進や金銭による優先確認は認めない。

 

 危険なレベル上げ、無許可の魔物討伐、農場への無断立ち入りを禁じる。

 

 本人の意思を無視した転職要求を禁じる。

 

 スキル持ちの強制雇用や囲い込みを禁じる。

 

 文官は読みながら、ところどころで言葉を確認した。

 

 司祭様が静かに言う。

 

「神前での意思確認を重んじる、という文を入れてください」

 

「入れます」

 

 文官が書き足す。

 

 アルベルトは、最後の一文で少し迷った。

 

「違反者は領内法により処罰する」

 

 言葉が強い。

 

 澪にもそれは分かった。

 

 だが、弱ければ誰も止まらない。

 

 司祭様とアルベルトが目を合わせた。

 

 司祭様が先にうなずく。

 

「暫定として、必要でしょう。ただし、罰するためではなく、無理を止めるための文として」

 

「その形にしよう」

 

 アルベルトが答えた。

 

 澪は、そのやり取りを見ながら、心の中で思った。

 

 本当に制度が始まってる。

 

 朝、手帳を見て頭を抱えていた時は、まだ自分の予定が増えたくらいの感覚だった。

 

 今は違う。

 

 教会、侯爵家、市場、農場、訓練場。

 

 全部が、少しずつ動いている。

 

 家令が使いを呼んだ。

 

「市場の掲示板へ一枚。教会前へ一枚。農場へ向かう道に一枚。訓練場の入口と、門番詰所、衛兵詰所にも写しを回してください」

 

 使いたちが走る。

 

 助祭が教会前の掲示場所へ向かう。

 

 文官が写しを渡す。

 

 衛兵が訓練場へ向かう。

 

 澪は、その慌ただしさを見ながら、ただ立っていた。

 

 立っているだけなのに、疲れた。

 

 

 

 

 

 市場の掲示板の前には、すぐ人が集まった。

 

 紙が貼られると、商人たちが近づき、読み上げる者の声に耳を傾ける。

 

「確認できないのか」

 

「順番が決まるなら待つしかない」

 

「寄進で駄目なのか」

 

「危険なレベル上げ禁止って、何が危険なんだ」

 

「収納が開くなら早く知りたい」

 

 声は次々に出る。

 

 けれど、先ほどよりは一歩引いている。

 

 紙がある。

 

 侯爵家と教会の名前がある。

 

 それだけで、人は少し止まる。

 

 リュシアは掲示板の横で、また農場へ向かおうとした商人を睨んだ。

 

「読む前に走るんじゃないよ」

 

「いや、読むだけだ」

 

「足が農場向きだった」

 

「気のせいだ」

 

「商人の足は嘘をつくのが下手だよ」

 

 商人は気まずそうに目をそらした。

 

 澪は、その横で通達を見上げた。

 

 紙は、まだ新しい。

 

 墨も乾ききっていない。

 

 澪は、そっと鑑定をかけた。

 

----------------------------------

侯爵家暫定通達

 分類:領内告知

 目的:職業確認混乱の抑制

 状態:初回掲示

 効果:混乱抑制/限定

 懸念:抜け道探索、無許可レベル上げ、優先確認要求

 推奨:教会記録帳との連携

 神様メッセージ:最初の線は引かれました

----------------------------------

 

 澪は表示を見て、顔を上げた。

 

「神様、見てるならもう少し手伝ってください」

 

 返事はない。

 

 もちろん掲示板も出ない。

 

 ただ、通達の紙が風で少し揺れただけだった。

 

 リュシアが横から言う。

 

「見てるだけの神様なんだね」

 

「読者みたいな神様です」

 

「厄介だね」

 

「本当に」

 

 澪は心からそう答えた。

 

 けれど、神様メッセージの一文は、少しだけ重かった。

 

 最初の線は引かれました。

 

 たしかに線は引かれた。

 

 でも、その線がどれだけ守れるかは、これからだった。

 

 

 

 

 

 通達が貼られると、教会前の人だかりは一度散った。

 

 すぐ確認できないと分かれば、留まる理由が少し減る。

 

 市場の商人たちも、すぐ農場へ突撃するのはやめた。

 

 リュシアが目を光らせていたことも大きい。

 

 若者たちも、衛兵に止められて訓練場の中へ戻された。門の外へ出ようとしていた者は、木剣を持ったまましぶしぶ引き返した。

 

 リュシアは、もう一度農場へ戻ると言った。

 

「確認途中だからね。農場主に置き方をちゃんと残してくる」

 

「また戻るんですか」

 

「途中で放り出す方が危ないよ」

 

 澪は何も言えなかった。

 

 正しい。

 

 すごく正しい。

 

 正しいのに、リュシアの行動力が少し怖い。

 

 アルベルトは侯爵家へ戻り、追加の手順を作る準備を始めると言った。司祭様は教会側の記録帳を整えるため、助祭を集める。

 

 澪は、ようやく一息つける気がした。

 

 ほんの少しだけ。

 

 しかし、そのほんの少しは、すぐに消えた。

 

 文官が足早に戻ってきた。

 

「別の農場でも、作業員が“仕事が分かりやすくなった”と言い始めています」

 

 澪は空を見た。

 

 空は普通に青い。

 

 普通に青いのが、少し腹立たしい。

 

 文官はさらに続ける。

 

「訓練場でも、一人、素振りの途中に何か表示を見たと言い出しました」

 

「神様、広げる速度が早いです」

 

 澪は空に向かって言った。

 

 返事はない。

 

 アルベルトが低く言う。

 

「通達だけでは足りないな」

 

 司祭様が静かにうなずいた。

 

「教会側も、人を増やさねばなりません」

 

 リュシアは農場へ戻りかけた足を止め、肩越しに言った。

 

「商人側も、勝手に走らせないようにするよ」

 

 頼もしい。

 

 頼もしいが、みんな仕事を増やす方向にとても強い。

 

 澪は手帳を開く気力を失いかけた。

 

 

 

 

 

 通達は貼られた。

 

 教会前の人だかりも、一度は散った。

 

 市場も、表向きは落ち着いた。

 

 訓練場も、衛兵が若者たちを中へ戻した。

 

 けれど、澪には分かってしまった。

 

 もう、昨日と同じではない。

 

 商人は品物を見る目を変え始めている。職人は自分の道具を、ただの道具ではなく、何かが開くかもしれない入口として見始めている。若者は木剣を握り直し、農場の作業員は畑の土を昨日より長く見つめている。

 

 誰もが悪いわけではない。

 

 誰もが欲深いわけでもない。

 

 ただ、自分の仕事が、自分の力が、昨日より少し見えるかもしれない。

 

 その期待が、世界のあちこちで小さく灯っている。

 

 澪はそれを止めることはできないと理解した。

 

 守りの手順は、ようやく一枚目の紙になった。

 

 その頃にはもう、世界の方が二枚目をめくり始めていた。

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