押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第62話 異世界混乱4

 

 通達は、ちゃんと貼られていた。

 

 教会の入口横、昨日のうちに助祭が選んだよく見える板壁に、侯爵家と教会の名を並べた紙がまっすぐ留められている。墨はもう乾いていた。朝の光が斜めに当たり、文字の黒がやけにはっきり見える。

 

 職業確認の一般受付は、まだ始めない。

 

 本人の意思確認と記録の準備が必要。

 

 寄進や金銭による優先確認は認めない。

 

 危険なレベル上げは禁止。

 

 澪は、その紙を見て少しだけ安心しかけた。

 

 だが、その下に人がいた。

 

 大声で騒いでいるわけではない。押し合っているわけでもない。けれど、昨日より早い時間なのに、教会の石段の下には十人ほどが立っていた。男も女も、商人らしい者も、子どもを連れた母親もいる。

 

 皆、通達を見上げ、それから教会の扉を見る。

 

「受付はまだしないらしい」

 

「でも、名前だけでも聞いてもらえないのか」

 

「息子が何の職に向いているかだけでも」

 

 助祭が困った顔で対応していた。

 

「申し訳ありません。一般受付はまだ始まっておりません。順番も、まだ作っておりませんので」

 

「順番だけでも」

 

「順番もまだなのです」

 

 同じ言葉を何度も繰り返す助祭の顔が、すでに少し疲れている。

 

 澪は頭を抱えそうになった。

 

 貼った。

 

 通達は貼った。

 

 それなのに、人は来る。

 

 アルベルトは隣で、教会前の人の流れを冷静に見ていた。朝の光の中で、彼の顔は昨夜よりもさらに引き締まっている。

 

「通達だけでは足りないな」

 

「早くないですか。昨日貼ったばかりですよ」

 

「だから分かりやすい。紙だけでは人は止まらない」

 

 司祭様が教会の中から出てきた。

 

 昨日と同じように、声を荒げない。けれど、その場にいる者たちが自然と口を閉じる声だった。

 

「職業確認の一般受付はまだ始めません。本人の意思確認と記録の準備が必要です。今ここで名を書いても、順番にはなりません」

 

 子どもを連れた母親が、不安そうに一歩前に出た。

 

「この子に向いた職だけでも、先に分かれば……」

 

 司祭様は子どもを見て、少しだけ表情を和らげた。

 

「その子自身が望むことを聞かずに、職を決めることはできません。子どもであれば、なおさら慎重にします」

 

 母親は口を閉じた。

 

 納得したというより、何を言えばいいか分からなくなった顔だった。

 

 澪はその横顔を見て、胸が少し痛くなった。

 

 悪い人ではない。

 

 子どものために知りたいのだ。

 

 けれど、その気持ちだけで走れば、誰かの意思を置き去りにする。

 

 アルベルトが低く言った。

 

「教会前で説明を繰り返すだけではもたない。各所で受け止める仕組みが要る」

 

 澪は、教会の扉と通達と人々の顔を順に見た。

 

 世界改変は、どうやら朝寝坊をしてくれないらしい。

 

 

 

 

 

 市場へ向かうと、いつもの市場なのに、いつもの市場ではなかった。

 

 野菜の山も、布の屋台も、干し肉の匂いも、パンを焼く香りも変わらない。だが、商人たちの手元だけが少しおかしい。

 

 布屋の男は、同じ布を何度も広げては、陽にかざして色むらを見ている。

 

 果物売りの女性は、林檎のような赤い実を一つずつ持ち上げ、裏返し、傷を見つけては別の籠に分けている。

 

 香辛料を扱う店では、店主が袋の口を開け、匂いを確かめ、首をかしげ、また別の袋を開けている。

 

 秤を持った若い商人は、目盛りを何度も見直していた。

 

 誰も悪いことをしているわけではない。

 

 ただ、皆がいつもより見すぎている。

 

 何かが見えるかもしれない。

 

 そう思っている目だった。

 

 澪は、嫌な予感を抱えたまま、人だかりの中心を見た。

 

 リュシアがいた。

 

 小柄な少女の周りに、大人の商人たちが半円を作っている。

 

「どうやったら見えるんだ」

 

「農場へ行けばいいのか」

 

「仕入れを増やせばいいのか」

 

「高い品を扱った方がいいのか」

 

「帳簿をつけ直せばいいのか」

 

 リュシアは眉間にしわを寄せていた。

 

 怒っているというより、少し困っている。

 

 だが、引いてはいない。

 

「見ようとして見るものじゃないよ」

 

 リュシアは、きっぱり言った。

 

「扱う品の責任を持って、ちゃんと見たら、少し分かりやすくなっただけだ」

 

「ちゃんと見るって何だ」

 

「傷がないか、使い方を間違えたら危なくないか、誰に売るべきか、売った後に困らないか。そういうことだよ」

 

 別の商人が言う。

 

「じゃあ、農場へ行けば」

 

「だから、畑へ押しかけるなって言ってるんだよ」

 

 リュシアの声が少し強くなった。

 

「農場主の許可もなく畑に入って、土を踏み荒らして、それで何か開くと思うなら、商人じゃなくて迷惑客だ」

 

 商人たちは黙った。

 

 昨日も似たようなことを言っていた気がする。

 

 だが、今日の方が相手の数が多い。

 

 澪は、リュシアがすでに説明役にされていることに気づいた。

 

 リュシアは少女だ。

 

 商人として筋がいい。判断も早い。言葉も強い。

 

 でも、だからといって大人たちの質問を全部受け止める役を背負わせていいわけではない。

 

 アルベルトも同じことを見ていた。

 

 視線が、リュシアと周囲の商人たちを一巡する。

 

「リュシア一人に市場の説明を負わせるのは危険だな」

 

「ですよね」

 

 澪は即答した。

 

 リュシアがこちらに気づく。

 

「澪、ちょうどいい。何とか言っておくれ」

 

「私が言うと、たぶん余計に質問が増えます」

 

「役に立たないね」

 

「否定できないです」

 

 リュシアはため息をついた。

 

 少女の肩に、昨日より少しだけ重いものが乗っているように見えた。

 

 

 

 

 

 市場のざわつきがまだ収まらないうちに、農場から来た作業員が通りの端で帽子を握りしめていた。

 

 リュシアが気づき、手招きする。

 

「どうしたんだい」

 

 作業員は、農場主と一緒に来ていた。昨日、ラージラットの被害跡を案内してくれた顔だ。服には土の色が残っている。農場主の方は困ったような、少し期待しているような表情だった。

 

「その、妙なんです」

 

 作業員は帽子を握ったまま言った。

 

「前から見ていたはずなのに、今日は土の乾いているところが目につくんです」

 

 澪は目を向けた。

 

「土の乾いているところ?」

 

「はい。水をやったあと、いつもより乾きが早い場所が分かるというか。芋の葉の虫食いも、どこから広がったか分かる気がして」

 

 作業員は自分でも不思議そうに手を見た。

 

「今までも見ていたんです。でも、今日は見落としていたものが引っかかるんです」

 

 農場主が口を挟む。

 

「役に立つならありがたい。だが、これを聞いて、見えるようになりたい者が勝手に畑へ入るのは困ります。畑は踏めば傷みますし、作業の邪魔にもなる」

 

 アルベルトの顔が厳しくなる。

 

 澪は作業員へ向き直った。

 

「鑑定してもいいですか」

 

「はい」

 

 作業員は緊張した顔でうなずく。

 

 澪は鑑定した。

 

----------------------------------

農場作業員

 分類:人間/農場従事者

 役割:畑作業

 現在ジョブ:農夫

 レベル:2 → 3

 既得スキル:畑仕事:2

 芽生え:作物観察:1

 未開放系統:あり

 注意:日々の作業経験が技能成長に反映されています

----------------------------------

 

 澪は表示を見て、ゆっくり息を吐いた。

 

「畑仕事でも、ちゃんと反映されてます」

 

 作業員は目を丸くする。

 

「反映、ですか」

 

「毎日の作業経験が、技能として芽になったみたいです。作物観察が一です」

 

「作物、観察」

 

 作業員は困ったように、けれど少しだけうれしそうに言葉を繰り返した。

 

 農場主はすぐ現実に戻る。

 

「では、農場側でも記録が必要ですな。誰が何を見たか、作業にどう影響したか。口だけでは後で揉めます」

 

 アルベルトがうなずいた。

 

「農場側にも責任者が要る。農場主、あなたとリュシアに協力を頼みたい」

 

 リュシアが少し顔をしかめる。

 

「私もかい」

 

「商人側と農場側の間を見る者が必要だ」

 

「仕事が増えるね」

 

「増える」

 

「正直だね」

 

 リュシアは小さく息を吐いたが、断らなかった。

 

 澪は、畑の土を見る作業員の目が、昨日とは少し違うことに気づいた。

 

 それは戦闘でも、派手な魔法でもない。

 

 けれど、確かに世界改変だった。

 

 

 

 

 

 次に来たのは、市場管理側の帳簿係だった。

 

 若い男で、片手に帳面を抱えている。走ってきたのか、少し息が上がっていた。

 

「申し訳ありません。市場管理の方で、少し妙なことが」

 

 文官がすぐに反応する。

 

「帳面か」

 

「はい。場所代の記録を見直していたら、計算違いや記入漏れが妙に引っかかるようになりまして」

 

 帳簿係は、抱えていた帳面を開いた。

 

「最初は、目がよくなったのかと思いました。でも、数字がずれているところだけ、指が止まるんです」

 

 文官の目が鋭くなる。

 

 澪は、これは文官の領域だと思いながらも鑑定した。

 

----------------------------------

市場帳簿係

 分類:人間/市場管理

 役割:帳簿確認

 現在ジョブ:書記官見習い

 レベル:1 → 2

 既得スキル:計算:1

 芽生え:帳簿確認:1

 未開放系統:あり

 注意:反復作業により技能の芽が出ています

----------------------------------

 

 表示を聞いた文官が、はっきり反応した。

 

「これは市場管理にも影響します」

 

 アルベルトが文官を見る。

 

「税か」

 

「税もです。場所代、在庫記録、商人登録、今後の職業確認記録にも関わります」

 

 文官は帳簿係の帳面を見ながら続けた。

 

「農場は農場、教会は教会、市場は市場で別々に書けば、後で合わなくなります。記録様式をそろえなければ、確認した者、レベルが上がった者、職を変えた者の情報がつながりません」

 

 澪は、また胃のあたりが重くなるのを感じた。

 

 世界改変は、スキルが出て終わりではない。

 

 記録がいる。

 

 しかも共通の記録がいる。

 

 異世界でデータベース設計みたいな話になってきた。

 

 口に出すとまた聞かれるので、澪は黙った。

 

 アルベルトは迷わず言った。

 

「採用する。文官、教会記録帳、市場記録、農場記録で最低限の項目をそろえろ」

 

「承知しました」

 

 文官の返事には、仕事が増えた人間の重みがあった。

 

 

 

 

 

 訓練場から来た衛兵は、若者を一人連れていた。

 

 昨日、門の外へ出ようとして止められた若者とは違う。こちらは木剣を持っているが、逃げ出そうとしている顔ではない。むしろ、何かを期待している顔だった。

 

「訓練中に妙なことを言い出しまして」

 

 衛兵が言った。

 

 若者は少し照れたように木剣を握り直す。

 

「素振りをしていたら、体の動かし方が少し分かりやすくなったんです。腕だけで振るとぶれるとか、足を先に置くとか。前にも言われていたはずなのに、急に分かったというか」

 

 目が輝いている。

 

「これで戦士になれますか」

 

 澪はその期待が危ういと思った。

 

 希望は悪くない。

 

 でも、期待がまっすぐすぎる。

 

 澪は鑑定した。

 

----------------------------------

訓練生

 分類:人間/訓練参加者

 役割:基礎訓練

 現在ジョブ:見習い

 レベル:1 → 2

 芽生え:剣術:1

 未開放系統:あり

 注意:安全な反復訓練により技能の芽が出ています

----------------------------------

 

 若者が、表示の説明を聞いて顔を明るくした。

 

「やっぱり戦士に」

 

「まだ見習いだ」

 

 衛兵がすぐ止めた。

 

 声は厳しいが、怒鳴ってはいない。

 

「外へ行く理由にはならない」

 

「でも、剣術が」

 

 澪も慌てて口を挟む。

 

「安全な反復訓練で芽が出たって書いてあります。魔物を探しに行けって意味じゃないです」

 

 若者は少し不満そうにした。

 

「じゃあ、訓練を続ければいいんですか」

 

「はい。少なくとも、門の外で魔物を探すよりずっと正しいです」

 

 衛兵がうなずいた。

 

「騎士になりたいなら、まず訓練場の中で木剣を握れ。勝手に外へ出た者は、訓練以前に叱られる」

 

 若者は木剣を見下ろした。

 

 期待は消えていない。

 

 けれど、危険な方向へ走る勢いは少し削がれた。

 

 アルベルトはそれを見て言った。

 

「訓練場にも正式な説明が要るな。安全な反復訓練で芽が出ると分かれば、外へ飛び出す理由を減らせる」

 

 澪はうなずいた。

 

 異世界小説なら、主人公はここで外へ出て魔物を倒すのかもしれない。

 

 でも、現実にそれを皆がやったら、怪我人だらけになる。

 

 やっぱり説明がいる。

 

 しかも、職種別に。

 

 

 

 

 

 報告は一つでは終わらなかった。

 

 商人。

 

 農場作業員。

 

 帳簿係。

 

 訓練生。

 

 それぞれが、自分の仕事の中で何かを感じ始めている。

 

 澪は、教会の脇部屋に戻ってから、机の上に並んだ報告を見ていた。紙の上には、文官が急いでまとめた記録が置かれている。農場主からの報告、市場管理からの報告、訓練場からの報告。助祭が持ってきた教会前の人数の記録まである。

 

 司祭様は、それらを一つずつ見た。

 

「教会だけで全ての実務を判断することはできません」

 

 静かな言葉だった。

 

 だが、はっきりしていた。

 

「教会は、本人の意思を確認し、神前で職を変える場にはなれます。けれど、畑仕事の良し悪し、商人の取引、職人の手の使い方、訓練の安全まで、教会だけで判断することはできません」

 

 澪は、少しほっとした。

 

 司祭様がそう言ってくれたことに。

 

 全部教会へ行けばいい、という流れになったら、教会が潰れる。

 

 そして、澪も巻き添えで潰れる気がした。

 

 アルベルトは、机の上の報告を見比べた。

 

「教会だけでは足りない。職ごとに、見る者が要る」

 

 文官が筆を構える。

 

 アルベルトは一つずつ確認するように言った。

 

「商人側は、リュシアと市場管理に協力を頼む。農場側は農場主と、品の流れを見るリュシア。職人や錬金の芽は、専門家が要る。セルマを呼ぶ」

 

 澪はその名前にうなずいた。

 

「錬金術や素材、工房の仕事は、セルマさんに見てもらった方がいいです。私だけだと、見えても判断できません」

 

「戦闘と訓練は騎士と衛兵だ。外へ出るかどうか、安全かどうかは現場で止める。教会は本人意思確認と神前確認、職業変更の認証を担う。全体の記録と通達は侯爵家で見る」

 

 澪は、なるほどと思いかけたところで、嫌な単語を聞いた。

 

「澪は説明補助だ」

 

「補助でお願いします。主担当にしないでください」

 

 即座に言った。

 

 アルベルトは真顔でうなずく。

 

「分かっている」

 

 澪は少しだけ目を細めた。

 

 分かっている人の顔ではある。

 

 けれど、忙しくなったら補助が主担当に変わることを、澪は現代側の大学と会社手続きで何度も見ている。

 

「本当に補助でお願いします」

 

「分かっている」

 

 二回目だった。

 

 少し信用できない。

 

 リュシアが横で笑った。

 

「澪、逃げ道を先に作るのが上手くなったね」

 

「成長したくない方向に成長してます」

 

「それもスキルになるかもしれないよ」

 

「やめてください」

 

 神様が聞いていないことを祈った。

 

 

 

 

 

 職人や錬金系の話になったところで、澪は改めてセルマの顔を思い浮かべた。

 

 セルマの工房。

 

 素材の匂い。

 

 錬金釜。

 

 冷風箱の泡石。

 

 多孔質石の表面を確かめる真剣な目。

 

 あれを判断できるのは、澪ではない。

 

「セルマさんには、負担をかけることになりますけど」

 

「必要な呼び出しだ」

 

 アルベルトは言った。

 

「無理に巻き込むのではなく、専門家として意見を求める。職人や錬金術師の芽が出始めた時、素人が判断する方が危ない」

 

 家令がすぐに動いた。

 

「セルマ様の工房へ使いを出します。あわせて、市場管理人、農場主、訓練場責任者へも午後の集まりを伝えます」

 

「頼む」

 

 リュシアが口を挟む。

 

「セルマが来るなら、商売になるものと危ないものの線引きも聞きたいね。便利だからすぐ売る、じゃ危ない品も出るだろう」

 

 澪は、心の中でセルマへ謝った。

 

 セルマさん、仕事が増えます。

 

 でも、必要です。

 

 たぶん、とても必要です。

 

 

 

 

 

 アルベルトは、しばらく考えてから言った。

 

「全員を教会へ集めるのはやめる」

 

 司祭様がうなずく。

 

「その方がよいでしょう。教会前がまた人で詰まります」

 

「職ごとに説明する」

 

 アルベルトは机の上の紙を押さえた。

 

「商人は市場で。農場関係者は農場か集会所で。職人と錬金関係者は工房か作業場で。訓練生や護衛志望者は訓練場で説明する。教会では、職業確認と本人意思確認の手順だけを説明する」

 

 文官がすぐに書き始めた。

 

「説明会ごとの記録帳が必要です。場所ごとに書式が違うと後で照合できません」

 

「共通の項目を作れ」

 

「はい。名前、役割、現在ジョブ、確認者、本人意思、現場責任者の所見は必要です」

 

 澪は、その会話を聞きながら、そっと息を吸った。

 

 異世界で職業別オリエンテーションが始まった。

 

 口には出さなかった。

 

 出したら、絶対にアルベルトが「それは何だ」と聞く。

 

 説明したら、また仕事が増える。

 

 澪は学んでいた。

 

 黙ることも大事なスキルだ。

 

 できれば表示されないでほしい。

 

 

 

 

 

 職業別説明会の話がまとまりかけたところで、また小さな報告が来た。

 

 今度は鍋を抱えた職人だった。

 

 壊れた鍋を直していたら、どこを叩けば歪みが戻るか分かった気がすると言う。

 

 続いて、市場の少年が荷物を積む順番が分かりやすくなったと伝えてきた。

 

 さらに、農場の子どもが虫食いの葉を集め始めたという話まで届いた。

 

 どれも大事件ではない。

 

 誰かが倒れたわけでもない。

 

 町が燃えたわけでもない。

 

 だが、数が多い。

 

 小さい変化が、ぽつぽつ、ぽつぽつ、あちこちで灯り始めている。

 

 澪は疲れた声で言った。

 

「世界改変って、一気に大爆発じゃなくて、小さい通知が大量に来るタイプなんですね」

 

 リュシアが真顔で返す。

 

「商売で一番面倒なやつだね」

 

 アルベルトは報告書を見て言う。

 

「だから記録が必要だ」

 

 司祭様は静かに言う。

 

「だから祈りと確認が必要です」

 

 澪は目を閉じた。

 

 全員正しい。

 

 全員正しいのが、一番疲れる。

 

 

 

 

 

 夕方になって、ようやく最初の手配が一通り動き出した。

 

 教会では助祭が記録帳を整え、侯爵家の文官は共通の記録様式を作り始めている。家令はセルマの工房へ使いを送り、市場管理人と農場主へ連絡を走らせた。訓練場には、勝手に外へ出ないことと、安全な反復訓練を続けることを改めて伝える通達が向かっている。

 

 それでも、世界の変化は止まっていない。

 

 市場では、商人が品を見つめている。

 

 農場では、作業員が土の色と葉の虫食いを見ている。

 

 訓練場では、若者が木剣を振りながら、自分の足の置き方を気にしている。

 

 どこかの工房では、職人が道具を握り直している。

 

 澪は、それを全部自分で説明することはできないと理解した。

 

 見えるものを話すことはできる。

 

 異世界小説やRPGで危ない流れを指摘することも、少しはできる。

 

 けれど、商人のことは商人が、農場のことは農場が、訓練のことは騎士や衛兵が、工房のことはセルマたちが見なければならない。

 

 世界は、澪一人の前に開いたのではない。

 

 もう、あちこちで開き始めている。

 

 押し入れに戻る前、澪は夕方の空を見上げた。

 

「神様、これ、アップデートの説明書が足りません」

 

 返事はない。

 

 ただ、遠くで鐘が鳴った。

 

 世界は止まらなかった。

 

 だから人の側は、止めるのではなく、受け止める場所を増やすしかなかった。

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