セルマの工房へ向かう途中、澪は手帳を開いて、すぐに閉じた。
開けば、書くことが増える。
書かなければ忘れる。
どちらを選んでも負けている気がした。
石畳の道を歩くアルベルトの足取りは、相変わらず迷いがない。横には記録用の板を抱えた文官がいて、少し後ろを家令が歩いている。リュシアも同行していた。市場側の話が出るなら自分も聞く、と言ってついてきたのだ。
澪は、その横で小さく息を吐いた。
「職業別説明会って、言葉だけ聞くと大学のオリエンテーションみたいなんですよね」
「また澪の国の言葉かい」
リュシアが横目で見る。
「はい。人が集められて、説明を聞いて、紙をもらって、だいたい一回では理解できないやつです」
「嫌な予感しかしないね」
「私もです」
澪がそう答えたところで、工房の扉が見えた。
いつものように、工房の前には素材を入れた木箱が積まれている。乾いた草の束、砕いた石、瓶に入った粉、よく分からない金属片。扉の隙間からは、薬草と金属と熱の混じった匂いが流れてきた。
中から、何かを磨く音がする。
扉を叩く前に、内側から開いた。
セルマが立っていた。
派手な驚きはない。慌てた様子もない。ただ、目の奥に、すでにいくつかの答えを並べて待っていた人の静けさがあった。
「そろそろ来ると思っていたわ」
澪は一瞬、言葉を失った。
「ええと、まだ何も説明してません」
「だから、そろそろ説明に来ると思っていたの」
セルマは澪を見て、少しだけ笑った。
「工房の中でも、もう始まっているから」
その言い方で、澪は手帳を抱え直した。
やっぱり、ここにも届いていた。
アルベルトが一礼する。
「急な訪問を許してほしい」
「急ではないわ。こちらも、偶然で片づけるには少し多すぎると思っていたところよ」
セルマは扉を大きく開けた。
「入って。話は中で聞くわ」
工房に足を踏み入れると、いつもの作業音が澪を包んだ。
水を張った桶で素材を洗う音。石をすり潰す音。瓶を置く音。奥では小さな火が灯り、錬金釜のそばで弟子が何かをかき混ぜている。
なのに、工房の空気はいつもより少し張っていた。
弟子たちが、澪たちを見る。
好奇心。
不安。
そして、自分にも何か起きているのではないかという、落ち着かない期待。
セルマは作業台の前に立つと、澪を促した。
「それで、何が起きているの」
澪はうなずいた。
そして、説明を始めた。
世界改変。
レベル。
ジョブ。
スキル。
教会での職業確認。
司祭様にも表示が見えたこと。
市場で商人たちがざわついたこと。
リュシアに鑑定の芽が出たこと。
農場作業員に作物観察の芽が出たこと。
帳簿係が数字のずれに気づきやすくなったこと。
訓練生に剣術の芽が出たこと。
話しながら、澪は自分でも、説明が横へ横へ広がっていくのが分かった。説明しているはずなのに、途中で説明の枝が増えていく。
セルマはしばらく聞いていたが、やがて片手を上げた。
「澪、落ち着いて。今の説明だと、聞いた人が先に疲れるわ」
澪は固まった。
「私も疲れてます」
「でしょうね」
セルマは小さく笑った。
責める笑いではない。作業台に散らかった道具を見て、まず分類しましょう、と言う時の顔だった。
「つまり、神様が人の仕事や成長を見える形にし始めた。教会では職の確認ができる。けれど、仕事の中で起きる変化は、それぞれの現場で見ないと分からない。そういうことね」
澪は少しだけ救われた。
「はい。かなり整理されました」
「澪、説明する相手を間違えると、今度はあなたが迷子になるわ」
「もう半分くらい迷子です」
「半分で済んでいるなら、まだ戻れるわね」
セルマはそう言って、作業台の方へ視線を移した。
セルマは、桶のそばで素材を洗っていた弟子を呼んだ。
まだ若い少女で、手には濡れた草の根が握られている。慌てて手を拭こうとしたが、セルマがそれを止めた。
「そのままでいいわ。さっき言っていたことを、もう一度」
弟子は緊張した顔で澪たちを見た。
「ええと……いつも洗っている根なんです。でも、今日は乾き方が違うものが分かるというか、同じ束の中でも、こっちは水を吸いすぎているとか、こっちは中まで乾いているとか、そういうのが気になって」
「前から見えていた?」
「いえ。前は、汚れが落ちたかどうかくらいしか見ていませんでした」
セルマはうなずいた。
「それから?」
「混ぜる前の粉も、少し違って見えました。まだ混ぜていないのに、これを先に入れたら固まりそうだな、と」
弟子は自信なさそうに言う。
「勘違いかもしれません」
「一人だけなら、そう思ったわ」
セルマは奥の棚へ視線を向けた。
「でも、鍋を直していた職人は、叩く場所が分かる気がすると言った。別の子は、瓶に残った水気が気になると言った。偶然にしては、方向が揃っているの」
澪は工房を見渡した。
素材を洗う桶。
乾燥棚。
金具を置いた台。
錬金釜。
どれも今までと同じに見える。
けれど、その中で働く人たちの目が、昨日と少し違っている。
セルマが静かに言った。
「工房の中でも、もう始まっているのね」
澪はうなずいた。
「はい。たぶん」
アルベルトは、弟子たちの手元を見ていた。
「ここで起きていることは、市場や農場より静かだな」
「工房は大声を出すと手元が狂うわ」
セルマがさらりと言った。
「でも、静かでも危ないものは危ない」
その一言で、澪は背筋を伸ばした。
錬金術の工房で、見えるものが増える。
それは便利なだけではない。
間違えれば、危険も増える。
「セルマさん……じゃなくて、セルマ。鑑定してもいいですか」
澪は言いかけて、慌てて言い直した。
セルマが少しだけ目を細める。
「変なところで気を遣うのね。いいわ」
アルベルトも静かにうなずいた。
「必要な確認だ」
澪はセルマを見る。
落ち着いた立ち姿。
作業台の上の素材を一瞥するだけで、どれがどの工程に使われるか分かっている目。
それを鑑定する。
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セルマ
分類:人間/錬金術師
役割:工房主/素材加工
現在ジョブ:錬金術師
レベル:12
既得スキル:錬金:7
既得スキル:素材判断:6
既得スキル:調合:5
既得スキル:安定化:5
既得スキル:工房管理:4
未開放系統:あり
注意:既存技能が職業系統に再整理されています
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澪は表示を読んで、少し安心した。
知らない強力な名前はない。
突然、変なものが生えたわけではない。
セルマが今まで積み上げてきた仕事が、分かりやすい名前で整理されている。
澪が内容を伝えると、セルマは少し考えた。
「新しい力をもらった、というより、今までの仕事に名前がついた感じね」
「たぶん、それです」
澪はうなずいた。
「錬金とか素材判断とか、もともとセルマがやっていたことが、ジョブとスキルに整理されて見えてます」
アルベルトが、その言葉に反応した。
「それは重要だな」
「重要、ですか」
「人に説明する時に、突然別人になるわけではないと言える。積み上げたものが見えやすくなる、と」
セルマがうなずく。
「その方が、工房の者にも伝わりやすいわ。急に天から力が落ちてきたと言われるより、昨日までの手仕事が形になったと言われた方が、手が浮かれにくい」
「手が浮かれる」
澪が繰り返すと、セルマは弟子の方をちらりと見た。
「浮かれた手は、薬瓶を落とすの」
弟子がびくっとした。
澪は、セルマの工房では比喩が具体的に危険だと思った。
次に、セルマは素材洗浄をしていた弟子を前へ呼んだ。
弟子はさらに緊張した。
「私はまだ何もできません」
「だから見るの」
セルマは落ち着いて言った。
「何ができるかではなく、何に気づいたか」
弟子は、少しだけ肩の力を抜いた。
澪は鑑定する。
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錬金工房の弟子
分類:人間/工房従事者
役割:素材洗浄/下準備
現在ジョブ:錬金術師見習い
レベル:1 → 2
既得スキル:下準備:1
芽生え:素材観察:1
未開放系統:あり
注意:反復作業により素材の状態に気づきやすくなっています
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澪が読み上げると、弟子の顔がぱっと明るくなった。
「錬金術師見習い……」
その声には、喜びがにじんでいた。
セルマはすぐに釘を刺した。
「見習いは見習いよ。素材を洗う手を抜いていい理由にはならないわ」
弟子は慌ててうなずく。
「はい!」
「むしろ、気づくなら余計に丁寧に洗いなさい。汚れに気づいて、残したままにしたら、それは見えない時より悪いわ」
「はい!」
澪は、その説明に感心した。
ただ喜ばせない。
ただ抑えつけもしない。
見えるようになった分、責任も増える。
セルマはそれを、工房の言葉で弟子に戻している。
アルベルトも、そのやり取りを見ていた。
制度としてどう書くかではなく、現場でどう伝えるか。
それが、この工房にはある。
奥から、若い職人が呼ばれた。
彼は近くの工房に出入りしている職人で、今日は壊れた鍋の縁を直しに来ていたらしい。手には小さな槌を持っている。鍋は作業台の上に置かれ、縁が少し歪んでいた。
「昨日までは、どこを叩いても同じように思えたんです」
若い職人は、鍋の縁に指を添えた。
「でも今日は、ここを叩くと戻る、ここは叩くと余計に曲がる、そういうのが気になるんです。見えるというより、手が嫌がるというか」
リュシアが小声で言う。
「商人の値札と似てるね」
「職人の手の値札ですか」
澪が返すと、若い職人が困った顔をした。
「値札ではないです」
「すみません」
澪は素直に謝った。
鑑定する。
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若い職人
分類:人間/職人
役割:道具修理/金具調整
現在ジョブ:細工師見習い
レベル:1 → 2
既得スキル:手仕事:1
芽生え:修理感覚:1
未開放系統:あり
注意:反復作業により道具の歪みに気づきやすくなっています
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セルマは表示を聞き、少し目を細めた。
「これは錬金術師だけではないわね」
澪はうなずく。
「はい。職人系です」
「素材を見る目と、形を直す手は、似ているけれど別の仕事よ」
セルマは鍋の縁を指でなぞった。
「錬金術師は素材の性質を見る。職人は形と使い心地を見る。重なるところはあっても、同じに扱うと危ないわ」
澪は、自分のスキルツリーを思い出した。
商人系。
錬金術師系。
職人系。
分けて表示されていた理由が、少し分かった気がした。
「職人系説明会と錬金術師系説明会、同じ工房でも分けた方がいいかもしれません」
「そうね」
セルマは即答した。
「同じ場所でやっても、見るものは分ける。素材を見る時間と、道具を直す時間を混ぜない方がいいわ」
文官がすぐに記録した。
澪は、文官の筆の速さにも、そろそろスキルが芽生えそうだと思った。
言わないでおいた。
アルベルトは、作業台の上の鍋と素材を見比べてから、セルマへ向き直った。
「職人・錬金系の説明役を頼みたい」
セルマはすぐに返事をしなかった。
作業台の端に置かれた乾燥中の素材を少しずらし、空いた場所に手を置く。
「範囲を決めましょう」
その言葉は、引き受ける前の線引きだった。
「錬金術師や職人の仕事の中で何が起きているかは見ます」
セルマは一つずつ、道具を分けるように言葉を置いた。
「でも、職を変えるかどうかは教会」
司祭様が同行していればうなずいたであろう言葉だった。今日は教会側から助祭が一人、記録のためについてきていた。その助祭が小さく頭を下げる。
「記録と通達は侯爵家」
文官が筆を止めずにうなずく。
「商売に乗せるかどうかは商人」
リュシアが腕を組む。
「そこは見るよ。危ないものを便利だからって売ったら、あとで店ごと沈むからね」
「私は工房で、危ない芽と役に立つ芽を見分けるだけです」
セルマの声は静かだった。
だが、その静けさの中に、ここから先は持ち込まないで、という強さがあった。
アルベルトはうなずいた。
「その線引きでいい。制度全体を君に預けるつもりはない。侯爵家は全体の記録と調整を担う」
「なら見ます」
セルマは短く答えた。
澪は、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
誰か一人が全部背負う話ではなくなってきている。
商人は商人。
教会は教会。
侯爵家は侯爵家。
工房は工房。
その当たり前の分担が、今はとてもありがたかった。
話が一段落したところで、澪は手帳を開いた。
職人・錬金系説明会。
素材洗浄の弟子。
若い職人。
セルマ工房。
教会確認。
侯爵家記録。
商人側判断。
書いているうちに、またページが埋まっていく。
セルマがそれを見た。
少しだけ笑った。
「澪、まさか一人で説明して回るつもりだった?」
澪は即答した。
「つもりはないです。ないんですけど、気づいたら説明役に置かれてます」
「それは、早めに分けた方がいいわ」
「分けたいです。すごく分けたいです」
「説明する相手を間違えると、今度はあなたが迷子になるわ」
澪は手帳を見下ろした。
すでに少し迷子である。
「セルマ、戻り道を教えてください」
「まず、あなたが説明することと、説明しないことを分けなさい」
セルマは作業台を指で軽く叩いた。
「工房のことは私が見る。商売のことはリュシアたちが見る。職を変える話は教会。記録は侯爵家。澪は、見えたものを必要な相手に渡すだけでいいわ」
リュシアがにやりとした。
「澪、渡すだけだってさ」
「その“だけ”が増殖するんですよ」
「増えたら分けるんだよ」
セルマが言った。
「工房ではそうするわ。材料も作業も、一つの台に積みすぎると壊れるから」
澪はその言葉に、少しだけ救われた。
説教ではない。
仕事の分け方として言ってくれている。
それが、今の澪にはありがたかった。
セルマ工房で、職人・錬金系の説明会を行う方針はすぐにまとまった。
ただし、人を詰め込むことはしない。
工房は作業場だ。素材も火も瓶もある。市場の広場のように人を入れれば、説明会ではなく事故になる。
家令が人数を確認する。
「最初は工房主、見習い代表、道具修理をする職人、素材採取担当。このあたりに絞りましょう」
「作業台の周りに立てる人数までね」
セルマが言う。
「口だけで説明しても、たぶん分からないわ。素材を見せて、触って、どこが違うかを比べた方が早い」
澪は、セルマらしいと思った。
現物を出す。
触らせる。
比べさせる。
それが工房の説明なのだ。
アルベルトは文官へ指示する。
「記録担当をつける。工房での説明と、教会での職業確認がつながるように」
「承知しました」
文官はすでに新しい紙を用意している。
リュシアが言う。
「商人側も見に来たいけど、人数を絞るなら私だけでいい。危ないものと売れるものの線引きは、聞いておきたい」
「売れるもの、ではなく、売ってよいものね」
セルマが訂正する。
リュシアは少し笑った。
「そういうところを聞きに来るんだよ」
澪は、そのやり取りを見て、少しだけ安心した。
セルマとリュシアは方向が違う。
でも、どちらも現場を見ている。
便利だから使う、だけでは止まらない。
危ないなら止める。
そこが見えている。
説明会の段取りが固まりかけたところで、セルマは作業台の上に置かれた素材を一つ手に取った。
薄い灰色の石片だった。
「これは、便利な力ではありません」
工房の中が静かになった。
弟子たちも、若い職人も、手を止める。
「仕事の責任が、少し見えやすくなっただけです」
セルマは石片を光にかざした。
「素材を見るなら、見えた分だけ扱いを間違えられなくなる。道具の歪みが分かるなら、直せないとは言いにくくなる」
弟子が喉を鳴らした。
若い職人は、鍋の縁を見た。
「見えるようになったから楽になる、ではないわ」
セルマは石片を作業台へ戻す。
「見えるようになった分、手を抜いた時に自分で分かるようになる」
澪は、その言葉で少し腑に落ちた。
世界改変。
レベル。
ジョブ。
スキル。
ずっと、ゲームのような言葉に振り回されていた。
けれど、セルマの工房で見ると違う。
それは、人を魔法のように強くするものではない。
昨日まで見落としていたものを、少しだけ見えやすくするものだ。
そして、見えてしまったものには、責任がついてくる。
リュシアが頷いた。
「傷が見えるなら、傷ありを傷なしとは売れないからね」
「そういうこと」
セルマは短く答えた。
澪は、神様がこれをどこまで考えていたのか、少しだけ疑った。
たぶん、面白がってはいる。
けれど、人の努力と適性を見える形にした、という言葉は嘘ではなかったのかもしれない。
問題は、見えた後に、人がどうするかだ。
確認が終わる頃には、工房の空気が少し変わっていた。
市場のようなざわめきはない。
訓練場のような熱もない。
けれど、弟子たちは素材洗浄に戻る時、さっきより少し真剣に根の表面を見ていた。若い職人は、鍋の歪みに槌を当てる前に、一度深く息を吸った。
セルマは説明会の準備に入るため、棚から見本に使えそうな素材を選び始めた。
文官は記録用の紙をまとめ、家令は人数制限と日程を確認している。アルベルトは、工房を一度見回してから、セルマへ短く礼を言った。
「助かる」
「工房の中で済む範囲なら」
セルマはそう返した。
範囲を超えたものは持ち込まないで、という意味でもある。
澪は、工房の中に広がる静かな変化を見ていた。
誰も叫ばない。
誰も、急に強くなったと騒がない。
ただ、素材を見る目と、道具を握る手が、昨日と同じではなくなっている。
世界改変は、魔法のように人を強くするものではなかった。
昨日まで見落としていた責任を、少しだけ見えやすくするものだった。
そしてそれは、職人の工房にも、もう届いていた。