押入商会の帳簿は、数字だけ見れば順調だった。
六月の家具・木工品売上は、もう少しで一千万円に届くところまで来ていた。七月分も、今の受注状況をそのまま積み上げれば、一千五百万円前後は見込める。
普通なら、喜んでいい数字だった。
普通なら。
澪は現代側の机に肘をつき、帳簿の端に書かれた受注残の数字を見つめた。
「売れてるのに、胃が痛い……」
押入家具工房の品は、在庫を並べて売っているわけではない。
注文を受ける。
寸法を確認する。
用途を聞く。
仕上げを決める。
異世界側の家具工房へ制作を頼む。
完成したものを澪が持ち帰る。
現代側で検品する。
納品する。
売れた瞬間に終わる商売ではなかった。
売れた瞬間に、納期が発生する商売だった。
澪は、別の紙を手に取った。
そこには、前に考えかけた木工小物の案が並んでいた。ペントレイ、小物箱、アクセサリートレイ、ブックスタンド、スマホスタンド。どれも、売れそうではある。
売れそうではあるが、売れた数だけ澪が写真を撮り、説明文を書き、検品し、包み、送り、問い合わせに答える未来が見えた。
澪は無言で、その紙に大きく線を引いた。
「小物は、私が死ぬ」
次に、高級石材と書いた紙を見る。
少数高単価。法人向け。店舗や旅館の内装材。
考え方は悪くない。
悪くないのだが、侯爵領の山へ石を探しに行く自分の姿を想像したところで、澪はそっと紙を裏返した。
「それ、話が大きくなりすぎます」
採石場、石工、運搬、加工、重さ、現代側の設置。
今、世界改変の混乱がようやく一区切りになったばかりなのに、山と石材に手を出すのは、どう考えても早かった。
澪はペンを持ち、白いメモ用紙の上でしばらく止まった。
数を売らない。
高単価。
できれば軽い。
できれば、異世界側で価値があり、現代知識ともつながるもの。
そこで、以前リュシアが何気なく口にした言葉を思い出した。
森の香り茸。
澪は紙の上に、ゆっくり書いた。
「高級食材」
書いたあとで、少しだけ嫌な予感もした。
食べ物は、家具よりも面倒だ。
腐る。
安全確認がいる。
味を見る必要もある。
けれど、小物百個よりは、まだ話になるかもしれない。
澪はため息をついて、押し入れの方を見た。
「……聞くだけ。今日は聞くだけです」
そう言った時点で、自分が聞くだけで済んだことはほとんどないと気づいたが、澪は気づかなかったことにした。
リュシアは、帳簿の束を片づけているところだった。
市場の一角に置かれた小机の上には、品物札と小さな記録帳が積まれている。世界改変騒動のあと、リュシアは商人側の説明役として、まだ落ち着ききらない商人たちの相手をしていた。
澪が高級食材の話を切り出すと、リュシアはすぐに顔を上げた。
「食材?」
「はい。小物は無理です。石材は大がかりです。なら、少数で高く売れる食材はどうかなと」
「澪の国で売るのかい」
「いきなり向こうで売るのは怖いです。まずは、こちらで価値があるものから見たいです」
リュシアは少し考え、指先で帳簿の端を叩いた。
「なら、森の香り茸だね」
「やっぱりありますか」
「あるよ。侯爵家の料理人や貴族料理店が欲しがる。香りが強くて、少し入れるだけで料理の格が上がるんだとさ」
「おお」
「ただし、欲しい時にない」
リュシアは、そこだけ商人らしく低い声で言った。
「森で採れる。季節で変わる。場所も年によって違う。雨が多すぎても駄目、乾きすぎても駄目。高いけど、商売にするには一番困る品だね」
澪の頭に、現代で聞いたことのある高級な茸が浮かんだ。
土の中にできる黒い茸。
蜂の巣のような形の茸。
香りが強く、秋になると話題になる茸。
「トリュフ、アミガサダケ、松茸……」
「とりふ?」
「私の国で高い茸です」
「キノコ?」
「はい。茸の中には、ものすごく高く売れるものがあります」
リュシアの目が少し細くなった。
「ものすごく、ね」
「ただ、簡単には増やせません」
「そこまで含めて商売の話だよ。見に行く価値はある」
リュシアは帳簿を閉じ、顔を上げた。
「茸を探すのが異様に上手い子がいる」
「子?」
「森の近くの村にいる採取者だよ。名前はネリス・モルナ。倒木や湿った土ばかり見ていて、村では少し変わり者扱いされてる」
その時、横で素材の包みを見ていたセルマが静かに顔を上げた。
「茸の採取者なら、私も見た方がいいわね」
「セルマさんもですか」
「澪、澪の国へ持っていく前に、こちらで食べられるか、腐るか、毒がないかを分ける方が先よ」
「それ、すごく正しいです」
高く売れそう、の前に、安全かどうか。
澪は、食材が家具より面倒な理由を、早くも思い出していた。
森の近くの村は、侯爵領の端にあった。
大きな街道から少し外れ、木々の匂いが濃くなる。道の脇には、刈られた草が乾き、低い石垣の向こうに小さな畑が見えた。
リュシアが村の者に声をかけると、相手は少し困ったような顔をした。
「ああ、ネリスなら森の手前にいると思いますよ。また地面を見てるんじゃないですかね」
「茸採りが上手いんだろう?」
「上手いんですけどね。なんというか、茸じゃないものまで気にするんで」
「茸じゃないもの?」
「倒れた木とか、湿った葉とか、土とか。あそこは寝てる、こっちは怒ってる、とか言うんですよ」
澪は思わずセルマを見た。
セルマは、少しだけ目を細めている。
「会った方が早そうね」
森の入口へ近づくと、一人の少女がしゃがんでいた。
年は澪より少し下か、同じくらいに見える。髪は肩のあたりで無造作に結ばれ、服の裾には土がついている。手には小さな籠を持っていたが、中には茸だけではなく、落ち葉や木の欠片のようなものまで入っていた。
少女は澪たちを見るより先に、足元を見た。
「そこ、踏まない方がいいです。下に、いる感じがします」
澪は足を止めた。
「いる感じ?」
ネリスはようやく顔を上げた。灰色がかった目が、澪たちの顔を順番に見て、それからまた地面へ戻る。
「踏むと、嫌がると思います」
「誰が?」
「……下のものが」
澪には、ただの腐葉土に見えた。
湿った落ち葉が重なり、細い木の根が少しだけ地表に浮いている。森の入口ならどこにでもありそうな土だった。
セルマは、しゃがんで土を見た。
「何がいるかは、見えないのね」
ネリスは小さくうなずく。
「見えません。でも、いる感じがします。ここは落ち着いてます。そっちは乾きすぎです」
そう言って、少し離れた倒木の方を指す。
「あの木の下は、春に出ると思います」
「茸が?」
「たぶん」
「たぶん、なのね」
「はい。出ない時もあります」
説明は曖昧だった。
けれど、ネリスの視線は迷っていない。
倒木の裏、湿った葉、木の根元。ネリスは、森の表面ではなく、その下にある何かを追っているように見えた。
澪は、小さく息を吸ってから、ネリスを鑑定した。
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ネリス・モルナ
分類:人間/採取者
役割:茸採り/森歩き
現在ジョブ:採取者
レベル:4
既得スキル:森歩き:3
既得スキル:茸採取:3
芽生え:菌感知:1
芽生え:菌好意上昇:1
未開放系統:あり
注意:菌そのものが見える技能ではありません
注意:湿度、匂い、腐葉土、木の根、発酵、腐敗の違和感を感じ取りやすい
補助:顕微鏡観察により、感覚のイメージ補強が可能
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澪は表示を二度見した。
「菌感知……菌好意上昇……」
リュシアが眉を寄せる。
「キン?」
セルマも、少しだけ首を傾げた。
「澪、その言葉は何?」
ネリスはもっと困った顔をしている。
「私、何か悪いものを持っているんですか」
「あ、いえ、違います。ええと……」
澪は、自分がいきなり現代語を投げたことに気づいた。
「……すみません。そこから説明ですね」
三人の視線が澪に集まる。
森の湿った空気の中で、澪は口を開き、すぐに閉じた。
菌とは何か。
目に見えないくらい小さい生き物のようなもの。
茸やカビや発酵や腐敗に関わるもの。
土や木や食べ物の中にいるもの。
説明しようとすればするほど、異世界側の言葉から少しずつ浮いていく。
「私の国では、目に見えないくらい小さなものがいると分かっています。それが、茸が育つことや、ものが腐ることや、発酵することに関わっていて……」
「見えないものが、いる?」
リュシアは納得しきれない顔をした。
ネリスは足元の腐葉土を見たまま、小さく言う。
「見えないなら、どうして分かるんですか」
「道具を使うと、少し見えます」
澪がそう言うと、セルマの目が少しだけ鋭くなった。
「澪。その道具、持ってこられる?」
「持ってきます。あと、見本も」
「見本?」
「高い茸です」
リュシアの顔が、その瞬間だけ商人になった。
「高いなら、見よう」
早かった。
いつもながら早かった。
現代側へ戻った澪は、スマホを握ってしばらく固まった。
トリュフ。
アミガサダケ。
松茸。
画面に並ぶ値段は、かわいくなかった。
「高い……」
澪は一度スマホを伏せた。
もう一度開いた。
値段は変わらなかった。
「小さいのに高い。高いのに小さい……」
それでも、実物を見せる必要がある。
澪は少量ずつ注文した。ついでに簡易顕微鏡、スマホ用の拡大レンズ、プレパラート、スポイト、ピンセット、小瓶も買う。
届いた箱は、思ったより小さかった。
中身も、小さかった。
そのわりに、支払った金額は小さくなかった。
澪は箱を前にしばらく黙った。
「これは、研究費。研究費です」
誰に言い訳しているのか分からない言い訳をしてから、澪は箱を収納へ入れた。
神棚の方は見なかった。
今日は神様に突っ込まれたくない日だった。
異世界側へ戻ると、リュシアは箱の大きさを見て首を傾げた。
「小さいね」
「小さいです」
「これが高いのかい」
「高いです」
「……向こうでは、こういうものにも高い値がつくんだね」
「つきます。財布が傷むくらいに」
セルマは、箱を開ける澪の手元を静かに見ていた。ネリスは少し離れていたが、蓋が開いた瞬間、鼻先がかすかに動いた。
澪はまず、黒っぽい土の塊のようなものを取り出した。
「これは、私の国で高い茸の一つです。土の中にできます」
ネリスは両手で受け取り、目を閉じた。
「土の下で、長くいた感じがします」
「育てられそうですか」
澪は身を乗り出した。
ネリスは困ったように眉を寄せた。
「いる感じはします。でも、増やせる感じではないです。ひとりじゃない感じがします。木と、土と、長い時間と……あと、すごく気難しいです」
リュシアが小さく息を吐いた。
「気難しい品かい」
「商品というより、相手が気難しいです」
次に、澪は穴の多い、蜂の巣のような形をした乾いた茸を見せた。
ネリスは匂いを嗅ぎ、首を傾げる。
「乾いています。でも、元は湿った森の感じがします」
「これは?」
「出る場所が、急に変わる気がします。ここに置けば増える、という感じではないです」
最後に松茸を見せると、ネリスは少し驚いたように目を開いた。
「木と一緒の匂いがします」
「それは、たぶん正しいです」
「でも、これも増やせる感じじゃないです。木が違うと嫌がると思います」
セルマが静かにうなずいた。
「澪、これは畑に植えて増えるものではないわね」
「ですよね」
澪は箱の蓋をそっと閉じた。
失敗、というより、最初から分かっていた現実を確認しただけだった。
トリュフも、アミガサダケも、松茸も、ただ高いからといって簡単に増やせるものではない。
リュシアは少し残念そうに腕を組んだ。
「高いものほど面倒なんだね」
「だいたいそうです」
セルマは、閉じられた箱を見ながら言った。
「でも、ネリスの感じ方は面白いわ。見えないものを、かなり細かく分けている」
ネリスは困ったように、手を握ったり開いたりした。
「でも、見えません」
「だから、見せます」
澪は、今度は小さな顕微鏡を取り出した。
ネリスは、最初それを何の道具だか分からなかった。
小さな筒。
薄い板。
針のように細い道具。
水を一滴落とすための細い管。
セルマは道具の使い方を見るため、澪の手元に身を寄せた。リュシアは「壊すと高そうだね」と言いながら、少し距離を取った。
澪は腐葉土を少しだけ水に混ぜた。
濁った水を、薄い透明な板の上に一滴落とす。
その上に、さらに薄い板をそっと重ねる。
「これを覗きます」
ネリスは不安そうに顕微鏡へ顔を近づけた。
最初はうまく見えなかったらしい。澪が少し角度を直し、光の入り方を調整する。
その瞬間、ネリスの肩が止まった。
「……」
息を吸う音すら、小さくなった。
森の空気が、ほんの少し静かになる。
ネリスは、顕微鏡から目を離さない。
「丸いものが、います」
「はい」
「細いものも」
「はい」
「糸みたいなものが、伸びています」
「それが、ネリスさんが感じていたものの一部だと思います」
「一部?」
「全部ではないです。見えるものもあれば、この道具でも見えないものもあります。でも、見えないのにいる、ということは分かると思います」
ネリスは、ゆっくり顔を上げた。
「……見えないのに、いたんですね」
セルマも顕微鏡を覗いた。
しばらく黙ったあと、静かに言う。
「これが、腐るものと育つものの境にいるのね」
「たぶん、そういうものの一部です」
リュシアも覗いた。
商人らしく、最初は半信半疑だった顔が、少しだけ変わる。
「見えない材料か……」
「商品にする前に、まず理解です」
澪はすぐに言った。
リュシアは笑った。
「先に止められたね」
「止めます。これは、扱いを間違えると怖いです」
ネリスは、もう一度顕微鏡を覗いた。
肉眼ではただの濁った水。
でも、道具を通すと、その中に細い糸のようなものがある。
今まで「いる感じ」としか言えなかったものに、少しだけ形が与えられた。
ネリスの顔に、戸惑いと安堵が同時に浮かぶ。
「私、変なことを言っていたわけじゃなかったんですね」
その言葉に、澪は少しだけ胸が詰まった。
村で変わり者扱いされていた感覚。
説明できなかったもの。
それが、初めて道具の向こうで形になったのだ。
セルマが、ネリスの肩を軽く叩いた。
「変かどうかは、使い方次第よ」
リュシアが続ける。
「役に立つなら、変わり者じゃなくて専門家だね」
ネリスは、少しだけ困ったように笑った。
「高級茸はいったん置きます」
澪は手帳に線を引いた。
トリュフも、アミガサダケも、松茸も、見せることはできた。けれど、育てるには遠い。
ネリスの感覚があっても、いきなり増やせるものではない。
リュシアは未練のある目で箱を見た。
「澪の国で売れる匂いはするんだけどね」
「売れる前に、育てられる茸からです」
セルマが小さくうなずく。
「順番としては正しいわ」
そこで澪は、現代側の知識をもう一段下げた。
高級茸ではない。
まず、育てやすい茸。
菌の感覚を覚えるための、練習になる茸。
澪の頭に浮かんだのは、椎茸だった。
「家具工房のおがくず、使えるかもしれません」
リュシアが眉を上げる。
「あれ、家具のゴミじゃないか」
「菌から見ると、ごはんかもしれません」
三人が澪を見る。
しまった、と澪は思った。
「ええと、見えない茸のもとから見ると、ごはん、かもしれません」
セルマが少し笑った。
「その言い方なら、少し分かるわ」
リュシアは、もう商人の顔に戻っている。
「家具のゴミが食べ物になるなら、悪くないね」
「まだ、なるかどうかも分かりません」
「だから試すんだろう?」
「はい」
ネリスは、澪が出したおがくずの袋に手を近づけた。
指先を袋の口に入れ、匂いを嗅ぎ、少しだけ首を傾げる。
「乾きすぎです。でも、悪い感じはしません」
「おがくずにも違いが分かるんですか」
「こっちは落ち着いてます。こっちは嫌です」
別の袋に触れたネリスが、はっきり顔をしかめた。
リュシアが袋を見比べる。
「同じ木の粉に見えるけどね」
セルマは袋の中身を少し取り、指先で潰した。
「匂いが違うわ。乾き方も違う。澪、これは分けた方がいいわね」
「はい」
澪は、手帳に新しい項目を書いた。
椎茸。
おがくず。
湿度。
ネリス確認。
セルマ確認。
小規模試験。
書きながら、また仕事が増えたことに気づいたが、今回は少しだけ違っていた。
これは澪一人の仕事ではない。
ネリスの感覚がいる。
セルマの判断がいる。
リュシアの商売の目がいる。
家具工房のおがくずがいる。
押し入れの向こうのあちこちが、少しずつつながり始めていた。
押入家具工房では、木の匂いが濃くなっていた。
受注が増えたせいで、作業台の上には仕掛かりの部材が並び、壁際には削り出した板や脚材が立てかけられている。床には掃き集められたおがくずが袋に詰められ、工房の隅に積まれていた。
職人は、澪がその袋を見ていることに気づき、首を傾げた。
「澪殿、それは燃やす分だが」
「これ、少し分けてもらえますか」
「おがくずを?」
「はい」
「何に使うんだ」
「茸を育てる試験に」
職人は、しばらく何も言わなかった。
「木を削った粉で、茸を育てるのか」
「たぶん、できる種類があります」
「たぶん、か」
「まず試験です」
澪がそう言うと、職人は袋を一つ持ち上げた。
「なら、硬い木、柔らかい木、香りの強い木、混ざったものを分けた方がいいな。削った日も違う」
澪は少し驚いた。
職人はもう、ただの廃棄物としてではなく、材料として見始めている。
ネリスは袋ごとに手を近づけ、匂いを嗅いだ。
「これは、乾きすぎです」
「こっちは?」
「少し重いです。落ち着いてます」
「これは?」
ネリスは、最後の袋で顔をしかめた。
「嫌です。中が悪い感じがします」
セルマがすぐに袋を開け、中を確認した。
少し湿り、奥にこもった匂いがある。
「これは使わない方がいいわ。別にして」
職人が目を丸くした。
「匂いだけで分かるのか」
ネリスは首を振る。
「匂いだけじゃないです。中が、嫌です」
説明にはなっていない。
けれど、セルマはそれで十分だと判断した。
「今は、それでいいわ。嫌なものを避けられるなら、失敗を減らせる」
澪は頷き、おがくずの袋に札をつけていった。
硬い木。
柔らかい木。
香り強め。
混合。
湿りあり、隔離。
職人がそれを見て、少し笑った。
「家具の注文が増えたと思ったら、今度はおがくずまで使うのか」
リュシアが、当然のように言う。
「捨てるものが役に立つなら、商売ではいい話だよ」
「まだ売れません」
澪はすぐに訂正した。
「まず、育つかどうかです」
「育ったら?」
「……考えます」
「考えてる顔じゃないね」
リュシアには、もうバレていた。
試験は、小さく始めた。
木箱の内側におがくずと細かい木片を入れ、湿り気を調整する。澪の知識はあくまでうろ覚えだったので、現代の完全な栽培手順を再現するのではなく、条件を分けて試すことにした。
セルマは、湿りすぎた箱をすぐに分けた。
「これは腐るわ」
ネリスは、別の箱に手をかざした。
「こっちは落ち着いてます」
「何が違いますか」
「匂いと、重さと、底の方の感じです」
澪は手帳へ書く。
匂い。
重さ。
底の感じ。
科学的な言葉ではない。
けれど、ネリスにとっては、それが一番正確な表現だった。
試験は、当然のように失敗もした。
一つは乾きすぎた。
一つは嫌な臭いが出た。
一つは表面に見慣れない色のカビが出て、セルマが即座に離した。
「これは駄目。近くに置かない」
リュシアが顔をしかめる。
「茸を育てるって、思ったより地味だね」
「地味です」
澪は、木箱の前でしゃがみ込んだ。
「高級品を一発で作る話じゃなくて、見えないものの住みやすい場所を探す話なので」
リュシアは少し考えた。
「店の場所を探すのに似てるね」
「え?」
「人が通る、日が当たりすぎない、荷が置ける、水が近い。商売も場所が悪いと駄目だよ」
澪は木箱を見た。
茸のもとにとっての、店の場所。
言い方は商人すぎるが、妙に分かりやすかった。
ネリスも、少しだけ頷く。
「ここは、落ち着いてます」
その箱だけは、何日たっても嫌な臭いが出なかった。
表面は静かで、湿り気も保っている。
何も起きていないように見える。
けれど、ネリスは毎日その箱の前で足を止めた。
「中で、寝てます」
澪は、その表現を手帳に書いた。
中で寝ている。
科学用語ではない。
でも、この世界の最初の菌床記録としては、きっと悪くない。
それから、しばらくたった。
毎日ではないが、澪は押し入れを通って様子を見に来た。セルマは腐敗した箱を処分し、ネリスは嫌な箱を早めに見つけ、リュシアは記録帳を覗いて「まだ売れないね」と何度も言った。
家具工房の職人たちは、最初は半信半疑だった。
それでも、使えそうなおがくずを分けるようになった。
ある朝、ネリスが木箱の前で動かなくなった。
「出ます」
短い声だった。
澪は、最初意味が分からなかった。
「何が」
「出ます」
ネリスが指さした先を見る。
おがくずと木片を詰めた箱の端に、小さな丸いふくらみがあった。
茶色がかった小さな傘。
まだ指先ほどの大きさしかない。
けれど、確かに茸だった。
澪は息を止めた。
「……椎茸」
リュシアが覗き込む。
「これが?」
「はい。たぶん、椎茸です」
セルマが慎重に近づいた。
「食べる前に、少量で試しましょう。変な臭いは?」
ネリスが首を振る。
「嫌な感じはしません」
澪は、木箱の端に顔を出した小さな傘を見つめた。
トリュフではない。
アミガサダケでもない。
松茸でもない。
高級茸ではない。
けれど、おがくずから茸が出た。
それだけで、十分大きな一歩だった。
ネリスは、少し離れたところで手を握っていた。
「私が……育てたんですか」
「ネリスさんだけじゃないです」
澪は言った。
「でも、ネリスさんがいなかったら、たぶん途中で失敗してました」
ネリスは、何か言おうとして、やめた。
村で変わり者扱いされてきた感覚。
地面の下の「いる感じ」。
それが、初めて木箱の中で形になった。
小さな椎茸の傘は、ネリスにとって、ただの食べ物ではなかった。
採れた椎茸は、数本だけだった。
セルマの指示で、まずは少量を慎重に調理する。
薄く切り、火を通す。
まずは焼いて、塩を少し。
次に、澄んだスープへ少し入れる。
焼いた椎茸からは、木と土と香ばしさが混じった匂いが立った。肉ではないのに、焼ける音が妙に食欲を誘う。
澪は、リュシアの前に小皿を置いた。
「どうぞ」
リュシアは一切れを口に入れた。
噛んだ。
黙った。
澪は不安になる。
「どうですか」
リュシアは皿の上の椎茸を見た。
「高級茸じゃないね」
「はい」
「でも、毎日売れる茸だ」
その言葉で、澪は勝ちを確信した。
リュシアは今度はスープを口にする。
そして、少しだけ目を細めた。
「肉を入れてないのに、味が深い」
「うま味が出ます」
「ウマミ?」
「ええと……味の底が増える感じです」
「それなら分かる」
セルマも少し口にして、頷いた。
「干せるなら、工房や屋台にも回せるわね。保存できるなら価値が変わる」
リュシアはもう、別の紙を引き寄せていた。
「生で売るものと、干して売るものに分けられる。屋台のスープにも使える。侯爵家の料理人にも見せたい。農場でなく工房のそばでも作れるなら、管理もしやすい」
「待ってください。まだ数本です」
「分かってるよ。だから試験栽培だ」
言葉は分かっている。
顔はすでに商人だった。
澪は、椎茸の小皿を見た。
異世界で、しいたけブームが起きる未来が、かなりはっきり見えた。
「キノコマスターだね」
リュシアが、何気なく言った。
ネリスは、すぐに首を振った。
「やめてください。茸だけじゃありません」
澪は、小さくつぶやいた。
「菌マスター?」
ネリスは、さらに嫌そうな顔をした。
「もっと嫌です。あと、そのキンというのも、まだよく分かりません」
「あ、すみません。ええと、見えない茸のもとマスター……?」
「もっと嫌です」
セルマが少し笑った。
「名前は後にしましょう。今は、菌床を見る人が必要よ」
「キンショウ?」
ネリスが聞き返す。
澪は慌てて言い直す。
「見えない茸のもとが住む寝床、です」
ネリスは少し考えた。
「それなら、分かります」
リュシアは肩をすくめた。
「じゃあ、今はネリスでいいさ」
ネリスは、心底ほっとした顔をした。
けれど、澪の手帳には、いつの間にか「キノコマスター」と書かれていた。
ネリスの視線がそこへ落ちる。
「書いてます」
澪は、そっと手帳を閉じた。
「仮題です」
「消してください」
「検討します」
「消してください」
リュシアが笑い、セルマも口元だけで笑った。
木箱の中では、小さな椎茸が、まだいくつか顔を出しかけていた。
その日の終わり、澪は手帳を開いた。
高級茸。
トリュフ、アミガサダケ、松茸。
長期目標。
すぐには無理。
椎茸。
おがくず。
見えない茸のもとの寝床。
短期試験。
ネリス・モルナ。
菌感知。
菌好意上昇。
澪は、そこで少しだけ手を止めた。
この力は、茸だけでは終わらない。
発酵。
酵母。
麹。
味噌。
醤油。
酒。
そこまで書きかけて、澪は慌てて線を引かずに、ただ小さく丸をつけた。
まだ早い。
今は椎茸だ。
酒まで行ったら、話がまた大きくなる。
澪は手帳を閉じ、押入家具工房の方を見た。
家具の受注が増えた。
おがくずが出た。
そのおがくずから、茸が生えた。
捨てるはずだったものが、食べ物になった。
その流れは、白金砂の時とも、冷風箱の時とも、少し似ている。
押し入れの向こうでは、家具の次に、おがくずから茸が生え始めていた。