押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第66話 キノコマスター

 

 押入商会の帳簿は、数字だけ見れば順調だった。

 

 六月の家具・木工品売上は、もう少しで一千万円に届くところまで来ていた。七月分も、今の受注状況をそのまま積み上げれば、一千五百万円前後は見込める。

 

 普通なら、喜んでいい数字だった。

 

 普通なら。

 

 澪は現代側の机に肘をつき、帳簿の端に書かれた受注残の数字を見つめた。

 

「売れてるのに、胃が痛い……」

 

 押入家具工房の品は、在庫を並べて売っているわけではない。

 

 注文を受ける。

 

 寸法を確認する。

 

 用途を聞く。

 

 仕上げを決める。

 

 異世界側の家具工房へ制作を頼む。

 

 完成したものを澪が持ち帰る。

 

 現代側で検品する。

 

 納品する。

 

 売れた瞬間に終わる商売ではなかった。

 

 売れた瞬間に、納期が発生する商売だった。

 

 澪は、別の紙を手に取った。

 

 そこには、前に考えかけた木工小物の案が並んでいた。ペントレイ、小物箱、アクセサリートレイ、ブックスタンド、スマホスタンド。どれも、売れそうではある。

 

 売れそうではあるが、売れた数だけ澪が写真を撮り、説明文を書き、検品し、包み、送り、問い合わせに答える未来が見えた。

 

 澪は無言で、その紙に大きく線を引いた。

 

「小物は、私が死ぬ」

 

 次に、高級石材と書いた紙を見る。

 

 少数高単価。法人向け。店舗や旅館の内装材。

 

 考え方は悪くない。

 

 悪くないのだが、侯爵領の山へ石を探しに行く自分の姿を想像したところで、澪はそっと紙を裏返した。

 

「それ、話が大きくなりすぎます」

 

 採石場、石工、運搬、加工、重さ、現代側の設置。

 

 今、世界改変の混乱がようやく一区切りになったばかりなのに、山と石材に手を出すのは、どう考えても早かった。

 

 澪はペンを持ち、白いメモ用紙の上でしばらく止まった。

 

 数を売らない。

 

 高単価。

 

 できれば軽い。

 

 できれば、異世界側で価値があり、現代知識ともつながるもの。

 

 そこで、以前リュシアが何気なく口にした言葉を思い出した。

 

 森の香り茸。

 

 澪は紙の上に、ゆっくり書いた。

 

「高級食材」

 

 書いたあとで、少しだけ嫌な予感もした。

 

 食べ物は、家具よりも面倒だ。

 

 腐る。

 

 安全確認がいる。

 

 味を見る必要もある。

 

 けれど、小物百個よりは、まだ話になるかもしれない。

 

 澪はため息をついて、押し入れの方を見た。

 

「……聞くだけ。今日は聞くだけです」

 

 そう言った時点で、自分が聞くだけで済んだことはほとんどないと気づいたが、澪は気づかなかったことにした。

 

 

 

 

 リュシアは、帳簿の束を片づけているところだった。

 

 市場の一角に置かれた小机の上には、品物札と小さな記録帳が積まれている。世界改変騒動のあと、リュシアは商人側の説明役として、まだ落ち着ききらない商人たちの相手をしていた。

 

 澪が高級食材の話を切り出すと、リュシアはすぐに顔を上げた。

 

「食材?」

 

「はい。小物は無理です。石材は大がかりです。なら、少数で高く売れる食材はどうかなと」

 

「澪の国で売るのかい」

 

「いきなり向こうで売るのは怖いです。まずは、こちらで価値があるものから見たいです」

 

 リュシアは少し考え、指先で帳簿の端を叩いた。

 

「なら、森の香り茸だね」

 

「やっぱりありますか」

 

「あるよ。侯爵家の料理人や貴族料理店が欲しがる。香りが強くて、少し入れるだけで料理の格が上がるんだとさ」

 

「おお」

 

「ただし、欲しい時にない」

 

 リュシアは、そこだけ商人らしく低い声で言った。

 

「森で採れる。季節で変わる。場所も年によって違う。雨が多すぎても駄目、乾きすぎても駄目。高いけど、商売にするには一番困る品だね」

 

 澪の頭に、現代で聞いたことのある高級な茸が浮かんだ。

 

 土の中にできる黒い茸。

 

 蜂の巣のような形の茸。

 

 香りが強く、秋になると話題になる茸。

 

「トリュフ、アミガサダケ、松茸……」

 

「とりふ?」

 

「私の国で高い茸です」

 

「キノコ?」

 

「はい。茸の中には、ものすごく高く売れるものがあります」

 

 リュシアの目が少し細くなった。

 

「ものすごく、ね」

 

「ただ、簡単には増やせません」

 

「そこまで含めて商売の話だよ。見に行く価値はある」

 

 リュシアは帳簿を閉じ、顔を上げた。

 

「茸を探すのが異様に上手い子がいる」

 

「子?」

 

「森の近くの村にいる採取者だよ。名前はネリス・モルナ。倒木や湿った土ばかり見ていて、村では少し変わり者扱いされてる」

 

 その時、横で素材の包みを見ていたセルマが静かに顔を上げた。

 

「茸の採取者なら、私も見た方がいいわね」

 

「セルマさんもですか」

 

「澪、澪の国へ持っていく前に、こちらで食べられるか、腐るか、毒がないかを分ける方が先よ」

 

「それ、すごく正しいです」

 

 高く売れそう、の前に、安全かどうか。

 

 澪は、食材が家具より面倒な理由を、早くも思い出していた。

 

 

 

 

 森の近くの村は、侯爵領の端にあった。

 

 大きな街道から少し外れ、木々の匂いが濃くなる。道の脇には、刈られた草が乾き、低い石垣の向こうに小さな畑が見えた。

 

 リュシアが村の者に声をかけると、相手は少し困ったような顔をした。

 

「ああ、ネリスなら森の手前にいると思いますよ。また地面を見てるんじゃないですかね」

 

「茸採りが上手いんだろう?」

 

「上手いんですけどね。なんというか、茸じゃないものまで気にするんで」

 

「茸じゃないもの?」

 

「倒れた木とか、湿った葉とか、土とか。あそこは寝てる、こっちは怒ってる、とか言うんですよ」

 

 澪は思わずセルマを見た。

 

 セルマは、少しだけ目を細めている。

 

「会った方が早そうね」

 

 森の入口へ近づくと、一人の少女がしゃがんでいた。

 

 年は澪より少し下か、同じくらいに見える。髪は肩のあたりで無造作に結ばれ、服の裾には土がついている。手には小さな籠を持っていたが、中には茸だけではなく、落ち葉や木の欠片のようなものまで入っていた。

 

 少女は澪たちを見るより先に、足元を見た。

 

「そこ、踏まない方がいいです。下に、いる感じがします」

 

 澪は足を止めた。

 

「いる感じ?」

 

 ネリスはようやく顔を上げた。灰色がかった目が、澪たちの顔を順番に見て、それからまた地面へ戻る。

 

「踏むと、嫌がると思います」

 

「誰が?」

 

「……下のものが」

 

 澪には、ただの腐葉土に見えた。

 

 湿った落ち葉が重なり、細い木の根が少しだけ地表に浮いている。森の入口ならどこにでもありそうな土だった。

 

 セルマは、しゃがんで土を見た。

 

「何がいるかは、見えないのね」

 

 ネリスは小さくうなずく。

 

「見えません。でも、いる感じがします。ここは落ち着いてます。そっちは乾きすぎです」

 

 そう言って、少し離れた倒木の方を指す。

 

「あの木の下は、春に出ると思います」

 

「茸が?」

 

「たぶん」

 

「たぶん、なのね」

 

「はい。出ない時もあります」

 

 説明は曖昧だった。

 

 けれど、ネリスの視線は迷っていない。

 

 倒木の裏、湿った葉、木の根元。ネリスは、森の表面ではなく、その下にある何かを追っているように見えた。

 

 澪は、小さく息を吸ってから、ネリスを鑑定した。

 

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ネリス・モルナ

 分類:人間/採取者

 役割:茸採り/森歩き

 現在ジョブ:採取者

 レベル:4

 既得スキル:森歩き:3

 既得スキル:茸採取:3

 芽生え:菌感知:1

 芽生え:菌好意上昇:1

 未開放系統:あり

 注意:菌そのものが見える技能ではありません

 注意:湿度、匂い、腐葉土、木の根、発酵、腐敗の違和感を感じ取りやすい

 補助:顕微鏡観察により、感覚のイメージ補強が可能

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 澪は表示を二度見した。

 

「菌感知……菌好意上昇……」

 

 リュシアが眉を寄せる。

 

「キン?」

 

 セルマも、少しだけ首を傾げた。

 

「澪、その言葉は何?」

 

 ネリスはもっと困った顔をしている。

 

「私、何か悪いものを持っているんですか」

 

「あ、いえ、違います。ええと……」

 

 澪は、自分がいきなり現代語を投げたことに気づいた。

 

「……すみません。そこから説明ですね」

 

 三人の視線が澪に集まる。

 

 森の湿った空気の中で、澪は口を開き、すぐに閉じた。

 

 菌とは何か。

 

 目に見えないくらい小さい生き物のようなもの。

 

 茸やカビや発酵や腐敗に関わるもの。

 

 土や木や食べ物の中にいるもの。

 

 説明しようとすればするほど、異世界側の言葉から少しずつ浮いていく。

 

「私の国では、目に見えないくらい小さなものがいると分かっています。それが、茸が育つことや、ものが腐ることや、発酵することに関わっていて……」

 

「見えないものが、いる?」

 

 リュシアは納得しきれない顔をした。

 

 ネリスは足元の腐葉土を見たまま、小さく言う。

 

「見えないなら、どうして分かるんですか」

 

「道具を使うと、少し見えます」

 

 澪がそう言うと、セルマの目が少しだけ鋭くなった。

 

「澪。その道具、持ってこられる?」

 

「持ってきます。あと、見本も」

 

「見本?」

 

「高い茸です」

 

 リュシアの顔が、その瞬間だけ商人になった。

 

「高いなら、見よう」

 

 早かった。

 

 いつもながら早かった。

 

 

 

 

 現代側へ戻った澪は、スマホを握ってしばらく固まった。

 

 トリュフ。

 

 アミガサダケ。

 

 松茸。

 

 画面に並ぶ値段は、かわいくなかった。

 

「高い……」

 

 澪は一度スマホを伏せた。

 

 もう一度開いた。

 

 値段は変わらなかった。

 

「小さいのに高い。高いのに小さい……」

 

 それでも、実物を見せる必要がある。

 

 澪は少量ずつ注文した。ついでに簡易顕微鏡、スマホ用の拡大レンズ、プレパラート、スポイト、ピンセット、小瓶も買う。

 

 届いた箱は、思ったより小さかった。

 

 中身も、小さかった。

 

 そのわりに、支払った金額は小さくなかった。

 

 澪は箱を前にしばらく黙った。

 

「これは、研究費。研究費です」

 

 誰に言い訳しているのか分からない言い訳をしてから、澪は箱を収納へ入れた。

 

 神棚の方は見なかった。

 

 今日は神様に突っ込まれたくない日だった。

 

 

 

 

 異世界側へ戻ると、リュシアは箱の大きさを見て首を傾げた。

 

「小さいね」

 

「小さいです」

 

「これが高いのかい」

 

「高いです」

 

「……向こうでは、こういうものにも高い値がつくんだね」

 

「つきます。財布が傷むくらいに」

 

 セルマは、箱を開ける澪の手元を静かに見ていた。ネリスは少し離れていたが、蓋が開いた瞬間、鼻先がかすかに動いた。

 

 澪はまず、黒っぽい土の塊のようなものを取り出した。

 

「これは、私の国で高い茸の一つです。土の中にできます」

 

 ネリスは両手で受け取り、目を閉じた。

 

「土の下で、長くいた感じがします」

 

「育てられそうですか」

 

 澪は身を乗り出した。

 

 ネリスは困ったように眉を寄せた。

 

「いる感じはします。でも、増やせる感じではないです。ひとりじゃない感じがします。木と、土と、長い時間と……あと、すごく気難しいです」

 

 リュシアが小さく息を吐いた。

 

「気難しい品かい」

 

「商品というより、相手が気難しいです」

 

 次に、澪は穴の多い、蜂の巣のような形をした乾いた茸を見せた。

 

 ネリスは匂いを嗅ぎ、首を傾げる。

 

「乾いています。でも、元は湿った森の感じがします」

 

「これは?」

 

「出る場所が、急に変わる気がします。ここに置けば増える、という感じではないです」

 

 最後に松茸を見せると、ネリスは少し驚いたように目を開いた。

 

「木と一緒の匂いがします」

 

「それは、たぶん正しいです」

 

「でも、これも増やせる感じじゃないです。木が違うと嫌がると思います」

 

 セルマが静かにうなずいた。

 

「澪、これは畑に植えて増えるものではないわね」

 

「ですよね」

 

 澪は箱の蓋をそっと閉じた。

 

 失敗、というより、最初から分かっていた現実を確認しただけだった。

 

 トリュフも、アミガサダケも、松茸も、ただ高いからといって簡単に増やせるものではない。

 

 リュシアは少し残念そうに腕を組んだ。

 

「高いものほど面倒なんだね」

 

「だいたいそうです」

 

 セルマは、閉じられた箱を見ながら言った。

 

「でも、ネリスの感じ方は面白いわ。見えないものを、かなり細かく分けている」

 

 ネリスは困ったように、手を握ったり開いたりした。

 

「でも、見えません」

 

「だから、見せます」

 

 澪は、今度は小さな顕微鏡を取り出した。

 

 

 

 

 ネリスは、最初それを何の道具だか分からなかった。

 

 小さな筒。

 

 薄い板。

 

 針のように細い道具。

 

 水を一滴落とすための細い管。

 

 セルマは道具の使い方を見るため、澪の手元に身を寄せた。リュシアは「壊すと高そうだね」と言いながら、少し距離を取った。

 

 澪は腐葉土を少しだけ水に混ぜた。

 

 濁った水を、薄い透明な板の上に一滴落とす。

 

 その上に、さらに薄い板をそっと重ねる。

 

「これを覗きます」

 

 ネリスは不安そうに顕微鏡へ顔を近づけた。

 

 最初はうまく見えなかったらしい。澪が少し角度を直し、光の入り方を調整する。

 

 その瞬間、ネリスの肩が止まった。

 

「……」

 

 息を吸う音すら、小さくなった。

 

 森の空気が、ほんの少し静かになる。

 

 ネリスは、顕微鏡から目を離さない。

 

「丸いものが、います」

 

「はい」

 

「細いものも」

 

「はい」

 

「糸みたいなものが、伸びています」

 

「それが、ネリスさんが感じていたものの一部だと思います」

 

「一部?」

 

「全部ではないです。見えるものもあれば、この道具でも見えないものもあります。でも、見えないのにいる、ということは分かると思います」

 

 ネリスは、ゆっくり顔を上げた。

 

「……見えないのに、いたんですね」

 

 セルマも顕微鏡を覗いた。

 

 しばらく黙ったあと、静かに言う。

 

「これが、腐るものと育つものの境にいるのね」

 

「たぶん、そういうものの一部です」

 

 リュシアも覗いた。

 

 商人らしく、最初は半信半疑だった顔が、少しだけ変わる。

 

「見えない材料か……」

 

「商品にする前に、まず理解です」

 

 澪はすぐに言った。

 

 リュシアは笑った。

 

「先に止められたね」

 

「止めます。これは、扱いを間違えると怖いです」

 

 ネリスは、もう一度顕微鏡を覗いた。

 

 肉眼ではただの濁った水。

 

 でも、道具を通すと、その中に細い糸のようなものがある。

 

 今まで「いる感じ」としか言えなかったものに、少しだけ形が与えられた。

 

 ネリスの顔に、戸惑いと安堵が同時に浮かぶ。

 

「私、変なことを言っていたわけじゃなかったんですね」

 

 その言葉に、澪は少しだけ胸が詰まった。

 

 村で変わり者扱いされていた感覚。

 

 説明できなかったもの。

 

 それが、初めて道具の向こうで形になったのだ。

 

 セルマが、ネリスの肩を軽く叩いた。

 

「変かどうかは、使い方次第よ」

 

 リュシアが続ける。

 

「役に立つなら、変わり者じゃなくて専門家だね」

 

 ネリスは、少しだけ困ったように笑った。

 

 

 

 

「高級茸はいったん置きます」

 

 澪は手帳に線を引いた。

 

 トリュフも、アミガサダケも、松茸も、見せることはできた。けれど、育てるには遠い。

 

 ネリスの感覚があっても、いきなり増やせるものではない。

 

 リュシアは未練のある目で箱を見た。

 

「澪の国で売れる匂いはするんだけどね」

 

「売れる前に、育てられる茸からです」

 

 セルマが小さくうなずく。

 

「順番としては正しいわ」

 

 そこで澪は、現代側の知識をもう一段下げた。

 

 高級茸ではない。

 

 まず、育てやすい茸。

 

 菌の感覚を覚えるための、練習になる茸。

 

 澪の頭に浮かんだのは、椎茸だった。

 

「家具工房のおがくず、使えるかもしれません」

 

 リュシアが眉を上げる。

 

「あれ、家具のゴミじゃないか」

 

「菌から見ると、ごはんかもしれません」

 

 三人が澪を見る。

 

 しまった、と澪は思った。

 

「ええと、見えない茸のもとから見ると、ごはん、かもしれません」

 

 セルマが少し笑った。

 

「その言い方なら、少し分かるわ」

 

 リュシアは、もう商人の顔に戻っている。

 

「家具のゴミが食べ物になるなら、悪くないね」

 

「まだ、なるかどうかも分かりません」

 

「だから試すんだろう?」

 

「はい」

 

 ネリスは、澪が出したおがくずの袋に手を近づけた。

 

 指先を袋の口に入れ、匂いを嗅ぎ、少しだけ首を傾げる。

 

「乾きすぎです。でも、悪い感じはしません」

 

「おがくずにも違いが分かるんですか」

 

「こっちは落ち着いてます。こっちは嫌です」

 

 別の袋に触れたネリスが、はっきり顔をしかめた。

 

 リュシアが袋を見比べる。

 

「同じ木の粉に見えるけどね」

 

 セルマは袋の中身を少し取り、指先で潰した。

 

「匂いが違うわ。乾き方も違う。澪、これは分けた方がいいわね」

 

「はい」

 

 澪は、手帳に新しい項目を書いた。

 

 椎茸。

 

 おがくず。

 

 湿度。

 

 ネリス確認。

 

 セルマ確認。

 

 小規模試験。

 

 書きながら、また仕事が増えたことに気づいたが、今回は少しだけ違っていた。

 

 これは澪一人の仕事ではない。

 

 ネリスの感覚がいる。

 

 セルマの判断がいる。

 

 リュシアの商売の目がいる。

 

 家具工房のおがくずがいる。

 

 押し入れの向こうのあちこちが、少しずつつながり始めていた。

 

 

 

 

 押入家具工房では、木の匂いが濃くなっていた。

 

 受注が増えたせいで、作業台の上には仕掛かりの部材が並び、壁際には削り出した板や脚材が立てかけられている。床には掃き集められたおがくずが袋に詰められ、工房の隅に積まれていた。

 

 職人は、澪がその袋を見ていることに気づき、首を傾げた。

 

「澪殿、それは燃やす分だが」

 

「これ、少し分けてもらえますか」

 

「おがくずを?」

 

「はい」

 

「何に使うんだ」

 

「茸を育てる試験に」

 

 職人は、しばらく何も言わなかった。

 

「木を削った粉で、茸を育てるのか」

 

「たぶん、できる種類があります」

 

「たぶん、か」

 

「まず試験です」

 

 澪がそう言うと、職人は袋を一つ持ち上げた。

 

「なら、硬い木、柔らかい木、香りの強い木、混ざったものを分けた方がいいな。削った日も違う」

 

 澪は少し驚いた。

 

 職人はもう、ただの廃棄物としてではなく、材料として見始めている。

 

 ネリスは袋ごとに手を近づけ、匂いを嗅いだ。

 

「これは、乾きすぎです」

 

「こっちは?」

 

「少し重いです。落ち着いてます」

 

「これは?」

 

 ネリスは、最後の袋で顔をしかめた。

 

「嫌です。中が悪い感じがします」

 

 セルマがすぐに袋を開け、中を確認した。

 

 少し湿り、奥にこもった匂いがある。

 

「これは使わない方がいいわ。別にして」

 

 職人が目を丸くした。

 

「匂いだけで分かるのか」

 

 ネリスは首を振る。

 

「匂いだけじゃないです。中が、嫌です」

 

 説明にはなっていない。

 

 けれど、セルマはそれで十分だと判断した。

 

「今は、それでいいわ。嫌なものを避けられるなら、失敗を減らせる」

 

 澪は頷き、おがくずの袋に札をつけていった。

 

 硬い木。

 

 柔らかい木。

 

 香り強め。

 

 混合。

 

 湿りあり、隔離。

 

 職人がそれを見て、少し笑った。

 

「家具の注文が増えたと思ったら、今度はおがくずまで使うのか」

 

 リュシアが、当然のように言う。

 

「捨てるものが役に立つなら、商売ではいい話だよ」

 

「まだ売れません」

 

 澪はすぐに訂正した。

 

「まず、育つかどうかです」

 

「育ったら?」

 

「……考えます」

 

「考えてる顔じゃないね」

 

 リュシアには、もうバレていた。

 

 

 

 

 試験は、小さく始めた。

 

 木箱の内側におがくずと細かい木片を入れ、湿り気を調整する。澪の知識はあくまでうろ覚えだったので、現代の完全な栽培手順を再現するのではなく、条件を分けて試すことにした。

 

 セルマは、湿りすぎた箱をすぐに分けた。

 

「これは腐るわ」

 

 ネリスは、別の箱に手をかざした。

 

「こっちは落ち着いてます」

 

「何が違いますか」

 

「匂いと、重さと、底の方の感じです」

 

 澪は手帳へ書く。

 

 匂い。

 

 重さ。

 

 底の感じ。

 

 科学的な言葉ではない。

 

 けれど、ネリスにとっては、それが一番正確な表現だった。

 

 試験は、当然のように失敗もした。

 

 一つは乾きすぎた。

 

 一つは嫌な臭いが出た。

 

 一つは表面に見慣れない色のカビが出て、セルマが即座に離した。

 

「これは駄目。近くに置かない」

 

 リュシアが顔をしかめる。

 

「茸を育てるって、思ったより地味だね」

 

「地味です」

 

 澪は、木箱の前でしゃがみ込んだ。

 

「高級品を一発で作る話じゃなくて、見えないものの住みやすい場所を探す話なので」

 

 リュシアは少し考えた。

 

「店の場所を探すのに似てるね」

 

「え?」

 

「人が通る、日が当たりすぎない、荷が置ける、水が近い。商売も場所が悪いと駄目だよ」

 

 澪は木箱を見た。

 

 茸のもとにとっての、店の場所。

 

 言い方は商人すぎるが、妙に分かりやすかった。

 

 ネリスも、少しだけ頷く。

 

「ここは、落ち着いてます」

 

 その箱だけは、何日たっても嫌な臭いが出なかった。

 

 表面は静かで、湿り気も保っている。

 

 何も起きていないように見える。

 

 けれど、ネリスは毎日その箱の前で足を止めた。

 

「中で、寝てます」

 

 澪は、その表現を手帳に書いた。

 

 中で寝ている。

 

 科学用語ではない。

 

 でも、この世界の最初の菌床記録としては、きっと悪くない。

 

 

 

 

 それから、しばらくたった。

 

 毎日ではないが、澪は押し入れを通って様子を見に来た。セルマは腐敗した箱を処分し、ネリスは嫌な箱を早めに見つけ、リュシアは記録帳を覗いて「まだ売れないね」と何度も言った。

 

 家具工房の職人たちは、最初は半信半疑だった。

 

 それでも、使えそうなおがくずを分けるようになった。

 

 ある朝、ネリスが木箱の前で動かなくなった。

 

「出ます」

 

 短い声だった。

 

 澪は、最初意味が分からなかった。

 

「何が」

 

「出ます」

 

 ネリスが指さした先を見る。

 

 おがくずと木片を詰めた箱の端に、小さな丸いふくらみがあった。

 

 茶色がかった小さな傘。

 

 まだ指先ほどの大きさしかない。

 

 けれど、確かに茸だった。

 

 澪は息を止めた。

 

「……椎茸」

 

 リュシアが覗き込む。

 

「これが?」

 

「はい。たぶん、椎茸です」

 

 セルマが慎重に近づいた。

 

「食べる前に、少量で試しましょう。変な臭いは?」

 

 ネリスが首を振る。

 

「嫌な感じはしません」

 

 澪は、木箱の端に顔を出した小さな傘を見つめた。

 

 トリュフではない。

 

 アミガサダケでもない。

 

 松茸でもない。

 

 高級茸ではない。

 

 けれど、おがくずから茸が出た。

 

 それだけで、十分大きな一歩だった。

 

 ネリスは、少し離れたところで手を握っていた。

 

「私が……育てたんですか」

 

「ネリスさんだけじゃないです」

 

 澪は言った。

 

「でも、ネリスさんがいなかったら、たぶん途中で失敗してました」

 

 ネリスは、何か言おうとして、やめた。

 

 村で変わり者扱いされてきた感覚。

 

 地面の下の「いる感じ」。

 

 それが、初めて木箱の中で形になった。

 

 小さな椎茸の傘は、ネリスにとって、ただの食べ物ではなかった。

 

 

 

 

 採れた椎茸は、数本だけだった。

 

 セルマの指示で、まずは少量を慎重に調理する。

 

 薄く切り、火を通す。

 

 まずは焼いて、塩を少し。

 

 次に、澄んだスープへ少し入れる。

 

 焼いた椎茸からは、木と土と香ばしさが混じった匂いが立った。肉ではないのに、焼ける音が妙に食欲を誘う。

 

 澪は、リュシアの前に小皿を置いた。

 

「どうぞ」

 

 リュシアは一切れを口に入れた。

 

 噛んだ。

 

 黙った。

 

 澪は不安になる。

 

「どうですか」

 

 リュシアは皿の上の椎茸を見た。

 

「高級茸じゃないね」

 

「はい」

 

「でも、毎日売れる茸だ」

 

 その言葉で、澪は勝ちを確信した。

 

 リュシアは今度はスープを口にする。

 

 そして、少しだけ目を細めた。

 

「肉を入れてないのに、味が深い」

 

「うま味が出ます」

 

「ウマミ?」

 

「ええと……味の底が増える感じです」

 

「それなら分かる」

 

 セルマも少し口にして、頷いた。

 

「干せるなら、工房や屋台にも回せるわね。保存できるなら価値が変わる」

 

 リュシアはもう、別の紙を引き寄せていた。

 

「生で売るものと、干して売るものに分けられる。屋台のスープにも使える。侯爵家の料理人にも見せたい。農場でなく工房のそばでも作れるなら、管理もしやすい」

 

「待ってください。まだ数本です」

 

「分かってるよ。だから試験栽培だ」

 

 言葉は分かっている。

 

 顔はすでに商人だった。

 

 澪は、椎茸の小皿を見た。

 

 異世界で、しいたけブームが起きる未来が、かなりはっきり見えた。

 

 

 

 

「キノコマスターだね」

 

 リュシアが、何気なく言った。

 

 ネリスは、すぐに首を振った。

 

「やめてください。茸だけじゃありません」

 

 澪は、小さくつぶやいた。

 

「菌マスター?」

 

 ネリスは、さらに嫌そうな顔をした。

 

「もっと嫌です。あと、そのキンというのも、まだよく分かりません」

 

「あ、すみません。ええと、見えない茸のもとマスター……?」

 

「もっと嫌です」

 

 セルマが少し笑った。

 

「名前は後にしましょう。今は、菌床を見る人が必要よ」

 

「キンショウ?」

 

 ネリスが聞き返す。

 

 澪は慌てて言い直す。

 

「見えない茸のもとが住む寝床、です」

 

 ネリスは少し考えた。

 

「それなら、分かります」

 

 リュシアは肩をすくめた。

 

「じゃあ、今はネリスでいいさ」

 

 ネリスは、心底ほっとした顔をした。

 

 けれど、澪の手帳には、いつの間にか「キノコマスター」と書かれていた。

 

 ネリスの視線がそこへ落ちる。

 

「書いてます」

 

 澪は、そっと手帳を閉じた。

 

「仮題です」

 

「消してください」

 

「検討します」

 

「消してください」

 

 リュシアが笑い、セルマも口元だけで笑った。

 

 木箱の中では、小さな椎茸が、まだいくつか顔を出しかけていた。

 

 

 

 

 その日の終わり、澪は手帳を開いた。

 

 高級茸。

 

 トリュフ、アミガサダケ、松茸。

 

 長期目標。

 

 すぐには無理。

 

 椎茸。

 

 おがくず。

 

 見えない茸のもとの寝床。

 

 短期試験。

 

 ネリス・モルナ。

 

 菌感知。

 

 菌好意上昇。

 

 澪は、そこで少しだけ手を止めた。

 

 この力は、茸だけでは終わらない。

 

 発酵。

 

 酵母。

 

 麹。

 

 味噌。

 

 醤油。

 

 酒。

 

 そこまで書きかけて、澪は慌てて線を引かずに、ただ小さく丸をつけた。

 

 まだ早い。

 

 今は椎茸だ。

 

 酒まで行ったら、話がまた大きくなる。

 

 澪は手帳を閉じ、押入家具工房の方を見た。

 

 家具の受注が増えた。

 

 おがくずが出た。

 

 そのおがくずから、茸が生えた。

 

 捨てるはずだったものが、食べ物になった。

 

 その流れは、白金砂の時とも、冷風箱の時とも、少し似ている。

 

 押し入れの向こうでは、家具の次に、おがくずから茸が生え始めていた。

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