押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第67話 押入商会侯爵領事業所

 

 澪は、机いっぱいに広げた注文票を前にして、鉛筆を持ったまま動けなくなっていた。

 

 数字だけを見れば、押入商会は順調だった。六月の家具売上は一千万円に近く、七月の見込みは一千五百万円前後まで伸びている。帳簿の上では、押入家具工房は立派な収益源になっていた。

 

 けれど、その数字の下には、注文票と受注控えと制作進捗メモが何枚も重なっていた。検品を終えたかどうかの印、押し入れの向こうへ持ち帰る予定、澪の国で納品済みにしたかどうかの確認。どれも必要で、どれか一つでも抜けると、家具工房にも向こうの納品先にも迷惑がかかる。

 

 澪は、端が少し丸まった注文票を一枚つまみ上げた。

 

「これは制作中……だったはずです」

 

 紙の右上には、自分でつけた小さな丸印がある。だが、同じような印が別の紙にもついていた。そちらは検品待ちだった気がする。

 

 さらに受注控えをめくると、向こうではもう納品済みになっているはずなのに、こちらの控えには反映されていなかった。家具工房へ伝えるべき変更内容を書いたメモも、渡したと思っていたのに、澪の手帳の間に挟まったままだった。

 

 澪は、ゆっくり紙を置いた。

 

「これ、私が紙の場所を覚えてるだけで回ってますよね」

 

 声に出した瞬間、部屋の静けさが少し重くなった。

 

 澪が押し入れを通って注文票を持ち込み、家具工房へ伝え、進捗を聞き、完成品を確認し、現代側へ持ち帰る。その流れは、今までどうにか回っていた。

 

 だが、それは仕組みではなかった。

 

 澪が覚えていただけだった。

 

 澪がいない日は止まる。澪が疲れて紙を間違えれば止まる。澪が一枚紛失すれば、どこで詰まったのか誰にも分からなくなる。

 

 澪は手帳を開き、しばらく鉛筆の先を止めたあと、ゆっくり書いた。

 

 澪がいない日でも回る場所。

 

 その下に「小さな事業所」と書きかけて、首を振る。

 

「いや、違う。いきなり事業所って考えるから大きくなるんです。まず机。机一つ」

 

 そう言い直すと、少しだけ息がしやすくなった。

 

 けれど、手帳の端には、別の考えも浮かんでいた。

 

 子どもを三人選ぶ。裏技でレベルを上げる。いずれ商人へジョブチェンジさせる。そこから収納と鑑定を取得してもらう。ステータスも上げられれば、押入商会の実務はかなり楽になる。

 

 澪は、その考えをほんの小さな字で書いた。

 

 そして、すぐに手帳を閉じた。

 

「これは、リュシアさんには見せないやつです」

 

 自分で言って、少し後ろめたくなる。

 

 事業所を作る理由は、実務分担のため。それは本当だ。澪がいない日でも仕事を少し進めるため。それも本当だ。

 

 ただし、その奥に、異世界ものを読みすぎた人間らしい腹づもりがあることも本当だった。

 

 リュシアに言えば、たぶん怒られる。

 

 かなり怒られる。

 

 澪は手帳を鞄に入れ、押し入れへ向かった。

 

 

 

 

 リュシアは、澪が広げた受注表の束を見て、最初だけ商人の顔で笑った。

 

「よく売れてるね」

 

「売れてます。でも、売れた分だけ紙が増えます」

 

 澪が注文票と受注控えを机に置いていくと、リュシアの笑みは少しずつ消えた。彼女は売上の数字よりも、紙の流れの方を見ていた。

 

「これ、全部澪が覚えてるのかい」

 

「はい」

 

「駄目だね」

 

「早い」

 

「澪がいない日に止まる。澪が忘れたら崩れる。商売としては危ない」

 

 反論の余地はなかった。

 

 リュシアは店の隅にあった小机を指で叩いた。乾いた音がひとつ鳴る。

 

「大きな部屋はいらない。まず机だよ。注文票の控えを置く場所、受注控えを置く場所、作っている品の控え、検品を待つ品の控え、澪が持って帰る品の控え、渡し終わった品の控えを、机の上で分ける」

 

「それで事業所ですか」

 

「商売は机一つからでも始まるよ」

 

 澪は、紙の山を見ながら頷いた。

 

「場所は、リュシアさんのお店ですか」

 

「いや、押入家具工房の中か、隣の部屋がいい。職人がすぐ見に来られるし、品物の状態も確認しやすい。それに、あそこは澪の明かりが使えるだろう」

 

「電気ですね」

 

「そのデンキ。まだ言葉には慣れないけど、明るいのは分かるよ。紙を見る場所に、安定した明かりがあるのは大事だ」

 

 リュシアは、すでに机の置き場所まで決めていた。

 

 侯爵家も、教会も、孤児院も、今は出てこない。リュシアが紙を見て、流れを見て、商売として危ないところを拾い上げる。それだけで話は進んだ。

 

 澪は思った。

 

 相談役とは、こういう人のことを言うのだ。

 

 

 

 

 押入家具工房へ向かう道すがら、澪はまだ名前に迷っていた。

 

「押入商会の机、でいいですかね」

 

 リュシアは少し考え、真顔で言った。

 

「名前をつけるなら、押入商会侯爵領事業所だね」

 

 澪は足を止めかけた。

 

「急に大きくなりました」

 

「名前だけ大きい方が、勝手に入ってくる人を減らせるよ」

 

「中身、机一つですよ」

 

「だから名前で守るんだよ。小さく始める。でも、遊びじゃないと分かる名前にする」

 

 澪は、笑っていいのか真面目に受け止めるべきなのか迷った。

 

「押入商会侯爵領事業所……机一つ」

 

「看板に追いつけばいい」

 

「看板が遠いです」

 

「遠いくらいでちょうどいいよ。すぐ追いつく名前は、すぐ小さくなる」

 

 リュシアの言葉は軽いのに、商売の重さがあった。

 

 澪は、押入家具工房の入り口を見た。中から木を削る音が聞こえる。木くずの匂いと、澪が持ち込んだ電気の白い明かりが、少し不思議な形で混ざっていた。

 

 その一角に、机が置かれる。

 

 ただの机ではなく、仕事を迷子にしない机だ。

 

 

 

 

 押入家具工房の隅に、小さな机が運び込まれた。

 

 職人が図面を広げるには狭いが、注文票を置くにはちょうどいい。壁際には電灯があり、澪がスイッチを入れると、白い明かりが机の上に落ちた。

 

 リュシアは空の箱を一つ置き、澪に札を書かせた。

 

「まず、注文票の控えをここに置く」

 

 澪は札に「注文票控え」と書いた。

 

「受けた注文の控えは別にする。職人が今どれを作っているかを追う控えも必要だね。検品を待っているものと、澪が押し入れの向こうへ持って帰るものは混ぜない。渡し終わったものも、終わったと分かる箱がいる」

 

 澪は、言われた順に札を書いた。

 

 受注控え、制作中、検品待ち、持ち帰り待ち、納品済み確認。

 

 箱が増えるたびに、澪は自分の頭の中から仕事を取り出している気がした。

 

 家具工房の職人が、作業の手を止めて近づいてくる。腕にも髪にも、細かな木の粉がついていた。

 

「完成品と検品待ちが分かるだけでも助かる。今までは澪が来た時に聞いていたが、こちらも品が増えてきた。どこまで進めたか、紙で追える方がいい」

 

「私の頭の中から、箱に出してる感じです」

 

 澪が言うと、リュシアは満足そうに頷いた。

 

「それが仕事を分けるってことだよ」

 

 職人は机の上を照らす電灯を見た。

 

「この明かりなら、夕方でも読めるな」

 

「それが、ここにした理由です」

 

 澪は少しだけ得意げに言った。

 

 ただし、机の案はリュシアである。そこは心の中で訂正しておいた。

 

 

 

 

 机と箱が並ぶと、澪は少し安心しかけた。

 

 だが、リュシアはすぐに次の問題を出した。

 

「机を置くなら、机を見る人がいる」

 

「人?」

 

「箱を見る人、鍵を見る人、誰が入ったか覚える人。子どもに鍵は渡さないよ」

 

 澪は、ちょうど子ども三人のことを考えていたので、少し背筋を伸ばした。

 

 リュシアは当然のように続ける。

 

「金も置かない。ここは金を扱う場所じゃない。紙と品物の状態を追う場所だ。支払いは私の店か、澪が扱う。子どもに金を触らせる場所じゃない」

 

「事業所長候補が必要ですね」

 

「そう。机一つでも、責任者は要る。むしろ机一つだから、誰が見ているか決めておく」

 

 リュシアは、マルテ・ロウの名を出した。

 

 リュシアの周辺で帳簿や箱の整理を手伝っている年長の商会補助で、商談は得意ではないが、紙の順番と鍵の置き場所をよく覚えているという。

 

 澪は、うなずいた。

 

 子どもを見る前に、子どもを見られる人を見る。

 

 その順番は、言われれば当然だった。

 

 だが、澪だけなら机と子ども三人を先に並べていたかもしれない。

 

 リュシアがいてよかった。

 

 たぶん、本当に怒られる方向へ行く前に止めてくれる。

 

 だからこそ、澪の裏腹づもりは言えなかった。

 

 

 

 

 面接の日、澪は燭台を持ってきた。

 

 普段の事業所には置かない。面接の時だけだ。

 

 机の端にそっと置き、火は灯さない。応募者にも触らせない。ただそこにあるだけにする。

 

 リュシアは燭台を見て、眉を上げた。

 

「それも必要なのかい」

 

「あると、落ち着くので」

 

「澪が?」

 

「場が」

 

 曖昧に答えると、リュシアはそれ以上聞かなかった。燭台が神様だとは知らない。知らないままでいてほしい。知ったら、面接の前に別の説明会が始まってしまう。

 

 マルテ・ロウは、背の高い女性だった。灰色の上着を着て、髪をきっちりまとめている。華やかさはないが、部屋に入った瞬間、扉の位置と机の位置と箱の数を目で確認したのが澪にも分かった。

 

 リュシアは、いつもの調子で聞き始めた。

 

「名前と年齢を」

 

「マルテ・ロウ、二十八です」

 

「前は何をしていた?」

 

「リュシア様の店で、帳簿の写しと倉庫札の確認を手伝っていました。荷の数を合わせる仕事が多かったです」

 

「ここを手伝いたい理由は?」

 

 マルテは机の箱を見た。

 

「紙が迷うと、品も迷います。そういう場所を整える仕事なら、役に立てると思いました」

 

 リュシアは頷き、好きな仕事、嫌いな仕事、得意なこと、苦手なことを順に聞いた。マルテは、順番を揃える仕事が好きで、その場で値段を決める商談は苦手だと言った。誰がいつ入ったか、どの箱を触ったかを覚えるのは得意だが、大勢の前で大きな声を出すのは苦手らしい。

 

 鍵を預かる責任について聞かれると、マルテは少し考えてから答えた。

 

「鍵は、信頼だけではなく手順だと思っています。誰が持ち、いつ開け、いつ閉めたかを残します」

 

「ここでは金を扱わない。それでいいかい」

 

「はい。紙と品の状態を見る場所に金を置くと、見るものが増えすぎます」

 

 リュシアが澪を見る。

 

 澪は頷いて、鑑定をかけた。

 

----------------------------------

マルテ・ロウ

 分類:人間/商会補助

 役割:記録管理/出入り確認

 現在ジョブ:書記官見習い

 既得スキル:読み書き:3

 既得スキル:帳簿確認:2

 芽生え:管理補助:1

 注意:商談より記録管理に向きます

 注意:金銭判断は上位確認が必要です

 推奨:事業所長補佐/記録箱管理

 燭台コメント:灯りを消した後、戸締まりを確かめる人です

----------------------------------

 

 最後の一行を読んで、澪は燭台を見そうになった。

 

 こらえた。

 

 リュシアには、必要なことだけを伝える。

 

「記録管理向きです。商談より、箱や出入りの確認向き。金銭判断は上の確認が必要です」

 

「なら、机を見る人には向いてる。金は持たせない。鍵も最初は一つだけだね」

 

 マルテは静かに頭を下げた。

 

 澪は、その姿勢を見て少し安心した。燭台コメントは絶対判定ではない。けれど、今のところ、かなり的確だった。

 

 

 

 

 マルテが決まったところで、リュシアは机の箱を見ながら言った。

 

「子どもを使うなら、三人までだね。多いと見られない」

 

 三人という言葉に、澪の心臓が少しだけ変な音を立てた。

 

 澪は手帳の端に、誰にも見えないように小さく書く。

 

 ミラ、ピナ、トル、商人、収納、鑑定。

 

 書いてすぐ、手で隠した。

 

 リュシアがこちらを見ていた。

 

「澪、今、変なこと考えたね」

 

「考えてません」

 

「考えた顔だよ」

 

「採用計画です」

 

「今、採用って言うまでに間があったね」

 

 澪は手帳を閉じた。

 

 リュシアに、異世界もの的な裏技でレベルアップさせるつもりだと知られたら怒られる。おそらく、かなり怒られる。

 

 これは、言わない。

 

 絶対に言わない。

 

 

 

 

 最初に入ってきたミラ・セイルは、薄い茶色の髪を耳の後ろで結んでいた。両手を膝の上でぎゅっと握っている。

 

 リュシアは、名前と年齢を聞いたあと、前に何を手伝っていたかを尋ねた。

 

「店の紙をまとめたり、名前を写したりしていました。読むのは好きです。でも、声を出して読むのは苦手です」

 

「ここで働きたい理由は?」

 

「紙を見る仕事なら、役に立てるかもしれないと思いました」

 

 好きなものを聞かれると、ミラは少し迷ってから「文字と、同じ大きさに畳まれた紙」と答えた。嫌いなものは、急に大きな声で呼ばれること。得意なのは、書いてあるものをゆっくり見ること。苦手なのは、急いで返事をすること。

 

 リュシアは注文票の控えを一枚置いた。

 

「これを見て、気になるところがあれば言ってごらん」

 

 ミラは紙を上から下まで目で追い、日付の欄を指で押さえた。

 

「ここ、書いてありません」

 

 澪は前のめりになりかけたが、リュシアの視線を感じて止まった。

 

 鑑定は最後。

 

 澪は心の中でそう唱えてから、鑑定をかけた。

 

----------------------------------

ミラ・セイル

 分類:人間/見習い

 役割:注文票確認補助

 現在ジョブ:見習い

 既得スキル:読み書き:1

 芽生え:注文票確認:1

 注意:記載抜けに気づきやすい

 注意:強く急かすと読み飛ばしが増えます

 推奨:注文票確認補助

 燭台コメント:小さな灯りを、紙の端まで届かせる子です

----------------------------------

 

 澪は、燭台コメントの詩的な言い方に少し固まった。

 

 紙の端まで届く灯り。

 

 ミラには合っている気がした。

 

「記載抜けに気づきやすいです。ただ、急かすと読み飛ばしが増えるようです。注文票確認補助向きです」

 

「なら、一日数枚からだね。大きな声で呼ばない。急がせない」

 

 リュシアはそう決め、ミラに鍵も金も扱わせないことを確認した。

 

 ミラは小さな声で「はい」と答えた。

 

 澪は胸の奥で小さく印をつける。

 

 将来の鑑定候補。

 

 もちろん、言わない。

 

 

 

 

 ピナ・ロッテは、椅子に座ると足が床につききらなかった。そのせいか、本人は余計に背筋を伸ばしていた。

 

 リュシアが、いつもの順番で聞く。

 

 名前、年齢、前の手伝い、志望動機、好きなもの、嫌いなもの。

 

 ピナは、布を畳んだり小さい荷物を包んだりするのが好きだと言った。急かされるのは嫌いで、急ぐと角が曲がるらしい。

 

 澪は心の中で深く頷いた。

 

 梱包で角が曲がると、現代側でもかなりつらい。

 

 リュシアは練習用の木片と布を置いた。

 

「包んでみて」

 

 ピナはすぐには手を動かさなかった。木片の角を見て、布の大きさを見て、裏返し、もう一度角を確認してから、ゆっくり包んだ。

 

 遅い。

 

 けれど、布は角をきちんと避けていた。

 

「速さを見る仕事じゃないよ」

 

 リュシアが言うと、ピナの肩が少し下がった。

 

 澪は鑑定する。

 

----------------------------------

ピナ・ロッテ

 分類:人間/見習い

 役割:梱包補助

 現在ジョブ:見習い

 既得スキル:手仕事:1

 芽生え:梱包:1

 注意:丁寧な作業に向きます

 注意:急かすと手順が崩れます

 推奨:梱包補助/検品後の布包み練習

 燭台コメント:灯りを包むなら、風を避ける布を選ぶ子です

----------------------------------

 

 燭台の神様は、ピナのことを少し気に入っているのかもしれない。

 

 澪はそう思ったが、絶対判定ではないと自分に言い聞かせた。

 

「丁寧な作業向きです。急かすと崩れます。梱包補助がよさそうです」

 

「高い品は一人で包ませない。最初は練習用の部材と、検品済みの小さいものだけだね」

 

 ピナは、布を撫でながら頷いた。

 

 澪は内心で、手仕事と検品、将来の収納補助候補という印をつけた。

 

 言わない。

 

 

 

 

 トル・バッカは、入ってきた瞬間から落ち着かなかった。

 

 椅子に座っているのに、足が床を軽く叩いている。走るのが好きで、じっと座るのが嫌いだという答えに、リュシアは少し笑った。

 

 前の手伝いは、荷物運びや人を呼びに行く仕事。志望動機は、用を頼まれるのが好きだから。

 

「得意なことは?」

 

「道を覚えること」

 

「苦手なことは?」

 

「長い紙を読むこと」

 

 正直だった。

 

 リュシアは空の封筒を持ち上げた。

 

「これを家具工房の親方へ渡す。誰へ渡す?」

 

「家具工房の親方」

 

「何を伝える?」

 

 トルはそこで止まった。

 

「あ」

 

「戻ったら誰へ報告する?」

 

「……リュシアさん?」

 

「今回はマルテだね。速いだけじゃ駄目だよ」

 

 トルは口を尖らせかけて、途中でやめた。

 

 澪は鑑定する。

 

----------------------------------

トル・バッカ

 分類:人間/見習い

 役割:使い走り補助

 現在ジョブ:見習い

 既得スキル:走行:2

 芽生え:伝達:1

 注意:急ぐと確認を飛ばしやすい

 注意:貴重品や金銭の単独運搬には不向き

 推奨:近距離連絡係/同行つき

 燭台コメント:灯りは速く運べても、風よけを忘れてはいけません

----------------------------------

 

 少し説教っぽい。

 

 燭台の神様は、速すぎる火が苦手なのかもしれない。

 

 澪は必要な部分だけ伝えた。

 

「走ることと伝えることは向いています。ただ、確認を飛ばしやすいです。最初は同行つきがいいです」

 

「だね」

 

 リュシアはトルに向き直った。

 

「金は持たせない。鍵も持たせない。持ち帰り待ちの品も持たせない。最初は空の封筒と伝言だけだ。走る前に、誰へ、何を、戻ったら誰へ報告するかを言う。言えない時は走らない」

 

 トルは少し不満そうだったが、ちゃんと頷いた。

 

 澪は、三人目の印を心の中につける。

 

 将来の収納・運搬系候補。

 

 やはり、言わない。

 

 

 

 

 ルカン・ベルは、子ども三人とは違う空気を持っていた。

 

 少し年上で、話し方も滑らかだ。部屋に入ると、机と箱を見て、それから家具工房の奥へ視線を向けた。高いもの、価値がありそうなものへ自然に目が行く。

 

 澪は少し警戒した。

 

 リュシアは警戒を顔に出さなかった。

 

 名前、年齢、手伝い経験を聞いたあと、志望動機を尋ねる。

 

「早く一人前になって稼ぎたいです」

 

「好きなものは?」

 

「値段を見ることです」

 

「嫌いなものは?」

 

「ただ待つことです」

 

 ルカンは、高額品や澪の国で売れる品に興味があると正直に言った。

 

 澪の眉が少し動く。

 

 リュシアは静かに言った。

 

「金に興味があるのは悪いことじゃない。ただ、置く場所を間違えると危ない」

 

「盗みたいわけじゃありません」

 

「そこまでは言ってないよ。でも、高いものを見たい目と、高いものを扱える手は別だ」

 

 澪は鑑定をかける。

 

----------------------------------

ルカン・ベル

 分類:人間/商人見習い

 役割:市場補助/接客見習い

 現在ジョブ:商人見習い

 既得スキル:交渉:1

 芽生え:値踏み:1

 注意:高額品への関心が強い

 注意:持ち帰り待ち品、金銭管理、単独倉庫作業には配置しないでください

 推奨:リュシア監督下での市場補助

 燭台コメント:灯りは強い。正しい台に置けば、よく照らします

----------------------------------

 

 澪は少し驚いた。

 

 もっと厳しいコメントが出ると思っていた。

 

 けれど、燭台はルカンの灯りを否定していなかった。強い。正しい台に置けば、よく照らす。

 

 誠実さは見ている。

 

 ただし、配置注意は必要だった。

 

「押入商会の机には置かない方がいいです。でも、リュシアさん監督下で市場補助なら向いています」

 

 澪がそう言ったところで、リュシアが首を振った。

 

「押入商会の机には置かない。でも、採るのは事業所だよ」

 

 澪は瞬きをした。

 

「事業所のメンバーなんですか」

 

「そう。押入商会侯爵領事業所の採用者として置く。ただし、最初の仕事場は私の目が届く市場側だね」

 

 ルカンも、少し驚いた顔をした。

 

 不採用だと思っていたのかもしれない。

 

 リュシアは続けた。

 

「高いものを扱いたいなら、まず安いものを正しく見るんだよ。客がどこで足を止めるか、値札が合っているか、品が動く時に何が変わるか。そこからだ。事業所の者として採るけど、机や鍵や持ち帰り待ちの品には近づけない」

 

 ルカンは悔しそうに唇を結んだが、やがて頷いた。

 

「やります」

 

 押入商会侯爵領事業所の採用者。

 

 ただし、初期配置はリュシア監督下の市場側。

 

 澪は、ようやく納得した。

 

 ルカンは外されたのではない。

 

 置き場所を間違えないように、少し離れた台に置かれたのだ。

 

 

 

 

 面接が終わると、リュシアは椅子にもたれた。

 

「鑑定は便利だけど、先に話を聞いた方がいいね」

 

「はい。鑑定だけだと、人を決めつけそうになります」

 

「人を見るのは、会話と仕事と試用期間。鑑定は最後の確認だよ」

 

 リュシアは燭台を見た。

 

「それも、最後の確認に使うんだね」

 

 澪の心臓が少し跳ねた。

 

「ええと、まあ、そんな感じです」

 

「変わった飾りだとは思うけど」

 

 リュシアはそれ以上聞かなかった。

 

 澪は、助かったと思った。

 

 燭台コメントは絶対判定ではない。神様にも好悪がある。誠実な小さな仕事を好むが、速すぎる火には少し厳しい。高い方へ向く火でも、正しい台があれば認める。

 

 だから、鵜呑みにしない。

 

 リュシアとマルテの判断と合わせる。

 

 そして、澪の裏腹づもりも、リュシアとマルテが現実的に制御してくれるからこそ成立する。

 

 そこもまた、絶対に言わない。

 

 

 

 

 初期運用は、とても地味に始まった。

 

 マルテが箱の位置を決める。

 

 職人側から見やすい位置に検品待ちを置き、澪が持ち帰る品の控えは奥に寄せる。注文票控えと受注控えは取り違えないよう、机の左側に並べる。

 

 ミラは、注文票控えを一枚ずつ見た。

 

「これ、日付がありません」

 

「マルテへ渡す」

 

 リュシアが言うと、ミラは両手で紙を持ってマルテへ渡した。

 

 ピナは、検品済みの小さな部材を布で包む練習をしている。角が当たらないよう、何度も布の位置を直す。

 

 トルは封筒を持ち、走り出す前に復唱した。

 

「家具工房の親方へ。検品待ちの棚の確認。戻ったらマルテさんへ報告」

 

「よし。今日は私も一緒に行く」

 

 返事をした瞬間、トルは走り出しかけた。

 

 リュシアが肩をつかむ。

 

「一緒に、だよ」

 

「あ」

 

 澪は笑いそうになったが、口を閉じた。

 

 任せる練習だ。

 

 マルテは、机の引き出しを閉める手順を確認していた。鍵はまだ一つだけで、子どもたちには渡さない。金銭は置かない。高額品は一人では触らせない。

 

 紙と札と箱だけ。

 

 それでも、仕事は少し進んでいた。

 

 ルカンは、机の前にはいなかった。

 

 けれど、事業所の採用者名簿には名前がある。彼はリュシアの目が届く市場側で、価格札と客の流れを見る仕事から始めることになった。

 

 リュシアは、古い価格札を渡しながら言った。

 

「事業所の者として採る以上、見る仕事はある。ただし、最初に見るのは高い家具じゃない。客が何を見るか、値札が合っているか、品が動いた時に何が変わるかだ」

 

 ルカンは少し悔しそうだったが、価格札を投げ出さなかった。

 

「はい」

 

 澪は、その様子を見て、燭台コメントの意味が少し分かった気がした。

 

 灯りは強い。

 

 正しい台に置けば、よく照らす。

 

 間違った場所に置けば、燃え移る。

 

 人を切るのではなく、置く場所を間違えない。

 

 それが今日の面接だった。

 

 

 

 

 夕方近く、家具工房の職人が木札を持ってきた。

 

 丁寧に磨かれた板に、文字が彫られている。

 

 押入商会侯爵領事業所。

 

 澪は固まった。

 

「本当にこの名前でいくんですか」

 

「いい名前だよ」

 

 リュシアは平然としていた。

 

「硬いです」

 

「硬い方がいい」

 

 職人が木札を壁に掛ける。

 

 電灯の明かりの下で、その名前はやけに立派に見えた。

 

 中身は机一つと記録箱だ。

 

 けれど、木札が掛かると、そこはただの物置ではなくなった。

 

 仕事を置く場所になった。

 

「大きく始めなくていい。小さく始めて、必要なら育てる」

 

 リュシアがそう言った。

 

 澪は内心で、事業所も人も育てるものらしいと思った。

 

 もちろん、それも言わない。

 

 

 

 

 大きな成果はなかった。

 

 売上が増えたわけでもない。

 

 新しい契約が決まったわけでもない。

 

 けれど、注文票が一枚、正しい箱へ入った。

 

 検品済みの部材が一つ、丁寧に包まれた。

 

 伝言が一つ、復唱されてから家具工房へ届いた。

 

 マルテが、誰が何をしたか記録した。

 

 ルカンは、事業所の採用者として、リュシア監督下で価格札を一枚直した。

 

 澪は、燭台を収納へ戻す。

 

 面接の日だけの面接官。

 

 常設はしない。

 

「面接、お疲れさまでした」

 

 澪は小さく頭を下げた。

 

 燭台は答えない。

 

 ただ、収納にしまう直前、受け皿の縁が一度だけ明るく見えた。

 

 リュシアが小声で言う。

 

「今、返事した?」

 

「たぶん、気のせいです」

 

「そういうことにしておこうか」

 

 リュシアは追及しなかった。

 

 澪は心の底から感謝した。

 

 

 

 

 澪は、もう一度だけ押入家具工房の一角を見た。

 

 電灯の下の机。

 

 札のついた箱。

 

 壁に掛かった、押入商会侯爵領事業所の木札。

 

 まだ小さい。

 

 本当に小さい。

 

 けれど、澪がいない日でも、仕事が少し進む場所だった。

 

 澪は手帳を開く。

 

 押入商会侯爵領事業所は、押入家具工房内に机一つと記録箱を置く形で始まった。電気が使えるため、夕方でも紙が読める。マルテが記録箱を見て、ミラが注文票を確認し、ピナが梱包補助をし、トルが連絡補助をする。鍵は大人が持ち、金銭は置かず、燭台は面接時だけ持ち込む。ルカンは事業所採用だが、初期配置はリュシア監督下の市場側とする。

 

 今日決まったことを、ひとつの文章として書き込んだ。

 

 少し間を置いて、誰にも見えないように、さらに小さく書く。

 

 次の段階は、レベル確認。

 

 澪はすぐにその行を隠した。

 

 リュシアには見せない。

 

 絶対に見せない。

 

 硬い名前の木札の下に、小さな机がある。

 

 そこには、澪一人では持ちきれなくなった仕事を、少しずつ分けるための明かりがあった。

 

 押入商会侯爵領事業所は、押入家具工房の一角に置かれた机一つから始まった。けれどそこには、澪がいない日でも仕事を少しだけ進めるための明かりがあった。

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