篠原澪は、リュックの中身を確認してから押入れの前に立った。
今日持っていくのは、リュシアに見せる商品と在庫表、それに自分用の飲み物だった。
透明なペットボトルを持ち上げる。
「これも忘れないようにしないと」
中身はポカリだ。
修さんから、ちゃんと食べて睡眠を取るようにと言われたばかりである。暑い市場を歩き回って自分が倒れたのでは話にならない。
透明盾は壁際に置いたままにした。
前にリュシアから、持って歩くだけでも目立つと言われている。人通りのある道を使い、トトにも途中までついてきてもらうようになった今は、毎回抱えて歩く必要もなさそうだった。
熊撃退スプレーだけは、すぐ取り出せる位置に入れてある。
澪はリュックを背負い、襖を開けた。
◇ ◇ ◇
ヴァルデスの市場は、今日も朝から人が多かった。
焼いた肉の匂いに香辛料が混ざり、石畳の上を荷車がゆっくり進んでいる。
澪は細い横道へ入らず、人通りのある道を歩いた。
目的はリュシアの倉庫だ。
カラビナや防水ポーチを見せたあとの反応も聞きたいし、前回足りなかった虫眼鏡についても話がある。
倉庫まであと少しというところで、人だかりが見えた。
最初は喧嘩かと思った。
異世界の市場で起きた喧嘩に、自分から首を突っ込む気はない。
避けようとした時、人の隙間から白い法衣が見えた。
老人が石畳の脇へ座り込んでいる。
周囲からは何度も「司祭様」と声がかかっていた。
完全に意識を失っているわけではない。呼びかけには反応しているが、額には汗が浮かび、呼吸も浅い。
水売りの男が水を差し出していた。
別の男は布を広げ、日差しを遮ろうとしている。
小さな子どもが、泣きそうな顔で司祭様を呼び続けていた。
誰も何もしていないわけではない。
それでも、司祭様は水を口元へ運ばれても、うまく飲み込めていなかった。
澪は足を止めた。
自分は医者ではない。
異世界の病気も知らない。
ただ、暑さで体の水分が抜けた時の様子には似ている。
リュシアを呼びたい。
市場を見回したが、姿は見つからなかった。
倉庫まで走ればそう遠くない。
けれど、その間に司祭様の具合がさらに悪くなったらどうする。
リュックの中にはポカリがある。
使えば目立つ。
使わなければ、ただ見ているだけになる。
澪は人だかりへ近づいた。
「あの、日陰へ移した方がいいと思います」
近くにいた男がすぐに頷き、もう1人と一緒に司祭様を支えた。
澪はタオルを水で濡らし、首元へ当てる。
「司祭様、聞こえますか。少しなら飲めます?」
わずかに頷いた。
澪はリュックからポカリを取り出した。
透明な容器に青いラベル。
市場の中では、どう見ても場違いだった。
周囲から視線が集まる。
「薬じゃないですからね」
先に言っておいた。
誰に向けて言ったのかは自分でもよく分からない。
キャップを開け、無理に流し込まないよう、ほんの少しだけ口へ含ませる。
飲み込んだのを確かめてから待ち、また少し飲ませた。
「ゆっくりでいいです」
何度か繰り返すうちに、浅かった呼吸が少し落ち着いてきた。
すぐに立ち上がれるほど元気になったわけではない。
それでも、ぼんやりしていた目の焦点が戻ってくる。
司祭様が、手元のペットボトルを見た。
「これは……高位の回復薬か」
「違います」
澪の返事は早かった。
「ポーションじゃないです。ポカリです」
「ポカリ?」
「ええと……暑い時とか、汗をたくさんかいた時に飲むもので、水分とか塩分を補うための飲み物です」
「薬ではないのか」
「飲み物です」
そのやり取りを聞いていた周囲がざわついた。
「高級ポーションではないのか?」
「神殿の薬より効いているぞ」
「その透明な瓶は何だ?」
「瓶じゃないです」
訂正するほど質問が増えた。
普通の飲み物だと説明したいだけなのに、話すたびに珍しい薬の説明へ近づいていく。
澪が困っていると、人だかりの外から声がした。
「澪」
リュシアだった。
人をかき分けて入ってくると、まず司祭様の顔を見た。
次に澪。
最後に、澪が持っているペットボトルへ視線が移る。
「今度は何があったんだい?」
「暑さで倒れたみたいで、水もうまく飲めてなかったので。これは薬じゃなくて、水分と塩分を補う飲み物で――」
「分かった」
リュシアは澪にだけ聞こえる声で続けた。
「助けたのは間違ってないよ。でも、見られすぎたね」
「……ですよね」
リュシアはすぐに周囲へ向き直った。
「司祭様を休ませるのが先だよ。離れて。風を通して。水売りさん、水を少し頼むよ。そこの布、もう少し高くして日を遮って」
人が動いた。
ただ見ていた者は後ろへ下がり、司祭様の周囲に風が通る。
「澪が飲ませたのは何でも治す薬じゃないよ。暑さで弱った時に飲ませるものだってさ。司祭様を休ませな」
澪は隣で聞いていた。
自分が何度説明しても伝わらなかった内容が、ずいぶん簡単になっている。
商人は強い。
◇ ◇ ◇
司祭様は、近くの小神殿の控え部屋へ移された。
市場より涼しく、石壁の小さな窓から風が入っている。
司祭様は木の椅子へ腰を下ろし、まだ少し疲れた顔をしていた。
「しばらくここで休んでもらうよ」
リュシアが言った。
澪は小さく頷いた。
司祭様の前に置かれた机には、澪が持ってきた虫眼鏡や手鏡、カラビナが並び、その端には、ほとんど空になったポカリのペットボトルも置かれていた。
「どうしてこうなったんでしょう」
「司祭様が見たいって言ったんだろ」
「そうでした」
司祭様が虫眼鏡を手に取った。
レンズを光へかざし、反対側の細かな文字を見る。
「小さきものを大きく見る道具。葉や石、細かき文字を見る者に向く」
次に手鏡を持つ。
「顔を映す薄き鏡。身なりを整える者によい」
カラビナでは、何度か金具を開閉した。
「軽き留め金具。小袋などを留めるには便利だが、強き荷には向かぬ」
澪はリュシアを見た。
「同じこと言ってます」
「鑑定なんだから、そりゃそうだろ?」
当然のように返された。
「リュシアさん、知ってるんですか?」
「何を?」
「鑑定」
「商人が鑑定を知らなくてどうするんだい」
リュシアは呆れた顔をした。
「持ってる奴もいるし、欲しがる奴も多いよ。品を見る仕事なんだから」
「なるほど……」
「澪だって、あったら欲しいだろ?」
「それは欲しいです」
「だろ?」
司祭様は2人の会話を聞きながら、今度はペットボトルを手に取った。
空に近い容器を光へ透かす。
「透明で軽き水の器。水を保つ。熱には弱い。長く使い続ける器ではない」
リュシアの目が変わった。
澪はそれに気づいた。
「リュシアさん?」
「これ、空になったらどうするんだい?」
「ゲンダイなら捨てますけど」
「捨てる?」
「はい」
リュシアはペットボトルを握った。
少しへこみ、手を離すと戻る。
栓を閉め、横へ傾ける。
「軽い。中が見える。栓もできる」
「そうですね」
「水筒よりずっと軽いじゃないか」
「まあ……」
「空になったら置いてきな」
「え?」
「捨てるんだろ?」
「ゲンダイでは」
「じゃあ、こっちじゃ捨てなくていいよ」
澪は嫌な予感がした。
「何に使うんです?」
「考える」
その返事が一番不安だった。
司祭様は最後に、まだ少し残っている中身へ目を向けた。
「こちらも見てよいか?」
「お願いします」
司祭様はしばらく見てから、ゆっくり頷いた。
「薬草を煎じたものではない。水と、体から失われるものを補うための飲み物らしい」
「そうです。ポカリです」
「ポーションではないのだな」
「最初からそう言ってます」
ようやく1人、分かってくれる人が増えた。
◇ ◇ ◇
司祭様はしばらく休んだあと、澪の方を見た。
「お前さんも、品を見る時にずいぶん細かく見るようだな」
「最近、失敗したくなくて」
「同じ品かどうか。何に使えるか。何に使ってはならぬか。そこまで見ておる」
澪はカラビナを見る。
重い荷物には使わせない。
虫眼鏡は型違いを分ける。
JANコードを調べ、在庫表も作った。
どれも、あとで困りたくなくて始めただけだった。
司祭様が澪へ手を伸ばした。
「少し見せてもらってもよいかな」
「何をです?」
「お前さん自身を」
澪は一瞬だけリュシアを見る。
リュシアは特に驚いていない。
「司祭様の鑑定だよ」
「あ、なるほど」
「今さら怖がるところじゃないだろ」
「自分が見られるのは別ですよ」
「そういうものかい?」
そういうものだった。
それでも断る理由はない。
「お願いします」
司祭様の視線が澪へ向く。
しばらくして、その眉が少し動いた。
「ほう」
「何かありました?」
「鑑定の芽が出ておる」
澪は固まった。
「……芽?」
リュシアがすぐに反応した。
「鑑定?」
「そうだ」
「澪、よかったじゃないか」
「ちょっと待ってください。私はまだ何も見えてませんけど」
「だから芽なんだろ?」
リュシアの方が話が早い。
司祭様は頷いた。
「まだ正式なスキルではない。ただ、品を見る積み重ねが形になり始めておる」
「これ、放っておいたらどうなるんです?」
「育つこともあれば、そのまま消えることもある」
「消えるんですか」
「芽だからな」
澪は少し考えた。
「それは……もったいないですね」
リュシアが笑った。
「澪ならそう言うと思ったよ」
「だって鑑定ですよ?」
「商人には欲しいスキルだね」
司祭様は椅子から立とうとした。
澪が慌てる。
「まだ休んでいた方がいいんじゃないですか?」
「無理はせぬ。すぐ済む」
「何をするんです?」
「芽を、きちんとスキルとして定める」
澪はリュシアを見る。
「そんなことできるんですか?」
「司祭様ならね」
今度はリュシアが当然のように答えた。
「芽が出ても、それだけじゃスキルにならないことがある。神前で形を定めてもらうんだよ」
「そういう仕組みだったんですか」
「知らなかったのかい?」
「スキルを生やしたことがないので」
「普通はそうだね」
リュシアも納得した。
◇ ◇ ◇
小神殿の祭壇は、控え部屋のすぐ隣にあった。
司祭様に言われ、澪は祭壇の前へ座る。
「私は何をすればいいですか?」
「目を閉じて、先ほどまで自分が見ていた品を思い浮かべなさい」
澪は目を閉じた。
虫眼鏡。
手鏡。
カラビナ。
同じように見えて違う商品。
使える場所と、使ってはいけない場所。
司祭様が短い祈りを捧げる。
言葉の意味は分からない。
ただ、途中で自分の名前と「鑑定」という言葉だけは聞き取れた。
しばらくすると、目の奥が少し温かくなる。
痛みはなかった。
ぼんやりしていた何かに輪郭がつくような、不思議な感覚だけが残った。
「目を開けなさい」
澪は目を開いた。
「終わったんですか?」
「試してみれば分かる」
司祭様がカラビナを1つ差し出した。
澪は受け取り、意識を向ける。
今までなら、金具の厚さやばねの戻りを自分で考えていた。
今回は違った。
見ようと思った途端、情報がまとまった形で浮かぶ。
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カラビナ
分類:留め具
用途:小物の固定
注意:重い荷には不向き
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「……見えました」
「どう見える?」
「名前と、何に使うかと、注意することが分かれてます」
「なら、鑑定として定まっておる」
澪はもう一度カラビナを見る。
表示は消えない。
リュシアが横から覗き込んだ。
「私は何も見えないよ」
「私には出てます」
「いいね」
リュシアは明らかに商人の顔になった。
「澪、それ便利だよ」
「分かってますけど、その顔で言われると怖いです」
「何でだい?」
「仕事が増えそうなので」
「増えるだろうね」
「否定してください」
リュシアは笑った。
澪は机へ戻り、ポカリへ意識を向けた。
----------------------------------
ポカリ
分類:経口保水液
用途:水分・電解質補給
適性:発汗・軽度脱水時
状態:飲用可能
----------------------------------
「経口保水液……」
「何と出た?」
「水分と電解質を補う飲み物です」
司祭様が頷く。
「やはり薬ではないのだな」
「はい」
澪は少しだけ胸を張った。
「ポーションではありません」
そこだけは鑑定にも保証してもらえた。
◇ ◇ ◇
次にペットボトルへ意識を向ける。
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ペットボトル
分類:樹脂製飲料容器
用途:飲料の保存・携行
特徴:軽量/透明/再栓可能
注意:高温に弱い
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「……やっぱり容器ですね」
「何て出たんだい?」
リュシアが食いついた。
澪が読み上げると、リュシアはすぐにペットボトルを取り上げた。
「軽量。透明。栓ができる」
「そう書いてあります」
「悪くないね」
「売る気ですか?」
「まず見せるよ」
「誰に?」
「欲しがりそうなのは何人かいる」
返事が早かった。
「これ、ゲンダイでは飲み終わったら普通に捨てる物なんですけど」
「何度も言わなくていいよ。だから欲しいんじゃないか」
「捨てるから?」
「澪が安く手に入れられるから」
そこは商人だった。
「空になったら私に渡しな」
「それ、私が飲んでたやつですよ?」
「洗えばいいだろ?」
「そういう問題です?」
「何が問題なんだい?」
リュシアには本気で分からないらしい。
司祭様が横で笑っていた。
「商人の目とは恐ろしいものだな」
「司祭様まで言わないでください」
「褒めておる」
「褒められてる感じがしません」
リュシアはペットボトルを机へ戻さなかった。
◇ ◇ ◇
司祭様は、澪が鑑定を使えるようになったことを確認すると、少し真面目な顔になった。
「鑑定は便利な技だが、誰にでも見せびらかすものではない」
「やっぱりですか」
「品を見てほしい者は集まる。隠したい物を見られたくない者もいる」
リュシアも頷いた。
「商人なら欲しがるよ。でも、持ってると知られれば何でも見てくれって言われる。相手は選びな」
「露店と同じですね」
「そういうことだよ」
澪には、その説明が一番分かりやすかった。
商品を誰にでも見せない。
金貨を人前で数えない。
便利だからといって、全部持ち込まない。
鑑定も同じ扱いにすればいいらしい。
「それと、見えたものが何でも完全だと思わぬことだ」
司祭様が続ける。
「鑑定にも見える範囲がある。使う者が育てば、見えるものも変わる」
「今見えているものだけで決めつけない方がいい?」
「そうだ」
「分かりました」
リュシアが横から言った。
「その辺は商売でも同じだね。鑑定で良い品って出ても、高く売れるとは限らないよ」
「そこまで鑑定に任せようとは思ってません」
「ならいいよ」
そのあたりは、これまでリュシアに散々教えられている。
◇ ◇ ◇
小神殿を出る頃には、司祭様もかなり顔色が戻っていた。
「今日は助かった」
「本当にポカリを飲ませただけですから」
「それでも、わしが助かったことに変わりはない」
司祭様は穏やかに笑った。
「また教会へ来なさい。困ったことがあれば相談に乗ろう」
「ありがとうございます」
澪は頭を下げた。
リュシアは、その横で空になったペットボトルを持っている。
「それ、返してもらえません?」
「何で?」
「私が持ってきたので」
「捨てるんだろ?」
「そうですけど」
「なら置いてきな」
「もう売る気ですよね?」
「まだ見せるだけだよ」
「まだ、って言いましたね」
「聞こえたかい?」
「聞こえました」
リュシアは悪びれもしない。
市場へ戻るところでトトが見つかった。
「トト」
リュシアが呼ぶ。
「澪をいつもの通りまで送ってきな」
「うん」
「変なのがいたら大声で叫ぶ。それから私を呼びに戻るんだよ」
「分かってる」
トトが澪の横へ来た。
「澪姉ちゃん、今日何してたの?」
「司祭様を助けました」
「すごい」
「そのあと鑑定が生えました」
「もっとすごい」
「あと、リュシアさんにゴミを取られました」
「ゴミ?」
トトが振り返る。
リュシアは透明なペットボトルを光に透かしていた。
「……あれ?」
「たぶん、そのうちゴミじゃなくなります」
澪には、そんな気がした。
◇ ◇ ◇
江古田の六畳間へ戻ると、澪は在庫表を開いた。
ミニテーブルの上にカラビナを置き、もう一度見る。
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カラビナ
分類:留め具
用途:小物の固定
注意:重い荷には不向き
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ちゃんと出る。
見間違いではなかった。
在庫表の右端に、新しい欄を作る。
『鑑定結果』
「増えた……」
昨日、在庫を管理するために作ったばかりなのに、もう欄が増えた。
カラビナには「重い荷には使わせない」と書いてある。
鑑定結果にも同じ内容が出たので、少なくとも自分の判断は間違っていなかったらしい。
澪は次の行へ移ろうとして、手が止まった。
ポカリのボトルがない。
「あ」
リュシアに取られたままだった。
返してもらおうと思えば、明日でも返してもらえる。
ただ、あの顔を思い出すと、すでに誰かへ見せている可能性の方が高そうだった。
「……空のペットボトルなんだけどな」
ゲンダイなら、飲み終わればゴミ箱へ入る。
ヴァルデスでは、リュシアが持っていった。
澪は在庫表の余白へ、
『空ペットボトル リュシア』
とだけ書いた。
その隣に置いてある大学の課題ノートへ目を移す。
昨日書いた付箋には、まだ『睡眠』が残っていた。
鑑定が増えても、大学の課題も睡眠時間も減ってはくれない。
「……今日は課題から」
澪は在庫表を閉じ、課題ノートを手前へ引いた。