押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第7話 ポカリはポーションではありません

 篠原澪は、リュックの口を開けたまま六畳間の真ん中に座り、今日持っていくものをひとつずつ指先で確認していた。リュシアへ見せる在庫表の写し、前回の商品反応をまとめたメモ、レシートを撮影したスマホ、小さく畳んだタオル、現代側で買った商品サンプルを包んだ布袋。そこまで入れてから、澪は駅前のコンビニで買っておいた青いラベルのペットボトルを手に取り、少し迷ってからリュックの奥へ押し込んだ。

 

 ポカリは売り物ではなかった。前回、修さんに「続けるなら、続けられる生活にしないとね」と言われた声が、思ったより長く澪の中に残っている。暑い市場を歩き回って、自分が倒れるようなことはしない。押入商会の代表社員は一名しかいないので、代表が倒れた瞬間に会社機能が止まる。そう考えるとかなり情けないが、情けなさより安全の方が大事だった。

 

 金貨は持っていない。外から見て高そうなものもない。レシートの写しや在庫表の写しは、クリアファイルに入れてリュックの内側へ入れた。玄関脇に立てかけてある透明なポリカーボネートの盾が、朝の光を少しだけ反射している。澪は一度だけそれに手を伸ばしかけたが、リュシアに「目立つ」と言われた時の顔を思い出し、指先を引っ込めた。

 

「今日は、置いていきます」

 

 誰に言い訳しているのか分からないまま、澪は盾へ小さくそう告げた。持っていない方が安全な道具というのは、買った本人としては少し悲しい。それでも、使わずに済む道具が一番いい道具だと、前回リュシアに教えられたばかりだった。

 

 押入れの前に立つ。通算十回目だ、と澪は心の中で数えた。最初に押入れの向こうへ足を踏み出した時は、膝が震えていた。市場の匂いも、人の声も、石畳の硬さも、全部が怖かった。今はリュシアの倉庫へ行く道も分かるし、市場のざわめきにも少し慣れた。けれど、慣れたと思った時が一番危ない。そもそも押入れから出勤している時点で、慣れていいものなのかどうかも怪しい。

 

 澪はリュックの肩紐を握り直し、畳から押入れの向こうへ足を入れた。

 

 市場は、今日も騒がしかった。焼いた肉の匂いと香辛料の匂いが混ざり、革袋を積んだ荷車が石畳の上で軋んでいる。水売りの男が大きな声で客を呼び、布を広げる商人の横を荷運びの子どもが体を斜めにしてすり抜けていった。澪は細い路地を避け、人通りのある道を選んで進む。今日の目的は、リュシアの倉庫で前回のカラビナ、防水ポーチ、小型フックの反応を聞くことだった。新商品を増やすかどうかは、慌てずに決める。便利そうだから買う、では危ない。そこは少し学んだ。

 

 そう思っていたところで、市場の端に人だかりが見えた。

 

 最初は喧嘩かと思った。異世界市場で喧嘩に近づくほど、澪は強くない。避けようとして足をずらしかけた時、人の隙間から白い法衣が見えた。老人が、石畳の脇に座り込んでいる。

 

 澪は足を止めた。

 

 白い法衣の老人は、完全に意識を失っているわけではなかった。目は半分開いていて、周囲の呼びかけにかすかに反応している。ただ、額には汗が浮き、胸が浅く上下している。近くに小さな祠のような建物があり、市場の人たちが「司祭様」と呼んでいるので、そこにいる司祭なのだろう。

 

 水売りが水を差し出していた。別の男が布を掲げて日差しを遮ろうとしている。小さな子どもが泣きそうな顔で「司祭様」と呼び続けていた。誰も何もしていないわけではない。それでも、司祭は水を口元へ運ばれても、うまく飲み込めていなかった。

 

 澪は一歩下がった。自分は医者ではない。異世界の病気も分からない。現代の飲み物を、こちらの人に飲ませていいのかも分からない。ただ、暑さで体の水分が抜けた時の様子に似ている気がした。リュシアを呼びたい。そう思って周囲を見回したが、赤茶色の布を頭に巻いた商人娘の姿は見えなかった。倉庫までは走ればそう遠くない。だが、その間、この老人はどうなるのか。

 

 リュックの奥に入れたポカリの感触を、肩越しに意識する。使えば目立つ。使わなければ、ただ見ているだけになる。澪の喉が乾いた。見ないふりをして、あとで帳簿を書ける気がしなかった。

 

「あの、少し日陰に……移した方がいいと思います」

 

 澪は近くの男に声をかけた。通じたのか、男はうなずき、もう一人と一緒に司祭の体を支える。澪はタオルを出し、水売りの水で湿らせて、額と首元へそっと当てた。老人の目がわずかに動く。澪は口元へ顔を寄せ、声を落とした。

 

「聞こえますか。少しずつなら、飲み込めますか」

 

 老人は小さくうなずいた。

 

 澪はリュックからポカリを出した。青いラベルのボトルが市場の光の中で妙に目立つ。周囲の視線が集まった気がして、澪の指先に汗がにじんだ。これはただのスポーツドリンクです、そんなに見ないでください、と心の中で叫んでも、もちろん誰にも伝わらない。

 

 キャップを外し、ほんの少しだけ口元へ近づける。無理に流し込まない。むせないように、口に含む程度にする。司祭が飲み込むのを確認してから、また少し待つ。

 

「少しだけです。ゆっくり。苦しかったら止めてください」

 

 老司祭は、かすかにうなずいた。澪は何度かに分けて、少しずつ飲ませた。すぐに立ち上がるような変化はない。傷が光って治ることもなければ、神々しい音が鳴ることもない。ただ、呼吸が少しずつ整い、目の焦点が戻ってくる。それだけで、澪は膝から力が抜けそうになった。

 

 助かったのかもしれない。でも、本当にこれでよかったのかは分からない。そう思っていると、老司祭がかすれた声を出した。

 

「これは……高位の回復薬か」

 

 澪の肩が跳ねた。

 

「違います。ポーションじゃないです。スポーツドリンクです」

 

 周囲には、もちろん通じなかった。

 

「高級ポーションか?」

 

「神殿の薬ではないのか」

 

「透明な瓶に入っていたぞ」

 

 ざわめきが広がる。澪はポカリのボトルを抱えたまま、顔の温度が上がっていくのを感じた。

 

「ち、違います。これは、ええと、運動したあととか、暑い時に飲むもので……」

 

 説明すればするほど、周囲の目が「よく分からないが高そうな水」を見ている顔になっていく。言葉は難しい。特に異世界では難しい。澪が言葉を継げずにいると、人だかりの外から鋭い声が飛んできた。

 

「ミオ」

 

 リュシアだった。

 

 彼女は人の間をすり抜けるように入ってくると、澪の手元の青いラベルのボトルを見て眉を寄せた。

 

「今度は何をしたの?」

 

「暑さで倒れたみたいで……水だけじゃ飲めてなくて……これは薬じゃなくて、体の水と塩気を補う飲み物で……」

 

 澪の説明は、自分でも分かるほど長くなった。リュシアはまず老司祭の顔を見た。呼吸が落ち着いていること、周囲が必要以上に近づいていること、澪がボトルを握ったまま固まっていることを順番に確認する。表情は怒っているというより、素早く状況を整理している商人の顔だった。

 

「助けたのは間違っていないわ。でも、見られすぎた」

 

 リュシアは澪にだけ聞こえる声でそう言い、すぐに周囲へ向き直った。

 

「見世物じゃないわ。司祭様を休ませるのが先よ。離れて。風を通して。水売りさん、冷たい水を少し。そこの布、もう少し上げて」

 

 リュシアが指示を出すと、人だかりが少しずつほぐれていった。心配している人は残り、ただ見たいだけの人は押し戻される。水売りの男が慌てて水を差し出し、泣きそうだった子どもは近くの女性に抱き寄せられた。

 

「騒ぐようなものじゃないわ。暑さで弱った体に飲ませる水に近いものよ。司祭様を休ませて」

 

 リュシアの説明を聞きながら、澪は心の中で少し頭を抱えた。その言い方でも、なんだか高そうに聞こえる。

 

 老司祭は落ち着いてきたのか、澪の手元を見ていた。澪は空になりかけた青いラベルのボトルを、そっとリュックへ戻そうとする。だが、その前に老人の視線が動いた。

 

「待ちなさい。その透明な器を、少し見せてくれ」

 

 しまった、と思った時には遅かった。老司祭はボトルを受け取り、光に透かす。中身の残りが揺れた。彼は指先で胴を押し、軽さに目を細め、キャップをゆっくり回して閉める。中身がこぼれないことを確かめると、驚いたように息を吐いた。

 

「これは瓶ではないのか。なぜ、これほど軽い」

 

「えっと、瓶ではなくて……」

 

 澪はそこで止まった。瓶ではない。では何なのか。プラスチックです、と言っても伝わる気がしない。合成樹脂です、と言ったところで、自分も詳しく説明できない。

 

 リュシアもボトルを見た。透明で軽く、栓ができて、中身が見える。それが異世界側でどれだけ目立つか、彼女は一瞬で分かったらしい。

 

「これは売り物にしない方がいいわ。少なくとも、今は」

 

 澪はすぐにうなずいた。中身より容器が本命みたいになっている。現代日本では飲んだら捨てることもある容器が、ここでは目を集めている。澪はボトルを受け取りながら、指先に妙な汗を感じた。

 

 老司祭はしばらくボトルを見つめたあと、澪へゆっくり頭を下げた。

 

「礼をせねばならぬな」

 

「いえ、あの、本当に普通の飲み物なので……」

 

「そうなのだろう。だが、助けられた」

 

 その言い方に、澪は少しだけ救われた。老司祭は小神殿の方へ視線を向ける。

 

「金や品で返せるものでもない。わしの技を、少し見せよう」

 

「技、ですか」

 

「鑑定だ」

 

 

 

 

 

 小神殿の控え部屋は、市場の外よりずっと涼しかった。石壁の内側にひんやりした空気がこもり、小さな窓から入る光が床に細く伸びている。老司祭は木の椅子に腰かけ、まだ少し疲れた顔をしていた。澪はその前に座りながら、何度も様子を見てしまう。ここへ動かしてよかったのか、まだ横になっていた方がいいのではないか、そんな不安が顔に出ていたのだろう。リュシアが小声で言った。

 

「しばらくここで休ませるわ。外より涼しいから、その方がいい」

 

 澪は小さくうなずいた。

 

 机の上には、澪の持ち物が並んでいる。虫眼鏡、手鏡、カラビナ、空に近いポカリのボトル。自分のリュックの中身を神殿の控え部屋で並べる日が来るとは思っていなかった。澪が落ち着かずに膝の上で指を組んでいる間に、老司祭はまず虫眼鏡を手に取った。レンズを光にかざし、反対側の文字を覗く。目元のしわが、少しだけ深くなる。

 

「小さきものを大きく見る道具。葉や石、細かき文字を見る者に向く」

 

 澪は息を飲んだ。

 

 老司祭は次に手鏡を取った。表面に自分の顔が映るのを確認し、縁を指でなぞる。

 

「顔を映す薄き鏡。身なりを整える者に向く」

 

 カラビナを見た時には、金具を何度か開閉した。

 

「軽き留め金具。小袋を留める。強き荷には向かぬ」

 

 澪は、思わずリュシアを見た。さっきリュシアが荷車や腰袋に当てていたことと、老司祭の言葉が重なる。ペットボトルの番になると、司祭は先ほどより慎重にそれを持った。

 

「透明で軽き水の器。水を保つ。熱に弱い。長く使い続ける器ではない」

 

 最後に、少しだけ残ったポカリを見た。老司祭は匂いを嗅ぎ、ほんのわずかに指先へ取って舐める。

 

「甘みと塩気を含む水。乾きに倒れた者を助ける。薬草の類ではない」

 

「そこまで分かるんですか」

 

 澪は思わず聞いていた。

 

 老司祭は静かに笑った。

 

「薬草の気も、神殿で煎じるものの重さもない。だが、弱った体が欲しがる水ではある」

 

 澪はボトルを見た。ポカリスエットという正式名は出てこない。プラスチックという素材名も出てこない。値段も出ない。それでも、用途と注意点は妙に鋭い。

 

「鑑定とは、神がすべての名を告げる奇跡ではない。長く物を見続けた者の目に、物の方から少しだけ答えが返るのだ」

 

 老司祭はカラビナを机に置きながら言った。澪はその言葉を頭の中で何度か転がし、うまく理解できずに眉を寄せる。

 

「物がしゃべるんですか?」

 

「違う。お前が聞き取れるようになる」

 

「余計に怖いです」

 

 澪が正直に言うと、老司祭は声を立てずに笑い、リュシアも少しだけ口元を緩めた。

 

「スキルって、そういうものなんですか?」

 

 澪が聞くと、リュシアは澪の顔を見た。たぶん、澪が名前の横に剣術や魔法や鑑定が並ぶゲーム画面を想像していることに気づいたのだろう。

 

「ミオが何を想像しているか、だいたい分かるけど、多分それとは違うわ」

 

「急に生えるものじゃないんですか?」

 

「ミオの言う“生える”がよく分からないけど、何もないところから出るものじゃないわ」

 

 リュシアは机の上の品物を、指先で順にずらした。虫眼鏡、手鏡、カラビナ。市場で売る時とは違う、静かな手つきだった。

 

「誰でも自分の力を紙に書いたみたいに見られるわけじゃない。技とか、目利きとか、加護とか、手癖とか、勘とか、スキルとか、呼び方も人によって違うの」

 

「勘もスキルなんですか」

 

「長く続けて、外れにくくなった勘ならね」

 

 リュシアは少し考え、言葉を選ぶように続けた。

 

「剣を振り続けた人は、相手が踏み込む前に気配を読むことがある。薬草を扱う人は、葉の乾きや毒気に気づく。鍛冶師は、金属を叩いた音で割れやすさを聞く。荷運びは、荷の傾きで崩れる前に体が動く。商人は、布の手触りや客の目つきで、粗悪品や値打ちを読むことがある」

 

 澪は黙って聞いていた。ステータス画面ではない。能力一覧でもない。もっと生活に近い。毎日同じことを繰り返して、その人の体や目に染み込んだものが、ある時から少しだけ深く働く。そういうものらしかった。

 

「ミオは、ずっと品物を見ていたでしょう。同じか、違うか。誰に売ってよいか。危なくないか」

 

「私はただ、失敗したくなかっただけです」

 

「商人の目なんて、最初はだいたいそれよ」

 

 さらりと言われて、澪は返す言葉を失った。

 

 虫眼鏡AとBを分けた。手鏡の縁を気にした。JANコードを調べた。在庫表を作った。カラビナを重い荷物に使わせないようにしようとした。全部、失敗したくなかったからだ。怒られたくなかったし、誰かに怪我をさせたくなかったし、修さんに帳簿で呆れられたくもなかった。それが、この世界では目利きの芽になるらしい。

 

「同じ鑑定でも、人によって見えるものは違うわ。薬師は薬草に強い。鍛冶師は金属に強い。商人は用途や値打ちに寄る。司祭様は物の性質を広く見る。万能じゃないの」

 

「万能じゃないんですか」

 

「万能なら、商人はだまされないわ」

 

 それはとても説得力があった。老司祭も静かにうなずく。

 

「芽のうちは、見えたものより、見えなかったものを恐れなさい」

 

 澪はますます怖くなった。

 

「便利になる話かと思ったら、注意事項が増える話ですか」

 

「商売ってそういうものよ」

 

 リュシアの返事は、あまりにも自然だった。

 

 老司祭は机の上からカラビナを取り、澪の手に置いた。

 

「名を当てようとするな。何に向き、何に向かぬかを見なさい」

 

 澪は言われるままに、カラビナを見た。最初は何も起きない。ただの百円ショップの金具だ。銀色で、軽くて、開閉部分がある。澪は少し恥ずかしくなった。

 

「見ても、普通の金具にしか見えません」

 

「焦らずともよい。使い方を見る」

 

 澪は開閉部分を押した。金具の戻り、隙間、薄さ、軽さ、噛み合わせを見る。修さんの声が頭の奥でよみがえった。何に使うかを決めて売らないと危ないよ。

 

 その瞬間、文字が空中に浮かんだわけでも、声が聞こえたわけでもないのに、在庫表の備考欄に書けそうな短い注意が、頭の奥へ先に来た。小物を留めるもの。重い荷には向かないもの。そう整理した方が分かる、という感覚だった。

 

「……え?」

 

 澪はカラビナを持ったまま固まった。リュシアが顔を覗き込む。

 

「ミオ?」

 

 澪は今度はペットボトルを見た。透明で軽い容器。水を保つ。熱に弱く、長く使い続けるものではない。次に、ポカリの残りを見る。甘みと塩気を含む水で、乾きに倒れた者を助けるが、万能の薬ではない。そんな注意書きのようなものが、頭の中でひとつの欄に収まっていく。

 

 澪は自分の額に手を当てた。

 

「私も暑さでやられてます?」

 

「違うと思うわ」

 

 リュシアは少し笑った。老司祭は、穏やかにうなずく。

 

「鑑定の芽だな。わしが授けたわけではない。元からお前の中にあった目が、少し開いただけだ」

 

「これ、便利になるんですか。それとも仕事が増えるんですか」

 

 澪はかなり真剣に聞いた。リュシアは少し考える。

 

「両方ね」

 

「やっぱり……」

 

 澪はうつむいた。鑑定の芽。普通なら喜ぶところなのかもしれない。けれど澪の頭に最初に浮かんだのは、在庫表だった。商品名、型番、購入店、JANコード、価格、備考、注意事項。そこにまた何か増える気配がしている。

 

 リュシアは声を落とした。

 

「その目が本物なら、むやみに言わない方がいいわ。鑑定持ちは重宝される。でも、利用されることもある」

 

「芽のうちは、見せびらかすものではない」

 

 老司祭も続けた。澪はうなずいた。そもそも見せびらかせるほど、自分でも分かっていない。人の心が読めるわけでもない。値段が分かるわけでもない。ただ、自分が商品として見てきたものに対して、注意書きのようなものが浮かぶだけだった。それでも、十分に怖くて、十分に面倒だった。

 

 ポカリとペットボトルをどう扱うかは、すぐに問題になった。

 

 リュシアは商人の顔で二つを見ていた。ポカリは、暑さで弱った者には役に立つかもしれない。だが、扱いを間違えれば、澪はまた市場の真ん中で目立つ。

 

「何でも治るものではないです。今日みたいな時に、少し助けになるかもしれない、くらいです」

 

「なら、売り方を間違えると危ないわね」

 

 リュシアがうなずくと、老司祭も静かに言った。

 

「万能の霊薬ではない。だが、今日のわしには必要な水だった」

 

 その言い方も少し危ない。澪は口を閉じようとした。だが、閉じる前に不安が勝った。

 

「水だけでもなくて、でも薬草とかではなくて、暑い時に……えっと、体の水分と塩気を……」

 

「その説明、長いわ」

 

 リュシアがすぐに止めた。

 

「売らないなら、今はそれでいい。説明を足すほど、かえって特別な品に聞こえるもの」

 

 澪は口を閉じた。たしかに、説明すればするほど、普通の飲み物から遠ざかっていく気がした。

 

 ペットボトルの方は、もっと危なかった。透明で軽く、栓ができる器。異世界側では価値が高すぎる。だが、目立つ。熱に弱い。傷む。衛生面も不安だ。何度も使い続ける器ではないことは、澪の中に浮かんだ感覚にもあった。

 

「これは売り物にしない。少なくとも今は。必要なら、私か、信頼できる相手だけに見せる。表には出さない方がいい」

 

「はい」

 

 澪はすぐにうなずいた。老司祭は澪とリュシアのやりとりを見て、少し目を細める。

 

「高位の回復薬をもらった、とは言わぬ。異国の娘が目立つような言い方も避けよう」

 

「司祭様、ミオは目立つと困るの」

 

「分かっておる。目の芽は、育つまで守るものだ」

 

 また秘密が増えた。澪はそう思いながら、少しだけ頭を抱えたくなった。

 

 

 

 

 

 江古田の六畳間に戻った時、夜の空気は少し湿っていた。

 

 澪はリュックからポカリのペットボトルを取り出し、ちゃぶ台の上に置いた。中身はほとんど残っていない。青いラベルは、異世界市場の石畳よりも、この部屋の蛍光灯の下の方が見慣れているはずなのに、今日はやけに不思議なものに見えた。

 

 倒れかけた老司祭、高級ポーションという誤解、ペットボトルへ集まった視線、司祭の鑑定、リュシアの説明。そうしたものが、澪の頭の中でひとつずつ在庫表の欄に入れられていくようだった。澪は押入商会の在庫表を開き、カラビナを手に取る。するとまた、ぼんやりと浮かぶ。小物を留めるもの。重い荷には向かないもの。

 

 澪はページの右端に、新しい欄を作った。

 

 鑑定結果。

 

 そこまで書いたところで手が止まる。注意事項欄も必要だった。

 

「便利になったはずなのに、欄が増えた……」

 

 澪はげんなりしながら、線を引いた。カラビナの行には、小物を留める、重い荷には向かない、と書く。その隣に、重い木箱、人、荷上げには使わない、と注意を加えた。

 

 ペットボトルの行を作るかどうかで迷い、結局、別枠にした。売らないものでも、記録は必要だった。透明な軽い容器で、水を保つが、熱に弱く、長く使い続ける器ではない。注意事項には、販売不可、目立つ、熱源に近づけない、使い回し注意、と書く。ポカリの欄では、ペン先が少し強くなった。甘みと塩気を含む水。乾きに倒れた者を助ける。万能の薬ではない。注意事項には、ポーションではない、と書き、そこに二重線を引いた。

 

 もう一度見て、本当に違う、と書き足したくなったが、やめた。書きすぎると、かえって怪しい気がした。

 

 ちゃぶ台の横には、大学の課題ノートが開きっぱなしになっている。前回から、あまり進んでいない。澪は課題ノートを引き寄せようとして、在庫表の「鑑定結果」欄が気になり、手を止めた。鑑定の芽が出た。普通なら喜ぶところかもしれない。けれど澪の目の前では、在庫表の欄が一つ増え、注意事項が二つ増え、大学の課題がまだ白いままだった。

 

 澪は付箋を一枚取り、「ポカリは売らない」と書いた。次に「ペットボトルも売らない」と書き、さらに「鑑定結果欄を整える」と書きかけて、ため息をつく。この付箋を貼る場所すら、もう足りない。

 

 澪は在庫表の端に小さく「鑑定結果」と書き、その下へ線を引いた。ポカリはポーションではない。ペットボトルは売り物ではない。鑑定は万能ではない。そして大学の課題は、今日も自動では終わらない。

 

 澪はペンを握り直し、在庫表ではなく、課題ノートを少しだけ自分の方へ引き寄せた。

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