押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第71話 火の授業

 

 押入商会侯爵領事業所の机には、前回の空気の授業で使った紙がまだ残っていた。

 

 紙の端には、ミラ・セイルの細い文字で「温度」「湿度」「気圧」「風」と書かれている。仕事で使う注文票とは別にしてあるが、同じ机の上にあるせいで、事業所というより小さな学校のようにも見えた。

 

 外は夏の夕方だった。

 

 日が少し傾いても、工房の壁には昼間の熱が残っている。開け放した戸口から風は入るが、涼しいというより、熱を少し動かしているだけに近い。

 

 トル・バッカは、額の汗を袖で拭った。

 

「今日も暑いです」

 

 ピナ・ロッテは、乾いた布を畳みながら頷いた。

 

「布もすぐ乾きます」

 

 前回の水の授業で濡らした布は、あっという間に乾いた。布を扱うピナには、それがよく分かるらしい。乾きすぎた布は硬く、角が少し跳ねる。

 

 マルテ・ロウは、記録箱の蓋を閉めかけていた手を止めた。

 

「屋台の火元は、こういう日は余計に気をつける必要があります」

 

 澪は、ノートPCを出そうとしていた手を止めた。

 

「暑くても、屋台では煮炊きしますよね」

 

 ミラが紙を揃えながら答える。

 

「はい。湯を沸かしたり、鍋をかけたりします」

 

 ピナも布を置いた。

 

「炭火も使います」

 

 トルは不思議そうに言う。

 

「暑いのに火です」

 

「だから今日は、火です」

 

 三人の視線が澪へ向いた。

 

 トルの目が光る。ピナは少しだけ緊張した。ミラはすぐ新しい紙を引き寄せる。マルテは記録板を構えた。

 

「火もビリビリみたいに出しますか」

 

「まずは出しません。火がなぜ燃えるかを見ます」

 

 ピナが首を傾げる。

 

「暑い日の火の授業ですか」

 

「暑い日だからこそ、火の授業です」

 

 マルテが記録板へ書く。

 

「仕事後教育、火。夏の屋台火元確認を含む。トル、火を出す気配あり」

 

「まだ出してません」

 

「気配です」

 

 トルは不服そうだったが、反論はしなかった。以前から、マルテの記録はなぜか当たる。

 

 澪は白布を壁に張り、プロジェクターを置いた。ノートPCを開くと、工房の一角に白い光が浮かび上がる。

 

 白布に、薪と小さな火のアニメが映った。

 

 

 

 

 白布の中で、薪が置かれていた。

 

 そのそばに小さな火が揺れている。火の周りには、見えない空気を表す小さな粒が動いていた。赤い熱の絵が、薪の近くでふわふわと集まっている。

 

「火が燃えるには、三つ必要です」

 

 澪が言うと、ミラが紙を構えた。

 

「燃えるもの。熱。酸素」

 

 ミラはそのまま書く。

 

「燃えるもの、熱、酸素」

 

 トルが眉を寄せた。

 

「酸素?」

 

「空気の中にある、火が燃えるために必要なものです」

 

 ピナは前回の空気の紙を見た。

 

「空気そのものではないのですか」

 

「空気の中に、いくつかのものが混ざっています。その中で、火に必要なものが酸素です」

 

 動画の中で、薪があり、熱があり、酸素を表す青い粒が火へ向かう。三つが揃うと火は明るくなり、一つでも欠けると弱くなる。

 

 燃えるものがなくなると火が消える。

 

 熱が足りないと火がつかない。

 

 酸素が足りないと火が消える。

 

 ミラは紙の端に丸を三つ描き、それぞれに「もの」「熱」「酸素」と書いた。

 

 マルテも記録する。

 

「火の三条件:燃えるもの、熱、酸素」

 

 トルは素直な顔で聞いた。

 

「三つそろうと燃えますか」

 

「燃えます」

 

「三つそろえたら、どこでも燃えますか」

 

「その発想は危険です」

 

 澪が即答すると、マルテも即座に記録した。

 

「トル、どこでも燃やす案。不可」

 

 トルは不満そうに口を尖らせた。

 

「まだ燃やしてません」

 

「燃やす前に止めるのが大事です」

 

 澪が言うと、マルテは真顔で頷いた。

 

「この領には、止めるべき子供が多すぎます」

 

 澪は一瞬、エレナの顔を思い浮かべた。

 

 短い断定口調で「確認だ」と言いながら火に近づこうとする姿が、かなり簡単に想像できた。ついでに、トルのように目を輝かせる子供たちの顔も何人か浮かんだ。

 

「……否定できません」

 

 ピナが乾いた布を抱え直した。

 

「火は、近づく前に止めるものなのですね」

 

「かなり大事です」

 

 トルは納得していない顔だったが、記録板に「不可」と書かれた時点で少しだけ大人しくなった。

 

 澪は机の上を見た。

 

「では、実物で見ます」

 

 注文票を横の箱へ移す。

 

 布を遠ざける。

 

 木屑がないか、机の端を指で払う。

 

 その動きに、ピナがすぐ反応した。

 

 

 

 

「紙と布を離すのですね」

 

「はい。火の近くに置きません」

 

 ピナはさらに、机の端にあった小さな木屑を拾い、工房側の屑入れへ運んだ。

 

「夏は布も紙もよく乾いています」

 

「乾いたものは燃えやすいです」

 

 澪が言うと、ピナは畳んだ布をさらに後ろへ下げた。

 

 マルテが記録する。

 

「火元周辺、紙、布、木屑を遠ざける。乾燥物注意」

 

 澪は受け皿を置き、その中央に一本のロウソクを立てた。

 

 次に、チャッカマンを取り出す。

 

 細長い火付け道具を見て、トルの目がまた光った。

 

「それは何ですか」

 

「火をつける道具です」

 

 ミラが紙に書いた。

 

「火を出す棒」

 

「正式にはチャッカマンです」

 

 澪が訂正すると、ミラは「火を出す棒」の横に、小さく「チャッカマン」と書き足した。

 

 ピナが目を丸くする。

 

「それ、売れるのでは」

 

 マルテも一瞬、記録係ではなく商人の顔になった。

 

「確かに、火付け道具としては……」

 

 澪は聞こえなかったことにした。

 

「今日は、火がなぜつくかの授業です」

 

 トルが首を傾げる。

 

「売らないんですか」

 

「今日は授業です」

 

 マルテが記録する。

 

「澪、商談を回避」

 

「記録しないでください」

 

「後で確認が必要になるかもしれません」

 

「なりません」

 

 澪はそう言いながら、チャッカマンの先をロウソクの芯へ近づけた。

 

 小さな火が芯へ移る。

 

 炎は最初だけわずかに揺れて、それから静かに立った。

 

 ミラは炎の大きさを記録している。ピナは火元の周囲を見て、布と紙との距離をもう一度確認した。トルは炎の揺れに目を輝かせている。

 

「火、走りますか」

 

「走らせません」

 

 マルテが記録する。

 

「トル、火を走らせる案。不可」

 

「火も走るかもしれません」

 

「走らせません」

 

 澪はロウソクの火を見た。

 

 小さな火だ。

 

 けれど、ここに三つがある。

 

 燃えるもの。

 

 熱。

 

 酸素。

 

「では、鑑定します」

 

 澪は火へ意識を向けた。

 

 

 

 

----------------------------------

ロウソクの火

 分類:燃焼

 燃えるもの:ロウ/芯

 熱:維持中

 酸素:供給中

 状態:安定燃焼

 注意:紙、布、木屑への延焼注意

----------------------------------

 

 ミラが表示を読み上げる。

 

「燃えるもの、ロウ、芯。熱、維持中。酸素、供給中」

 

「これが三つそろっている状態です」

 

 澪が言うと、ミラはさきほど描いた三つの丸から、ロウソクの絵へ線を引いた。

 

 ピナは表示の最後を見ていた。

 

「紙、布、木屑への延焼注意」

 

 彼女は、さらに机の端に置いてあった乾いた布を遠ざけた。

 

「そこまで離しますか」

 

 トルが言う。

 

「布は燃えます」

 

 ピナは当然のように答えた。

 

 トルはロウソクへ視線を戻す。

 

「火、安定しています」

 

「はい。小さいですが、ちゃんと燃えています」

 

 マルテが記録する。

 

「小さな火でも、三条件がそろうと燃焼継続」

 

 澪は火を見ながら言った。

 

「火は大きくすれば良いものではありません。必要な場所で、必要な大きさで、消す時に消せることが大事です」

 

 ピナは深く頷いた。

 

 ミラは「必要な大きさ」と書き足した。

 

 トルは少し不満そうだった。

 

「大きい火は駄目ですか」

 

「必要な時だけです」

 

「必要な時が来たら」

 

「今日は来ません」

 

 マルテが記録板に手を伸ばしかけたので、トルは口を閉じた。

 

 澪は透明な器を取り出した。

 

「では、酸素が足りなくなるとどうなるか見ます」

 

 ピナが器を見た。

 

「それも熱くなりますか」

 

「なります。だから見るだけです」

 

 澪は透明な器を、ロウソクの火へそっとかぶせた。

 

 

 

 

 器の中で、ロウソクの火はしばらく燃えていた。

 

 トルは身を乗り出している。ミラは「器をかぶせる」と書いて、そこから矢印を伸ばした。ピナは器が倒れないか、受け皿からはみ出していないかを見ている。

 

 少しすると、炎が小さくなった。

 

「火が弱くなりました」

 

 トルが言う。

 

 さらに炎は細くなる。

 

「消えそうです」

 

 ピナが呟く。

 

 そして、ふっと消えた。

 

 細い煙が上がり、透明な器の中で少し揺れた。

 

 トルが真顔で言った。

 

「火が負けました」

 

「負けたのではなく、足りなくなりました」

 

 ミラがすぐ顔を上げる。

 

「酸素ですか」

 

「はい。器の中の酸素が足りなくなったので、火が消えました」

 

 澪は覆われたロウソクを鑑定した。

 

----------------------------------

覆われたロウソク

 分類:燃焼後

 燃えるもの:残存

 熱:低下中

 酸素:不足

 状態:消火

 注意:器は熱を持っています

----------------------------------

 

 ピナが器に触れようとして、表示を見て手を止めた。

 

「器は熱いです」

 

「火が消えても、すぐ安全とは限りません」

 

 ピナは手を引っ込めた。布を取ろうとして、また止まる。

 

「この布、使っていい布ですか」

 

「今は私が扱います。確認の考え方は正しいです」

 

 マルテが記録する。

 

「火が消えた後も、器や芯の熱を確認」

 

 トルは消えたロウソクをじっと見ていた。

 

「燃えるものは残っているのに、消えました」

 

「はい」

 

「酸素がないから」

 

「はい」

 

 トルは小さく頷いた。

 

 火は気合いで燃えているのではない。

 

 勝ったり負けたりしているのでもない。

 

 足りると燃え、足りないと消える。

 

 そのことが、少しだけ腑に落ちた顔だった。

 

 澪はプロジェクターの動画を切り替えた。

 

 白布に、人が息を吸って吐くアニメが映る。

 

「酸素は、火だけではありません。人にも必要です」

 

 

 

 

 白布の中で、人の体の絵がゆっくり息をしていた。

 

 空気が口から入り、体の中へ進む。その中から酸素を表す青い粒が使われていく。難しい体の仕組みではなく、子供にも分かるように、丸い粒と矢印で描かれていた。

 

「酸素は、火だけでなく、人が生きるためにも必要です」

 

 ピナが胸に手を当てる。

 

「私たちにも、ですか」

 

「はい。酸素が足りなくなると、息苦しくなります。ひどい時は、命に関わります」

 

 トルが少し真顔になった。

 

「火が消えるみたいに、人も?」

 

「そうならないように、空気を入れ替えます」

 

 ミラは紙に書く。

 

「酸素不足、人も危険」

 

 澪は、次のアニメを映した。

 

 白布に夏の屋台が映る。

 

 布屋根の下に、かまどがある。鍋から湯気が上がる。炭火が赤く光る。横から風が吹くと火が揺れ、煙が屋根の下にこもる。

 

 人が働き、器を運び、汗を拭う。

 

「暑い日でも、屋台では煮炊きをします。湯を沸かします。炭火も使います。でも、火を使うと酸素を使います。煙も出ます。だから、暑い日でも空気を見ます。煙も見ます。換気します」

 

 ミラが紙に書いた。

 

「夏の屋台、換気、火元確認」

 

 ピナは白布の布屋根を見ている。

 

「火の近くは布も紙も危ないです」

 

「はい。夏は乾いた布や紙も多いので、よく見ます」

 

 トルが言った。

 

「風を通すと火が揺れます」

 

「だから、火元の囲い方と、風の通し方の両方を見ます」

 

 ピナが頷く。

 

「涼しくするための風と、火を暴れさせないための風ですね」

 

「そうです」

 

 マルテが記録する。

 

「夏の屋台火元、換気確認。煙確認。酸素不足注意」

 

 澪は、もう一度ロウソクを机の中央へ戻した。

 

「では、火をつける、保つ、消す、確認するところまでやります」

 

 

 

 

 澪が再びチャッカマンを手に取ると、マルテの視線がほんの少しだけ動いた。

 

 商人の目だ。

 

 ミラも「火を出す棒」と書いた紙を横目で見ている。ピナは道具そのものより、火が出る先とロウソクとの距離を見ていた。

 

 澪は全部見なかったことにした。

 

 ロウソクに小さな火が戻る。

 

「火をつけたら、見ます。大きくしすぎない。近くに燃えやすいものを置かない。消したら、消えたか確認する」

 

 ピナが真剣に頷いた。

 

 彼女は火を見ながら、乾いた布をさらに遠ざけ、受け皿の位置をほんの少し直した。机の端に残っていた紙片も拾って、注文票の箱とは別の屑入れへ入れる。

 

 トルが不思議そうに見た。

 

「そんなに離しますか」

 

「火が移ったら困ります」

 

 ピナは当然のように言う。

 

 澪は頷いた。

 

「ピナさん、鑑定してください」

 

 ピナが火元を見る。

 

----------------------------------

火元

 分類:小火管理

 状態:安定

 周囲:紙、布、木屑なし

 受け皿:適正位置

 注意:消火後の熱確認が必要

----------------------------------

 

「消した後の熱確認が必要です」

 

「はい。火が消えても、熱いものは残ります」

 

 ピナは火を大きくしようとしなかった。

 

 火を手元へ寄せようともしなかった。

 

 火の周りを見て、火が移らない場所を作り、消した後の熱を考えていた。

 

 その時、ピナの前に表示が出た。

 

----------------------------------

ピナ・ロッテ

 分類:人間/商人

 役割:容器管理/火元確認補助

 現在ジョブ:商人

 既得スキル:鑑定:1

 既得スキル:収納:2

 既得スキル:雷:8

 芽生え:火:1

 成長:火種管理:1

 状態:小さな火を維持する感覚を掴み始めています

 注意:布、紙、木屑の近くでは使用不可

----------------------------------

 

 トルが声を上げた。

 

「なんでピナが先なんですか」

 

「火を大きくしようとしなかったからです」

 

 ピナは少し困った顔で言う。

 

「大きくしたら危ないです」

 

 マルテが記録する。

 

「火の授業、最初の適性者はピナ。理由、火を大きくしない」

 

 トルは納得できない顔で火を見た。

 

「大きくしたいです」

 

「だから後です」

 

「大きくしたいだけです」

 

「だから後です」

 

 ミラが横で紙に書いた。

 

「火:大きくするより、保つ、消す、確認」

 

 澪はそれを見て、思わず頷いた。

 

 

 

 

 ミラは、火の三条件を紙にまとめ直していた。

 

 燃えるもの。

 

 熱。

 

 酸素。

 

 その横に、ロウソクを覆った時の鑑定表示を書き写す。

 

 酸素不足。

 

 消火。

 

 器は熱を持つ。

 

 ミラは火を感覚だけで見ていない。条件の変化として見ている。

 

 澪がミラを鑑定する。

 

----------------------------------

ミラ・セイル

 分類:人間/商人

 役割:燃焼条件記録/酸素確認

 現在ジョブ:商人

 既得スキル:鑑定:2

 既得スキル:収納:1

 既得スキル:雷:8

 芽生え:火:1

 成長:燃焼記録:1

 注意:燃えるもの、熱、酸素の変化確認に向きます

----------------------------------

 

 ミラは表示を見て、紙を押さえた。

 

「火も、条件を見るものなんですね」

 

「はい。感覚だけにしない方が安全です」

 

 トルはロウソクの炎を見ていた。

 

 炎は、わずかな空気の動きで揺れる。細い煙は上へ行く。熱気も上へ行く。ピナが布を動かすと、炎の向きも少し変わる。

 

「煙、上に行きます」

 

「熱い空気は上がりやすいです」

 

「火の向きも変わります」

 

「空気の流れで変わります」

 

 トルは火そのものを大きくしたい顔をしていたが、それより先に煙と熱気の流れを見ていた。

 

 澪が鑑定する。

 

----------------------------------

トル・バッカ

 分類:人間/商人

 役割:火元周辺確認/煙の流れ確認

 現在ジョブ:商人

 既得スキル:鑑定:1

 既得スキル:収納:1

 既得スキル:雷:8

 芽生え:火:1

 成長:煙読み:1

 注意:火を飛ばすのではなく、火の向きと煙の流れを見る段階です

----------------------------------

 

 トルは表示を読んで、すぐに澪を見た。

 

「火を飛ばすのではなく、ですか」

 

「はい」

 

「まだ飛ばせませんか」

 

「机の前では絶対に飛ばしません」

 

 マルテが記録する。

 

「トル、火を飛ばす案。不可継続」

 

「継続って何ですか」

 

「前から不可なので、継続です」

 

 トルはかなり不満そうだった。

 

 澪は自分も鑑定した。

 

----------------------------------

篠原 澪

 分類:人間/異界渡航者

 役割:押入商会代表/理科授業実施者

 現在ジョブ:商人

 既得スキル:鑑定:7

 既得スキル:収納:8

 既得スキル:雷:8

 既得スキル:錬金:4

 芽生え:火:1

 成長:燃焼理解:1

 注意:火種管理と消火確認を優先してください

----------------------------------

 

「私にも出ました」

 

 トルが目を輝かせる。

 

「澪さんも火です」

 

「言い方」

 

「火の澪さん」

 

「やめてください」

 

 ミラが少し笑い、ピナも小さく口元を緩めた。

 

 澪はロウソクの火を見た。

 

 火:1。

 

 それは火を放つ力ではなく、火を見る力だった。

 

 保つ。

 

 消す。

 

 確認する。

 

 今日の授業としては、それで十分だった。

 

 澪はロウソクの火を消した。

 

 

 

 

 火が消えた後も、作業は終わらなかった。

 

 ピナが受け皿を鑑定する。

 

 ミラが消火後の状態を記録する。

 

 トルが細く立つ煙の流れを見ている。

 

 マルテは「換気確認」の欄を新しく作った。

 

「火は、つけて終わりではありません。消した後も見ます」

 

 澪が言うと、ミラが答える。

 

「火元確認」

 

 ピナが続ける。

 

「熱確認」

 

 トルが煙を目で追いながら言う。

 

「煙確認」

 

 マルテが記録板から顔を上げずに言う。

 

「換気確認」

 

「はい。夏の屋台で火を使う時も同じです」

 

 澪は大きめの紙を出した。

 

 そこへ、夏の屋台や工房で火を使う時の注意を書いていく。

 

 鍋や炭火の近くに布や紙を置かない。

 

 木屑を近くに残さない。

 

 煙の流れを見る。

 

 布屋根や壁で煙がこもらないようにする。

 

 暑くても空気を入れ替える。

 

 火を消した後、灰と熱を確認する。

 

 湯気と煙を見分ける。

 

 書いているそばから、ミラが横に「酸素」と書き足した。ピナは「乾いた布は遠く」と小さく書く。トルは「煙は上」と書こうとして、マルテに見られた。

 

「表現は粗いですが、実地確認には有効です」

 

「書いていいですか」

 

「横に正式な言い方も書きます」

 

 トルは「煙は上」と書き、ミラがその横に「熱気は上がりやすい」と足した。

 

 その時、マルテの視線が机の端のチャッカマンへ戻った。

 

「これは売れるのでは」

 

「今日は、火の授業です」

 

 澪はすぐに言った。

 

「火付け道具の商談は」

 

「今日は、火の授業です」

 

 トルも言う。

 

「売らないんですか」

 

「今日は、火の授業です」

 

 ピナが静かに言った。

 

「三回言いました」

 

 マルテが記録する。

 

「チャッカマン商談、保留」

 

 澪はその記録を見た。

 

 否定しきれない。

 

 保留。

 

 それは否定ではない。

 

 しかし今は、火の授業である。

 

 短くなったロウソクが、受け皿の上で冷めるのを待っている。消えた芯からは、もう煙は出ていない。ピナは受け皿の熱を確認し、ミラは燃焼条件の紙を箱へ入れ、トルはまだ少しだけ火を飛ばしたそうにしていた。

 

 澪は手帳に今日の最後の一行を書く。

 

 火は、つけるより先に、見る。保つ。消す。確認する。

 

 押入商会侯爵領事業所の机の上には、短くなったロウソクと、冷めるのを待つ受け皿と、夏の屋台で火を使う時の注意を書いた紙が並んでいた。水と空気を学んだ机は、今度は暑い季節でも生活と商売を支える火を、少しだけ覚え始めていた。

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