押入商会侯爵領事業所の机には、今日も紙が多かった。
注文票、検品札、持ち帰り待ちの控え、工房へ渡す伝言札。昨日の火の授業で作った火元確認の紙も、まだ端の方に置かれている。火を使ったわけでもないのに、トルがその紙の「不可」の文字を見るたびに、少しだけ顔をしかめるのが面白かった。
夏の夕方だった。
押入家具工房の壁には、昼の熱がまだ残っている。工房側からは、木を削った匂いと、乾いた布の匂いが混ざって流れてきた。戸口は開いているが、入ってくる風は涼しいというより、温い空気を少し動かすだけだった。
ミラは注文票の端を揃えていた。
ピナは小さな布包みの角を直していた。
トルは伝言札を持って戻ってきたばかりで、少し汗をかいていた。
マルテは記録箱の蓋を閉める前に、中の紙束をもう一度確認している。
澪は、その机の上に、現代側から持ってきた小型時計を四つ並べた。
小さな丸い時計だった。落としにくいように、紐を通して首から下げられるようにしてある。澪が一つずつ置いていくと、金属とガラスが机の上で小さく鳴った。
トルが真っ先に顔を寄せる。
「これは何ですか」
「時計です」
「とけい」
ミラが小さく繰り返した。すぐに数字を見る。文字と数字を見る時のミラは、周りの音が少し遠くなるらしい。
ピナは時計を両手で持ち上げた。
「落としたら割れますか」
「割れる可能性はあります。なので紐をつけました」
ピナは紐の結び目を確かめ、時計の裏側まで見た。
トルは秒針を見ていた。
細い針が、かち、かち、と少しずつ進む。
「これ、走っています」
「秒針は走っているように見えます」
澪が言うと、トルの目がさらに明るくなった。
「時間は走りますか」
「逃げることはあります」
その言い方に、ミラが顔を上げた。
「逃げるのですか」
「使わないまま過ぎる、という意味です」
マルテは時計を受け取ると、すぐに記録板へ目を落とした。
「作業開始時刻、終了時刻、納期確認に使えます」
「はい。今日は、それをやります」
澪は四人に一つずつ時計を渡した。
ミラは数字を読み上げようとしている。ピナは布で包もうとして、澪に「見えなくなります」と言われて手を止めた。トルは秒針を追い続けている。マルテは、記録板に「時計四個、配布」と書いた。
「今日は、時間の授業です」
澪が言うと、トルは時計から目を離さないまま聞いた。
「時間を捕まえる授業ですか」
「捕まえません。測ります」
「測るんですか」
「はい。仕事では、測れる方が強いです」
ミラが紙を一枚引き寄せた。
「では、書きます」
もう授業を受ける顔になっている。
澪はノートPCとプロジェクターを出し、白布を壁に張った。
小さな事業所の机の上で、四つの時計が、少しずつ同じ音を刻み始めていた。
白布に、大きな時計のアニメが映った。
丸い文字盤の上を、赤い秒針が一つずつ進んでいく。秒針が一周すると、分針が少し動いた。分針が何度も動くと、時針がゆっくり動いた。
「短い時間が秒。秒が集まって分。分が集まって時です」
澪が言うと、ミラはすぐ紙へ書いた。
「六十秒で一分。六十分で一時間」
トルが嫌そうな顔をした。
「六十が多いです」
「十ずつではありません」
ミラが淡々と答える。
「時間、面倒です」
マルテが記録板に書いた。
「トル、十進法を希望」
「何ですか、それ」
「十ずつがよい、という希望です」
「記録しなくていいです」
「希望は記録します」
澪は苦笑しながら、机の上から一枚の注文票を取った。
「でも、仕事では必要です。いつ注文が来たか、いつ検品したか、いつ渡すか、全部時間です」
ミラは注文票の日付欄と納期欄を見る。
「ここに書く時間ですか」
「そうです」
ピナが乾いた布包みを見た。
「布を乾かす時間もですか」
「はい」
トルが自分の胸を指した。
「走って届ける時間もですか」
「はい」
ミラがすぐ聞いた。
「納期もですか」
「もちろんです」
澪は白布の時計を指した。
「時間を見られると、仕事を順番にできます。急ぐもの、待てるもの、今日中のもの、明日のもの。全部、時間で分けられます」
トルはまだ納得しきっていない顔だった。
「でも、秒はすぐ逃げます」
「かなり良い言い方です」
澪がそう言うと、ミラが紙の端に「秒はすぐ逃げる」と書きかけた。
マルテがそれを見た。
「正式な記録には向きませんが、覚えるには有効です」
「では、小さく書きます」
ミラは真面目な顔で、小さく書いた。
秒はすぐ逃げる。
澪は、それを消さなかった。
仕事には正確な言葉が必要だが、最初に理解するための言葉も必要だった。
白布の時計は、かち、かち、と一秒ずつ進み続けている。
トルがぽつりと言った。
「これ、見ているだけで時間がなくなります」
「それも、かなり良い気づきです」
マルテがまた記録した。
「時計観察中、時間消費」
「それは記録しなくていいです」
「今後、トルが時計を見続けた場合に必要です」
トルは時計から目をそらした。
澪は、机の上に三つの作業を並べた。
ミラの前には注文票が五枚。
ピナの前には布包みが三つ。
トルの前には工房の入口まで届ける伝言札が一枚。
マルテは時計と記録板を持って、少しだけ背筋を伸ばしている。時計を手にしたマルテは、いつもの記録係よりも事業所長候補らしく見えた。
「今から、それぞれの作業時間を測ります」
澪はまずミラを見る。
「ミラさんは、注文票五枚の空欄確認」
「はい」
「ピナさんは、布包み三つを崩さず包み直す」
「はい」
「トルさんは、工房の入口まで伝言札を持って行って、戻ってくる」
「はい」
「ただし、速ければよいわけではありません」
トルは少し肩を落とした。
「先に言われました」
「先に言います」
マルテが時計を見る。
「開始します」
作業が始まった。
ミラは注文票を一枚ずつ見た。日付、品名、持ち帰り予定、検品欄。目が紙の上を滑っていくのに、手元は急ぎすぎない。三枚目で少し止まり、空欄に小さく印をつけた。
ピナは布包みをほどき、角を合わせ直した。布が乾いているので、折り目が硬い。ピナは指先でそこを押さえ、包みの角が浮かないように結び直した。
トルは伝言札を握って走った。
工房入口までは近い。けれど、途中に木材の束があり、床に置かれた小箱もある。トルはそれを避け、入口まで行き、戻ってきた。
「戻りました」
少し息が上がっている。
マルテが時計を見て記録した。
「トル、往復時間、五十二秒。ただし伝言札を握りしめすぎ」
トルは誇らしげだった顔のまま、手の中の伝言札を見た。
角が少し曲がっている。
「速かったです」
ミラが注文票から顔を上げた。
「伝言札が曲がっています」
「速かったです」
「曲がっています」
トルはもう一度言う。
「速かったです」
澪が言った。
「速さだけでは仕事になりません」
トルは黙った。
マルテが続けて記録する。
「ミラ、確認時間、三分二十秒。空欄一件発見」
「ピナ、梱包時間、四分十秒。布包み三件、崩れなし」
ピナは少しだけほっとした顔をした。
ミラは自分の時計を見る。
「時間が分かると、比べられます」
「はい。昨日より早いか、前より丁寧か、どこで詰まったか、分かります」
澪は伝言札をトルへ返した。
「トルさんは、次は速さと札の状態、両方です」
「両方ですか」
「両方です」
トルは時計を見た。
「秒、逃げますね」
「だから、何を急いで、何を守るかを決めます」
時間の授業は、ただ時計を読む授業ではなくなっていた。
机の上の注文票にも、布包みにも、伝言札にも、時間が乗り始めていた。
澪は、時計をいったん机の端へ寄せた。
代わりに、封筒、注文票、検品札、布包み、小さな金具箱、木片を並べる。どれも事業所で実際に扱うものだった。
トルの目が、すぐ金具箱に向いた。
「次は何ですか」
「収納の限界を測ります」
トルの表情が明るくなる。
「限界まで入れるんですか」
「限界近くまでです。無理だと思ったら、そこでやめます」
「限界までじゃないんですか」
「限界を越えたら、仕事になりません」
澪はそう言って、自分の手元に一枚の紙を置いた。
「私も最初から重いものを入れられたわけではありません。大きな鍋を収納して、収納が二になりました。その後、大豆五十キロで三、水百キロで四、大豆工場で二百キロを扱って五に上がりました」
ミラがすぐに書き始めた。
「大鍋、収納二」
「大豆五十キロ、収納三」
「水百キロ、収納四」
「大豆工場二百キロ、収納五」
トルが目を丸くする。
「二百キロ」
「走って持つものではありません」
澪が先に言った。
「まだ言ってません」
「言いそうでした」
マルテが記録する。
「澪、予防発言」
「それも記録するんですか」
「流れとして必要です」
澪は少し負けた気分になりながら、収納レベル表を書き始めた。
本文用の表ではない。事業所の机の上に置く、授業用の紙である。
澪は一行ずつ書いた。
収納一は十キロ前後。紙束、封筒、布包み、小道具、小型部材。
ミラが読み上げる。
「初期収納。分類保持は弱い」
トルが自分の胸を指す。
「僕です」
「はい。今のトルさんです」
少し悔しそうだった。
澪は次の行を書く。
収納二は三十キロ前後。大鍋、工具箱、小型木箱、まとまった布包み。
ピナが反応した。
「小型木箱まで入るんですね」
「ただし、出す場所を考えないと危ないです」
澪は続ける。
収納三は五十キロ前後。大豆袋一袋、大きめの箱、重めの材料箱。
ミラが「大豆五十キロ」と横に書いた。
収納四は百キロ前後。水百キロ、複数の材料箱、大型容器。
収納五は二百キロ前後。大豆工場で扱う量、まとまった原材料、複数箱。
収納六は五百キロ前後。小型家具、工房用材料一式、小型機材。
収納七は千五百キロ前後。大型家具、複数家具部材、作業台、工房設備の一部。
トルが言った。
「千五百キロって、走れません」
「走って持つものではありません」
今度は本当に言ったので、澪も遠慮なく返した。
ピナは収納七の欄を見て、少し真面目な顔をした。
「収納に入れる場所と、出す場所を間違えたら危ないですね」
「そこが大事です」
マルテが記録板へ書く。
「収納レベル表、最大重量と安定運用重量は別」
澪は頷いた。
「最大で入ることと、仕事で安全に使えることは別です。今日測るのは、安定して使えるところまでです」
ミラは紙に「最大」と「安定」を分けて書いた。
トルが手を挙げる。
「最大まで入れた方が強くなりませんか」
「その場で壊れたら、仕事になりません」
「壊れるんですか」
「収納が壊れるというより、取り出せない、混ざる、疲れすぎる、そういうことになります」
澪は少しだけ言葉を区切った。
「限界を知って、慣れて、無理だと思ったら止める。記録する。食べて、寝る。寝ている間に身体も能力も育ちます」
マルテが頷きながら書いていた。
そこで、澪は続けてしまった。
「成長は、若いほど早いと思います」
マルテの筆が止まった。
「若いほど」
空気が一瞬止まる。
トルがマルテを見た。
ミラも見た。
ピナも見た。
澪は即座に言った。
「二十七は若いです」
マルテがゆっくり顔を上げる。
「今、言う前に言いましたね」
「二十七は若いです」
澪はもう一度言った。
トルが首を傾げる。
「僕たちよりは若くないです」
「トル」
ミラが止めた。
ピナも小さく言う。
「今のは、火より危ないです」
マルテは表情を変えずに記録板へ書いた。
「トル、年齢発言注意」
トルは目を丸くした。
「また不可ですか」
「今回は注意です」
「不可より軽いですか」
「内容によります」
澪は授業用の紙を押さえた。
収納レベル表の横で、時計が一秒ずつ進んでいる。
そして、マルテの筆もまた動き始めた。
「では、今の収納を鑑定します」
澪が言うと、ミラは背筋を伸ばした。
ピナは時計を胸元に下げ直す。
トルは、少しだけ得意げに立った。収納を見られるのは、性能を見られるようで嬉しいらしい。
澪はまずミラを見る。
----------------------------------
ミラ・セイルの収納
分類:収納技能
スキルレベル:収納:1
収納可能重量:10kg
安定運用重量:5kg
現在収納重量:なし
余裕:10kg
収納可能点数:5点
分類保持:低
取り出し速度:普通
状態保持:未発現
時間停止:未発現
状態:安定
注意:紙類、封筒、検品札、小型部材向き
----------------------------------
ミラは表示を一字ずつ読んだ。
「収納可能重量、十キロ。安定運用重量、五キロ」
「最大と安定が違います」
澪が言うと、ミラはすぐ紙に二つの欄を作った。
次にピナ。
----------------------------------
ピナ・ロッテの収納
分類:収納技能
スキルレベル:収納:2
収納可能重量:30kg
安定運用重量:20kg
現在収納重量:なし
余裕:30kg
収納可能点数:8点
分類保持:普通
取り出し速度:普通
状態保持:低
時間停止:未発現
状態:安定
注意:布包み、小物、金具箱、小型木箱向き
----------------------------------
ピナは「状態保持:低」のところを見た。
「少しは保てるのですか」
「はい。ピナさんは布包みや小物を崩さず保つ感覚がもうあります」
ピナは少し嬉しそうに、手元の布包みを撫でた。
次はトル。
----------------------------------
トル・バッカの収納
分類:収納技能
スキルレベル:収納:1
収納可能重量:10kg
安定運用重量:8kg
現在収納重量:なし
余裕:10kg
収納可能点数:4点
分類保持:低
取り出し速度:速い
状態保持:未発現
時間停止:未発現
状態:安定
注意:伝言札、小道具、携行品の即時取り出し向き
----------------------------------
トルはすぐに言った。
「取り出し速度、速いです」
「はい」
「速いです」
「はい」
ミラが静かに言う。
「分類保持は低いです」
トルの顔が少し曇った。
「速いです」
「分類保持は低いです」
「速いです」
マルテが淡々と書く。
「トル、速さを主張。分類保持は低い」
「そこも記録しますか」
「します」
最後に、澪はマルテを鑑定した。
----------------------------------
マルテ・ロウ
分類:人間/事業所長候補
役割:記録管理/限界管理
現在ジョブ:書記官見習い
既得スキル:記録:3
既得スキル:帳簿:2
成長:収納成長記録:1
状態:収納技能は未取得
注意:商人系スキル取得には、商人系ジョブ適性確認が必要です
----------------------------------
マルテは表示を見て、少しだけ複雑そうな顔をした。
「私には収納表示が出ませんね」
「マルテさんは商人ジョブではありませんから。今回は記録と限界管理をお願いします」
マルテはすぐに表情を戻した。
「記録で伸びます」
「はい。むしろ今回はそこが重要です」
トルが小声で言う。
「収納ないんだ」
ミラがすぐに睨む。
「トル」
ピナも言った。
「今のは、年齢の話より少し軽いですが危ないです」
マルテは記録板に書いた。
「トル、職能発言注意、予備」
「予備って何ですか」
「次で正式です」
トルは黙った。
澪は、机の上に並べた封筒や布包みを見た。
ここからが本番だった。
最初はミラだった。
澪は封筒、注文票、検品札、小型部材を、重さごとに小分けして机に置いた。現代側の小さな秤も使う。マルテが重量を記録し、ミラが一つずつ収納していく。
「一キロです」
マルテが言った。
ミラは問題なく収納した。
三キロ。
まだ表情は変わらない。
四・五キロ。
ミラの眉が少し寄った。
「中が詰まる感じがします」
澪はすぐ鑑定した。
----------------------------------
ミラ・セイルの収納
分類:収納技能
スキルレベル:収納:1
収納可能重量:10kg
安定運用重量:5kg
現在収納重量:4.8kg
余裕:5.2kg
収納可能点数:5点
分類保持:低
取り出し速度:普通
状態保持:未発現
時間停止:未発現
状態:安定運用限界接近
注意:これ以上の収納は分類混同の可能性あり
----------------------------------
トルが覗き込む。
「余裕、まだありますよ」
「最大重量の余裕はあります。でも仕事で安定して使う余裕は少ないです」
ミラが表示を見て頷いた。
「混ざったら仕事で使えません」
「はい。そこで終わりです」
ミラはすぐに収納を止めた。
次はピナだった。
布包み、小物、金具箱、小型木箱。ピナは一つずつ、形が崩れないように収納していく。
十キロ。
十五キロ。
十九キロ。
ピナは手を胸元に当てた。
「まだ入ります。でも、布包みの角が気になります」
澪は頷いた。
「そこで終わりです。ピナさんは形を崩さないことが大事です」
ピナはほっとしたように息を吐いた。
無理をすれば入ったかもしれない。
けれど、布包みの角が崩れると、検品済みか、持ち帰り待ちか、梱包済みか、後で分からなくなる可能性がある。
ピナの仕事は、入れることではなく、崩さず保つことだった。
最後はトルである。
伝言札、封筒、小道具、軽い工具。トルは、収納に入れて、すぐ出すのが速い。
「速いです」
「まだ測っていません」
「でも速いです」
マルテは時計を見ている。
トルは一つ、二つ、三つと収納した。取り出す。速い。たしかに速い。
四つ目。
五つ目。
六つ目。
取り出した。
出てきた封筒を見て、ミラがすぐ言う。
「それ、三番目です」
トルは胸を張った。
「出ました」
「出ればいいわけではありません」
「出ました」
「三番目です」
マルテが記録する。
「収納数増加。ただし分類不可」
トルが机に手をついた。
「性能アップしてるのに怒られました」
「仕事で使える性能にします」
澪が言うと、トルは渋々頷いた。
速い。
でも混ざる。
それが今のトルだった。
澪は全員の顔を見た。
「今日の限界確認はここまでです」
「もう終わりですか」
トルが言う。
「収納の訓練は、詰め込めばよいものではありません」
澪は、机の上に並んだ時計へ目をやった。
「次は、時間です。収納の中で、時間がどうなるかを見ます」
澪は時計を二つ並べた。
一つは机の上に置く。
もう一つは、澪の収納へ入れる。
ミラが紙を用意した。
「外の時計と、収納内の時計を比べます」
「はい」
マルテが開始時刻を記録する。
五分。
それだけ待つ。
ただ待つだけの時間は、意外に長い。トルは秒針を見そうになり、ミラに「見すぎると時間が遅く感じます」と言われて顔をしかめた。
五分後、澪は収納から時計を取り出した。
机の上の時計は五分進んでいる。
収納内の時計は、ほとんど進んでいなかった。
ミラの手が止まる。
「外、五分。収納内、ほぼ停止」
マルテも書いた。
ピナは時計を覗き込む。
「壊れたのではないですか」
「鑑定します」
澪が時計を鑑定すると、故障ではなかった。
針が進んでいない。
澪の収納内で、時間の進みが極端に遅い。
次に、氷を使った。
机の上の皿に氷を置く。
同じ大きさの氷を収納へ入れる。
しばらく待つと、外の氷は端から溶けて水になった。収納内の氷は、ほとんど形を保っている。
濡れ布も同じだった。
外の布は端が乾き始めた。収納内の布は、しっとりしたまま戻ってきた。
切った果物は、外では色が少し変わり始めた。収納内のものは変化が遅い。
ピナが果物を鑑定する。
----------------------------------
切った果物
分類:食材
状態:切断後
外置き:変色開始
収納内:変色遅延
注意:長時間保存には追加確認が必要
----------------------------------
「変色が遅いです」
ミラが書く。
「氷、溶けにくい。布、乾きにくい。果物、変色が遅い。時計、ほぼ停止」
トルが収納から戻ってきた時計を見て言った。
「中の時間、遅れてます」
「かなり良い言い方です」
澪は自分の収納の中を意識した。
止まれ、ではない。
それだと、何かを押さえつける感じになる。
そうではなく。
今の状態を保つ。
水の温度。
布の湿り気。
果物の色。
時計の針。
入れた時のまま、置く。
変わらないように、乱さないように、収納の中でそっと包む。
その感覚が、奥の方でかちりと合った。
----------------------------------
篠原 澪の収納
分類:収納技能
スキルレベル:収納:8
収納可能重量:高
現在収納重量:実験中
収納可能点数:多
分類保持:高
取り出し速度:高
状態保持:高
温度操作:芽あり
時間停止:芽あり
成長:収納内時間停止の感覚を掴み始めています
注意:生物収納、火種収納、危険物収納には不向き
----------------------------------
澪は表示を見て、少し固まった。
「出ました」
トルが身を乗り出す。
「時間も止まるんですか」
「まだ芽です。でも、かなり大事です」
ミラは真剣な顔で表示を書き写している。
ピナは濡れ布を見て、指先で湿り気を確かめた。
「保てると、保管が変わります」
「はい」
澪は頷く。
「ただし、何でも入れてよいわけではありません。生き物、火種、危険なものは入れません」
トルが言った。
「火は駄目ですか」
「駄目です」
「雷は」
「入れません」
マルテが記録する。
「トル、危険物収納案。不可」
「まだ案です」
「案の時点で不可です」
澪は子どもたちにも小規模に試させた。
ミラは紙と小型時計。
ピナは濡れ布と冷たい小瓶。
トルは伝言札と小型時計。
完全に止まるわけではない。
けれど、出した時に、三人とも少し違和感を覚えた。
中の時間が、外より少し遅い。
まだ芽にも満たないような小さな感覚。
でも、入口は見えた。
「もう一回入れたら、もっと増えませんか」
トルが、当然のように言った。
澪はすぐ首を横に振った。
「今日はここまでです」
「まだできます」
「できることと、伸びることは別です。無理を感じたら、やめて、食べて、寝ます」
ピナは自分の手元を見た。
「収納を使うと、手ではなく奥が疲れる感じがします」
ミラも頷いた。
「頭の奥が重いです」
それは眠いとも違う。痛いとも違う。使ったことのない場所を使った後の、奥に残る重さだった。
マルテが記録する。
「収納訓練後、疲労感あり。停止判断」
澪は時計を見る。
授業開始から、思っていたより時間が経っていた。
「それが限界の合図です。寝るまでが訓練です」
トルの顔が少し明るくなる。
「寝るのも訓練ですか」
「はい」
「それは得意です」
マルテが記録した。
「トル、睡眠訓練に自信あり」
「これは良い記録です」
トルが胸を張る。
ミラが静かに言う。
「寝坊は別です」
「それは違います」
トルはすぐ否定した。
ピナは、濡れ布と時計を片づけながら、少し名残惜しそうに収納を見ていた。
「明日、増えますか」
「増えるかどうかを、明日測ります」
澪はそう答えた。
ミラが紙に「翌朝再鑑定」と書く。
マルテはそれを見て、収納成長表の枠を作り始めた。
名前。
訓練前。
限界接近。
疲労感。
睡眠後。
成長。
そこまで書くと、事業所の机はもう完全に仕事場で、学校で、研究所だった。
澪は時計を四つ回収せず、それぞれに持たせたままにした。
「明日、忘れずに持ってきてください」
トルが時計を首にかけ直す。
「寝る時もですか」
「寝る時は外してください」
「寝る訓練なのに」
「時計を壊さない訓練もしてください」
ピナがすぐ頷いた。
「それは大事です」
トルは少し悩んだ顔で、時計を胸元にしまった。
その日の授業は、そこで終わった。
翌朝、押入商会侯爵領事業所の机の前に、三人はいつもより早く集まっていた。
ミラは時計をきちんと持っている。紐も絡んでいない。
ピナの時計は、柔らかい布袋に入っていた。取り出す時も両手で支えている。
トルは首から時計を下げていたが、紐が少し斜めになっている。走ってきたのが分かる。
マルテは前日の記録表を広げていた。
「再鑑定します」
澪が言うと、三人の顔が揃って緊張した。
まずミラ。
----------------------------------
ミラ・セイルの収納
分類:収納技能
スキルレベル:収納:1 → 2
収納可能重量:10kg → 30kg
安定運用重量:5kg → 18kg
現在収納重量:なし
余裕:30kg
収納可能点数:5点 → 8点
分類保持:低 → 普通
取り出し速度:普通
状態保持:未発現
時間停止:芽あり
成長:収納量増加/分類保持向上/時間記録適性上昇
状態:睡眠後、収納性能が上昇しました
----------------------------------
ミラは息を止めた。
それから、紙を胸元へ抱えるように持った。
「紙類なら、前より混ざらない気がします」
「実際に試しましょう」
澪が注文票と検品札を渡すと、ミラは収納し、取り出した。
昨日より、順番が崩れていない。
次はピナ。
----------------------------------
ピナ・ロッテの収納
分類:収納技能
スキルレベル:収納:2 → 3
収納可能重量:30kg → 50kg
安定運用重量:20kg → 40kg
現在収納重量:なし
余裕:50kg
収納可能点数:8点 → 12点
分類保持:普通 → 良
取り出し速度:普通
状態保持:低 → 普通
時間停止:芽あり
成長:収納量増加/収納内整理向上/状態保持向上
状態:睡眠後、収納性能が上昇しました
注意:布包み、小物、金具箱を崩さず保管しやすくなりました
----------------------------------
ピナは布包みを一つ収納して、すぐ取り出した。
昨日より、角が崩れていない。
結び目も潰れていない。
ピナは少しだけ笑った。
「形が、残っています」
「ピナさん向きの伸び方です」
ピナは布包みを大事そうに机へ置いた。
最後にトル。
----------------------------------
トル・バッカの収納
分類:収納技能
スキルレベル:収納:1 → 2
収納可能重量:10kg → 30kg
安定運用重量:8kg → 25kg
現在収納重量:なし
余裕:30kg
収納可能点数:4点 → 6点
分類保持:低
取り出し速度:速い → とても速い
状態保持:未発現
時間停止:芽あり
成長:収納量増加/即時取り出し向上/伝達時間短縮
状態:睡眠後、収納性能が上昇しました
注意:分類保持は引き続き記録補助が必要です
----------------------------------
トルは跳ねそうになった。
「速くなりました」
「分類はまだ低いです」
ミラがすぐに言った。
「性能アップしてるのに、また注意があります」
トルが抗議すると、マルテが静かに言った。
「注意も性能の一部です」
「注意もですか」
「はい。読めない注意は事故になります」
トルは、少し納得したような、していないような顔をした。
澪は最後にマルテを鑑定する。
----------------------------------
マルテ・ロウ
分類:人間/事業所長候補
役割:記録管理/限界管理
現在ジョブ:書記官見習い
既得スキル:記録:3
既得スキル:帳簿:2
成長:収納成長記録:1 → 2
成長:作業時間管理:1
成長:限界管理:1
状態:収納技能は未取得
注意:商人系スキル取得には、商人系ジョブ適性確認が必要です
----------------------------------
マルテは静かに表示を見た。
「私は収納ではなく、記録が伸びました」
「事業所には必要です」
澪が言うと、マルテは頷く。
「必要なら問題ありません」
トルが悪気なく聞いた。
「収納ないんですか」
「トル」
ミラが止める。
ピナも続いた。
「今のは、年齢の話の次くらいに危ないです」
マルテは記録板へ筆を置いた。
「記録します。トル、職能発言注意」
「また不可ですか」
「注意です。二回続けば不可です」
トルは口を閉じた。
澪は少し笑いそうになったが、我慢した。
この事業所では、スキルだけでなく、発言も成長管理の対象らしい。
澪は、前日の実験品を片づけ、実務の物を机に並べた。
注文票。
検品札。
布包み。
小さな金具箱。
工房への伝言札。
「では、仕事に使います」
三人の顔が変わった。
ミラは注文票と検品札を分類して収納した。昨日なら少し迷った量でも、今日は取り出す順番が崩れない。注文票は注文票。検品札は検品札。紙の端が揃ったまま出てくる。
ミラはほっとした顔で言った。
「前より、分かれています」
ピナは布包みと金具箱を収納した。
出した時、布の角は潰れていなかった。金具箱も傾いていない。
「中で、押されていない感じがします」
「状態保持が上がっています」
澪が言うと、ピナは布包みをもう一度見て、嬉しそうに頷いた。
トルは伝言札と小道具を収納し、工房入口まで走った。
時計で時間を測る。
昨日より少し速い。
戻ってきたトルは、すぐ伝言札を出した。
速い。
ただし、ミラが確認する。
「札は合っています」
トルの顔がぱっと明るくなった。
「合ってます」
「今回は合っています」
「今回は」
マルテが記録する。
「トル、伝達時間短縮。札の状態、良。分類、要継続確認」
「最後に注意がつきました」
「仕事です」
マルテは時計と記録表で、作業時間、収納重量、取り出し成功率をまとめていく。
その手つきは、昨日より迷いが少なかった。
澪は机の上を見た。
四つの時計。
収納成長表。
注文票。
検品札。
布包み。
小さな金具箱。
水と空気と火を学んだ机が、今度は時間を測り、収納の限界を記録する机になっていた。
時計を渡しただけではない。
時間を見て、限界を見て、寝て伸びて、仕事に戻す。
それが、事業所の訓練になっている。
ミラは昨日より多く、紙を混ぜずに扱えるようになった。
ピナは昨日より重く、形を崩さず保管できるようになった。
トルは昨日より速く、必要なものを出せるようになった。
マルテは、三人の伸びを仕事へ戻すための記録を作っている。
澪は手帳を開いた。
時間の授業。収納は、限界を見て、寝て伸びる。
そう書いてから、少しだけ考えて、もう一行足した。
子どもたちは、昨日より仕事ができる。
押入商会侯爵領事業所の机の上には、注文票と検品札と、四つの時計と、収納成長表が並んでいた。水と空気と火を学んだ子どもたちは、今度は時間を見ながら、昨日より少し多く、少し正確に、仕事をしまえるようになっていた。