押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第73話 江古田の異世界人

 

 現代側の机は、押入商会侯爵領事業所の机よりも、ずっと静かだった。

 

 静かなのに、圧がある。

 

 澪はノートパソコンの前に座ったまま、机いっぱいに広げた紙を見下ろしていた。押入家具工房から持ち込んだ家具の写真、寸法メモ、受注控え、納品予定、問い合わせの印刷、販売ページの下書き。どれも一枚ずつならただの紙なのに、重なると、逃げ場のない仕事の山に見えた。

 

 写真の中の家具は、悪くない。

 

 いや、かなり良い。

 

 木目は美しく、金具は丁寧で、異世界側の職人たちが手を抜いていないことは、澪には分かる。けれど、現代側の画面に載せると、その良さが半分くらい逃げる。床に置いて撮った写真は、どうしても「たまたま良い家具が家にあったので撮りました」という顔になってしまう。寸法は書ける。材質も書ける。価格も付けられる。だが、その家具がなぜその値段なのか、どこから来て、誰が作り、どう扱われるべきなのかを、現代側の客に納得させる文章が足りない。

 

 澪は、問い合わせの紙を一枚持ち上げた。

 

 保管場所はどちらですか。

 搬入経路を事前確認できますか。

 追加写真はありますか。

 作家名、工房名、証明書はありますか。

 法人としての取引書類は出ますか。

 

 文字は丁寧だった。

 

 丁寧だからこそ、怖い。

 

「異世界側は、少しずつ人が育っている。けれど現代側は、私しかいない……」

 

 呟いた声は、部屋の中でそのまま沈んだ。

 

 ミラは注文票を見られるようになった。ピナは梱包と収納が安定してきた。トルは時計を見て走れるようになった。押入商会侯爵領事業所は、机一つから始まった場所なのに、少しずつ事業所らしくなっている。

 

 けれど、現代側は違う。

 

 家具を現代側へ持ち込めるのは澪だけだ。現代で収納を人前で使うわけにはいかない。押し入れから大型家具が出てくるところを誰かに見られたら、その時点で説明が崩壊する。販売ページを整え、問い合わせに答え、納品の段取りを組み、保管場所を説明し、怪しまれないように商売へ落とす人間が必要だった。

 

 欲しいのは、収納できる人ではない。

 

 収納した後の品物を、現代社会で怪しまれず、安く見せず、仕事へ変えられる人だ。

 

 澪は、両手で頭を抱えた。

 

「押入商会、現代側が弱すぎる……」

 

 その弱さは、根性でどうにかなる種類ではなかった。

 

 澪は椅子から立ち上がった。銀行の確認、郵便、買い物、それから少しだけ古物関係の店を見る。家具を売るなら、現代側の見せ方をもっと勉強した方がいい。

 

 鞄を持ち、部屋を出る前に、澪は押し入れをちらりと見た。

 

 襖は閉まっている。

 

 今日は現代側の用事だ。

 

 そう自分に言い聞かせて、澪は玄関へ向かった。

 

 

 

 

 江古田の商店街は、夏の光で少し白く見えた。

 

 駅から流れてくる人の波に、学生らしい若者、自転車を押す人、買い物袋を下げた人が混じっている。道端の影は細く、店先の軒下だけが少しだけ涼しそうだった。澪は用事を一つずつ片づけながら、それでも頭の中では押入商会のことを考えていた。

 

 写真。

 

 説明文。

 

 保管場所。

 

 出所。

 

 納品。

 

 家具は物である。けれど現代で売る時には、物だけでは足りない。物の周りにある説明が、値段を支える。そこまでは分かる。分かるのに、どう整えればいいのかが分からない。

 

「出所の説明……」

 

 小さく呟いた時、澪の足が止まった。

 

 古道具屋の店先だった。

 

 通りに面した狭いスペースに、古い木箱、小さな壺、茶碗、金属の皿、使い道の分からない箱、古い額が並んでいる。その一角に、一人の男が立っていた。

 

 服装だけを見れば、現代の街にいてもおかしくはない。

 

 だが、立ち方がおかしい。

 

 背筋が真っ直ぐすぎる。品物を見る時、顔を近づけすぎない。触れる前にまず全体を見て、次に光の当たり方を見て、最後に店主と通行人の動きまで見ている。店先の雑多な空気の中で、その男だけが、別の場所から切り取られて置かれたように見えた。

 

 男は、小さな壺を見下ろして、低い声で言った。

 

「置き方が粗いな。これでは、品が自分で安く見えてしまう」

 

 店主が顔を上げた。

 

「分かるんですか」

 

「分かる、というほどではない。だが、値を上げたいなら、まず安く見せぬことだ。品物は置かれた場所で価値を変える」

 

 男は壺には触れなかった。ただ、隣に置かれている安い木箱を見た。

 

「隣が悪い。あれは働く道具としては悪くないが、この壺の隣に置くには声が大きすぎる」

 

「声?」

 

「品物にも声はある。静かな品の隣に、騒がしいものを置けば、客は静かな方を見落とす」

 

 店主はむっとした顔をしたが、手は動いた。壺の隣にあった木箱を少し離し、下に敷いていた布を直す。

 

 男は、ほんの少しだけ頷いた。

 

「悪くない。だが、光が正面から強すぎる。釉薬を見る前に、反射が目に入る」

 

 店主が黙った。

 

 澪も黙った。

 

 この人、なんか変だ。

 

 かなり変だ。

 

 でも、言っていることが、妙に刺さる。

 

 高く売る前に、安く見せない。

 

 押入商会の家具写真が、頭の中で一斉に床置きになった。背景の生活感、悪い光、足りない余白、適当に添えた説明文。澪は、自分の販売ページが急に恥ずかしくなった。

 

 気づけば、一歩近づいていた。

 

 

 

 

「すみません」

 

 澪が声をかけると、男はこちらを見た。

 

 鋭い目だった。ただし無礼ではない。相手を測る目だ。店主を見る目とも、壺を見る目とも違う。澪は、その視線だけで少し背筋を伸ばした。

 

「古美術に詳しいんですか」

 

「詳しいと言うほどではない。ただ、品物が雑に扱われるのは美しくない」

 

「ええと、お仕事は」

 

 男はそこで、わずかに言葉を失った。

 

「仕事……」

 

 視線が店先の壺から外れ、どこか遠くを見る。

 

「思い出せん。ただ、命令を受け、命令を出す立場にいた気はする」

 

「会社員ではない感じですね」

 

「会社、ではないな」

 

 澪の中で、警戒心と好奇心が同時に上がった。

 

「お名前は」

 

 男は目を伏せた。

 

「名は薄い。呼ばれていた音が、どうにも戻らん」

 

「何か覚えている呼び名は」

 

 少し間があった。

 

「大佐」

 

 澪は固まった。

 

「大佐」

 

「階級のようなものだ。名ではない」

 

 店主が、もう完全に関わりたくなさそうな顔をしていた。澪も、正直、関わりたくない気持ちはあった。

 

 財布はない。

 身分証もない。

 スマホもない。

 住所も分からない。

 なぜ江古田にいるのかも分からない。

 

 ただし日本語は流暢で、古美術の見方も分かり、品物の置き方まで分かる。そして「大佐」と来た。

 

 普通なら、警察案件である。

 

 ただ、澪は普通ではない押し入れを持っている。

 

 目の前の男は、普通ではない匂いがした。

 

「……少し、人目のあるところで話しませんか」

 

 男は澪を見た。

 

「君は、私を拾うつもりか」

 

「拾うと言うと、かなり危ない感じになります」

 

「では、観察か」

 

「話を聞くだけです」

 

「なるほど。物は言いようだな」

 

 男は、静かに店主へ視線を戻した。

 

「壺は、もう一段奥へ。客が手に取る前に、少し見上げる位置がよい」

 

 店主は、なぜか黙って壺を動かした。

 

 澪は、ますますこの人を放置できない気がしてきた。

 

 

 

 

 喫茶店に入ると、男は席に座る前に、入口、窓、店員の位置、隣席との距離を見た。

 

 座った後も、背もたれに身体を預けすぎない。いつでも立てる姿勢なのに、落ち着いて見える。澪はそれを見て、やっぱり会社員ではないな、と思った。

 

 店員が水を置いていく。

 

 澪はメニューを男に渡した。

 

 男はそれを開いた。

 

 驚きはしない。

 

 写真、価格、説明文、余白、並び順。男の視線は料理名ではなく、紙面の作りを追っている。

 

「写真が強いな」

 

「写真?」

 

「品名より先に目を奪う。値は見える。だが、なぜこの値なのかが弱い。客に選ばせるには悪くないが、品を語るには少々急ぎすぎている」

 

 澪は水を飲みかけて止まった。

 

「メニューを見て、そこですか」

 

「商いの紙だろう。ならば、見るべきところは同じだ」

 

 澪はメニューをもう一度見た。

 

 さっきまで普通のメニューにしか見えなかったものが、急に販売ページの親戚に見えてきた。写真の大きさ、価格の見せ方、説明文の短さ、余白。客に選ばせるための紙としては分かりやすいが、品物の価値を語る紙ではない。

 

 押入商会の写真も、こういう見方をしないといけないのか。

 

 澪が黙ったので、男はメニューから目を上げた。

 

「今、困りごとを思い出した顔だな」

 

「後で話します」

 

「後で話すと言った者は、たいてい先に困っている」

 

 澪は答えに詰まった。

 

 この人、妙に刺してくる。

 

 注文を済ませた後、澪は本題に入った。

 

「名前は、本当に思い出せないんですね」

 

「薄い。人に呼ばれていたはずだが、音にならん」

 

「住んでいた場所は」

 

「それも薄い。ただ、ここではない」

 

「日本ではない?」

 

「日本のことは知っている。歴史も、器も、古い制度も。だが、私がここに属していた記憶はない」

 

 澪は、少し慎重に聞いた。

 

「戸籍は分かりますか」

 

 男は、眉を動かした。知らない顔ではなかった。

 

「戸籍の意味は分かる。人を家に結び、国が数え、税と役を定めるための帳簿だ。律令、宗門人別改、明治の戸籍。日本史の知識はある」

 

「かなり分かってますね」

 

「だが問題はそこではない。私は、そのどの帳簿にも載っていない、ということだな」

 

「はい。そこからです」

 

 男はメニューを閉じた。

 

「名を持たぬ者は、取引も宿も口座も持てぬ。なるほど。制度とは、武器より静かに人を追い詰める」

 

 澪は、男の顔を見た。

 

 無知ではない。

 

 分かっている。

 

 分かった上で、自分が現代日本の制度上、どこにも存在しないことを理解している。

 

 その理解の速さが、逆に怖かった。普通なら、もっと慌てる。もっと怒る。もっと混乱する。この人は、混乱を構造として見ている。

 

 澪は、もう鑑定せずにはいられなかった。

 

 

 

 

 澪は、喫茶店のざわめきの中で、静かに男を鑑定した。

 

----------------------------------

名不明の男

 分類:人間/異界漂着者

 現在ジョブ:指揮官

 レベル:12

 状態:現代漂着中/記憶欠損/身元不明

 疲労度:71%

 体力:72

 筋力:58

 器用:74

 知力:82

 判断:90

 精神:92

 集中:76

 既得スキル:交渉:7

 既得スキル:指揮:6

 既得スキル:礼法:6

 既得スキル:美術眼:6

 既得スキル:古物鑑定:5

 既得スキル:軍略:5

 既得スキル:威圧:4

 既得スキル:書類読解:3

 既得スキル:現代知識:2

 既得スキル:異界適応:2

 異常:記憶欠損

 異常:身元情報欠落

 注意:本人名を確認できません

 注意:現代側の身元保証が必要です

 備考:「大佐」と呼ばれていた記憶の断片あり

----------------------------------

 

 澪は、表示を見たまま固まった。

 

 異界漂着者。

 

 そこは、まあ、薄々そんな気はしていた。

 

 問題はその下である。

 

 交渉七。指揮六。礼法六。美術眼六。古物鑑定五。軍略五。

 

 押入商会の現代側に欲しいものが、なぜか喫茶店の椅子に座ってコーヒーを待っている。

 

 困った人を見つけたと思ったら、必要な人材だった。

 

 ただし、身元不明。

 

 現代制度上は完全に危ない。

 

 簡単に連れて帰っていい相手ではない。

 

 澪が表情を戻す前に、男が口を開いた。

 

「澪君、今、私を値踏みしたな」

 

 澪は息を止めた。

 

「分かるんですか」

 

「人が情報を得た顔は分かる。言葉を変えても、本質は同じだ」

 

「値踏みというか、鑑定です」

 

「鑑定。なるほど。便利な言葉だ」

 

 便利で済ませていい言葉ではない。

 

 しかし男は、それ以上問い詰めなかった。

 

 コーヒーが運ばれてくる。男はカップを静かに受け取り、持ち方もきれいだった。記憶喪失なのに、所作は失われていない。

 

 澪は、もう一口水を飲んだ。

 

 この人を放置するのは危ない。

 

 関わるのも危ない。

 

 だが、押入商会に必要な人材かもしれない。

 

 最悪の三択だった。

 

 

 

 

 澪は迷った。

 

 普通の人間には話せない。

 

 押し入れが異世界につながっています。

 向こうで家具を作って、現代で売っています。

 収納で持ち込んでいます。

 神様が異世界小説に影響されて、世界がRPG化しています。

 

 どこから話しても、普通の人には通じない。

 

 けれど目の前の男は、鑑定で異界漂着者と出た。しかも現代側に身元がない。放置しても危ない。関わっても危ない。

 

 なら、危ないまま放置するより、話してしまった方がまだ管理できる。

 

 澪は声を落とした。

 

「私の部屋の押し入れが、別の世界につながっています」

 

 男は、ほんの少し眉を動かしただけだった。

 

「門か」

 

「反応が薄いですね」

 

「こちらに来た覚えのない私がいる。門の一つや二つ、今さら驚くことでもない」

 

「一つや二つ、ないです。普通は」

 

「普通という言葉は、状況が悪くなるほど役に立たん」

 

 澪は、また少し負けた気分になった。

 

 それでも話を続けた。

 

 異世界側で家具や素材を扱っていること。押入商会という会社を作ったこと。現代側で販売していること。家具や素材を澪が収納で持ち込んでいること。ただし現代側で事情を知る人がいないこと。家具の説明、価値の見せ方、交渉、出所の整え方に困っていること。

 

 男は途中で口を挟まなかった。

 

 ただ聞いていた。

 

 そして、カップを静かに置いた。

 

「澪君。この国では、品物そのものより、出所の説明が重いのだな」

 

「はい。そこが一番困っています」

 

「ならば、品物を売る前に、物語を整えるべきだ。誰が作り、どこで保管され、なぜ今ここにあるのか。買う者は、品ではなく納得を買う」

 

 澪は黙った。

 

 それだった。

 

 それが、ずっと言葉にならなかった部分だった。

 

「……ネットも見てないのにそこまで行きます?」

 

「商いの形は変わっても、人の疑い方はそう変わらん」

 

「強い……」

 

「疑い深い者は、よい客にも悪い客にもなる。相手に値切る理由を渡すな。だが、納得する理由は渡せ」

 

 澪は、鞄の中に入れていた押入商会の写真のことを思い出した。

 

 床置き。

 背景が雑。

 光が悪い。

 説明文は商品の良さを並べているが、なぜその値段なのかが弱い。

 

 頭が痛くなってきた。

 

 だが、必要な痛みだった。

 

「あなた、押入商会に向いてます」

 

「私は、まだ自分の名も持っていない」

 

「そこからですね」

 

「手順が粗いな」

 

「すみません」

 

 名もない男に、手順の粗さを指摘された。

 

 澪は、反論できなかった。

 

 

 

 

 澪は、喫茶店を出た後、ひとまず男を自分の部屋へ連れてきた。

 

 もちろん、かなり迷った。

 

 だが、押し入れのことを話してしまった以上、部屋の前で止めるのも中途半端だった。それに、男は逃げても行く場所がない。澪も、逃がすには情報を渡しすぎている。

 

 部屋に入った男は、まず窓、玄関、机、押し入れの位置を見た。

 

「作戦室にしては、紙の退避経路が悪い」

 

「普通の部屋です」

 

「ならば、商会の書類置き場としてはなおさら悪い」

 

「いきなり部屋を評価しないでください」

 

「評価ではない。被害を減らすための観察だ」

 

「やめてください。片付けたくなります」

 

「それは良い兆候ではないか」

 

 澪は、机の上にメモ帳を出した。

 

 現代側で生活するには、名前が必要だ。男は戸籍制度の歴史的意味を理解している。だからこそ、自分が無名であることの危うさも理解していた。

 

「名を持たぬ者は、制度の前では影に等しい」

 

「なので、仮の名前が必要です」

 

「君がつけるのか」

 

「私が身元保証人になるなら、そうなります」

 

 部屋の中が、少し静かになった。

 

 澪は、ペンを持ったまま考えた。

 

 元の名前は分からない。でも現代側で呼べる名が必要だ。硬さがあり、古風で、本人の雰囲気に合う名。真っ直ぐすぎる背筋。壁のような物腰。忠義という言葉が似合うかは分からないが、少なくとも軽い名前では合わない。

 

「真壁久忠」

 

 男が、ゆっくりと繰り返した。

 

「真壁、久忠」

 

「まかべ、ひさただ。現代側で暮らすための名前です」

 

 男はしばらく黙って、その名を口の中で転がした。

 

「悪くない。壁とは、守るものでもあり、隔てるものでもある。久しく忠を保つ、か。少々重いが、名としては悪くない」

 

「気に入ったんですか」

 

「名は、使ってみねば分からん」

 

 澪は鑑定した。

 

----------------------------------

真壁久忠

 分類:人間/異界漂着者

 現在ジョブ:指揮官

 レベル:12

 状態:仮名付与/身元保証手続き中/記憶欠損

 疲労度:68%

 体力:72

 筋力:58

 器用:74

 知力:82

 判断:90

 精神:92

 集中:78

 既得スキル:交渉:7

 既得スキル:指揮:6

 既得スキル:礼法:6

 既得スキル:美術眼:6

 既得スキル:古物鑑定:5

 既得スキル:軍略:5

 既得スキル:威圧:4

 既得スキル:書類読解:3

 既得スキル:現代知識:2

 既得スキル:異界適応:2

 成長:現代側身元形成:芽あり

 注意:現代制度への適応支援が必要

 注意:記憶欠損により一部技能の出力低下

----------------------------------

 

 名前が通った。

 

 澪は、なぜかそれだけで少し疲れた。

 

「真壁さん」

 

「久忠でも構わんが」

 

「まずは真壁さんで」

 

「距離を置く名の呼び方だな」

 

「距離は大事です」

 

「悪くない。距離を失った交渉は、たいてい品を失う」

 

「今、良いことを言ったようで、私のことも刺しましたね」

 

「刺したつもりはない。置いただけだ」

 

 何を置いたのか聞きたくなかった。

 

 澪は、メモ帳の下に大きく書いた。

 

 身元保証。

 

 その文字は、見た目よりずっと重かった。

 

 

 

 

 そこから数日、澪は走った。

 

 相談に行き、申請を出し、届け出を出し、問い合わせた。足りない書類を確認し、押入商会の法人資料を出し、身元保証人として名前を書いた。説明して、また説明して、電話して、メールして、確認して、追加資料を出した。

 

 現実の手続きは、魔物より静かで、ラージラットよりしつこかった。

 

 澪は、途中で何度か自分が何をしているのか分からなくなった。番号札を握り、書類の束を抱え、同じ説明を別の窓口で繰り返しながら、異世界の魔物退治の方がまだ分かりやすいのではないかと思った。

 

 真壁は、横で静かに座っていた。

 

 怒らない。

 騒がない。

 ただ、説明を聞くたびに、制度の構造を理解していく。

 

「制度とは、戦わぬ相手をここまで疲弊させるのだな」

 

「今、戦っています。かなり戦っています」

 

「敵が見えぬ」

 

「窓口です」

 

「なるほど。強敵だ」

 

 澪は笑えなかった。

 

 別の日、電話を切った後、澪が机に突っ伏すと、真壁は資料を整えながら言った。

 

「敵は姿を見せず、紙だけを前線に送ってくる。なかなかの用兵だ」

 

「やめてください。書類が敵に見えてきます」

 

「見えていないのか」

 

「見えています」

 

「ならば、戦況認識は正しい」

 

 慰められているのか、追い詰められているのか分からなかった。

 

 それでも、澪は頑張った。

 

 結果として、真壁久忠という名は、現代側で使える名前になった。戸籍、住民票、身分を示すもの、銀行口座、連絡手段、住む場所。細かい手順を思い出すと頭痛がするほどの諸々が、どうにか整った。

 

 整ってしまった。

 

 澪は、最後の確認書類を閉じて、椅子にもたれた。

 

「整えてしまった……」

 

 真壁は、きれいに畳まれた書類の束を見た。

 

「借りができたな」

 

「押入商会で働いて返してください」

 

「取引としては分かりやすい」

 

「そこは、ありがとうございます、でよくないですか」

 

「恩と取引は分けた方が美しい」

 

「また美しさの話ですか」

 

「美しくない借りは、たいてい後で揉める」

 

 澪は、妙に納得してしまった。

 

 そしてまた疲れた。

 

 

 

 

 澪の部屋の机に、押入商会の資料が広がった。

 

 家具の写真、寸法、価格候補、問い合わせ、受注残、現代側販売の課題。どれも澪にとっては見慣れた紙だったが、真壁の前に置くと、試験に出しているような気分になった。

 

 真壁は一枚ずつ見た。

 

 品物そのものより先に、置き方、背景、光、説明文、余白に目が行っている。写真を動かし、紙を並べ替え、同じ家具でも撮り方で印象が変わることを、澪の前で静かに示していく。

 

「これは安く見える」

 

「えっ、値段は高いです」

 

「値ではない。見せ方だ。床に置いて撮っただけでは、品物が自分で値を下げている。背景、光、余白、説明。高く売る前に、安く見せないことだ」

 

 澪は胸を押さえた。

 

「刺さります」

 

「刺してはいない。欠けた部分を指しただけだ」

 

「それを刺すと言います」

 

 真壁は別の写真を手に取った。

 

「材は悪くない。加工も粗くない。だが、説明が平たい」

 

「平たい」

 

「材の由来、職人の手、寸法、用途、置かれる部屋。買う者が想像できるように整えるべきだ。これは品物ではなく、部屋の未来を売るものだろう」

 

 澪は黙った。

 

 この人は、やっぱり必要だ。

 

「押入商会、手伝いませんか」

 

 真壁が、澪を見た。

 

「私は名も身元も、君に整えられたばかりだ」

 

「だからです。現代側で暮らせるようにします。その代わり、押入商会を手伝ってください。家具の見せ方、説明、交渉、顧客対応。私一人では限界です」

 

「取引としては、悪くない」

 

「そこも、ありがとうございます、でよくないですか」

 

「恩と取引は分けた方が美しい」

 

「真壁さん、たぶん日本で暮らすなら、もう少し柔らかく言った方がいいです」

 

「では、感謝している。だが、働きで返す」

 

「それでお願いします」

 

 真壁は、押入商会の資料をもう一度見た。

 

「まず、写真だな」

 

「そこからですか」

 

「そこからだ。品を安く見せる写真は、値引き交渉を自分から招く。澪君、それでは相手に値切る理由を渡している」

 

「全部刺してくる……」

 

「置いているだけだ」

 

「置き方が粗いです」

 

 真壁は少しだけ目を細めた。

 

「悪くない返しだ」

 

 褒められたのか、採点されたのか分からなかった。

 

 

 

 

 押入商会に関わるなら、実物を見せる必要がある。

 

 澪はそう思った。

 

 思ったが、押し入れの前に立つと、急に不安になった。

 

 真壁は、押し入れの襖を見ている。

 

 普通の襖だ。現代側の部屋にある、ただの押し入れ。けれど澪にとっては、もうただの収納ではない。異世界へつながる門であり、商売の入口であり、面倒ごとの源泉でもある。

 

「ここから、向こうへ行きます」

 

 澪が襖を開けた。

 

 真壁は、奥を見た。

 

「門だな」

 

「普通はそういう反応にならないんですが」

 

「境界としては分かりやすい。こちらと向こうを分ける戸だ。門にしては狭いが」

 

「通れるのは、たぶん私だけです」

 

「たぶん、か」

 

 その言い方に、澪は嫌な予感がした。

 

「真壁さんは、ここで待っていてください」

 

「待てと言われれば待つが、見るだけで済む門ではあるまい」

 

「いや、だから」

 

 澪は言い切る前に、いつものように押し入れをくぐった。

 

 空気が変わる。

 

 現代の部屋の乾いた空気から、異世界側の少し土と木の匂いが混じった空気へ。足元が変わり、光が変わる。澪は、いつものように異世界側に立った。

 

 そして、背後で靴音がした。

 

「……え?」

 

 振り返る。

 

 真壁がいた。

 

 異世界側の床に、普通に立っていた。

 

 少しだけ目を細め、周囲を見ている。

 

「空気が違うな」

 

「なんで来られるんですか」

 

「私に聞かれても困る。君が門を開け、私は歩いた。それだけだ」

 

「それだけじゃないんです」

 

「では、門の方に聞くべきだな」

 

「門は答えません」

 

「ならば、記録するしかあるまい」

 

 澪は頭を抱えた。

 

 押し入れを通れるのは、自分だけのはずだった。

 

 真壁は周囲を見る。驚いていないわけではない。ただ、驚き方が静かすぎる。足元、壁、空気、遠くから聞こえる工房の音、人の気配。全部を順番に確認している。

 

「澪君」

 

「はい」

 

「これは、君一人で抱えるには、少々大きすぎる門だ」

 

「今、それを言わないでください」

 

 澪は、震える手で真壁を鑑定した。

 

----------------------------------

真壁久忠

 分類:人間/異界漂着者

 現在ジョブ:指揮官

 レベル:12

 状態:異世界通行確認/記憶欠損/身元整備済

 疲労度:65%

 体力:72

 筋力:58

 器用:74

 知力:82

 判断:90

 精神:92

 集中:80

 既得スキル:交渉:7

 既得スキル:指揮:6

 既得スキル:礼法:6

 既得スキル:美術眼:6

 既得スキル:古物鑑定:5

 既得スキル:軍略:5

 既得スキル:威圧:4

 既得スキル:書類読解:3

 既得スキル:現代知識:2

 既得スキル:異界適応:2

 確認:押し入れ通行可能

 注意:記憶欠損により一部技能の出力低下

 注意:収納技能は未取得

 注意:鑑定技能は未取得

----------------------------------

 

「確認、押し入れ通行可能……」

 

「今度は何を見た」

 

「通れたことが、正式に確認されました」

 

「歩いただけだが」

 

「こっちは人生が変わるんです」

 

 真壁は、少しだけ押し入れの方を振り返った。

 

「門を一人で守る者は、いずれ門に使われる。君は、少し遅く気づいたのかもしれんな」

 

「やめてください。格好いいこと言わないでください。問題が大きく聞こえます」

 

「大きいのだろう」

 

「そうなんですけど」

 

 澪は、また頭を抱えた。

 

 現代側の人材不足を解決したかった。

 

 その結果、押し入れを通れる記憶喪失の元大佐風異界漂着者を拾った。

 

 解決したのか。

 問題が増えたのか。

 

 判定に困る。

 

 

 

 

 現代側へ戻った後、澪は机に向かった。

 

 真壁用のメモを作るためである。

 

 真壁久忠。現代側身元整備済。押入商会協力者候補。現代知識学習。家具販売。古美術。高級品の見せ方。顧客対応。押し入れ通行可能。

 

 書いているだけで、頭が痛くなった。

 

 真壁は押し入れを見ていた。襖は少しだけ開いている。ただの押し入れのように見えて、もうただの押し入れではない。

 

「澪君」

 

「はい」

 

「この門は、君の商いだけのものでは済まなくなる」

 

「やめてください。今、それを考えると頭が痛いです」

 

「だが、目を逸らすには大きすぎる。門があり、品があり、人がいる。ならば、いずれ道になる」

 

 澪はため息をついた。

 

 押し入れを通れるのは自分だけではなかった。江古田で拾った記憶喪失の元大佐らしき男は、押し入れを通れた。しかも交渉ができる。美術眼がある。制度の怖さも理解している。現代側の押入商会には必要な人材でもある。

 

 困った。

 

 非常に困った。

 

 だが、必要でもある。

 

 澪は手帳を開いた。

 

「江古田で異世界人を拾った。名前は真壁久忠。押し入れを通れた。現代側協力者候補。手続きは頑張った」

 

 その下に、小さく書く。

 

「神様、小説の読みすぎでは」

 

 真壁が机の上の文字を見た。

 

「その神とやらは、読書家なのか」

 

 澪は手帳を閉じた。

 

「たぶん、最近かなり」

 

「ならば、次は何を読むか、見張るべきだな」

 

「やめてください。今、一番怖いことを言いました」

 

 押し入れの襖は、いつもより少しだけ重く見えた。

 

 向こうへ行くための戸だったはずのものは、その日から、澪だけでなく、真壁久忠という名を得た男も通れる門になってしまったのである。

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