現代側の机は、押入商会侯爵領事業所の机よりも、ずっと静かだった。
静かなのに、圧がある。
澪はノートパソコンの前に座ったまま、机いっぱいに広げた紙を見下ろしていた。押入家具工房から持ち込んだ家具の写真、寸法メモ、受注控え、納品予定、問い合わせの印刷、販売ページの下書き。どれも一枚ずつならただの紙なのに、重なると、逃げ場のない仕事の山に見えた。
写真の中の家具は、悪くない。
いや、かなり良い。
木目は美しく、金具は丁寧で、異世界側の職人たちが手を抜いていないことは、澪には分かる。けれど、現代側の画面に載せると、その良さが半分くらい逃げる。床に置いて撮った写真は、どうしても「たまたま良い家具が家にあったので撮りました」という顔になってしまう。寸法は書ける。材質も書ける。価格も付けられる。だが、その家具がなぜその値段なのか、どこから来て、誰が作り、どう扱われるべきなのかを、現代側の客に納得させる文章が足りない。
澪は、問い合わせの紙を一枚持ち上げた。
保管場所はどちらですか。
搬入経路を事前確認できますか。
追加写真はありますか。
作家名、工房名、証明書はありますか。
法人としての取引書類は出ますか。
文字は丁寧だった。
丁寧だからこそ、怖い。
「異世界側は、少しずつ人が育っている。けれど現代側は、私しかいない……」
呟いた声は、部屋の中でそのまま沈んだ。
ミラは注文票を見られるようになった。ピナは梱包と収納が安定してきた。トルは時計を見て走れるようになった。押入商会侯爵領事業所は、机一つから始まった場所なのに、少しずつ事業所らしくなっている。
けれど、現代側は違う。
家具を現代側へ持ち込めるのは澪だけだ。現代で収納を人前で使うわけにはいかない。押し入れから大型家具が出てくるところを誰かに見られたら、その時点で説明が崩壊する。販売ページを整え、問い合わせに答え、納品の段取りを組み、保管場所を説明し、怪しまれないように商売へ落とす人間が必要だった。
欲しいのは、収納できる人ではない。
収納した後の品物を、現代社会で怪しまれず、安く見せず、仕事へ変えられる人だ。
澪は、両手で頭を抱えた。
「押入商会、現代側が弱すぎる……」
その弱さは、根性でどうにかなる種類ではなかった。
澪は椅子から立ち上がった。銀行の確認、郵便、買い物、それから少しだけ古物関係の店を見る。家具を売るなら、現代側の見せ方をもっと勉強した方がいい。
鞄を持ち、部屋を出る前に、澪は押し入れをちらりと見た。
襖は閉まっている。
今日は現代側の用事だ。
そう自分に言い聞かせて、澪は玄関へ向かった。
江古田の商店街は、夏の光で少し白く見えた。
駅から流れてくる人の波に、学生らしい若者、自転車を押す人、買い物袋を下げた人が混じっている。道端の影は細く、店先の軒下だけが少しだけ涼しそうだった。澪は用事を一つずつ片づけながら、それでも頭の中では押入商会のことを考えていた。
写真。
説明文。
保管場所。
出所。
納品。
家具は物である。けれど現代で売る時には、物だけでは足りない。物の周りにある説明が、値段を支える。そこまでは分かる。分かるのに、どう整えればいいのかが分からない。
「出所の説明……」
小さく呟いた時、澪の足が止まった。
古道具屋の店先だった。
通りに面した狭いスペースに、古い木箱、小さな壺、茶碗、金属の皿、使い道の分からない箱、古い額が並んでいる。その一角に、一人の男が立っていた。
服装だけを見れば、現代の街にいてもおかしくはない。
だが、立ち方がおかしい。
背筋が真っ直ぐすぎる。品物を見る時、顔を近づけすぎない。触れる前にまず全体を見て、次に光の当たり方を見て、最後に店主と通行人の動きまで見ている。店先の雑多な空気の中で、その男だけが、別の場所から切り取られて置かれたように見えた。
男は、小さな壺を見下ろして、低い声で言った。
「置き方が粗いな。これでは、品が自分で安く見えてしまう」
店主が顔を上げた。
「分かるんですか」
「分かる、というほどではない。だが、値を上げたいなら、まず安く見せぬことだ。品物は置かれた場所で価値を変える」
男は壺には触れなかった。ただ、隣に置かれている安い木箱を見た。
「隣が悪い。あれは働く道具としては悪くないが、この壺の隣に置くには声が大きすぎる」
「声?」
「品物にも声はある。静かな品の隣に、騒がしいものを置けば、客は静かな方を見落とす」
店主はむっとした顔をしたが、手は動いた。壺の隣にあった木箱を少し離し、下に敷いていた布を直す。
男は、ほんの少しだけ頷いた。
「悪くない。だが、光が正面から強すぎる。釉薬を見る前に、反射が目に入る」
店主が黙った。
澪も黙った。
この人、なんか変だ。
かなり変だ。
でも、言っていることが、妙に刺さる。
高く売る前に、安く見せない。
押入商会の家具写真が、頭の中で一斉に床置きになった。背景の生活感、悪い光、足りない余白、適当に添えた説明文。澪は、自分の販売ページが急に恥ずかしくなった。
気づけば、一歩近づいていた。
「すみません」
澪が声をかけると、男はこちらを見た。
鋭い目だった。ただし無礼ではない。相手を測る目だ。店主を見る目とも、壺を見る目とも違う。澪は、その視線だけで少し背筋を伸ばした。
「古美術に詳しいんですか」
「詳しいと言うほどではない。ただ、品物が雑に扱われるのは美しくない」
「ええと、お仕事は」
男はそこで、わずかに言葉を失った。
「仕事……」
視線が店先の壺から外れ、どこか遠くを見る。
「思い出せん。ただ、命令を受け、命令を出す立場にいた気はする」
「会社員ではない感じですね」
「会社、ではないな」
澪の中で、警戒心と好奇心が同時に上がった。
「お名前は」
男は目を伏せた。
「名は薄い。呼ばれていた音が、どうにも戻らん」
「何か覚えている呼び名は」
少し間があった。
「大佐」
澪は固まった。
「大佐」
「階級のようなものだ。名ではない」
店主が、もう完全に関わりたくなさそうな顔をしていた。澪も、正直、関わりたくない気持ちはあった。
財布はない。
身分証もない。
スマホもない。
住所も分からない。
なぜ江古田にいるのかも分からない。
ただし日本語は流暢で、古美術の見方も分かり、品物の置き方まで分かる。そして「大佐」と来た。
普通なら、警察案件である。
ただ、澪は普通ではない押し入れを持っている。
目の前の男は、普通ではない匂いがした。
「……少し、人目のあるところで話しませんか」
男は澪を見た。
「君は、私を拾うつもりか」
「拾うと言うと、かなり危ない感じになります」
「では、観察か」
「話を聞くだけです」
「なるほど。物は言いようだな」
男は、静かに店主へ視線を戻した。
「壺は、もう一段奥へ。客が手に取る前に、少し見上げる位置がよい」
店主は、なぜか黙って壺を動かした。
澪は、ますますこの人を放置できない気がしてきた。
喫茶店に入ると、男は席に座る前に、入口、窓、店員の位置、隣席との距離を見た。
座った後も、背もたれに身体を預けすぎない。いつでも立てる姿勢なのに、落ち着いて見える。澪はそれを見て、やっぱり会社員ではないな、と思った。
店員が水を置いていく。
澪はメニューを男に渡した。
男はそれを開いた。
驚きはしない。
写真、価格、説明文、余白、並び順。男の視線は料理名ではなく、紙面の作りを追っている。
「写真が強いな」
「写真?」
「品名より先に目を奪う。値は見える。だが、なぜこの値なのかが弱い。客に選ばせるには悪くないが、品を語るには少々急ぎすぎている」
澪は水を飲みかけて止まった。
「メニューを見て、そこですか」
「商いの紙だろう。ならば、見るべきところは同じだ」
澪はメニューをもう一度見た。
さっきまで普通のメニューにしか見えなかったものが、急に販売ページの親戚に見えてきた。写真の大きさ、価格の見せ方、説明文の短さ、余白。客に選ばせるための紙としては分かりやすいが、品物の価値を語る紙ではない。
押入商会の写真も、こういう見方をしないといけないのか。
澪が黙ったので、男はメニューから目を上げた。
「今、困りごとを思い出した顔だな」
「後で話します」
「後で話すと言った者は、たいてい先に困っている」
澪は答えに詰まった。
この人、妙に刺してくる。
注文を済ませた後、澪は本題に入った。
「名前は、本当に思い出せないんですね」
「薄い。人に呼ばれていたはずだが、音にならん」
「住んでいた場所は」
「それも薄い。ただ、ここではない」
「日本ではない?」
「日本のことは知っている。歴史も、器も、古い制度も。だが、私がここに属していた記憶はない」
澪は、少し慎重に聞いた。
「戸籍は分かりますか」
男は、眉を動かした。知らない顔ではなかった。
「戸籍の意味は分かる。人を家に結び、国が数え、税と役を定めるための帳簿だ。律令、宗門人別改、明治の戸籍。日本史の知識はある」
「かなり分かってますね」
「だが問題はそこではない。私は、そのどの帳簿にも載っていない、ということだな」
「はい。そこからです」
男はメニューを閉じた。
「名を持たぬ者は、取引も宿も口座も持てぬ。なるほど。制度とは、武器より静かに人を追い詰める」
澪は、男の顔を見た。
無知ではない。
分かっている。
分かった上で、自分が現代日本の制度上、どこにも存在しないことを理解している。
その理解の速さが、逆に怖かった。普通なら、もっと慌てる。もっと怒る。もっと混乱する。この人は、混乱を構造として見ている。
澪は、もう鑑定せずにはいられなかった。
澪は、喫茶店のざわめきの中で、静かに男を鑑定した。
----------------------------------
名不明の男
分類:人間/異界漂着者
現在ジョブ:指揮官
レベル:12
状態:現代漂着中/記憶欠損/身元不明
疲労度:71%
体力:72
筋力:58
器用:74
知力:82
判断:90
精神:92
集中:76
既得スキル:交渉:7
既得スキル:指揮:6
既得スキル:礼法:6
既得スキル:美術眼:6
既得スキル:古物鑑定:5
既得スキル:軍略:5
既得スキル:威圧:4
既得スキル:書類読解:3
既得スキル:現代知識:2
既得スキル:異界適応:2
異常:記憶欠損
異常:身元情報欠落
注意:本人名を確認できません
注意:現代側の身元保証が必要です
備考:「大佐」と呼ばれていた記憶の断片あり
----------------------------------
澪は、表示を見たまま固まった。
異界漂着者。
そこは、まあ、薄々そんな気はしていた。
問題はその下である。
交渉七。指揮六。礼法六。美術眼六。古物鑑定五。軍略五。
押入商会の現代側に欲しいものが、なぜか喫茶店の椅子に座ってコーヒーを待っている。
困った人を見つけたと思ったら、必要な人材だった。
ただし、身元不明。
現代制度上は完全に危ない。
簡単に連れて帰っていい相手ではない。
澪が表情を戻す前に、男が口を開いた。
「澪君、今、私を値踏みしたな」
澪は息を止めた。
「分かるんですか」
「人が情報を得た顔は分かる。言葉を変えても、本質は同じだ」
「値踏みというか、鑑定です」
「鑑定。なるほど。便利な言葉だ」
便利で済ませていい言葉ではない。
しかし男は、それ以上問い詰めなかった。
コーヒーが運ばれてくる。男はカップを静かに受け取り、持ち方もきれいだった。記憶喪失なのに、所作は失われていない。
澪は、もう一口水を飲んだ。
この人を放置するのは危ない。
関わるのも危ない。
だが、押入商会に必要な人材かもしれない。
最悪の三択だった。
澪は迷った。
普通の人間には話せない。
押し入れが異世界につながっています。
向こうで家具を作って、現代で売っています。
収納で持ち込んでいます。
神様が異世界小説に影響されて、世界がRPG化しています。
どこから話しても、普通の人には通じない。
けれど目の前の男は、鑑定で異界漂着者と出た。しかも現代側に身元がない。放置しても危ない。関わっても危ない。
なら、危ないまま放置するより、話してしまった方がまだ管理できる。
澪は声を落とした。
「私の部屋の押し入れが、別の世界につながっています」
男は、ほんの少し眉を動かしただけだった。
「門か」
「反応が薄いですね」
「こちらに来た覚えのない私がいる。門の一つや二つ、今さら驚くことでもない」
「一つや二つ、ないです。普通は」
「普通という言葉は、状況が悪くなるほど役に立たん」
澪は、また少し負けた気分になった。
それでも話を続けた。
異世界側で家具や素材を扱っていること。押入商会という会社を作ったこと。現代側で販売していること。家具や素材を澪が収納で持ち込んでいること。ただし現代側で事情を知る人がいないこと。家具の説明、価値の見せ方、交渉、出所の整え方に困っていること。
男は途中で口を挟まなかった。
ただ聞いていた。
そして、カップを静かに置いた。
「澪君。この国では、品物そのものより、出所の説明が重いのだな」
「はい。そこが一番困っています」
「ならば、品物を売る前に、物語を整えるべきだ。誰が作り、どこで保管され、なぜ今ここにあるのか。買う者は、品ではなく納得を買う」
澪は黙った。
それだった。
それが、ずっと言葉にならなかった部分だった。
「……ネットも見てないのにそこまで行きます?」
「商いの形は変わっても、人の疑い方はそう変わらん」
「強い……」
「疑い深い者は、よい客にも悪い客にもなる。相手に値切る理由を渡すな。だが、納得する理由は渡せ」
澪は、鞄の中に入れていた押入商会の写真のことを思い出した。
床置き。
背景が雑。
光が悪い。
説明文は商品の良さを並べているが、なぜその値段なのかが弱い。
頭が痛くなってきた。
だが、必要な痛みだった。
「あなた、押入商会に向いてます」
「私は、まだ自分の名も持っていない」
「そこからですね」
「手順が粗いな」
「すみません」
名もない男に、手順の粗さを指摘された。
澪は、反論できなかった。
澪は、喫茶店を出た後、ひとまず男を自分の部屋へ連れてきた。
もちろん、かなり迷った。
だが、押し入れのことを話してしまった以上、部屋の前で止めるのも中途半端だった。それに、男は逃げても行く場所がない。澪も、逃がすには情報を渡しすぎている。
部屋に入った男は、まず窓、玄関、机、押し入れの位置を見た。
「作戦室にしては、紙の退避経路が悪い」
「普通の部屋です」
「ならば、商会の書類置き場としてはなおさら悪い」
「いきなり部屋を評価しないでください」
「評価ではない。被害を減らすための観察だ」
「やめてください。片付けたくなります」
「それは良い兆候ではないか」
澪は、机の上にメモ帳を出した。
現代側で生活するには、名前が必要だ。男は戸籍制度の歴史的意味を理解している。だからこそ、自分が無名であることの危うさも理解していた。
「名を持たぬ者は、制度の前では影に等しい」
「なので、仮の名前が必要です」
「君がつけるのか」
「私が身元保証人になるなら、そうなります」
部屋の中が、少し静かになった。
澪は、ペンを持ったまま考えた。
元の名前は分からない。でも現代側で呼べる名が必要だ。硬さがあり、古風で、本人の雰囲気に合う名。真っ直ぐすぎる背筋。壁のような物腰。忠義という言葉が似合うかは分からないが、少なくとも軽い名前では合わない。
「真壁久忠」
男が、ゆっくりと繰り返した。
「真壁、久忠」
「まかべ、ひさただ。現代側で暮らすための名前です」
男はしばらく黙って、その名を口の中で転がした。
「悪くない。壁とは、守るものでもあり、隔てるものでもある。久しく忠を保つ、か。少々重いが、名としては悪くない」
「気に入ったんですか」
「名は、使ってみねば分からん」
澪は鑑定した。
----------------------------------
真壁久忠
分類:人間/異界漂着者
現在ジョブ:指揮官
レベル:12
状態:仮名付与/身元保証手続き中/記憶欠損
疲労度:68%
体力:72
筋力:58
器用:74
知力:82
判断:90
精神:92
集中:78
既得スキル:交渉:7
既得スキル:指揮:6
既得スキル:礼法:6
既得スキル:美術眼:6
既得スキル:古物鑑定:5
既得スキル:軍略:5
既得スキル:威圧:4
既得スキル:書類読解:3
既得スキル:現代知識:2
既得スキル:異界適応:2
成長:現代側身元形成:芽あり
注意:現代制度への適応支援が必要
注意:記憶欠損により一部技能の出力低下
----------------------------------
名前が通った。
澪は、なぜかそれだけで少し疲れた。
「真壁さん」
「久忠でも構わんが」
「まずは真壁さんで」
「距離を置く名の呼び方だな」
「距離は大事です」
「悪くない。距離を失った交渉は、たいてい品を失う」
「今、良いことを言ったようで、私のことも刺しましたね」
「刺したつもりはない。置いただけだ」
何を置いたのか聞きたくなかった。
澪は、メモ帳の下に大きく書いた。
身元保証。
その文字は、見た目よりずっと重かった。
そこから数日、澪は走った。
相談に行き、申請を出し、届け出を出し、問い合わせた。足りない書類を確認し、押入商会の法人資料を出し、身元保証人として名前を書いた。説明して、また説明して、電話して、メールして、確認して、追加資料を出した。
現実の手続きは、魔物より静かで、ラージラットよりしつこかった。
澪は、途中で何度か自分が何をしているのか分からなくなった。番号札を握り、書類の束を抱え、同じ説明を別の窓口で繰り返しながら、異世界の魔物退治の方がまだ分かりやすいのではないかと思った。
真壁は、横で静かに座っていた。
怒らない。
騒がない。
ただ、説明を聞くたびに、制度の構造を理解していく。
「制度とは、戦わぬ相手をここまで疲弊させるのだな」
「今、戦っています。かなり戦っています」
「敵が見えぬ」
「窓口です」
「なるほど。強敵だ」
澪は笑えなかった。
別の日、電話を切った後、澪が机に突っ伏すと、真壁は資料を整えながら言った。
「敵は姿を見せず、紙だけを前線に送ってくる。なかなかの用兵だ」
「やめてください。書類が敵に見えてきます」
「見えていないのか」
「見えています」
「ならば、戦況認識は正しい」
慰められているのか、追い詰められているのか分からなかった。
それでも、澪は頑張った。
結果として、真壁久忠という名は、現代側で使える名前になった。戸籍、住民票、身分を示すもの、銀行口座、連絡手段、住む場所。細かい手順を思い出すと頭痛がするほどの諸々が、どうにか整った。
整ってしまった。
澪は、最後の確認書類を閉じて、椅子にもたれた。
「整えてしまった……」
真壁は、きれいに畳まれた書類の束を見た。
「借りができたな」
「押入商会で働いて返してください」
「取引としては分かりやすい」
「そこは、ありがとうございます、でよくないですか」
「恩と取引は分けた方が美しい」
「また美しさの話ですか」
「美しくない借りは、たいてい後で揉める」
澪は、妙に納得してしまった。
そしてまた疲れた。
澪の部屋の机に、押入商会の資料が広がった。
家具の写真、寸法、価格候補、問い合わせ、受注残、現代側販売の課題。どれも澪にとっては見慣れた紙だったが、真壁の前に置くと、試験に出しているような気分になった。
真壁は一枚ずつ見た。
品物そのものより先に、置き方、背景、光、説明文、余白に目が行っている。写真を動かし、紙を並べ替え、同じ家具でも撮り方で印象が変わることを、澪の前で静かに示していく。
「これは安く見える」
「えっ、値段は高いです」
「値ではない。見せ方だ。床に置いて撮っただけでは、品物が自分で値を下げている。背景、光、余白、説明。高く売る前に、安く見せないことだ」
澪は胸を押さえた。
「刺さります」
「刺してはいない。欠けた部分を指しただけだ」
「それを刺すと言います」
真壁は別の写真を手に取った。
「材は悪くない。加工も粗くない。だが、説明が平たい」
「平たい」
「材の由来、職人の手、寸法、用途、置かれる部屋。買う者が想像できるように整えるべきだ。これは品物ではなく、部屋の未来を売るものだろう」
澪は黙った。
この人は、やっぱり必要だ。
「押入商会、手伝いませんか」
真壁が、澪を見た。
「私は名も身元も、君に整えられたばかりだ」
「だからです。現代側で暮らせるようにします。その代わり、押入商会を手伝ってください。家具の見せ方、説明、交渉、顧客対応。私一人では限界です」
「取引としては、悪くない」
「そこも、ありがとうございます、でよくないですか」
「恩と取引は分けた方が美しい」
「真壁さん、たぶん日本で暮らすなら、もう少し柔らかく言った方がいいです」
「では、感謝している。だが、働きで返す」
「それでお願いします」
真壁は、押入商会の資料をもう一度見た。
「まず、写真だな」
「そこからですか」
「そこからだ。品を安く見せる写真は、値引き交渉を自分から招く。澪君、それでは相手に値切る理由を渡している」
「全部刺してくる……」
「置いているだけだ」
「置き方が粗いです」
真壁は少しだけ目を細めた。
「悪くない返しだ」
褒められたのか、採点されたのか分からなかった。
押入商会に関わるなら、実物を見せる必要がある。
澪はそう思った。
思ったが、押し入れの前に立つと、急に不安になった。
真壁は、押し入れの襖を見ている。
普通の襖だ。現代側の部屋にある、ただの押し入れ。けれど澪にとっては、もうただの収納ではない。異世界へつながる門であり、商売の入口であり、面倒ごとの源泉でもある。
「ここから、向こうへ行きます」
澪が襖を開けた。
真壁は、奥を見た。
「門だな」
「普通はそういう反応にならないんですが」
「境界としては分かりやすい。こちらと向こうを分ける戸だ。門にしては狭いが」
「通れるのは、たぶん私だけです」
「たぶん、か」
その言い方に、澪は嫌な予感がした。
「真壁さんは、ここで待っていてください」
「待てと言われれば待つが、見るだけで済む門ではあるまい」
「いや、だから」
澪は言い切る前に、いつものように押し入れをくぐった。
空気が変わる。
現代の部屋の乾いた空気から、異世界側の少し土と木の匂いが混じった空気へ。足元が変わり、光が変わる。澪は、いつものように異世界側に立った。
そして、背後で靴音がした。
「……え?」
振り返る。
真壁がいた。
異世界側の床に、普通に立っていた。
少しだけ目を細め、周囲を見ている。
「空気が違うな」
「なんで来られるんですか」
「私に聞かれても困る。君が門を開け、私は歩いた。それだけだ」
「それだけじゃないんです」
「では、門の方に聞くべきだな」
「門は答えません」
「ならば、記録するしかあるまい」
澪は頭を抱えた。
押し入れを通れるのは、自分だけのはずだった。
真壁は周囲を見る。驚いていないわけではない。ただ、驚き方が静かすぎる。足元、壁、空気、遠くから聞こえる工房の音、人の気配。全部を順番に確認している。
「澪君」
「はい」
「これは、君一人で抱えるには、少々大きすぎる門だ」
「今、それを言わないでください」
澪は、震える手で真壁を鑑定した。
----------------------------------
真壁久忠
分類:人間/異界漂着者
現在ジョブ:指揮官
レベル:12
状態:異世界通行確認/記憶欠損/身元整備済
疲労度:65%
体力:72
筋力:58
器用:74
知力:82
判断:90
精神:92
集中:80
既得スキル:交渉:7
既得スキル:指揮:6
既得スキル:礼法:6
既得スキル:美術眼:6
既得スキル:古物鑑定:5
既得スキル:軍略:5
既得スキル:威圧:4
既得スキル:書類読解:3
既得スキル:現代知識:2
既得スキル:異界適応:2
確認:押し入れ通行可能
注意:記憶欠損により一部技能の出力低下
注意:収納技能は未取得
注意:鑑定技能は未取得
----------------------------------
「確認、押し入れ通行可能……」
「今度は何を見た」
「通れたことが、正式に確認されました」
「歩いただけだが」
「こっちは人生が変わるんです」
真壁は、少しだけ押し入れの方を振り返った。
「門を一人で守る者は、いずれ門に使われる。君は、少し遅く気づいたのかもしれんな」
「やめてください。格好いいこと言わないでください。問題が大きく聞こえます」
「大きいのだろう」
「そうなんですけど」
澪は、また頭を抱えた。
現代側の人材不足を解決したかった。
その結果、押し入れを通れる記憶喪失の元大佐風異界漂着者を拾った。
解決したのか。
問題が増えたのか。
判定に困る。
現代側へ戻った後、澪は机に向かった。
真壁用のメモを作るためである。
真壁久忠。現代側身元整備済。押入商会協力者候補。現代知識学習。家具販売。古美術。高級品の見せ方。顧客対応。押し入れ通行可能。
書いているだけで、頭が痛くなった。
真壁は押し入れを見ていた。襖は少しだけ開いている。ただの押し入れのように見えて、もうただの押し入れではない。
「澪君」
「はい」
「この門は、君の商いだけのものでは済まなくなる」
「やめてください。今、それを考えると頭が痛いです」
「だが、目を逸らすには大きすぎる。門があり、品があり、人がいる。ならば、いずれ道になる」
澪はため息をついた。
押し入れを通れるのは自分だけではなかった。江古田で拾った記憶喪失の元大佐らしき男は、押し入れを通れた。しかも交渉ができる。美術眼がある。制度の怖さも理解している。現代側の押入商会には必要な人材でもある。
困った。
非常に困った。
だが、必要でもある。
澪は手帳を開いた。
「江古田で異世界人を拾った。名前は真壁久忠。押し入れを通れた。現代側協力者候補。手続きは頑張った」
その下に、小さく書く。
「神様、小説の読みすぎでは」
真壁が机の上の文字を見た。
「その神とやらは、読書家なのか」
澪は手帳を閉じた。
「たぶん、最近かなり」
「ならば、次は何を読むか、見張るべきだな」
「やめてください。今、一番怖いことを言いました」
押し入れの襖は、いつもより少しだけ重く見えた。
向こうへ行くための戸だったはずのものは、その日から、澪だけでなく、真壁久忠という名を得た男も通れる門になってしまったのである。