押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第74話 街に鳴る鐘

 

 押し入れの前に立つと、澪はいまだに少しだけ息を整えてしまう。

 

 もう何度も通っている。

 

 荷物も運んだ。水も運んだ。大豆も運んだ。家具も運んだ。向こう側の侯爵領で、事業所まで作ってしまった。

 

 それでも、襖の向こうがただの押し入れではないと分かっているせいで、現代側の畳の上に立ったまま、一瞬だけ足裏が頼りなくなる。

 

 しかも今日は、一人ではない。

 

 真壁久忠が、澪の少し後ろに立っていた。

 

 背筋は相変わらず真っ直ぐで、押し入れの襖を前にしても大げさに驚く様子はない。むしろ、通る前の戸、部屋の空気、澪の手元、襖の隙間を順番に見ている。

 

「今日は向こうの事業所へ行きます。押入商会侯爵領事業所と、家具工房と、そこで働いている人たちを紹介します」

 

 澪はそう言ってから、襖に手をかけた。

 

 真壁は、襖を見て静かに言った。

 

「門だな」

 

「もう通れるのは確認済みなので、驚きません」

 

 口ではそう言った。

 

 けれど、内心ではまったく納得していなかった。

 

 押し入れを通れるのは自分だけのはずだった。少なくとも、ずっとそう思っていた。なのに江古田で拾った記憶喪失の異界漂着者は、前回、何の苦労もなくついて来た。

 

 押し入れの方が、どうぞと言ったわけでもない。

 

 真壁が特別な儀式をしたわけでもない。

 

 澪が通ったら、真壁も歩いて通った。

 

 ただそれだけだった。

 

 ただそれだけで、澪の中の前提が一つ崩れている。

 

 真壁は、澪の横顔を見た。

 

「驚かぬことと、納得することは違う」

 

「そこを突かないでください」

 

「通れる門は使われる。使わぬ門は、いずれ誰かに開けられる」

 

「不吉なことを言わないでください」

 

「不吉ではない。門とはそういうものだ」

 

「ますます不吉です」

 

 澪は言い返しながら、襖を開けた。

 

 現代の部屋の空気が、押し入れの奥でふっと変わる。

 

 畳の匂いの向こうに、木と土と、少しだけ熱を含んだ夏の空気が混じる。澪は先に足を入れ、いつもの感覚で向こう側へ移った。

 

 床が変わる。

 

 光が変わる。

 

 音が変わる。

 

 振り返ると、真壁もすぐ後ろにいた。

 

 二度目だからか、前回より目が落ち着いている。真壁は一歩だけその場に止まり、足元、壁、空気、遠くの音を順番に確認した。

 

「やはり空気が違う。湿り、木の匂い、人の距離。こちらは音が近い」

 

「音が近い?」

 

「壁が薄い、道が近い、人が声で場所を確かめる。そういう音だ」

 

 澪は、思わず感心した。

 

 異世界へ来ても、真壁は驚くより先に観察する。

 

 普通なら、空の色や建物や服装に目を奪われるところなのに、真壁はまず音と人の距離を聞いている。

 

「真壁さん、本当に初めて来た場所でも、まずそこを見るんですね」

 

「知らぬ場所では、目より先に音が裏切らないことがある」

 

「格好いいことを言っていますけど、押し入れから出てきた直後ですからね」

 

「門をくぐった後ほど、足元を見るべきだ」

 

「また正論で返された」

 

 澪は小さく息を吐いて、事業所へ向かう道へ足を向けた。

 

 今日は紹介の日である。

 

 大きな問題を起こす予定はない。

 

 そう思いたかった。

 

 

 

 

 いつもなら、事業所へ向かう道には生活の音があった。

 

 荷車の軋む音。

 

 職人が誰かを呼ぶ声。

 

 買い物帰りの人の足音。

 

 子どもが走って怒られる声。

 

 どれも特別な音ではない。けれど、澪は何度もこの道を通っているうちに、それらを「いつもの音」として覚えていた。

 

 そのいつもの音が、今日は少し薄い。

 

 道そのものは同じだった。夏の午後の光が石畳に落ち、建物の影が道の端に濃く残っている。店先には桶があり、壁際には荷車が置かれ、遠くでは誰かが戸を閉める音がした。

 

 けれど、人の動きがどこか早い。

 

 道端で立ち話をしていた二人が、澪たちを見る前に会話を切り上げ、家の方へ戻っていく。いつもなら外で遊んでいる子どもの姿も少ない。鳥の声まで、少し遠い。

 

 澪が首を傾げるより早く、真壁が足を止めた。

 

「人の流れが薄いな」

 

「分かるんですか」

 

「街は音で息をする。今は少し浅い」

 

 澪は、その言い方に胸の奥が少し冷えた。

 

 街が息をする。

 

 そんな風に考えたことはなかった。

 

 けれど言われてみれば、確かにいつもの活気が薄い。人がいないわけではないのに、声が続かない。誰かが何かを避けるように、音が短く切れている。

 

「急いだ方がいいですか」

 

 澪が聞くと、真壁は道の奥を見た。

 

「今のところ、皆が逃げている音ではない。だが、いつもと同じではない」

 

「その言い方、嫌ですね」

 

「嫌なことほど、早めに嫌だと知る方がよい」

 

「本当に、言葉がいちいち刺さります」

 

「置いているだけだ」

 

「その置き方が粗いんです」

 

 真壁は少しだけ口元を動かした。

 

 澪は、冗談で気持ちを戻しながら歩いた。

 

 まだ事業所までは普通に行ける距離だ。人も完全に消えているわけではない。妙な静けさはあるが、今すぐ走るほどではない。

 

 そう判断して、二人が荷車の陰を通り過ぎようとした時だった。

 

 建物の影が、不自然に揺れた。

 

 何かが飛び出した。

 

 

 

 

 最初、澪はそれを小柄な人間だと思いかけた。

 

 だからこそ、身体が止まった。

 

 二本足だった。

 

 曲がった背。

 汚れた皮膚。

 粗末な棍棒。

 人に似た腕。

 人に似た顔の位置。

 けれど、人ではない目。

 

 ラージラットやビッグバスとは違う。

 

 獣や魚なら、怖くても生き物の延長として見られた。だが、目の前に飛び出したものは、人の形に近い。近いのに、人ではない。

 

 その差が、澪の喉を詰まらせた。

 

「ゴブリン……?」

 

 声がかすれた。

 

 ゴブリンは粗末な棍棒を握り、こちらを見ていた。口元から荒い息が漏れている。怒っているようにも見えるが、どこか怯えているようにも見える。

 

 真壁は動じなかった。

 

 彼はゴブリンの顔ではなく、足を見ていた。足の向き、膝の曲がり方、棍棒を持つ手の位置、こちらへ来る角度。その視線は冷たくも乱暴でもなく、ただ必要なものだけを拾っていた。

 

 澪は半歩下がりながら、必死に鑑定をかけた。

 

----------------------------------

ゴブリン

 分類:魔物/小型人型

 レベル:2

 状態:興奮/負傷軽微/逃走中

 体力:低

 筋力:低

 知力:低

 敵意:中

 脅威度:低

 注意:単独で街道近くに出現

 注意:通常の出現域から外れています

----------------------------------

 

 強くはない。

 

 その表示を見て、澪は一瞬だけ息を吸えた。

 

 だが、安心はすぐに引っ込んだ。

 

 逃走中。

 

 単独で街道近くに出現。

 

 通常の出現域から外れている。

 

 強い弱いの問題ではない。

 

 ここにいることがおかしい。

 

「強くはないです。でも、ここに出るのがおかしい」

 

 澪が言った瞬間、ゴブリンが棍棒を振り上げた。

 

 手が収納へ行きかける。

 

 雷を意識しかける。

 

 けれど、澪が動くより早く、真壁が一歩前に出た。

 

 

 

 

 真壁は剣も銃も持っていなかった。

 

 それでも、一歩前に出た時の動きに迷いがなかった。

 

 ゴブリンが飛びかかる。

 

 棍棒が上がる。

 

 その踏み込みが地面を蹴った瞬間、真壁のブーツがすっと前へ出た。

 

 派手な蹴りではない。

 

 大きく振りかぶるわけでもない。

 

 相手の勢いが乗る場所に、必要な角度で足が置かれたような動きだった。

 

 鈍い音がした。

 

 ブーツの前蹴りが、ゴブリンの腹に入った。

 

 ゴブリンは棍棒を振り下ろす前に、後ろへ転がった。背中から地面に落ち、息を詰まらせ、手足を丸めて動けなくなる。

 

 澪は固まった。

 

「え、今、蹴りました?」

 

 真壁は乱れた上着を直した。

 

「手を使うほどでもない」

 

「いや、そういう問題では」

 

「相手は軽く、踏み込みは粗い。武器を見る前に足を見るべき相手だ」

 

 澪は、倒れたゴブリンと真壁のブーツを交互に見た。

 

 本当に軍人だったのだ。

 

 鑑定の「指揮」や「軍略」だけでは、まだどこか遠いものに見えていた。けれど今の一歩と一蹴りは、知識ではなく身体に残った経験だった。

 

 澪は、もう一度ゴブリンを鑑定した。

 

----------------------------------

ゴブリン

 分類:魔物/小型人型

 レベル:2

 状態:昏倒

 脅威度:なし

 注意:群れから逸脱した可能性あり

----------------------------------

 

「群れから逸脱……」

 

 澪が呟くと、真壁は倒れたゴブリンではなく、その背後の道を見ていた。

 

「一匹で来たのではなく、一匹だけ逃げてきた顔だな」

 

「顔で分かるんですか」

 

「逃げる者は、後ろを気にする。こいつは、君たちより背後を恐れていた」

 

 澪は、ゴブリンが飛び出してきた建物の影を見た。

 

 そこにはもう何もいない。

 

 けれど、何もいないことが、かえって嫌だった。

 

 このまま道端に放置するわけにもいかない。だが、ここで時間を使うのも不安だった。

 

「事業所へ急ぎます。必要なら後で侯爵家か街の管理側へ伝えます」

 

「悪くない。ここで立ち止まるより、人と情報のある場所へ入るべきだ」

 

「蹴った人が冷静すぎる」

 

「蹴ったからこそ、冷静でいる」

 

 澪は返す言葉を見つけられず、足早に事業所へ向かった。

 

 背後に、倒れたゴブリンが小さくうめく声が残った。

 

 

 

 

 押入商会侯爵領事業所に着くと、そこだけはいつも通りに見えた。

 

 工房内の一角に置かれた机。

 

 記録箱。

 

 時計。

 

 注文票。

 

 検品札。

 

 壁際の棚。

 

 ミラは注文票を見て、日付と検品印の位置を確認していた。ピナは布包みの角を整え、小さな金具箱の蓋がずれていないか確かめている。トルは伝言札を持って工房側から戻り、机の前で少し得意そうに立っていた。マルテは記録帳を開き、顔を上げる前からペンを構えている。

 

 いつもの仕事の動きだった。

 

 澪は少しだけ安心した。

 

 だが、その安心の端に、さっきのゴブリンの鑑定表示が引っかかったままだった。

 

 マルテが真壁を見て、すぐ記録板を出した。

 

「新規来訪者ですか」

 

「はい。真壁久忠さんです。私の国の協力者です。押入商会の、向こう側で手伝ってもらう人です」

 

 真壁は軽く会釈した。

 

「真壁久忠だ。澪君には、制度上の命を拾われた」

 

「言い方」

 

 マルテは真顔で記録した。

 

「真壁久忠。澪の国の協力者。制度上の命を拾われた、本人談」

 

「そこは書かなくていいです」

 

「本人談は重要です」

 

「重要じゃない本人談もあります」

 

 トルが、真壁をじっと見ていた。

 

「蹴りが強い人ですか」

 

「もう聞いたの?」

 

「さっき、外の人が言ってました。ゴブリンが転がったって」

 

 澪は額に手を当てた。

 

 情報が速い。

 

 真壁は、少しだけ外の方を見た。

 

「情報は足より早いことがある。よい街だ」

 

 マルテがまた記録しようとする。

 

「今のは記録しなくていいです」

 

「いい言葉でしたが」

 

「いい言葉でも、全部記録すると仕事が増えます」

 

 マルテは少し迷ってから、ペンを下ろした。

 

 トルはまだ真壁の靴を見ていた。

 

「前蹴りですか」

 

「前へ蹴ったからな」

 

「そのままです」

 

「名前は、たいていそのままの方が役に立つ」

 

 トルは感心したような顔をした。

 

 澪は、このままではトルが前蹴りを覚えたがると直感した。

 

 その直感は、かなり当たる。

 

 

 

 

 澪は、道中でゴブリンに遭遇したことを事業所の全員へ話した。

 

 ミラの手が注文票の上で止まる。

 

「街の近くですか」

 

「はい。事業所へ来る途中の道です」

 

 ピナは、持っていた布包みをそっと机に置いた。

 

「人型の魔物……」

 

 声が小さかった。

 

 トルは、少しだけ目を輝かせた。

 

「見たかった」

 

 ミラとピナが同時にトルを見た。

 

 澪も見た。

 

「今日は外へ一人で出ません」

 

「まだ行ってません」

 

「行く前に言うのが大事です。それから、帰りは全員で一緒に町まで帰ります。伝言も、外へ出る用事も、必ずマルテさんに言ってから。勝手に見に行かないこと」

 

 トルは少し視線をそらした。

 

 マルテが記録板を持ち上げる。

 

「トル、見に行く気配あり。事前注意済み」

 

「まだ行ってません」

 

「行く前に記録するのが大事です」

 

 澪はうなずいた。

 

「今日はそういう日です」

 

 真壁が静かに言った。

 

「好奇心で足を出す者は、敵より先に地形に負ける」

 

 トルが首を傾げる。

 

「地形に負ける?」

 

「転ぶということだ」

 

 トルは黙った。

 

 ミラがすぐに紙を出し、外出者と帰路の記録欄を作り始めた。ピナは入口付近の布包みや木箱を片づけ、足元に引っかかりそうな紐を結び直す。トルは不満そうだったが、伝言待機の場所に立った。

 

 澪は三人の姿を見た。

 

 収納もある。

 雷もある。

 火も、水も、空気も、時間の感覚も、少しずつ育っている。

 

 けれど、今日は勝手に動かないことが大事だった。

 

 力があるから動くのではない。

 

 力があるから、動く時を選ぶ。

 

 澪はそう思いながら、倒れたゴブリンのことをマルテの記録に残してもらった。

 

「ゴブリンは強くありませんでした。でも、ここに出たことがおかしいです」

 

 真壁が短く付け足した。

 

「そして逃げていた」

 

 マルテのペン先が、一瞬止まった。

 

「逃げていた、ですか」

 

「追われる者の動きだった」

 

 その一言で、事業所の空気が少しだけ冷えた。

 

 

 

 

 澪は、真壁を押入家具工房へ案内した。

 

 工房の中では、親方たちがいつも通り木材と向き合っていた。鉋をかける音、金具を合わせる音、布で仕上げを拭く音。外の空気が少し不穏でも、工房の中には仕事の匂いがあった。

 

「真壁久忠さんです。私の国の協力者です。押入商会の、向こう側で家具の見せ方や説明を手伝ってもらう予定です」

 

 親方たちは、最初は真壁をじろりと見た。

 

 澪の国から来た妙な男。

 

 たぶん、第一印象はそれだった。

 

 服装が違う。立ち方が違う。言葉遣いが違う。真壁は丁寧だが、妙に距離があり、職人相手に媚びる様子がない。

 

 それでも、真壁が家具を見ると空気が変わった。

 

 真壁は、椅子の前で足を止めた。

 

 座面ではなく、まず背を見る。

 

 次に、光の当たり方を見る。

 

 そして、椅子が置かれている角度を見た。

 

「この椅子は悪くない。だが、置き方で背の線が死んでいる」

 

 親方の一人が眉を上げた。

 

「背の線?」

 

「座る前に、客は背を見る。背が美しく見えれば、座る前から半分売れている」

 

 親方たちの視線が椅子の背へ集まった。

 

 それまで作業台の横に置かれていた椅子が、少しだけ動かされる。光の角度が変わる。背の曲線が、確かにさっきよりはっきり見えた。

 

 親方の一人が、黙って別の板を二枚持ってきた。

 

 仕上げが違う。

 

 片方は光を強く返す。

 もう片方は、近づくほど奥行きが見える。

 

「こいつはどうだ」

 

 真壁は、板に手を置き、指を滑らせた。

 

「これは近くで強い。写真ではこちらが勝つ。だが実物なら、こちらの深みが残る」

 

 親方たちが唸った。

 

 澪は、真壁が自然に親方たちの言葉へ入っていくのを見て驚いた。

 

 現代側の人なのに、いや、正確には現代側の人でもないのだが、とにかく澪の国から来た人として紹介した真壁が、職人たちの前でまったく浮かない。むしろ、妙に噛み合っている。

 

 真壁は、椅子の背から手を離して言った。

 

「職人は品を作る。商人は品が見える場を作る。どちらが欠けても、客は値だけを見る」

 

 親方がにやりとした。

 

「言うじゃねえか」

 

「値だけ見られる売り方は、作り手に失礼だ」

 

 その言葉で、親方たちの空気が完全に変わった。

 

 職人は、自分の仕事を雑に扱われることを嫌う。

 

 真壁はそこを外さなかった。

 

 別の親方が、仕上げ前の脚材を持ってくる。さらに別の職人が、飾り金具を持ってくる。真壁は一つずつ見て、置き方、見せ方、写真にした時の強さ、実物で見た時の強さを言葉にしていく。

 

 澪は、少し離れた場所でその様子を見ていた。

 

 この人、やっぱり押入商会に必要だ。

 

 そう思った。

 

 同時に、外の空気がまた気になった。

 

 

 

 

 家具の話で工房内が盛り上がる一方、澪は入口の外に視線を向けていた。

 

 さっきより、人通りが少ない。

 

 遠くの声が硬い。

 

 誰かが工房の外を走っていく音がした。荷車の車輪が石に当たり、いつもより乱れた音を立てる。

 

 真壁も、それに気づいていた。

 

 親方に板の置き方を説明していた声が、ふっと止まる。

 

「街の息が変わったな」

 

 澪は振り返った。

 

「またそれですか」

 

「人が同じ方向を見始める時は、何かが来る」

 

 澪は、ゴブリンの鑑定表示を思い出した。

 

 単独で街道近く。

 

 通常の出現域から外れている。

 

 群れから逸脱。

 

 そして、逃走中。

 

 あれは、攻めてきたのではないのかもしれない。

 

 逃げてきた。

 

 何かから。

 

 澪は事業所側へ戻り、子どもたちの動きを確認した。

 

 ミラは外出者記録を作り、事業所内にいる人数を書き出していた。ピナは入口付近の布包みを棚側へ寄せ、持ち出す必要がある小さな箱をまとめている。トルは伝言札を握りしめて、今すぐ走れる顔をしていた。マルテは帰りの人数と町までの同行確認を、別紙に書き始めている。

 

「帰りは全員で一緒に町まで帰ります。途中で別行動しません」

 

 澪が言うと、トルが不満そうな顔をした。

 

 真壁がその顔を見て、低く言った。

 

「走る者ほど、待つ命令を覚えるべきだ。走るだけなら、石でも転がる」

 

「石……」

 

 トルが自分の足元を見た。

 

 ミラが小さく笑う。

 

「トル、石よりは考えています」

 

「それ、褒めてる?」

 

「たぶん」

 

 ピナが少しだけ笑って、すぐ入口へ視線を戻した。

 

 笑いはあった。

 

 いつもの事業所らしさも残っていた。

 

 けれど、その下に薄い緊張が張っている。

 

 澪はそれを感じながら、次の指示を出そうとした。

 

 その瞬間だった。

 

 

 

 

 鐘の音が鳴った。

 

 一つ。

 

 夏の空気を、硬い音がまっすぐ割った。

 

 全員が止まった。

 

 工房の鉋の音も止まる。

 

 親方たちが顔を上げる。

 

 ミラの手から紙が落ちかけた。ピナは布包みを抱えたまま固まる。トルは反射的に走り出しかけて、澪の視線で止まった。

 

 二つ目の鐘が鳴る。

 

 マルテの顔色が変わった。

 

 三つ目。

 

 今度は、遠くの通りから人の声が上がった。

 

「今の鐘は?」

 

 澪が聞くと、マルテは記録帳を閉じた。

 

「街中への警戒鐘です」

 

 真壁は外を見たまま言った。

 

「やはり、一匹ではなかったか」

 

 澪は、さっきのゴブリンを思い出した。

 

 棍棒を持っていた。

 

 敵意はあった。

 

 けれど、逃走中だった。

 

 背後を恐れていた。

 

 あれは、攻めてきたのではない。

 

 逃げてきた。

 

 鐘がさらに鳴った。

 

 澪は、押入商会侯爵領事業所の机の上を見た。

 

 注文票。

 

 時計。

 

 収納成長表。

 

 検品札。

 

 昨日までは仕事を進めるためのものだったそれが、今は守るべきものに見えた。

 

 鐘の音が、夏の空気をもう一度震わせた。

 

 真壁は外を見たまま、低く言った。

 

「澪君。どうやら、門の向こうは商いだけを運んでくれるわけではないらしい」

 

 澪は返事をしなかった。

 

 押入商会侯爵領事業所の机の上で、注文票の端だけが、鐘の余韻に小さく震えていた。

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