押し入れの前に立つと、澪はいまだに少しだけ息を整えてしまう。
もう何度も通っている。
荷物も運んだ。水も運んだ。大豆も運んだ。家具も運んだ。向こう側の侯爵領で、事業所まで作ってしまった。
それでも、襖の向こうがただの押し入れではないと分かっているせいで、現代側の畳の上に立ったまま、一瞬だけ足裏が頼りなくなる。
しかも今日は、一人ではない。
真壁久忠が、澪の少し後ろに立っていた。
背筋は相変わらず真っ直ぐで、押し入れの襖を前にしても大げさに驚く様子はない。むしろ、通る前の戸、部屋の空気、澪の手元、襖の隙間を順番に見ている。
「今日は向こうの事業所へ行きます。押入商会侯爵領事業所と、家具工房と、そこで働いている人たちを紹介します」
澪はそう言ってから、襖に手をかけた。
真壁は、襖を見て静かに言った。
「門だな」
「もう通れるのは確認済みなので、驚きません」
口ではそう言った。
けれど、内心ではまったく納得していなかった。
押し入れを通れるのは自分だけのはずだった。少なくとも、ずっとそう思っていた。なのに江古田で拾った記憶喪失の異界漂着者は、前回、何の苦労もなくついて来た。
押し入れの方が、どうぞと言ったわけでもない。
真壁が特別な儀式をしたわけでもない。
澪が通ったら、真壁も歩いて通った。
ただそれだけだった。
ただそれだけで、澪の中の前提が一つ崩れている。
真壁は、澪の横顔を見た。
「驚かぬことと、納得することは違う」
「そこを突かないでください」
「通れる門は使われる。使わぬ門は、いずれ誰かに開けられる」
「不吉なことを言わないでください」
「不吉ではない。門とはそういうものだ」
「ますます不吉です」
澪は言い返しながら、襖を開けた。
現代の部屋の空気が、押し入れの奥でふっと変わる。
畳の匂いの向こうに、木と土と、少しだけ熱を含んだ夏の空気が混じる。澪は先に足を入れ、いつもの感覚で向こう側へ移った。
床が変わる。
光が変わる。
音が変わる。
振り返ると、真壁もすぐ後ろにいた。
二度目だからか、前回より目が落ち着いている。真壁は一歩だけその場に止まり、足元、壁、空気、遠くの音を順番に確認した。
「やはり空気が違う。湿り、木の匂い、人の距離。こちらは音が近い」
「音が近い?」
「壁が薄い、道が近い、人が声で場所を確かめる。そういう音だ」
澪は、思わず感心した。
異世界へ来ても、真壁は驚くより先に観察する。
普通なら、空の色や建物や服装に目を奪われるところなのに、真壁はまず音と人の距離を聞いている。
「真壁さん、本当に初めて来た場所でも、まずそこを見るんですね」
「知らぬ場所では、目より先に音が裏切らないことがある」
「格好いいことを言っていますけど、押し入れから出てきた直後ですからね」
「門をくぐった後ほど、足元を見るべきだ」
「また正論で返された」
澪は小さく息を吐いて、事業所へ向かう道へ足を向けた。
今日は紹介の日である。
大きな問題を起こす予定はない。
そう思いたかった。
いつもなら、事業所へ向かう道には生活の音があった。
荷車の軋む音。
職人が誰かを呼ぶ声。
買い物帰りの人の足音。
子どもが走って怒られる声。
どれも特別な音ではない。けれど、澪は何度もこの道を通っているうちに、それらを「いつもの音」として覚えていた。
そのいつもの音が、今日は少し薄い。
道そのものは同じだった。夏の午後の光が石畳に落ち、建物の影が道の端に濃く残っている。店先には桶があり、壁際には荷車が置かれ、遠くでは誰かが戸を閉める音がした。
けれど、人の動きがどこか早い。
道端で立ち話をしていた二人が、澪たちを見る前に会話を切り上げ、家の方へ戻っていく。いつもなら外で遊んでいる子どもの姿も少ない。鳥の声まで、少し遠い。
澪が首を傾げるより早く、真壁が足を止めた。
「人の流れが薄いな」
「分かるんですか」
「街は音で息をする。今は少し浅い」
澪は、その言い方に胸の奥が少し冷えた。
街が息をする。
そんな風に考えたことはなかった。
けれど言われてみれば、確かにいつもの活気が薄い。人がいないわけではないのに、声が続かない。誰かが何かを避けるように、音が短く切れている。
「急いだ方がいいですか」
澪が聞くと、真壁は道の奥を見た。
「今のところ、皆が逃げている音ではない。だが、いつもと同じではない」
「その言い方、嫌ですね」
「嫌なことほど、早めに嫌だと知る方がよい」
「本当に、言葉がいちいち刺さります」
「置いているだけだ」
「その置き方が粗いんです」
真壁は少しだけ口元を動かした。
澪は、冗談で気持ちを戻しながら歩いた。
まだ事業所までは普通に行ける距離だ。人も完全に消えているわけではない。妙な静けさはあるが、今すぐ走るほどではない。
そう判断して、二人が荷車の陰を通り過ぎようとした時だった。
建物の影が、不自然に揺れた。
何かが飛び出した。
最初、澪はそれを小柄な人間だと思いかけた。
だからこそ、身体が止まった。
二本足だった。
曲がった背。
汚れた皮膚。
粗末な棍棒。
人に似た腕。
人に似た顔の位置。
けれど、人ではない目。
ラージラットやビッグバスとは違う。
獣や魚なら、怖くても生き物の延長として見られた。だが、目の前に飛び出したものは、人の形に近い。近いのに、人ではない。
その差が、澪の喉を詰まらせた。
「ゴブリン……?」
声がかすれた。
ゴブリンは粗末な棍棒を握り、こちらを見ていた。口元から荒い息が漏れている。怒っているようにも見えるが、どこか怯えているようにも見える。
真壁は動じなかった。
彼はゴブリンの顔ではなく、足を見ていた。足の向き、膝の曲がり方、棍棒を持つ手の位置、こちらへ来る角度。その視線は冷たくも乱暴でもなく、ただ必要なものだけを拾っていた。
澪は半歩下がりながら、必死に鑑定をかけた。
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ゴブリン
分類:魔物/小型人型
レベル:2
状態:興奮/負傷軽微/逃走中
体力:低
筋力:低
知力:低
敵意:中
脅威度:低
注意:単独で街道近くに出現
注意:通常の出現域から外れています
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強くはない。
その表示を見て、澪は一瞬だけ息を吸えた。
だが、安心はすぐに引っ込んだ。
逃走中。
単独で街道近くに出現。
通常の出現域から外れている。
強い弱いの問題ではない。
ここにいることがおかしい。
「強くはないです。でも、ここに出るのがおかしい」
澪が言った瞬間、ゴブリンが棍棒を振り上げた。
手が収納へ行きかける。
雷を意識しかける。
けれど、澪が動くより早く、真壁が一歩前に出た。
真壁は剣も銃も持っていなかった。
それでも、一歩前に出た時の動きに迷いがなかった。
ゴブリンが飛びかかる。
棍棒が上がる。
その踏み込みが地面を蹴った瞬間、真壁のブーツがすっと前へ出た。
派手な蹴りではない。
大きく振りかぶるわけでもない。
相手の勢いが乗る場所に、必要な角度で足が置かれたような動きだった。
鈍い音がした。
ブーツの前蹴りが、ゴブリンの腹に入った。
ゴブリンは棍棒を振り下ろす前に、後ろへ転がった。背中から地面に落ち、息を詰まらせ、手足を丸めて動けなくなる。
澪は固まった。
「え、今、蹴りました?」
真壁は乱れた上着を直した。
「手を使うほどでもない」
「いや、そういう問題では」
「相手は軽く、踏み込みは粗い。武器を見る前に足を見るべき相手だ」
澪は、倒れたゴブリンと真壁のブーツを交互に見た。
本当に軍人だったのだ。
鑑定の「指揮」や「軍略」だけでは、まだどこか遠いものに見えていた。けれど今の一歩と一蹴りは、知識ではなく身体に残った経験だった。
澪は、もう一度ゴブリンを鑑定した。
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ゴブリン
分類:魔物/小型人型
レベル:2
状態:昏倒
脅威度:なし
注意:群れから逸脱した可能性あり
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「群れから逸脱……」
澪が呟くと、真壁は倒れたゴブリンではなく、その背後の道を見ていた。
「一匹で来たのではなく、一匹だけ逃げてきた顔だな」
「顔で分かるんですか」
「逃げる者は、後ろを気にする。こいつは、君たちより背後を恐れていた」
澪は、ゴブリンが飛び出してきた建物の影を見た。
そこにはもう何もいない。
けれど、何もいないことが、かえって嫌だった。
このまま道端に放置するわけにもいかない。だが、ここで時間を使うのも不安だった。
「事業所へ急ぎます。必要なら後で侯爵家か街の管理側へ伝えます」
「悪くない。ここで立ち止まるより、人と情報のある場所へ入るべきだ」
「蹴った人が冷静すぎる」
「蹴ったからこそ、冷静でいる」
澪は返す言葉を見つけられず、足早に事業所へ向かった。
背後に、倒れたゴブリンが小さくうめく声が残った。
押入商会侯爵領事業所に着くと、そこだけはいつも通りに見えた。
工房内の一角に置かれた机。
記録箱。
時計。
注文票。
検品札。
壁際の棚。
ミラは注文票を見て、日付と検品印の位置を確認していた。ピナは布包みの角を整え、小さな金具箱の蓋がずれていないか確かめている。トルは伝言札を持って工房側から戻り、机の前で少し得意そうに立っていた。マルテは記録帳を開き、顔を上げる前からペンを構えている。
いつもの仕事の動きだった。
澪は少しだけ安心した。
だが、その安心の端に、さっきのゴブリンの鑑定表示が引っかかったままだった。
マルテが真壁を見て、すぐ記録板を出した。
「新規来訪者ですか」
「はい。真壁久忠さんです。私の国の協力者です。押入商会の、向こう側で手伝ってもらう人です」
真壁は軽く会釈した。
「真壁久忠だ。澪君には、制度上の命を拾われた」
「言い方」
マルテは真顔で記録した。
「真壁久忠。澪の国の協力者。制度上の命を拾われた、本人談」
「そこは書かなくていいです」
「本人談は重要です」
「重要じゃない本人談もあります」
トルが、真壁をじっと見ていた。
「蹴りが強い人ですか」
「もう聞いたの?」
「さっき、外の人が言ってました。ゴブリンが転がったって」
澪は額に手を当てた。
情報が速い。
真壁は、少しだけ外の方を見た。
「情報は足より早いことがある。よい街だ」
マルテがまた記録しようとする。
「今のは記録しなくていいです」
「いい言葉でしたが」
「いい言葉でも、全部記録すると仕事が増えます」
マルテは少し迷ってから、ペンを下ろした。
トルはまだ真壁の靴を見ていた。
「前蹴りですか」
「前へ蹴ったからな」
「そのままです」
「名前は、たいていそのままの方が役に立つ」
トルは感心したような顔をした。
澪は、このままではトルが前蹴りを覚えたがると直感した。
その直感は、かなり当たる。
澪は、道中でゴブリンに遭遇したことを事業所の全員へ話した。
ミラの手が注文票の上で止まる。
「街の近くですか」
「はい。事業所へ来る途中の道です」
ピナは、持っていた布包みをそっと机に置いた。
「人型の魔物……」
声が小さかった。
トルは、少しだけ目を輝かせた。
「見たかった」
ミラとピナが同時にトルを見た。
澪も見た。
「今日は外へ一人で出ません」
「まだ行ってません」
「行く前に言うのが大事です。それから、帰りは全員で一緒に町まで帰ります。伝言も、外へ出る用事も、必ずマルテさんに言ってから。勝手に見に行かないこと」
トルは少し視線をそらした。
マルテが記録板を持ち上げる。
「トル、見に行く気配あり。事前注意済み」
「まだ行ってません」
「行く前に記録するのが大事です」
澪はうなずいた。
「今日はそういう日です」
真壁が静かに言った。
「好奇心で足を出す者は、敵より先に地形に負ける」
トルが首を傾げる。
「地形に負ける?」
「転ぶということだ」
トルは黙った。
ミラがすぐに紙を出し、外出者と帰路の記録欄を作り始めた。ピナは入口付近の布包みや木箱を片づけ、足元に引っかかりそうな紐を結び直す。トルは不満そうだったが、伝言待機の場所に立った。
澪は三人の姿を見た。
収納もある。
雷もある。
火も、水も、空気も、時間の感覚も、少しずつ育っている。
けれど、今日は勝手に動かないことが大事だった。
力があるから動くのではない。
力があるから、動く時を選ぶ。
澪はそう思いながら、倒れたゴブリンのことをマルテの記録に残してもらった。
「ゴブリンは強くありませんでした。でも、ここに出たことがおかしいです」
真壁が短く付け足した。
「そして逃げていた」
マルテのペン先が、一瞬止まった。
「逃げていた、ですか」
「追われる者の動きだった」
その一言で、事業所の空気が少しだけ冷えた。
澪は、真壁を押入家具工房へ案内した。
工房の中では、親方たちがいつも通り木材と向き合っていた。鉋をかける音、金具を合わせる音、布で仕上げを拭く音。外の空気が少し不穏でも、工房の中には仕事の匂いがあった。
「真壁久忠さんです。私の国の協力者です。押入商会の、向こう側で家具の見せ方や説明を手伝ってもらう予定です」
親方たちは、最初は真壁をじろりと見た。
澪の国から来た妙な男。
たぶん、第一印象はそれだった。
服装が違う。立ち方が違う。言葉遣いが違う。真壁は丁寧だが、妙に距離があり、職人相手に媚びる様子がない。
それでも、真壁が家具を見ると空気が変わった。
真壁は、椅子の前で足を止めた。
座面ではなく、まず背を見る。
次に、光の当たり方を見る。
そして、椅子が置かれている角度を見た。
「この椅子は悪くない。だが、置き方で背の線が死んでいる」
親方の一人が眉を上げた。
「背の線?」
「座る前に、客は背を見る。背が美しく見えれば、座る前から半分売れている」
親方たちの視線が椅子の背へ集まった。
それまで作業台の横に置かれていた椅子が、少しだけ動かされる。光の角度が変わる。背の曲線が、確かにさっきよりはっきり見えた。
親方の一人が、黙って別の板を二枚持ってきた。
仕上げが違う。
片方は光を強く返す。
もう片方は、近づくほど奥行きが見える。
「こいつはどうだ」
真壁は、板に手を置き、指を滑らせた。
「これは近くで強い。写真ではこちらが勝つ。だが実物なら、こちらの深みが残る」
親方たちが唸った。
澪は、真壁が自然に親方たちの言葉へ入っていくのを見て驚いた。
現代側の人なのに、いや、正確には現代側の人でもないのだが、とにかく澪の国から来た人として紹介した真壁が、職人たちの前でまったく浮かない。むしろ、妙に噛み合っている。
真壁は、椅子の背から手を離して言った。
「職人は品を作る。商人は品が見える場を作る。どちらが欠けても、客は値だけを見る」
親方がにやりとした。
「言うじゃねえか」
「値だけ見られる売り方は、作り手に失礼だ」
その言葉で、親方たちの空気が完全に変わった。
職人は、自分の仕事を雑に扱われることを嫌う。
真壁はそこを外さなかった。
別の親方が、仕上げ前の脚材を持ってくる。さらに別の職人が、飾り金具を持ってくる。真壁は一つずつ見て、置き方、見せ方、写真にした時の強さ、実物で見た時の強さを言葉にしていく。
澪は、少し離れた場所でその様子を見ていた。
この人、やっぱり押入商会に必要だ。
そう思った。
同時に、外の空気がまた気になった。
家具の話で工房内が盛り上がる一方、澪は入口の外に視線を向けていた。
さっきより、人通りが少ない。
遠くの声が硬い。
誰かが工房の外を走っていく音がした。荷車の車輪が石に当たり、いつもより乱れた音を立てる。
真壁も、それに気づいていた。
親方に板の置き方を説明していた声が、ふっと止まる。
「街の息が変わったな」
澪は振り返った。
「またそれですか」
「人が同じ方向を見始める時は、何かが来る」
澪は、ゴブリンの鑑定表示を思い出した。
単独で街道近く。
通常の出現域から外れている。
群れから逸脱。
そして、逃走中。
あれは、攻めてきたのではないのかもしれない。
逃げてきた。
何かから。
澪は事業所側へ戻り、子どもたちの動きを確認した。
ミラは外出者記録を作り、事業所内にいる人数を書き出していた。ピナは入口付近の布包みを棚側へ寄せ、持ち出す必要がある小さな箱をまとめている。トルは伝言札を握りしめて、今すぐ走れる顔をしていた。マルテは帰りの人数と町までの同行確認を、別紙に書き始めている。
「帰りは全員で一緒に町まで帰ります。途中で別行動しません」
澪が言うと、トルが不満そうな顔をした。
真壁がその顔を見て、低く言った。
「走る者ほど、待つ命令を覚えるべきだ。走るだけなら、石でも転がる」
「石……」
トルが自分の足元を見た。
ミラが小さく笑う。
「トル、石よりは考えています」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
ピナが少しだけ笑って、すぐ入口へ視線を戻した。
笑いはあった。
いつもの事業所らしさも残っていた。
けれど、その下に薄い緊張が張っている。
澪はそれを感じながら、次の指示を出そうとした。
その瞬間だった。
鐘の音が鳴った。
一つ。
夏の空気を、硬い音がまっすぐ割った。
全員が止まった。
工房の鉋の音も止まる。
親方たちが顔を上げる。
ミラの手から紙が落ちかけた。ピナは布包みを抱えたまま固まる。トルは反射的に走り出しかけて、澪の視線で止まった。
二つ目の鐘が鳴る。
マルテの顔色が変わった。
三つ目。
今度は、遠くの通りから人の声が上がった。
「今の鐘は?」
澪が聞くと、マルテは記録帳を閉じた。
「街中への警戒鐘です」
真壁は外を見たまま言った。
「やはり、一匹ではなかったか」
澪は、さっきのゴブリンを思い出した。
棍棒を持っていた。
敵意はあった。
けれど、逃走中だった。
背後を恐れていた。
あれは、攻めてきたのではない。
逃げてきた。
鐘がさらに鳴った。
澪は、押入商会侯爵領事業所の机の上を見た。
注文票。
時計。
収納成長表。
検品札。
昨日までは仕事を進めるためのものだったそれが、今は守るべきものに見えた。
鐘の音が、夏の空気をもう一度震わせた。
真壁は外を見たまま、低く言った。
「澪君。どうやら、門の向こうは商いだけを運んでくれるわけではないらしい」
澪は返事をしなかった。
押入商会侯爵領事業所の机の上で、注文票の端だけが、鐘の余韻に小さく震えていた。