鐘の音は、まだ空気の中に残っていた。
押入商会侯爵領事業所の机の上で、注文票の端が震えている。さっきまでそこにあったのは、家具の寸法、検品札、持ち帰り予定、誰がどの包みを確認したかという、いつもの仕事の気配だった。
けれど今は違う。
鐘の音が一つ鳴るたび、工房の奥にいた職人が顔を上げ、外を歩いていた者が足を速め、子どもの声が戸口の内側へ吸い込まれていった。
澪は、まだ城壁の向こうを見たわけでもないのに、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
さっき道中で見たゴブリン。
一匹だけ。弱かった。真壁が前蹴り一発でのしてしまった。
けれど、あれはたぶん、ただの一匹ではなかった。
そう思った瞬間、外から馬の蹄の音が近づいた。
乾いた地面を打つ音が、工房の木壁に跳ね返る。近い。速い。迷いがない。
マルテが記録帳を閉じる手を止めた。ミラは注文票の束を抱えたまま、顔を上げた。ピナは布包みを押さえ、トルは入口へ走り出しかけて、真壁の視線に気づいて止まった。
事業所の前で馬が止まる。
侯爵家の紋章をつけた伝令が、息を切らして鞍から身を乗り出した。
「スタンピードの兆候あり。町外れに魔物群。侯爵家より通達。町中央へ集合、防御対応に入れ」
言葉が、机の上へ落ちた。
澪は一拍だけ反応が遅れた。
スタンピード。
知っている言葉だ。異世界小説で何度も見た。ゲームでも見た。けれど、自分の目の前の事業所で、侯爵家の伝令が馬で持ってくる言葉として聞くと、急に紙の上の単語ではなくなる。
ミラが最初に動いた。
「注文票と検品札、収納します」
小さな手が、紙束をすばやく揃える。紙の端をそろえ、分類を崩さないようにして、収納へ入れる。前より迷いが少ない。
ピナは布包みを二つに分けた。
「持っていく分と、置く分を分けます。小物はこっちです」
布の角を押さえ、金具箱を小さいものから順に重ねる。足元に落ちていた紐も拾った。
トルは入口へ半歩出ていた。
「町中央なら、走った方が」
そこで真壁と目が合った。
真壁は何も言わなかった。ただ、静かに見ていた。
トルは、もう半歩を戻した。
「……全員で、ですよね」
澪は頷いた。
「全員で町中央へ行きます。ばらばらに動きません。トル君も、先に走らない」
「まだ走ってません」
「走る前に言うのが大事です」
マルテが記録帳を脇に抱え、持ち出し札を一枚めくった。
「事業所、施錠確認。持ち出し、記録帳、外出者札、布包み二、検品札控え」
「今それを記録できるの、すごいですね」
「後で分からなくなる方が怖いです」
真壁は町の方を見たまま、低く言った。
「鐘が鳴った後は、道を間違えぬことだ」
その言葉に、澪は背筋を伸ばした。
事業所の扉を閉める時、鐘がまた鳴った。
夏の空気を、重い金属音が押していく。
町へ向かう道は、いつもの道なのに、いつもの顔をしていなかった。
石造りの壁の影が、少し濃く見える。木組みの家の戸口では、母親らしい女が子どもを中へ押し込み、男が水桶を抱えて走っていた。普段なら荷車がゆっくり通る道を、今は人が横切り、声がぶつかり、すぐ消える。
澪は早足で進みながら、真壁が横を歩いているのをちらりと見た。
真壁は焦っていなかった。
けれど、何も見ていないわけではない。
石壁の高さ。木組みの家の張り出し。路地の狭さ。城壁へ続く階段。門楼の上。逃げる人の向き。荷物を持つ者の手。空の荷車がどこへ押されていくか。
視線だけで、町を切り分けている。
「観光してます?」
澪が思わず聞くと、真壁は横目だけを寄越した。
「逃げ道を見ている」
観光よりずっと怖い返答だった。
トルが少し前に出た。
「僕、先に行って伝えますか」
「走る前に、止まる場所を決めろ」
真壁が言った。
トルは首をかしげる。
「止まる場所?」
「それがない伝令は、最後に倒れる」
トルの足が止まった。
ミラがすぐに紙を出した。
「町中央まで一緒に行って、そこから区間を決めます」
「区間……」
「走る場所と止まる場所です」
トルは不満そうにしたが、さっきよりは納得した顔で頷いた。
「じゃあ、止まるために走ります」
ピナが小声で言った。
「少し違うと思います」
澪は、こんな時でもトルはトルだと思った。だが、その明るさが少しだけありがたかった。
門楼が見えてきた。
町中央の広場には、人が集まり始めていた。
広場の空気は、まだ壊れてはいなかった。
泣き声もあった。怒鳴り声もあった。だが、人の流れはまだ保たれている。誰かが何かを運び、誰かがそれを受け取り、誰かが行き先を叫んでいる。
その中心近くで、リュシアがすでに動いていた。
髪を後ろでまとめ、袖を少し上げ、水桶を持つ男と、布束を抱えた女と、縄を担いだ少年に向かって指を振っている。
「水は飲む分と洗う分を分けて。そこ、同じ桶に入れない。布は汚していいものから出して。高い布を先に出すな。縄はまとめて。ほどけた縄は役に立たない」
澪は思わず息を吐いた。
リュシアがいる。
それだけで、広場の混乱が少しだけ仕事に見えてくる。
「リュシア!」
澪が呼ぶと、リュシアが振り返った。視線が澪を見て、真壁を見て、マルテたちを見て、最後に真壁で止まった。
「誰」
「真壁久忠さんです。私の国の協力者です」
リュシアは一瞬だけ目を細めたが、今はそこを掘らなかった。
「説明は後で聞く。今は人と物を分ける」
真壁は、わずかに口元を動かした。
「よい商人だ」
「でしょう」
澪が反射で返すと、リュシアが布束を指した。
「褒めるなら運んで」
「はい」
澪は素直に動いた。
ミラは広場の端に腰を落とし、紙を広げて人数を書き始める。ピナは布の種類を見て、包帯にしやすいものと、荷物を縛るものと、汚れていいものを分けた。トルは走りたそうに周囲を見ていたが、ミラが札を渡すまで動かなかった。
その少し先で、人々の声より高い、短い命令が響いた。
「女子供と老人は城壁上へ。男たちは門へ。荷を置け。動け」
エレナだった。
護衛を従え、町の中央で人々を見ている。小柄な体で、しかし声はよく通った。好奇心で走り出す時の顔ではない。侯爵家の者として、町を動かそうとしている顔だった。
澪は少し安心しかけた。
しかしその直後、人の流れが城壁へ続く階段と、門の前へ太く寄り始めた。
階段は狭い。老人が手すりを探し、子どもが不安そうに見上げ、荷物を持った女が前に進めずに止まる。門前では男たちが集まり始めたが、集まりすぎて、誰が前へ出るのかも、誰が下がるのかも分かりにくくなっている。
澪は、何かおかしいと思った。
けれど、どう言えばいいのか分からなかった。
真壁が低く言った。
「意図は正しい。だが、置き場所が悪い」
澪は横を見た。
「言った方がいいやつですか」
真壁の目は、城壁上の階段と門前を見ていた。
「今なら配置で済む。後なら死体で学ぶ」
その言葉で、澪の胃が冷えた。
澪はエレナへ駆け寄った。
護衛がすぐに一歩前へ出る。澪が真壁を連れているせいか、視線がいつもより鋭い。
「エレナ様」
「何だ」
エレナは振り返る。汗が額に浮いていたが、目は逸らさない。
「城壁上を避難場所にしすぎると危ないです。通路が詰まります。門前に男の人を集めすぎると、下がれなくなります」
エレナの眉が少し上がった。
「誰の見立てだ」
「私の国の協力者です。戦いの配置が分かる人です」
澪は真壁を見た。
真壁は一歩も前へ出ていなかった。エレナに命令する気配もない。ただ、城壁と人の流れを見たまま、静かに言った。
「城壁は逃げ場ではありません。見る者と撃つ者の場所です」
護衛の一人が城壁へ続く階段を見た。
すでに、年寄りと子どもと荷物で流れが詰まりかけている。門前では男たちが肩をぶつけ、槍を持つ者が後ろから押されている。
エレナは一瞬だけ唇を結んだ。
むっとしたのは分かった。
けれど、その顔はすぐに変わった。
「分かった。変える」
エレナは前へ出て、短く命じた。
「城壁上は見張り、弓、投石、合図役だけ。子どもと老人は内側の石造りの建物へ。男たちは門だけに集まるな。門内、予備、物資運びに分かれろ。動け」
護衛がすぐに同じ命令を叫んだ。
詰まりかけていた人の流れが割れる。子どもと老人は広場奥の石造りの建物へ誘導され、城壁階段へ向かうのは弓を持つ者、石籠を運ぶ者、旗を持つ者に限られた。
澪は息を吐いた。
エレナは澪を見た。
「後で聞く」
「はい」
「今は動け」
「はい」
真壁は、そのやり取りを黙って見ていた。
少しだけ、満足そうに。
広場は、急に一つの生き物のように動き始めた。
城壁上には、弓を持つ者が上がる。投石用の石籠が運ばれ、合図役が旗を持って門楼へ向かう。鐘のそばには、護衛が二人残った。
門内第一線には、盾を持つ者、槍を持つ者、体格のいい男たちが集まる。ただし、門に押し付けるようには詰めない。少し後ろに余白を残す。
門内第二線には、荷車と木箱と長い棒が並んだ。押し返すための場所。下がるための場所。負傷者を運び出すための道。
町中央では、リュシアが水桶と布束と縄を分けていた。
「それは飲む水。こっちは洗う水。砂は火のそば。油は離して。箱は積むなら低く。高く積んだ箱は敵より先に倒れる」
最後の言い方が少し真壁に似ていた。
ミラは膝の上に板を置き、数字を書いている。
「門内第一線、十二人。第二線、十七人。水桶、八。布束、十三。縄、六。荷車、四」
マルテが横で確認する。
「外出者、現在なし。事業所組、全員町中央。トル、待機」
「分かってます」
トルは不満そうに言ったが、足は動かしていない。ミラから渡された札を握っている。
ピナは水桶の位置を変えた。
「ここだと走る人の足に当たります。少し壁側へ」
布束も、包帯にしやすいものを上に、荷物を縛るものを下に置き直す。火元確認で鍛えられた目が、倒れそうな箱や、足を引っかけそうな縄を見逃さない。
澪は、その動きを見て、ほんの少しだけ胸が熱くなった。
水の授業、空気の授業、火の授業、時間の授業。
机の上でやっていたことが、今、広場の真ん中で仕事になっている。
真壁が、門の方を見た。
「来るな」
澪も顔を上げた。
城壁上の見張りが叫ぶ。
「来たぞ!」
門の外に土煙が上がった。
最初に見えたのは、小さな影だった。いくつも、いくつも。低く走り、棍棒を振り上げ、叫びながら門へ向かってくる。
ゴブリン。
昨日見た一匹とは違う。数がいる。叫びが重なり、土煙が上がり、門へ向かう道が小さな緑黒い影で埋まっていく。
城壁上から矢が飛んだ。
一匹が倒れる。
石が落ちる。
また一匹が潰れる。
それでも、後ろのゴブリンが前へ押してくる。倒れた仲間を踏み、逃げかけた個体の背中を別のゴブリンが押し、また門へ向かわせる。
澪は城壁上へ駆け上がった。胸壁の隙間から外を見る。喉が乾く。数がいる。それに、動きが変だ。
普通なら、怖がるはずだ。
倒されている。矢が飛んでくる。石が落ちる。なのに、退かない。
澪は息を整え、目を細めた。
「鑑定」
----------------------------------
魔物群
分類:魔物群/小型人型中心
状態:接近中/興奮
規模:中規模
先頭:ゴブリン多数
中段:ゴブリンリーダー複数
後方:大型統率個体あり
進路:町門方向
注意:先頭集団は後方から押されています
注意:通常の獣群より後退しにくい状態です
----------------------------------
「後方……?」
澪はさらに奥を見ようとした。
城壁上の見張りが石を落とし、弓兵が次の矢をつがえる。門内からは男たちの声が上がり、エレナの短い命令が何度も響いた。
けれど、澪の目は群れの後ろへ吸い寄せられていた。
先頭ではない。
もっと奥。
ゴブリンの群れの後方に、大きな影がいた。
他のゴブリンより頭一つどころではない。肩が厚く、腕が太く、粗末だが大きな棍棒を持っている。逃げようとしたゴブリンを、その棍棒で横から殴りつけ、前へ戻していた。
吠える。
それだけで、周囲のゴブリンが縮み上がり、また前へ走る。
澪は嫌な汗をかいた。
勇敢なのではない。
逃げられないのだ。
もう一度、鑑定した。
----------------------------------
ゴブリンキング
分類:魔物/大型人型/統率個体
レベル:18
状態:指揮中/興奮/前進命令
体力:高
筋力:高
知力:中
威圧:高
統率:高
脅威度:高
注意:周囲のゴブリンを強制的に前進させています
注意:統率個体を失うと群れが崩れる可能性あり
----------------------------------
「やっぱり、あれだ」
澪は唇を噛んだ。
ゴブリンキング。
名前がもう嫌だった。
だが鑑定表示は分かりやすい。あれを失えば群れが崩れる可能性がある。逆に言えば、あれがいる限り、先頭のゴブリンをいくら叩いても門への圧は止まらない。
澪は収納へ意識を向けた。
こんなこともあろうかと。
いや、こんなことは本当はない方がよかった。
本当に、心の底からない方がよかった。
けれど、澪の収納の奥には、使わない予定で眠っていたものがある。
過去の澪が、異世界小説を読みすぎ、魔物を警戒しすぎ、収納の可能性を試しすぎた結果、作ってしまった危ないものがある。
澪は小さく呟いた。
「だって異世界危険だもの」
その言い訳と一緒に、城壁上の石床へ重い影が現れた。
それは、巨大な弓ではなかった。
左右に太い木枠があり、その中にねじられた繊維束が収まっている。束の中心から腕木が伸び、先端を太い弦がつないでいた。中央には溝のある台座。城壁上に据えるための固定脚。木のしなりで撃つのではなく、ねじった束が戻ろうとする力で腕木を跳ね返す、扭力式の弩砲。
澪の収納製バリスタだった。
続けて、澪は大型ボルトを出した。
普通の矢ではない。木の軸は太く、前方に重心が寄っている。先端には、以前作ったタングステン鋼の矢じりが組み込まれていた。石床に置くと、鈍く重い音がした。
近くにいたミラが、完全に固まった。
「澪さん、これは何ですか」
「使わない予定だった防衛道具です」
ピナがバリスタと大型ボルトを交互に見た。
「使わない予定の大きさではありません」
「はい。私も今、そう思っています」
トルは目を輝かせた。
「撃てますか」
「一発だけです。勝手に触らない」
「まだ触ってません」
「触る前に言うのが大事です」
澪はすぐ鑑定した。
----------------------------------
収納製バリスタ
分類:大型弩砲/城壁上防衛具
方式:扭力式
素材:硬木/革/繊維束/金具/収納補強
状態:設置可能
張力:高
台座固定:要確認
用途:大型個体/統率個体への一撃
注意:連射不可
注意:固定不十分の場合、反動で破損します
----------------------------------
反動で破損。
その文字を見て、澪は血の気が引いた。
「ピナさん、足元と滑り止めを見てください。ミラさん、ボルトは一本だけ記録。トル君、射線上の人をどかす伝令。勝手に撃つ話ではありません」
「はい!」
トルが返事だけは一番早い。
ピナはすぐ膝をつき、固定脚の下に布を噛ませる位置を見た。
「ここ、石が少し欠けています。布を一枚入れます」
ミラは震える手で書いた。
「収納製バリスタ、一。大型ボルト、一。連射不可」
澪は大型ボルトも鑑定する。
----------------------------------
タングステン鋼矢じり付き大型ボルト
分類:弩砲用大型矢
素材:硬木/金具/タングステン鋼
状態:重心前寄り
貫通力:高
飛翔安定:要確認
用途:大型魔物/統率個体への打撃
注意:通常弓では使用不可
----------------------------------
「通常弓では使用不可って、見れば分かります」
澪は自分に向かって小さく突っ込んだ。
そして城壁下を見下ろし、叫んだ。
「真壁さーん!」
城壁下で配置を見ていた真壁が顔を上げた。
声の方向を見て、澪の横に置かれたものを見る。
一瞬で、表情が変わった。
驚きではない。
理解した顔だった。
真壁はすぐに石段へ向かった。
駆け上がる。
年齢も、服装も、現代側で身元を整えられたばかりの男であることも、その動きには関係なかった。足が石段を踏む音には迷いがなく、人の間を抜ける時も肩がぶつからない。
澪は思わず言った。
「真壁さん、速っ」
真壁は城壁上へ上がっても、息を乱していなかった。
まずバリスタを見る。
左右の木枠。ねじられた繊維束。腕木。溝付き台座。固定脚。
次に、大型ボルトを見る。
矢じりの色と重さを見て、目が細くなる。
「バリスタか。扭力式だな。矢じりはタングステン鋼。中世の城壁には、少々不似合いだ」
「作った時は、使わない予定だったんです」
「よく眠っていたな」
それだけだった。
責めない。
褒めもしない。
ただ、目の前にある兵器を兵器として認めた。
真壁はすぐ外を見る。
ゴブリンの群れの奥。棍棒を振り上げる大きな影。
短く言った。
「あれを落とす」
澪は頷いた。
今は、他に言葉はいらなかった。
城壁の上の空気が変わった。
バリスタの周りにいた者たちが自然に下がる。トルが走り、射線上にいた弓兵へ叫ぶ。
「そこ、空けてください! 一発だけ大きいのが飛びます!」
「大きいのって何だ!」
「大きいのです!」
説明としては雑だったが、効果はあった。
ミラが紙を握りしめる。
「射線、門正面から少し左。人、退避中」
ピナは固定脚の布をもう一度押さえ、足元を見た。
「ここ、滑りません」
澪は鑑定を切らなかった。
ゴブリンキングは後方で吠えている。逃げようとするゴブリンを殴り、前へ押し出す。周囲には護衛のような大きめのゴブリンが二体。
「門の正面より少し左。護衛みたいなのが二体。キングはその後ろです」
真壁はバリスタに手を置いたまま、外を見ていた。
ゴブリンキングではなく、ゴブリンキングの周囲を見ているようだった。
「まだだ」
澪の喉が鳴った。
門の下では、ゴブリンが押し寄せている。石が落ち、矢が飛び、門内第一線の男たちが声を張り上げている。エレナの命令が響き、護衛が繰り返し、リュシアが水桶を運ばせる声が混ざった。
その中で、真壁は待っていた。
ゴブリンキングが棍棒を振り上げる。
逃げた一匹を殴ろうとして、周囲のゴブリンが左右に割れる。
一瞬だけ、胸元が開いた。
「今だ」
真壁が発射した。
細かな動きは、澪の目では追えなかった。
ただ、革と木とねじられた束が、同時に鳴った。
重い音が城壁の上で弾け、タングステン鋼矢じり付きの大型ボルトが空気を裂いて飛んだ。
一発だけ。
ゴブリンキングの吠え声が、途中で切れた。
大型ボルトは、群れの頭上を抜け、護衛の間を割り、ゴブリンキングの胸元へ食い込んだ。
大きな棍棒が落ちる。
巨体が一歩、後ろへ揺れた。
もう一歩、踏ん張ろうとする。
だが踏ん張れない。
ゴブリンキングは、後方の土煙の中へ崩れた。
その瞬間、群れの前進が止まった。
本当に、一瞬だけだった。
けれど、その一瞬は大きかった。
前へ押されていたゴブリンが振り返る。後ろから来ていたゴブリンがぶつかる。逃げようとした個体が横へ流れ、棍棒を振っていたリーダーが味方を殴る。叫びが命令ではなく、混乱になっていく。
澪は震える息で鑑定した。
----------------------------------
ゴブリン群
分類:魔物群/小型人型
状態:統率崩壊/混乱
士気:低下
前進圧力:低下
注意:逃走個体が発生
注意:一部リーダー個体は継戦中
----------------------------------
「崩れました!」
真壁は門の外を見たまま言った。
「なら、今だ」
その短い言葉を、澪はエレナの方へ叫んだ。
「エレナ様! 群れが崩れています!」
エレナは城壁上を見上げ、すぐに門の方へ向き直った。
「押し返せ。門を開けるな。内側から押せ」
護衛が命令を繰り返す。
「門を開けるな! 内側から押せ!」
門内第一線が盾を押し、槍を突き出し、第二線の男たちが荷車を動かす。城壁上からは、石と矢がさらに落ちた。逃げるゴブリンの流れが、門の正面からずれていく。
真壁が低く言った。
「全部塞ぐな」
澪はすぐに意味を理解しきれなかったが、真壁の目は逃げ始めたゴブリンの流れを見ている。
「追い詰めすぎると、死ぬまで噛む。逃がす道を一つ残せ」
澪はエレナへ叫んだ。
「左側を残して、外へ流してください! 全部塞ぐと暴れます!」
エレナは一拍だけ見て、すぐ命じた。
「左を開けろ。町へ入れるな。外へ流せ」
トルが走った。
「左、開けろ! 町へ入れるな! 外へ流せ!」
今度の伝令は、止まる場所が決まっていた。門内第二線まで走り、そこで止まり、同じ言葉を繰り返す。戻る時も、荷車の横を抜け、ミラが決めた道を通った。
ミラは書き続ける。
「左側、逃走路。門内第一線、維持。第二線、荷車移動」
ピナは倒れかけた水桶を押さえ、負傷者用の布を取り出した。
「ここに座らせてください。足元、空けます」
リュシアは水を回しながら、商人たちへ叫んだ。
「水をこぼすな。こぼした水は戻らない。布はこっち。動ける者から運べ」
町が、押し返し始めた。
澪は城壁上で、ようやく息を吸った。
完全に安全になったわけではなかった。
けれど、門への圧力は明らかに下がっていた。ゴブリンの群れは統率を失い、外へ外へと流れ、リーダーらしき個体がいくつか残って怒鳴っているものの、先ほどまでの一つの波ではなくなっている。
城壁上の人々が、少しずつ声を取り戻した。
その時、澪の視界に、いつもの表示が浮かんだ。
戦いの余韻の中で見るには、妙に整いすぎた四角い表示。
澪は思わず額を押さえた。
「今、出るんですね……」
----------------------------------
篠原 澪
分類:人間/異界渡航者
現在ジョブ:商人
レベル:10 → 11
状態:防衛戦参加/疲労/困惑
疲労度:82%
既得スキル:鑑定:7 → 8
既得スキル:収納:8
既得スキル:錬金:4
既得スキル:雷:8
既得スキル:火:1
既得スキル:収納内時間停止:芽あり
成長:防衛用収納展開:1
成長:統率個体識別:1
注意:疲労度80%以上。作業精度低下
----------------------------------
「疲労度八十二……」
そこが一番現実的に怖かった。
次に、真壁を見た。
----------------------------------
真壁久忠
分類:人間/異界漂着者
現在ジョブ:指揮官
レベル:12 → 14
状態:異世界防衛戦参加/初実戦確認
疲労度:58%
体力:72 → 74
筋力:58 → 60
器用:74 → 76
知力:82 → 83
判断:90 → 93
精神:92 → 93
集中:80 → 84
既得スキル:交渉:7
既得スキル:指揮:6 → 7
既得スキル:軍略:5 → 6
既得スキル:体術:4
既得スキル:威圧:4 → 5
既得スキル:異界適応:2 → 3
成長:城壁防衛指揮:1
成長:大型弩砲運用:1
注意:収納技能は未取得
注意:鑑定技能は未取得
----------------------------------
澪が読み上げると、真壁は少しだけ眉を動かした。
「数字で戦功を数えるのか。分かりやすいが、少々露骨だな」
「そこですか」
「制度も戦も、数字にした途端に品が落ちることがある」
「でも上がってますよ」
「悪くない」
それが喜んでいる返事なのかどうか、澪には判断がつかなかった。
ミラ、ピナ、トルにも表示が出た。
----------------------------------
ミラ・セイル
分類:人間/商人
現在ジョブ:商人
レベル:5 → 6
既得スキル:鑑定:2
既得スキル:収納:2
既得スキル:雷:8
既得スキル:火:1
成長:戦時記録:1
成長:物資数量管理:1
成長:伝令先管理:1
注意:混乱時の記録維持に向きます
----------------------------------
ミラは表示を見て、小さく頷いた。
「記録、続けてよかったです」
----------------------------------
ピナ・ロッテ
分類:人間/商人
現在ジョブ:商人
レベル:5 → 6
既得スキル:鑑定:1
既得スキル:収納:3
既得スキル:雷:8
既得スキル:火:1
成長:緊急物資整理:1
成長:足元安全確認:1
成長:布材運用:1
注意:避難所、物資置き場、火元周辺の整理に向きます
----------------------------------
ピナはほっとしたように布束を見た。
「足元を片づけるのも、仕事になりました」
----------------------------------
トル・バッカ
分類:人間/商人
現在ジョブ:商人
レベル:5 → 6
既得スキル:鑑定:1
既得スキル:収納:2
既得スキル:雷:8
既得スキル:火:1
成長:区間伝令:1
成長:待機命令理解:1
注意:走る前に停止地点を決めると成功率が上がります
----------------------------------
トルは眉を寄せた。
「待機命令理解って、褒められてますか」
ミラが真面目に答える。
「前よりは褒められています」
ピナも頷いた。
「走らなかったのも成長です」
「走ってないのに」
マルテがすぐに記録した。
「トル、待機で成長」
「そこも書くんですか」
「重要です」
マルテにも表示が出た。
----------------------------------
マルテ・ロウ
分類:人間/事業所長候補
現在ジョブ:書記官見習い
レベル:4 → 5
既得スキル:記録:3 → 4
既得スキル:帳簿:2
成長:非常時記録:1
成長:人数配置管理:1
成長:戦時持ち出し確認:1
状態:収納技能は未取得
----------------------------------
マルテは表示を静かに見て、記録帳を抱え直した。
「私は収納ではありませんが、必要なら問題ありません」
リュシアは、少し離れたところで水桶の数を確認していた。澪が鑑定結果を伝えると、リュシアは短く笑った。
----------------------------------
リュシア
分類:人間/商人
現在ジョブ:商人
レベル:4 → 5
既得スキル:商才:4
既得スキル:交渉:3
既得スキル:仕入判断:3
既得スキル:帳簿:2
芽生え:鑑定:1
成長:緊急物資調達:1
成長:人員振り分け:1
注意:市場側の物資集約に向きます
----------------------------------
「物を集めて分けただけで伸びるなら、商人は戦場でも忙しいね」
「忙しかったです」
「見れば分かる」
最後に、エレナを鑑定した。
----------------------------------
エレナ・ヴァルディス
分類:人間/貴族
現在ジョブ:ロード見習い
レベル:5 → 6
成長:非常時命令:1
成長:助言採用判断:1
成長:防衛指揮補助:1
注意:命令修正の判断が評価されています
----------------------------------
エレナは表示の意味を聞き、少しだけ目を細めた。
「助言採用判断、か」
澪は頷いた。
「すごく大事だと思います」
「当然だ。間違っていたら直す」
その言い方があまりにもエレナらしくて、澪は少し笑いそうになった。
城壁の上には、まだバリスタが残っていた。
夏の光を浴びた木枠と、ねじられた束と、空になった溝付き台座。異世界の町には、少しだけ似合わない影だった。
けれど、その不似合いな影が、門を破ろうとした王を一撃で落とした。
澪は、バリスタの横で座り込みそうになり、慌てて胸壁に手をついた。疲労度八十二という表示は伊達ではない。足元がふわっとする。
真壁は、倒れたゴブリンキングの方を見ていた。
「一発で、本当に落としましたね」
澪が言うと、真壁は視線を外さずに答えた。
「君が見つけ、君が用意した」
「だって異世界危険だもの」
真壁は一瞬だけ澪を見た。
「今日に限れば、その理屈は通ったな」
そこへ、リュシアが上がってきた。
バリスタを見て、澪を見る。
「澪」
「はい」
「これは何」
「使わない予定だった防衛道具です」
「使ったね」
「はい」
リュシアは深く息を吐いた。
エレナも護衛とともに城壁上へ来た。小柄な体で、バリスタを見上げる。
「あとで説明しろ」
「はい」
澪は素直に答えた。
マルテが横で記録帳を開いた。
「収納製バリスタ、使用一回。ゴブリンキング撃破。説明要求あり」
「そこは書かなくても」
「重要です」
ミラが頷き、ピナも頷いた。トルだけが、まだバリスタの溝を見ていた。
「これ、一発だけなんですよね」
「一発だけです」
「もう撃たないんですか」
「撃ちません」
真壁が静かに言った。
「撃たずに済むなら、それが一番高い勝ちだ」
澪は、その言葉を聞いて、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
城壁の下では、町の人たちがまだ走っている。水が運ばれ、負傷者が座らされ、門の外へ流れたゴブリンを見張る者が配置されている。終わったわけではない。けれど、一波はしのいだ。
澪は、まだ震える手を握りしめた。
だって異世界は、本当に危険だった。
そして、その危険の中で、机の上で覚えた水も、空気も、火も、時間も、収納も、記録も、全部が少しずつ役に立っていた。
門上のバリスタは、夏の光の中で、静かに影を落としていた。