押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第75話 門上の一撃

 

 鐘の音は、まだ空気の中に残っていた。

 

 押入商会侯爵領事業所の机の上で、注文票の端が震えている。さっきまでそこにあったのは、家具の寸法、検品札、持ち帰り予定、誰がどの包みを確認したかという、いつもの仕事の気配だった。

 

 けれど今は違う。

 

 鐘の音が一つ鳴るたび、工房の奥にいた職人が顔を上げ、外を歩いていた者が足を速め、子どもの声が戸口の内側へ吸い込まれていった。

 

 澪は、まだ城壁の向こうを見たわけでもないのに、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。

 

 さっき道中で見たゴブリン。

 

 一匹だけ。弱かった。真壁が前蹴り一発でのしてしまった。

 

 けれど、あれはたぶん、ただの一匹ではなかった。

 

 そう思った瞬間、外から馬の蹄の音が近づいた。

 

 乾いた地面を打つ音が、工房の木壁に跳ね返る。近い。速い。迷いがない。

 

 マルテが記録帳を閉じる手を止めた。ミラは注文票の束を抱えたまま、顔を上げた。ピナは布包みを押さえ、トルは入口へ走り出しかけて、真壁の視線に気づいて止まった。

 

 事業所の前で馬が止まる。

 

 侯爵家の紋章をつけた伝令が、息を切らして鞍から身を乗り出した。

 

「スタンピードの兆候あり。町外れに魔物群。侯爵家より通達。町中央へ集合、防御対応に入れ」

 

 言葉が、机の上へ落ちた。

 

 澪は一拍だけ反応が遅れた。

 

 スタンピード。

 

 知っている言葉だ。異世界小説で何度も見た。ゲームでも見た。けれど、自分の目の前の事業所で、侯爵家の伝令が馬で持ってくる言葉として聞くと、急に紙の上の単語ではなくなる。

 

 ミラが最初に動いた。

 

「注文票と検品札、収納します」

 

 小さな手が、紙束をすばやく揃える。紙の端をそろえ、分類を崩さないようにして、収納へ入れる。前より迷いが少ない。

 

 ピナは布包みを二つに分けた。

 

「持っていく分と、置く分を分けます。小物はこっちです」

 

 布の角を押さえ、金具箱を小さいものから順に重ねる。足元に落ちていた紐も拾った。

 

 トルは入口へ半歩出ていた。

 

「町中央なら、走った方が」

 

 そこで真壁と目が合った。

 

 真壁は何も言わなかった。ただ、静かに見ていた。

 

 トルは、もう半歩を戻した。

 

「……全員で、ですよね」

 

 澪は頷いた。

 

「全員で町中央へ行きます。ばらばらに動きません。トル君も、先に走らない」

 

「まだ走ってません」

 

「走る前に言うのが大事です」

 

 マルテが記録帳を脇に抱え、持ち出し札を一枚めくった。

 

「事業所、施錠確認。持ち出し、記録帳、外出者札、布包み二、検品札控え」

 

「今それを記録できるの、すごいですね」

 

「後で分からなくなる方が怖いです」

 

 真壁は町の方を見たまま、低く言った。

 

「鐘が鳴った後は、道を間違えぬことだ」

 

 その言葉に、澪は背筋を伸ばした。

 

 事業所の扉を閉める時、鐘がまた鳴った。

 

 夏の空気を、重い金属音が押していく。

 

   

 

 

 町へ向かう道は、いつもの道なのに、いつもの顔をしていなかった。

 

 石造りの壁の影が、少し濃く見える。木組みの家の戸口では、母親らしい女が子どもを中へ押し込み、男が水桶を抱えて走っていた。普段なら荷車がゆっくり通る道を、今は人が横切り、声がぶつかり、すぐ消える。

 

 澪は早足で進みながら、真壁が横を歩いているのをちらりと見た。

 

 真壁は焦っていなかった。

 

 けれど、何も見ていないわけではない。

 

 石壁の高さ。木組みの家の張り出し。路地の狭さ。城壁へ続く階段。門楼の上。逃げる人の向き。荷物を持つ者の手。空の荷車がどこへ押されていくか。

 

 視線だけで、町を切り分けている。

 

「観光してます?」

 

 澪が思わず聞くと、真壁は横目だけを寄越した。

 

「逃げ道を見ている」

 

 観光よりずっと怖い返答だった。

 

 トルが少し前に出た。

 

「僕、先に行って伝えますか」

 

「走る前に、止まる場所を決めろ」

 

 真壁が言った。

 

 トルは首をかしげる。

 

「止まる場所?」

 

「それがない伝令は、最後に倒れる」

 

 トルの足が止まった。

 

 ミラがすぐに紙を出した。

 

「町中央まで一緒に行って、そこから区間を決めます」

 

「区間……」

 

「走る場所と止まる場所です」

 

 トルは不満そうにしたが、さっきよりは納得した顔で頷いた。

 

「じゃあ、止まるために走ります」

 

 ピナが小声で言った。

 

「少し違うと思います」

 

 澪は、こんな時でもトルはトルだと思った。だが、その明るさが少しだけありがたかった。

 

 門楼が見えてきた。

 

 町中央の広場には、人が集まり始めていた。

 

   

 

 

 広場の空気は、まだ壊れてはいなかった。

 

 泣き声もあった。怒鳴り声もあった。だが、人の流れはまだ保たれている。誰かが何かを運び、誰かがそれを受け取り、誰かが行き先を叫んでいる。

 

 その中心近くで、リュシアがすでに動いていた。

 

 髪を後ろでまとめ、袖を少し上げ、水桶を持つ男と、布束を抱えた女と、縄を担いだ少年に向かって指を振っている。

 

「水は飲む分と洗う分を分けて。そこ、同じ桶に入れない。布は汚していいものから出して。高い布を先に出すな。縄はまとめて。ほどけた縄は役に立たない」

 

 澪は思わず息を吐いた。

 

 リュシアがいる。

 

 それだけで、広場の混乱が少しだけ仕事に見えてくる。

 

「リュシア!」

 

 澪が呼ぶと、リュシアが振り返った。視線が澪を見て、真壁を見て、マルテたちを見て、最後に真壁で止まった。

 

「誰」

 

「真壁久忠さんです。私の国の協力者です」

 

 リュシアは一瞬だけ目を細めたが、今はそこを掘らなかった。

 

「説明は後で聞く。今は人と物を分ける」

 

 真壁は、わずかに口元を動かした。

 

「よい商人だ」

 

「でしょう」

 

 澪が反射で返すと、リュシアが布束を指した。

 

「褒めるなら運んで」

 

「はい」

 

 澪は素直に動いた。

 

 ミラは広場の端に腰を落とし、紙を広げて人数を書き始める。ピナは布の種類を見て、包帯にしやすいものと、荷物を縛るものと、汚れていいものを分けた。トルは走りたそうに周囲を見ていたが、ミラが札を渡すまで動かなかった。

 

 その少し先で、人々の声より高い、短い命令が響いた。

 

「女子供と老人は城壁上へ。男たちは門へ。荷を置け。動け」

 

 エレナだった。

 

 護衛を従え、町の中央で人々を見ている。小柄な体で、しかし声はよく通った。好奇心で走り出す時の顔ではない。侯爵家の者として、町を動かそうとしている顔だった。

 

 澪は少し安心しかけた。

 

 しかしその直後、人の流れが城壁へ続く階段と、門の前へ太く寄り始めた。

 

 階段は狭い。老人が手すりを探し、子どもが不安そうに見上げ、荷物を持った女が前に進めずに止まる。門前では男たちが集まり始めたが、集まりすぎて、誰が前へ出るのかも、誰が下がるのかも分かりにくくなっている。

 

 澪は、何かおかしいと思った。

 

 けれど、どう言えばいいのか分からなかった。

 

 真壁が低く言った。

 

「意図は正しい。だが、置き場所が悪い」

 

 澪は横を見た。

 

「言った方がいいやつですか」

 

 真壁の目は、城壁上の階段と門前を見ていた。

 

「今なら配置で済む。後なら死体で学ぶ」

 

 その言葉で、澪の胃が冷えた。

 

   

 

 

 澪はエレナへ駆け寄った。

 

 護衛がすぐに一歩前へ出る。澪が真壁を連れているせいか、視線がいつもより鋭い。

 

「エレナ様」

 

「何だ」

 

 エレナは振り返る。汗が額に浮いていたが、目は逸らさない。

 

「城壁上を避難場所にしすぎると危ないです。通路が詰まります。門前に男の人を集めすぎると、下がれなくなります」

 

 エレナの眉が少し上がった。

 

「誰の見立てだ」

 

「私の国の協力者です。戦いの配置が分かる人です」

 

 澪は真壁を見た。

 

 真壁は一歩も前へ出ていなかった。エレナに命令する気配もない。ただ、城壁と人の流れを見たまま、静かに言った。

 

「城壁は逃げ場ではありません。見る者と撃つ者の場所です」

 

 護衛の一人が城壁へ続く階段を見た。

 

 すでに、年寄りと子どもと荷物で流れが詰まりかけている。門前では男たちが肩をぶつけ、槍を持つ者が後ろから押されている。

 

 エレナは一瞬だけ唇を結んだ。

 

 むっとしたのは分かった。

 

 けれど、その顔はすぐに変わった。

 

「分かった。変える」

 

 エレナは前へ出て、短く命じた。

 

「城壁上は見張り、弓、投石、合図役だけ。子どもと老人は内側の石造りの建物へ。男たちは門だけに集まるな。門内、予備、物資運びに分かれろ。動け」

 

 護衛がすぐに同じ命令を叫んだ。

 

 詰まりかけていた人の流れが割れる。子どもと老人は広場奥の石造りの建物へ誘導され、城壁階段へ向かうのは弓を持つ者、石籠を運ぶ者、旗を持つ者に限られた。

 

 澪は息を吐いた。

 

 エレナは澪を見た。

 

「後で聞く」

 

「はい」

 

「今は動け」

 

「はい」

 

 真壁は、そのやり取りを黙って見ていた。

 

 少しだけ、満足そうに。

 

   

 

 

 広場は、急に一つの生き物のように動き始めた。

 

 城壁上には、弓を持つ者が上がる。投石用の石籠が運ばれ、合図役が旗を持って門楼へ向かう。鐘のそばには、護衛が二人残った。

 

 門内第一線には、盾を持つ者、槍を持つ者、体格のいい男たちが集まる。ただし、門に押し付けるようには詰めない。少し後ろに余白を残す。

 

 門内第二線には、荷車と木箱と長い棒が並んだ。押し返すための場所。下がるための場所。負傷者を運び出すための道。

 

 町中央では、リュシアが水桶と布束と縄を分けていた。

 

「それは飲む水。こっちは洗う水。砂は火のそば。油は離して。箱は積むなら低く。高く積んだ箱は敵より先に倒れる」

 

 最後の言い方が少し真壁に似ていた。

 

 ミラは膝の上に板を置き、数字を書いている。

 

「門内第一線、十二人。第二線、十七人。水桶、八。布束、十三。縄、六。荷車、四」

 

 マルテが横で確認する。

 

「外出者、現在なし。事業所組、全員町中央。トル、待機」

 

「分かってます」

 

 トルは不満そうに言ったが、足は動かしていない。ミラから渡された札を握っている。

 

 ピナは水桶の位置を変えた。

 

「ここだと走る人の足に当たります。少し壁側へ」

 

 布束も、包帯にしやすいものを上に、荷物を縛るものを下に置き直す。火元確認で鍛えられた目が、倒れそうな箱や、足を引っかけそうな縄を見逃さない。

 

 澪は、その動きを見て、ほんの少しだけ胸が熱くなった。

 

 水の授業、空気の授業、火の授業、時間の授業。

 

 机の上でやっていたことが、今、広場の真ん中で仕事になっている。

 

 真壁が、門の方を見た。

 

「来るな」

 

 澪も顔を上げた。

 

 城壁上の見張りが叫ぶ。

 

「来たぞ!」

 

   

 

 

 門の外に土煙が上がった。

 

 最初に見えたのは、小さな影だった。いくつも、いくつも。低く走り、棍棒を振り上げ、叫びながら門へ向かってくる。

 

 ゴブリン。

 

 昨日見た一匹とは違う。数がいる。叫びが重なり、土煙が上がり、門へ向かう道が小さな緑黒い影で埋まっていく。

 

 城壁上から矢が飛んだ。

 

 一匹が倒れる。

 

 石が落ちる。

 

 また一匹が潰れる。

 

 それでも、後ろのゴブリンが前へ押してくる。倒れた仲間を踏み、逃げかけた個体の背中を別のゴブリンが押し、また門へ向かわせる。

 

 澪は城壁上へ駆け上がった。胸壁の隙間から外を見る。喉が乾く。数がいる。それに、動きが変だ。

 

 普通なら、怖がるはずだ。

 

 倒されている。矢が飛んでくる。石が落ちる。なのに、退かない。

 

 澪は息を整え、目を細めた。

 

「鑑定」

 

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魔物群

 分類:魔物群/小型人型中心

 状態:接近中/興奮

 規模:中規模

 先頭:ゴブリン多数

 中段:ゴブリンリーダー複数

 後方:大型統率個体あり

 進路:町門方向

 注意:先頭集団は後方から押されています

 注意:通常の獣群より後退しにくい状態です

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「後方……?」

 

 澪はさらに奥を見ようとした。

 

 城壁上の見張りが石を落とし、弓兵が次の矢をつがえる。門内からは男たちの声が上がり、エレナの短い命令が何度も響いた。

 

 けれど、澪の目は群れの後ろへ吸い寄せられていた。

 

 先頭ではない。

 

 もっと奥。

 

   

 

 

 ゴブリンの群れの後方に、大きな影がいた。

 

 他のゴブリンより頭一つどころではない。肩が厚く、腕が太く、粗末だが大きな棍棒を持っている。逃げようとしたゴブリンを、その棍棒で横から殴りつけ、前へ戻していた。

 

 吠える。

 

 それだけで、周囲のゴブリンが縮み上がり、また前へ走る。

 

 澪は嫌な汗をかいた。

 

 勇敢なのではない。

 

 逃げられないのだ。

 

 もう一度、鑑定した。

 

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ゴブリンキング

 分類:魔物/大型人型/統率個体

 レベル:18

 状態:指揮中/興奮/前進命令

 体力:高

 筋力:高

 知力:中

 威圧:高

 統率:高

 脅威度:高

 注意:周囲のゴブリンを強制的に前進させています

 注意:統率個体を失うと群れが崩れる可能性あり

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「やっぱり、あれだ」

 

 澪は唇を噛んだ。

 

 ゴブリンキング。

 

 名前がもう嫌だった。

 

 だが鑑定表示は分かりやすい。あれを失えば群れが崩れる可能性がある。逆に言えば、あれがいる限り、先頭のゴブリンをいくら叩いても門への圧は止まらない。

 

 澪は収納へ意識を向けた。

 

 こんなこともあろうかと。

 

 いや、こんなことは本当はない方がよかった。

 

 本当に、心の底からない方がよかった。

 

 けれど、澪の収納の奥には、使わない予定で眠っていたものがある。

 

 過去の澪が、異世界小説を読みすぎ、魔物を警戒しすぎ、収納の可能性を試しすぎた結果、作ってしまった危ないものがある。

 

 澪は小さく呟いた。

 

「だって異世界危険だもの」

 

 その言い訳と一緒に、城壁上の石床へ重い影が現れた。

 

   

 

 

 それは、巨大な弓ではなかった。

 

 左右に太い木枠があり、その中にねじられた繊維束が収まっている。束の中心から腕木が伸び、先端を太い弦がつないでいた。中央には溝のある台座。城壁上に据えるための固定脚。木のしなりで撃つのではなく、ねじった束が戻ろうとする力で腕木を跳ね返す、扭力式の弩砲。

 

 澪の収納製バリスタだった。

 

 続けて、澪は大型ボルトを出した。

 

 普通の矢ではない。木の軸は太く、前方に重心が寄っている。先端には、以前作ったタングステン鋼の矢じりが組み込まれていた。石床に置くと、鈍く重い音がした。

 

 近くにいたミラが、完全に固まった。

 

「澪さん、これは何ですか」

 

「使わない予定だった防衛道具です」

 

 ピナがバリスタと大型ボルトを交互に見た。

 

「使わない予定の大きさではありません」

 

「はい。私も今、そう思っています」

 

 トルは目を輝かせた。

 

「撃てますか」

 

「一発だけです。勝手に触らない」

 

「まだ触ってません」

 

「触る前に言うのが大事です」

 

 澪はすぐ鑑定した。

 

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収納製バリスタ

 分類:大型弩砲/城壁上防衛具

 方式:扭力式

 素材:硬木/革/繊維束/金具/収納補強

 状態:設置可能

 張力:高

 台座固定:要確認

 用途:大型個体/統率個体への一撃

 注意:連射不可

 注意:固定不十分の場合、反動で破損します

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 反動で破損。

 

 その文字を見て、澪は血の気が引いた。

 

「ピナさん、足元と滑り止めを見てください。ミラさん、ボルトは一本だけ記録。トル君、射線上の人をどかす伝令。勝手に撃つ話ではありません」

 

「はい!」

 

 トルが返事だけは一番早い。

 

 ピナはすぐ膝をつき、固定脚の下に布を噛ませる位置を見た。

 

「ここ、石が少し欠けています。布を一枚入れます」

 

 ミラは震える手で書いた。

 

「収納製バリスタ、一。大型ボルト、一。連射不可」

 

 澪は大型ボルトも鑑定する。

 

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タングステン鋼矢じり付き大型ボルト

 分類:弩砲用大型矢

 素材:硬木/金具/タングステン鋼

 状態:重心前寄り

 貫通力:高

 飛翔安定:要確認

 用途:大型魔物/統率個体への打撃

 注意:通常弓では使用不可

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「通常弓では使用不可って、見れば分かります」

 

 澪は自分に向かって小さく突っ込んだ。

 

 そして城壁下を見下ろし、叫んだ。

 

「真壁さーん!」

 

   

 

 

 城壁下で配置を見ていた真壁が顔を上げた。

 

 声の方向を見て、澪の横に置かれたものを見る。

 

 一瞬で、表情が変わった。

 

 驚きではない。

 

 理解した顔だった。

 

 真壁はすぐに石段へ向かった。

 

 駆け上がる。

 

 年齢も、服装も、現代側で身元を整えられたばかりの男であることも、その動きには関係なかった。足が石段を踏む音には迷いがなく、人の間を抜ける時も肩がぶつからない。

 

 澪は思わず言った。

 

「真壁さん、速っ」

 

 真壁は城壁上へ上がっても、息を乱していなかった。

 

 まずバリスタを見る。

 

 左右の木枠。ねじられた繊維束。腕木。溝付き台座。固定脚。

 

 次に、大型ボルトを見る。

 

 矢じりの色と重さを見て、目が細くなる。

 

「バリスタか。扭力式だな。矢じりはタングステン鋼。中世の城壁には、少々不似合いだ」

 

「作った時は、使わない予定だったんです」

 

「よく眠っていたな」

 

 それだけだった。

 

 責めない。

 

 褒めもしない。

 

 ただ、目の前にある兵器を兵器として認めた。

 

 真壁はすぐ外を見る。

 

 ゴブリンの群れの奥。棍棒を振り上げる大きな影。

 

 短く言った。

 

「あれを落とす」

 

 澪は頷いた。

 

 今は、他に言葉はいらなかった。

 

   

 

 

 城壁の上の空気が変わった。

 

 バリスタの周りにいた者たちが自然に下がる。トルが走り、射線上にいた弓兵へ叫ぶ。

 

「そこ、空けてください! 一発だけ大きいのが飛びます!」

 

「大きいのって何だ!」

 

「大きいのです!」

 

 説明としては雑だったが、効果はあった。

 

 ミラが紙を握りしめる。

 

「射線、門正面から少し左。人、退避中」

 

 ピナは固定脚の布をもう一度押さえ、足元を見た。

 

「ここ、滑りません」

 

 澪は鑑定を切らなかった。

 

 ゴブリンキングは後方で吠えている。逃げようとするゴブリンを殴り、前へ押し出す。周囲には護衛のような大きめのゴブリンが二体。

 

「門の正面より少し左。護衛みたいなのが二体。キングはその後ろです」

 

 真壁はバリスタに手を置いたまま、外を見ていた。

 

 ゴブリンキングではなく、ゴブリンキングの周囲を見ているようだった。

 

「まだだ」

 

 澪の喉が鳴った。

 

 門の下では、ゴブリンが押し寄せている。石が落ち、矢が飛び、門内第一線の男たちが声を張り上げている。エレナの命令が響き、護衛が繰り返し、リュシアが水桶を運ばせる声が混ざった。

 

 その中で、真壁は待っていた。

 

 ゴブリンキングが棍棒を振り上げる。

 

 逃げた一匹を殴ろうとして、周囲のゴブリンが左右に割れる。

 

 一瞬だけ、胸元が開いた。

 

「今だ」

 

 真壁が発射した。

 

 細かな動きは、澪の目では追えなかった。

 

 ただ、革と木とねじられた束が、同時に鳴った。

 

 重い音が城壁の上で弾け、タングステン鋼矢じり付きの大型ボルトが空気を裂いて飛んだ。

 

 一発だけ。

 

   

 

 

 ゴブリンキングの吠え声が、途中で切れた。

 

 大型ボルトは、群れの頭上を抜け、護衛の間を割り、ゴブリンキングの胸元へ食い込んだ。

 

 大きな棍棒が落ちる。

 

 巨体が一歩、後ろへ揺れた。

 

 もう一歩、踏ん張ろうとする。

 

 だが踏ん張れない。

 

 ゴブリンキングは、後方の土煙の中へ崩れた。

 

 その瞬間、群れの前進が止まった。

 

 本当に、一瞬だけだった。

 

 けれど、その一瞬は大きかった。

 

 前へ押されていたゴブリンが振り返る。後ろから来ていたゴブリンがぶつかる。逃げようとした個体が横へ流れ、棍棒を振っていたリーダーが味方を殴る。叫びが命令ではなく、混乱になっていく。

 

 澪は震える息で鑑定した。

 

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ゴブリン群

 分類:魔物群/小型人型

 状態:統率崩壊/混乱

 士気:低下

 前進圧力:低下

 注意:逃走個体が発生

 注意:一部リーダー個体は継戦中

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「崩れました!」

 

 真壁は門の外を見たまま言った。

 

「なら、今だ」

 

 その短い言葉を、澪はエレナの方へ叫んだ。

 

「エレナ様! 群れが崩れています!」

 

 エレナは城壁上を見上げ、すぐに門の方へ向き直った。

 

「押し返せ。門を開けるな。内側から押せ」

 

 護衛が命令を繰り返す。

 

「門を開けるな! 内側から押せ!」

 

 門内第一線が盾を押し、槍を突き出し、第二線の男たちが荷車を動かす。城壁上からは、石と矢がさらに落ちた。逃げるゴブリンの流れが、門の正面からずれていく。

 

 真壁が低く言った。

 

「全部塞ぐな」

 

 澪はすぐに意味を理解しきれなかったが、真壁の目は逃げ始めたゴブリンの流れを見ている。

 

「追い詰めすぎると、死ぬまで噛む。逃がす道を一つ残せ」

 

 澪はエレナへ叫んだ。

 

「左側を残して、外へ流してください! 全部塞ぐと暴れます!」

 

 エレナは一拍だけ見て、すぐ命じた。

 

「左を開けろ。町へ入れるな。外へ流せ」

 

 トルが走った。

 

「左、開けろ! 町へ入れるな! 外へ流せ!」

 

 今度の伝令は、止まる場所が決まっていた。門内第二線まで走り、そこで止まり、同じ言葉を繰り返す。戻る時も、荷車の横を抜け、ミラが決めた道を通った。

 

 ミラは書き続ける。

 

「左側、逃走路。門内第一線、維持。第二線、荷車移動」

 

 ピナは倒れかけた水桶を押さえ、負傷者用の布を取り出した。

 

「ここに座らせてください。足元、空けます」

 

 リュシアは水を回しながら、商人たちへ叫んだ。

 

「水をこぼすな。こぼした水は戻らない。布はこっち。動ける者から運べ」

 

 町が、押し返し始めた。

 

 澪は城壁上で、ようやく息を吸った。

 

   

 

 

 完全に安全になったわけではなかった。

 

 けれど、門への圧力は明らかに下がっていた。ゴブリンの群れは統率を失い、外へ外へと流れ、リーダーらしき個体がいくつか残って怒鳴っているものの、先ほどまでの一つの波ではなくなっている。

 

 城壁上の人々が、少しずつ声を取り戻した。

 

 その時、澪の視界に、いつもの表示が浮かんだ。

 

 戦いの余韻の中で見るには、妙に整いすぎた四角い表示。

 

 澪は思わず額を押さえた。

 

「今、出るんですね……」

 

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篠原 澪

 分類:人間/異界渡航者

 現在ジョブ:商人

 レベル:10 → 11

 状態:防衛戦参加/疲労/困惑

 疲労度:82%

 既得スキル:鑑定:7 → 8

 既得スキル:収納:8

 既得スキル:錬金:4

 既得スキル:雷:8

 既得スキル:火:1

 既得スキル:収納内時間停止:芽あり

 成長:防衛用収納展開:1

 成長:統率個体識別:1

 注意:疲労度80%以上。作業精度低下

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「疲労度八十二……」

 

 そこが一番現実的に怖かった。

 

 次に、真壁を見た。

 

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真壁久忠

 分類:人間/異界漂着者

 現在ジョブ:指揮官

 レベル:12 → 14

 状態:異世界防衛戦参加/初実戦確認

 疲労度:58%

 体力:72 → 74

 筋力:58 → 60

 器用:74 → 76

 知力:82 → 83

 判断:90 → 93

 精神:92 → 93

 集中:80 → 84

 既得スキル:交渉:7

 既得スキル:指揮:6 → 7

 既得スキル:軍略:5 → 6

 既得スキル:体術:4

 既得スキル:威圧:4 → 5

 既得スキル:異界適応:2 → 3

 成長:城壁防衛指揮:1

 成長:大型弩砲運用:1

 注意:収納技能は未取得

 注意:鑑定技能は未取得

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 澪が読み上げると、真壁は少しだけ眉を動かした。

 

「数字で戦功を数えるのか。分かりやすいが、少々露骨だな」

 

「そこですか」

 

「制度も戦も、数字にした途端に品が落ちることがある」

 

「でも上がってますよ」

 

「悪くない」

 

 それが喜んでいる返事なのかどうか、澪には判断がつかなかった。

 

 ミラ、ピナ、トルにも表示が出た。

 

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ミラ・セイル

 分類:人間/商人

 現在ジョブ:商人

 レベル:5 → 6

 既得スキル:鑑定:2

 既得スキル:収納:2

 既得スキル:雷:8

 既得スキル:火:1

 成長:戦時記録:1

 成長:物資数量管理:1

 成長:伝令先管理:1

 注意:混乱時の記録維持に向きます

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 ミラは表示を見て、小さく頷いた。

 

「記録、続けてよかったです」

 

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ピナ・ロッテ

 分類:人間/商人

 現在ジョブ:商人

 レベル:5 → 6

 既得スキル:鑑定:1

 既得スキル:収納:3

 既得スキル:雷:8

 既得スキル:火:1

 成長:緊急物資整理:1

 成長:足元安全確認:1

 成長:布材運用:1

 注意:避難所、物資置き場、火元周辺の整理に向きます

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 ピナはほっとしたように布束を見た。

 

「足元を片づけるのも、仕事になりました」

 

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トル・バッカ

 分類:人間/商人

 現在ジョブ:商人

 レベル:5 → 6

 既得スキル:鑑定:1

 既得スキル:収納:2

 既得スキル:雷:8

 既得スキル:火:1

 成長:区間伝令:1

 成長:待機命令理解:1

 注意:走る前に停止地点を決めると成功率が上がります

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 トルは眉を寄せた。

 

「待機命令理解って、褒められてますか」

 

 ミラが真面目に答える。

 

「前よりは褒められています」

 

 ピナも頷いた。

 

「走らなかったのも成長です」

 

「走ってないのに」

 

 マルテがすぐに記録した。

 

「トル、待機で成長」

 

「そこも書くんですか」

 

「重要です」

 

 マルテにも表示が出た。

 

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マルテ・ロウ

 分類:人間/事業所長候補

 現在ジョブ:書記官見習い

 レベル:4 → 5

 既得スキル:記録:3 → 4

 既得スキル:帳簿:2

 成長:非常時記録:1

 成長:人数配置管理:1

 成長:戦時持ち出し確認:1

 状態:収納技能は未取得

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 マルテは表示を静かに見て、記録帳を抱え直した。

 

「私は収納ではありませんが、必要なら問題ありません」

 

 リュシアは、少し離れたところで水桶の数を確認していた。澪が鑑定結果を伝えると、リュシアは短く笑った。

 

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リュシア

 分類:人間/商人

 現在ジョブ:商人

 レベル:4 → 5

 既得スキル:商才:4

 既得スキル:交渉:3

 既得スキル:仕入判断:3

 既得スキル:帳簿:2

 芽生え:鑑定:1

 成長:緊急物資調達:1

 成長:人員振り分け:1

 注意:市場側の物資集約に向きます

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「物を集めて分けただけで伸びるなら、商人は戦場でも忙しいね」

 

「忙しかったです」

 

「見れば分かる」

 

 最後に、エレナを鑑定した。

 

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エレナ・ヴァルディス

 分類:人間/貴族

 現在ジョブ:ロード見習い

 レベル:5 → 6

 成長:非常時命令:1

 成長:助言採用判断:1

 成長:防衛指揮補助:1

 注意:命令修正の判断が評価されています

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 エレナは表示の意味を聞き、少しだけ目を細めた。

 

「助言採用判断、か」

 

 澪は頷いた。

 

「すごく大事だと思います」

 

「当然だ。間違っていたら直す」

 

 その言い方があまりにもエレナらしくて、澪は少し笑いそうになった。

 

   

 

 

 城壁の上には、まだバリスタが残っていた。

 

 夏の光を浴びた木枠と、ねじられた束と、空になった溝付き台座。異世界の町には、少しだけ似合わない影だった。

 

 けれど、その不似合いな影が、門を破ろうとした王を一撃で落とした。

 

 澪は、バリスタの横で座り込みそうになり、慌てて胸壁に手をついた。疲労度八十二という表示は伊達ではない。足元がふわっとする。

 

 真壁は、倒れたゴブリンキングの方を見ていた。

 

「一発で、本当に落としましたね」

 

 澪が言うと、真壁は視線を外さずに答えた。

 

「君が見つけ、君が用意した」

 

「だって異世界危険だもの」

 

 真壁は一瞬だけ澪を見た。

 

「今日に限れば、その理屈は通ったな」

 

 そこへ、リュシアが上がってきた。

 

 バリスタを見て、澪を見る。

 

「澪」

 

「はい」

 

「これは何」

 

「使わない予定だった防衛道具です」

 

「使ったね」

 

「はい」

 

 リュシアは深く息を吐いた。

 

 エレナも護衛とともに城壁上へ来た。小柄な体で、バリスタを見上げる。

 

「あとで説明しろ」

 

「はい」

 

 澪は素直に答えた。

 

 マルテが横で記録帳を開いた。

 

「収納製バリスタ、使用一回。ゴブリンキング撃破。説明要求あり」

 

「そこは書かなくても」

 

「重要です」

 

 ミラが頷き、ピナも頷いた。トルだけが、まだバリスタの溝を見ていた。

 

「これ、一発だけなんですよね」

 

「一発だけです」

 

「もう撃たないんですか」

 

「撃ちません」

 

 真壁が静かに言った。

 

「撃たずに済むなら、それが一番高い勝ちだ」

 

 澪は、その言葉を聞いて、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。

 

 城壁の下では、町の人たちがまだ走っている。水が運ばれ、負傷者が座らされ、門の外へ流れたゴブリンを見張る者が配置されている。終わったわけではない。けれど、一波はしのいだ。

 

 澪は、まだ震える手を握りしめた。

 

 だって異世界は、本当に危険だった。

 

 そして、その危険の中で、机の上で覚えた水も、空気も、火も、時間も、収納も、記録も、全部が少しずつ役に立っていた。

 

 門上のバリスタは、夏の光の中で、静かに影を落としていた。

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