戦いが終わった後の町は、勝った場所の顔をしていなかった。
門は守られた。ゴブリンの群れは崩れ、城壁の外へ散り、まだ遠くで見張りの声が上がっている。だが、門前には倒れた水桶が転がり、踏まれた布が泥を吸い、割れた木箱の板が夕暮れの光を細く反射していた。折れた槍の柄が石畳の端に寄せられ、石くずと土埃と、汗と血の匂いが夏の空気に混ざっている。
澪は城壁の階段を降りながら、足元が一段だけ遠く見えた。
疲労度八十二。
鑑定表示に出た数字が、妙に正確に身体へ貼りついている。足は動く。目も見える。けれど、頭の奥の芯がじんわり熱く、踏み出すたびに膝が少しだけ遅れる。
「澪さん」
トルが駆け寄りかけた。
だが、ピナの方が早かった。彼女は片手に水の入った小さな革袋を持ち、もう片方の手でトルの袖を引いた。
「走らない。階段の下で待つ」
「まだ走ってません」
「走る前の顔でした」
トルは口を尖らせたが、階段の下で止まった。止まったこと自体を少し誇らしそうにしているのが、今は少しおかしかった。
澪が最後の段を降りたところで、ピナが水を差し出す。
「飲んでください。顔色が薄いです」
「ありがとうございます」
水を飲むと、喉が自分で思っていたより乾いていたことが分かった。冷たくはない。それでも、水は身体の内側に落ちて、ようやく澪を現実へ戻した。
ミラが板を抱えて近づいてくる。手には鉛筆がある。
「澪さん、歩行ふらつきあり」
「それ、書かなくていいです」
澪が即座に言うと、横でマルテが記録帳を開いた。
「疲労度八十二は重要です」
「重要なのは分かりますけど、書かれると私が弱ったみたいで」
「弱っています」
「正論が速い」
マルテは淡々と記録を続けた。戦闘中よりも少し顔色は悪いが、手は止まらない。彼女が何を書いているのか怖くて、澪は見ないことにした。
少し離れた場所で、真壁久忠が門前を見ていた。
彼は倒れたゴブリンの方ではなく、倒れた水桶、折れた槍、崩れた荷車、人がどこを通り、どこで立ち止まり、どこにまだ怖さが残っているかを見ていた。戦った後の人間が、勝利ではなく後始末を見る目だった。
澪はその横顔を見て、ああ、この人は本当に軍人だったのだ、と思った。
名前は思い出せなくても、戦いの後に何を見るべきかを身体が知っている。
真壁は澪に気づくと、視線だけを向けた。
「立っていられるか」
「なんとか」
「なんとかで立つ者は、たいてい次に座る」
「今、それを言われると本当に座りそうなのでやめてください」
「なら、水を飲んでから歩くことだ」
真壁の言い方は優しくはない。けれど、妙に世話を焼いているのも分かる。澪はもう一口水を飲んでから、町中央の方へ目を向けた。
夕暮れの光の中で、人々がまだ動いていた。
広場の中央に、アルベルトが立っていた。
その横にエレナがいる。防衛の時と同じく護衛を従えているが、今は命令を飛ばすためではなく、町人たちの目を受け止めるために前へ出ていた。
アルベルトの声は、戦場の号令ほど高くない。けれど、よく通る。
「門は守られた。負傷者を先に運べ。家に戻る者は指示を待て。今夜は見張りを増やす。水と灯りは、町中央の指示に従え」
大声ではないのに、人が少しずつ彼の方を見る。さっきまで恐怖で動いていた人たちが、今度は指示を聞こうとしている。
澪は、その変化を見ていた。
戦いが終わった後に、誰かが「終わった」と言わなければ、人は終われないのだ。
エレナはアルベルトの横から、石造りの建物の前で固まっていた子どもたちの方へ歩いた。護衛が一歩遅れてつく。小さな子が泣いていた。母親らしい女が抱えているが、自分も震えている。
エレナはその前に立った。
「よく建物の中で待った」
短い言葉だった。
子どもは泣き止まなかった。だが、泣き声が少しだけ小さくなった。母親が、頭を下げる。エレナは頷き、次の老人に声をかける。
「歩けるか」
「はい、姫様」
「無理をするな。座れ」
エレナは、お転婆姫様の顔ではなかった。好奇心で屋台へ近づきたがる子どもでもなかった。侯爵家の者として、町の恐怖を少しずつ手で押さえている。
澪は、胸の奥が少し重くなった。
領主家の仕事というのは、戦うことだけではないのだ。終わった後に、人を安心させることも、同じくらい大事なのだ。
アルベルトが負傷者の列へ目を向ける。
「薬と布は足りるか」
その問いに、広場の反対側からリュシアの声が返った。
「布は足りる。水はもう少し欲しい。薬は澪とセルマの確認待ち」
セルマの名前を聞いた瞬間、澪はそちらへ顔を向けた。
リュシアは、すでに広場の一角を応急手当の場所に変えていた。
倒した木箱を台にし、汚れてもいい布を広げ、水桶を飲む用と洗う用に分けている。荷車の陰には休ませる場所が作られ、軽傷者と、立てない者が別の列に分けられていた。
そこへ、セルマが息を切らしてやって来た。
肩から薬袋を下げ、片手にポーションの入った瓶を数本抱えている。額に汗が浮いていたが、目は冷静だった。
「澪、見える?」
セルマは前置きをしなかった。
澪も頷いた。
「見ます」
リュシアがすぐ横へ場所を空ける。
「この人から。意識はある。血は少ないけど、腕を痛がってる」
澪は膝をつき、負傷した町人の腕を見た。土と汗で汚れている。擦り傷と打ち身。痛そうではあるが、骨の形は大きく崩れていない。
鑑定する。
----------------------------------
負傷者
分類:人間/町人
状態:打撲/擦過傷
出血:少量
骨折:なし
意識:あり
対応:洗浄/布固定/休息
注意:強いポーションは不要
----------------------------------
澪は表示を見て、息を吐いた。
「この人は、洗って布で押さえて休ませるだけでよさそうです。強いポーションは不要です」
セルマが瓶を持つ手を止めた。
「強いポーションを使えばいいわけではない、か」
「はい。使わなくて済む人には、使わない方がいいと思います」
リュシアが横で頷いた。
「高い薬を無駄にしないのも大事」
「そこですか」
「そこも大事だよ。必要な人に回らなくなる」
リュシアの言葉は現実的だった。優しいかどうかではなく、生き残るために必要な計算だ。
ピナが洗うための布を差し出した。
「この布、汚れてもいいものです」
ミラは負傷者の名前と状態を聞き、板に書き込む。
「打撲、擦過傷。強いポーション不要。洗浄、布固定、休息」
トルは水桶を持って来たが、途中で速度を落とした。こぼさなかった。自分でも少し誇らしそうだった。
「走ってません」
「水が減っていないのは偉いです」
ピナが真顔で褒めると、トルは複雑な顔をした。褒められているのに、走っていないことを褒められているのが納得いかないらしい。
マルテは別の板に、誰がどこへ運ばれたかを書いている。
「負傷者三名、洗浄待ち。二名、休息場所へ。重傷確認待ち一名」
澪は、次の負傷者へ向かった。
今度は足を痛めている男だった。顔色が悪い。息が少し荒い。
鑑定する。
----------------------------------
負傷者
分類:人間/町人
状態:足部負傷/強い痛み
出血:中
骨折:疑いあり
意識:あり
対応:固定/ポーション補助/搬送注意
注意:無理に歩かせない
----------------------------------
「この人は歩かせないでください。足を固定して、ポーションは補助で。強く動かさない方がいいです」
セルマがすぐに頷く。
「分かった。固定が先だね」
リュシアが布を受け取り、ピナに渡す。
「ピナ、細長い布」
「はい」
ピナは迷わず布束から適したものを引き出した。前より早い。収納と布材運用が、こういう場面で形になっている。
澪はふと思った。
これは、治療チートではない。
鑑定して、分けて、洗って、固定して、休ませる。ポーションも現代薬も、使うべき時に使うだけだ。けれど、それだけで混乱は少し減る。
セルマが、澪の鑑定表示を見ながら小さく言った。
「鑑定があると、薬の使い方が変わるね」
「見えすぎると、逆に怖いです」
「怖いくらいでちょうどいい。薬は効くものほど、雑に使うと怖い」
澪は、現代側から持って来た小さな薬箱に手を伸ばしかけ、止めた。鑑定で確認する。今使うべきか。使わない方がよいか。まず水か。まず休息か。
表示は万能ではない。
でも、判断の背中を押してくれる。
リュシアが薬袋と水桶と布束を見ながら言った。
「薬も布も水も、数がある。数があるものは、使う順番がある」
その言葉に、セルマが少し笑った。
「商人の薬の見方だね」
「薬も物だからね。人を助ける物は、なくなる順番を間違えたら困る」
澪は、二人のやり取りを聞きながら、次の負傷者を鑑定した。
夕暮れが少しずつ濃くなっていく。
真壁久忠は、逃げようとはしなかった。
だが、捕まった。
正確には、アルベルトとエレナの視線に捕まった。
澪が負傷者を鑑定している少し離れた場所で、アルベルトが真壁を呼んだ。エレナも一緒にいる。護衛たちは真壁への警戒を完全には解いていないが、敵意はもうない。
エレナが先に口を開いた。
「城壁で、あれを撃ったのは君か」
あれ、で通じるのが少し怖い。
真壁は軽く会釈した。
「撃っただけです。見つけたのは澪君で、道を空けたのはあなた方だ」
エレナは真壁をじっと見た。
功を奪わない言い方が気に入ったのか、少し口元が動いた。
「面白い」
アルベルトは、真壁を観察していた。戦いの前とは違う視線だ。単なる来訪者ではなく、町の防衛を動かした人物として見ている。
「配置の助言、そしてゴブリンキングの撃破。君の判断がなければ、門はもっと危なかった」
「私一人の手柄ではありません」
「それでも、君の見立ては大きかった」
アルベルトは少し間を置いた。
「侯爵家に仕える気はないか」
澪は、離れた場所で負傷者に布を渡しながら固まった。
耳だけが反応した。
え。
今、何を言いましたか。
真壁はすぐには答えなかった。
彼の視線が、澪へ向いた。
澪はリュシアとセルマの間で、負傷者を見て、鑑定して、現代薬の箱を開きかけて閉じ、また別の人に水を渡している。ピナが布を持ち、ミラが記録し、トルが水を運ぶ。マルテが配置を書き続ける。
真壁はそれを見てから、アルベルトへ向き直った。
「魅力的な申し出ですが、今それを受ければ、澪君が潰れる」
澪は思わず振り返った。
「言い方」
真壁は落ち着いていた。
「事実は、柔らかくしても重さを失わん」
「少しは柔らかくしてください」
エレナが澪と真壁を交互に見て、少し楽しそうにした。
「潰れるのか」
「潰れません」
澪は即答した。
真壁も即答した。
「潰れかけている」
「真壁さん」
アルベルトは笑わなかった。むしろ、真壁の言葉の奥を聞く顔になった。
「続けてくれ」
真壁は、夕暮れの広場を一度見渡した。
「澪君は、こちらへ品を運び、人をつなぎ、商いを起こし、今日のような危機には鑑定で負傷者まで見る。さらに、私のような身元不明の男の手続きまで抱えた」
「そこは言わなくても」
「事実だ」
澪は反論できなかった。
真壁はアルベルトへ視線を戻す。
「私を抱えるより、澪君を潰さぬ方が、この領には得でしょう」
言葉は丁寧だったが、かなり踏み込んでいた。
護衛の一人がわずかに動いた。だが、アルベルトは手で制した。
「君は、侯爵家ではなく押入商会側に立つ、ということか」
「はい。澪君の国側、押入商会の向こう側で力になります。それが結果として、この領の利益にもなるなら、多少の目こぼしは互いに必要でしょう」
「目こぼし、か」
エレナが真壁を見る。
「言い方が回りくどい」
「まっすぐ言うと角が立つこともあります」
「今ので立っていないのか」
澪は内心で、少し立っていると思った。
真壁は涼しい顔をしていた。
アルベルトは少し考えた。夕暮れの光が、彼の横顔を赤く照らしている。
「なるほど。君を直接抱えることが、かえって流れを詰まらせる可能性がある、ということだな」
「そう受け取っていただけるなら、話が早い」
真壁は軽く頭を下げた。
澪は、勝手に交渉が進んでいることに少しだけ怖くなった。
アルベルトの視線は、城壁の上へ向いた。
そこには、まだバリスタが残っている。
町には似合わない影。けれど門を守った影。
「あの城壁上の兵器は、侯爵家で扱えるものか」
澪の背筋が固まった。
来た。
来てしまった。
リュシアもセルマも、少し遠くでこちらを見ている。ミラの手が記録板の上で止まり、ピナが布を握り直した。
澪が口を開く前に、真壁が答えた。
「あれは門を守った。だが、門を壊す側にもなれる」
広場の空気が少し重くなった。
真壁は続ける。
「あれは単なる木工兵器ではありません。タングステン鋼の矢じり、澪君の収納、鑑定、そして事前準備があって成り立ったものです。扱いを誤れば、魔物ではなく人に向く」
アルベルトは黙って聞いていた。
エレナも、今度は口を挟まなかった。
「今日の一発は、この町を守るための例外です」
真壁の声は低く、静かだった。
「強すぎる道具は、敵より先に味方の欲を呼ぶことがあります。広げ方を間違えれば、国同士の力関係も変える」
澪は、真壁の言葉に助けられていると同時に、少し怖くなった。
自分は「だって異世界危険だもの」で用意した。
だが、真壁はそれが何を壊すかを見ている。
アルベルトはゆっくり頷いた。
「つまり、侯爵家が勝手に要求すべきものではない、ということか」
「そう受け取っていただけるなら、話が早い」
澪は、真壁が勝手に話を綺麗にまとめてくれて助かったと思った。
同時に、この人が味方で本当に良かったとも思った。
アルベルトは真壁をしばらく見てから、結論を出した。
「ならば、真壁殿は侯爵家の客分として遇する。だが、主は押入商会側に置く。それでよいか」
真壁は軽く頭を下げた。
「美しい落とし所です」
澪は首をかしげた。
「美しいんですか」
「無理をしない取引は、美しい」
エレナが短く言った。
「面白い人だな」
澪は、また面倒な関係が増えた、と思った。
ただし、必要な面倒だった。
押入家具工房は、大きな被害を受けていなかった。
職人たちは門前の防衛に出た者もいたが、工房そのものは守られた。木材の棚が少し乱れ、入口に置いてあった小箱がいくつか倒れていたが、親方たちの顔は無事だった。
親方の一人が、澪を見るなり腕を組んだ。
「嬢ちゃん、あの城壁の上の物騒なやつは何だ」
澪は目をそらした。
「使わない予定だった防衛道具です」
「使ったな」
「使いました」
別の親方が笑った。
「だって異世界危険だもの、か」
「先に言わないでください」
親方たちは呆れたように笑ったが、目の奥には安堵があった。町が守られたことへの感謝と、あんなものを用意していた澪への微妙な警戒が混ざっている。
その微妙さは、澪にもよく分かった。
ミラ、ピナ、トル、マルテも一緒に戻ってきていた。四人とも疲れているが、大きな怪我はない。
トルはまだ納得していない顔をしていた。
「走らなかったのに成長したの、まだ少し変です」
マルテが記録帳を閉じながら答えた。
「動かない判断も仕事です」
「でも、伝令は走るものです」
ピナが布を畳みながら言う。
「今日はそれで助かりました。勝手に走っていたら、どこにいるか分からなくなっていました」
ミラも頷く。
「勝手に走らなかったのは、かなり大きいです」
トルはさらに複雑な顔になった。
「褒められてる気がしません」
「褒めています」
「本当に?」
「前よりは」
「前より」
親方たちが笑った。
澪も少し笑った。
町はまだ落ち着かない。夜の見張りも必要だ。負傷者もいる。けれど、こういう会話が戻ってきたことが、少しだけ戦いの終わりを感じさせた。
夜になっても、押入商会侯爵領事業所の灯りは消えなかった。
外では見張りが増え、町の門にはいつもより多くの人が立っている。だが、事業所の机の上には、戦後の記録と、濡れた布と、使い終わった水の桶と、そして新しく書き出されたスキルポイントの紙が並んでいた。
澪は疲れていた。
正直、横になりたかった。
だが、ミラ、ピナ、トル、マルテ、リュシアが机を囲んでいる。セルマは薬の整理を終えて工房側へ戻っている。真壁は少し離れた椅子に腰かけ、黙って聞いていた。
澪は深呼吸した。
「今回、三人とも商人レベルが四まで上がっています。スキルポイントも三つあります」
ミラがすぐに紙へ書いた。
「商人レベル四。未使用スキルポイント三」
ピナは自分の手を見た。トルは少し期待した顔になった。
「使うと、何ができますか」
ミラが聞く。
「既に持っているスキルを伸ばすか、条件を満たしている新しいスキルを取れます。ただし、何でも取れるわけではありません。今のジョブ、今までの経験、本人が伸ばしたい方向が関係します」
トルが手を上げた。
「走るやつがいいです」
ミラが即答した。
「商人です」
「走る商人です」
マルテが記録した。
「トル、職業説明に問題あり」
「またですか」
「またです」
澪は疲れているのに笑ってしまいそうになった。
「走ることそのものではなく、商人として走るために必要なものを伸ばしましょう。伝言札を間違えないとか、持っていく物をすぐ出せるとか、どこへ走るか判断するとか」
トルは少し考えた。
「走る前のスキルですか」
真壁が静かに言った。
「走る前に勝負は半分決まる」
トルは真壁を見て、少しだけ納得した顔をした。
「じゃあ、半分走ったことになりますか」
「ならん」
「ならないですか」
ミラとピナが同時に首を振った。
澪はミラから順に鑑定していった。
----------------------------------
ミラ・セイル
現在ジョブ:商人
レベル:4
未使用SP:3 → 0
既得スキル:鑑定:2 → 3
既得スキル:収納:2 → 3
新規取得:商才:1
成長方向:記録精度/分類保持/物資把握
----------------------------------
表示を見たミラは、静かに目を輝かせた。
「記録の見落としが減る気がします」
「ミラさんは、数と札と流れを見るのが向いています。鑑定と収納を一緒に伸ばした方が、物資と記録を結びつけやすいと思います」
「はい」
ミラは紙を抱える手に力を入れた。
次にピナ。
----------------------------------
ピナ・ロッテ
現在ジョブ:商人
レベル:4
未使用SP:3 → 0
既得スキル:収納:3 → 4
既得スキル:鑑定:1 → 2
新規取得:商才:1
成長方向:保管状態維持/布材運用/小物管理
----------------------------------
ピナは小さな布包みを収納し、すぐに取り出した。
角が崩れていない。
「あ、前より中で動きません」
ピナが驚いたように言う。
「布や薬や小物を扱うなら、収納の安定性が大事です。ピナさんは、物を傷めない方向が強いと思います」
「はい。崩さず出せるのは、助かります」
最後にトル。
----------------------------------
トル・バッカ
現在ジョブ:商人
レベル:4
未使用SP:3 → 0
既得スキル:収納:2 → 3
既得スキル:鑑定:1 → 2
新規取得:商才:1
成長方向:即時取り出し/伝言札管理/伝達判断
----------------------------------
トルは表示をじっと見た。
「走るスキルじゃないです」
「走る前のスキルです」
「即時取り出しは、ちょっと速そうです」
「伝言札を間違えなければ、もっと速いです」
ミラが真面目に言った。
トルは、少しだけ誇らしそうに胸を張った。
「じゃあ、速い商人です」
マルテがまた記録した。
「トル、商人説明やや改善」
「やや」
リュシアは、腕を組んで自分の表示を見ていた。
彼女は戦闘で剣を振ったわけではない。だが、水を分け、布を集め、縄と箱と荷車を動かし、町中央の物資の流れを作った。その働きが、はっきり表示に出ていた。
----------------------------------
リュシア
現在ジョブ:商人
レベル:5
未使用SP:3 → 0
既得スキル:商才:4 → 5
既得スキル:鑑定:1 → 2
成長方向:物資価値判断/緊急調達/市場整理
----------------------------------
「鑑定が少し見えるだけでも、仕入れが変わるね」
リュシアは面白そうに言った。
澪は少し嫌な予感を覚えた。
「市場が変わりそうで怖いです」
「変わるよ」
「断言しないでください」
「変わるものは変わる」
澪は聞かなかったことにしたくなった。
次にマルテが、記録帳を膝の上へ置いた。
「私は収納ではありませんね」
「はい。マルテさんは書記官見習いです。商人ジョブではないので、収納や鑑定は今は取れません。でも、記録と帳簿を伸ばせます」
マルテは静かに頷いた。
「記録で伸びます」
----------------------------------
マルテ・ロウ
現在ジョブ:書記官見習い
レベル:5
未使用SP:3 → 0
既得スキル:記録:4 → 5
既得スキル:帳簿:2 → 3
成長:非常時記録整理:1
状態:収納技能は未取得
----------------------------------
トルが悪気なく聞いた。
「収納は」
ミラとピナが同時にトルを見た。
マルテは静かに記録帳を開いた。
「トル、職能発言注意」
「またですか」
「またです」
真壁が横で小さく笑った。
「記録される男は、成長が早い」
トルは目を丸くした。
「そうなんですか」
「たいてい、逃げ道がないからな」
「それ、いいことですか」
「場合による」
澪は、もう笑う体力も少ないのに、肩が震えそうになった。
スキルポイント相談は、疲れる。
だが、確かに前へ進んでいる。
机の上には、各自の成長を書いた紙が並んでいた。水と空気と火と時間を学んだ子どもたちが、今度は戦後の町で得た経験を、次の仕事へ変えようとしている。
澪は、そのことを少しだけ誇らしく思った。
夜が深くなり、事業所の灯りが一つ減った頃、真壁が澪に声をかけた。
「澪君」
「はい」
「この世界では、功績が数字で返ってくるのだな」
澪は、片づけかけていた紙を置いた。
「そうですね。正確には、ジョブとかスキルとかレベルとか、いろいろあります。私も全部分かっているわけではないですけど」
真壁は椅子に座ったまま、背もたれへ深く沈まない。疲れていないわけではないだろうに、姿勢が崩れない。
「説明してくれるか」
澪は、今日何度目か分からない説明を始めた。
ジョブがあること。
レベルがあること。
ジョブチェンジは司祭様のところで行うこと。
現在ジョブのレベルは一から始まるが、ステータスや既得スキルは下がらないこと。
スキルポイントで既得スキルを伸ばしたり、条件を満たしたスキルを取れたりすること。
商人ジョブでは、鑑定や収納が取れること。
ただし、ポイントだけで何でも取れるわけではないこと。
真壁は黙って聞いていた。
途中で茶化さない。質問も短い。
「職が、人を縛るのか」
「縛るというより、向きを決める感じです」
「職を変えれば、見える道も変わる」
「たぶん、そうです」
「司祭が、それを扱う」
「はい」
「興味深いな」
澪は少し身構えた。
真壁が「興味深い」と言う時は、たいてい次に何かを決めている。
「真壁さんは、指揮官っぽいですけど」
「それは過去の残り香だ」
「残り香」
「今の私は、君の商いの側にいる」
澪の背筋に、嫌な予感が走った。
真壁は、少しだけ口元を緩めた。
「商人が鑑定と収納を取れる、と言ったな」
「言いました」
「ならば、話は早い」
「何がですか」
真壁は答えなかった。
ただ、静かに笑った。
澪は、その笑いを見て、明日の朝が少し怖くなった。
翌朝、澪はまだ疲労を引きずっていた。
寝た。寝たはずだ。けれど、身体の奥に昨日の階段と城壁と鑑定表示が残っている。目を閉じると、ゴブリンキングの大きな影と、タングステン鋼矢じり付き大型ボルトが飛ぶ音が思い出される。
押入商会侯爵領事業所に入ると、ミラがもう机の上を整えていた。ピナは布包みを確認し、トルは伝言札を並べている。マルテは前日の記録を見直していた。
いつもの朝に戻ろうとしている。
その時、扉が開いた。
「おはよう、澪君」
真壁久忠が、何食わぬ顔で入ってきた。
昨日より、どこかすっきりしている。疲労が抜けたというより、何かを決めた人間の顔だった。
「おはようございます。……なんか、すっきりしてません?」
「司祭殿のところへ行ってきた」
澪は瞬きをした。
「え」
「私もこの世界では商人となろうと思ってな」
事業所の空気が止まった。
ミラの鉛筆が止まり、ピナが布包みを持ったまま固まり、トルが伝言札を落としかけた。マルテだけが、ゆっくり記録帳を開いた。
澪は、嫌な予感が当たったことを理解した。
「鑑定します」
「どうぞ」
真壁は実に落ち着いていた。
澪は鑑定した。
----------------------------------
真壁久忠
分類:人間/異界漂着者
現在ジョブ:商人
レベル:1
前職:指揮官 Lv14
前職影響:あり
状態:ジョブチェンジ直後/適応中
疲労度:42%
体力:74
筋力:60
器用:76
知力:83
判断:93
精神:93
集中:84
既得スキル:交渉:7
既得スキル:指揮:7
既得スキル:軍略:6
既得スキル:礼法:6
既得スキル:美術眼:6
既得スキル:古物鑑定:5
既得スキル:威圧:5
既得スキル:書類読解:3
既得スキル:現代知識:2
既得スキル:異界適応:3
既得スキル:商才:1
既得スキル:鑑定:1
既得スキル:収納:1
成長:商談設計:1
成長:価値説明:1
注意:収納は初期段階です
注意:鑑定は品物・人物の価値判断寄りに発現しています
----------------------------------
澪は表示を見て、しばらく黙った。
「商人になってる……しかも鑑定と収納、取ってる……」
真壁は少しも悪びれなかった。
「商人が取れると聞いた」
「聞いたからって、翌朝取ってこないでください」
「必要な道具を後回しにする理由がない」
リュシアがちょうど入ってきて、その言葉を聞いた。
「嫌いじゃないね、その判断」
「リュシアさんまで」
トルが目を輝かせた。
「真壁さんも収納できますか」
「初歩だ。まだ懐より狭い」
ミラが真面目に言った。
「懐は収納ではありません」
真壁は満足そうに頷いた。
「よい指摘だ」
澪は頭を抱えた。
現在ジョブ、商人。
レベル、一。
前職、指揮官レベル十四。
鑑定、収納、商才、取得済み。
押入商会の現代側人材問題は、確かに一歩前へ進んだ。
進んだのだ。
ただし、その一歩はかなり癖の強い革靴の音を立てていた。
真壁久忠は、たった一晩で、この世界では商人になると決めてきた。指揮官だった男は、商人レベル一から始めるらしい。ただし、その背中には前職十四レベル分の影が、まったく隠れる気配もなく残っていた。
澪は鑑定表示を閉じ、朝からもう一度だけ頭を抱えた。
押入商会に、また一人、濃い人材が正式加入したのである。
真壁さんですがモデルがいます。
神さまが現代で困った澪ちゃんを見かねて用意しました。
でも主人公の座を奪いかねないのが心配になって来ています。