押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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今日の最後の投稿っすね


第76話 夕暮れの客分

 

 戦いが終わった後の町は、勝った場所の顔をしていなかった。

 

 門は守られた。ゴブリンの群れは崩れ、城壁の外へ散り、まだ遠くで見張りの声が上がっている。だが、門前には倒れた水桶が転がり、踏まれた布が泥を吸い、割れた木箱の板が夕暮れの光を細く反射していた。折れた槍の柄が石畳の端に寄せられ、石くずと土埃と、汗と血の匂いが夏の空気に混ざっている。

 

 澪は城壁の階段を降りながら、足元が一段だけ遠く見えた。

 

 疲労度八十二。

 

 鑑定表示に出た数字が、妙に正確に身体へ貼りついている。足は動く。目も見える。けれど、頭の奥の芯がじんわり熱く、踏み出すたびに膝が少しだけ遅れる。

 

「澪さん」

 

 トルが駆け寄りかけた。

 

 だが、ピナの方が早かった。彼女は片手に水の入った小さな革袋を持ち、もう片方の手でトルの袖を引いた。

 

「走らない。階段の下で待つ」

 

「まだ走ってません」

 

「走る前の顔でした」

 

 トルは口を尖らせたが、階段の下で止まった。止まったこと自体を少し誇らしそうにしているのが、今は少しおかしかった。

 

 澪が最後の段を降りたところで、ピナが水を差し出す。

 

「飲んでください。顔色が薄いです」

 

「ありがとうございます」

 

 水を飲むと、喉が自分で思っていたより乾いていたことが分かった。冷たくはない。それでも、水は身体の内側に落ちて、ようやく澪を現実へ戻した。

 

 ミラが板を抱えて近づいてくる。手には鉛筆がある。

 

「澪さん、歩行ふらつきあり」

 

「それ、書かなくていいです」

 

 澪が即座に言うと、横でマルテが記録帳を開いた。

 

「疲労度八十二は重要です」

 

「重要なのは分かりますけど、書かれると私が弱ったみたいで」

 

「弱っています」

 

「正論が速い」

 

 マルテは淡々と記録を続けた。戦闘中よりも少し顔色は悪いが、手は止まらない。彼女が何を書いているのか怖くて、澪は見ないことにした。

 

 少し離れた場所で、真壁久忠が門前を見ていた。

 

 彼は倒れたゴブリンの方ではなく、倒れた水桶、折れた槍、崩れた荷車、人がどこを通り、どこで立ち止まり、どこにまだ怖さが残っているかを見ていた。戦った後の人間が、勝利ではなく後始末を見る目だった。

 

 澪はその横顔を見て、ああ、この人は本当に軍人だったのだ、と思った。

 

 名前は思い出せなくても、戦いの後に何を見るべきかを身体が知っている。

 

 真壁は澪に気づくと、視線だけを向けた。

 

「立っていられるか」

 

「なんとか」

 

「なんとかで立つ者は、たいてい次に座る」

 

「今、それを言われると本当に座りそうなのでやめてください」

 

「なら、水を飲んでから歩くことだ」

 

 真壁の言い方は優しくはない。けれど、妙に世話を焼いているのも分かる。澪はもう一口水を飲んでから、町中央の方へ目を向けた。

 

 夕暮れの光の中で、人々がまだ動いていた。

 

   

 

 

 広場の中央に、アルベルトが立っていた。

 

 その横にエレナがいる。防衛の時と同じく護衛を従えているが、今は命令を飛ばすためではなく、町人たちの目を受け止めるために前へ出ていた。

 

 アルベルトの声は、戦場の号令ほど高くない。けれど、よく通る。

 

「門は守られた。負傷者を先に運べ。家に戻る者は指示を待て。今夜は見張りを増やす。水と灯りは、町中央の指示に従え」

 

 大声ではないのに、人が少しずつ彼の方を見る。さっきまで恐怖で動いていた人たちが、今度は指示を聞こうとしている。

 

 澪は、その変化を見ていた。

 

 戦いが終わった後に、誰かが「終わった」と言わなければ、人は終われないのだ。

 

 エレナはアルベルトの横から、石造りの建物の前で固まっていた子どもたちの方へ歩いた。護衛が一歩遅れてつく。小さな子が泣いていた。母親らしい女が抱えているが、自分も震えている。

 

 エレナはその前に立った。

 

「よく建物の中で待った」

 

 短い言葉だった。

 

 子どもは泣き止まなかった。だが、泣き声が少しだけ小さくなった。母親が、頭を下げる。エレナは頷き、次の老人に声をかける。

 

「歩けるか」

 

「はい、姫様」

 

「無理をするな。座れ」

 

 エレナは、お転婆姫様の顔ではなかった。好奇心で屋台へ近づきたがる子どもでもなかった。侯爵家の者として、町の恐怖を少しずつ手で押さえている。

 

 澪は、胸の奥が少し重くなった。

 

 領主家の仕事というのは、戦うことだけではないのだ。終わった後に、人を安心させることも、同じくらい大事なのだ。

 

 アルベルトが負傷者の列へ目を向ける。

 

「薬と布は足りるか」

 

 その問いに、広場の反対側からリュシアの声が返った。

 

「布は足りる。水はもう少し欲しい。薬は澪とセルマの確認待ち」

 

 セルマの名前を聞いた瞬間、澪はそちらへ顔を向けた。

 

   

 

 

 リュシアは、すでに広場の一角を応急手当の場所に変えていた。

 

 倒した木箱を台にし、汚れてもいい布を広げ、水桶を飲む用と洗う用に分けている。荷車の陰には休ませる場所が作られ、軽傷者と、立てない者が別の列に分けられていた。

 

 そこへ、セルマが息を切らしてやって来た。

 

 肩から薬袋を下げ、片手にポーションの入った瓶を数本抱えている。額に汗が浮いていたが、目は冷静だった。

 

「澪、見える?」

 

 セルマは前置きをしなかった。

 

 澪も頷いた。

 

「見ます」

 

 リュシアがすぐ横へ場所を空ける。

 

「この人から。意識はある。血は少ないけど、腕を痛がってる」

 

 澪は膝をつき、負傷した町人の腕を見た。土と汗で汚れている。擦り傷と打ち身。痛そうではあるが、骨の形は大きく崩れていない。

 

 鑑定する。

 

----------------------------------

負傷者

 分類:人間/町人

 状態:打撲/擦過傷

 出血:少量

 骨折:なし

 意識:あり

 対応:洗浄/布固定/休息

 注意:強いポーションは不要

----------------------------------

 

 澪は表示を見て、息を吐いた。

 

「この人は、洗って布で押さえて休ませるだけでよさそうです。強いポーションは不要です」

 

 セルマが瓶を持つ手を止めた。

 

「強いポーションを使えばいいわけではない、か」

 

「はい。使わなくて済む人には、使わない方がいいと思います」

 

 リュシアが横で頷いた。

 

「高い薬を無駄にしないのも大事」

 

「そこですか」

 

「そこも大事だよ。必要な人に回らなくなる」

 

 リュシアの言葉は現実的だった。優しいかどうかではなく、生き残るために必要な計算だ。

 

 ピナが洗うための布を差し出した。

 

「この布、汚れてもいいものです」

 

 ミラは負傷者の名前と状態を聞き、板に書き込む。

 

「打撲、擦過傷。強いポーション不要。洗浄、布固定、休息」

 

 トルは水桶を持って来たが、途中で速度を落とした。こぼさなかった。自分でも少し誇らしそうだった。

 

「走ってません」

 

「水が減っていないのは偉いです」

 

 ピナが真顔で褒めると、トルは複雑な顔をした。褒められているのに、走っていないことを褒められているのが納得いかないらしい。

 

 マルテは別の板に、誰がどこへ運ばれたかを書いている。

 

「負傷者三名、洗浄待ち。二名、休息場所へ。重傷確認待ち一名」

 

 澪は、次の負傷者へ向かった。

 

 今度は足を痛めている男だった。顔色が悪い。息が少し荒い。

 

 鑑定する。

 

----------------------------------

負傷者

 分類:人間/町人

 状態:足部負傷/強い痛み

 出血:中

 骨折:疑いあり

 意識:あり

 対応:固定/ポーション補助/搬送注意

 注意:無理に歩かせない

----------------------------------

 

「この人は歩かせないでください。足を固定して、ポーションは補助で。強く動かさない方がいいです」

 

 セルマがすぐに頷く。

 

「分かった。固定が先だね」

 

 リュシアが布を受け取り、ピナに渡す。

 

「ピナ、細長い布」

 

「はい」

 

 ピナは迷わず布束から適したものを引き出した。前より早い。収納と布材運用が、こういう場面で形になっている。

 

 澪はふと思った。

 

 これは、治療チートではない。

 

 鑑定して、分けて、洗って、固定して、休ませる。ポーションも現代薬も、使うべき時に使うだけだ。けれど、それだけで混乱は少し減る。

 

 セルマが、澪の鑑定表示を見ながら小さく言った。

 

「鑑定があると、薬の使い方が変わるね」

 

「見えすぎると、逆に怖いです」

 

「怖いくらいでちょうどいい。薬は効くものほど、雑に使うと怖い」

 

 澪は、現代側から持って来た小さな薬箱に手を伸ばしかけ、止めた。鑑定で確認する。今使うべきか。使わない方がよいか。まず水か。まず休息か。

 

 表示は万能ではない。

 

 でも、判断の背中を押してくれる。

 

 リュシアが薬袋と水桶と布束を見ながら言った。

 

「薬も布も水も、数がある。数があるものは、使う順番がある」

 

 その言葉に、セルマが少し笑った。

 

「商人の薬の見方だね」

 

「薬も物だからね。人を助ける物は、なくなる順番を間違えたら困る」

 

 澪は、二人のやり取りを聞きながら、次の負傷者を鑑定した。

 

 夕暮れが少しずつ濃くなっていく。

 

   

 

 

 真壁久忠は、逃げようとはしなかった。

 

 だが、捕まった。

 

 正確には、アルベルトとエレナの視線に捕まった。

 

 澪が負傷者を鑑定している少し離れた場所で、アルベルトが真壁を呼んだ。エレナも一緒にいる。護衛たちは真壁への警戒を完全には解いていないが、敵意はもうない。

 

 エレナが先に口を開いた。

 

「城壁で、あれを撃ったのは君か」

 

 あれ、で通じるのが少し怖い。

 

 真壁は軽く会釈した。

 

「撃っただけです。見つけたのは澪君で、道を空けたのはあなた方だ」

 

 エレナは真壁をじっと見た。

 

 功を奪わない言い方が気に入ったのか、少し口元が動いた。

 

「面白い」

 

 アルベルトは、真壁を観察していた。戦いの前とは違う視線だ。単なる来訪者ではなく、町の防衛を動かした人物として見ている。

 

「配置の助言、そしてゴブリンキングの撃破。君の判断がなければ、門はもっと危なかった」

 

「私一人の手柄ではありません」

 

「それでも、君の見立ては大きかった」

 

 アルベルトは少し間を置いた。

 

「侯爵家に仕える気はないか」

 

 澪は、離れた場所で負傷者に布を渡しながら固まった。

 

 耳だけが反応した。

 

 え。

 

 今、何を言いましたか。

 

 真壁はすぐには答えなかった。

 

 彼の視線が、澪へ向いた。

 

 澪はリュシアとセルマの間で、負傷者を見て、鑑定して、現代薬の箱を開きかけて閉じ、また別の人に水を渡している。ピナが布を持ち、ミラが記録し、トルが水を運ぶ。マルテが配置を書き続ける。

 

 真壁はそれを見てから、アルベルトへ向き直った。

 

「魅力的な申し出ですが、今それを受ければ、澪君が潰れる」

 

 澪は思わず振り返った。

 

「言い方」

 

 真壁は落ち着いていた。

 

「事実は、柔らかくしても重さを失わん」

 

「少しは柔らかくしてください」

 

 エレナが澪と真壁を交互に見て、少し楽しそうにした。

 

「潰れるのか」

 

「潰れません」

 

 澪は即答した。

 

 真壁も即答した。

 

「潰れかけている」

 

「真壁さん」

 

 アルベルトは笑わなかった。むしろ、真壁の言葉の奥を聞く顔になった。

 

「続けてくれ」

 

 真壁は、夕暮れの広場を一度見渡した。

 

「澪君は、こちらへ品を運び、人をつなぎ、商いを起こし、今日のような危機には鑑定で負傷者まで見る。さらに、私のような身元不明の男の手続きまで抱えた」

 

「そこは言わなくても」

 

「事実だ」

 

 澪は反論できなかった。

 

 真壁はアルベルトへ視線を戻す。

 

「私を抱えるより、澪君を潰さぬ方が、この領には得でしょう」

 

 言葉は丁寧だったが、かなり踏み込んでいた。

 

 護衛の一人がわずかに動いた。だが、アルベルトは手で制した。

 

「君は、侯爵家ではなく押入商会側に立つ、ということか」

 

「はい。澪君の国側、押入商会の向こう側で力になります。それが結果として、この領の利益にもなるなら、多少の目こぼしは互いに必要でしょう」

 

「目こぼし、か」

 

 エレナが真壁を見る。

 

「言い方が回りくどい」

 

「まっすぐ言うと角が立つこともあります」

 

「今ので立っていないのか」

 

 澪は内心で、少し立っていると思った。

 

 真壁は涼しい顔をしていた。

 

 アルベルトは少し考えた。夕暮れの光が、彼の横顔を赤く照らしている。

 

「なるほど。君を直接抱えることが、かえって流れを詰まらせる可能性がある、ということだな」

 

「そう受け取っていただけるなら、話が早い」

 

 真壁は軽く頭を下げた。

 

 澪は、勝手に交渉が進んでいることに少しだけ怖くなった。

 

   

 

 

 アルベルトの視線は、城壁の上へ向いた。

 

 そこには、まだバリスタが残っている。

 

 町には似合わない影。けれど門を守った影。

 

「あの城壁上の兵器は、侯爵家で扱えるものか」

 

 澪の背筋が固まった。

 

 来た。

 

 来てしまった。

 

 リュシアもセルマも、少し遠くでこちらを見ている。ミラの手が記録板の上で止まり、ピナが布を握り直した。

 

 澪が口を開く前に、真壁が答えた。

 

「あれは門を守った。だが、門を壊す側にもなれる」

 

 広場の空気が少し重くなった。

 

 真壁は続ける。

 

「あれは単なる木工兵器ではありません。タングステン鋼の矢じり、澪君の収納、鑑定、そして事前準備があって成り立ったものです。扱いを誤れば、魔物ではなく人に向く」

 

 アルベルトは黙って聞いていた。

 

 エレナも、今度は口を挟まなかった。

 

「今日の一発は、この町を守るための例外です」

 

 真壁の声は低く、静かだった。

 

「強すぎる道具は、敵より先に味方の欲を呼ぶことがあります。広げ方を間違えれば、国同士の力関係も変える」

 

 澪は、真壁の言葉に助けられていると同時に、少し怖くなった。

 

 自分は「だって異世界危険だもの」で用意した。

 

 だが、真壁はそれが何を壊すかを見ている。

 

 アルベルトはゆっくり頷いた。

 

「つまり、侯爵家が勝手に要求すべきものではない、ということか」

 

「そう受け取っていただけるなら、話が早い」

 

 澪は、真壁が勝手に話を綺麗にまとめてくれて助かったと思った。

 

 同時に、この人が味方で本当に良かったとも思った。

 

 アルベルトは真壁をしばらく見てから、結論を出した。

 

「ならば、真壁殿は侯爵家の客分として遇する。だが、主は押入商会側に置く。それでよいか」

 

 真壁は軽く頭を下げた。

 

「美しい落とし所です」

 

 澪は首をかしげた。

 

「美しいんですか」

 

「無理をしない取引は、美しい」

 

 エレナが短く言った。

 

「面白い人だな」

 

 澪は、また面倒な関係が増えた、と思った。

 

 ただし、必要な面倒だった。

 

   

 

 

 押入家具工房は、大きな被害を受けていなかった。

 

 職人たちは門前の防衛に出た者もいたが、工房そのものは守られた。木材の棚が少し乱れ、入口に置いてあった小箱がいくつか倒れていたが、親方たちの顔は無事だった。

 

 親方の一人が、澪を見るなり腕を組んだ。

 

「嬢ちゃん、あの城壁の上の物騒なやつは何だ」

 

 澪は目をそらした。

 

「使わない予定だった防衛道具です」

 

「使ったな」

 

「使いました」

 

 別の親方が笑った。

 

「だって異世界危険だもの、か」

 

「先に言わないでください」

 

 親方たちは呆れたように笑ったが、目の奥には安堵があった。町が守られたことへの感謝と、あんなものを用意していた澪への微妙な警戒が混ざっている。

 

 その微妙さは、澪にもよく分かった。

 

 ミラ、ピナ、トル、マルテも一緒に戻ってきていた。四人とも疲れているが、大きな怪我はない。

 

 トルはまだ納得していない顔をしていた。

 

「走らなかったのに成長したの、まだ少し変です」

 

 マルテが記録帳を閉じながら答えた。

 

「動かない判断も仕事です」

 

「でも、伝令は走るものです」

 

 ピナが布を畳みながら言う。

 

「今日はそれで助かりました。勝手に走っていたら、どこにいるか分からなくなっていました」

 

 ミラも頷く。

 

「勝手に走らなかったのは、かなり大きいです」

 

 トルはさらに複雑な顔になった。

 

「褒められてる気がしません」

 

「褒めています」

 

「本当に?」

 

「前よりは」

 

「前より」

 

 親方たちが笑った。

 

 澪も少し笑った。

 

 町はまだ落ち着かない。夜の見張りも必要だ。負傷者もいる。けれど、こういう会話が戻ってきたことが、少しだけ戦いの終わりを感じさせた。

 

   

 

 

 夜になっても、押入商会侯爵領事業所の灯りは消えなかった。

 

 外では見張りが増え、町の門にはいつもより多くの人が立っている。だが、事業所の机の上には、戦後の記録と、濡れた布と、使い終わった水の桶と、そして新しく書き出されたスキルポイントの紙が並んでいた。

 

 澪は疲れていた。

 

 正直、横になりたかった。

 

 だが、ミラ、ピナ、トル、マルテ、リュシアが机を囲んでいる。セルマは薬の整理を終えて工房側へ戻っている。真壁は少し離れた椅子に腰かけ、黙って聞いていた。

 

 澪は深呼吸した。

 

「今回、三人とも商人レベルが四まで上がっています。スキルポイントも三つあります」

 

 ミラがすぐに紙へ書いた。

 

「商人レベル四。未使用スキルポイント三」

 

 ピナは自分の手を見た。トルは少し期待した顔になった。

 

「使うと、何ができますか」

 

 ミラが聞く。

 

「既に持っているスキルを伸ばすか、条件を満たしている新しいスキルを取れます。ただし、何でも取れるわけではありません。今のジョブ、今までの経験、本人が伸ばしたい方向が関係します」

 

 トルが手を上げた。

 

「走るやつがいいです」

 

 ミラが即答した。

 

「商人です」

 

「走る商人です」

 

 マルテが記録した。

 

「トル、職業説明に問題あり」

 

「またですか」

 

「またです」

 

 澪は疲れているのに笑ってしまいそうになった。

 

「走ることそのものではなく、商人として走るために必要なものを伸ばしましょう。伝言札を間違えないとか、持っていく物をすぐ出せるとか、どこへ走るか判断するとか」

 

 トルは少し考えた。

 

「走る前のスキルですか」

 

 真壁が静かに言った。

 

「走る前に勝負は半分決まる」

 

 トルは真壁を見て、少しだけ納得した顔をした。

 

「じゃあ、半分走ったことになりますか」

 

「ならん」

 

「ならないですか」

 

 ミラとピナが同時に首を振った。

 

 澪はミラから順に鑑定していった。

 

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ミラ・セイル

 現在ジョブ:商人

 レベル:4

 未使用SP:3 → 0

 既得スキル:鑑定:2 → 3

 既得スキル:収納:2 → 3

 新規取得:商才:1

 成長方向:記録精度/分類保持/物資把握

----------------------------------

 

 表示を見たミラは、静かに目を輝かせた。

 

「記録の見落としが減る気がします」

 

「ミラさんは、数と札と流れを見るのが向いています。鑑定と収納を一緒に伸ばした方が、物資と記録を結びつけやすいと思います」

 

「はい」

 

 ミラは紙を抱える手に力を入れた。

 

 次にピナ。

 

----------------------------------

ピナ・ロッテ

 現在ジョブ:商人

 レベル:4

 未使用SP:3 → 0

 既得スキル:収納:3 → 4

 既得スキル:鑑定:1 → 2

 新規取得:商才:1

 成長方向:保管状態維持/布材運用/小物管理

----------------------------------

 

 ピナは小さな布包みを収納し、すぐに取り出した。

 

 角が崩れていない。

 

「あ、前より中で動きません」

 

 ピナが驚いたように言う。

 

「布や薬や小物を扱うなら、収納の安定性が大事です。ピナさんは、物を傷めない方向が強いと思います」

 

「はい。崩さず出せるのは、助かります」

 

 最後にトル。

 

----------------------------------

トル・バッカ

 現在ジョブ:商人

 レベル:4

 未使用SP:3 → 0

 既得スキル:収納:2 → 3

 既得スキル:鑑定:1 → 2

 新規取得:商才:1

 成長方向:即時取り出し/伝言札管理/伝達判断

----------------------------------

 

 トルは表示をじっと見た。

 

「走るスキルじゃないです」

 

「走る前のスキルです」

 

「即時取り出しは、ちょっと速そうです」

 

「伝言札を間違えなければ、もっと速いです」

 

 ミラが真面目に言った。

 

 トルは、少しだけ誇らしそうに胸を張った。

 

「じゃあ、速い商人です」

 

 マルテがまた記録した。

 

「トル、商人説明やや改善」

 

「やや」

 

   

 

 

 リュシアは、腕を組んで自分の表示を見ていた。

 

 彼女は戦闘で剣を振ったわけではない。だが、水を分け、布を集め、縄と箱と荷車を動かし、町中央の物資の流れを作った。その働きが、はっきり表示に出ていた。

 

----------------------------------

リュシア

 現在ジョブ:商人

 レベル:5

 未使用SP:3 → 0

 既得スキル:商才:4 → 5

 既得スキル:鑑定:1 → 2

 成長方向:物資価値判断/緊急調達/市場整理

----------------------------------

 

「鑑定が少し見えるだけでも、仕入れが変わるね」

 

 リュシアは面白そうに言った。

 

 澪は少し嫌な予感を覚えた。

 

「市場が変わりそうで怖いです」

 

「変わるよ」

 

「断言しないでください」

 

「変わるものは変わる」

 

 澪は聞かなかったことにしたくなった。

 

 次にマルテが、記録帳を膝の上へ置いた。

 

「私は収納ではありませんね」

 

「はい。マルテさんは書記官見習いです。商人ジョブではないので、収納や鑑定は今は取れません。でも、記録と帳簿を伸ばせます」

 

 マルテは静かに頷いた。

 

「記録で伸びます」

 

----------------------------------

マルテ・ロウ

 現在ジョブ:書記官見習い

 レベル:5

 未使用SP:3 → 0

 既得スキル:記録:4 → 5

 既得スキル:帳簿:2 → 3

 成長:非常時記録整理:1

 状態:収納技能は未取得

----------------------------------

 

 トルが悪気なく聞いた。

 

「収納は」

 

 ミラとピナが同時にトルを見た。

 

 マルテは静かに記録帳を開いた。

 

「トル、職能発言注意」

 

「またですか」

 

「またです」

 

 真壁が横で小さく笑った。

 

「記録される男は、成長が早い」

 

 トルは目を丸くした。

 

「そうなんですか」

 

「たいてい、逃げ道がないからな」

 

「それ、いいことですか」

 

「場合による」

 

 澪は、もう笑う体力も少ないのに、肩が震えそうになった。

 

 スキルポイント相談は、疲れる。

 

 だが、確かに前へ進んでいる。

 

 机の上には、各自の成長を書いた紙が並んでいた。水と空気と火と時間を学んだ子どもたちが、今度は戦後の町で得た経験を、次の仕事へ変えようとしている。

 

 澪は、そのことを少しだけ誇らしく思った。

 

   

 

 

 夜が深くなり、事業所の灯りが一つ減った頃、真壁が澪に声をかけた。

 

「澪君」

 

「はい」

 

「この世界では、功績が数字で返ってくるのだな」

 

 澪は、片づけかけていた紙を置いた。

 

「そうですね。正確には、ジョブとかスキルとかレベルとか、いろいろあります。私も全部分かっているわけではないですけど」

 

 真壁は椅子に座ったまま、背もたれへ深く沈まない。疲れていないわけではないだろうに、姿勢が崩れない。

 

「説明してくれるか」

 

 澪は、今日何度目か分からない説明を始めた。

 

 ジョブがあること。

 

 レベルがあること。

 

 ジョブチェンジは司祭様のところで行うこと。

 

 現在ジョブのレベルは一から始まるが、ステータスや既得スキルは下がらないこと。

 

 スキルポイントで既得スキルを伸ばしたり、条件を満たしたスキルを取れたりすること。

 

 商人ジョブでは、鑑定や収納が取れること。

 

 ただし、ポイントだけで何でも取れるわけではないこと。

 

 真壁は黙って聞いていた。

 

 途中で茶化さない。質問も短い。

 

「職が、人を縛るのか」

 

「縛るというより、向きを決める感じです」

 

「職を変えれば、見える道も変わる」

 

「たぶん、そうです」

 

「司祭が、それを扱う」

 

「はい」

 

「興味深いな」

 

 澪は少し身構えた。

 

 真壁が「興味深い」と言う時は、たいてい次に何かを決めている。

 

「真壁さんは、指揮官っぽいですけど」

 

「それは過去の残り香だ」

 

「残り香」

 

「今の私は、君の商いの側にいる」

 

 澪の背筋に、嫌な予感が走った。

 

 真壁は、少しだけ口元を緩めた。

 

「商人が鑑定と収納を取れる、と言ったな」

 

「言いました」

 

「ならば、話は早い」

 

「何がですか」

 

 真壁は答えなかった。

 

 ただ、静かに笑った。

 

 澪は、その笑いを見て、明日の朝が少し怖くなった。

 

   

 

 

 翌朝、澪はまだ疲労を引きずっていた。

 

 寝た。寝たはずだ。けれど、身体の奥に昨日の階段と城壁と鑑定表示が残っている。目を閉じると、ゴブリンキングの大きな影と、タングステン鋼矢じり付き大型ボルトが飛ぶ音が思い出される。

 

 押入商会侯爵領事業所に入ると、ミラがもう机の上を整えていた。ピナは布包みを確認し、トルは伝言札を並べている。マルテは前日の記録を見直していた。

 

 いつもの朝に戻ろうとしている。

 

 その時、扉が開いた。

 

「おはよう、澪君」

 

 真壁久忠が、何食わぬ顔で入ってきた。

 

 昨日より、どこかすっきりしている。疲労が抜けたというより、何かを決めた人間の顔だった。

 

「おはようございます。……なんか、すっきりしてません?」

 

「司祭殿のところへ行ってきた」

 

 澪は瞬きをした。

 

「え」

 

「私もこの世界では商人となろうと思ってな」

 

 事業所の空気が止まった。

 

 ミラの鉛筆が止まり、ピナが布包みを持ったまま固まり、トルが伝言札を落としかけた。マルテだけが、ゆっくり記録帳を開いた。

 

 澪は、嫌な予感が当たったことを理解した。

 

「鑑定します」

 

「どうぞ」

 

 真壁は実に落ち着いていた。

 

 澪は鑑定した。

 

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真壁久忠

 分類:人間/異界漂着者

 現在ジョブ:商人

 レベル:1

 前職:指揮官 Lv14

 前職影響:あり

 状態:ジョブチェンジ直後/適応中

 疲労度:42%

 体力:74

 筋力:60

 器用:76

 知力:83

 判断:93

 精神:93

 集中:84

 既得スキル:交渉:7

 既得スキル:指揮:7

 既得スキル:軍略:6

 既得スキル:礼法:6

 既得スキル:美術眼:6

 既得スキル:古物鑑定:5

 既得スキル:威圧:5

 既得スキル:書類読解:3

 既得スキル:現代知識:2

 既得スキル:異界適応:3

 既得スキル:商才:1

 既得スキル:鑑定:1

 既得スキル:収納:1

 成長:商談設計:1

 成長:価値説明:1

 注意:収納は初期段階です

 注意:鑑定は品物・人物の価値判断寄りに発現しています

----------------------------------

 

 澪は表示を見て、しばらく黙った。

 

「商人になってる……しかも鑑定と収納、取ってる……」

 

 真壁は少しも悪びれなかった。

 

「商人が取れると聞いた」

 

「聞いたからって、翌朝取ってこないでください」

 

「必要な道具を後回しにする理由がない」

 

 リュシアがちょうど入ってきて、その言葉を聞いた。

 

「嫌いじゃないね、その判断」

 

「リュシアさんまで」

 

 トルが目を輝かせた。

 

「真壁さんも収納できますか」

 

「初歩だ。まだ懐より狭い」

 

 ミラが真面目に言った。

 

「懐は収納ではありません」

 

 真壁は満足そうに頷いた。

 

「よい指摘だ」

 

 澪は頭を抱えた。

 

 現在ジョブ、商人。

 

 レベル、一。

 

 前職、指揮官レベル十四。

 

 鑑定、収納、商才、取得済み。

 

 押入商会の現代側人材問題は、確かに一歩前へ進んだ。

 

 進んだのだ。

 

 ただし、その一歩はかなり癖の強い革靴の音を立てていた。

 

 真壁久忠は、たった一晩で、この世界では商人になると決めてきた。指揮官だった男は、商人レベル一から始めるらしい。ただし、その背中には前職十四レベル分の影が、まったく隠れる気配もなく残っていた。

 

 澪は鑑定表示を閉じ、朝からもう一度だけ頭を抱えた。

 

 押入商会に、また一人、濃い人材が正式加入したのである。




真壁さんですがモデルがいます。
神さまが現代で困った澪ちゃんを見かねて用意しました。
でも主人公の座を奪いかねないのが心配になって来ています。
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