真壁久忠が商人になった、という事実だけで、押入商会侯爵領事業所の朝は十分に濃かった。
机の上には、昨日の戦闘記録、負傷者の手当記録、ミラの書いた物資表、ピナが畳み直した布包み、トルが並べた伝言札が置かれている。窓から入る夏の朝の光は明るいのに、室内にはまだ昨日の戦いの疲れが沈んでいた。
澪は、その机の前で椅子に座ろうとして、先に手をついた。
座る、という動作の前に、身体が机を必要とした。
それだけで、ミラが顔を上げた。ピナも布を畳む手を止める。トルは「大丈夫ですか」と言いかけて、昨日から覚えたばかりの待機を実行した。言葉が出る寸前で止まったので、口が半分開いたままになる。
澪は、自分でも嫌な予感がして、そっと自分を鑑定した。
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篠原 澪
分類:人間/異界渡航者
現在ジョブ:商人
レベル:11
状態:疲労残り/集中低下
疲労度:74%
注意:連続判断作業により精度低下の恐れ
注意:休息推奨
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「まだ七十四……」
表示された数字に、澪は小さく青くなった。
昨日、城壁の上でゴブリンキングを鑑定し、収納からバリスタを出し、負傷者を見て、スキルポイント相談までして、真壁が商人になって帰ってきた。その全部が、まだ体の中に残っている。
真壁は、澪の顔色と鑑定表示を見ると、迷わなかった。
「澪君、今日は帰りなさい」
静かな声だった。
冷たくはない。だが、反論の隙間も少ない声だった。
「え、でも、昨日の後始末が」
「君が倒れれば、後始末どころではない」
澪は口を開いたまま止まった。
正論が、朝から強い。
「でも、私がいないと、まだ色々と」
「いない間は、リュシア君、セルマ君、親方たち、マルテ君を頼る」
真壁は、澪の言葉を遮らず、ただ先に置いた。
「君一人で抱える商会では、長く持たない」
その言い方は、昨日の侯爵家相手の交渉よりも少しだけ柔らかかった。柔らかかったが、重さは同じだった。
澪は机に手をついたまま、小さく抵抗した。
「でも、私がいないと収納が」
「今朝、私も初歩の収納を得た。子どもたちもいる。すべてを君が運ぶ必要はない」
トルがすぐに手を上げた。
「僕も収納できます」
ミラが即座に補足した。
「分類はまだ低いです」
「そこは今言わなくても」
トルが少し傷ついた顔をした。
真壁は、むしろ感心したように頷く。
「弱点を言える仲間は貴重だ」
「褒められてますか」
「たぶん」
ピナが小さく言った。
澪は笑いそうになったが、笑うにも体力がいるらしく、肩だけが少し揺れた。
真壁は立ち上がり、押し入れの方を見た。
「今日は休みなさい。これは命令ではなく、商会を続けるための助言だ」
「助言が命令みたいに聞こえます」
「よい助言は、ときに命令より逃げ道が少ない」
「そこを自覚してるんですね」
「自覚のない助言ほど、始末に悪い」
澪は、ついに諦めた。
マルテがすでに記録帳へ何かを書いている。
「マルテさん、何を書いてます?」
「澪、疲労度七十四により帰宅。真壁判断」
「それ、書かなくても」
「重要です」
澪は言い返せなかった。
ミラとピナが、帰宅用に澪の荷物を整え始める。トルは「送ります」と言いかけて、真壁の視線を受けて止まった。
「送る場所まで走る必要はない。澪君は門を通れば帰れる」
「そうでした」
澪は押し入れの前まで行き、振り返った。
「本当に、何かあったら呼んでくださいね」
「何かある前に片づける」
「それはそれで怖いです」
真壁は、少しだけ目を細めた。
「休みなさい、澪君」
その声だけは、本当に優しかった。
澪は、しぶしぶ押し入れをくぐった。
澪がいなくなった後、事業所は一瞬だけ静かになった。
机も、記録箱も、時計も、注文票も、いつも通りそこにある。だが、澪が座っているべき椅子が空いているだけで、子どもたちは少し落ち着かない顔をした。
ミラは鉛筆を持ったまま、何を書くべきか迷っている。ピナは布包みを整える手を止め、トルは押し入れの襖を見ている。マルテだけが、記録帳を閉じずに待っていた。
真壁は、空いた椅子を見ない。
「では、残った者で回す」
それだけで、空気の形が少し変わった。
その時、リュシアが事業所に入ってきた。朝から市場側の様子を見ていたのか、腰には小さな帳面、手には畳んだ地図を持っている。
「澪は帰したの?」
「帰した。あの状態で働かせるのは、道具の扱いとしても人の扱いとしても品がない」
リュシアは一瞬だけ目を丸くし、それから少し笑った。
「言い方は変だけど、同意する」
「変でも伝わればよい」
「伝わるけど、毎回少し刺さるね」
真壁は答えず、マルテの方へ向いた。
「昨日の記録を見せてもらえるか」
マルテは、待っていたように記録帳を机へ置いた。
「こちらです。ゴブリン出現位置、逃走方向、町人の目撃情報、負傷者の出た場所、農場側の道、林の入口、水路沿い、古い倉庫跡までまとめています」
真壁は記録帳を開いた。
その指が、紙の上をゆっくり動く。
昨日、最初に単独ゴブリンが現れた道。城壁外で群れが崩れた方向。町人が見た小さな影。負傷者が出た場所。畑へ続く道。水路の曲がり。林の入口。古い倉庫跡。
真壁は紙の上に、細い線を引いた。
「逃げたものを放置すれば、次は畑と荷車を狙う」
リュシアの顔から笑みが少し消えた。
「昨日ので終わりじゃない?」
「敗残兵は、飢えた時が厄介だ」
真壁は静かに言った。
「軍であれ魔物であれ、群れが崩れた後に残るものは、規律より腹で動く。農場、街道、荷運び、子ども。柔らかいところへ行く」
ピナが布を握った。
「畑に入られたら困ります」
「荷車も困るね」
リュシアが低く言った。
トルが身を乗り出す。
「じゃあ、行くんですか」
「行く。だが、走って探すのではない」
「走らないんですか」
「走って探せば、見つける前にこちらが見つかる」
トルは、分かったような分からないような顔をした。
そこへ、セルマが薬袋を肩にかけて入ってきた。昨日より少し遅れての登場だが、手にはいくつかの小袋と、錬金道具の入った箱がある。
「澪抜きで、ずいぶん進めるね」
「澪君を休ませるために進める」
真壁が当然のように答える。
リュシアが肩をすくめた。
「それ、澪が聞いたらまた働こうとするよ」
「だから聞かせない」
セルマはそこで笑った。
「いいね。澪には内緒で澪の仕事を減らす。たぶん一番難しい錬金より難しい」
真壁はマルテの記録帳を閉じ、机の上に地図を広げた。
「目的は町周辺の安全確認。逃げたゴブリンの発見。正面戦闘ではなく、誘導と無力化。子どもたちは前線に出さない。雷は距離と合図を決めて使う」
セルマは持ってきた小袋を机に並べる。
「匂い袋、音袋、色布、刺激の強い煙を少し出す袋。危ない手順は省いてある。置けば目印や誘導になる程度」
リュシアは地図の端を押さえた。
「撤収する道と、水を置く場所は私が見る。物を置くなら、盗られそうな荷に見せる方が寄ってくるかもね」
ミラが記録を始める。
ピナは縄と布と水袋をまとめ、トルは雷を撃つ気満々の顔で立っている。
真壁はその顔を見た。
「トル君」
「はい」
「君は合図まで待つ」
「まだ何もしてません」
「顔がしている」
ミラが小さく頷いた。
「していました」
「ミラ」
ピナも頷いた。
「していました」
「ピナまで」
真壁は、わずかに口元を緩めた。
「よい。行こう」
出発前に、真壁は自分を鑑定した。
澪がいないため、いつものように澪の鑑定に頼ることはできない。真壁は自分の鑑定:1で確認し、ミラにも横から補助してもらう形にした。
ミラは少し緊張していた。
「私の鑑定で補助します」
「頼む」
真壁は静かに目を閉じ、すぐに開いた。
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真壁久忠
分類:人間/異界漂着者
現在ジョブ:商人
レベル:1
前職:指揮官 Lv14
前職影響:あり
状態:初実地運用前
既得スキル:商才:1
既得スキル:鑑定:1
既得スキル:収納:1
既得スキル:交渉:7
既得スキル:指揮:7
既得スキル:軍略:6
既得スキル:異界適応:3
成長候補:索敵補助
成長候補:危険物資管理
注意:商人ジョブとしては初期段階です
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真壁は表示を見て、少しだけ満足そうに頷いた。
「商人一日目としては、悪くない」
リュシアが地図を畳みながら言う。
「普通の商人一日目は、残敵掃討に行かない」
「ならば、記憶に残る初日になる」
トルが目を輝かせた。
「かっこいいです」
ミラが横から言った。
「商人としては変です」
ピナが縄を結び直しながら続けた。
「でも、必要です」
セルマが小袋を薬箱へ戻しながら笑う。
「必要なら仕方ない、でだいたいの変なことは始まるんだよね」
リュシアがため息をついた。
「澪の周り、だいたいそれだよ」
真壁は事業所の扉へ向かった。
「必要なことを、必要なだけ行う。それだけだ」
「その『必要なだけ』が濃いんだよ」
リュシアの言葉を背に、一行は町外れへ向かった。
町の外は、昨日より静かだった。
門から少し離れると、戦いの音はなくなり、代わりに夏草を揺らす風と、水路の細い流れが聞こえてくる。畑の土は乾きかけているが、ところどころに昨日の踏み跡が残っていた。押し倒された草、泥に残った小さな足跡、折れた粗末な棍棒の欠片。
真壁は、しゃがみ込んだ。
土に指を触れ、草の倒れ方を見る。顔を近づけすぎず、全体を見る。江古田の古道具屋で壺を見ていた時と、どこか同じ目だった。
ミラが横で鑑定する。
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ゴブリンの痕跡
分類:魔物痕跡
状態:新しい
方向:林の入口方面
数:複数
注意:一部、負傷個体あり
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「新しいです。複数。林の入口方面」
ミラは表示を読み、すぐに記録しようとした。
真壁が軽く手を上げる。
「今は要点だけでいい。記録は後で整える」
「はい」
ミラは少しだけ悔しそうに鉛筆を止めた。
真壁は地図を見るリュシアへ視線を向ける。
「記録と合う」
リュシアは頷いた。
「この先は林と畑の境目。水路もある。隠れる場所は多いね」
セルマが足元の草を見た。
「放っておくと畑に入る」
ピナが水袋を抱え直した。
「荷車の道にも近いです」
トルが前へ出かけた。
真壁の声が飛ぶ。
「先頭は私。君は合図まで待つ」
「また待機ですか」
「待つ者がいるから、誘導が成立する」
トルは、今度はすぐに口を尖らせなかった。
「誘導のための待機ですか」
「そうだ」
「それなら、少し分かります」
ミラが小さく書きかけた。
トルがそれを見た。
「今、何を書こうとしました?」
「トル、待機理由を理解」
「書かなくていいです」
「重要です」
マルテがいなくても、記録係は増殖するらしい。
最初の索敵は、うまくいかなかった。
林の入口は、思ったより音が多い。風で葉が擦れ、細い枝が鳴り、足元の枯れ葉が靴の下で鳴る。ゴブリンの気配を探すには、こちらの音が邪魔だった。
トルは本人なりに静かに歩いているつもりだった。
だが、本人なり、である。
枯れ枝が折れた。
トルが固まった。
「今のは、枝が勝手に」
「枝は勝手に折れない」
ミラが小声で言った。
ピナはピナで、誘導具の布包みを綺麗に整えすぎていた。角が揃っている。縄もきれいに巻かれている。美しい。だが、準備が少し遅い。
ミラは痕跡を見つけるのは早いが、見つけるたびに記録しようとして周囲を見るのが遅れる。
しばらく進んだところで、真壁は手を上げた。
「止まろう」
一同が止まる。
トルは今度こそ音を立てなかった。少し得意げだった。
真壁は三人を見た。
「ばらばらに優秀でも、列にならなければ遅い」
リュシアが地図を見ながら苦笑した。
「それ、商売にも言えるね」
セルマも頷く。
「薬作りにも言える。材料が全部良くても、順番が悪いと台無し」
真壁は役割を組み直した。
「ミラ君は痕跡鑑定だけに集中。記録は短く、後で整える。リュシア君は地図と経路。ピナ君は退路と足元、道具の置き場。トル君は決めた区間だけ動く。勝手に先へ出ない。セルマ君は匂い袋と音袋を置く位置。私は全体を見る」
トルが手を上げた。
「雷は」
「合図まで待つ」
「やっぱり待機です」
「雷を撃つ時間は短い。待つ時間が長い。なら、待つのが本体だ」
トルはものすごく納得しにくそうな顔をした。
「雷なのに」
ミラが小さく言った。
「雷待機」
「それ、変な名前です」
ピナは少し笑った。
「でも、分かりやすいです」
役割を絞ると、動きは変わった。
ミラは鑑定だけに集中し、リュシアが地図へ印をつけ、ピナが足元と戻る道を見て、トルは決められた範囲だけを動いた。セルマは小袋を置く場所を真壁に確認し、真壁は全員の位置と風向きを見ていた。
しばらくして、ミラが顔を上げる。
「奥に反応があります。でも、近づくと逃げると思います」
「では、近づかない」
真壁は静かに言った。
セルマが匂い袋を取り出した。
中身は詳しく聞かない方がよさそうな匂いだった。腐ったわけではない。だが、鼻の奥へ引っかかる強さがある。セルマは慣れた手つきで袋の口を整え、リュシアが用意した古い布と一緒に置いた。
リュシアは、その布の置き方を少し変えた。
「荷物を置き忘れたように見せるなら、きれいに置きすぎない方がいいね」
真壁がそれを見る。
「商人としては、盗られそうな荷に見せるわけだな」
「そういうこと。中身があるように見えた方が寄ってくる」
「品がない罠だが、相手も品を問わぬ」
セルマが音袋を近くの低い枝へかけた。風で揺れると、袋の中で小さな石がかすかに鳴る。大きな音ではない。けれど、林の中では気になる程度の音だった。
真壁は、子どもたちの位置を確認した。
「人を囮にするのは最後の手だ。今日は物で十分だ」
トルが少し残念そうにした。
「僕が走って引きつけるとかは」
「しない」
「まだ最後の手じゃないですか」
「最後の手は、使わずに終わるのが一番よい」
ピナが退路を確認し、ミラが目を細めた。
「鑑定します」
----------------------------------
潜伏反応
分類:魔物気配
数:三
状態:警戒/空腹
反応:匂い袋へ接近中
----------------------------------
「三。警戒、空腹。匂い袋へ接近中」
ミラの声が少し硬くなる。
ピナは足元の石をどけ、トルの立つ位置を指で示した。
「ここから先へ出ないでください。戻る時はこっちです」
「分かってます」
「昨日までは分かってても走ってました」
「今日は分かってます」
トルは雷を撃ちたくて、肩に力が入っている。だが、足は動かしていない。
真壁は林の奥を見ていた。
「まだだ」
茂みが揺れる。
小柄な影が一つ、二つ、三つ。汚れた皮膚、粗末な棍棒、昨日の群れから逃げたらしい傷。ゴブリンたちは匂い袋を見て、周囲を警戒しながら近づいた。
トルの指先に、小さな光が走る。
「まだだ」
真壁の声は変わらない。
ゴブリンが匂い袋へ寄る。三体の距離が狭まる。棍棒を持つ手が下がり、意識が袋へ向いた。
真壁の目が細くなる。
「今」
トルが雷を放った。
同時に、ミラとピナの補助の雷が横から薄く走る。大きな爆発ではない。空気が一瞬だけ白く震え、ゴブリンたちの身体が硬直した。三体は棍棒を落とし、草の上に崩れた。
澪が見たらたぶん「強すぎませんか」と言うだろう。
だが、真壁はすぐに鑑定を促した。
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ゴブリン
分類:魔物/小型人型
状態:麻痺/戦闘不能
脅威度:低下
注意:再起動前に処理が必要
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「麻痺。戦闘不能。脅威度低下」
ミラが読み上げる。
真壁は頷いた。
「仕事として終わらせる」
その後の処理は淡々としていた。
必要以上に見せず、騒がず、近づく者を決め、確認し、終える。トルは少し緊張していたが、目をそらさなかった。ピナは布を握り、ミラは記録した。リュシアは数を確認し、セルマは周囲の気配を見た。
終わった後、トルが息を吐いた。
「雷、役に立ちました」
「合図を待ったからです」
ミラが言う。
「固まってからでした」
ピナも言う。
真壁は、倒れたゴブリンではなく、子どもたちの顔を見た。
「待った雷は、走った雷より強い」
トルは少し考えてから、頷いた。
「それ、ちょっと分かります」
初回の無力化が終わった直後、真壁の前に表示が出た。
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真壁久忠
分類:人間/異界漂着者
現在ジョブ:商人
レベル:1 → 2
前職:指揮官 Lv14
前職影響:あり
既得スキル:商才:1
既得スキル:鑑定:1
既得スキル:収納:1
成長:索敵誘導:1
成長:危険物資管理:1
獲得SP:1
未使用SP:1
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真壁は表示を眺めた。
「商人らしからぬ上がり方だな」
リュシアが腕を組む。
「商人って何だったかな」
セルマが薬袋を閉じながら言った。
「少なくとも、今日の商人はゴブリンを誘導してるね」
真壁は少しも動じない。
「需要があれば、商いは形を変える」
ミラが真面目に聞いた。
「それは商才ですか」
リュシアが顔をしかめた。
「たぶん違うけど、否定しにくい」
トルが頷いた。
「商人はすごいです」
「今日のこれを商人の基準にしないで」
リュシアがすぐに釘を刺した。
真壁は周囲を見渡し、初回の動きを頭の中で組み直していた。
「探すのではない。出てこざるを得ない場所を作る」
リュシアが地図を広げる。
「商売の客寄せに似ているね」
「客なら歓迎するが、これは返品不可だ」
トルがぽつりと言った。
「返品不可のゴブリン」
ミラが反射的に鉛筆を動かしかける。
「記録しないでください」
「今のは記録しません」
ミラは少し残念そうだった。
真壁はリュシアの地図に指を置いた。
「マルテ君の記録と町人の目撃情報で逃走方向を絞る。ミラ君は痕跡鑑定。リュシア君は畑、水路、林の境目を見る。セルマ君の袋で誘導。ピナ君は退路と足元。トル君は決められた区間を伝令。雷は合図で使う」
言葉は短いが、位置が決まる。
人と物と情報が、真壁の声で並べ替えられていく。
リュシアは、その様子を見て小さく笑った。
「澪がいたら、便利って言いながら頭抱えるね」
「だから休ませた」
真壁はもう一度、林の奥を見た。
「次へ行く」
そこからの一日は、妙に手際が良かった。
最初の畑の端では、ミラが折れた草の向きを鑑定し、リュシアが畑へ入らせない位置を選び、セルマが匂い袋を置いた。ピナが畦道の石をどけ、トルが決められた場所まで伝令に走り、戻ってきて合図を待った。
二体のゴブリンが出てきた。
雷。
無力化。
確認。
記録。
次。
水路の影では、一体が逃げようとした。
トルが走りかけたが、真壁が指を一本上げただけで止まった。代わりに、トルは決められた区間を回り込み、リュシアが退路を完全には塞がず、町へ向かわない方向へ流した。
雷。
無力化。
確認。
記録。
次。
古い倉庫跡では、四体の反応があった。
トルは四体まとめてやれるという顔をしたが、真壁は首を横に振った。
「一度に多く出すな」
「でも、雷なら」
「効率とは、多く抱えることではない。失敗しない数を繰り返すことだ」
セルマが頷いた。
「錬金の釜と同じだね。入れすぎると、全部だめになる」
リュシアも地図に印をつける。
「仕入れも同じ。一度に抱えすぎると、運べなくなる」
トルはピナを見た。
「雷も同じですか」
ピナは少し考えた。
「たぶん、同じです」
倉庫跡では、セルマの音袋で一体ずつ外へ出した。ミラが数を読み、ピナが足元を確認し、トルが合図まで待ち、雷で無力化する。
繰り返すたびに、動きが整っていく。
最初は真壁がすべて指示していた。
だが三度目には、ミラが「この痕跡は古いです」と言い、ピナが「ここは戻る道が狭いです」と先に示し、トルが「ここまでなら走って戻れます」と区間を自分で確認した。
リュシアは地図に印を増やしながら、少し感心したように言った。
「澪がいなくても、回るもんだね」
セルマが肩をすくめる。
「澪がいたら、全部見ようとして倒れるよ」
「だから休ませた」
真壁は三度目の同じ答えを返した。
昼を少し過ぎた頃、子どもたちの前に表示が出た。
最初にミラが固まった。
「出ました」
----------------------------------
ミラ・セイル
現在ジョブ:商人
レベル:4 → 5
既得スキル:鑑定:3
既得スキル:収納:3
既得スキル:雷:8
既得スキル:商才:1
成長:痕跡鑑定:1
成長:敵数記録:1
獲得SP:3
注意:レベル5到達ボーナスを含みます
----------------------------------
ミラは、表示を読み終えてから、静かに息を吸った。
「痕跡鑑定……敵数記録……」
「向いてるね」
リュシアが言う。
ミラは小さく頷いた。
「見落としを減らせます」
次にピナが表示を見た。
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ピナ・ロッテ
現在ジョブ:商人
レベル:4 → 5
既得スキル:収納:4
既得スキル:鑑定:2
既得スキル:雷:8
既得スキル:商才:1
成長:安全範囲確認:1
成長:誘導具管理:1
獲得SP:3
注意:レベル5到達ボーナスを含みます
----------------------------------
ピナは、自分の足元、布袋、戻る道を順に見た。
「安全範囲確認……」
真壁が頷く。
「君は、人が転ぶ前に石を見る。よい能力だ」
ピナは少し照れたように、布袋を抱え直した。
最後にトルが表示を見て、眉を寄せた。
----------------------------------
トル・バッカ
現在ジョブ:商人
レベル:4 → 5
既得スキル:収納:3
既得スキル:鑑定:2
既得スキル:雷:8
既得スキル:商才:1
成長:区間移動:2
成長:雷待機:1
獲得SP:3
注意:レベル5到達ボーナスを含みます
----------------------------------
「雷待機って、また待機ですか」
真壁はまじめに答えた。
「待てる雷は価値が高い」
「待つと褒められる世界になってます」
ミラが即座に言う。
「トルには良い世界です」
ピナも頷いた。
「たぶん」
「たぶんじゃなくて、もっと強く褒めてください」
トルは不満そうだったが、口元は少し緩んでいた。
自分ができることが増えている。
それは、本人にも分かっているのだ。
午後の掃討が終わる頃、今度は真壁に表示が出た。
子どもたちがそれぞれ役割を覚え、リュシアが地図と物資を回し、セルマが誘導具を調整する中で、真壁は一日中、全体を見ていた。敵の位置、子どもたちの距離、退路、誘導具の残り、処理済み地点、次の候補地、帰還時刻。
彼は雷を撃っていない。
だが、雷を撃つ場所と時間を決めていた。
彼は荷を大量に運んでいない。
だが、人と物の流れを組んでいた。
だから表示は、子どもたちより重かった。
----------------------------------
真壁久忠
分類:人間/異界漂着者
現在ジョブ:商人
レベル:2 → 6
前職:指揮官 Lv14
前職影響:あり
状態:残敵掃討指揮完了/商人職急速適応
疲労度:48%
体力:74 → 75
筋力:60
器用:76 → 78
知力:83 → 84
判断:93 → 95
精神:93
集中:84 → 87
既得スキル:交渉:7
既得スキル:指揮:7
既得スキル:軍略:6
既得スキル:礼法:6
既得スキル:美術眼:6
既得スキル:古物鑑定:5
既得スキル:威圧:5
既得スキル:書類読解:3
既得スキル:現代知識:2
既得スキル:異界適応:3
既得スキル:商才:1 → 3
既得スキル:鑑定:1 → 3
既得スキル:収納:1 → 2
成長:索敵誘導:1 → 3
成長:危険物資管理:1 → 3
成長:小隊運用:1 → 2
成長:戦場物流:1
成長:撤収判断:1
成長:残敵掃討指揮:1
獲得SP:6
未使用SP:7
注意:商人ジョブとして異例の実戦経験を獲得しました
注意:前職指揮官の経験が商人職の人員配置・物資運用・危険判断へ接続されています
----------------------------------
ミラが表示を読み上げる声だけが、少し震えていた。
「商人レベル、二から六……」
トルが目を丸くした。
「僕たちより上がってます」
リュシアが地図を畳みながら言った。
「当然だよ。今日の商人一日目は、人と物と雷とゴブリンを全部並べ替えてたからね」
真壁は表示を眺め、低く呟いた。
「商人とは、なかなか忙しい職だな」
「今日のは商人というより、討伐隊長だよ」
リュシアが言う。
真壁は少し考えた。
「しかし物と人を配った。商人の範疇でしょう」
「否定しにくいのが嫌だね」
セルマが腕を組んだ。
「澪がいたら、ここで頭を抱えてたね」
「だから休ませた」
真壁は平然と言った。
リュシアは表示の下を指差した。
「未使用SP、七つあるよ。使うのかい」
真壁はすぐには答えなかった。
地図、匂い袋、音袋、ミラの記録札、ピナの布、トルが握っていた伝言札を順に見た。
「使うべき時に使わぬ力は、帳簿に眠る金と同じだ。役に立たん」
リュシアが笑った。
「その言い方、商人っぽいね」
「ならば、少しはこの職にも馴染んできたということだな」
ミラが聞く。
「商才を上げるんですか」
真壁は首を横に振った。
「商才は今、交渉と美術眼で補える。足りぬのは、こちらの品物を正しく見る目と、持ち運ぶための手だ」
リュシアが頷いた。
「鑑定と収納だね」
「そうだ。商人として、まずはそこを外すべきではない」
真壁は迷わなかった。
----------------------------------
真壁久忠
分類:人間/異界漂着者
現在ジョブ:商人
レベル:6
未使用SP:7 → 2
割振:鑑定:3 → 4
消費SP:3
割振:収納:2 → 3
消費SP:2
既得スキル:商才:3
既得スキル:鑑定:3 → 4
既得スキル:収納:2 → 3
結果:品物・人物・危険物の価値判断精度が上昇しました
結果:小型荷物・書類・道具類の収納運用が実務域に入りました
残SP:2
注意:商才は交渉・美術眼・前職指揮経験により補助されています
----------------------------------
「残り二つは使わないんですか」
トルが首をかしげる。
「商才を次へ上げるには足りん。足りぬものに無理に使うより、残す」
「残すのも商人ですか」
トルが聞くと、リュシアが即答した。
「かなり商人だね」
真壁は頷いた。
「交渉だけできても、品を見誤れば商いは崩れる。品を見ても運べなければ、やはり崩れる。ならば鑑定と収納だ」
セルマが感心したように言った。
「戦う商人じゃなくて、危ない場所でも商売を壊さない商人、って感じだね」
真壁は少し考え、それから静かに頷いた。
「悪くない定義だ」
ミラは表示を記録しながら、真面目に言った。
「商人としては変です」
真壁は否定しなかった。
「変わった商会には、相応の商人が要る」
夕方、町外れの最後の地点で、ミラが鑑定した。
水路の向こう、林の影、古い倉庫の裏、畑の端。見える範囲と、今日回れる範囲は確認した。
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町近辺の魔物反応
分類:周辺確認
対象:ゴブリン残敵
反応:なし
痕跡:古いもののみ
注意:遠方の再侵入には見張り継続が必要
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ミラは表示を読み上げた。
「町近辺の魔物反応、なし。痕跡は古いもののみ。遠方の再侵入には見張り継続が必要」
リュシアは地図を見下ろし、印を一つずつ確認した。
「今日見られる範囲は片づいたね」
セルマが薬袋を肩にかけ直す。
「無傷で終わったのは大きい」
ピナは布袋の数を確認し、使ったものと残ったものを分けた。トルはまだ少し動きたそうにしている。
「まだ走れます」
ミラがすぐに返す。
「走れるうちに帰るんです」
ピナも言う。
「昨日学びました」
トルは納得いかない顔をした。
「待機の次は帰還ですか」
リュシアが地図を丸めながら言った。
「いい商人は帰ってくるんだよ」
真壁も頷く。
「余力を残して終える。これも仕事だ」
「仕事、多いですね」
トルが言う。
「商人ですから」
ミラが言った。
「商人、すごいです」
「今日の商人を基準にしないで」
リュシアが二度目の釘を刺した。
夕暮れの光が、畑道を長く伸ばしている。朝には不安だった町外れの道が、少しだけ静かになっていた。安全になったと断言するには早い。けれど、少なくとも今日、見える範囲の残敵はいない。
真壁は町の方を見た。
「戻ろう。報告までが仕事だ」
トルが小さく言った。
「帰還も仕事」
ピナが頷く。
「報告も仕事」
ミラが記録した。
「帰還、報告、仕事」
「それは記録するんですね」
トルが言うと、ミラは真面目に返した。
「重要です」
澪は、現代側で少し眠った。
布団に倒れ込んだ記憶はある。スマホの通知を見ないように裏返した記憶もある。目を閉じると、城壁とバリスタとゴブリンキングと鑑定表示が順番に出てきたが、それも途中で溶けた。
目が覚めた時、部屋の光は夕方に近かった。
身体はまだ重いが、朝よりはましだった。
そっと自分を鑑定すると、疲労度は下がっていた。完全回復ではない。それでも、七十四という数字ではないことに少し安心する。
澪は水を飲み、軽く食べ、迷った末に押し入れの前へ立った。
「少しだけ。様子を見るだけ」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からなかった。
押し入れを通ると、向こう側の空気は夕方の匂いがした。
事業所へ行くと、机の上に記録帳が積まれていた。
いつもより多い。
嫌な予感がした。
扉を開けると、真壁、リュシア、セルマ、ミラ、ピナ、トル、マルテがいた。全員、無事そうだった。無事そうではあったが、妙に充実した顔をしていた。
真壁が澪へ振り返る。
「近辺の残敵は片づけました」
澪は、しばらくその言葉を理解できなかった。
「はい?」
マルテが記録帳を開いた。
「本日の記録です。索敵地点、誘導回数、無力化数、負傷者なし、町近辺の魔物反応なし。ミラ、ピナ、トル、真壁のレベルアップあり」
澪は机に近づき、記録を見下ろした。
畑道。
水路。
林の端。
古い倉庫跡。
誘導回数。
無力化数。
負傷者なし。
子どもたちの商人レベル四から五。
真壁の商人レベル一から六。
鑑定四。
収納三。
残SP二。
澪は頭を抱えた。
「私が寝ている間に、何をしているんですか」
真壁は平然としていた。
「君を休ませた」
「その結果がこれですか」
リュシアが笑う。
「でも、町の近くは安全になったよ」
セルマも頷いた。
「怪我人も出てない」
トルが少し誇らしそうに胸を張る。
「僕、待てる雷になりました」
「情報量が多い」
澪は椅子に座った。今度は、倒れ込むようにではなく、自分で選んで座った。
机の上には、押入商会が自分抜きで動いた証拠が並んでいる。
それは、とても良いことだった。
澪がいなくても、リュシアがいて、セルマがいて、マルテが記録し、ミラが見て、ピナが整え、トルが待てるようになり、真壁が全体を組める。
とても良いことだった。
とても良いことだったのだが、真壁久忠が商人レベル一から始めた初仕事は、近辺のゴブリン残敵を一日で殲滅することだった。
澪は記録を見下ろし、しばらく黙った。
「押入商会は……」
そこまで言って、言葉を探す。
真壁が待っている。リュシアはにやにやしている。セルマは笑いをこらえている。ミラとピナは真面目な顔で、トルは褒められる準備をしている。
澪は深く息を吐いた。
「私が思っていたよりも、ずっと危ない方向へ自走し始めています」
真壁は、少しだけ満足そうに言った。
「自走する組織は強い」
「方向です。方向が問題なんです」
トルが手を上げた。
「でも、僕は待ちました」
澪は、トルを見た。
そして、少しだけ笑った。
「そこは、偉いです」
トルの顔がぱっと明るくなった。
ミラが記録した。
「トル、待機を褒められる」
「それは記録してください」
トルが胸を張る。
澪はもう一度、机の上の記録を見た。
押入商会は、勝手に止まらなかった。
それは、きっと良いことなのだ。
ただし、止まらなかった結果が真壁式レベリングだったことについては、あとで神様に小声で文句を言ってもいい気がした。