押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第78話 収納は荷袋ではない

 

 朝の押入商会侯爵領事業所は、昨日より少しだけ静かだった。

 

 昨日の騒ぎと、真壁式レベリングという名のよく分からない残敵掃討と、真壁久忠の商人レベル急上昇が、一晩明けても机の上に残っている。

 

 記録帳。

 

 地図。

 

 昨日使った伝言札。

 

 ミラの細かい文字。

 

 ピナが畳み直した布。

 

 トルが「待機命令理解」と書かれた自分の表示にまだ少し納得していない顔。

 

 そして、澪の収納レベル表。

 

 真壁はその紙を、朝から静かに読んでいた。

 

 紙は澪の字だった。きれいというより、あとで自分が困らないために急いで整えた字である。収納一、収納二、収納三、と段階ごとに重さの目安が書かれ、その横に分類保持、形状保持、状態保持、時間遅延の備考が小さく添えられている。

 

 収納一は、紙束や小道具。

 

 収納二は、工具箱や小型木箱。

 

 収納三は、五十キロ前後。書類、小箱、金具箱、小型荷物一式。分類保持が実務入口。状態保持はごく弱いか未発現。時間遅延は基本未発現。

 

 真壁はそこで、自分の現在地を確認するように指を止めた。

 

 現在の自分は収納三。

 

 確かに、昨日の残敵掃討では役に立った。記録札、小道具、道具袋、回収した危険物。そうしたものをしまうには十分だった。

 

 だが、澪が抱えている荷は、そういうものではない。

 

 家具。

 

 木材。

 

 仕入れ品。

 

 現代側で撮影し、説明し、納品し、怪しまれないように運ばなければならない品物。

 

 真壁は紙を畳まなかった。

 

 澪が事業所へ顔を出した時、真壁はいつもの低く整った声で言った。

 

「澪君、今日は収納の拡張をしてこようと思っているが、良い訓練材料はないか?」

 

 澪は、扉を開けた姿勢のまま一瞬止まった。

 

「おはようございます、の前にそれですか」

 

「おはよう。では改めて聞く。良い訓練材料はないか?」

 

「改めても早いです」

 

 澪はそう言いながらも、真壁が広げている収納レベル表を見て、すぐに表情を変えた。

 

 収納三では、足りない。

 

 それは澪にも分かる。

 

 真壁が収納を伸ばせば、押入家具工房から現代側へ持ち込む荷物の一部を任せられる。家具本体はまだ無理でも、金具箱、撮影用の布、小型部材、資料、梱包材、仕入れ品の一部を真壁が持てるだけで、澪の手間は減る。

 

 出荷量も、少し増やせるかもしれない。

 

 現代側への搬出入も、怪しまれない形に整えやすくなる。

 

 澪は、少し考えた。

 

「訓練材料……水、ですかね」

 

「水」

 

「前に、ミラ、ピナ、トルと訓練した池があります。ビッグバスがいた管理池です。今はだいぶ数も減ってるはずなので、水を使うなら、あそこがいいかもしれません」

 

「水は重い。形がない。失敗しても壊れにくい。悪くない」

 

 真壁はすぐに頷いた。

 

 澪はその反応の早さに、やや不安になった。

 

「今回は、私と真壁さんだけで行きましょう」

 

「子どもたちは連れていかないのか」

 

「連れていきません」

 

 澪は即答した。

 

 ビッグバス池。

 

 収納訓練。

 

 水。

 

 真壁。

 

 この組み合わせで、何かが起きる気がしてならない。そこにトルがいたら、絶対に「僕もやりたいです」と言う。ミラがいれば記録する。ピナがいれば布で受け止める。リュシアがいれば商売にする。セルマがいれば錬金に応用する。

 

 まずは、真壁だけでいい。

 

 澪はそう判断した。

 

「では、行きましょう」

 

「案内を頼む」

 

 真壁は収納レベル表を丁寧に折り、胸元へしまった。

 

 それだけの仕草なのに、なぜか戦場地図を懐へ入れる指揮官のように見えた。

 

   

 

 

 池へ向かう道は、朝の光で明るかった。

 

 昨日の残敵掃討の後だからか、町外れの道は少し落ち着いている。畑の向こうに水路があり、その先に低い木立がある。ビッグバス池は、その奥にあった。

 

 以前、ミラ、ピナ、トルが雷と収納と度胸をまとめて伸ばした場所。

 

 澪にとっては、少し目をそらしたい思い出でもある。

 

 池は、思ったより静かだった。水面には細かな波が立ち、岸辺の草が風に揺れている。以前は大きな魚影が時々ぬっと動き、澪の心臓に悪かったが、今はそういう気配が少ない。

 

 真壁は池の前で足を止め、黙って水面を見た。

 

 そして鑑定する。

 

----------------------------------

管理池

 分類:隔離池/訓練使用済

 水量:多

 状態:安定

 大型魚反応:少数

 ビッグバス密度:大幅低下

 小型生物:あり

 泥砂:底部に多い

 注意:水収納訓練に使用可能

----------------------------------

 

「大幅低下」

 

 真壁は表示を読み、わずかに頷いた。

 

「以前の危険な訓練が、今日の訓練場を作ったわけだな」

 

「結果で正当化しないでください」

 

「結果を無視するのも、品がない」

 

「その理屈、便利に使いすぎです」

 

 澪はそう言いながらも、反論しきれなかった。

 

 ビッグバスの数が減っているのは事実だ。池は以前より安全になっている。水収納の訓練場としては、確かに使いやすい。

 

 真壁は池の縁に立ち、水面をじっと見つめた。

 

 ただ水を見る目ではない。

 

 値を見る目でもない。

 

 地形を見る目、物資を見る目、危険を見る目。真壁は池を、訓練材料として分解して見ていた。

 

「では」

 

 真壁は低く言った。

 

 澪は少し身構える。

 

 真壁は池を見つめたまま、ゆっくり意識を絞った。

 

「空間把握。一般男性一人分程度の水。植物性プランクトン、動物性プランクトン含有。泥砂含まず。小型生物除外。収納」

 

 言葉は静かだった。

 

 けれど、その瞬間、池の水面に妙な沈みが生まれた。

 

 こぽっ。

 

 水そのものが小さな音を立てて消えたように見えた。

 

 真壁の頭の中に、何かが収まる感覚があったのだろう。彼は眉間をほんの少しだけ寄せた。

 

 目の前では、失われた空間に周囲の水が流れ込んでいた。

 

 水面が丸く沈み、周囲から波が寄り、すぐに元の高さへ戻っていく。まるで池が、自分の失った部分を慌てて埋め直したようだった。

 

 澪は息を呑んだ。

 

「今の、入りました?」

 

「入った」

 

 真壁は池ではなく、自分の頭の奥を確認するように、少しだけ目を細めた。

 

「腕には来ない。腰にも来ない。だが、頭の奥が重い」

 

「頭の奥」

 

「これは荷を持つ力ではない。荷を定義する力だな」

 

 澪は一瞬、言葉を失った。

 

 一回でそこまで行くのか。

 

 真壁は水面を見る。

 

「水はよい。抜いた範囲が、波で返ってくる。木箱ではこうはいかん。私は今、重さだけではなく、空間を指定した」

 

 真壁は片手を池の上へ向けたまま、さらに続けた。

 

「泥砂を含まず、小型生物を除外した。つまり、収納は吸い込む力ではない。条件で選んでいる。植物性、動物性の細かなものは含めたが、底の泥と小さな生き物は外した」

 

 澪は、真壁の横顔を見た。

 

 声は落ち着いている。

 

 けれど、目が少しだけ明るい。

 

 この人、もう楽しくなっている。

 

 澪はそう思った。

 

 真壁が自分の収納を鑑定する。

 

----------------------------------

真壁久忠の収納

 分類:収納技能

 スキルレベル:収納:3

 収納対象:池水

 収納指定:空間指定/成分指定/除外指定

 現在収納重量:約65kg

 安定運用重量:35kg前後

 負荷:高

 疲労増加:+8%

 分類保持:普通

 分離精度:低 → 普通

 状態:高負荷

 注意:重量より条件指定による認識負荷が大きい

----------------------------------

 

「安定運用重量は超えていますね」

 

 澪が言う。

 

「入ったが、仕事で使える入り方ではない。限界を触っただけだ」

 

 真壁は水面を見たまま答える。

 

「だが、触らねば限界は測れん」

 

「真壁さん、今日ずっとその調子ですか」

 

「調子が良い」

 

「そういう意味ではないんですが」

 

 澪は少しだけ不安になった。

 

   

 

 

 真壁が収納した水を、今度は出す番になった。

 

 澪は池のそばに置かれていた古い桶を見つけ、底に穴がないことを確認してから、真壁の前に置いた。

 

「水は、出す時も工夫できます」

 

「入れる時だけではなく、出す時もか」

 

「はい。一気に出すと、ただの水ぶちまけになります。桶に出すなら桶の中へ。布を湿らせるなら、布に染み込ませる感じで。細く出すことも、広げて出すこともできます」

 

「できる、ではなく、できることがある、か」

 

「私もまだ全部は分かってません」

 

「よい。分からぬものを分かると言い切るより、よほど品がある」

 

 澪は褒められた気がしたが、あまり嬉しくない。

 

 真壁は桶の前に立ち、収納内の水を意識した。

 

「では、出す」

 

 次の瞬間、桶の上に水が現れた。

 

 ただし、少し勢いが強かった。

 

 ばしゃ、と音がして、桶の縁から水が跳ねる。澪は一歩引き、真壁の靴先が濡れた。

 

 真壁は濡れた靴先を見下ろし、静かに頷いた。

 

「出す場所、量、勢いの指定が甘い」

 

「一回目でそこまで冷静に言えます?」

 

「濡れた理由を知らぬまま二回目を行うのは、品がない」

 

「今日の品がない、便利ですね」

 

 真壁はもう一度、桶を見た。

 

 今度は水の出る場所を桶の中央に絞り、勢いを弱める。水は少し太い糸のように現れ、桶の内側へ落ちた。先ほどのような跳ねはほとんどない。

 

 桶の中に、水面が静かに上がっていく。

 

「改善」

 

 真壁が言った。

 

「早いですね」

 

「水は失敗が見える。よい訓練材料だ」

 

 澪は頷いた。

 

「家具でこれをやると危ないです」

 

「水で済ませて正解だな」

 

 真壁は桶の中の水を見つめた。

 

「収納とは、荷を消す力ではない。荷を定義し、保ち、戻す力だ」

 

 その言葉に、澪は少しだけ黙った。

 

 真壁は収納を、もう荷物袋として見ていない。

 

 技術体系として見始めている。

 

 それは頼もしい。

 

 とても頼もしい。

 

 そして、かなり怖い。

 

   

 

 

「では、私の方で少し見せます」

 

 澪は池の水を見た。

 

 真壁が使う水は真壁の収納水。澪は自分の収納内の水を少しだけ意識する。

 

 一気に出すのではない。

 

 桶へ注ぐのでもない。

 

 水を、細かく、細かく、空気の中へほどく。

 

 収納の出口を、ごく細くする。

 

 水を押し出す。

 

 ふわり、と白い霧が池のほとりに広がった。

 

 朝の光がそこへ斜めに差し込む。

 

 最初は、ただ薄く濡れた空気に見えた。けれど次の瞬間、霧の向こう側に淡い色が浮いた。

 

 赤、橙、黄、緑、青。

 

 細く、薄く、けれど確かに、虹がかかっていた。

 

 澪は少しだけ得意になりかけた。

 

 だが、真壁は虹そのものを見ていなかった。

 

 真壁は、水の出た場所を見ていた。

 

「……圧力」

 

 低い声だった。

 

 澪が振り向く。

 

「え?」

 

「いま、君は水を細く絞った。出口を狭めた。だが、水は止まらず、霧になって出た」

 

 真壁の視線は、消えかける霧を追っている。

 

「圧力……収納内に圧力をかけられるのか」

 

「圧力、ですか?」

 

「水を出す場所、量、形、勢い。そこまでは分かる。だが今のは、出口を細くしただけではない。押し出した」

 

 澪は自分の手を見た。

 

 確かに、霧にする時は、水を細かくして、押し出すように意識した。蛇口ではない。ノズルでもない。けれど、頭の中で細く絞った出口を作った。

 

 真壁の目が、少し鋭くなる。

 

 それは危ないことに気づいた目ではある。

 

 だが、止める目ではなかった。

 

「少し試す」

 

 真壁はそう言って、池のそばの藪へ歩いていった。

 

 澪の背中に嫌な予感が走る。

 

「真壁さん?」

 

 真壁は藪の前で立ち止まり、人差し指を立てた。

 

 その仕草は、剣を抜くより静かだった。

 

「細く、細く」

 

 低い声が落ちる。

 

「超高圧をかけて、出力」

 

 次の瞬間、指先から水が出た。

 

 水、というより、細い線だった。

 

 白く光るほど細い水の線が、真壁の指先から伸びる。

 

 真壁はその指を、右から左へゆっくり移動させた。

 

 藪が、遅れて揺れた。

 

 葉が落ちる。

 

 細い枝が、ぱらぱらと音を立てて落ちる。

 

 少し太い草の茎も、同じ高さで切れていた。

 

 澪は両手で顔を覆いかけた。

 

「水で切れた……」

 

 真壁は切れた藪の断面を見て、静かに頷いた。

 

「草刈り機程度の役には立つか」

 

「そこですか」

 

「まず用途を小さく置くべきだ。使い道を広く考えるのは、その後でよい」

 

「もう十分広いです」

 

 澪はそう言ったが、真壁はまだ藪を見ている。

 

「水路脇の草、工房周辺の雑草、埃落とし、粉塵抑制、洗浄、布湿らせ、火元周辺の湿らせ。戦うためではなく、作業を整えるために使える」

 

「今、戦うためにも使えるって言いかけましたよね」

 

「言っていない」

 

「目が言いました」

 

「目は時々余計なことを言う」

 

 澪は深く息を吐いた。

 

 ここにトルがいなくて本当によかった。

 

 ミラがいれば記録しただろう。

 

 ピナがいれば切れた枝を布で包んだだろう。

 

 リュシアがいれば、草刈りの料金を考えたかもしれない。

 

 セルマがいれば、工房の洗浄に使おうとしたかもしれない。

 

 そして今、一番危ない分析をしているのは真壁だった。

 

   

 

 

 澪は、池の浅いところに濁りが溜まっているのを見つけた。

 

 泥砂が混じり、細かな草の破片が浮いている。真壁の高圧水で切れた藪の一部も、水際に落ちていた。

 

「水と残渣も、分けられるかもしれません」

 

 澪が言うと、真壁はすぐに振り返った。

 

「残渣」

 

「水の分子だけを意識して取り出す感じです。泥とか砂とか、細かい残りものを残して、水だけ抜く。私の収納だと、ある程度できます」

 

「水分子だけを対象にするのか」

 

 真壁の声が、また少し明るくなった。

 

 澪はその明るさに不安を覚えながらも、実演した。

 

 濁った浅い水へ意識を向ける。

 

 水。

 

 水分。

 

 泥砂ではなく、残渣ではなく、小さな生き物でもなく、水そのもの。

 

 収納。

 

 濁り水の一部が、すっと消えた。

 

 底に泥砂が残る。

 

 澪は収納した水を桶へ出した。完全な透明ではないが、池の浅瀬よりはずっと澄んでいる。

 

 真壁はそれを見て、目を細めた。

 

「分離か」

 

「はい。ただ、私でも完全ではないです。水として扱いやすいところを抜く感じですね」

 

「やってみよう」

 

 真壁は浅瀬の濁りへ向かった。

 

 今度は、先ほどよりも長く沈黙した。

 

 空間ではなく、成分を掴もうとしている。

 

 水。

 

 泥砂ではなく。

 

 残渣ではなく。

 

 水分子。

 

 小型生物除外。

 

 収納。

 

 濁りがわずかに動いた。

 

 真壁は桶へ水を出す。

 

 澪が鑑定した。

 

----------------------------------

収納水

 分類:池水/分離試行

 含有:水分主体

 混入:泥砂少量

 小型生物:除外成功

 残渣分離:不完全

 状態:収納直後

 注意:水分子指定には鑑定精度と収納精度が不足しています

----------------------------------

 

「不完全ですね」

 

 澪が言うと、真壁はむしろ満足そうに頷いた。

 

「不完全であることが見えるのはよい。何が足りぬかが分かる」

 

「前向きですね」

 

「水を抜いた。泥砂は少し混じった。小型生物は除外できた。つまり、生命反応の除外は比較的効く。泥砂は水に近く、分けにくい」

 

 真壁は桶の水を見た。

 

「収納は、物体単位ではない。成分単位で対象を指定できる。これは荷袋ではない。分ける技術だ」

 

 澪は頭を抱えた。

 

「また増えた……」

 

「何が増えた」

 

「収納の説明です」

 

「よいことだ」

 

「よいことなんですけど、よくないんです」

 

 真壁はそこをあまり理解していない顔で、濁り水と残った泥を見比べていた。

 

   

 

 

 澪は、現代側の仕事を思い出した。

 

 問い合わせの返信。

 

 家具写真の整理。

 

 発送予定の確認。

 

 現代側の納品連絡。

 

 真壁の収納訓練は重要だが、押入商会は現代側の仕事を放置するとすぐに詰まる。澪のスマホには、まだ未読の通知が残っている。

 

 澪は池のほとりで、少し迷った。

 

 真壁は、完全に楽しそうだった。

 

 いや、顔はいつも通り静かである。

 

 だが、目が違う。

 

 江古田の古道具屋で、壺の置き方を見ていた時の目に近い。価値を見つけた人間の目だ。

 

「真壁さん」

 

「何だ」

 

「私はいったん現代側の仕事に戻ります」

 

「分かった」

 

 返事が早い。

 

 それはそれで不安だった。

 

「やりすぎないでくださいね」

 

「やりすぎる前に記録する」

 

「それ、止まる保証ではないですよね」

 

「止まるためにも記録は要る」

 

 澪はしばらく真壁を見た。

 

「……本当に、無理はしないでください」

 

「疲労度は見る。限界は超えん」

 

「限界の定義が人より遠そうなんですよ」

 

「遠い限界も、見えていれば限界だ」

 

 澪は、もう一度だけ池の周りを見た。

 

 薄い虹の残り。

 

 切れた藪。

 

 澄んだ水の桶。

 

 泥砂の残った浅瀬。

 

 この時点ですでに、かなりおかしい。

 

 だが、たしかに実用的でもある。

 

 澪は押し入れ側へ戻るため、町へ向かって歩き出した。

 

 途中で一度振り返る。

 

 真壁はもう池の水面を見ていた。

 

 完全に、次を考えている顔だった。

 

   

 

 

 真壁は一人になった。

 

 池のほとりに、風が流れる。

 

 水面が揺れる。

 

 切れた藪の葉が、少しだけ水へ落ちる。

 

 真壁は胸元から、澪の収納レベル表を取り出した。

 

 収納三。

 

 五十キロ前後。

 

 状態保持はほぼ未発現。

 

 時間遅延なし。

 

 収納四。

 

 百キロ前後。

 

 水百キロ級。

 

 分類保持が安定し始める。形状保持の芽。状態保持は弱い。時間遅延は未発現またはごく短時間の違和感程度。

 

 真壁は表を畳んだ。

 

「まず、四だな」

 

 声は低い。

 

 だが、池の周りに人がいたなら、彼が静かに高揚していることに気づいただろう。

 

 真壁は水を収納した。

 

 今度は、先ほどより範囲を少し広げる。

 

 泥砂を除く。

 

 小型生物を除く。

 

 水量を指定する。

 

 水が抜け、波が戻る。

 

 頭の奥に重みが来る。

 

 真壁はそれを記録する。

 

 次に、桶へ出す。

 

 最初より静かに出る。

 

 桶の縁は濡れない。

 

 記録する。

 

 次に、細い水流。

 

 地面へ向ける。

 

 土が黒く濡れ、筋を作る。

 

 勢いを少し上げると泥が跳ねる。

 

 記録する。

 

 次に、霧。

 

 澪のものほど細かくはない。虹は薄い。けれど、朝よりは粒が揃う。

 

 記録する。

 

 次に、布。

 

 池のそばに置いてあった古布へ、水を少しずつ含ませる。最初は一部だけ濡れすぎる。次に、広く薄く湿らせる。

 

 記録する。

 

 次に、濁り水。

 

 水分子を意識する。

 

 泥砂を残す。

 

 残渣を残す。

 

 小型生物除外。

 

 澄んだ水が少し増える。

 

 完全ではない。

 

 記録する。

 

 次に、藪。

 

 先ほど切った場所の隣へ立つ。

 

 細く、細く。

 

 出力を絞る。

 

 指先をゆっくり動かす。

 

 草が同じ高さで落ちる。

 

 切りすぎない。

 

 太い枝には使わない。

 

 草刈り用途。

 

 記録する。

 

 次に、水路脇。

 

 池へ流れ込む細い水路の縁に、草が茂っていた。真壁は足場を確かめ、指先の水線を短く出し、草だけを落とす。泥を跳ねさせないよう、出力を抑える。

 

 水路が少し見える。

 

 記録する。

 

 次に、桶を三つ並べる。

 

 濁り水。

 

 分離した水。

 

 残渣。

 

 それぞれの違いを見る。

 

 鑑定する。

 

 記録する。

 

 真壁の顔は、ずっと静かだった。

 

 しかし、やっていることは完全に暴走だった。

 

 本人の中では、すべてが商会の道具へつながっている。

 

 家具搬出前の埃落とし。

 

 工房の粉塵抑制。

 

 夏場の打ち水。

 

 布の湿潤。

 

 水路掃除。

 

 藪払い。

 

 簡易洗浄。

 

 濁水分離。

 

 素材洗浄。

 

 火元周辺の湿らせ。

 

 収納は、荷物を入れるだけではない。

 

 商会の手足になる。

 

 真壁は、そう結論づけながら、もう一度池の水を収納した。

 

   

 

 

 夕方近く。

 

 澪は現代側の仕事を終え、もう一度池へ戻った。

 

 戻る途中から、嫌な予感はしていた。

 

 水路の流れが、朝より見える。

 

 池のそばの藪が、なぜかきれいに刈られている。

 

 草の高さがそろっている。

 

 しかも、刃物で雑に刈った感じではない。妙にすっきりしている。

 

 池のほとりへ着いた澪は、足を止めた。

 

 桶が並んでいた。

 

 澄んだ水の桶。

 

 少し濁った水の桶。

 

 泥砂と残渣が沈んだ桶。

 

 湿った布。

 

 水路脇から払われた草。

 

 浅瀬の泥砂を分けた皿。

 

 そして、真壁が池のそばで淡々と記録をつけていた。

 

 澪はしばらく動けなかった。

 

「私が仕事している間に、何をしていたんですか」

 

 真壁は顔を上げた。

 

「収納訓練だ」

 

「規模がおかしいです」

 

「訓練材料がよかった」

 

「池を整備しろとは言ってません」

 

「結果として整った」

 

「結果で正当化しないでください、二回目です」

 

 真壁は記録を閉じた。

 

「成果も出た」

 

 その言葉と同時に、鑑定表示が澪の視界に浮かぶ。

 

----------------------------------

真壁久忠

 分類:人間/異界漂着者

 現在ジョブ:商人

 レベル:6 → 7

 状態:収納拡張訓練中/高集中

 疲労度:48% → 63%

 既得スキル:鑑定:4 → 5

 既得スキル:収納:3 → 4

 既得スキル:商才:3

 成長:水量指定:1

 成長:空間把握:1

 成長:排出制御:1

 成長:圧力制御:1

 成長:残渣分離:1

 成長:水路整備:1

 獲得SP:1

 未使用SP:2 → 3

 注意:収納を荷物保管ではなく、対象指定・排出制御として理解し始めています

----------------------------------

 

 澪は目を閉じた。

 

 開けたら消えているかと思った。

 

 消えていなかった。

 

 さらに表示が続く。

 

----------------------------------

真壁久忠の収納

 分類:収納技能

 スキルレベル:収納:3 → 4

 収納可能重量:50kg前後 → 100kg前後

 安定運用重量:35kg前後 → 75kg前後

 収納可能点数:8点 → 12点

 分類保持:普通 → 良

 形状保持:低 → 普通

 状態保持:未発現 → 低

 時間遅延:未発現

 排出制御:芽あり

 圧力制御:芽あり

 残渣分離:芽あり

 状態:収納拡張成功

----------------------------------

 

「収納四……鑑定五……」

 

 澪はゆっくり表示を読み上げた。

 

「排出制御。圧力制御。残渣分離。水路整備」

 

「水路整備は、使える」

 

「そこじゃないです」

 

「澪君」

 

 真壁は池の水面を見る。

 

「収納は荷袋ではない。扱い方を覚えれば、商会の手足になる」

 

 澪は、整備されすぎた池のほとりを見た。

 

 朝には藪だった場所が草刈りされている。

 

 濁っていた水が分けられている。

 

 桶が並び、布が湿り、水路が少し流れやすくなっている。

 

 便利だ。

 

 間違いなく便利だ。

 

 家具本体を運ぶにはまだ足りない。収納四では、大型家具には届かない。けれど、工具箱、金具箱、水、布、清掃、冷却、草刈り、仕入れ品の一部は任せられるようになる。

 

 澪の荷は、少し減る。

 

 確実に減る。

 

 それが一番厄介だった。

 

「真壁さん、便利になる速度が怖いです」

 

「速度は悪ではない。制御しない速度が悪だ」

 

「それ、また私の仕事が増える言い方です」

 

「減らすために増やしている」

 

 澪は反論できなかった。

 

 真壁久忠は、池の水をしまい、出し、霧にし、虹を作り、藪を刈り、水と残渣を分けた。

 

 そして夕方には、何事もなかったような顔で、収納は荷袋ではないと言った。

 

 澪は、整備されすぎた池のほとりに立ち、深く息を吐いた。

 

 押入商会はまた一つ便利になった。

 

 そして、また一つ危なくなった。

 

 だが、真壁の収納が上がれば、たしかに澪の荷は減る。

 

 その事実が、何より厄介だった。

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