翌朝、澪は大学へ行く支度をしながら、冷蔵庫を開けた。
棚には昨日買ったポカリがまだ残っている。
司祭様を助けるために飲ませただけなのに、ヴァルデスでは高位の回復薬扱いされ、飲み終えたペットボトルまでリュシアに持っていかれた。
「今日は水にしよう」
水のペットボトルを鞄へ入れる。
別にポカリが悪いわけではない。むしろ司祭様を助けてくれた。
ただ、昨日は飲み物ひとつから話が広がりすぎた。
その代わりに得たものもある。
鑑定。
司祭様に見つけてもらった芽を、神前の儀式で正式なスキルにしてもらった。昨日試したカラビナでは、名前や用途、扱う時の注意まで見えた。
では、ゲンダイでも使えるのか。
澪は六畳間を見回した。
彫金道具。ギター。冷蔵庫。大学の教科書。昨日までならただの部屋の中身だったものが、今日は片端から鑑定してみたい物に見える。
目の前のミニテーブルへ意識を向けかけて、澪は時計を見た。
「……大学が先」
ここで始めたら、おそらく止まらない。
鞄を肩へ掛け、部屋を出た。
◇ ◇ ◇
講義開始前の教室には、まだ学生たちの話し声が残っていた。
椅子を引く音、机へ鞄を置く音、ペットボトルの蓋を開ける音が、広い室内のあちこちから聞こえる。窓際には春の日差しが差し込み、少し開いた窓から入る風が配布されたプリントの角を揺らしていた。
澪はいつものように端の席へ座る。
前でも後ろでもない。隣が空いている可能性が高く、出入りもしやすい場所だ。
教授が入ってくると、教室のざわめきが少しずつ収まった。
澪もノートを開き、シャープペンを置く。
今日は普通に授業を受ける。
異世界も押入商会も、少なくとも講義が終わるまでは考えない。
そう決めた。
そして、その決意は机の上のシャープペンを見たところで揺らいだ。
いつも使っている物だ。
形も使い方も分かっている。
だからこそ、鑑定したら何が見えるのかが気になる。
澪は教授の方へ顔を向けたまま、シャープペンへ意識を向けた。
──────────────────────────────────
シャープペンシル
分類:筆記具
用途:筆記
状態:使用可能
注意:強い筆圧で芯が折れる場合あり
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「……出た」
声が漏れた。
澪はすぐに口を閉じ、前の席を見た。
誰も振り返らない。
教授もこちらを見ていなかった。
もう一度、表示を見る。
全部知っている内容だった。
シャープペンで字を書くことも、芯を強く押せば折れることも、大学2年生になって初めて知る情報ではない。
それでも、鑑定は確かにゲンダイでも使えた。
そうなると、今度は消しゴムが気になった。
白いケースの角は少し潰れ、使っている側だけ丸くなっている。
見慣れた消しゴムである。
見るだけにしようと思ったのに、意識を向けた時点で表示が開いた。
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消しゴム
分類:文房具
用途:筆跡の消去
作用:紙面の黒鉛を除去
状態:使用可能
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澪は消しゴムをつまんだ。
「知ってる……」
当然だった。
消しゴムの使い方を鑑定に説明されている。
しかも、シャープペンには「注意」が出たのに、消しゴムには「作用」が出た。
物によって見える項目が同じとは限らないらしい。
そのことに気づいた途端、今まで何の興味もなかった机まで気になってきた。
机の天板。椅子。窓ガラス。教科書。前の席に置かれた水筒。
そのまま視線を上げると、水筒の持ち主がいる。
人も鑑定できるのだろうか。
澪は視線をノートへ戻した。
さすがに、それは試さない方がいい気がする。
その時、教授の声が耳に入った。
「観察というのは、対象を見るだけではありません。自分が何を見ようとしているのかを意識することも大切です」
澪は顔を上げた。
もちろん、教授は鑑定スキルの話などしていない。
それでも今日に限って、その言葉が妙に引っかかった。
自分は何を見ようとしているのか。
名前が知りたいのか、使い方なのか。危険があるか、壊れていないか。
押入商会の商品なら、客に渡して大丈夫かどうかも気になる。
そこまで考えてから、澪は教授の板書が先へ進んでいることに気づいた。
「……授業」
今やることだけは、鑑定しなくても分かった。
消しゴムを筆箱へ戻す。
講義が終わる頃には、ノートへ授業の要点も残っていた。
ただし、その余白には、
『消しゴム 紙面の黒鉛を除去』
とまで書いてある。
澪はしばらくその文字を見た。
「なんでメモしたんだろ……」
知っていることを鑑定に教えられ、さらにノートへ書き写した。
少し負けた気がした。
◇ ◇ ◇
講義を終えた澪は、そのままアパートへは戻らなかった。
六畳間にある物は、自分が知りすぎている。
せっかく試すなら、名前も性質もよく知らないものを見てみたい。
そこで思いついたのが、江古田の森公園だった。
大学を離れ、住宅地を抜けて新江古田の方へ歩く。
大通りから外れると車の音が少し遠くなり、低い家並みの間を自転車が抜けていく。玄関先には鉢植えが並び、塀から伸びた枝には新しい葉が増えていた。
宅配便の車が停まり、少し先では買い物袋を提げた人が歩いている。
昨日は石造りの小神殿で司祭様からスキルを正式にしてもらった。
今日は東京の住宅街を歩いている。
どちらも自分の生活になり始めていることが、改めて考えると少し変だった。
江古田の森公園へ入ると、住宅街にこもっていた空気が変わった。
入口近くには明るい芝生が広がり、その向こうに背の高い木々が重なっている。広場では子どもが走り、ベンチに座った人が水筒を傾けていた。
その先へ目を向けると、樹林の影はずっと濃い。
公園を造ってから木を並べたというより、以前からあった森を残して、その間に園路や広場を通したように見える。
ハナミズキの丘では、枝先に白い花が広がっていた。
四月の日差しを受け、花の白さが新しい葉の緑から浮き上がって見える。風が吹くたびに枝が揺れ、その下では犬を連れた人がゆっくり歩いていた。
澪はスマホを取り出した。
写真を撮るふりをして木を見ていれば、長く立ち止まってもそれほど怪しくはないだろう。
実際に1枚撮る。
画面の中には白い花と青空が収まった。
昨日までなら、それで満足して通り過ぎていたはずだ。
今日は木そのものが気になる。
澪は枝先から幹へ目を移し、鑑定を意識した。
──────────────────────────────────
ハナミズキ
分類:樹木
用途:観賞
状態:概ね良好
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「……これだけ?」
カラビナより情報が少ない。
植物図鑑のような説明が一気に出るものだと思っていたが、名前と大まかな用途、状態しか表示されなかった。
もう一度見る。
今度は、食べられるものなのかを意識してみた。
──────────────────────────────────
ハナミズキ
分類:樹木
用途:観賞
食用:非推奨
状態:概ね良好
注意:枝先に軽度の傷み
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「増えた」
澪はスマホを下ろした。
「食べるつもりはないんだけど……」
少なくとも、何を知りたいと思ったかによって表示が変わることは分かった。
鑑定は、何も考えず眺めれば全部教えてくれる便利な検索機能ではないらしい。
◇ ◇ ◇
ハナミズキの丘から奥へ入るにつれて、日差しの届き方が変わった。
芝生の明るさが後ろへ遠ざかり、木々の枝が頭上で重なっていく。園路には葉の隙間から落ちた光がまだらに揺れ、足元には去年のものらしい落ち葉が残っている。
樹林の向こうからは子どもの声が聞こえていたが、近くでは鳥の声の方がはっきりしていた。
澪は道端に生えている草へ目を向けた。
──────────────────────────────────
名称:不明
分類:草本
状態:乾燥気味
食用:非推奨
──────────────────────────────────
「不明なんだ」
知らない物でも必ず名前が分かるわけではなかった。
スマホを出して検索すれば、おそらく候補くらいは見つかる。
けれど、それをしてしまうと鑑定の実験にならない。
澪はスマホをポケットへ戻した。
「今日は検索なし」
園路をさらに進む。
木々の間から、水面が見えた。
ビオトープ池だった。
大きな池ではない。水際には草が茂り、その向こうに高い木々が立っている。枝葉が水面に影を落とし、風が通ると映っていた緑が細かく揺れた。
池へ近づくにつれて、土の匂いに湿り気が混じった。
乾いた園路とは空気が違う。
水際の草へ意識を向ける。
──────────────────────────────────
名称:不明
分類:草本
環境:湿地
状態:良好
注意:足元ぬかるみ
──────────────────────────────────
最後の項目を見て、澪は出しかけた足を止めた。
靴の先で土を押してみる。
柔らかく沈んだ。
「これは便利」
草そのものの情報だけではなく、自分が近づくうえで必要な注意まで拾っている。
池を離れ、樹林の中を歩く。
大きな葉を広げたアオギリがあり、少し先にはエゴノキも見えた。
枝についている実を意識する。
──────────────────────────────────
エゴノキ
分類:樹木
状態:結実
食用:非推奨
注意:実の取り扱い注意
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「食べません」
また食用が出た。
誰も聞いていないのに、澪はつい答えた。
異世界へ行く前なら、公園の木の実を見て最初に食用かどうか考えることなどなかった。
最近の自分は、知らない植物を見ると「使えるか」「危なくないか」が先に来るようになっている。
鑑定がそういう情報を拾うのなら、表示の内容にも多少は自分が混ざっているのかもしれない。
◇ ◇ ◇
頭上で枝が揺れた。
小さな鳥が、葉の間を移動している。
澪は足を止めた。
植物で使えるなら、生き物ではどうなるのだろう。
鳥へ意識を向ける。
──────────────────────────────────
小鳥
分類:鳥類
状態:正常
警戒:強
体力:低
行動:枝間を移動中
──────────────────────────────────
「生き物も出るんだ……」
ただし名前は「小鳥」のままだった。
種類を知らないからなのか、鑑定がまだLv1だからなのかは分からない。
少し歩くと、芝生の端でキジバトが地面をつついていた。
こちらは見覚えがある。
──────────────────────────────────
キジバト
分類:鳥類
状態:正常
行動:採食中
警戒:中
空腹:強
──────────────────────────────────
「あ、こっちは名前が出る」
自分が知っているものなら、表示も具体的になるのかもしれない。
澪は近くのベンチへ腰を下ろした。
正面には明るい芝生があり、その先で樹林が風に揺れている。芝の上を走る子どもの声に混じって、犬の首輪についた金具が鳴った。
小型犬が飼い主と一緒に歩いてくる。
白っぽい毛が日差しを受け、尻尾が忙しく動いていた。
「犬なら……」
澪は意識を向けた。
今までとは違い、数字が並ぶ。
──────────────────────────────────
犬
分類:哺乳類
状態:良好
体力:58
警戒:22
好奇心:76
空腹:18
機嫌:81
──────────────────────────────────
「数字になった」
澪は目を瞬いた。
鳥では「強い」「低い」と出ていたものが、犬では数値になっている。
犬は澪の方へ寄ろうとしたが、飼い主がリードを軽く引いた。
「すみません」
「いえ、大丈夫です」
澪は返事をし、犬から目を外した。
機嫌81。
犬から直接聞いたわけでもないのに、勝手に知ってしまった。
園路には人が何人も歩いている。
犬でこれだけ分かるなら、人間はどうなるのだろう。
体調や疲れ。
機嫌。
あるいは、もっと知られたくないことまで見えるのかもしれない。
澪は試さなかった。
司祭様からも、鑑定を誰にでも見せびらかさないよう言われている。
それ以前に、本人の許可もなく他人の状態を覗くのは嫌だった。
「人には勝手に使わない」
必要なら、先に本人へ聞く。
そのくらいは決めておいた方がいい。
◇ ◇ ◇
他人に使わないなら、自分はどうだろう。
自分自身なら、誰にも迷惑はかからない。
澪はベンチへ座ったまま、自分へ意識を向けた。
木々を抜けた風が前髪を動かす。
芝生の向こうでは、さっきのキジバトがまだ歩いている。
普通の春の公園だった。
その景色の中で、自分自身の鑑定結果が浮かび上がった。
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篠原澪
体力:37
筋力:28
集中:42
度胸:低いが上昇中
商才:芽あり
鑑定:2
危機回避:学習中
課題進捗:危険
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澪は表示を上から読み直した。
「体力、37……」
数字の基準が分からない。
筋力28が高いのか低いのかも分からない。
ただ、体力より集中の方が高いことには、少し納得できるものがあった。
それより問題なのは下の方だった。
「度胸、低い……」
上昇中と付いている。
一応、褒められていると思うことにした。
「商才は芽あり」
これもまだ芽だった。
鑑定だけは、今日の訓練で「2」に上がっている。
そして最後。
「課題進捗、危険」
澪はベンチの端を握った。
「それ、能力じゃないですよね?」
誰に聞いても答えは返ってこない。
大学の課題はステータスではない、と言いたい。
しかし反論するには状況が悪かった。
朝食は納豆と卵。
昼はコンビニのおにぎり1個。
睡眠は足りていない。
課題は途中までしか終わっていない。
「……危険か」
そこは認めるしかなかった。
さらに意識を向けると、別の表示が浮かんだ。
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称号・傾向
押入商会代表
異界小物商見習い
在庫表を増やす者
ポーションではないと主張した者
睡眠をタスク化した者
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澪はしばらく黙った。
目の前では子どもが芝生を走り、木々の葉が春の風に揺れている。
そんな穏やかな公園のベンチで、自分だけが「ポーションではないと主張した者」になっていた。
「……昨日だけですけど」
称号として固定するほどの実績ではないと思う。
「在庫表を増やす者」は、残念ながら否定できなかった。
昨日作ったばかりの在庫表には、すでに鑑定結果の欄まで増えている。
最後の「睡眠をタスク化した者」も同様だった。
「これ、消せないのかな」
念じても消えない。
視線を外せば表示そのものは消えるが、見てしまった文字までは頭から消えてくれない。
澪はベンチの背へ少し体を預けた。
鑑定を覚える前なら、今日は花を見て、鳥を見て、そのまま帰っていたはずだ。
今は同じ景色の中に、今まで見えていなかった情報がいくつもある。
面白い。
それは間違いない。
ただし、自分自身まで鑑定するのは、少し考えた方がよさそうだった。
もう一度「課題進捗:危険」を思い出す。
「帰ったらやろう……」
そこだけは、鑑定に言われる前から分かっていた。
◇ ◇ ◇
六畳間へ戻る頃には、窓から差し込む光が夕方の色になっていた。
畳の上へ長く伸びた光がミニテーブルの脚で切れ、壁際にはギターケースの影が落ちている。
窓の外では自転車のブレーキが鳴り、少し遅れて階段を上る足音が聞こえた。
公園では鳥や葉擦れの音が近かったのに、部屋へ戻ると冷蔵庫の低い唸りがよく聞こえる。
澪は鞄を下ろし、ミニテーブルへノートを開いた。
今日分かったことは、忘れる前にまとめておきたい。
新しいページへ「鑑定練習」と書く。
物によって表示項目が違う。
何を知りたいか意識すると、見える内容が増える場合がある。
知らない植物は名前が出ないことがある。
動物では警戒や空腹まで見え、数値で出る場合もある。
他人には勝手に使わない。
そこまで書いて、澪は自分の鑑定結果を思い出した。
体力37。
筋力28。
集中42。
数字があるなら、あとで変わることもあるのだろうか。
澪は少し迷ってから、その3つも書き留めた。
基準が分からない以上、今すぐ何か判断できる数字ではない。
それでも最初の値なら、残しておけば後で比較できる。
「……また表が増えそう」
自分で言って、手が止まった。
称号に「在庫表を増やす者」と出たばかりである。
「先回りされてる……」
さらに睡眠、食事、大学課題まで書き始めたところで、澪はページを見下ろした。
「自分まで在庫表みたいになってる」
ミニテーブルの上には、押入商会の在庫表、大学の課題ノート、鑑定練習のメモが並んでいた。
昨日書いた付箋には、まだ『睡眠』も残っている。
睡眠の横へ丸をつけようとして、ペン先を止めた。
まだ寝ていない。
当然、丸にはできない。
「……正論だ」
時計を見る。
課題も残っている。
しかし、自己鑑定にはしっかり「課題進捗:危険」と出ていた。
澪は課題ノートを手前へ引いた。
その横にある付箋の『睡眠』も、今日は消さずに残しておいた。