押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第8話 江古田の森公園で鑑定してみた

 

 朝の六畳間は、いつも通り狭かった。

 

 篠原澪は布団から起き上がり、しばらく畳の上で膝を抱えていた。昨夜のうちに閉じたはずの押入商会の在庫表が、ちゃぶ台の上でまだ存在感を出している。右端には、昨日新しく足した「鑑定結果」と「注意事項」の欄がある。ポカリはポーションではない、ペットボトルは売り物にしない、カラビナは重い荷には使わせない。そういうことを書いた結果、在庫表は前よりだいぶ真面目になり、同時に、前よりずっと面倒くさいものになっていた。

 

 澪は寝起きの頭で、昨日起きたことをひとつずつ思い出した。市場の端で倒れかけていた老司祭。ポカリを高級ポーションと勘違いされかけたこと。ペットボトルが中身より注目されたこと。小神殿の涼しい控え部屋。老司祭の鑑定。そして、自分の中に浮かんだ、在庫表の備考欄みたいな感覚。

 

 あれは本当に鑑定だったのだろうか。

 

 暑さと緊張と寝不足で、脳が勝手に注意事項を作っただけではないのか。最近の澪は、虫眼鏡AとBの違い、JANコード、在庫表、価格表、税金、レシート、そういうものばかり見ている。頭の中が帳簿寄りになりすぎて、普通の金具を見ても勝手に「備考欄」を作ってしまった可能性は、かなりある。

 

 澪はちゃぶ台の上に置いたカラビナを見た。銀色の小さな金具は、何も言わない。ただのカラビナだった。何も浮かばない。澪は少しだけ安心して、やっぱり昨日の疲れだったのかもしれないと思った。

 

 けれど、手に取って開閉部分を押した瞬間、指先に返ってきたばねの感触と同時に、頭の奥で言葉が整ってしまった。

 

 小物を留める。

 

 重い荷には向かない。

 

 屋外で長く使うと傷みやすい。

 

 澪はカラビナをそっとちゃぶ台に戻した。声を出すと部屋の中に何かが確定してしまいそうで、息を整えるだけにした。ある。やはり、ある。老司祭が授けたのではなく、元から自分の中にあった目が少し開いたのだと言っていた。リュシアも、むやみに言いふらすなと言っていた。

 

 いきなり異世界市場で試すのは危ない。誰かに気づかれても困るし、そもそも自分でも扱い方が分かっていない。だったら現代側で試す方がいい。部屋の中のものは、すでに商品として見すぎている。もっと別のものを見たい。そう考えているうちに、澪は大学帰りに江古田の森公園へ寄ることを思いついた。

 

 公園なら植物がある。鳥もいる。犬の散歩をしている人もいる。人はいるが、スマホで写真を撮るふりをすれば、それほど怪しまれないかもしれない。少なくとも、異世界市場の倉庫で商品を並べるよりは自然なはずだった。

 

 ただし、江古田の森公園で木や鳥を真剣に見つめる女子大生は、それはそれで十分怪しい可能性がある。

 

 澪は大学の鞄へノートと筆記用具を入れ、在庫表の小さなメモを一枚だけ挟んだ。飲み物はポカリではなく水にした。昨日の騒ぎのせいで、青いラベルのペットボトルを見るだけでも少し心臓に悪い。今日は、ポーション騒ぎはなし。澪はそう決めて、アパートを出た。

 

 

 

 

 

 大学の講義室では、机の木目が妙に気になった。

 

 澪は端の席に座り、いつも通り鞄を隣の空席へ置いた。前方では教授が社会学系の講義を進めている。今日こそ普通に講義を聞くつもりだった。異世界のことも、押入商会のことも、鑑定のことも、せめて九十分くらいは忘れて学生らしくノートを取ろうと思っていた。

 

 だが、机の木目が気になる。自分のシャープペンが気になる。消しゴムも気になる。さらに、前の席の学生が置いているペットボトルまで気になる。あれは鑑定できるのか。現代品でも見えるのか。人の持ち物をじっと見るのはまずい。まずいと分かっているのに、目が勝手に行きそうになる。

 

 澪は自分のシャープペンを見た。できるだけ自然に、ただの文房具を見るように見る。すると、頭の奥に地味な情報が浮かんだ。

 

 筆記用。

 

 芯が折れやすい。

 

 強く押すと詰まる。

 

 澪は少しがっかりした。正しい。正しいのだけれど、あまりにも普通だった。次に消しゴムを見る。紙の上の黒鉛を削る。細かいくずが出る。口に入れるものではない。そこで澪はノートに顔を伏せそうになった。食べない。消しゴムは食べない。鑑定は、たまに当たり前すぎることを言う。

 

 ただ、その当たり前すぎる情報も、もしかすると自分の鑑定が未熟だからなのかもしれない。老司祭のように長く物を見てきた人なら、もっと深く見えるのだろう。澪は消しゴムを筆箱へ戻し、講義へ意識を戻そうとした。

 

 その時、教授が言った。

 

「観察とは、対象そのものを見るだけではありません。自分が何を見ようとしているのかを知ることでもあります」

 

 澪は思わず顔を上げた。教授は何も知らない。ただ講義をしているだけだ。それなのに、言葉が妙に刺さる。自分は何を見たいのだろう。売れるものか。危ないものか。リュシアに怒られないものか。それとも、自分が安全に続けられる方法なのか。

 

 講義が終わる頃、澪のノートには授業の要点と、消しゴムに対する謎の敗北感が同じページに残っていた。彼女はノートを閉じ、まっすぐアパートには帰らず、新江古田駅の方へ歩いた。現代側なら迷っても帰れる。異世界の路地ではない。それだけで、少しだけ肩の力が抜けた。

 

 

 

 

 

 江古田の森公園に入ると、空が広くなった。

 

 木々の向こうに建物は見える。完全な森ではない。けれど、舗装された道の両側には芝生が広がり、樹林の濃い影があり、奥にはビオトープ池へ続く湿った空気もある。子ども連れの親子がベンチのそばで荷物を広げ、犬の散歩をしている人がゆっくり歩き、高齢の男性が木陰で休んでいる。ランニング中の人が横を抜けるたび、澪は自分が本当に現代日本にいるのだと確認できた。

 

 澪はスマホを持ち、写真を撮るふりをしながら歩いた。実際に写真も少し撮る。そうすれば、公園で木を見ていても不自然ではない。たぶん。

 

 まず、ハナミズキのある場所で足を止めた。枝先の形を見上げ、幹の様子を目で追う。鑑定、というほど大げさに念じるのではなく、ただ少し深く見るつもりで意識を向ける。

 

 春に花を見せる観賞樹。

 

 食べ物ではない。

 

 枝先が傷みやすい。

 

 澪は目を細めた。分かっている。少なくとも、ハナミズキを食べようとは思っていない。けれど、何も出ないよりはましだ。鑑定は動いている。

 

 次に、芝生の端に生えた雑草を見る。踏まれやすい。乾き気味。食用には向かない。池のそばまで歩くと、湿った土の匂いがした。ビオトープ池の近くの草には、湿った場所を好む、根元がぬかるむ、踏み込み注意、という感覚が来る。澪は一歩踏み込もうとして、靴の先で柔らかい土を確認し、やめた。

 

 エゴノキの実らしいものを見つけた時は、少しだけ鑑定らしさが増した。実あり。扱い注意。口にしない方がよい。澪はスマホで調べたくなったが、今は鑑定の練習だと思い直して我慢した。知識で答え合わせをしたら、それはそれで役に立つ。けれど今は、どんなふうに見えるのかを知りたかった。

 

 アオギリの大きな葉を見上げると、大きな葉、日陰を作る、枝ぶりに注意、という感覚が来た。だんだん分かってくる。植物名を正確に教えてくれるわけではない。こちらの知識がないものは、名前としてはぼんやりしたままだ。けれど、状態や向き不向き、危ない触り方は少し分かる。

 

 薬草師なら役に立つのだろう。庭師や林業の人でも役に立つかもしれない。だが澪は薬草師ではない。今のところ、澪の植物鑑定はだいたい「食べない方がいい」と「踏み込むと危ない」に寄っていた。異世界で変なものを口にしたくない気持ちが強すぎるのかもしれない。

 

 澪はベンチに座り、水を飲んだ。ペットボトルの水は、ただの水だった。高級ポーションでも、特別な水でもない。澪はキャップを閉め、ふと近くの枝に止まった鳥を見た。

 

 ヒヨドリだった。たぶん。声が大きく、枝の上で体を揺らしている。澪が何となく意識を向けると、植物とは少し違う感覚が来た。

 

 中型の鳥。

 

 声が大きい。

 

 こちらを気にしている。

 

 動きが速い。

 

 澪は少し驚いた。植物より情報が多い。次に、別の枝へ素早く移った小さな鳥を見た。シジュウカラだろうか。白と黒の模様がちらりと見える。小型。警戒が強い。枝移りが速い。体力は小さめ。澪は首をかしげた。体力は小さめ、という表現が急に混ざった。

 

 芝生の方では、キジバトが地面をつついている。澪が見ると、地面で餌を探している、警戒はほどほど、空腹が強そう、という感覚が来た。ヒヨドリ、シジュウカラ、キジバト。何度か見比べるうちに、澪の頭の中で情報が勝手に項目化されていく。警戒、俊敏、体力、空腹。まだ数字ではない。高め、低め、中くらい、そんな比較だった。

 

 澪はスマホのメモを開きかけ、親指を止めた。江古田の森公園のベンチで、鳥の警戒度を記録している女子大生。かなり怪しい。スマホを見ているだけなら普通だが、鳥を見て、スマホを見て、また鳥を見る動作は、たぶん少し目立つ。澪は写真を確認しているふりをして、画面を伏せた。

 

 その時、近くの木にハシブトガラスが止まった。黒い体が枝の上で重く見える。澪が見ると、体力は高め、警戒も高め、知能は高い、こちらを見ている、という感覚が返ってきた。カラスと目が合う。澪は、こちらが鑑定しているつもりだったのに、むしろ自分の方が見られている気分になった。

 

 このカラス、たぶん私より賢い。

 

 澪はそう思い、すぐに自分の単位状況を思い出して、少し負けた気持ちになった。

 

 

 

 

 

 犬が近づいてきたのは、その少しあとだった。

 

 飼い主に連れられた小型犬が、散歩道をとことこと歩いている。毛並みは整っていて、足取りは軽い。澪の方を見ると、尻尾を少し振った。澪は目を合わせすぎないようにしながら、そっと意識を向ける。

 

 最初に浮かんだのは、好奇心あり、飼い主に安心している、空腹ではない、散歩中で機嫌がよい、という柔らかい情報だった。ところが次の瞬間、それが澪の頭の中で数字へ変わった。画面が出たわけではない。声が聞こえたわけでもない。ただ、在庫表の数字欄に収まるように、情報が並んでしまった。

 

 体力:58

 

 警戒:22

 

 好奇心:76

 

 空腹:18

 

 機嫌:81

 

 澪は息を止めた。数値になった。

 

 犬は澪の足元へ寄ろうとし、飼い主がリードを少し引きながら「すみません」と笑った。澪は「いえ」と返したが、心の中では「機嫌八十一ってかなり高いのでは」と思っていた。うらやましい。自分の機嫌は、たぶんそこまで高くない。

 

 犬が去ったあと、澪はさっきの鳥たちを見る。今度は鳥たちも数値で見えるようになっていた。

 

 ヒヨドリ

 

 体力:46

 

 警戒:73

 

 俊敏:68

 

 空腹:34

 

 シジュウカラ

 

 体力:18

 

 警戒:81

 

 俊敏:86

 

 空腹:29

 

 キジバト

 

 体力:42

 

 警戒:36

 

 俊敏:44

 

 空腹:61

 

 ハシブトガラス

 

 体力:63

 

 警戒:69

 

 知能:高

 

 好奇心:52

 

 澪は軽く混乱した。数値になっている。だが、カラスの知能だけは数値ではなく「高」だった。完全なゲーム画面ではない。鑑定がそういうものなのか、澪の理解が追いつくところだけ数値に置き換わっているのか分からない。

 

 同じヒヨドリを見続けていると、警戒の数値が少し上がったように感じた。七十三だったものが、七十六くらいになる。澪が見すぎたからかもしれない。つまり、鑑定は見る側の行動で対象の状態を変えることがある。見すぎれば、警戒される。

 

 澪は慌てて視線を外した。

 

 見るだけでも、相手に影響する。

 

 それは、思ったより重い気づきだった。

 

 周囲では、子ども連れの親子が通り過ぎ、高齢の女性がゆっくり歩き、ランニング中の人が軽い足音を立てていく。人間にも鑑定を試せるのかもしれない。そう考えた瞬間、澪は自分の膝の上で手を握った。

 

 他人に使うのは、気持ち悪い。

 

 体調や空腹くらいならまだしも、何かもっと深いものが見えたらどうしていいか分からない。リュシアにも、むやみに言いふらすなと言われた。老司祭にも、芽のうちは見えなかったものを恐れろと言われた。

 

 では、自分ならどうか。

 

 澪は自分の手を見た。百円ショップの袋を持った時の小さな跡が指に残っている。彫金で少し硬くなった部分もある。爪は短いが、整え方は少し雑だ。爪切りを異世界で売っているくせに、自分の爪は微妙に雑である。そこに気づいた時点で、すでに少し負けている気がした。

 

 澪は深呼吸した。自分だけ。練習。見るだけ。口に出しかけたが、近くを人が通ったので飲み込む。心の中で、そっと自分へ意識を向けた。

 

 最初は何も見えなかった。少し安心した。だが、息を吐いた瞬間、頭の奥に、健康管理アプリと押入商会の在庫表と大学の課題管理表が混ざったようなものが浮かんだ。

 

 篠原澪

 

 体力:37

 

 筋力:28

 

 集中:42

 

 睡眠:不足

 

 栄養:偏りあり

 

 水分:やや不足

 

 緊張:高め

 

 度胸:低いが上昇中

 

 商才:芽あり

 

 鑑定:芽生え

 

 危機回避:学習中

 

 課題進捗:危険

 

 澪はベンチの端を握った。周囲に誰も自分の鑑定結果を見ていないことを確認する。見えているのは自分だけのはずなのに、妙に恥ずかしい。

 

 課題進捗が危険。そこは能力ではない。大学の課題はステータスではない。そう言いたかったが、反論は弱かった。朝は納豆と卵、昼はコンビニのおにぎり一個、夜は未定。睡眠は足りていない。課題は未完了。全部、見られて困るが、嘘ではない。

 

 さらに、称号のようなものがぼんやり浮かんだ。

 

 押入商会代表

 

 異界小物商見習い

 

 在庫表を増やす者

 

 ポーションではないと主張した者

 

 睡眠をタスク化した者

 

 澪はうつむいた。最後の二つがひどい。特に「ポーションではないと主張した者」は人生の称号にしてほしくなかった。たしかに主張した。かなり主張した。けれど、称号として固定されるほどのことだっただろうか。消し方が分からないので、余計に困る。

 

 鑑定は便利な能力ではなく、現実を数字にして突きつける能力なのかもしれない。これは精神攻撃ではないか。そう思いながら澪は水を飲んだ。すると、水分不足の感覚がほんの少し軽くなる。大げさに数値が上がったわけではないが、項目の重さが少しだけ抜けたように感じた。

 

 鑑定結果は固定ではない。行動で変わる。

 

 そこには、少しだけ希望があった。

 

 澪は去っていった犬の背中を思い出した。機嫌八十一。今日の自分より、あの犬の方がずっと整っている。そう考えると、悔しいような、納得できるような気持ちになった。

 

 

 

 

 

 夜、江古田の六畳間に戻った澪は、ちゃぶ台の上に在庫表、大学の課題ノート、今日の公園メモを並べた。

 

 公園メモには、ハナミズキ、エゴノキ、池のそばの草、ヒヨドリ、キジバト、犬、自分、という言葉が残っている。鳥や犬の数値をそのまま表にしようとして、澪はペンを止めた。あの数字は絶対ではない。見すぎれば変わるし、相手の状態でも変わる。ならば、まだ「傾向」として書くべきだ。

 

 澪は新しいページに「鑑定練習メモ」と書いた。植物は用途と注意点。動物は状態と数値化の傾向。他人には使わない。自分には使えるが、精神的にきつい。書いているうちに、鑑定練習というより、自分への注意書きになっていく。

 

 次に、澪は別のページを開いた。睡眠、食事、水分、大学課題、異世界市場、鑑定練習、仕入れ予定、税金用メモ。自分用管理表、と上に書いたところで手が止まる。商品だけでなく、自分まで在庫表みたいになっている。鑑定を覚えた結果、管理するものがまた増えた。

 

 便利になったはずなのに、また欄が増えた。

 

 澪は罫線を引きながら、在庫表の右端に増えた「鑑定結果」と「注意事項」の欄を思い出した。昨日は商品に欄が増えた。今日は自分に欄が増えた。押入商会は少しずつ商売らしくなっている。そのぶん、澪の生活は少しずつ表計算に近づいている。

 

 睡眠の欄に丸をつけようとして、澪はペン先を止めた。まだ寝ていない。当然、丸はつけられない。自分で作った管理表に、自分で正論を言われた気がした。

 

 ちゃぶ台の上では、在庫表、大学の課題ノート、鑑定練習メモ、自分用管理表が四つとも開いたままになっている。どれを先に閉じるべきか分からない。澪はしばらくペンを持ったまま固まり、やがて課題ノートではなく、部屋の明かりを少しだけ暗くした。

 

 睡眠不足という項目に、明日も同じことを書かれたくなかった。

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