朝の押入商会侯爵領事業所には、まだ夜の湿り気が少し残っていた。
机の上には、小さな瓶が二つ並んでいる。
一つには黒い重砂。
もう一つには、淡い色をした鉱石片。
どちらも、昨日までなら澪にはただの石に見えただろう。
けれど今は違う。
黒い砂はただの砂ではない。
淡色の石片も、ただの石ではない。
鑑定表示に、チタン系鉱石候補と出た。
金ではない。
白金でもない。
今すぐ売れば大金になる素材でもない。
なのに、机の上に置いてあるだけで、仕事が増える気配がした。
澪は瓶を見つめながら、湯呑みに手を伸ばした。
ちょうどその時、扉が静かに開いた。
「おはよう、澪君」
真壁久忠が入ってきた。
いつも通り、姿勢がよい。
声も落ち着いている。
だが澪には、もう分かる。
この人が落ち着いている時ほど、たいてい話が大きい。
「おはようございます」
澪は湯呑みを置いた。
「真壁さん、昨日の黒砂の件ですけど」
「その件だ」
真壁は机の前に立ち、小瓶を見下ろした。
「澪君の鑑定と収納を借りれば早い。だが、それでは澪君の荷が減らん」
「つまり?」
「私ができるようにする。鑑定と収納を、もう二段上げる」
澪は、湯呑みを持つ手を止めた。
「また採石場ですか」
「あそこは訓練場として優れている。石も水も泥も残渣もある。失敗しても壊れるものが少ない」
「それ、前回も聞きました」
「今回は壊さない。整える」
澪はゆっくり瞬きをした。
「整える?」
嫌な予感がした。
昨日、真壁はビッグバス池を整えた。
その結果、池は町の小さな見物場所になった。
真壁の「整える」は、澪の知る「少し片づける」と違う。
たぶん、かなり違う。
「真壁さん」
「何だ」
「整えるの意味を、事前に確認してもいいですか」
「作業に必要な環境を、安全かつ効率よく使える状態にする」
「すごく正しい言葉なのに、不安が消えません」
真壁は、少しだけ目元をやわらげた。
「正しい言葉は、不安を消すためだけにあるわけではない」
「朝から名言っぽいことを言わないでください」
澪は額に手を当てた。
そこへリュシアが顔を出した。
「朝から何の話?」
「真壁さんが、また採石場へ行くそうです」
「ああ」
リュシアは一瞬で理解した顔になった。
「澪がいないところで回るなら、商会としては良いことだね」
「回り方が濃いんです」
「そこは否定しない」
リュシアは机の小瓶を見た。
「これが、昨日の黒い砂?」
「はい。チタン系鉱石候補です」
「まだよく分からないけど、澪が頭を抱えるものだってことは分かる」
「その理解が早すぎます」
真壁は黒砂の小瓶と記録板を手に取った。
澪は反射的に立ち上がりかける。
「私も行った方が」
「今日は来ない方がいい」
真壁は静かに言った。
拒絶ではない。
命令でもない。
ただ、最初から決めていた言い方だった。
「君が横にいれば、私は君の力を使いたくなる。今日はそれを避ける」
澪は少し黙った。
「使いたくなるって、正直ですね」
「便利な力を使わぬのは難しい。だから、最初から離す」
その言葉は、妙に真っ直ぐだった。
澪は反論しかけて、やめた。
真壁の目的は、チタン鉱石を今すぐどうにかすることではない。
澪に頼らず、真壁自身が扱えるようになることだ。
それは、押入商会にとって本当に必要なことだった。
「……分かりました。でも、疲労度を見て、無理はしないでください」
「承知した」
「承知した人ほど、承知してないことがあります」
「記録する」
「それ、安心材料じゃないです」
真壁は小瓶と記録板だけを持ち、外へ出ていった。
リュシアはその背中を見送りながら、少し笑った。
「澪がいないところで、ちゃんと回り始めてるじゃない」
「回り始めてるのはいいんです」
澪は小さく息を吐いた。
「方向が、たまに怖いんです」
古い採石場跡は、朝の光の中で静かだった。
町の声は届かない。
市場のざわめきも、工房の音も、子どもたちの足音もない。
切り立った石壁が影を作り、溜まり水は白っぽく濁っている。石粉は風に乾き、黒い重砂は前日に分けた場所に細い筋を作って残っていた。
真壁は一人で採石場へ入った。
前回よりも、見えるものが多い。
石壁の黒い筋。
赤茶けた泥。
白い石粉。
黒い重砂。
淡色鉱石片。
溜まり水。
水路の詰まり。
苔。
雨水の流れ。
それらが、ばらばらの景色ではなくなっている。
どこで見るか。
どこで分けるか。
どこへ戻すか。
どの状態で保つか。
真壁は石壁の前に立ち、低く呟いた。
「必要なのは、見る場所、分ける場所、戻す場所、保つ場所だ」
まず、水場を見る。
次に、洗浄に使えそうな傾斜を見る。
石粉と重砂を分けるには、低いくぼみが使える。
試料を保管するなら、雨の当たりにくい張り出しの下がいい。
記録板を書くには、平らな石が必要だ。
真壁は歩きながら、石を見て、水を見て、地面の傾きを見た。
採石場跡は、ただの場所ではなくなりつつあった。
工程を組む場所になる。
真壁は小瓶から、黒い重砂をほんの少しだけ取り出した。
手のひらの上に広げる。
黒い砂。
白い石粉。
赤茶けた鉄分。
泥。
水分。
重い成分。
軽い成分。
収納で分ける。
意識を細くする。
見えている。
だが、まだ境界がにじむ。
どこまでが黒い重砂で、どこからが赤茶けた鉄分か。
どこまでが石粉で、どこからが微細な残渣か。
分けられるが、掴みきれない。
鑑定表示が浮かんだ。
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黒い重砂
分類:鉱物混合物
主成分候補:チタン酸化物/鉄分含有
混入:石粉/泥/微細残渣
分離状態:不完全
注意:成分境界の認識が不足しています
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真壁は表示を見た。
「見えているが、まだ掴みきれん」
収納七では、かなり分けられる。
だが、足りない。
澪に頼らず進めるなら、足りない。
真壁は手のひらの砂を戻し、採石場の溜まり水へ向かった。
まず、水だけを抜く。
濁り水から、石粉だけを残す。
次に、石粉を乾いたものと湿ったものに分ける。
黒い砂だけを残す。
苔で滑りそうな石床を高圧水で洗う。
石壁の黒い筋を露出させる。
詰まった水路へ、細く水を通す。
泥を一箇所に寄せる。
残渣をまとめる。
ひとつひとつの作業は、訓練だった。
だが、結果として採石場は少しずつ整っていく。
濁った水が澄む。
石粉が一箇所へまとまる。
黒い砂が細いくぼみに集まる。
苔が落ち、足元の石肌が見える。
水路の詰まりが抜け、雨水の流れが見える。
「水が濁るなら、濁らぬよう通せばよい」
真壁は濁った水を見て、淡々と言った。
水路の流れを調整する。
石粉が散る。
真壁は収納で回収する。
「石粉が邪魔なら、先に分ければよい」
苔で足元が滑る。
高圧水で洗い落とす。
「足元が悪いなら、洗えばよい」
それは、本人の中では合理的な判断の積み重ねだった。
水が邪魔なら通す。
石粉が邪魔なら分ける。
苔が邪魔なら落とす。
休む場所がなければ作る。
記録を書く台がなければ整える。
その一つ一つが、採石場跡を住める方向へ押していることに、真壁はまだあまり関心を払っていなかった。
関心があるのは、分けられるか。
保てるか。
戻せるか。
工程として組めるか。
やがて、鑑定表示が浮かんだ。
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真壁久忠
分類:人間/異界漂着者
現在ジョブ:商人
レベル:9 → 10
状態:採石場個人訓練中/高集中
既得スキル:鑑定:7 → 8
既得スキル:収納:7 → 8
既得スキル:商才:3
成長:成分境界把握:1
成長:密閉収納:1
成長:微細残渣分離:1
成長:作業場整備:1
注意:収納内状態保持の精度が上昇しています
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続いて、収納そのものの表示が開く。
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真壁久忠の収納
分類:収納技能
スキルレベル:収納:7 → 8
収納可能重量:1,500kg前後 → 3,000kg前後
分類保持:高
形状保持:高
状態保持:普通 → 高
時間遅延:弱
密閉保持:芽あり
減圧保持:芽あり
成分分離:良
注意:収納内で分離状態を保持できます
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真壁は、手の中の黒い砂を見た。
分けることはできる。
だが、分けたものが混ざり直しては意味がない。
収納内で、その状態を保つ。
それが見え始めた。
「分けるだけではない。分けた状態を保てるか」
真壁は記録板へ書いた。
分ける。
保つ。
それから顔を上げた。
雨が降った時、試料が濡れる。
濡れれば分離条件が変わる。
記録板も濡れる。
座る場所がなければ、疲労で判断が鈍る。
足場が滑れば、作業が乱れる。
水路が詰まれば、濁りが戻る。
真壁は周囲を見た。
雨水が流れ込む溝を通す。
石粉が溜まる場所を分ける。
黒砂だけ集まる浅いくぼみを作る。
泥を脇へ寄せる。
石床を高圧水で洗う。
苔を落として滑りにくくする。
崩れた石材を平らに並べる。
割れた石を作業台代わりにする。
大きな板状の石を、張り出しの下へ移す。
休める石の段を作る。
「座れる場所が必要だ。判断力は疲労で鈍る」
平たい石を少し削り、座れる高さに整える。
「雨を避ける場所がいる。試料が濡れる」
張り出しの下へ、平らな石を置く。
「記録を書く台がいる」
大きな平石を洗い、表面の石粉を収納で取り除く。
作業台ができた。
水路が通った。
試料置き場ができた。
休憩場所ができた。
真壁の認識では、安全確保、作業効率化、試料管理、訓練環境整備である。
もし澪が見ていれば、別の言葉を使っただろう。
住居化、と。
昼を過ぎても、真壁は止まらなかった。
もちろん、本人は止まっているつもりだった。
作業ごとに確認する。
疲労を見る。
水を飲む。
記録する。
だが、次の確認がすぐ始まる。
黒い重砂から、鉄分寄りを分ける。
チタン酸化物寄りを探る。
石粉を抜く。
泥を除く。
微細残渣を取り除く。
淡色鉱石片から、付着石粉を落とす。
表面風化部分を取り除く。
収納内で密閉状態を試す。
弱い減圧のような保持を試す。
水分を抜く。
残渣を抜く。
分離状態を保つ。
そのたびに、見える境界が細くなる。
曖昧だったものが、線になる。
線だったものが、層になる。
層だったものが、対象になる。
表示が開いた。
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真壁久忠
分類:人間/異界漂着者
現在ジョブ:商人
レベル:10 → 11
状態:採石場個人訓練中/高集中/工程構築前
疲労度:52% → 71%
既得スキル:鑑定:8 → 9
既得スキル:収納:8 → 9
既得スキル:商才:3
成長:高度成分分離:1
成長:密閉保持:1
成長:減圧保持:1
成長:状態保持:1
成長:試料管理:1
注意:収納内で小規模な工程場を構築可能になりました
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続いて、収納の表示が出る。
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真壁久忠の収納
分類:収納技能
スキルレベル:収納:8 → 9
収納可能重量:3,000kg前後 → 8,000kg前後
分類保持:高
形状保持:高
状態保持:高
時間遅延:弱 → 普通
密閉保持:可
減圧保持:可
圧力制御:普通
成分分離:高
残渣分離:高
工程保持:芽あり
注意:小試料であれば収納内工程の構築が可能です
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真壁は表示を見て、静かに息を吐いた。
「これなら、澪君を使わずに試せる」
その声には、満足よりも確認があった。
澪を使わない。
澪の収納を借りない。
澪の鑑定を前提にしない。
真壁自身が、小試料で工程を組む。
それが目的だった。
真壁は、黒い重砂と淡色鉱石片を作業台の上に置いた。
危険な現実の手順をここで再現するわけではない。
必要なのは、工程名ではない。
目的だ。
「現実の工程は長い。だが、意味は分解できる」
真壁は記録板へ、ゆっくり書いた。
分ける。
保つ。
抜く。
戻す。
「酸素を外す。不純物を分ける。金属分を残す」
それ以上は書かない。
細かな手順ではなく、目的だけを置く。
収納が分ける力を持つなら。
密閉できるなら。
状態を保てるなら。
小試料なら、工程を短くできる可能性がある。
真壁は記録板を閉じた。
実験は、まだしない。
今日は、準備の日だ。
ただし、真壁が準備と呼んだものは、採石場跡をまるごと作業場へ変える作業でもあった。
夕方、澪は採石場跡へ戻った。
近づく前から、違和感があった。
入口の草が減っている。
足場が歩きやすい。
前は足首に引っかかっていた枯れ草が、道の端へ寄せられている。
白い石粉が道に散っていない。
水路らしい細い流れが、採石場の外へ向かって通っている。
澪は足を止めた。
「……あれ?」
中へ入ると、さらにおかしかった。
壁が洗われている。
苔が落ち、石肌が見えている。
水路が整っている。
濁っていた溜まり水の一部が澄んでいる。
黒砂、石粉、泥、残渣が、それぞれ別の場所に分けて置かれている。
大きな平石が、どう見ても作業台になっている。
石の段が、どう見ても椅子のようになっている。
雨除けになる張り出しの下には、試料置き場らしい平らな石が置かれ、記録板まで置いてある。
水もある。
座る場所もある。
荷物を置く場所もある。
歩きやすい。
見やすい。
休めそう。
澪は固まった。
「真壁さん」
奥の作業台の前で、真壁が記録板を整理していた。
「戻ったか」
「ここ、住めますよね?」
「雨はしのげる。水もある。作業台もある」
「住めるようにしたんじゃないですか」
「作業に必要な環境を整えた結果だ」
「それを住居化と言います」
真壁は周囲を見た。
水路。
作業台。
試料置き場。
休憩用の石段。
雨除け。
澄んだ溜まり水。
分けられた黒砂。
真壁は少しだけ頷いた。
「隠れ家としても悪くない」
「認めないでください」
澪は両手で頭を押さえた。
「私、整備しすぎないでって言いましたよね」
「壊してはいない」
「そういう問題じゃないです」
「散らかっていたものを分けた。滑る場所を洗った。雨を避ける場所に試料を置いた。記録を書く台を作った」
「全部合わせると、住めるんです」
「結果としては、そう見えるかもしれない」
「結果が強すぎます」
澪は、もう一度採石場を見渡した。
誰も見向きしなかった古い採石場跡。
昨日まで、捨て場に近かった場所。
それが今は、小さな秘密工房のようになっている。
秘密基地と言ってもよい。
しかも、水場つき、作業台つき、試料置き場つき、休憩スペースつき。
澪は、恐る恐る真壁を鑑定した。
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真壁久忠
分類:人間/異界漂着者
現在ジョブ:商人
レベル:11
前職:指揮官 Lv14
前職影響:あり
状態:採石場個人訓練後/高疲労/満足
疲労度:71%
既得スキル:商才:3
既得スキル:鑑定:9
既得スキル:収納:9
既得スキル:交渉:7
既得スキル:指揮:7
既得スキル:軍略:6
成長:高度成分分離:1
成長:密閉保持:1
成長:減圧保持:1
成長:状態保持:1
成長:試料管理:1
成長:作業場整備:1
注意:疲労度70%超。継続作業には休息推奨
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澪は表示を見て、しばらく黙った。
「鑑定九、収納九……」
「これで、澪君に頼らず小試料の工程を組める」
「それをやるために、採石場を隠れ家にしたんですか」
「隠れ家にしたのではない。工程を組む場を整えた」
「同じです」
真壁は反論しなかった。
少しだけ満足そうだった。
その表情が、澪には一番怖かった。
真壁は作業台の上に、小さな容器を二つ並べた。
片方には黒い重砂。
もう片方には淡色鉱石片。
どちらも少量だけ。
真壁は、それをしばらく見た。
「次は、戻す」
「戻す?」
「石の中の金属を、金属へ戻す」
澪は、背筋に妙な緊張が走るのを感じた。
ついに来た。
チタン製錬。
いや、まだ製錬という言葉を使うには早いのかもしれない。
けれど、真壁の目はもう、ただの黒砂を見ていない。
石の中に閉じ込められた金属を見ている。
澪は鑑定表示の疲労度へ視線を戻した。
「今日はもう帰って休んでください。疲労度七十一です」
「続けられる」
「続けられると、休むべきは違います」
真壁は少しだけ黙った。
それから、小さく頷いた。
「よい指摘だ」
澪は、ほっとした。
ここで「では続きを」と言われたら、どうしようかと思っていた。
「では、今日はここまでだ。次に戻す」
「その言い方、怖いです」
「言い方の問題ではない」
「内容の問題です」
真壁は記録板を閉じた。
澪は採石場跡をもう一度見渡した。
昨日まで誰も見向きしなかった場所。
今日は、水路が通り、石壁が洗われ、黒砂と石粉が分けられ、雨を避ける場所があり、作業台がある。
採石場跡は、訓練場から秘密工房になりかけていた。
いや、ほとんどなっていた。
古い採石場跡は、また姿を変えていた。
捨て場だった場所は訓練場になり、訓練場は隠れ家になり、隠れ家はいつの間にか小さな秘密工房になっていた。
真壁久忠は、それを整備とは呼ばなかった。
作業環境を整えただけだと言った。
澪は、澄んだ溜まり水と、分けられた黒い砂と、妙に座り心地の良さそうな石段を見た。
どう見ても、住める。
そして、その住める採石場の奥で、真壁は次に石の中の金属を戻すつもりでいる。
押入商会は、また一つ便利になった。
そして、また一つ危ない秘密基地を手に入れてしまった。