水路の音が、いつもより近く聞こえた。
採石場跡の奥に作った秘密工房は、朝の光を受けても明るい場所ではない。石肌の影がまだ青く残り、濡れた地面からは冷えた土の匂いが立っていた。水路の縁に置かれた桶の中で、昨夜から沈めていた黒い砂が、底に重く沈んでいる。
澪は、まず真壁を見た。
顔色は悪くない。昨日のように、立っているだけで倒れそうな白さはない。だが、目だけが妙に冴えていた。嫌な冴え方だった。寝た人間の目ではなく、寝ている間も頭だけ働いていた人間の目だった。
澪は黙って鑑定をかけた。
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真壁久忠
分類:人間/異界漂着者
現在ジョブ:商人
状態:休息後/思考活性
疲労度:86% → 54%
既得スキル:鑑定:9
既得スキル:収納:9
注意:高負荷作業の連続は非推奨
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「まだ五十四あります。今日は無理な作業は禁止です」
澪は表示を消さず、そのまま真壁の前に立った。
真壁は、水路脇に並べた道具から顔を上げた。黒砂の瓶だけではない。浅い桶、布を張った木枠、さらに目の細かい布枠、沈殿用の平皿、小分け皿、木札、細い匙、乾かすための布。昨日よりも、道具の数が多い。
澪はその並びを見て、少しだけ眉を寄せた。
「……今日は、いきなり収納に入れないんですね」
「入れん」
真壁は桶の水面に浮いた草の根を指でつまみ、脇の皿へ落とした。
「前回は、収納内高温場に働かせすぎた。今回は、その前にできることを全部外でやる」
「外でやるなら見ています。収納に入れる時点で止めるかもしれません」
「そのために呼んだ」
澪は、少しだけ黙った。
止めるために呼ばれた。
その言い方だけなら良心的に聞こえる。だが真壁がそう言う時は、大抵、止められる寸前まではやるという意味でもある。
「確認します。倒れるまでやるのは禁止です」
「倒れる前に止める」
「倒れる直前も禁止です」
「では、澪君が止める前に止める努力をしよう」
「努力じゃなくて実行してください」
真壁は小さく笑い、桶の黒砂を匙ですくった。
「まず、これだ」
匙から落ちた黒砂が、水路の上流側へ薄く広がった。
水は勢いよく流れていない。石で作った浅い溝を、音を立てないほどの速さで滑っていく。黒い粒は底に残り、薄茶色の泥だけが、ゆっくり下へ流れていった。細い草の根と、軽い砂が水の表面に浮き、端のくぼみに寄る。
澪はしゃがみ込んで、水路の底を見た。
「流してしまって大丈夫なんですか」
「全部は流れていない。流れているのは軽いものだ」
真壁は濡れた指で、水路の底をなぞった。爪の先に、黒く重い粒が残る。
「目的の重い粒は底に残る。泥はチタンにならない。草の根もならない。軽い砂もならない。だが混ざったまま高温場へ入れると、私はそれらまで相手にすることになる」
澪は、流れていく泥水を見た。
薄茶色の水は、少し離れた沈み場で濁りを落とし、上澄みだけがまた水路へ戻る。昨日まではただの濁りにしか見えなかったものが、今は疲労度に見えた。
「目的物ではないものに、疲労度を払っていたということですか」
「そうだ。昨日は黒砂を相手にしたつもりで、泥と石粉にも相手をしていた」
「泥に疲労度を取られたんですね」
「言い方は悪いが、間違ってはいない」
「泥、強敵ですね」
「敵にする必要がない相手だ」
真壁は次の黒砂を水路へ落とした。澪は、その一匙ごとに泥水の色が薄くなっていくのを見た。最初の黒砂は、ただ黒い砂だった。だが水が通ると、そこから茶色が抜け、軽い粒が逃げ、底に残る黒だけが濃くなる。
「水で済むことは、水にさせる」
真壁が言った。
澪は反射的に顔を上げた。
「水を働かせる言い方、ちょっと怖いです」
「石より文句を言わん」
「石にも言わせる気ですね」
「言わんから使う」
澪は、もう一度水路の底を見た。
この人は本当に、何でも仕事に分ける。
人がやる仕事。
水がやる仕事。
布がやる仕事。
石の重さがやる仕事。
最後に、自分がやる仕事。
その境目を探している。
真壁は洗った黒砂を、粗い布枠の上へ移した。木枠を両手で持ち、軽く揺する。小石が布の上に残り、黒い砂だけが下の受け皿に落ちた。
次に、目の細かい布へ移す。水を少し足し、指でならすと、泥混じりの細かな粉が下へ抜けた。布の上には、量は減ったが、最初よりずっと重そうな黒い粒が残った。
澪は、減った砂を見て言った。
「量が減りましたね」
「減っていい。減った分は、運ばなくていいものだ」
「でも、量が減ると損に見えます」
「商売でも製錬でも、いらないものを抱えたまま動く方が損だ」
真壁は布を持ち上げた。
細かな石粉が、布の目に白っぽく残っている。指でこすると、ざらりとした粉が落ちた。
「石粉が多いと熱を食う。泥が多いと水分が邪魔をする。粉の粗さが違うと、固まり方も乱れる」
「見た目は砂でも、中身がばらばらだと、高温場の中で調整が必要になる」
「そうだ。中で調整すれば、私が疲れる」
澪は、布の上の黒い粒と、下に落ちた白っぽい石粉を見比べた。
「昨日は、素材の顔をした邪魔者まで一緒に入れていたんですね」
「素材の顔をした邪魔者」
真壁が少しだけ口元を動かした。
「よい表現だ」
「褒めないでください。嫌な理解が進んでいます」
真壁は、洗い終えた黒色重砂を浅い皿へ広げた。
水を含んだ黒い粒の中に、赤茶けたもの、灰色がかったもの、鈍く光るものが混じっている。澪が鑑定をかけると、表示が浮かんだ。
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洗浄済み黒色重砂
分類:鉱物混合物
含有:鉄分/チタン酸化物/石粉微量
状態:洗浄済み
用途:鉄分回収可能/チタン系試料の前処理材料
注意:未分離のまま高温処理すると負荷増大
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「鉄も混じっているんですか」
「混じっている」
真壁は、赤茶けた粒を細い匙で寄せた。さらに、黒い粒の中でも反応の違うものを選り分けていく。
「こちらにとっては邪魔でもあり、侯爵家にとっては有用物でもある」
澪はその言い方に引っかかった。
「侯爵家にとって?」
「鉄は分かりやすい。釘になる。金具になる。農具の補修にも使える。領地で使い道を説明しやすい」
「でも、真壁さんが欲しいのは鉄じゃないですよね」
「そうだ」
真壁は、鉄分寄りの皿を左に置いた。
それから、残った黒砂を右の皿へ寄せる。
「私が欲しいのは、鉄を抜いた後に残るものだ」
澪は作業台の上を見た。
左の皿は、侯爵家に説明しやすい鉄。
右の皿は、侯爵家には説明しにくい黒い残り。
「……これ、技術の話だけじゃなくなってますね」
「最初からそうだ」
「最初からそうでしたか」
「昨日、君が私の疲労度を見た時点で、一個ずつ作る道は消えた」
真壁は右の皿に水を加え、ゆっくり揺らした。
皿の縁に軽い粒が寄る。底のくぼみに、重い黒い粒が残る。水を捨て、また揺らす。薄い濁りが逃げ、残る粒は少なく、黒く、重くなっていく。
澪は思わず言った。
「砂金取りみたいですね」
「近い。ただし金ではない」
「金じゃないのに、やっていることがどんどん怪しくなっているんですが」
「金より扱いに困る」
「もっと不安になることを言いましたね」
真壁はくぼみに残った重い粒を小瓶へ移した。
澪が鑑定する。
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濃縮チタン系重砂
分類:前処理済み鉱物試料
主成分傾向:チタン酸化物
混入:鉄分少量/石粉微量
状態:洗浄・粗分離済み
用途:収納内高温場での金属化候補
注意:粒度と水分量を揃えることで処理負荷を低減可能
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「これが本命ですか」
「本命の手前だ。まだ金属ではない。ただ、昨日より余計なものは少ない」
「余計なものが少なければ、高温場で真壁さんが調整する分も少なくなる」
「その理解でいい」
真壁は、濃縮した黒い粒を小皿へ分け始めた。
同じ大きさの小皿が五枚、作業台に並ぶ。一皿ずつ量を測り、水気を布で押さえ、粒を薄くならす。木札には、一号、二号、三号、四号、五号と書かれていた。
澪はそれを見て、首を傾げた。
「まとめて一つにした方が早くないですか」
「大きくすれば、中と外で状態が変わる。熱の入り方も違う。失敗した時に全部駄目になる」
「小分けなら?」
「失敗が分かれる。成功条件も見える」
「料理の試作みたいですね」
「近い」
真壁は三号の皿から、匙の先でほんの少しだけ粒を削り、四号へ移した。五号は布の上に置いて、水気を少し抜く。一号は粒が粗いと見て、別の木札に印をつけた。
澪は、その細かさに目を細めた。
「そこまで揃える必要がありますか」
「ある。ばらばらのものを入れると、ばらばらに反応する。中で調整することになる」
「中で調整すると、疲労度を使う」
「だから外で揃える」
澪は、五枚の皿を見た。
同じようで、微妙に違う。水気、量、粒の粗さ、皿の広がり方。昨日なら全部まとめて黒砂と呼んでいたものが、今はそれぞれ違う顔をしている。
「作る数を増やすんじゃなくて、同じ処理で済む状態を増やしているんですね」
真壁は、一瞬だけ手を止めた。
「そうだ。数を増やす前に、同じ扱いができるものを並べる」
「それが大量生産の道ですか」
「道の入口だ」
澪は、今度はすぐに否定しなかった。
入口。
その言い方なら、まだ許せる。
真壁は五枚の小皿を見比べ、最後に木札の位置を揃えた。
「ここから先は、収納内高温場を使う」
澪はすぐに腕をつかんだ。
「ここから先は止める権限があります」
「承知している。疲労度を見ていろ。危険なら中断する」
「危険になる前に止めます」
「分かった」
「本当に分かっていますか」
「昨日よりは分かっている」
その返事が妙に素直で、澪は逆に不安になった。
真壁は五枚の小皿を収納へ入れた。
そこから先は、澪には見えない。
見えないからこそ、澪は真壁の顔を見る。額に汗が浮いた。指先が一度、ぴくりと震える。だが、昨日のように一気に血の気が引く感じはない。
澪は鑑定表示を凝視した。
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真壁久忠
状態:高負荷作業中
疲労度:54% → 61%
注意:継続監視推奨
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「六十一。まだ続行できます」
真壁は声を出さずにうなずいた。
水路の音だけが聞こえる。石の上を薄く流れる水音。どこかで落ちた滴の音。遠くの鳥の声。
真壁の額の汗が、こめかみから一筋落ちた。
澪は再び表示を見る。
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真壁久忠
状態:高負荷作業中
疲労度:61% → 68%
注意:高負荷作業の延長は非推奨
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「六十八。ここで止めます」
「十分だ」
真壁は、すぐに止めた。
澪は少しだけ目を丸くした。昨日なら、もう少しだけ、と言い出すと思っていた。だが真壁は、収納から小皿を取り出し、作業台の上へ一枚ずつ置いた。
五枚の皿。
二つには、銀灰色の小さな塊があった。
一つは、形が崩れて端が欠けている。
一つは、金属粒が散って皿の上でばらけている。
一つは、黒い焼結塊のように固まっていた。
澪は成功した二つへ鑑定をかけた。
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小型純チタンインゴット候補
分類:金属素材
材質:高純度チタン
状態:小型/試作
備考:前処理済み濃縮試料から生成
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「二個、できています」
「五個中二個だ。三個は失敗している」
「でも、昨日は一個で二十一上がりました。今日は二個成功して、十四上昇です」
「まだ安定しない」
「でも、昨日とは違います」
澪は作業台を見た。
泥。
石粉。
鉄分寄りの粒。
黒く重い濃縮試料。
崩れた焼結塊。
散った金属粒。
銀灰色の小さな金属。
昨日は、黒砂とインゴットしか見ていなかった。
今日は、途中が見えている。
何が邪魔で、何が残り、どこで失敗し、どこで成功したのかが、皿ごとに分かれていた。
「……これ、原料が足りませんね」
真壁は濡れた布で手を拭いた。
「そうだ」
「小瓶で試す段階は終わりなんですね」
「終わりではない。だが、小瓶だけでは次へ進めない」
「採石場を正式に使う必要がある」
「そのために採掘権を取る」
澪は、作業台の左にある鉄分寄りの皿を見た。
赤茶けた粒。
侯爵家に説明しやすいもの。
真壁が本当に欲しいものではないもの。
「鉄、ですね」
「鉄だ」
「鉄で、採石場を使う理由を作るんですね」
「作るのではない。実際に鉄は取れる」
「言い方」
「嘘はつかん」
澪は額に手を当てた。
嘘はつかない。
ただし、全部は言わない。
真壁という商人の厄介なところが、また皿の上に並んでいた。
―――――
押入商会侯爵領事業所の机は、採石場から持ち帰った木札と、簡単な図面と、まだ湿った試料瓶で埋まっていた。
リュシアは、鉄分寄りの皿と、黒い濃縮試料の瓶を交互に見た。
「なるほどね」
その一言が早すぎて、澪は椅子の背にもたれた。
「リュシアさん、今ので分かるんですか」
「分かるよ。侯爵家に見せるのはこっち」
リュシアは鉄分寄りの皿を指した。
「押入商会が欲しいのはこっち」
次に、黒い濃縮試料の瓶を指す。
「相手に損はさせない。でも、本当に欲しいものは別にある」
「やっぱりそう見えますよね」
「商人らしいね」
澪は小さくため息をついた。
「商人らしい、の範囲が広すぎます」
真壁は机の上で申請書の下書きを整えていた。マルテがその横で、真面目な顔をして羽根ペンを持っている。
「事業名はこれでいく」
真壁が紙を差し出した。
そこには、丁寧な文字でこう書かれていた。
旧採石場跡鉄分回収および水路整備事業
澪は二度読んだ。
「長いですね」
「長くてよい」
「地味ですね」
「地味でよい」
「夢がないですね」
「夢を見られると困る」
リュシアが肩を震わせた。
「夢を見られると困る事業名って、なかなかないよ」
「今回はそれでいい」
マルテは真面目にうなずき、申請書へ書き写していく。
「旧採石場跡に鉄分含有重砂あり。押入商会が自費で採取、洗浄、分離を行う。回収した鉄は全量侯爵家へ納入。採石場跡の水路整備、危険箇所補修、捨て石整理を併せて実施……」
マルテの筆先が、そこで少し止まった。
「鉄回収後の黒砂、石粉、残渣、捨て石は押入商会が処理する……でよろしいですか」
「よろしい」
澪はその言葉を見た。
処理。
便利な言葉だった。
片づけるようにも聞こえる。
捨てるようにも聞こえる。
利用するようにも聞こえる。
「処理って、本当に便利ですね」
「実際に処理する」
「利用しますよね」
「処理の一形態だ」
「言葉の使い方が商人です」
真壁は否定しなかった。
リュシアが机に肘をつき、笑いを含んだ声で言った。
「でも、侯爵家も損はしない。鉄が入る。水路も整う。危ない場所も補修される。放っておいた採石場跡が、少なくとも使える場所になる」
「そこなんですよね」
澪は申請書を見た。
騙しているわけではない。
鉄は本当に出る。
全量納める。
水路も直す。
危険箇所も補修する。
ただ、真壁が一番欲しいものは、申請書の中で一番地味な言葉に隠れている。
処理。
「胃が痛いです」
「取引の形が見えてきた証拠だ」
真壁が言った。
「胃で理解したくありません」
―――――
侯爵家の執務室は、採石場とまるで匂いが違った。
磨かれた木の床。
厚い帳面。
窓辺に置かれた花。
壁際に立つ家令の静かな目。
アルベルトは、申請書を最初から最後まで読んだ。
すぐには顔を上げない。
澪は、椅子に座ったまま指先を膝の上で揃えていた。隣の真壁は、いつものように落ち着いている。リュシアは一歩引いた位置で、部屋の空気とアルベルトの表情を見ていた。
紙を置く音がした。
アルベルトが顔を上げる。
「旧採石場跡から鉄分を回収できる、と」
真壁が静かに頭を下げた。
「はい。規模は十トン程度。大鉱山ではありませんが、領内の補修材としては使い道があるかと存じます」
「十トン程度か。騒ぐほどの量ではないな」
「騒がずに済む量です」
澪は横で、その言い方に耳が引っかかった。
騒がずに済む。
真壁にとって、それは褒め言葉なのだ。
アルベルトは、もう一度申請書へ目を落とした。
「押入商会に採掘権と整理権を与えれば、回収した鉄は全て侯爵家へ納める」
「全てです」
「では、押入商会は何を得る」
真壁は、ほんの少しだけ間を置いた。
「採石場跡の整理権と、鉄回収後の不要物処理権を」
澪は目を伏せた。
不要物ではない。
少なくとも、真壁にとっては。
アルベルトは真壁を見た。
部屋の空気が少しだけ固くなる。外の廊下を歩く足音が遠く聞こえ、すぐに消えた。
「真壁殿。君が鉄だけを見ているとは思わない」
「鉄は全て納めます」
「そう返すということは、やはり鉄だけではないな」
真壁は否定しなかった。
「採石場跡の整理には、副産物が出ます。現時点では押入商会の研究対象です」
「その名は言えないか」
「今言えば、不要な者まで興味を持ちます」
澪は呼吸を浅くした。
嘘ではない。
本当に、今言えばいろいろな者が興味を持つ。
鍛冶職人も、商人も、軍に近い者も、教会も、そして現代側も。
アルベルトは家令へ視線を向けた。
家令が別の帳面を開き、採石場跡の記録を読み上げる。
古い採石場であること。
建築材としての石質が安定しなかったこと。
黒い重砂や重い砂が多く、炉では嫌われていたこと。
水が溜まりやすいこと。
近年はほぼ放置されていること。
収益はほとんどないこと。
一部に崩れやすい箇所が残っていること。
アルベルトは、家令の声が止まってからもしばらく黙っていた。
やがて、指先で申請書の端を軽く叩く。
「確かに、あそこは持て余していた」
「押入商会は荒らすつもりはありません。むしろ整えます」
澪は、すでに整えすぎて秘密工房になっている採石場を思い出し、さらに目を伏せた。
アルベルトは、今度は澪を見た。
「澪殿も、この件を承知しているのか」
「はい」
声が少し硬くなった。
「鉄は本当に納めます。水路も直します。危ない場所も、放っておくよりは良くなります」
「では、不安はないか」
澪は答えに詰まった。
不安はある。
ありすぎる。
だが、それは侯爵家が損をする不安とは少し違う。
「……不安はあります。でも、真壁さんが一個ずつ無理をするよりは、きちんと場所を使って記録を残した方がいいと思います」
アルベルトは、その答えにわずかに目を細めた。
「なるほど」
リュシアが少しだけ口元を緩めた。澪は、今の答えが商談に効いたのか失敗したのか分からず、膝の上の指を握った。
アルベルトは椅子に背を預けた。
「条件を付ける」
真壁が姿勢を正した。
「採石範囲は事前に示せ。水路を荒らすな。危険箇所を増やすな。鉄分回収量と鉄納入量は記録せよ。鉄は全量、侯爵家へ納めること。作業員を増やす場合は名簿を出せ。採石場跡の利用で領民に害を出すな。領主権限による立ち入り確認を拒まぬこと」
家令がその条件を紙に記していく。
アルベルトはさらに続けた。
「採石場跡で危険なものを見つけた場合は報告せよ。研究対象については秘匿を認める。だが、領地に損害が出るなら即時停止する」
「妥当な条件です」
真壁はすぐに答えた。
澪は「危険なもの」のところで、横目で真壁を見た。
真壁は表情を変えない。
アルベルトは、その表情を見ていた。
「真壁殿。私は君の商才を買っている。だが、侯爵領を実験場にすることは許さない」
「心得ています」
「鉄分回収事業として許可する。記録は残せ。領地に害が出るなら止める」
「承知しました」
真壁は深く頭を下げた。
澪も頭を下げながら、心の中で思った。
止める頃には、たぶんまた何かが完成している。
そして、それを口に出さないくらいには、澪も押入商会に慣れてきていた。
―――――
侯爵家からの帰り道、澪は馬車の揺れに合わせて、指を一本ずつ立てた。
「確認します」
「どうぞ」
真壁は向かいの席で、平然としている。
「鉄は全て侯爵家へ納める」
「そうだ」
「採石場跡の水路整備と危険箇所補修もする」
「する」
「作業記録も残す」
「残す」
「その代わり、鉄を抜いた後の黒砂、石粉、残渣、捨て石、淡色鉱石片の処理権をもらう」
「処理する」
「利用しますよね」
「利用できるなら利用する」
澪は、馬車の窓から外を見た。
畑の緑が流れていく。農具を担いだ人が道の端で馬車を避け、帽子を下げた。鉄は、ああいう場所で使われる。釘、金具、鍬の補修、荷車の部品。
侯爵家にとって、それは分かりやすい価値だった。
リュシアが隣で腕を組んだ。
「表だけ見ると、侯爵家が得をしている。鉄が入り、採石場も整う」
澪はゆっくり振り向いた。
「裏を見ると?」
「押入商会がもっと得をしている」
「やっぱり」
真壁は窓の外を見たまま言った。
「どちらかが損をする取引は長く続かない」
「どちらも得をするのに、なぜか私だけ疲れています」
「よく見ているからだ」
「見たくなかった部分まで見えるようになってきました」
リュシアが笑った。
「商会の人間らしくなってきたね」
「褒めないでください。逃げ道がなくなります」
馬車の車輪が小石を踏み、軽く跳ねた。
澪は、採石場の作業台を思い出した。
泥。
石粉。
鉄。
黒砂。
濃縮試料。
失敗した塊。
小さな銀灰色の金属。
分ければ分けるほど、隠れていたものが見える。
商売も、同じらしい。
―――――
現代側の部屋に戻ると、空気が急に乾いた。
採石場の湿った石の匂いも、水路の音もない。代わりに、机の上には白い紙、ボールペン、ノートパソコン、透明な小袋が置かれている。その中に、小型純チタンインゴット候補が一つ入っていた。
銀灰色の小さな塊。
澪はそれを指先でつまみ、光に透かすように見た。
「これ、鑑定ではチタンですけど、現代の会社は鑑定を信じませんよね」
「信じない」
真壁は即答した。
「ですよね」
澪は小袋を机に戻した。
真壁は白い紙を引き寄せ、ボールペンで項目を書き始めた。
成分分析。
不純物の確認。
強度試験。
加工性。
ロットごとの品質差。
納入量。
納期。
出どころ。
契約上の責任範囲。
紙の上に字が増えるたび、澪の顔が少しずつ曇った。
「売る前に、証明することが多すぎます」
「工業素材は、光っていれば売れるものではない」
「金属なのに、信用の方が重いんですね」
「素材は、使った先で事故が起きる。買う側は、何が混じっているか、毎回同じものが来るか、責任を誰が持つかを見る」
澪は、透明な小袋の中の銀灰色を見た。
さっきまで成果に見えていたものが、急に宿題の塊に見えてきた。
「つまり、今すぐ売る段階じゃないんですね」
「売らない。まず、売れる形を作る」
「商品じゃなくて、まだ試験片なんですね」
「そうだ」
真壁は、紙の端に小さく「品質評価用」と書いた。
その文字を見て、澪は採石場の皿を思い出した。
水路で泥を流す。
布で石粉を止める。
鉄を分ける。
黒く重い粒を濃くする。
小皿に分ける。
条件を揃える。
現代側では、また別のものを分ける。
成分。
不純物。
強度。
納期。
責任。
出どころ。
信用。
「採石場では砂を分けて、現代側では信用を積む」
真壁のペンが止まった。
「よい理解だ」
「褒めないでください。嫌な理解が進んでいます」
「理解は進んだ方がいい」
「胃には悪いです」
真壁は透明な小袋をさらに布袋へ入れ、引き出しではなく、鍵のかかる小箱にしまった。
「大口へは持ち込まない」
「いきなり大企業は駄目ですよね。調べられますよね」
「調べられる。出どころを聞かれる。安定供給を求められる。こちらの足元まで見に来る」
「足元に押し入れがありますからね」
「見せられん」
「見せたら終わりです」
真壁は小箱に鍵をかけた。
「最初に必要なのは、大きな契約ではない。黙って分析してくれる相手だ」
澪はすぐに顔をしかめた。
「黙って、ってところがもう怖いです」
「正確には、守秘契約を守る相手だ」
「言い直しても怖いです」
「なら、信頼できる分析先を探す」
「それなら少しだけましです」
「少しだけか」
「出どころを言えない時点で、だいぶ怪しいです」
真壁は否定しなかった。
否定しないところが、一番怪しかった。
―――――
旧採石場跡の入口に、新しい木札が立った。
旧採石場跡鉄分回収および水路整備事業
文字はマルテが丁寧に書いた。曲がってはいない。読みにくくもない。ただ、とても長く、とても地味だった。
澪は木札の前でしばらく黙っていた。
「地味ですね」
「よい看板だ」
「褒めるところがそこなんですね」
真壁は満足そうだった。
水路では、ミラとピナが布枠を洗っている。トルは、鉄分寄りの粒を入れる瓶を両手で抱えていた。マルテは作業台の端で、採取地点、水洗い量、鉄分回収量、侯爵家納入予定量を書き込んでいる。
「侯爵家納入用、鉄分回収分」
マルテは瓶の札を読み上げ、記録へ写した。
隣には別の瓶がある。
「処理対象黒砂」
さらに奥、内部用の棚にだけ、小さな木札があった。
濃縮チタン系試料。
トルがそれを覗き込んだ。
「こっちがチタ……」
ミラが素早くトルの口を押さえた。
「外で言わない」
トルはもごもごと抗議した。
「まだ言ってないです」
ピナが布を絞りながら言った。
「言いかけました」
澪は額を押さえた。
「内部名が一番言いやすいのが問題です」
真壁は棚の木札を裏返した。
「内部名を外で言うな」
「では、普段は何と呼べばいいんですか」
マルテが真面目に聞いた。
真壁は入口の看板を指した。
「旧採石場跡鉄分回収および水路整備事業」
全員が看板を見た。
長い沈黙が落ちた。
トルが小さな声で言った。
「長いです」
「長い方がよい」
「噛みます」
「噛むなら、鉄分回収事業でよい」
澪は少しだけ安心した。
「短縮していいんですね」
「外向きにはな」
「内向きには?」
真壁は澪を見た。
澪は言う前に口を閉じた。
言いやすい方を言ってはいけない。
押入商会には、また一つ、言いやすい名前ほど口に出せない仕事が増えた。
作業は、静かに始まった。
黒砂を水路へ流す。
泥水が薄茶色になって沈み場へ逃げる。
布枠に小石が残る。
細かな石粉が白っぽく布の目を汚す。
浅皿の底に、重い粒が寄る。
鉄分寄りは侯爵家納入用の瓶へ。
残りの黒砂は処理対象の瓶へ。
さらに濃い粒だけが、内部用の小瓶へ移される。
マルテの筆が紙の上を走る。
「第一回試料分離記録。採取地点、北側水路脇。水洗い量、小桶二杯。鉄分回収量、小瓶一。処理対象黒砂、中瓶一。水路補修箇所、二箇所……」
澪はその記録を覗き込んだ。
「表の記録と、内側の記録があるんですね」
「どちらも必要だ」
真壁が答えた。
「どちらも本当ではある」
「本当でなければ、後で崩れる」
「本当なのに、全部ではない」
「商売の記録とはそういうものだ」
澪は筆を動かすマルテを見た。
マルテは真面目に書いている。嘘は書いていない。侯爵家に出しても困らない記録だ。ただ、棚の奥に置かれた内部用の小瓶だけは、その紙には載らない。
澪は、小さく息を吐いた。
「また変なことを覚えそうです」
「覚えておけ」
「止めてほしかったです」
―――――
夕方になると、採石場跡の石肌は赤く染まった。
水路の音は、朝よりも静かに聞こえる。作業で濁った水は沈み場で落ち着き、上澄みが細く戻っていく。布枠は洗われ、逆さに立てかけられていた。作業台の上には、今日一日で分けたものが並んでいる。
侯爵家納入用の鉄分。
処理対象黒砂。
濃縮チタン系試料。
失敗した黒い焼結塊。
形の崩れた金属粒。
そして、小型純チタンインゴット候補。
澪はその並びを見た。
前は、小さな金属一個だけを成果だと思っていた。
けれど今日は違う。
水が何を流したか。
布が何を止めたか。
皿の底に何が残ったか。
どこで失敗が分かれたか。
どこで銀灰色になったか。
全部が、作業台の上に残っている。
「今日は、チタンが増えたというより、作り方が増えた日ですね」
真壁は小型インゴット候補を布に包みながら、少しだけ目を細めた。
「よい表現だ」
「褒めないでください。不安になります」
「鉄で採掘権を得た。採石場を前処理場にできる。次は、成功率を上げる」
「まだ五個中二個ですからね」
「二個できた」
「三個失敗しました」
「失敗が分かれた」
「言い方」
「全部失敗ではない。失敗の種類が見えた。これは進歩だ」
澪は否定できなかった。
黒い焼結塊は黒い焼結塊で、失敗の理由がある。
散った金属粒は散った金属粒で、熱の入り方か、量か、水分か、何かが違った証拠になる。
成功した二つは、成功した二つで、次に近づく目印になる。
旧採石場跡は、正式な事業地になった。
表向きは、鉄分回収と水路整備。
侯爵家には鉄が納められる。
押入商会は、捨てられていた黒砂と残砂を引き取る。
水が泥を流し、布が石粉を止め、皿の底に重い粒が残る。
その地味な作業の先に、白く鈍く光る小さな金属があった。
澪は入口の看板を見た。
旧採石場跡鉄分回収および水路整備事業。
やっぱり長い。
やっぱり地味だ。
そして、たぶん危ない。
「ところで真壁さん」
「何だ」
「この看板、本当にこのままですか」
「何か問題があるか」
「長すぎます」
「長くて地味だからよい」
「裏の名前は短いのに」
「だから外で言うな」
澪は、夕方の水路の音を聞きながら、深くうなずいた。
「言いやすい方を言えない事業、また増えましたね」
「押入商会らしい」
「そこは反省してください」
真壁は答えず、布に包んだ小さな銀灰色の塊を、木箱の中へ静かにしまった。
地味な看板の下で、プロジェクト・チタンは始まっていた。
本日ここまでです。