押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第82話 鉄で買う採掘権

水路の音が、いつもより近く聞こえた。

 

採石場跡の奥に作った秘密工房は、朝の光を受けても明るい場所ではない。石肌の影がまだ青く残り、濡れた地面からは冷えた土の匂いが立っていた。水路の縁に置かれた桶の中で、昨夜から沈めていた黒い砂が、底に重く沈んでいる。

 

澪は、まず真壁を見た。

 

顔色は悪くない。昨日のように、立っているだけで倒れそうな白さはない。だが、目だけが妙に冴えていた。嫌な冴え方だった。寝た人間の目ではなく、寝ている間も頭だけ働いていた人間の目だった。

 

澪は黙って鑑定をかけた。

 

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真壁久忠

 分類:人間/異界漂着者

 現在ジョブ:商人

 状態:休息後/思考活性

 疲労度:86% → 54%

 既得スキル:鑑定:9

 既得スキル:収納:9

 注意:高負荷作業の連続は非推奨

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「まだ五十四あります。今日は無理な作業は禁止です」

 

澪は表示を消さず、そのまま真壁の前に立った。

 

真壁は、水路脇に並べた道具から顔を上げた。黒砂の瓶だけではない。浅い桶、布を張った木枠、さらに目の細かい布枠、沈殿用の平皿、小分け皿、木札、細い匙、乾かすための布。昨日よりも、道具の数が多い。

 

澪はその並びを見て、少しだけ眉を寄せた。

 

「……今日は、いきなり収納に入れないんですね」

 

「入れん」

 

真壁は桶の水面に浮いた草の根を指でつまみ、脇の皿へ落とした。

 

「前回は、収納内高温場に働かせすぎた。今回は、その前にできることを全部外でやる」

 

「外でやるなら見ています。収納に入れる時点で止めるかもしれません」

 

「そのために呼んだ」

 

澪は、少しだけ黙った。

 

止めるために呼ばれた。

 

その言い方だけなら良心的に聞こえる。だが真壁がそう言う時は、大抵、止められる寸前まではやるという意味でもある。

 

「確認します。倒れるまでやるのは禁止です」

 

「倒れる前に止める」

 

「倒れる直前も禁止です」

 

「では、澪君が止める前に止める努力をしよう」

 

「努力じゃなくて実行してください」

 

真壁は小さく笑い、桶の黒砂を匙ですくった。

 

「まず、これだ」

 

匙から落ちた黒砂が、水路の上流側へ薄く広がった。

 

水は勢いよく流れていない。石で作った浅い溝を、音を立てないほどの速さで滑っていく。黒い粒は底に残り、薄茶色の泥だけが、ゆっくり下へ流れていった。細い草の根と、軽い砂が水の表面に浮き、端のくぼみに寄る。

 

澪はしゃがみ込んで、水路の底を見た。

 

「流してしまって大丈夫なんですか」

 

「全部は流れていない。流れているのは軽いものだ」

 

真壁は濡れた指で、水路の底をなぞった。爪の先に、黒く重い粒が残る。

 

「目的の重い粒は底に残る。泥はチタンにならない。草の根もならない。軽い砂もならない。だが混ざったまま高温場へ入れると、私はそれらまで相手にすることになる」

 

澪は、流れていく泥水を見た。

 

薄茶色の水は、少し離れた沈み場で濁りを落とし、上澄みだけがまた水路へ戻る。昨日まではただの濁りにしか見えなかったものが、今は疲労度に見えた。

 

「目的物ではないものに、疲労度を払っていたということですか」

 

「そうだ。昨日は黒砂を相手にしたつもりで、泥と石粉にも相手をしていた」

 

「泥に疲労度を取られたんですね」

 

「言い方は悪いが、間違ってはいない」

 

「泥、強敵ですね」

 

「敵にする必要がない相手だ」

 

真壁は次の黒砂を水路へ落とした。澪は、その一匙ごとに泥水の色が薄くなっていくのを見た。最初の黒砂は、ただ黒い砂だった。だが水が通ると、そこから茶色が抜け、軽い粒が逃げ、底に残る黒だけが濃くなる。

 

「水で済むことは、水にさせる」

 

真壁が言った。

 

澪は反射的に顔を上げた。

 

「水を働かせる言い方、ちょっと怖いです」

 

「石より文句を言わん」

 

「石にも言わせる気ですね」

 

「言わんから使う」

 

澪は、もう一度水路の底を見た。

 

この人は本当に、何でも仕事に分ける。

 

人がやる仕事。

水がやる仕事。

布がやる仕事。

石の重さがやる仕事。

最後に、自分がやる仕事。

 

その境目を探している。

 

真壁は洗った黒砂を、粗い布枠の上へ移した。木枠を両手で持ち、軽く揺する。小石が布の上に残り、黒い砂だけが下の受け皿に落ちた。

 

次に、目の細かい布へ移す。水を少し足し、指でならすと、泥混じりの細かな粉が下へ抜けた。布の上には、量は減ったが、最初よりずっと重そうな黒い粒が残った。

 

澪は、減った砂を見て言った。

 

「量が減りましたね」

 

「減っていい。減った分は、運ばなくていいものだ」

 

「でも、量が減ると損に見えます」

 

「商売でも製錬でも、いらないものを抱えたまま動く方が損だ」

 

真壁は布を持ち上げた。

 

細かな石粉が、布の目に白っぽく残っている。指でこすると、ざらりとした粉が落ちた。

 

「石粉が多いと熱を食う。泥が多いと水分が邪魔をする。粉の粗さが違うと、固まり方も乱れる」

 

「見た目は砂でも、中身がばらばらだと、高温場の中で調整が必要になる」

 

「そうだ。中で調整すれば、私が疲れる」

 

澪は、布の上の黒い粒と、下に落ちた白っぽい石粉を見比べた。

 

「昨日は、素材の顔をした邪魔者まで一緒に入れていたんですね」

 

「素材の顔をした邪魔者」

 

真壁が少しだけ口元を動かした。

 

「よい表現だ」

 

「褒めないでください。嫌な理解が進んでいます」

 

真壁は、洗い終えた黒色重砂を浅い皿へ広げた。

 

水を含んだ黒い粒の中に、赤茶けたもの、灰色がかったもの、鈍く光るものが混じっている。澪が鑑定をかけると、表示が浮かんだ。

 

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洗浄済み黒色重砂

 分類:鉱物混合物

 含有:鉄分/チタン酸化物/石粉微量

 状態:洗浄済み

 用途:鉄分回収可能/チタン系試料の前処理材料

 注意:未分離のまま高温処理すると負荷増大

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「鉄も混じっているんですか」

 

「混じっている」

 

真壁は、赤茶けた粒を細い匙で寄せた。さらに、黒い粒の中でも反応の違うものを選り分けていく。

 

「こちらにとっては邪魔でもあり、侯爵家にとっては有用物でもある」

 

澪はその言い方に引っかかった。

 

「侯爵家にとって?」

 

「鉄は分かりやすい。釘になる。金具になる。農具の補修にも使える。領地で使い道を説明しやすい」

 

「でも、真壁さんが欲しいのは鉄じゃないですよね」

 

「そうだ」

 

真壁は、鉄分寄りの皿を左に置いた。

 

それから、残った黒砂を右の皿へ寄せる。

 

「私が欲しいのは、鉄を抜いた後に残るものだ」

 

澪は作業台の上を見た。

 

左の皿は、侯爵家に説明しやすい鉄。

右の皿は、侯爵家には説明しにくい黒い残り。

 

「……これ、技術の話だけじゃなくなってますね」

 

「最初からそうだ」

 

「最初からそうでしたか」

 

「昨日、君が私の疲労度を見た時点で、一個ずつ作る道は消えた」

 

真壁は右の皿に水を加え、ゆっくり揺らした。

 

皿の縁に軽い粒が寄る。底のくぼみに、重い黒い粒が残る。水を捨て、また揺らす。薄い濁りが逃げ、残る粒は少なく、黒く、重くなっていく。

 

澪は思わず言った。

 

「砂金取りみたいですね」

 

「近い。ただし金ではない」

 

「金じゃないのに、やっていることがどんどん怪しくなっているんですが」

 

「金より扱いに困る」

 

「もっと不安になることを言いましたね」

 

真壁はくぼみに残った重い粒を小瓶へ移した。

 

澪が鑑定する。

 

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濃縮チタン系重砂

 分類:前処理済み鉱物試料

 主成分傾向:チタン酸化物

 混入:鉄分少量/石粉微量

 状態:洗浄・粗分離済み

 用途:収納内高温場での金属化候補

 注意:粒度と水分量を揃えることで処理負荷を低減可能

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「これが本命ですか」

 

「本命の手前だ。まだ金属ではない。ただ、昨日より余計なものは少ない」

 

「余計なものが少なければ、高温場で真壁さんが調整する分も少なくなる」

 

「その理解でいい」

 

真壁は、濃縮した黒い粒を小皿へ分け始めた。

 

同じ大きさの小皿が五枚、作業台に並ぶ。一皿ずつ量を測り、水気を布で押さえ、粒を薄くならす。木札には、一号、二号、三号、四号、五号と書かれていた。

 

澪はそれを見て、首を傾げた。

 

「まとめて一つにした方が早くないですか」

 

「大きくすれば、中と外で状態が変わる。熱の入り方も違う。失敗した時に全部駄目になる」

 

「小分けなら?」

 

「失敗が分かれる。成功条件も見える」

 

「料理の試作みたいですね」

 

「近い」

 

真壁は三号の皿から、匙の先でほんの少しだけ粒を削り、四号へ移した。五号は布の上に置いて、水気を少し抜く。一号は粒が粗いと見て、別の木札に印をつけた。

 

澪は、その細かさに目を細めた。

 

「そこまで揃える必要がありますか」

 

「ある。ばらばらのものを入れると、ばらばらに反応する。中で調整することになる」

 

「中で調整すると、疲労度を使う」

 

「だから外で揃える」

 

澪は、五枚の皿を見た。

 

同じようで、微妙に違う。水気、量、粒の粗さ、皿の広がり方。昨日なら全部まとめて黒砂と呼んでいたものが、今はそれぞれ違う顔をしている。

 

「作る数を増やすんじゃなくて、同じ処理で済む状態を増やしているんですね」

 

真壁は、一瞬だけ手を止めた。

 

「そうだ。数を増やす前に、同じ扱いができるものを並べる」

 

「それが大量生産の道ですか」

 

「道の入口だ」

 

澪は、今度はすぐに否定しなかった。

 

入口。

 

その言い方なら、まだ許せる。

 

真壁は五枚の小皿を見比べ、最後に木札の位置を揃えた。

 

「ここから先は、収納内高温場を使う」

 

澪はすぐに腕をつかんだ。

 

「ここから先は止める権限があります」

 

「承知している。疲労度を見ていろ。危険なら中断する」

 

「危険になる前に止めます」

 

「分かった」

 

「本当に分かっていますか」

 

「昨日よりは分かっている」

 

その返事が妙に素直で、澪は逆に不安になった。

 

真壁は五枚の小皿を収納へ入れた。

 

そこから先は、澪には見えない。

 

見えないからこそ、澪は真壁の顔を見る。額に汗が浮いた。指先が一度、ぴくりと震える。だが、昨日のように一気に血の気が引く感じはない。

 

澪は鑑定表示を凝視した。

 

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真壁久忠

 状態:高負荷作業中

 疲労度:54% → 61%

 注意:継続監視推奨

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「六十一。まだ続行できます」

 

真壁は声を出さずにうなずいた。

 

水路の音だけが聞こえる。石の上を薄く流れる水音。どこかで落ちた滴の音。遠くの鳥の声。

 

真壁の額の汗が、こめかみから一筋落ちた。

 

澪は再び表示を見る。

 

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真壁久忠

 状態:高負荷作業中

 疲労度:61% → 68%

 注意:高負荷作業の延長は非推奨

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「六十八。ここで止めます」

 

「十分だ」

 

真壁は、すぐに止めた。

 

澪は少しだけ目を丸くした。昨日なら、もう少しだけ、と言い出すと思っていた。だが真壁は、収納から小皿を取り出し、作業台の上へ一枚ずつ置いた。

 

五枚の皿。

 

二つには、銀灰色の小さな塊があった。

一つは、形が崩れて端が欠けている。

一つは、金属粒が散って皿の上でばらけている。

一つは、黒い焼結塊のように固まっていた。

 

澪は成功した二つへ鑑定をかけた。

 

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小型純チタンインゴット候補

 分類:金属素材

 材質:高純度チタン

 状態:小型/試作

 備考:前処理済み濃縮試料から生成

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「二個、できています」

 

「五個中二個だ。三個は失敗している」

 

「でも、昨日は一個で二十一上がりました。今日は二個成功して、十四上昇です」

 

「まだ安定しない」

 

「でも、昨日とは違います」

 

澪は作業台を見た。

 

泥。

石粉。

鉄分寄りの粒。

黒く重い濃縮試料。

崩れた焼結塊。

散った金属粒。

銀灰色の小さな金属。

 

昨日は、黒砂とインゴットしか見ていなかった。

今日は、途中が見えている。

何が邪魔で、何が残り、どこで失敗し、どこで成功したのかが、皿ごとに分かれていた。

 

「……これ、原料が足りませんね」

 

真壁は濡れた布で手を拭いた。

 

「そうだ」

 

「小瓶で試す段階は終わりなんですね」

 

「終わりではない。だが、小瓶だけでは次へ進めない」

 

「採石場を正式に使う必要がある」

 

「そのために採掘権を取る」

 

澪は、作業台の左にある鉄分寄りの皿を見た。

 

赤茶けた粒。

侯爵家に説明しやすいもの。

真壁が本当に欲しいものではないもの。

 

「鉄、ですね」

 

「鉄だ」

 

「鉄で、採石場を使う理由を作るんですね」

 

「作るのではない。実際に鉄は取れる」

 

「言い方」

 

「嘘はつかん」

 

澪は額に手を当てた。

 

嘘はつかない。

ただし、全部は言わない。

 

真壁という商人の厄介なところが、また皿の上に並んでいた。

 

―――――

 

押入商会侯爵領事業所の机は、採石場から持ち帰った木札と、簡単な図面と、まだ湿った試料瓶で埋まっていた。

 

リュシアは、鉄分寄りの皿と、黒い濃縮試料の瓶を交互に見た。

 

「なるほどね」

 

その一言が早すぎて、澪は椅子の背にもたれた。

 

「リュシアさん、今ので分かるんですか」

 

「分かるよ。侯爵家に見せるのはこっち」

 

リュシアは鉄分寄りの皿を指した。

 

「押入商会が欲しいのはこっち」

 

次に、黒い濃縮試料の瓶を指す。

 

「相手に損はさせない。でも、本当に欲しいものは別にある」

 

「やっぱりそう見えますよね」

 

「商人らしいね」

 

澪は小さくため息をついた。

 

「商人らしい、の範囲が広すぎます」

 

真壁は机の上で申請書の下書きを整えていた。マルテがその横で、真面目な顔をして羽根ペンを持っている。

 

「事業名はこれでいく」

 

真壁が紙を差し出した。

 

そこには、丁寧な文字でこう書かれていた。

 

旧採石場跡鉄分回収および水路整備事業

 

澪は二度読んだ。

 

「長いですね」

 

「長くてよい」

 

「地味ですね」

 

「地味でよい」

 

「夢がないですね」

 

「夢を見られると困る」

 

リュシアが肩を震わせた。

 

「夢を見られると困る事業名って、なかなかないよ」

 

「今回はそれでいい」

 

マルテは真面目にうなずき、申請書へ書き写していく。

 

「旧採石場跡に鉄分含有重砂あり。押入商会が自費で採取、洗浄、分離を行う。回収した鉄は全量侯爵家へ納入。採石場跡の水路整備、危険箇所補修、捨て石整理を併せて実施……」

 

マルテの筆先が、そこで少し止まった。

 

「鉄回収後の黒砂、石粉、残渣、捨て石は押入商会が処理する……でよろしいですか」

 

「よろしい」

 

澪はその言葉を見た。

 

処理。

 

便利な言葉だった。

片づけるようにも聞こえる。

捨てるようにも聞こえる。

利用するようにも聞こえる。

 

「処理って、本当に便利ですね」

 

「実際に処理する」

 

「利用しますよね」

 

「処理の一形態だ」

 

「言葉の使い方が商人です」

 

真壁は否定しなかった。

 

リュシアが机に肘をつき、笑いを含んだ声で言った。

 

「でも、侯爵家も損はしない。鉄が入る。水路も整う。危ない場所も補修される。放っておいた採石場跡が、少なくとも使える場所になる」

 

「そこなんですよね」

 

澪は申請書を見た。

 

騙しているわけではない。

鉄は本当に出る。

全量納める。

水路も直す。

危険箇所も補修する。

 

ただ、真壁が一番欲しいものは、申請書の中で一番地味な言葉に隠れている。

 

処理。

 

「胃が痛いです」

 

「取引の形が見えてきた証拠だ」

 

真壁が言った。

 

「胃で理解したくありません」

 

―――――

 

侯爵家の執務室は、採石場とまるで匂いが違った。

 

磨かれた木の床。

厚い帳面。

窓辺に置かれた花。

壁際に立つ家令の静かな目。

 

アルベルトは、申請書を最初から最後まで読んだ。

 

すぐには顔を上げない。

 

澪は、椅子に座ったまま指先を膝の上で揃えていた。隣の真壁は、いつものように落ち着いている。リュシアは一歩引いた位置で、部屋の空気とアルベルトの表情を見ていた。

 

紙を置く音がした。

 

アルベルトが顔を上げる。

 

「旧採石場跡から鉄分を回収できる、と」

 

真壁が静かに頭を下げた。

 

「はい。規模は十トン程度。大鉱山ではありませんが、領内の補修材としては使い道があるかと存じます」

 

「十トン程度か。騒ぐほどの量ではないな」

 

「騒がずに済む量です」

 

澪は横で、その言い方に耳が引っかかった。

 

騒がずに済む。

 

真壁にとって、それは褒め言葉なのだ。

 

アルベルトは、もう一度申請書へ目を落とした。

 

「押入商会に採掘権と整理権を与えれば、回収した鉄は全て侯爵家へ納める」

 

「全てです」

 

「では、押入商会は何を得る」

 

真壁は、ほんの少しだけ間を置いた。

 

「採石場跡の整理権と、鉄回収後の不要物処理権を」

 

澪は目を伏せた。

 

不要物ではない。

少なくとも、真壁にとっては。

 

アルベルトは真壁を見た。

 

部屋の空気が少しだけ固くなる。外の廊下を歩く足音が遠く聞こえ、すぐに消えた。

 

「真壁殿。君が鉄だけを見ているとは思わない」

 

「鉄は全て納めます」

 

「そう返すということは、やはり鉄だけではないな」

 

真壁は否定しなかった。

 

「採石場跡の整理には、副産物が出ます。現時点では押入商会の研究対象です」

 

「その名は言えないか」

 

「今言えば、不要な者まで興味を持ちます」

 

澪は呼吸を浅くした。

 

嘘ではない。

本当に、今言えばいろいろな者が興味を持つ。

鍛冶職人も、商人も、軍に近い者も、教会も、そして現代側も。

 

アルベルトは家令へ視線を向けた。

 

家令が別の帳面を開き、採石場跡の記録を読み上げる。

 

古い採石場であること。

建築材としての石質が安定しなかったこと。

黒い重砂や重い砂が多く、炉では嫌われていたこと。

水が溜まりやすいこと。

近年はほぼ放置されていること。

収益はほとんどないこと。

一部に崩れやすい箇所が残っていること。

 

アルベルトは、家令の声が止まってからもしばらく黙っていた。

 

やがて、指先で申請書の端を軽く叩く。

 

「確かに、あそこは持て余していた」

 

「押入商会は荒らすつもりはありません。むしろ整えます」

 

澪は、すでに整えすぎて秘密工房になっている採石場を思い出し、さらに目を伏せた。

 

アルベルトは、今度は澪を見た。

 

「澪殿も、この件を承知しているのか」

 

「はい」

 

声が少し硬くなった。

 

「鉄は本当に納めます。水路も直します。危ない場所も、放っておくよりは良くなります」

 

「では、不安はないか」

 

澪は答えに詰まった。

 

不安はある。

ありすぎる。

だが、それは侯爵家が損をする不安とは少し違う。

 

「……不安はあります。でも、真壁さんが一個ずつ無理をするよりは、きちんと場所を使って記録を残した方がいいと思います」

 

アルベルトは、その答えにわずかに目を細めた。

 

「なるほど」

 

リュシアが少しだけ口元を緩めた。澪は、今の答えが商談に効いたのか失敗したのか分からず、膝の上の指を握った。

 

アルベルトは椅子に背を預けた。

 

「条件を付ける」

 

真壁が姿勢を正した。

 

「採石範囲は事前に示せ。水路を荒らすな。危険箇所を増やすな。鉄分回収量と鉄納入量は記録せよ。鉄は全量、侯爵家へ納めること。作業員を増やす場合は名簿を出せ。採石場跡の利用で領民に害を出すな。領主権限による立ち入り確認を拒まぬこと」

 

家令がその条件を紙に記していく。

 

アルベルトはさらに続けた。

 

「採石場跡で危険なものを見つけた場合は報告せよ。研究対象については秘匿を認める。だが、領地に損害が出るなら即時停止する」

 

「妥当な条件です」

 

真壁はすぐに答えた。

 

澪は「危険なもの」のところで、横目で真壁を見た。

 

真壁は表情を変えない。

 

アルベルトは、その表情を見ていた。

 

「真壁殿。私は君の商才を買っている。だが、侯爵領を実験場にすることは許さない」

 

「心得ています」

 

「鉄分回収事業として許可する。記録は残せ。領地に害が出るなら止める」

 

「承知しました」

 

真壁は深く頭を下げた。

 

澪も頭を下げながら、心の中で思った。

 

止める頃には、たぶんまた何かが完成している。

 

そして、それを口に出さないくらいには、澪も押入商会に慣れてきていた。

 

―――――

 

侯爵家からの帰り道、澪は馬車の揺れに合わせて、指を一本ずつ立てた。

 

「確認します」

 

「どうぞ」

 

真壁は向かいの席で、平然としている。

 

「鉄は全て侯爵家へ納める」

 

「そうだ」

 

「採石場跡の水路整備と危険箇所補修もする」

 

「する」

 

「作業記録も残す」

 

「残す」

 

「その代わり、鉄を抜いた後の黒砂、石粉、残渣、捨て石、淡色鉱石片の処理権をもらう」

 

「処理する」

 

「利用しますよね」

 

「利用できるなら利用する」

 

澪は、馬車の窓から外を見た。

 

畑の緑が流れていく。農具を担いだ人が道の端で馬車を避け、帽子を下げた。鉄は、ああいう場所で使われる。釘、金具、鍬の補修、荷車の部品。

 

侯爵家にとって、それは分かりやすい価値だった。

 

リュシアが隣で腕を組んだ。

 

「表だけ見ると、侯爵家が得をしている。鉄が入り、採石場も整う」

 

澪はゆっくり振り向いた。

 

「裏を見ると?」

 

「押入商会がもっと得をしている」

 

「やっぱり」

 

真壁は窓の外を見たまま言った。

 

「どちらかが損をする取引は長く続かない」

 

「どちらも得をするのに、なぜか私だけ疲れています」

 

「よく見ているからだ」

 

「見たくなかった部分まで見えるようになってきました」

 

リュシアが笑った。

 

「商会の人間らしくなってきたね」

 

「褒めないでください。逃げ道がなくなります」

 

馬車の車輪が小石を踏み、軽く跳ねた。

 

澪は、採石場の作業台を思い出した。

 

泥。

石粉。

鉄。

黒砂。

濃縮試料。

失敗した塊。

小さな銀灰色の金属。

 

分ければ分けるほど、隠れていたものが見える。

 

商売も、同じらしい。

 

―――――

 

現代側の部屋に戻ると、空気が急に乾いた。

 

採石場の湿った石の匂いも、水路の音もない。代わりに、机の上には白い紙、ボールペン、ノートパソコン、透明な小袋が置かれている。その中に、小型純チタンインゴット候補が一つ入っていた。

 

銀灰色の小さな塊。

 

澪はそれを指先でつまみ、光に透かすように見た。

 

「これ、鑑定ではチタンですけど、現代の会社は鑑定を信じませんよね」

 

「信じない」

 

真壁は即答した。

 

「ですよね」

 

澪は小袋を机に戻した。

 

真壁は白い紙を引き寄せ、ボールペンで項目を書き始めた。

 

成分分析。

不純物の確認。

強度試験。

加工性。

ロットごとの品質差。

納入量。

納期。

出どころ。

契約上の責任範囲。

 

紙の上に字が増えるたび、澪の顔が少しずつ曇った。

 

「売る前に、証明することが多すぎます」

 

「工業素材は、光っていれば売れるものではない」

 

「金属なのに、信用の方が重いんですね」

 

「素材は、使った先で事故が起きる。買う側は、何が混じっているか、毎回同じものが来るか、責任を誰が持つかを見る」

 

澪は、透明な小袋の中の銀灰色を見た。

 

さっきまで成果に見えていたものが、急に宿題の塊に見えてきた。

 

「つまり、今すぐ売る段階じゃないんですね」

 

「売らない。まず、売れる形を作る」

 

「商品じゃなくて、まだ試験片なんですね」

 

「そうだ」

 

真壁は、紙の端に小さく「品質評価用」と書いた。

 

その文字を見て、澪は採石場の皿を思い出した。

 

水路で泥を流す。

布で石粉を止める。

鉄を分ける。

黒く重い粒を濃くする。

小皿に分ける。

条件を揃える。

 

現代側では、また別のものを分ける。

 

成分。

不純物。

強度。

納期。

責任。

出どころ。

信用。

 

「採石場では砂を分けて、現代側では信用を積む」

 

真壁のペンが止まった。

 

「よい理解だ」

 

「褒めないでください。嫌な理解が進んでいます」

 

「理解は進んだ方がいい」

 

「胃には悪いです」

 

真壁は透明な小袋をさらに布袋へ入れ、引き出しではなく、鍵のかかる小箱にしまった。

 

「大口へは持ち込まない」

 

「いきなり大企業は駄目ですよね。調べられますよね」

 

「調べられる。出どころを聞かれる。安定供給を求められる。こちらの足元まで見に来る」

 

「足元に押し入れがありますからね」

 

「見せられん」

 

「見せたら終わりです」

 

真壁は小箱に鍵をかけた。

 

「最初に必要なのは、大きな契約ではない。黙って分析してくれる相手だ」

 

澪はすぐに顔をしかめた。

 

「黙って、ってところがもう怖いです」

 

「正確には、守秘契約を守る相手だ」

 

「言い直しても怖いです」

 

「なら、信頼できる分析先を探す」

 

「それなら少しだけましです」

 

「少しだけか」

 

「出どころを言えない時点で、だいぶ怪しいです」

 

真壁は否定しなかった。

 

否定しないところが、一番怪しかった。

 

―――――

 

旧採石場跡の入口に、新しい木札が立った。

 

旧採石場跡鉄分回収および水路整備事業

 

文字はマルテが丁寧に書いた。曲がってはいない。読みにくくもない。ただ、とても長く、とても地味だった。

 

澪は木札の前でしばらく黙っていた。

 

「地味ですね」

 

「よい看板だ」

 

「褒めるところがそこなんですね」

 

真壁は満足そうだった。

 

水路では、ミラとピナが布枠を洗っている。トルは、鉄分寄りの粒を入れる瓶を両手で抱えていた。マルテは作業台の端で、採取地点、水洗い量、鉄分回収量、侯爵家納入予定量を書き込んでいる。

 

「侯爵家納入用、鉄分回収分」

 

マルテは瓶の札を読み上げ、記録へ写した。

 

隣には別の瓶がある。

 

「処理対象黒砂」

 

さらに奥、内部用の棚にだけ、小さな木札があった。

 

濃縮チタン系試料。

 

トルがそれを覗き込んだ。

 

「こっちがチタ……」

 

ミラが素早くトルの口を押さえた。

 

「外で言わない」

 

トルはもごもごと抗議した。

 

「まだ言ってないです」

 

ピナが布を絞りながら言った。

 

「言いかけました」

 

澪は額を押さえた。

 

「内部名が一番言いやすいのが問題です」

 

真壁は棚の木札を裏返した。

 

「内部名を外で言うな」

 

「では、普段は何と呼べばいいんですか」

 

マルテが真面目に聞いた。

 

真壁は入口の看板を指した。

 

「旧採石場跡鉄分回収および水路整備事業」

 

全員が看板を見た。

 

長い沈黙が落ちた。

 

トルが小さな声で言った。

 

「長いです」

 

「長い方がよい」

 

「噛みます」

 

「噛むなら、鉄分回収事業でよい」

 

澪は少しだけ安心した。

 

「短縮していいんですね」

 

「外向きにはな」

 

「内向きには?」

 

真壁は澪を見た。

 

澪は言う前に口を閉じた。

 

言いやすい方を言ってはいけない。

 

押入商会には、また一つ、言いやすい名前ほど口に出せない仕事が増えた。

 

作業は、静かに始まった。

 

黒砂を水路へ流す。

泥水が薄茶色になって沈み場へ逃げる。

布枠に小石が残る。

細かな石粉が白っぽく布の目を汚す。

浅皿の底に、重い粒が寄る。

鉄分寄りは侯爵家納入用の瓶へ。

残りの黒砂は処理対象の瓶へ。

さらに濃い粒だけが、内部用の小瓶へ移される。

 

マルテの筆が紙の上を走る。

 

「第一回試料分離記録。採取地点、北側水路脇。水洗い量、小桶二杯。鉄分回収量、小瓶一。処理対象黒砂、中瓶一。水路補修箇所、二箇所……」

 

澪はその記録を覗き込んだ。

 

「表の記録と、内側の記録があるんですね」

 

「どちらも必要だ」

 

真壁が答えた。

 

「どちらも本当ではある」

 

「本当でなければ、後で崩れる」

 

「本当なのに、全部ではない」

 

「商売の記録とはそういうものだ」

 

澪は筆を動かすマルテを見た。

 

マルテは真面目に書いている。嘘は書いていない。侯爵家に出しても困らない記録だ。ただ、棚の奥に置かれた内部用の小瓶だけは、その紙には載らない。

 

澪は、小さく息を吐いた。

 

「また変なことを覚えそうです」

 

「覚えておけ」

 

「止めてほしかったです」

 

―――――

 

夕方になると、採石場跡の石肌は赤く染まった。

 

水路の音は、朝よりも静かに聞こえる。作業で濁った水は沈み場で落ち着き、上澄みが細く戻っていく。布枠は洗われ、逆さに立てかけられていた。作業台の上には、今日一日で分けたものが並んでいる。

 

侯爵家納入用の鉄分。

処理対象黒砂。

濃縮チタン系試料。

失敗した黒い焼結塊。

形の崩れた金属粒。

そして、小型純チタンインゴット候補。

 

澪はその並びを見た。

 

前は、小さな金属一個だけを成果だと思っていた。

けれど今日は違う。

 

水が何を流したか。

布が何を止めたか。

皿の底に何が残ったか。

どこで失敗が分かれたか。

どこで銀灰色になったか。

 

全部が、作業台の上に残っている。

 

「今日は、チタンが増えたというより、作り方が増えた日ですね」

 

真壁は小型インゴット候補を布に包みながら、少しだけ目を細めた。

 

「よい表現だ」

 

「褒めないでください。不安になります」

 

「鉄で採掘権を得た。採石場を前処理場にできる。次は、成功率を上げる」

 

「まだ五個中二個ですからね」

 

「二個できた」

 

「三個失敗しました」

 

「失敗が分かれた」

 

「言い方」

 

「全部失敗ではない。失敗の種類が見えた。これは進歩だ」

 

澪は否定できなかった。

 

黒い焼結塊は黒い焼結塊で、失敗の理由がある。

散った金属粒は散った金属粒で、熱の入り方か、量か、水分か、何かが違った証拠になる。

成功した二つは、成功した二つで、次に近づく目印になる。

 

旧採石場跡は、正式な事業地になった。

 

表向きは、鉄分回収と水路整備。

侯爵家には鉄が納められる。

押入商会は、捨てられていた黒砂と残砂を引き取る。

 

水が泥を流し、布が石粉を止め、皿の底に重い粒が残る。

その地味な作業の先に、白く鈍く光る小さな金属があった。

 

澪は入口の看板を見た。

 

旧採石場跡鉄分回収および水路整備事業。

 

やっぱり長い。

やっぱり地味だ。

そして、たぶん危ない。

 

「ところで真壁さん」

 

「何だ」

 

「この看板、本当にこのままですか」

 

「何か問題があるか」

 

「長すぎます」

 

「長くて地味だからよい」

 

「裏の名前は短いのに」

 

「だから外で言うな」

 

澪は、夕方の水路の音を聞きながら、深くうなずいた。

 

「言いやすい方を言えない事業、また増えましたね」

 

「押入商会らしい」

 

「そこは反省してください」

 

真壁は答えず、布に包んだ小さな銀灰色の塊を、木箱の中へ静かにしまった。

 

地味な看板の下で、プロジェクト・チタンは始まっていた。




本日ここまでです。

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