澪は、ローテーブルの上に白い紙を一枚敷き、その中央に銀灰色の小さな塊を置いた。
六畳間の部屋には、生活の匂いがまだ残っている。窓際には洗濯物を掛ける細いラックが畳まれ、押し入れの前には中身の違う段ボール箱が二つ積まれていた。床の片側にはマットレスが敷いたままで、毛布は端だけ少し丸まっている。そのすぐ隣で、デジタル秤、小袋、ラベルプリンター、スマホ、封筒の束が、作業机とは呼びにくい低い机の上に無理やり集められていた。
押入商会の現代側作業場。
そう名乗れば、それらしく聞こえる。
ただし実態は、澪の六畳間だった。
澪はスマホを構え、白い紙の上の金属片を撮った。画面の中で、銀灰色の表面が少しだけ鈍く光る。宝石のような華やかさはない。鉄のような黒さもない。見れば見るほど、こちらが何かを見落としているような気にさせる色だった。
角度を変えてもう一枚撮る。白い紙の端が浮かないように指で押さえ、今度は横から撮った。
「写真、重量、寸法、鑑定結果、元試料番号、作成日、前処理条件、成功皿番号、保管場所……」
項目を声に出しながら、澪はノートに欄を作っていった。何も言わずに書くと、どこかでひとつ抜けそうだった。逆に、項目を口にしていくと、小さな金属片は少しずつただの欠片ではなくなっていく。由来があり、番号があり、記録があり、出してはいけない範囲と出せる範囲を持つものになる。
向かい側に座る真壁は、床に腰を下ろしているにもかかわらず、背筋だけは妙に整っていた。六畳間のローテーブル越しなのに、その目の前にあるのが小袋やラベルではなく、どこかの貴族へ差し出す工芸品であるかのような顔をしている。
澪はラベルプリンターに文字を打ち込んだ。
品質評価用サンプル一号。
小さな機械が、じじ、と短く鳴った。吐き出された白いラベルを、澪は慎重に切り取る。小袋の表面に貼る時、角が浮かないように爪でゆっくり押さえた。
「こうしておけば、何をどこに出したか分からなくなることはありません」
真壁は、貼られたラベルをしばらく見てから、わずかに顎を引いた。
「悪くない」
その声が穏やかだったので、澪は少しだけ肩の力を抜いた。
「今日はまともですね」
「では、十五に分ける」
澪の指が、小袋の上で止まった。
「まともじゃなかった」
「何か不都合があるかね」
「今、十五って言いましたよね」
「言った」
「品質評価用サンプル一号ですよ」
「一号に枝番をつければよい」
「一号の意味が薄まっています」
「意味は薄まらん。行き先が増えるだけだ」
「悪化しています」
真壁は小袋から金属片を取り出し、白い紙の中央へ戻した。澪は慌てて秤を少し後ろへ寄せ、スマホも安全な場所へ退かした。
真壁の指が、金属片の上に静かにかざされる。
火花は出なかった。
音もほとんどなかった。
ただ、銀灰色の表面に細い線が入った。線はひとつではない。光の具合でようやく見えるほどの細さで、金属の内側から浮かび上がるように増えていく。澪には、それが切断にも破壊にも見えなかった。もともとそこにあった境目を、真壁が指先で思い出させているようだった。
ひとつだった塊が、ふたつに分かれた。
ふたつになったものが、さらに小さく分かれていく。
白い紙の上で銀灰色の小片が増えるたび、澪の息は少し浅くなった。
「疲労度、大丈夫ですか」
「今回は熱を使っていない。焦る必要はない」
「焦る必要がある時に、焦ってくれたことがありましたか」
「焦りは品がない」
「疲労で倒れる方が品がありません」
真壁は答えず、最後の一片の形を整えた。白い紙の上には十五個の欠片が並んでいる。
どれも小さい。
小さすぎる。
少し強く息をしたら、ひとつくらいどこかへ行ってしまいそうだった。けれど、それぞれの小片には鈍い銀灰色があり、ただの削りかすとは違う顔をしていた。名前を知ってしまったせいで、澪にはもう無造作な欠片には見えない。
「小さすぎませんか」
「大きい必要はない。相手に欲しいと思わせれば足りる。使わせる必要はない」
「餌みたいに言いましたね」
「餌だな」
「そこは否定してください」
「否定して美しくなるなら、否定するがね」
「美しさの問題ではありません」
真壁はピンセットで一片をつまみ、小袋へ落とした。透明な袋の底で、銀灰色の小片がかすかな音を立てる。
「澪君。商談で最初に渡すものは、商品ではない。相手の目を測るための器だ。大きすぎる試料は、相手の欲を育てる。小さすぎる試料は、相手の本気を測る」
澪は小袋の中の欠片を見た。
小さく、軽く、頼りない。
それなのに、真壁の言葉を聞いた後では、その小ささに意味があるように見えてしまう。
「その理屈が通ってしまうのが嫌です」
「見どころがある理解だ」
「褒めないでください」
澪はスマホを持ち直し、最初の小袋を白い紙の上に置いた。Ti-Sample-001と打ち込んだラベルを貼り、写真を撮る。秤の上に小皿を載せ、表示をゼロにしてから、袋の中身だけを取り出して重さを測る。数字は小さい。あまりに小さくて、息を止めていないと表示まで揺れそうだった。
Ti-Sample-002。
Ti-Sample-003。
番号が増えるたびに、ローテーブルの上に小袋が並んでいく。澪はそれらをただ横に置くのではなく、少し間隔を空けて揃えた。万が一ひとつ落としたら、六畳間の床から探し出せる自信がない。ローテーブルの下には、いつのものか分からないレシートと、昨夜読んだ本の帯が潜っている。そんな場所に、純チタン候補の極小片を落としたくなかった。
十五個目の袋を閉じた時、澪はようやく息を吐いた。
「宝物じゃなくて、証拠品みたいになってきました」
「証明するための一号だ。宝物より役に立つ」
「一号が十五個に増えています」
「枝番だ」
「今、言葉で薄めましたよね」
真壁は否定しなかった。
否定しないまま、十五の小袋を眺めている。その目は、商品を見る目ではなかった。まるで、皿の上に並べた石の配置を見ているようだった。
澪は視線を逃がし、ローテーブルの奥に置いてある白い封筒の束を見てしまった。
まだ何も入っていない。
けれど、もうただの封筒には見えなかった。
澪は、それ以上見ないように、ノートのページを閉じた。
プリンターの音は、六畳間では大きすぎた。
じ、じじ、と短く鳴っただけなのに、澪はマットレスの上で目を開けた。部屋の照明は消えている。けれど、ローテーブルの向こう側だけが青白く浮いていた。
ノートパソコンの画面が、真壁の頬を下から照らしている。その横で、ワイングラスが赤を沈めていた。
赤というより、黒に近い。
底の方にだけ濃い葡萄色が残り、画面の青白い光を受けても明るくならない。白い封筒、透明な小袋の中の銀灰色、青白い画面。その中で、その赤だけが妙に生々しかった。六畳間のローテーブルが、夜中だけ小さな画廊に化けたように見える。
澪は毛布を肩にかけたまま、半身を起こした。
「……何をしているんですか」
声はまだ眠っていた。
真壁は画面から目を離さず、グラスを指先で少し回した。黒に沈む赤が縁をなぞり、また底へ戻る。
「相手を選んでいる」
「夜中に、ワインを飲みながら?」
そこで真壁は、ようやくグラスを持ち上げた。
「カテナ・アルタ・マルベック。脳と神経がこの濃い赤を求めている。この極上のポリフェノールが、今夜の特効薬だな」
「ワインを薬扱いしないでください」
「薬ではない。美しい燃料だ」
「悪化しました」
真壁は小さく笑い、ローテーブルの端からもう一つのグラスを出した。
「澪君。付き合うかね」
澪は断ろうとした。
夜中である。
寝るべき時間である。
ワインを飲む流れでは、断じてない。
けれど、ローテーブルの上には、寝る前にはなかった封筒が積まれていた。宛名ラベルの細い紙が端で丸まり、企業名の並んだ画面が開かれ、サンプル管理表の余白には真壁の細い字が増えている。
このまま寝たら、朝には何かが完成している。
その予感だけは、はっきりしていた。
「……一杯だけです」
「結構。監視役にも、口を湿らせる権利はある」
「監視される側が言わないでください」
真壁は、澪のグラスにほんの少しだけ注いだ。
澪は受け取り、口をつける。
甘くはない。軽くもない。渋みが先に来て、そのあとで黒い果実のような重さが舌の奥に沈んだ。どこか乾いた土の匂いがあり、古い木箱のような影が残る。飲み込んだあと、革や煙を思わせる細い余韻が喉の奥に残った。
「……濃いですね」
「アルゼンチンのマルベックだ。強い日差しを浴びた葡萄は、色も香りも厚くなる。軽薄な赤ではない。こういう夜には、悪くない」
「封筒の宛名を選ぶのに、葡萄の日差しまで必要なんですか」
「必要だ。薄い酒では、薄い判断になる」
「今、酒のせいにしましたね」
「違うな。酒に責任を持たせたのだ」
「もっと悪いです」
真壁は答えず、画面の企業名を一つ消した。
澪はマットレスから少し体を乗り出し、企業リストを覗き込んだ。大きな素材メーカーの名があり、その下に特殊金属加工会社、試作加工会社、金属材料商社、研究用材料の販売会社が並んでいる。真壁の短いメモは、会社名の横に細く書き込まれていた。
大手すぎる。
軍需色が濃い。
個人対応寄り。
問い合わせ窓口が雑。
小ロット試作あり。
素材評価あり。
NDA対応記載あり。
澪が画面を追っている間に、真壁は大きな会社名へ迷わず線を引いた。
「そこ、消すんですか。大きい会社ですよね」
「大きすぎる。こちらを見る前に、こちらを調べる。今はまだ、そういう相手に見せる時ではない」
真壁は別の会社に丸をつける。
「こちらは残す。小ロット試作を扱っている。素材評価の窓口もある。派手ではないが、手つきは悪くない」
「売れそうなところを選んでいるわけじゃないんですね」
「売れそう、というのは少々品がないな、澪君」
真壁はグラスを置き、企業名の横に指を滑らせた。
「最初に見るべきは、買う気ではない。聞き方だ。価格を先に聞くのか、出どころを詰めるのか、成分を見るのか、契約を整えようとするのか。返事の順番には、会社の癖が出る」
澪は白い封筒の束を見た。
まだ空なのに、もう普通の封筒には見えない。
年賀状や請求書を入れる紙ではなく、会社をふるいにかける道具のように見えてしまう。
「封筒で会社を選ぶんですね」
「水路で砂を分けたのと同じだ」
「現代側でまで、分けるんですか」
「分けなければ、選べん」
澪は反論できなかった。
その理屈が通ってしまうのが、一番困った。
グラスの底で、濃い赤が静かに揺れている。澪はふと気になって、それを見下ろした。
「このワイン、いくらぐらいなんですか」
「街の酒屋で五千円程度だったよ」
「五千円」
澪の手が止まった。
「今、五千円のワインを、六畳間のローテーブルで、封筒の宛名を選びながら飲んでいるんですか」
「正確には、十五社の入口を選んでいる」
「言い換えても五千円です」
「この作戦がうまく運べば、経費で落とせる」
「落とせません」
「商談準備中の資料検討に伴う飲料費。悪くない名目だ」
「税理士さんに怒られます」
「では、交際費」
「誰と交際しているんですか」
「澪君」
澪はグラスを置いた。
「私に『付き合うかね』って言ったの、経費にするためですか」
「結果として、証人がいる」
「悪質です」
真壁は少しだけ笑った。
「冗談だ。半分は」
「半分残しましたね」
「全て冗談にしてしまうのは、品がない」
「今の話に品はありません」
真壁は十五社目の候補に丸をつけた。
「これで、ひとまず形になった」
澪はローテーブルの上を見た。封筒の白、透明な袋の中の銀灰色、ノートパソコンの青白い光、グラスの底に沈む黒い赤。その全部が、六畳間の生活感から少しだけ浮いている。すぐ横には自分のマットレスがあり、毛布はまだ肩にかかっている。それなのに、机の上だけが、どこか遠い商談の入口になっていた。
「まだ郵便局にも行ってないのに、もう始まってるんですね」
「商談は、封筒を出す前から始まっている」
「その台詞、ワイン片手に言うと悪役っぽいです」
「商人だ」
「悪役と商人の距離が近いです」
真壁は否定しなかった。
否定しないまま、グラスの中の濃い赤をもう一度だけ静かに回した。
翌朝、ローテーブルの上からワイングラスは消えていた。
代わりに、印刷された文面と白い封筒が増えている。澪は少し眠そうな顔で座り、真壁は昨夜とほとんど変わらない顔をしていた。
「納得いきません」
「何がだ」
「真壁さんの方が飲んでいたのに、真壁さんの方が平然としているところです」
「燃料だからな」
「まだ言いますか」
真壁はノートパソコンの画面を澪の方へ向けた。
澪は文面を読んだ。
『この品質のロットを一トン単位でご用意いたします。
価格は応交渉。
但し、秘密保持契約を結んでいただきます』
澪は黙って真壁を見た。
「一トンって書きましたよね」
「書いた」
「まだ十五欠片ですよ」
「だから十五社に送る」
「会話がつながっているようで、つながっていません」
澪はノートパソコンを引き寄せた。
「これは駄目です。強すぎます。受け取った人の心臓に悪いです」
「弱すぎれば捨てられる」
「だからといって一トンは駄目です」
「ふむ。では、澪君の手つきを見よう」
「手つきって言わないでください。文面です」
澪はキーボードを打った。
『同封の金属試料について、御社での評価・分析可否をご相談したくご連絡いたしました。
本試料と同等品質のチタン系金属ロットについて、将来的に一トン単位での供給相談が可能です。
価格は応交渉。
詳細な出どころ、製造条件、継続供給条件については、秘密保持契約締結後に開示範囲を協議いたします』
読み返して、澪は顔をしかめた。
「これでも十分、受け取った人は困ると思います」
「困らせるのではない。考えさせるのだ」
「封筒で会社を考えさせるんですか」
「考えぬ会社は、皿の底には残らん」
言い方は芝居がかっている。
けれど意味は分かる。
分かってしまう。
「……また、分かってきた自分が嫌です」
「悪くない兆候だ」
「悪い兆候です」
澪は封筒を一通取った。
小袋、番号、重量表、写真、文面を一つずつ入れる。紙の角を揃え、封をして、指でしっかり押さえた。糊の貼りつく感覚が、妙に現実的だった。
次の封筒にも同じように入れる。
その次も。
白い封筒が増えていく。封筒自体は何も悪くない。紙は白く、角はまっすぐで、宛名ラベルもきれいに貼れている。だが、中に入っているものを知っていると、ただの紙には見えなくなる。
「見た目は普通の封筒なのに、中身が普通じゃありません」
「普通に見えるものほど、よく通る」
「普通の顔をしたものに、変なものを入れないでください」
「変なものではない。品質評価用試料だ」
「名前をつけると安全になるわけじゃありません」
真壁は封筒の束を整えた。
白い角がそろう。
そのそろい方が、澪には余計に不穏だった。
十五通の封筒を抱えて郵便局へ行くと、そこはあまりにも普通だった。明るい照明の下に番号札の機械があり、壁には季節の切手のポスターが貼られている。梱包材の棚を眺めている人も、窓口で小包の伝票を書いている人もいた。その普通さが、澪を緊張させた。
順番が来る。
窓口の人が封筒の束を見て言った。
「中身は書類ですか」
澪は固まった。
真壁が、何のためらいもなく答える。
「金属試料と書類です」
言った。
今、普通に言った。
澪は心の中でそう思った。
窓口の人は驚かなかった。危険物ではないこと、極小の金属片であること、追跡をつけることを淡々と確認し、十五通の封筒を事務的に処理していく。
自動ドアを出てから、澪はようやく息を吐いた。
「普通に出せました」
「普通に見えるよう、仕立てたからな」
「普通って怖いですね」
「平凡に見えるものほど、よく通る」
外の空気は、思ったより冷たかった。
澪は振り返らなかった。
十五通の封筒は、もう現代社会へ出ていった。
返事は、一斉には来なかった。
それが澪の心臓に悪かった。
初日は何も来ない。二日目の午前、スマホが鳴って、澪は箸を落としかけた。ただの通販通知だった。三日目の午後、ようやく一通目のメールが届いた。
澪はローテーブルにスマホを置き、真壁と向かい合って座った。横には返事分類表が用意されている。いつの間に作ったのかは聞かなかった。聞くと疲れる気がした。
「一社目です」
「見よう」
澪はメールを開いた。
「弊社では出所不明の材料はお取り扱いできません。評価依頼につきましても、既存取引先様に限らせていただいております……」
読み終えて、澪は少しほっとした。
「普通の会社で安心しました」
真壁は分類表に短く印をつけた。
「整ってはいるが、見どころはない」
「安心を返してください」
次は返事が来なかった会社だった。真壁は、それにも印をつける。
「返事なしも書くんですか」
「沈黙も返事の一種だ」
三社目は価格だけを聞いてきた。
一トンあたりいくらか。
継続供給できるか。
即納可能か。
澪は首を傾げた。
「買う気があるならいいのでは」
「値を急ぐ相手は、品を見ていない」
「値段は大事では?」
「大事だ。だから最後でよい」
次は出どころだった。
製造元を開示してください。原産国はどちらですか。量産体制を証明してください。材料証明書はありますか。
「当然の質問では」
「当然だ。だが最初にそれしか聞かないなら、素材よりこちらを見ている」
「こちらを見るのも当然では」
「当然だ。だから外す」
「当然なのに外すんですか」
「順番が違う」
澪は返事分類表を見た。
同じ白い封筒を出したはずなのに、返ってくる反応にはそれぞれ色がついている。普通に断る会社、沈黙する会社、値段だけを聞く会社、出どころだけを詰める会社。封筒で会社を分ける、という言葉が少しずつ目に見えてきた。
五社目は、読んだ瞬間に嫌な感じがした。
秘密保持不要。
現金即決可能。
追加試料を至急希望。
評価はこちらで処理します。
澪は途中で画面を伏せた。
「これは嫌です」
「捨てる」
「早いですね」
「軽い返事で重い金属を扱わせるわけにはいかん」
しばらくして、別のメールが届いた。
成分表はありますか。酸素、窒素、鉄、炭素の含有量は分かりますか。純チタンか、チタン合金か、現時点での認識を教えてください。追加試料の提供は可能ですか。NDA締結前に開示可能な範囲を教えてください。分析費用の負担について、協議可能でしょうか。
澪は読み終えて、眉を寄せた。
「質問が細かすぎて怖いです」
真壁は画面を覗き込み、少しだけ口元を緩めた。
「ようやく、商談相手の返事になった」
その中で、真壁が赤い丸をつけた会社があった。
東都特殊金属試作株式会社。
返信文は堅かった。
『同封試料について、当社で簡易分析は可能です。
ただし、材料出所、製造条件、継続供給条件が不明なため、商取引の可否判断は現時点ではできません。
まずは秘密保持契約を締結した上で、試料評価範囲、追加試料の有無、分析項目、結果の扱いについて協議したく存じます』
澪は読み終えて、少し安心した。
「堅いですね」
「残す」
「これが当たりですか」
「少なくとも、最初に値段を聞かなかった」
「値段を聞かない会社が当たりなんですか」
「値は最後でよろしい。最初に見るべきは、扱い方だ」
その日の夕方、東都特殊金属試作株式会社から、短時間の面談を希望するメールが届いた。
澪はスマホを見たまま固まった。
「来ました」
「見どころがある」
「面談です」
「封筒を出した時点で、面談は想定している」
「封筒って怖いですね」
真壁は、返事分類表を静かに閉じた。
「封筒は終わった。次は名刺だ」
東都特殊金属試作株式会社の会議室は、派手ではなかった。
駅から少し歩いた古いビルで、入口の金属製の扉には細かな傷が残っていた。エレベーターのボタンは何度も押されたせいで少し曇り、廊下に並ぶ会社名のプレートはどれも控えめだった。会議室の机は新しくない。けれど、表面はきちんと磨かれていて、水の入ったグラスと資料を置く場所だけが、あらかじめ空けられていた。
澪は、その地味さに少しだけ安心した。
派手ではない。
けれど、何かをちゃんと作っている会社の匂いがする。
ドアが開き、男が入ってきた。
四十代前半くらい。地味なスーツに、派手ではないネクタイ。手元のファイルには付箋がきちんと貼られていた。営業だけの人間ではない、と澪は思った。資料を持つ手が、紙に慣れている。名刺だけで仕事をする人ではなく、図面や試験結果を何度もめくってきた人の手だった。
「東都特殊金属試作株式会社、営業技術部の鷺沼です」
差し出された名刺は、真っ白ではなかった。
少し灰色がかった紙だった。
表には、社名と肩書きと名前がある。
裏には小さく、チタン・ニッケル合金・難加工材試作、と印刷されていた。
澪はその灰色を指先に受けながら、十五通の白い封筒の中から、この名刺が残ったのだと思った。
挨拶が終わると、鷺沼は妙な愛想笑いをしないままファイルを開いた。送った時の文面、試料番号、こちらが添付した簡易写真を順に確認していく。やがて、透明な小袋を机の上に置いた。中の銀灰色の小片は、会議室の照明の下ではさらに小さく見えた。
鷺沼は笑わなかった。
袋の端を指で押さえ、光にかざす。小さな欠片が袋の中でわずかに動いた。彼はその動きを見てから、袋を机に戻した。
「この量では、加工評価は無理です」
澪は少しだけ身構えた。
しかし鷺沼は、そこで資料を閉じなかった。
「ただ、簡易分析の入口にはなります。試験片として使うには足りませんが、成分を見るだけなら話は別です」
真壁の目が、ほんのわずかに細くなった。
澪には、それが相手を見直した時の反応に見えた。
「この小ささで送ってきたのは、意図的ですか」
鷺沼は小袋を指先で押さえたまま尋ねた。
真壁はすぐには答えず、小袋と鷺沼の手元を見た。
「持ち逃げされても、使える量ではありません。だが、見る者が見れば、興味を持つ程度には足りる。そういう大きさですな」
「なるほど」
鷺沼は短く言い、資料の次のページを開いた。
「まず確認させてください。同封の試料は、御社ではチタン系金属として扱っている、という理解でよろしいですか」
真壁の声が、六畳間の時とは変わった。
「左様ですな」
「同等品質の追加試料は提供可能ですか」
「条件付きであれば可能です」
「供給元と製造条件は」
「現時点では開示できませんな」
会議室の空気が、少しだけ固くなった。
澪は膝の上で指を重ねた。ここからが危ない、と体が勝手に思っている。
真壁は、その固さを押し返さなかった。むしろ声をわずかに柔らかくした。
「ただし、虚偽の産地表示はいたしません。言えぬことは、言えぬと申し上げます」
鷺沼は目を細めた。
怪しさは消えていない。
だが、彼は資料を閉じなかった。ペンも置かない。次の質問へ進むために、文面の一行をペン先で押さえた。
「一トン単位という表現がありました。これは即時出荷可能という意味ですか」
澪の背中が固まる。
そこを聞かれるのは分かっていた。それでも、実際に聞かれると胃が縮む。
真壁は落ち着いていた。
「いえ、即時出荷の約束ではありませんな。継続評価後、供給枠として協議可能という意味です」
「実績ではなく、将来相談」
「左様です。今ここで一トンを売るとは申しません。まずは評価ですな」
鷺沼は文面から視線を上げた。
「では、現時点では評価用試料の追加提供が現実的な範囲」
「その理解で大いに結構です」
澪は少しだけ肩の力を抜いた。
鷺沼は一トンという言葉に飛びつかなかった。むしろ、現実的な評価段階へ戻してきた。
この人は、ちゃんとしている。
澪はそう思った。
鷺沼は小袋をもう一度見てから、指を離した。
「正直に申し上げると、出所不明の材料は扱いづらいです」
「ご懸念はもっともですな」
「その上で、なぜ弊社に送られたのかが気になっています」
真壁はすぐに答えなかった。
鷺沼の資料ではなく、指先を見ていた。紙の端を押さえる指が、一度だけ動く。その小さな動きを待ってから、真壁は静かに言った。
「推察するに、御社が困っておられるのは、材料単価だけではないですかな」
鷺沼の視線が、資料から少し外れた。
「と、言いますと」
「小ロット試作では、材料そのものより、失敗した時の時間、設備、電気代が重い。チタンは削るにも熱を入れるにも気を使う。安い材料を買っても、歩留まりが悪ければ意味がありません」
鷺沼は黙った。
その沈黙は、拒絶の沈黙ではなかった。澪には、相手が言い返す言葉を探しているのではなく、どこまで話すかを測っているように見えた。
やがて鷺沼は、ペン先を資料の上に置いたまま、ゆっくりと言った。
「チタンは材料費だけでは済みません。削るにも熱を入れるにも、失敗した時の損が大きい。小ロットの試作では、材料よりも段取り替えと熱処理の電気代が重いことがあります」
真壁はうなずかなかった。
ただ、聞いていた。
「安い材料でも、成分が読めなければ試験片には回せません。医療、半導体装置、薬液系の部材は、安さより履歴と再現性を見られます。こちらで勝手に分析して終わり、という扱いにもできません。結果の扱いを先に決める必要があります」
会議室の空気が、少し変わった。
鷺沼は、ただ警戒しているだけではなかった。自分たちがどこで損をし、どこで責任を負い、どこから先なら評価できるのかを、机の上に一つずつ置いている。
真壁は、その並べられたものを見てから言った。
「御社が欲しいのは、安いチタンではない。試作に回しても、素性と品質を管理できる材料ではないですかな」
鷺沼がペンを置いた。
小さな音だった。
けれど澪には、その音で空気が変わったのが分かった。
「……そこまで、こちらの事情を調べられましたか」
「調べたのではありません。素材を扱う会社が、今どこで血を流すかを考えただけです」
澪は内心で思った。
それを調べたと言うのでは。
けれど、口には出さなかった。今ここでそれを言うと、会議室の空気を壊す気がした。
鷺沼は資料を閉じないまま、背もたれに浅く寄りかかった。
「確かに、素材費だけではありません。熱処理も、雰囲気管理も、設備稼働も上がっています。小ロットほど単価に響く」
「エネルギー費が上がるほど、失敗できる回数は減りますな」
「ええ。特に試作は、量産と違って逃げが少ない。材料が安くても、条件が読めなければ設備を空ける意味がない」
「チタン材そのものも、高値で安定しにくい。見積もりを出した後で材料が上がれば、御社の利益が削られる。逆に高く出しすぎれば、顧客が離れる」
鷺沼はすぐには返事をしなかった。
真壁はその沈黙を急がせない。
「推察するに、御社が本当に欲しいのは、安い材料ではなく、読める材料ですな」
「読める材料」
鷺沼は、その言葉を繰り返した。
真壁は、そこでようやく少しだけ身を乗り出した。
「品質が読める。追加供給の相談ができる。試験結果を積み上げられる。そういう材料です」
鷺沼は資料に目を戻した。次に、机の上のサンプル袋をもう一度見る。袋の中の小片は、会議室の照明を受けてわずかに光った。
鷺沼の姿勢が、ほんの少し変わる。
澪は、その瞬間を見た。
警戒が消えたわけではない。
けれど、話の重心が少し奥へ入った。
「御社は、この素材を何に使わせたいのですか」
鷺沼が聞いた。
真壁はすぐには答えなかった。わずかな間を置き、会議室の空気ごと測るようにしてから口を開く。
「軽量化だけを狙う会社には売りませんな」
鷺沼の眉が動いた。
「売らない?」
「軽い金属なら、他にも選択肢があります。これは、薬液、海水、熱、繰り返し応力、長期使用に関わる場所で試すべき材料です」
「半導体装置、医療、熱交換器、海洋系……ですか」
「その周辺ですな。加えて、無人機、ロボット、蓄電、研究装置。鉄やアルミだけでは足りない場所は増えるでしょう」
鷺沼は、今度ははっきりと真壁を見た。
「新合金用途も見ていますか」
「いずれは。ただ、最初から新合金と呼ぶと、話が大きくなりすぎる。まずは純チタン系金属として、素性を見ていただきたい」
「純チタンか、合金か。そこは分析しないと分からない」
「だから御社に声をかけたのです」
鷺沼の表情がわずかに変わった。
警戒は消えていない。
だが、話を聞く価値がある、という顔になっている。
澪はその顔を見て、十五通の封筒の中からここへ来た意味が、ようやく少し分かった気がした。
鷺沼は資料を整え、サンプル袋をファイルの横に置いた。
「秘密保持契約を結んだ上で、追加試料三点をお預かりしたい。分析項目はこちらで提案します。結果の共有範囲と、費用負担は協議しましょう」
真壁はうなずいた。
「大いに結構」
「ただし、出所と製造条件をまったく開示できない場合、商取引は難しくなります」
「承知しております。開示できる範囲と、開示できぬ範囲。その線引きを、契約の中で整理いたしましょう」
鷺沼はうなずいた。
面談は、それで終わった。
契約はまだない。
一トンの話も、まだ遠い。
ただ、封筒は面談になり、面談は秘密保持契約と追加試料の話になった。
澪は会議室を出る時、名刺入れの中の灰色の紙が、来た時よりも少し重くなっている気がした。
帰り道、澪は電車の中で灰色の名刺を見ていた。
東都特殊金属試作株式会社。
営業技術部 課長。
鷺沼佳樹。
地味な名刺だった。けれど、六畳間の白い封筒から、古いビルの会議室を通ってこの名刺にたどり着いたと思うと、紙一枚が妙に重く感じられた。
「真壁さん、今日の交渉、最初から売り込みじゃありませんでしたね」
隣に座る真壁は、吊り革の揺れを眺めていた。
「売り込んではいた」
「え、そうなんですか」
「ただし、金属ではなく、困りごとの解き方を売った」
「素材より先に、相手の悩みを言い当てたんですね」
「困っていない相手に売れば、値段だけの話になる」
「困っている相手に売るんですか」
「困りごとを解く相手に売る」
澪は名刺をケースにしまった。
「言い方は綺麗ですけど、かなり商人です」
「商人だからな」
「今日は否定しないんですね」
「否定して美しくなる話ではない」
電車の窓に、二人の顔が薄く映っていた。
六畳間のローテーブルで始まった話が、古いビルの会議室まで行った。
小さな金属片が、封筒になり、名刺になった。
次は、契約書になる。
そう考えて、澪は少しだけ肩を落とした。
まだ始まったばかりなのに、もう疲れていた。
夜、六畳間のローテーブルに、またノートパソコンが開かれていた。
澪のスマホが鳴る。
通知音だけで、澪の肩が跳ねた。
「来ました」
「どこからだ」
澪は画面を見た。
件名は、金属試料評価に関する秘密保持契約書案。
送信者は、東都特殊金属試作株式会社、営業技術部、鷺沼佳樹。
澪はしばらく画面を見ていた。
「金属片一つが、契約書になりました」
真壁はノートパソコンを引き寄せた。
「次は、契約書をふるいにかける」
「まだ分けるんですか」
「分けなければ、選べん」
澪はローテーブルの上を見た。
昼間まで、そこは食事もして、ノートも広げて、スマホも充電するただの生活机だった。けれど今は、サンプル管理表、十五社の送付記録、返事分類表、灰色の名刺、そして秘密保持契約書案を開いた画面が、同じ机の上に集まっている。
六畳間の狭さは変わらない。
マットレスも、段ボールも、押し入れも、そのままだ。
それなのに、机の上だけが、別の場所へつながっているように見えた。
採石場では、水が泥を分けた。
現代側では、封筒が会社を分けた。
次は、契約書が相手の本気を分ける。
澪は、ローテーブルの向こうで契約書案を開く真壁を見た。
「押入商会、雑貨屋じゃなくなってきましたね」
「最初から商会だ」
「商会の幅が広すぎます」
真壁は答えず、画面の文字を眺めた。
ノートパソコンの青白い光が、ローテーブルに広がる。
十五通の封筒のうち、皿の底に残ったのは、灰色の名刺と秘密保持契約書案だった。
品質評価用サンプル一号は、ようやく現代側で名前を持ち始めていた。