押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第84話 読める材料

 

 

 東都特殊金属試作へ送った追加試料三点のことを、澪は朝から何度も思い出していた。

 

 量は多くない。封筒一通で済ませた最初の欠片よりはきちんとした試料だったが、運送会社を呼ぶような荷物ではなかった。NDAの番号を控え、小型のケースに入れ、試料番号を貼り、相手側の受領確認まで管理表に残してある。

 

 やることはやった。

 

 それでも、六畳間のローテーブルに置かれた管理表を見るたび、澪の胃の奥は少しだけ重くなった。

 

 ノートパソコンの画面には、東都特殊金属試作との秘密保持契約書のPDFが開かれている。昨日までは、条文の硬さに目が滑っていた。秘密情報の定義、評価結果の扱い、追加試料の消費、第三者への開示禁止、原産地に関する確認。どれも、読んでいるだけで肩が凝る言葉だった。

 

 その硬い言葉の下で、たった三点の金属試料が分析されている。

 

 澪は、ローテーブルの端に置いたスマホを見た。

 

 通知はまだない。

 

「見すぎだな」

 

 向かい側で真壁が言った。

 

 真壁は湯呑みを片手に、契約書案の控えを読んでいる。六畳間の床に座っているのに、妙に落ち着いている。その落ち着きが、澪には少し腹立たしい。

 

「気になりますよ。追加試料、送ったんですから」

 

「送ったものは、もうこちらの手元にはない」

 

「そういう正しいことを言われると、余計に落ち着きません」

 

「落ち着かぬ時ほど、書類を見る」

 

「契約書を見たら、もっと落ち着かなくなりました」

 

 澪は画面を少しスクロールした。

 

 秘密情報。

 

 評価結果。

 

 原産地。

 

 輸出入規制。

 

 どの言葉も、銀灰色の小さな試料より重く見える。

 

「金属片一つで、急に世界情勢が入ってきました」

 

 澪が言うと、真壁は湯呑みを置いた。

 

「金属とは、掘った場所から逃げられんものだ」

 

「逃げたいです」

 

「逃げるな。契約書は逃げる者を追う」

 

「嫌な追跡性能ですね」

 

 澪は、スマホを伏せた。

 

 見ていても、結果は早くならない。

 

 それは分かっている。

 

 分かっているのに、伏せたスマホの裏側が気になる。画面を下にしても、通知が来れば震える。震えたら、たぶん自分は飛び上がる。

 

「真壁さんは、平気なんですか」

 

「平気ではない」

 

「すごく平気そうに見えます」

 

「表に出す必要がないだけだ」

 

「ずるいですね」

 

「商談で、こちらの不安を値引き材料にする必要はない」

 

「その考え方がすでに商人です」

 

「商会だからな」

 

 澪は、ローテーブルの上を見た。

 

 送付記録、NDAの控え、試料番号表、鷺沼佳樹の灰色の名刺。その全部が、昨日までの生活机に居座っている。食事の時には端に寄せるが、完全には片づけられない。片づけてしまうと、何か大事なものまで見失いそうだった。

 

 スマホが震えた。

 

 澪は、ほとんど反射で手を伸ばした。

 

 差出人は、東都特殊金属試作株式会社、鷺沼佳樹。

 

 件名は、追加試料分析結果および月次供給協議について。

 

 澪は画面を見たまま固まった。

 

「真壁さん」

 

「どうした」

 

「件名が、もう逃げ道を塞いできています」

 

 真壁は画面を一瞥した。

 

「見どころがある」

 

「楽しそうにしないでください」

 

 

 

 

 

 東都特殊金属試作株式会社の材料評価室は、会議室よりもずっと無口な場所だった。

 

 作業台の上には、番号の貼られた小さな試料袋が三つ並んでいる。壁際には分析装置があり、記録用のパソコンには測定値を入力する表が開かれていた。派手な設備ではない。けれど、何かを測る場所には、言葉を少なくさせる圧がある。

 

 材料評価室主任の小柳は、三つの試料袋を順に見てから、鷺沼に視線を向けた。

 

「また変な持ち込み材ですか」

 

 鷺沼は否定しなかった。

 

「変ではある」

 

「課長が否定しない持ち込み材って、だいたい面倒なんですよ」

 

「今回は、面倒なだけで済むならいい」

 

 小柳は、手袋をはめて試料を取り出した。小さな銀灰色の片を、作業台の上で軽く角度を変える。光の当たり方を見て、少しだけ眉を寄せた。

 

「量は少ないですね」

 

「まずは三点です。成分、酸素、窒素、鉄、炭素。可能な範囲で介在物も」

 

「この量で何を見ろって言うんです、と言いたいところですけど」

 

 小柳は、一枚目の試料をピンセットでつまんだ。

 

「……妙に表面が素直ですね」

 

「素直?」

 

「見た目だけの話です。測らないと分かりません」

 

 測定は一度で終わらなかった。

 

 小柳は標準試料で装置を確認し、条件を変え、試料を分け、もう一度測った。結果が出るたびに、記録用パソコンの画面に細かな数字が増えていく。彼はすぐに騒がず、紙に出した数値を手元でそろえた。

 

 最初に黙ったのは、小柳だった。

 

 その沈黙に、鷺沼が気づいた。

 

「……課長」

 

「どうしました」

 

「これ、どこから来た材料ですか」

 

「それが分からないから困っている」

 

「困るどころじゃありません」

 

 小柳は、印刷した分析表を机に置いた。

 

 鷺沼は紙を受け取り、数字を追った。酸素の欄を見て、窒素の欄へ移り、鉄、炭素、介在物のメモへ視線を落とす。個々の数値も目を引いた。けれど、鷺沼がすぐ戻ったのは、横に並んだ三つの試料の列だった。

 

 揃っている。

 

 三点とも、妙に揃っている。

 

「測り直しは」

 

「しました」

 

「装置は」

 

「標準試料で確認済みです」

 

「別条件では」

 

「それも見ました」

 

 鷺沼は黙った。

 

 小柳は、紙の端を指で押さえた。

 

「三点とも、同じ傾向です。ばらつきが少ない。鉄も低い。酸素も暴れていない。窒素も変な入り方をしていない。介在物も少ない」

 

「スクラップ由来では?」

 

「見えません」

 

「再溶解材は」

 

「その癖が薄いです」

 

 小柳は髪をかき上げ、もう一度、分析表を見た。

 

「……なんだこれは」

 

 その声は大きくなかった。

 

 怒っている声でも、喜んでいる声でもない。

 

 現場の人間が、理解できないほど整った材料を前にした時の声だった。

 

 鷺沼は分析表を閉じなかった。

 

 むしろ、もう一枚、別条件の測定結果を手に取った。

 

「良すぎる材料は、悪い材料より扱いにくいことがある」

 

 小柳は顔を上げた。

 

「どういう意味ですか」

 

「出どころが必要になる」

 

「ですよね」

 

「品質だけなら、評価を続ける価値はある。商取引にするなら、書類がいる」

 

「この材料で書類が弱いと、一番困るやつです」

 

「だから会う」

 

 鷺沼は、机の上の分析表をそろえた。

 

 その手つきは、前回よりも慎重だった。

 

 

 

 

 

 再面談の場で、鷺沼は前回と同じように灰色の名刺入れを横に置いていた。

 

 ただし、机の上に置かれた資料の枚数は増えている。分析表が数枚、重ねられていた。小さな付箋が、いくつも貼られている。紙の端がきれいに揃えられているところに、鷺沼の慎重さが出ていた。

 

 鷺沼は、余計な前置きをしなかった。

 

「率直に申し上げます。品質としては、想定より上です」

 

 澪は少しだけ息を止めた。

 

「ただし、品質が良いことと、商取引できることは別です」

 

 真壁は静かにうなずいた。

 

「ご懸念はもっともですな」

 

「この材料は、安さで比べる材料ではありません。真壁さんが言われた“読める材料”という表現は、分かります」

 

 その言葉で、澪は前回の会議室を思い出した。

 

 安い材料ではなく、読める材料。

 

 あの時、真壁が差し出した言葉を、今度は鷺沼が使っている。商談が進むというのは、値段が決まることだけではないのかもしれない。相手がこちらの言葉を使い始めることも、たぶん前進なのだ。

 

 真壁は満足げに笑うことはしなかった。ただ、ほんのわずかに口元を緩めた。

 

「複数サンプルで値が揃っています。混入物も少ない。由来不明の持ち込み材としては、良すぎる」

 

 澪は、褒められているはずなのに怖いと思った。

 

 鷺沼は分析表の端をそろえた。

 

「ですので、月次供給の協議に入りたい」

 

 澪の背筋が固まった。

 

「ただし、いきなり一トン全量を買うとは申しません。初回は三百キロ。評価継続分と試作加工分を兼ねます」

 

 真壁は、驚かなかった。

 

「妥当ですな」

 

 澪は、心の中で同じ言葉を繰り返した。

 

 三百キロが、妥当。

 

 自分の六畳間には絶対に置けない重さが、今、普通の書類の上で動いている。

 

「その後、品質と書類が確認できれば、月間最大一トンの供給枠を押さえたい」

 

「大いに結構。ただし、急ぐのは少々品がありませんな」

 

 澪は思わず横を見た。

 

「ここで品の話ですか」

 

 真壁は鷺沼から視線を外さずに言った。

 

「ここでこそ、品の話だ。良い材料ほど、雑に売れば安くなる」

 

 鷺沼は、その言葉を否定しなかった。

 

「価格ですが、一キロ一万二千円を基準にできませんか」

 

 澪は、すぐには数字の意味を理解できなかった。

 

 鷺沼の声を聞いた瞬間、頭の中で数字が遅れて動き出す。一キロが一万二千円なら、千キロで一千二百万円になる。計算そのものは簡単なのに、その金額が六畳間のローテーブルに乗る光景が、まったく想像できなかった。

 

 真壁はすぐには乗らなかった。

 

「安い材料をお探しなら、他を当たるべきですな」

 

「ええ。ですが、これは安さで比べる材料ではありません」

 

「その理解であれば、話は進められます」

 

 鷺沼は資料をめくった。

 

「初回三百キロ。以後、月間最大一トン。品質基準を満たす限り継続。上位用途へ回る場合は再協議」

 

「悪くない。ただし、評価結果の扱いと書類開示の範囲は契約に明記していただきたい」

 

「もちろんです」

 

 澪は横で、電卓が欲しくなった。

 

 ただ、電卓を取り出したら、たぶん今ここで固まる。

 

 だから我慢した。

 

 鷺沼は、次の資料を前に出した。

 

「次に、原産国と保管場所です」

 

 澪の体が固まった。

 

 来た。

 

 来てほしくない言葉が、やはり来た。

 

「国内にある、という理解でよろしいですか」

 

 真壁は落ち着いていた。

 

「左様ですな。ただし、国内貨物ではありません」

 

 澪は口を開きかけ、閉じた。

 

 商談中である。

 

 ここで突っ込むところではない。

 

 鷺沼は、資料の余白に短く印をつけた。

 

「国内保税ですか」

 

「左様ですな」

 

「保税蔵置場の名称、貨物管理番号、蔵置期間、輸入者名義。少なくとも、その四点は確認が必要です」

 

「当然ですな」

 

 鷺沼はさらに続けた。

 

「国内にある、という表現だけでは不十分です。未通関の外国貨物であるなら、弊社としては通関前の評価契約なのか、通関後の購入契約なのかを分ける必要があります」

 

「そのために、評価契約と売買契約を分けたい」

 

「ええ。品質評価、書類確認、通関、売買。この順番です」

 

「大いに結構」

 

 澪は黙って聞いていた。

 

 国内にあるのに、まだ国内のものではない。保税蔵置場という言葉が出て、未通関の外国貨物という言葉が続き、評価契約と売買契約が別のものとして机の上に置かれる。言葉が増えるたびに、目の前の金属が遠くなる気がした。

 

 

 

 

 

 駅へ向かう道で、澪はようやく口を開いた。

 

「真壁さん」

 

「何かね」

 

「国内にあるのに国内貨物じゃない、って、もう言葉が反則じゃないですか」

 

「反則ではない。制度だ」

 

「制度って、便利な顔をして人を混乱させますよね」

 

「混乱を避けるために言葉を分ける」

 

「また、言葉が増えました」

 

「増やさなければ、嘘になる」

 

「減らしても嘘になりそうです」

 

「だから、減らさない。隠すところは隠す。分けるところは分ける」

 

 澪は歩道の端で、少しだけ立ち止まりたくなった。

 

 頭の中では、三百キロという数字と、月一トンという言葉が並んでいる。その横に、国内保税、未通関の外国貨物、評価契約、売買契約という言葉が次々に積まれていく。金属より先に、言葉の方が荷崩れしそうだった。

 

「一トンの金属より、言葉の方が重くなってませんか」

 

 真壁は、駅へ向かう人の流れを見ながら答えた。

 

「現代では、金属は書類をまとって動く」

 

「嫌な服ですね」

 

「着ていなければ、港を出られん」

 

「その服、たぶん重すぎます」

 

「だから、脱げぬように仕立てる」

 

「また怖いことを綺麗に言いましたね」

 

 真壁は否定しなかった。

 

 澪は、手提げの中に入れた資料をそっと押さえた。

 

 紙は薄い。

 

 けれど、今日一日で一番重いのは、たぶんこの紙だった。

 

 

 

 

 

 六畳間に戻ると、澪はすぐに電卓を出した。

 

 ローテーブルには、契約書案と分析結果が重なり、その隣で灰色の名刺が少しだけ見えている。東都から受け取った資料の端には、鷺沼が書いた付箋が残っていた。生活机だったはずの低い机は、もう生活だけを乗せるには狭くなっている。

 

 澪は数字を打った。

 

 一キロ一万二千円という単価に、千キロを掛ける。

 

 表示された数字を見て、指が止まった。

 

「一千二百万円」

 

 声に出すと、さらに変だった。

 

 月間売上、一千二百万円。

 

 六畳間のローテーブルに出していい数字ではない。

 

 真壁は慌てない。

 

「そこから引く」

 

「分かっています。分かっていますけど、まず売上だけで心が変になりました」

 

「心で帳簿はつけられん」

 

「帳簿の前に心があります」

 

 澪はもう一度、電卓を叩いた。

 

 採石場で人を動かし、水路を保ち、前処理を続ける費用を八十万円と置く。現代側では梱包や分析、倉庫、保税、通関の予備費を見て百二十万円を引く。東都向けの検査や書類管理に七十万円を積み、失敗ロットや予備費として百万円を残し、さらに法人として動くための費用を足していく。

 

 数字を引くたび、表示は減っていく。

 

 それでも、最後に残った数字は、澪の生活感からすれば十分におかしかった。

 

 澪は電卓の表示を見たまま、しばらく動かなかった。

 

「……真壁さん」

 

「どうした」

 

「月に、五百万以上残ります」

 

 真壁は、少しも驚かなかった。

 

「悪くない」

 

「悪くない、で済ませる数字じゃありません」

 

「一トンでその程度だ。商会としては、まだ可愛い数字だな」

 

 澪は電卓を置いた。

 

 ローテーブルの上に、月五百万以上という数字が置かれている。

 

 数字そのものは、電卓の小さな液晶の中に収まっている。けれど、その意味は部屋に収まっていなかった。六畳間の壁、押し入れ、マットレス、段ボール、低い机。その全部を押し広げても、まだ足りない気がした。

 

「六畳間のローテーブルに置いていい数字じゃありません」

 

「数字に部屋の広さは関係ない」

 

「あります。私の心の広さに関係します」

 

「ならば、広げるしかないな」

 

「商会って、心から拡張するんですか」

 

「まずは帳簿からだ」

 

「現実的なようで、やっぱり嫌です」

 

 澪はもう一度、電卓の数字を見た。

 

 初回三百キロなら、売上は三百六十万円。

 

 そこから経費を引いても、百五十万から二百万円以上が残る可能性がある。

 

 これまでの押入商会は、どこか実験だった。

 

 できたらすごい。

 

 分けられたら面白い。

 

 送って返事が来たら先へ進める。

 

 そこまでは、まだ引き返せる気がしていた。

 

 けれど、月次供給基本契約という言葉が入った瞬間、話は変わった。来月も、その次も、同じ品質で出さなければならない。遅れたら契約の問題になり、作れなければ信用の問題になる。

 

 澪は、電卓から視線を上げた。

 

「そういえば、三百キロって、どうやって運ぶんですか」

 

 真壁は、その質問を待っていたように立ち上がった。

 

 六畳間の隅、押し入れの前に寄せてあった布を、真壁が片手でめくる。

 

 そこに、見慣れない灰色の箱が三つ並んでいた。

 

 市販品に似ている。けれど、メーカー名もロゴもない。乳白色がかった灰色の樹脂でできていて、角には薄い鉄の補強が入っている。底には小型のキャスターが四つあり、前側の二つには足で踏めるストッパーまでついていた。

 

 澪は、しばらく声が出なかった。

 

「このコンテナ、どうしたんですか?」

 

「収納で作ってみた」

 

「作ってみた、で出てくる形じゃありません」

 

「材料はペットボトルと鉄だ」

 

 澪は、部屋の隅にある箱を見た。

 

 リュシアへ渡すために洗って乾かし、ラベルを剥がして分けてあるペットボトルの箱は、ちゃんと残っている。飲み物用に使えそうなもの、フタの噛み合わせがいいもの、傷の少ないものは手つかずだった。

 

 ただ、その横に置いてあった、口が歪んだもの、傷が深いもの、フタの合わないものを入れた袋が消えている。

 

 澪はゆっくり真壁を見た。

 

「リュシアさんに渡す分、使ってませんよね」

 

「使っておらん。口が歪んだもの、傷の深いもの、フタの合わぬもの、そして資源ゴミ置き場の廃棄品だけだ」

 

 澪は、そこで完全に顔を上げた。

 

「資源ゴミに手を出したんですか」

 

「安心したまえ。うちの地域のものではないし、カメラにも映らん」

 

「安心できる要素が一つもありません」

 

「廃棄品だ」

 

「廃棄品でも、持ってきたら駄目なものは駄目です」

 

「ふむ。現代の資源循環は、なかなか窮屈だな」

 

「窮屈なんじゃなくて、法律です」

 

 澪は灰色のコンテナを見た。

 

 リュシアへ売る分は守られている。

 

 傷物も使っている。

 

 そこまではいい。

 

 だが、その最後に混ざった一言が、コンテナの便利さを一気に別方向へ転がしていた。

 

「真壁さん」

 

「何かね」

 

「次から、材料を集める前に私へ確認してください」

 

「商会の許可制か」

 

「犯罪予防です」

 

「商会には法務が必要だな」

 

「法務の前に常識が必要です」

 

 真壁は悪びれず、三つのコンテナのうち一つに手を添えた。

 

「一箱、百キロまでを想定している。初回三百キロなら三箱。月一トンなら十箱だ」

 

「月一トンを、十箱って言わないでください。急に現実になります」

 

「現実にするために数字がある」

 

「数字、怖いですね」

 

 真壁はコンテナを軽く押した。

 

 床の上を、灰色の箱がすっと動く。百キロ対応という言葉から想像する重さに反して、動きは滑らかだった。

 

「重いものには、動く理由を与えるべきだ」

 

「急に優しいことを言いましたね。直前の資源ゴミ発言を忘れそうになりました」

 

「腰を痛める商会は長続きせん」

 

「細やかな気遣いの方向が、妙に現実的です」

 

 真壁は足先でストッパーを踏んだ。

 

 かちり、と音がして、コンテナは止まった。

 

「ストッパーもつけた」

 

「本当に細かい」

 

「動くものは、止まれなければならん」

 

「人生訓みたいに言わないでください」

 

 澪は、三つ並んだコンテナを見下ろした。

 

 真壁は、分析結果が出る前から、次に三百キロの話になると読んでいたのだ。試料三点を送ったあと、澪が結果を待って落ち着かないでいる間に、この人はもう次の荷姿を作っていた。

 

「まだ契約も決まっていなかったですよね」

 

「決まってから箱を考える商人は遅い」

 

「普通は、決まってから準備しませんか」

 

「普通はそうだ。だから普通は、好機を逃す」

 

「真壁さん、先を読みすぎです」

 

「先を読むのではない。次に困る場所を先に潰す」

 

「それを先読みって言います」

 

 澪は、コンテナから視線を外し、真壁を見た。

 

「それで、この三箱をどう運ぶんですか」

 

「そこで、澪君に聞こうと思っていた」

 

「嫌な予感しかしません」

 

「澪君、誰か知り合いにトラックの運送を委託できる人物はいないのかね」

 

 澪は、すぐには答えなかった。

 

 大学の友人の顔がいくつか浮かび、すぐ消えた。こんな相談をしたら、説明を求められる。同級生に頼むにも話が大きすぎる。家族に聞くのは論外だった。

 

 その時、ひとりの顔が浮かんだ。

 

 修さんだった。

 

 ただし、今回の中身を話すわけにはいかない。

 

 真壁のことも、押入商会のことも、チタンのことも、東都特殊金属試作のことも話せない。聞けるのは、あくまで運送会社の紹介だけだ。

 

 澪は深く息を吸った。

 

「……います。運送会社を紹介してくれそうな人なら」

 

「悪くない」

 

「まだ何も決まっていません。あと、絶対に中身は言いません」

 

「言える範囲だけ言えばよい」

 

 澪はその言い方に、少しだけ視線を落とした。

 

 全部を言わないことと、嘘をつくことは同じではない。

 

 そう思えたから、澪はスマホを取った。

 

 

 

 

 

 電話をかける前に、澪は三回ほど文面を打っては消した。

 

 久しぶりです、と書くと軽すぎる気がした。突然すみません、と書くと怪しすぎる。少し相談があります、と書けば、相談の中身を聞かれるに決まっている。運送会社を紹介してほしいです、まで書いて、澪はスマホの画面を伏せた。

 

 どの一文も、事情を知らない人から見れば普通だ。けれど、澪自身は事情を知りすぎているので、どの言葉も妙に曲がって見えた。

 

 結局、澪は電話を選んだ。

 

 画面に表示された呼び出し音が二回、三回と続く。四回目で、修さんの声が聞こえた。

 

「はい、飯島です」

 

「あ、修さん。篠原です。お久しぶりです」

 

「篠原さん。久しぶり。どうしたの」

 

 いつもの、穏やかで少しだけ仕事の声が混じった調子だった。

 

 澪は、横で真壁がこちらを見ている気配を感じながら、言葉を選んだ。

 

「修さん、少し変な相談なんですけど」

 

「変な相談って言われると、だいたい変なんだよね」

 

「ええと、仕事関係で、少し重い荷物を運べる運送会社を探していまして」

 

「重い荷物」

 

「工具とか、機材とか、部材とか、そういう扱いに慣れているところがあればと思って」

 

 電話の向こうで、ほんの少し間があった。

 

 澪の背中に力が入る。

 

「篠原さんが運ぶの?」

 

「いえ。運びません。運びたくありません」

 

「それならいい。重い物は、自分で運ばない方がいいよ。腰も痛めるし、責任も残る」

 

「責任」

 

「荷姿、伝票、保険、受け渡し記録。そこをちゃんとする運送屋に頼んだ方がいい」

 

 澪はあわててローテーブルの上のメモ帳を引き寄せた。ペン先が紙に当たり、少し曲がった字で、修さんが言った言葉を書いていく。箱に入れること、動かないようにすること、伝票を切ること、保険をかけること、受け渡しの記録を残すこと。どれも当たり前のようで、今の澪には新しい義務に見えた。

 

 電話の向こうの修さんは、深くは聞いてこなかった。

 

 そこがありがたく、同時に少し申し訳なかった。

 

「うちで使うことがある運送屋がある。大友運送。大きい会社じゃないけど、工具とか、機械部品とか、地金まわりの荷物も扱える」

 

「地金」

 

「そういう重くて小さいものに慣れてるって意味。何を運ぶかまでは聞かないけど、変に安いだけのところはやめた方がいい」

 

「ありがとうございます」

 

「それと、篠原さん」

 

「はい」

 

「もし本当に仕事の荷物なら、口約束で済ませないこと。見積もり、伝票、保険。そこは残して」

 

「分かりました」

 

「あと、自分で抱えて電車に乗ろうとか思わないように」

 

「思ってません」

 

 澪はそう言ってから、三つ並んだコンテナを見た。

 

 キャスターがついている。

 

 ストッパーもついている。

 

 動く。

 

 だが、駅まで押していく光景を想像しただけで、胃が重くなる。

 

「……思いかけてもいません。今回は」

 

「今回は、って言ったね」

 

「言いましたね」

 

「やめて正解」

 

 修さんは、それ以上聞かなかった。大友運送の連絡先と、紹介の時に自分の名前を出していいことだけを伝え、電話は終わった。

 

 澪はスマホを置き、長く息を吐いた。

 

「見どころのある助言だ」

 

 真壁が言った。

 

「修さんを品評しないでください」

 

「金属を見る者は、荷物も見る」

 

「だから品評しないでください」

 

 澪はメモ帳を見た。

 

 修さんから聞いた注意点は、どれも難しい専門用語ではなかった。けれど、箱に入れて終わりではないということだけは、はっきり分かった。伝票があり、保険があり、受け渡しの記録がある。金属は、外に出た瞬間から、物ではなく責任になる。

 

 

 

 

 

 大友健司の声は、電話口でも現場の人間だと分かった。

 

 低く、少し荒い。けれど、こちらの話を遮らない。聞くべきところを聞き、いらない飾りを嫌う声だった。

 

「飯島さんの紹介って聞いたが、荷物は何だい」

 

 澪は、メモ帳の隅を指で押さえながら答えた。

 

「金属系の部材です。危険物ではありません。液体でも粉でもありません」

 

「重さは」

 

「初回は、百キロの箱を三つです」

 

 自分で言って、澪は少しだけ声が遅れた。

 

 三箱で三百キロ。

 

 電話口の大友は、驚かなかった。

 

「なら、ちゃんと荷物だな。箱は?」

 

「樹脂製のコンテナです。キャスターとストッパーがついています」

 

「キャスター付きか。見てからだな」

 

 真壁が横から静かに言う。

 

「将来的には月一トンです」

 

 澪は反射的に真壁を見た。

 

「今、それ言いますか」

 

 電話口で、大友は短く笑った。

 

「一トン? 量は大したことねえな。問題は荷姿だ」

 

「一トンが、大したことないんですか」

 

「トラック屋に一トンで大騒ぎされたら困るだろ」

 

 真壁が満足げに目を細めた。

 

「見どころのある人物だ」

 

「お願いですから、初対面の人を鑑定しないでください」

 

 大友はそこから、淡々と質問を重ねてきた。

 

 中身は危険物ではないか、液体ではないか、粉ではないか。箱のサイズ、重量、持ち手の位置、キャスターのロック、荷崩れの可能性、受取先、時間指定、保険、伝票名目。澪は聞かれるたびにメモを見たり、コンテナを見たり、真壁を見たりして、答えられる範囲で答えた。

 

 真壁は、嘘をつかない範囲で、余計なことを言わない。

 

「金属系部材、または金属試料でよろしいですな」

 

 大友は即座に返した。

 

「それでいい。変に飾るな」

 

「皆さん、正直に言う方向なんですね」

 

「嘘の荷物は事故る」

 

 電話の向こうから来たその言葉に、澪はペンを止めた。

 

「嘘の荷物は事故る」

 

「そうだ。中身と扱いが合ってなきゃ、誰かが怪我する。金属なら動かすな。箱の中で遊ばせるな。小箱でも、中で暴れると箱が死ぬ」

 

「箱が死ぬ」

 

「死ぬ。角から割れる。底が抜ける。荷台で滑る。そういうのはだいたい、最初に横着したやつが悪い」

 

 真壁が静かにうなずいた。

 

「良い言葉だ」

 

「また品評した」

 

 澪はメモを取りながら、三つのコンテナを見た。

 

 真壁の作った箱は、確かに細かくできている。けれど、それを外の世界へ出すには、まだ足りないものがある。箱そのものだけでなく、伝票、保険、受け渡し、固定、受取先との確認まで整えなければならない。

 

 荷物とは、物体ではなく、約束をまとった物体なのだと、澪は少しだけ分かってきた。

 

 分かってきた自分が、また嫌だった。

 

 

 

 

 

 電話を終えたあと、澪は三つのコンテナを見下ろした。

 

 まだ中身はない。

 

 けれど、契約書の上では、やがてそこに百キロずつの金属が入る。三つで三百キロ。十なら一トン。数字にすれば簡単だが、部屋の床に並ぶ灰色の箱を見ると、その簡単さがかえって怖かった。

 

 真壁は、ローテーブルの上の契約書案を見ていた。

 

「今までは、作れたら面白い、だった」

 

 真壁が静かに言った。

 

 澪は、うなずいた。

 

「はい」

 

「これからは、作れなければ契約違反になる」

 

 澪は笑えなかった。

 

 契約書案の端に電卓が乗り、灰色の名刺は分析結果の紙に半分隠れている。大友運送の連絡先を書いたメモと、真壁が描いた百キロ対応コンテナの走り書きまで、そこに混じっていた。昨日まで食事とノートを置いていた低い机が、今は月五百万という数字を支える場所になっている。

 

 押入商会は、初めて月の利益を持った。

 

 同時に、月の責任も持った。

 

 澪は、電卓の表示を消せずにいた。

 

 月五百万という数字は、六畳間には大きすぎた。

 

 けれど契約書の上では、それはもう、来月から守らなければならない約束だった。

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