押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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7月から9月に。

あれ8月は?


第85話 社長の夏休み

 六畳間のローテーブルに置かれたノートパソコンの画面を、澪は三度読み返した。

 

 東都特殊金属試作から届いたメールは、事務的な文面だった。余計な感情はない。初回納入分の評価が良好だったこと、加工性に大きな問題が見られなかったこと、次回納入については数量を増やして協議したいこと。その中に、一トンという数字があった。

 

 三百キロの次が、一トン。

 

 数字としては三倍と少しでしかない。けれど、六畳間のローテーブルに置かれると、その差はただの倍率ではなかった。三百キロは、まだ大きな試料と言えた。一トンになると、もう商材だった。会社だった。納入だった。

 

 澪は画面から目を離し、ローテーブルの端に置かれたコンテナ管理表を見た。百キロ単位の箱が十。紙の上では、ただ十個の枠が並んでいるだけなのに、その向こうにある重さが部屋の空気を少し沈めていた。

 

「一トン、ですか」

 

 向かい側で資料を見ていた真壁が、静かにうなずいた。

 

「来たな」

 

「来たな、じゃありません」

 

「初回三百キロが良好だった以上、次は一トンだ。自然な流れだ」

 

「真壁さんの自然は、いつも重いです」

 

 澪は、メールの文面をもう一度見た。東都側は、驚いているとも浮かれているとも書いていない。けれど、三百キロを受け取って、その次に一トンを求めてきた。それは評価が本物だったということでもあり、押入商会がもう引き返しにくいところまで来たということでもあった。

 

 真壁は、澪の表情を見ているようでいて、別のところを見ていた。視線は採石場の前処理表、濃縮試料の保管記録、コンテナ番号の欄を静かに渡っていく。

 

「採石場は整った。材料もある。箱も足りる。一トンそのものは、もはや問題ではない」

 

 澪は、ゆっくり瞬きをした。

 

「一トンそのもの、って言いました?」

 

「黒砂の洗浄、鉄分分離、濃縮、乾燥、保管。流れはできている。あちら側の作業は、もう勘ではなく工程だ」

 

「工程って言われると安心しそうになるんですが、一トンって言葉がぜんぜん安心させてくれません」

 

「見るべき問題を間違えぬことだ」

 

「では、何が問題なんですか」

 

 真壁は、そこで初めてノートパソコンを閉じた。

 

「現代側だ」

 

「現代側?」

 

「体裁だ」

 

 澪は、嫌な予感を覚えた。

 

「また怖い言葉が出ました」

 

「一トンを扱う商会に、車も駐車場も免許もないのは、形が弱い」

 

「移動だけなら電車でもタクシーでもいいですよね」

 

「移動だけならな。だが、納入時には違う」

 

 真壁は、ローテーブルの上に別の紙を置いた。中古車販売店の資料だった。白いハイエース バンの写真が載っている。外装は少し古びているが、車体はまっすぐで、仕事に使われてきた車らしい顔をしていた。

 

 澪は、その写真を見た瞬間に眉を寄せた。

 

「車の話になっています」

 

「必要なのは、車そのものではない」

 

「すでに車の資料を出している人が言う言葉ですか」

 

「車を持っている商会、という体裁だ」

 

「体裁の話ですか」

 

「体裁ではない。信用の外形だ」

 

「怖い言葉に言い換えないでください」

 

 真壁は、中古車の写真ではなく、その横に添えられている数字を指で押さえた。車両総重量、最大積載量、荷室寸法。澪には、車の写真よりもそちらを真剣に見ているように見えた。

 

「代表取締役が普通免許を持っている。会社に車がある。月極駐車場がある。保険がある。整備記録が残る。燃料代も帳簿に乗る。そういう外形が、現代側では意味を持つ」

 

「つまり、実際に毎日運転するためじゃなくて、会社として物を動かせる形を整えるためですか」

 

「左様」

 

「また、理屈としては分かってしまうのが嫌です」

 

「分かるならよい」

 

「よくありません。私の免許を前提にしないでください」

 

「澪君が社長だからだ」

 

「社長を便利な免許保有者にしないでください」

 

 真壁は少し考えた。

 

「ならば増やすかね。免許持ちの従業員を」

 

 澪は、すぐに否定しようとした。いつものように、増やさないでください、と言えばよかった。けれど、声が出る直前で止まった。

 

 一トンの納入が来ている。車を持つ話をしている。駐車場の話も出る。東都特殊金属試作との取引は、もう一回きりの試料提供ではなくなりつつある。

 

 そこまで来てしまうと、人手という言葉だけを冗談として捨てることが、急に難しくなった。

 

「……いま、笑って否定できないのが嫌です」

 

「会社とは、人を雇う器でもある」

 

「器を広げる前に、中身を確認してください」

 

「中身ならある。仕事だ」

 

「そういう意味ではありません」

 

 澪は、ため息をついて中古車資料に目を戻した。真壁はまだ写真を見ていない。見ているのは車検証の写しにある数字だった。

 

「名ではない。見るべきは車検証だ」

 

「車を美術品みたいに品評していた人が、急に現実的になりましたね」

 

「車両総重量、最大積載量、荷室寸法。ここを外せば、普通免許の体裁が崩れる」

 

「体裁って、そこまで数字なんですか」

 

「体裁とは、数字で支えるものだ」

 

 真壁はそこでようやく、ハイエースの荷室写真に視線を移した。

 

「ハイエースなら、一トンの外形に届く」

 

 その声が、少しだけ違っていた。

 

 澪は聞き逃さなかった。真壁が何かに興味を持った時の、低く抑えた声だった。悪い予感がして、澪も荷室写真を見る。空の荷室。傷のついた床。側面の余白。天井の高さ。後部扉の開き方。普通なら、業務用の中古車だと思って終わる写真だった。

 

 真壁は違うものを見ていた。

 

「ふむ。荷室は悪くない」

 

「その『ふむ』、嫌な予感しかしません」

 

「床は補える。固定具を入れる余地もある。棚、照明、小型作業台。工具箱と書類箱も分けられるな」

 

「改造の話になりましたね」

 

「車は、手を入れてこそ品が出る」

 

「品を出す前に社長決裁です」

 

 真壁は、少し残念そうに荷室写真を指でなぞった。

 

「停車時に休める余白も欲しいな」

 

「仕事用の車ですよね」

 

「長距離の確認や待機がある。簡易寝台があれば、社長にもよい」

 

「社長を寝かせる方向で考えないでください」

 

「夜に焚き火を眺めながら、ワインを嗜むのも悪くない」

 

「いま社用車の話から離れましたよね」

 

「士気も戦力だ」

 

「会社の車で士気を上げないでください」

 

 澪はノートを引き寄せた。もともとは大学の講義用に買ったノートだった。表紙の端は少し曲がり、ページの途中には押入商会の仕入れメモや、リュシア向けの納品予定が入り込んでいる。

 

 その新しいページに、澪は太めの字で書いた。

 

 社長決裁条件。

 

「買うな、とは言っていません。社長決裁なしで買うな、と言っています」

 

「ふむ。条件とは」

 

「普通免許で運転できること。会社名義にできること。保険に入れること。駐車場があること。上限額を超えないこと。あと、私が戻るまで改造しないこと」

 

「改造も条件に入るのか」

 

「今、少し残念そうにしましたよね」

 

「車は、手を入れてこそ品が出る」

 

「品を出す前に、社長確認です」

 

 澪はさらに書いた。人を雇わない。法人印を作らない。東都へ新条件を返さない。リュシア向け在庫を勝手に溶かさない。資源ゴミを回収しない。

 

 最後の一行を書いたところで、澪は自分の手元を見下ろした。

 

「最後の二つが入る時点で、この会社おかしいです」

 

「商会とは、素材を見逃さぬものだ」

 

「法律を見逃さないでください」

 

 真壁は、真面目な顔でうなずいた。真面目にうなずかれると、余計に不安になる。

 

 澪はノートを閉じる前に、もう一つだけ言った。

 

「それと、八月中、私は仕事をしません。免許と里帰りを済ませます」

 

「承知した」

 

「承知した、で済むんですか」

 

「商会はこちらで回す」

 

「回しすぎないでください」

 

「商会は止めぬ方がよい」

 

「止めないことと、進めすぎることは違います」

 

 真壁は答えなかった。

 

 答えない沈黙ほど、信用できないものはないと澪は思った。

 

     

 

 免許証を受け取った時、澪はもっと単純に喜べると思っていた。

 

 小さなカードの中に、自分の顔写真と名前がある。普通免許。財布に収めると、ほんの少しだけ大人になったような感じがする。大学の友人なら、これでどこに行けるとか、家の車を借りられるとか、そういう話をするのだろう。

 

 澪の場合、最初に思い浮かんだのは、ハイエースの車検証だった。

 

 かなり嫌だった。

 

 免許センターの外は、白く熱い日差しに満ちていた。アスファルトから熱が返ってくる。澪は日陰に寄り、スマホを取り出した。通知がいくつか来ている。送り主の名前を見ただけで、中身を読まなくてもだいたい分かる気がした。

 

 真壁。

 

 澪は画面を伏せた。

 

 八月中は仕事をしない。

 

 自分で決めたことだった。社長として条件は出した。権限表も渡した。その先は真壁が回す。免許を取る日まで、押入商会の代表取締役社長であり続けるのではなく、ただの澪として用事を済ませる。

 

 そう決めたはずなのに、通知の光はなかなか消えない。

 

 澪はスマホを鞄にしまい、財布の中の免許証をもう一度確認した。

 

「免許を取った達成感より、会社に組み込まれた感じの方が強いです」

 

 誰に言うでもなく、澪は小さくつぶやいた。

 

 それから駅へ向かった。

 

 実家の玄関に立つと、靴箱の匂いがした。台所から聞こえる包丁の音、廊下に置かれた古いスリッパ、壁にかかった家族写真。何も変わっていないものがあるだけで、澪の肩から少し力が抜けた。

 

「おかえり。なんだか疲れてる?」

 

 母の声に、澪は靴をそろえながら笑った。

 

「少しだけ」

 

 少しではない。

 

 けれど、ここで一トンのチタンや、中古ハイエースや、異世界の採石場の話をするわけにはいかない。

 

 夕食には味噌汁が出た。焼き魚と冷やしたトマト、浅漬けもあった。箸を持つ指が、六畳間のローテーブルで資料をめくる時とは違う動きをする。家族の会話は、近所の店が閉まったこと、親戚の法事、免許は取れたのかという話だった。

 

「これで運転できるのね」

 

「うん。一応」

 

「最初は気をつけなさいよ」

 

「うん」

 

 澪は普通に返事をした。

 

 スマホは鞄の中で、何度か震えた。気づかないふりをした。八月中は仕事をしない。自分で決めたのだから、守らなければならない。守らなければ、結局何も休めなくなる。

 

 夜、布団に入ってからも、スマホは気になった。

 

 けれど、澪は画面を開かなかった。

 

 押入商会のことを完全に忘れられるわけではない。真壁が何かを回している。回しすぎているかもしれない。中古ハイエースの条件を、妙に正確に満たしているかもしれない。そんな想像が、天井の暗がりに浮かぶ。

 

 それでも澪は目を閉じた。

 

 夏休みなのだ。

 

 少なくとも、今夜だけは。

 

     

 

 澪が実家で味噌汁を飲んでいる頃、真壁は家具の納品先で棚の向きを見ていた。

 

 依頼されたのは、リュシア側の店舗と倉庫で使うための棚や折りたたみ机、小さな引き出しだった。現代側では安価な家具でも、向こうでは商品の見え方を変える道具になる。

 

 手伝っていた男が、棚を壁際に寄せようとした時、真壁が静かに止めた。

 

「そこではないな」

 

「置ければいいんじゃないですか」

 

「置ければよい、というものではない。棚は物を置くだけの板ではない。客の視線を導く舞台だ」

 

「舞台ですか」

 

「左様」

 

 男は余計に分からなくなった顔をしたが、真壁が棚の角度を変え、上段に軽い小物、中段に瓶、下段に重い物を置くよう指示すると、少しずつうなずくようになった。通路から入ってきた時に最初に目に入る高さ、手を伸ばしやすい位置、奥に入らなくても見える並び。真壁は、家具を家具として見ていなかった。

 

「物は、見えねば売れん」

 

 そう言ったところへ、リュシアがやってきた。

 

 リュシアは棚の配置を一瞥し、それから納品された容器の箱を見た。洗って乾かしたペットボトルとフタが分けてある。透明な容器は、こちらではただの空き容器ではない。売れるものだ。

 

 彼女は手早く数を確かめ、途中で眉を寄せた。

 

「傷物の分は?」

 

 真壁は、少しだけ視線を外した。

 

「一部、材料にした」

 

「勝手に?」

 

「口が歪んだもの、傷の深いもの、フタの合わぬものだ。容器としては品が落ちる」

 

 リュシアは腕を組んだ。

 

「傷物でも売り方があるんだよ」

 

 真壁は意外そうにリュシアを見た。

 

 リュシアは、傷の入った容器をひとつ取り上げた。透明な胴に擦り傷があり、飲み物を入れて見せるには確かに見栄えが悪い。けれど、彼女は底を指で叩き、口の歪みを見て、すぐに分けた。

 

「これは粉物なら使える。こっちは種。こっちは染料。油は駄目だけど、乾いたものならいける。口が歪んでるなら切って漏斗にする。底だけ残せば小分けに使える。フタが合わないなら、フタだけ別に売る」

 

「ほう。そこまで見るか」

 

「商人なら見るよ」

 

「見どころがある」

 

「褒めても駄目。次から傷物も私に見せてからにしな」

 

「大いに結構」

 

「結構じゃなくて、約束だよ」

 

 真壁はうなずいた。

 

 リュシアは、まだ少し怒っている顔のまま、傷物をさらに分けていく。真壁はその手元を見ていた。戦略でも技術でもない。商人の目だ。価値は新品だけにあるのではなく、用途を変えた先にもある。

 

 真壁は、そのことを静かに記憶した。

 

     

 

 セルマの工房は、澪がいない時でも薬草の匂いがしていた。

 

 乾いた葉の香り、薬液を煮たあとの甘苦い匂い、瓶に残るアルコールのような刺激。棚には瓶が並び、ラベルには日付や材料名が書かれている。小さな紙片、紐、布、乾燥中の薬草、粉を入れた容器が作業台の上に増えていた。

 

 セルマは、真壁が持ち込んだ箱をすぐには開けなかった。

 

 まず、自分の作業台を指さした。

 

「混ざるの」

 

 短い言葉だった。

 

 真壁は作業台を見た。

 

「薬草が、ですかな」

 

「薬草も。粉も。瓶も。濡らしていいものと、駄目なものも」

 

 セルマは、乾いた葉をひとつ摘んで、隣に置いた粉の瓶を見る。

 

「なくなるのも困る。でも、違うものが入る方が怖い」

 

「ふむ。失うより、混じることが問題か」

 

「そう」

 

 真壁は、持ってきた箱を開けた。透明な袋、細かい網袋、小分けのケース、小瓶、ラベル、細字のペン、手袋、布を留めるための小さな道具。現代側では安い品だったが、セルマはそれを現代の商品名で呼ばなかった。

 

 彼女はまず触った。袋の口を開き、匂いを嗅ぐ。網袋には乾いた葉を少し入れて、振った。粉を別の袋に少し入れ、角に残るのを見て首を横に振る。小瓶は口の広さを確かめ、指で縁を撫でた。

 

「これは薬草用ね。粉には向かない」

 

「粉には向かぬのか」

 

「角に残る。混ざると困る」

 

「ふむ」

 

 真壁は、網袋を手に取った。

 

「この網は、分類のほかにも使えそうだな」

 

 セルマが顔を上げた。

 

「捕まえるものじゃないわ」

 

 真壁は黙った。

 

「これは、逃がさないためじゃない。間違えないため」

 

「工房の道具とは、戦うためではなく、間違えぬためのものか」

 

「ええ。間違えないことが、薬になるの」

 

 セルマは、透明な小瓶を光にかざした。中が見える。濁りも分かる。残った粉も、底に沈んだ葉も見える。

 

「これは便利ね、ではないわ。これは混ぜていいものか、混ぜてはいけないものかを見るの」

 

 真壁は、工房の棚を見た。

 

 押入商会の品物は、便利な珍品として届いているだけではない。ここでは、薬の品質を守る道具になる。混入を防ぎ、日付を残し、濡らしてはいけないものを分ける。安い袋や瓶が、工房の秩序を作る。

 

「見どころがある」

 

 真壁が言うと、セルマは少しだけ眉を上げた。

 

「見どころがあるのは、品物の方ね」

 

「左様か」

 

「あなたは、使い方を急ぎすぎる」

 

 真壁は少し笑った。

 

「耳が痛いな」

 

「薬草は、急ぐと間違えるの」

 

 セルマは、そう言って小瓶を薬草用の棚へ置いた。

 

     

 

 採石場は、以前より静かに動いていた。

 

 静かというのは、人が少ないという意味ではない。水路には水が流れ、黒砂が洗われ、泥と軽い石粉が分けられていく。鉄分寄りの重いものが別に集まり、チタン酸化物寄りの濃縮試料が乾燥場へ回される。声はある。手も動いている。けれど、混乱はなかった。

 

 真壁は、水路の横を歩きながら、一つずつ見ていった。洗浄、分離、乾燥、小分け、保管。前は実験の匂いがあった作業が、今は手順になっている。

 

 作業員の一人が、乾燥場の端で真壁に声をかけた。

 

「今の流れなら、一トン分でも回せます」

 

「ふむ。一トン程度なら、採石場は問題ないな」

 

「水路も乾燥場も、今の手順でいけます。増えるなら泥の逃がしを少し見ますが、止まりません」

 

「ならば、問題は現代側だ」

 

 真壁は、乾燥場に並んだ小分け容器を見た。番号が振られ、保管場所も決まっている。百キロ対応のコンテナ十箱へ回す前の流れも見えている。

 

 材料はある。

 

 箱もある。

 

 採石場は動く。

 

 現代側で押入商会がどう見えるか。そこが残っている。

 

 真壁は六畳間へ戻ると、ハイエースの資料をもう一度開いた。

 

 車検証の数字は、澪が出した条件内に収まっている。会社名義の手続き、保険、駐車場、上限額。ひとつずつ潰していく。澪のノートに書かれた条件から外れない。外れないまま、最大限に進める。

 

 月極駐車場の契約書に判を押し、中古ハイエース バンの鍵を受け取った時、真壁は車の後部扉を開けた。

 

 空の荷室があった。

 

 床には細かな傷があり、側面には仕事で使われた跡が残っている。真壁はしばらく何も言わず、その奥行きを見た。百キロ箱をどう並べるか。固定具をどこへ置くか。床をどう補うか。棚は片側か、両側か。照明は天井からか、側面からか。小型の作業台を畳んで入れる余地はあるか。

 

 改造はまだしない。

 

 澪との条件がある。

 

 だが、考えることまでは禁じられていない。

 

 真壁は改造メモに、床補強、固定具、棚、照明、小型作業台、工具箱、書類箱、養生材置き場と書いていった。少し間を置いて、簡易寝台とも書いた。

 

 その横に、停車時の休憩、と小さく足す。

 

 さらに、ワインを嗜む余白、と書いたところで、真壁は少しだけ満足げに目を細めた。

 

 商会は止めぬ方がよい。

 

 そして、機動力は戦力になる。

 

     

 

 澪が六畳間へ戻ったのは、八月の終わりが見えてきた日の夕方だった。

 

 鞄には実家から持たされた菓子の袋が入っている。財布には免許証がある。実家では普通の娘として過ごした。完全に忘れることはできなかったが、押入商会の仕事はしなかった。スマホを見て、返さないまま伏せることにも、少しだけ慣れた。

 

 六畳間のドアを開けると、懐かしい狭さがあった。低いローテーブル。見慣れた座布団。押し入れ。戻ってきた、と思った。

 

 その気持ちは、ローテーブルの上を見た瞬間に止まった。

 

 見慣れない鍵があった。

 

 澪は鞄を下ろす前に足を止めた。鍵の横には月極駐車場の契約書が置かれている。さらに、車両資料と保険書類が重なり、その上に真壁の癖のある字で書かれた改造メモが載っていた。

 

 澪は、鞄を畳の上に置いた。

 

「……真壁さん。これは何ですか」

 

 真壁は、ローテーブルの向こう側で涼しい顔をしていた。

 

「ハイエースの鍵だ」

 

「買ったんですか」

 

「社長決裁の範囲内だ。最大積載量一トン、会社名義、保険、駐車場、上限額。すべて満たしている」

 

 澪は車両資料を手に取った。紙の端が少し曲がっている。そこにある数字を見て、真壁が本当に条件を一つずつ満たしていることが分かってしまった。

 

「普通免許は」

 

「車検証上の条件を確認した。澪君の免許で扱える範囲に収めている」

 

「そこだけ妙に正確ですね」

 

「形は、数字で整えるものだ」

 

 澪は、今度は改造メモを見た。床補強、固定具、棚、照明、作業台。そこまでは、まだ分かる。工具箱、書類箱、養生材置き場。分かる。簡易寝台。怪しい。停車時の休憩。さらに怪しい。

 

 最後の一行で、澪は目を細めた。

 

 ワインを嗜む余白。

 

「改造は」

 

「これからだ。向こうでやる」

 

 澪は座った。

 

「向こうで」

 

「こちらでやれば余計な目が増える。向こうなら、床補強も固定具も棚も、品よく整えられる」

 

「品よく、じゃありません。ハイエースを異世界に持っていく話になっています」

 

「機動力は戦力になる」

 

「その戦力、国境どころか世界を越えようとしてますよね」

 

「押入商会だからな」

 

「社名を万能にしないでください」

 

 真壁は、少し満足げに車両資料を指で押さえた。

 

「ふむ。荷室は悪くない。実に悪くない。少し手を入れれば、百キロ箱十でも収まりがよくなる」

 

「百キロ箱十、ってさらっと言わないでください」

 

「一トンだ」

 

「分かっています。だから怖いんです」

 

 澪は、もう一度改造メモを見た。文字の調子が後半になるほど楽しそうに見えるのは気のせいではないと思った。

 

「夜に焚き火を眺め、ワインを嗜むにも、少々余白がある」

 

「社用車の話をしてください」

 

「士気も戦力だ」

 

「会社の車で士気を上げないでください」

 

 澪は財布から免許証を出し、ローテーブルに置いた。その横に、ハイエースの鍵がある。さらに、月極駐車場の契約書があり、車両資料があり、保険書類があり、真壁の改造メモがある。

 

 夏休み前には、こんなものは一つもなかった。

 

 免許も、車も、駐車場も、一トンの納入予定も。

 

 八月中は仕事をしないと決めた。実際、仕事はしなかった。けれど、押入商会は止まらなかった。止まらないどころか、戻ってきたら車まで持っていた。しかも、その車はこれから異世界で改造されるらしい。

 

 澪は、実家から持たされた菓子の袋を見た。そこだけが、かろうじて普通の夏休みだった。

 

 小さく息を吐く。

 

「もうすぐ九月です」

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