押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第86話 火の前で、道を思う

隣室のドアが開く音がした。

 

 薄い壁越しに、鍵の触れる小さな金属音が聞こえる。以前なら、同じ部屋の中で真壁が書類を広げていた。六畳間のローテーブルが、商談の場にも、作業台にも、異世界側の会議卓にもされていた。

 

 けれど今は、違う。

 

 真壁は隣から来る。

 

 澪は、ローテーブルに置いていた免許証と押入商会の書類をそろえながら、妙な感慨を覚えた。免許証の写真の中の自分は、どこか固い顔をしている。たぶん、撮影の時からすでに、ハイエースだの一トンだのという単語が頭にあったせいだ。

 

 ドアが叩かれる。

 

「澪君」

 

「はい」

 

 返事をすると、真壁が入ってきた。いつもの涼しい顔で、しかし少しだけ機嫌がよさそうだった。こういう時の真壁は、だいたい何かを完成させている。

 

「ハイエースの改造が終わったよ」

 

 澪は、書類を持つ手を止めた。

 

「その言い方、車検から戻ってきたみたいに言わないでください」

 

「車検ではない。仕立てだ」

 

「余計に怖いです」

 

 真壁は、怖がらせている自覚などない顔で、車両資料をローテーブルの上に置いた。そこには、荷室の写真が何枚も並んでいる。床には補強材が入り、コンテナ固定用の金具がきれいに並んでいた。棚は片側に寄せられ、工具箱と書類箱が別々に収まる。照明は低く、荷物の影を消す位置にある。簡易作業台は畳まれて壁面に収まっていた。

 

 現代側に戻しても、仕事用の車両と言えば通りそうだった。

 

 ただし、細部が妙にきれいすぎる。

 

 澪は写真をめくりながら、眉間に皺を寄せた。

 

「……ちゃんと便利なのが腹立ちます」

 

「道具は便利でなければならぬ」

 

「便利なのと、真壁さんが楽しそうなのは別問題です」

 

「楽しみのない道具は、長く使われぬ」

 

「また品評っぽくしましたね」

 

 真壁は否定しなかった。澪は、写真の端に写っている小さな棚を見つけた。どう見ても、コンテナや書類とは関係のない高さにある。

 

「ワイン関係は」

 

「停車時の余白として品よく残した」

 

「消してください」

 

「澪君、余白は必要だ」

 

「必要な余白と、ワイン置き場は違います」

 

 真壁は、少しだけ残念そうに目を伏せた。反省ではない。たぶん、ワイン置き場の位置を変えるだけだ。

 

 澪はため息をつき、免許証を財布へ戻した。

 

 この車で、一トンを運ぶ。

 

 それは、書類上の予定ではなくなっていた。

 

 ハイエースの荷室に、百キロ対応のコンテナが十箱並ぶ。数字だけなら簡単だった。一箱百キロ、十箱で一トン。けれど、実際に積み込むと、数字は空気を変えた。

 

 採石場側で用意されたチタン関連納入品は、すでに処理され、コンテナごとに番号が振られていた。真壁は番号を読み上げ、固定具の位置を確認し、荷崩れ防止の帯を締めていく。澪はその横で納入書類を押さえながら、一箱ごとに荷室が重くなっていくのを見ていた。

 

 後輪の沈み方が、ほんの少し変わる。

 

 固定具が金属音を立てる。

 

 車内の空気が、ただの空荷の時よりも重くなる。

 

「十箱って、数字で見るより多いですね」

 

「一箱百キロだ。十で一トン。実に分かりやすい」

 

「分かりやすいけど、軽くはありません」

 

「軽ければ、一トンではない」

 

「そういう正論はいりません」

 

 納入先では、押入商会の外形が不思議なほど効いた。

 

 会社名義の車がある。澪の免許がある。納入書類がそろっている。車両の荷室は整えられていて、固定具も、コンテナの番号も、伝票の数字もずれていない。相手方の担当者は、初回三百キロの時よりも少しだけ違う目で押入商会を見た。

 

 澪はその変化に気づいた。

 

 信用というものは、たぶん、言葉よりも先に形を見るのだ。車がある。荷がある。書類がある。代表取締役が現場にいる。そういう外側の揃い方が、相手の表情を少し変える。

 

 最後のコンテナが下ろされ、納入書類に確認印が押された。

 

 荷室は空になった。

 

 さっきまで一トンが入っていた空間には、固定具と、わずかな金属の匂いだけが残っている。澪は、後部扉の前でしばらく黙っていた。終わった、という言葉が、すぐには出てこなかった。

 

 数字ではなく、空っぽの荷室がそれを教えていた。

 

「一トンって、終わるものなんですね」

 

 真壁は、澪の隣で空の荷室を見た。

 

「始まりでもある」

 

「そういうことを言うと思いました」

 

「事実だ」

 

「少しは、終わった余韻に浸らせてください」

 

「余韻は大事だ」

 

「なら黙っていてください」

 

 真壁は、本当に少し黙った。

 

 それが逆に、澪には妙におかしかった。

 

 

 

 

 

 六畳間に戻ってから、澪は計算表の前で固まった。

 

 納入書類、仕入れ側の記録、加工にかかった費用、輸送関連の費用、雑費、そして入金予定。チタン関連納入分の利益の欄には、五百万円に近い数字が出ていた。

 

 画面の数字は、何も言わない。

 

 けれど、六畳間の空気だけが、少し重くなった気がした。

 

「五百万円って、画面で見ると現実味がないです」

 

「現実味は後から来る」

 

「来なくても困ります」

 

 澪は、別の表を開いた。家具関連の売上高が並んでいる。細かい納品が積み重なり、異世界側の需要と現代側の材料調達が噛み合った結果、合計欄に千五百万円という数字が出ていた。

 

 利益ではない。

 

 売上高だ。

 

 分かっている。分かっているのに、指が止まった。

 

「家具、売上高が千五百万円……」

 

「売上高だ。利益ではない」

 

「分かっています。分かっていますけど、数字の桁が変です」

 

「桁が変われば、商会の器も変わる」

 

「また器の話になりました」

 

「器は大事だ」

 

 澪は、背もたれに体を預けた。六畳間は六畳間のままだ。ローテーブルも変わらない。古い燭台もいつもの場所にある。けれど、画面の中の数字だけが、部屋の大きさを無視して膨らんでいる。

 

 真壁は、当たり前のように次の書類を出した。

 

「賞与を出そう」

 

 澪は、体を起こした。

 

「賞与って、うちの会社に存在したんですね」

 

「働きには報いねばならぬ」

 

「私、社長なんですが」

 

「社長にも、よく働いた者としての報いは要る」

 

「いい話みたいに言っていますけど、処理は後でちゃんと確認しますからね」

 

「もちろんだ」

 

 真壁が自然にうなずくと、澪は逆に不安になった。真壁は数字に強い。手続きにも強い。けれど、強いからこそ、気がつけばこちらの常識の外側まで整えてしまう。

 

 その証拠のように、真壁は次に鍵を出した。

 

「隣室の契約も済ませた」

 

 澪は、今度はすぐに返事ができなかった。

 

 真壁が同じアパートの隣の部屋に移る。それは、前から必要だと思っていたことだった。六畳間にいつまでも真壁が居座る状態は、生活としても、会社としても、かなりおかしかった。

 

 だから、よいことだ。

 

 よいことのはずだった。

 

「隣の部屋に移るだけで、退去ではないんですよね」

 

「商会の距離としては、実に近い」

 

「生活の距離としては、もう少し遠くてもよかったです」

 

「必要な時にすぐ呼べる」

 

「呼ばれる前提なんですね」

 

 古い燭台が、ローテーブルの端で静かにそこにある。

 

 炎はない。けれど、澪にはどこか満足げに見えた。気のせいかもしれない。気のせいであってほしい。でも、この燭台はときどき妙に表情がある。

 

 澪は、燭台に向かって小さく言った。

 

「神さま、同棲生活に戻りました」

 

 燭台は何も答えない。

 

 当然だ。

 

 けれど、部屋が少しだけ静かになった気がした。真壁の書類も、工具も、改造メモも、隣室へ移っていく。六畳間には、澪の本と、手芸用の小箱と、少しだけ戻ってきた自分の時間が残る。

 

「真壁さんが隣にいる時点で、静かな生活とは言い切れませんけど」

 

 澪がそう言うと、古い燭台はやはり何も答えなかった。

 

 その沈黙が、少しだけ優しかった。

 

 

 

 

 

 八月最後の日曜の夜、ハイエースは採石場基地へ向かった。

 

 荷室には、コンテナではなくキャンプ用品が積まれていた。折りたたみ椅子、小さなテーブル、ランタン、湯を沸かす道具、鉄鍋、現代側の塩と胡椒、少量の赤ワイン。異世界側で用意した香草、根菜、キノコもある。古い燭台は、澪の膝の上に布で包まれていた。

 

「神さままで連れてくる必要ありました?」

 

「場を見ることも大事だ」

 

「神さまを視察扱いしないでください」

 

 採石場基地は、昼とはまるで違っていた。

 

 作業の声がない。黒砂を洗う水路の音だけが、石の間を細く流れている。乾燥場の向こうに夜空が広がり、岩肌はランタンの光を受けて、昼よりも深く見えた。ハイエースを停めると、真壁は慣れた手つきで椅子とテーブルを出し、焚き火の準備を始める。

 

 澪は周囲を見回した。

 

「採石場でキャンプって、普通の夏休みから一番遠いです」

 

「悪くないだろう」

 

「悪くないのが困ります」

 

 火がつくと、採石場の夜は少しだけ人の場所になった。

 

 薪が赤くなり、煙が上がる。火の光が岩肌に揺れ、ハイエースの側面にも小さく映る。水路の音は消えない。焚き火の音と重なって、昼間の作業とは違う静けさを作っていた。

 

 澪は、それで終わりだと思っていた。

 

 けれど、採石場基地の奥に湯気が見えた。

 

 最初は、乾燥場の熱かと思った。けれど違う。木の目隠しがあり、石組みの壁があり、足元にはきれいに並べられた石畳がある。暖簾のような布が下がっていて、木札に文字が書かれていた。

 

 男湯。

 

 女湯。

 

 澪は立ち止まった。

 

 さらに奥に、サウナと水風呂の札が見えた。

 

 脱衣所らしい小屋まである。湯上がり用の椅子もある。夜の採石場に、完全に温浴施設ができていた。

 

「……真壁さん。これは何ですか」

 

「露天風呂だ」

 

「聞こえませんでした」

 

「露天風呂だ」

 

「なぜ採石場に男湯と女湯とサウナと水風呂があるんですか」

 

「湯船に浸かれば疲労が減る。すでに試した」

 

「試したんですか」

 

「作業後、湯に入った者と入らぬ者で、翌日の動きが違った」

 

「それは福利厚生ですか。実験ですか」

 

「福利厚生は、実測されてこそ価値がある」

 

「嫌な言葉を作らないでください」

 

 真壁は、湯気の向こうを満足げに見た。それから、脱衣所脇に置かれた木箱を開ける。中には、小さな素焼きの瓶がいくつも並んでいた。瓶には布で封がされ、細い紐で木札が結ばれている。木札には、細かな文字で濃度、湯量、使用回数、禁止事項が書き込まれていた。

 

「さらに、セルマ君のポーション入り入浴剤を加えた」

 

 澪は一歩下がった。

 

「急に危険度が上がりました」

 

「飲むのではない。湯に溶かす」

 

「それで安全になるとは限りません」

 

「セルマ君が濃度を見ている」

 

「本人がここにいないのに、工房案件だけ来てるじゃないですか」

 

 真壁は木札を一枚取り、焚き火の明かりに近づけた。

 

「注意書きがある。飲用不可。湯に溶かして用いること。濃度は薄く、効果は長く取る。深い傷のある者は入浴不可。湯温を上げすぎるな。薬草臭が強くなった場合は濃すぎる。湯が濁る場合は粉末量を減らす」

 

「完全に管理表ですね」

 

「実によくできている」

 

「そこは感心するところなんですね」

 

 真壁は、もう一枚の木札を見る。

 

「追記もある。湯は薬液を広げる器であり、煮込み鍋ではない。加熱しすぎるな」

 

 澪は真壁を見た。

 

「真壁さん、そこ、ちゃんと怒られてください」

 

「うむ」

 

「うむ、じゃありません」

 

 澪は、湯気の向こうにある女湯の暖簾を見た。

 

 疲れているのは事実だった。採石場まで来て、ハイエースを見て、露天風呂を見て、サウナと水風呂まで見て、頭も体も妙に重い。

 

「……入りますけど、安全なんですよね」

 

「濃度はセルマ君の指定内だ。深い傷もない。湯温も範囲内に収めている」

 

「そこだけは信用できます」

 

「私ではなく、セルマ君をかね」

 

「はい」

 

「実に正しい判断だ」

 

 澪は、返事の代わりに女湯の暖簾をくぐった。

 

 

 

 

 

 悔しいことに、露天風呂は気持ちよかった。

 

 女湯の目隠しはしっかりしていて、足元の石畳も滑りにくい。湯は少し薬草の匂いがした。濃い匂いではない。息を吸うと、森の奥で干した草を思い出すような、静かな匂いだった。

 

 湯に浸かると、足の奥に残っていた重さが、ゆっくりほどけていく。

 

 澪は、認めたくなかった。

 

 でも、効いていた。

 

 サウナは恐る恐る入った。水風呂は、もっと恐る恐る試した。真壁は比較対象と言ったが、澪は温浴施設を研究所にしないでくださいと強く言った。真壁は聞いていたが、反省はしていなかった。

 

 湯上がりに髪をタオルで押さえながら焚き火の前に戻ると、採石場の夜風が少し冷たかった。湯で温まった体には、その冷たさがちょうどいい。焚き火の熱が前から来て、夜風が背中を撫でる。

 

 澪は椅子に座って、足を少し伸ばした。

 

「……悔しいですけど、疲れが抜けてます」

 

「実測通りだ」

 

「そこで満足そうにしないでください」

 

「よい拠点には、湯と火が要る」

 

「商会の話ですか、キャンプの話ですか」

 

「同じことだ」

 

「違います」

 

 真壁は、鉄鍋の蓋を持ち上げた。

 

 湯気が立つ。

 

 同時に、香草の匂いが広がった。湯上がりの薬草とは違う、食欲を呼ぶ匂いだ。赤ワイン、胡椒、煮込まれた根菜、キノコ、そして肉の香り。焚き火の煙がそれに重なって、採石場の夜に妙に似合ってしまう。

 

 澪は、木の皿に盛られた肉を見た。

 

「……これは、何の肉ですか」

 

 真壁は、細身のナイフを布で拭っていた。

 

 刃は派手に光らない。焚き火の赤を受けても、ぎらつかず、金属の奥へ沈めるように返している。よく研がれているのは、見ただけで分かった。飾りではない。使われるための刃だった。

 

「ウサギだ」

 

「急に野性味が出ましたね」

 

「ジビエだ」

 

「言い方をおしゃれにしても、仕留めてますよね」

 

「このナイフ一本で足りた」

 

「キャンプ用品の話から、急に狩猟者の話になりました」

 

 真壁は、刃を少しだけ火にかざした。

 

「採石場の鉄だ」

 

「採石場、いろいろ出しすぎでは」

 

「鉄は、使い道を選べばよい顔をする。鍋にも、金具にも、刃にもなる」

 

「また金属を人格みたいに言いましたね」

 

「刃は飾りではない。よく切れ、手に従い、余計な主張をしない。そういうものがよい」

 

「採石場キャンプで聞く台詞じゃないです」

 

 古い燭台は、焚き火のそばに置かれていた。

 

 炎のない燭台なのに、焚き火の赤を受けると少しだけ生きているように見える。湯気にも、火にも、食事にも、どこか満足げだった。

 

「神さままで納得しないでください」

 

 澪が言うと、燭台は何も言わずに光を受けていた。

 

 澪は、少し警戒しながらウサギの煮込みを口に運んだ。

 

 柔らかい。

 

 もっと硬いものを想像していた。もっと癖が強いものだと思っていた。けれど、赤ワインと香草で煮込まれた肉は、思ったよりも穏やかだった。奥に少しだけ野性味がある。そこへ胡椒の辛さと、焚き火の煙が重なる。根菜の甘さもある。

 

 澪は飲み込んでから、負けた気分で言った。

 

「……おいしいです」

 

「野のものは、野で食うのがよい」

 

「採石場を野に分類しないでください」

 

「悪くなかろう」

 

「悪くないのが、また悔しいです」

 

 

 

 

 

 食事のあと、真壁はステンレスのワイングラスを二つ出した。

 

 澪は、最初それをワイングラスだと認識できなかった。脚は短く、底は厚い。ガラスではないから、向こう側は透けない。けれど、無骨というだけではなかった。焚き火の赤が表面に細く映り、金属の肌に沈むように揺れている。

 

 澪は、片方を受け取った。

 

 冷たい。

 

 湯上がりの手には、その冷たさが気持ちよかった。見た目よりも重いが、持ちにくくはない。縁は厚すぎず、指に当たる丸みも丁寧だった。

 

「これ、買ったんじゃないんですよね」

 

「採石場の鉄だ」

 

「やっぱり作ったんですか」

 

「残渣にクロムがあった」

 

 澪は、杯を見る目を変えた。

 

「ここでクロムですか」

 

「捨てるには惜しい気配だった」

 

「気配で金属を判断しないでください」

 

「数字でも見た」

 

「なら最初から数字で言ってください」

 

 真壁は、自分の杯の縁を指で撫でた。

 

 その仕草が、完全に器を眺める人のものだった。使えるかどうかだけではない。形、重さ、光の沈み方まで見ている。

 

「鉄だけでは、少し野暮だ。錆びる。重い。働き者ではあるが、夜の火の前に置くには、いささか無骨すぎる」

 

「採石場で作ったワイングラスに、野暮とかあるんですか」

 

「ある」

 

 断言された。

 

 澪は、返す言葉を一瞬失った。

 

「クロムを加えると、鉄は少し顔を変える。錆びにくくなる。火を受けても、ただ光るのではない。沈む。耐える。品が出る」

 

「品」

 

「左様。これは、働く金属が夜会に出るための装いだ」

 

「採石場の焚き火を夜会にしないでください」

 

 真壁は、小さく笑った。かなり満足している顔だった。

 

 澪は、さっきのナイフを思い出して、手の中の杯を見た。刃は切るためにあり、この杯は受けるためにある。同じ採石場の素材が、片方は食事を整え、片方は夜の酒を受けている。

 

「さっきのナイフといい、この杯といい、採石場の素材がいろいろな顔をしすぎです」

 

「片方は切り、片方は受ける。用途が違うだけだ」

 

「また、ちょっと格好いいことを言いましたね」

 

「事実だ」

 

 そして、真壁はワインの瓶を出した。

 

 ラベルには、E・ギガル、コート・デュ・ローヌ・ルージュとある。澪は、フランス語の綴りを読もうとして、途中で諦めた。

 

「高いんですか」

 

「二千数百円だ」

 

「思ったより普通ですね」

 

「普通でよい」

 

 真壁は、ステンレスの杯に赤い液体を注いだ。ガラスと違って色は透けない。けれど、縁の内側に映った赤は、焚き火の色と混ざって深く見えた。

 

「ローヌの赤だ。黒い果実、少しの胡椒、丸い渋み。野に持ち出すには、このくらいがよい」

 

「野って、採石場ですけど」

 

「採石場もまた野だ」

 

「また範囲を広げましたね」

 

「高価すぎるワインは、火の前で腰が引ける。安すぎる酒は、夜を粗くする。これはその間にある。仕事の後に飲むには、ちょうどよい品だ」

 

「二千数百円のワインに、そこまで語りますか」

 

「値段とは、品を測る物差しのひとつにすぎぬ」

 

「いま、ちょっと面倒なことを言いました」

 

 澪は、杯を少し持ち上げた。

 

 焚き火の赤が、ステンレスの縁に細く揺れている。ぱち、と薪が爆ぜた。火の粉がひとつ闇に跳ね、すぐに消える。遠くでは水路の水が流れていた。昼間、黒砂を洗っていた水が、夜になると細く静かな音になる。露天風呂の方からは、まだ薄く湯気が上がっていた。

 

 澪はワインを口にした。

 

 思ったより重い。けれど甘ったるくはない。黒い果実のような香りの奥に、胡椒のような辛さが少しある。渋みは丸く、ウサギの香草煮込みの余韻と合ってしまった。

 

 合ってしまうのが悔しい。

 

「……焚き火には合いますね」

 

「そうだろう」

 

「そこで勝ち誇らないでください」

 

「よいものが、よい場に収まっただけだ」

 

 真壁は杯を火の高さに上げた。杯の表面で、焚き火の赤が沈み、揺れ、消えかけてまた浮かぶ。

 

「この土地のものを、この土地の夜で使う。贅沢とは、そういうものだ」

 

「また高級そうなことを言いました」

 

「高級ではない。筋がよいのだ」

 

「否定しづらいのが悔しいです」

 

 澪は、杯を両手で包んだ。

 

 ハイエースは少し離れたところに停まっている。昼間は一トンを運び、今は椅子とテーブルと湯上がりのタオルを積んでいる。採石場の水路は流れ続け、露天風呂の湯気は夜にほどけ、焚き火の音だけが近い。

 

 普通の夏休みからは、一番遠い。

 

 けれど、悪くはなかった。

 

 それを口にすると真壁が満足しそうなので、澪は黙ってワインをもう一口飲んだ。

 

 

 

 

 

 焚き火が少し落ち着いてきた頃、真壁が静かに杯を置いた。

 

 水路の音が、火の向こうから聞こえる。昼間は黒砂を洗っていた水が、夜になると細い弦のように響いていた。露天風呂の湯気は暗がりの中で薄くなり、ハイエースの白い車体だけが、焚き火の赤を受けてぼんやり浮かんでいる。

 

「店で待つだけでは、見えぬものがある」

 

 澪は、ステンレスの杯を両手で包んだまま真壁を見た。

 

「また、何か考えていますね」

 

「考えている。だが、今度は思いつきではない」

 

「真壁さんの思いつきじゃない宣言、逆に怖いです」

 

 真壁は、焚き火を見たまま続けた。

 

「リュシア殿は、傷物の容器を捨てなかった。こちらが使えぬと思ったものを、粉入れ、種入れ、染料入れに分けた。商人は、傷を欠点だけで見ない。用途の違いとして見る」

 

「リュシアさんらしいですね」

 

「セルマ君は、袋や瓶を便利だから使ったのではない。混ざるか、濡れるか、残るかを見る。工房では、失うことより間違えることの方が怖い。あの目は、店先に座っていては分からぬ」

 

 澪は黙って聞いた。

 

 真壁の声は、焚き火に浮かれる声ではなかった。ワインを品評する時の陶酔も少し薄い。もっと静かで、もっと遠くを見ている声だった。

 

「この採石場もそうだ。黒砂は、ただの汚れた砂ではなかった。水で洗い、分け、濃縮すれば、一トンの納入品になった。残渣もそうだ。邪魔な残り物の顔をして、杯の品を支えるクロムを含んでいた」

 

「ウサギもですか」

 

「無論だ。野にいる時は獣だ。鍋に入れば主菜になる」

 

「そこだけ急に夕飯です」

 

「だが、事実だ」

 

 澪は、少し笑ってしまった。

 

 真壁も、わずかに口元を緩めた。けれど、すぐにまた焚き火の向こうを見た。

 

「湯も同じだ。ただ湯を張れば遊びに見える。だが、疲労が抜ける。作業員の翌日の動きが変わる。セルマ君の薬を弱く溶かせば、休息が設備になる。見方を変えれば、何もない場所に価値は生まれる」

 

「……それを見に行きたいんですか」

 

「そうだ」

 

 真壁は、静かにうなずいた。

 

「押入商会は、現代の品を異世界へ持ち込むだけの店ではない。こちらの品を、あちらの誰が、何に使うのか。それを見なければ、売っているのではなく、置いているだけになる」

 

「置いているだけ」

 

「店に並べるだけなら、誰にでもできる。だが、村の鍛冶場で何が足りぬか、工房で何が混ざって困るか、街道の宿で何が壊れやすいか、荷を運ぶ者が何で足を止めるか。それは、そこへ行かねば分からぬ」

 

 澪は、真壁の横顔を見た。

 

 真壁は楽しそうだった。

 

 ただし、遊びに行く顔ではない。新しい道具を作った時の顔でもない。もっと厄介な、商売の匂いを嗅ぎつけた時の顔だった。

 

「つまり、売り歩きたいんですか」

 

「売るだけではない。見る。拾う。比べる。直す。必要なら買う。捨てられているものが、別の場所では値を持つこともある。足りないものが、現代側では百円で買えることもある。逆に、こちらでありふれたものが、向こうではまだ名もついていないかもしれぬ」

 

「真壁さん」

 

「うむ」

 

「それ、絶対に面白くなるやつですよね」

 

「面白いだけでは足りぬ」

 

 真壁は、ステンレスの杯をもう一度手に取った。

 

 焚き火の赤が、杯の縁で細く揺れた。

 

「商会は、場所を持った。車を持った。採石場を持った。湯も火もある。ならば、次は道だ。道に出ねば、商いは痩せる」

 

「道」

 

「店で待つ商いは、守りだ。今の押入商会には、それも要る。だが、私は守りだけでは足りぬと思っている。こちらから出て、見て、問い、運び、売る。そういう役がいる」

 

 澪は、嫌な予感がはっきり形になっていくのを感じた。

 

「まさか」

 

 真壁は、焚き火の向こう側を見た。

 

 その顔は、もうキャンプの顔ではなかった。ワインを品評している顔でも、ウサギの煮込みに満足している顔でもない。完全に、次の商売を見ている顔だった。

 

「澪君、私はジョブチェンジして行商人になろうと思う」

 

 澪は、手に持っていたステンレスの杯を止めた。

 

「え!!」

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