「行商人って、どういうことですか」
澪の声は、思ったより大きく出た。
焚き火は少し低くなっていた。さっきまで赤く立っていた炎は薪の芯へ沈み、時々、思い出したように火の粉を上げる。水路の音は変わらず続いている。昼間は黒砂を洗っていた水が、夜になると、暗がりの奥で細い糸を引くように響いた。
真壁は、ステンレスの杯を膝の上に置いたまま、澪を見た。
「字の通りだ。荷を持って歩き、土地と土地をつなぐ商人だ」
「説明は分かります。分かりますけど、なぜ真壁さんがなるんですか」
「それは朝にしよう」
「ここで止めますか」
「夜に大きな話をすると、酒のせいにされる」
「真壁さんの場合、酒がなくても大きな話をします」
「では、なおさら朝がよい」
澪は反論しようとして、言葉を飲み込んだ。
湯上がりの体は、焚き火の熱と夜風の冷たさの間で、妙に気持ちよく緩んでいる。ウサギの香草煮込みも食べた。ワインも少し飲んだ。疲れが抜けているのに、眠気だけが残っている。真壁に言いくるめられた気がして悔しいが、体の方が先に朝を要求していた。
「逃げてませんか」
「逃げぬ。朝のパンには、話を聞かせる力がある」
「パンに責任を押しつけないでください」
真壁は、わずかに笑った。
ハイエースの荷室には、簡易寝台が整えられていた。昨日まで一トンの荷を扱っていた車が、今夜は寝床になる。その変化に文句を言いたかったが、横になってみると、角度も硬さも悔しいほど悪くなかった。
澪は古い燭台を布に包んで足元に置き、寝袋に入った。
「神さま、明日の朝、私が丸め込まれそうになったら止めてください」
燭台は、焚き火の赤を少しだけ残したまま、何も答えなかった。
「無言の了承みたいに見えるの、やめてください」
外で真壁が焚き火の始末をする音がした。
水路の音が遠くなる。
澪は、行商人という言葉を頭の中で何度か転がしながら、いつの間にか眠っていた。
目を覚ますと、ハイエースの小窓から白い朝の光が差し込んでいた。
最初、自分がどこにいるのか分からなかった。六畳間の天井ではない。実家の布団でもない。見上げると、荷室の天井に取りつけられた小さな照明と、真壁が品よく整えたと言い張る収納棚が見える。
澪は寝袋の中でしばらく瞬きをした。
外で金属の触れる小さな音がした。続いて、湯が沸く音。厚い鉄板か鍋に何かが触れる音。少し遅れて、パンの焼ける匂いが入り込んできた。
それだけではない。
バターが熱で溶ける香りと、コーヒーの苦い湯気が混ざっている。採石場の朝にあるはずのない匂いだった。けれど、ある。水路の音の向こうから、パンとバターとコーヒーがこちらへ来る。
「……普通の朝じゃない」
澪は寝袋から身を起こした。
古い燭台は、足元で布に包まれたまま静かにしている。澪には、少しだけパンの匂いに反応しているように見えた。
「神さま、食べられませんよ」
当然、返事はない。
ハイエースの後部扉を開けると、朝の空気が入ってきた。夜の冷たさは薄くなり、採石場の岩肌は朝日を受けて白っぽく見える。露天風呂の方からは、まだ細い湯気が上がっていた。昨日の夜は闇の中で温泉旅館のように見えた場所が、朝になると妙に実務的な福利厚生設備に戻っている。
真壁は、折りたたみ式の低い台の前にいた。
厚い鉄板の上で、小さな丸パンが焼けている。表面は少し焦げ、割れ目から湯気が出ていた。真壁がそこへバターを落とすと、音もなく溶けて、香りだけが一気に強くなる。隣では、細い口のポットからコーヒーが落ちていた。
「おはよう。眠れたかね」
「悔しいですけど、眠れました」
「寝台の角度は悪くなかったようだ」
「寝心地を実験結果にしないでください」
「道具は使われて初めて整う」
「朝から品評しないでください」
真壁は紙に包んだパンを澪へ渡した。熱い。澪は両手で受け取り、指先に移るバターの香りに少しだけ目を細めた。
採石場の水路の音が、朝はよく聞こえる。夜は闇の向こうで細く響いていた音が、今は岩の間を流れる水としてはっきり見えた。コーヒーの湯気が、朝の光の中で白くほどけていく。
澪はパンを少しかじった。
外側は香ばしく、中は思ったより柔らかい。バターが染みて、熱で指先まで温かくなる。
「……普通においしいのが、また腹立ちます」
「朝食は、心を柔らかくする」
「柔らかくして何を聞かせる気ですか」
真壁はコーヒーを澪の前に置いた。
「昨夜の続きだ」
澪はパンを持つ手を止めた。
「忘れていなかったんですね」
「忘れる理由がない」
「私は忘れられるわけないじゃないですか。行商人ですよ。ジョブチェンジですよ。朝食で流せる話じゃありません」
「ならば、食べながら聞くとよい」
「聞く側の都合をパンで整えないでください」
真壁は、ハイエースの荷室から薄いファイルを持ってきた。紙が数枚、きれいに畳まれている。その一枚を広げると、そこには現代側の画面を印刷したらしい文字が並んでいた。
澪は一目見て、嫌な予感を覚えた。
「異世界のジョブ情報なんて、現代のネットにありませんよね」
「ない」
「ないんですか」
「だから、仮説を立てた」
「嫌な予感しかしません」
真壁は、紙の上部を指で押さえた。
そこには、質問文があった。
商人が行商人へクラスアップした場合、どのようなスキルが追加されそうですか。
澪は、紙から顔を上げた。
「ChatGPT先生に聞いてる!」
「現代側で使える知恵袋としては悪くない」
「異世界のジョブ仕様をAIに聞かないでください」
「正解を聞いているのではない。可能性を洗っている」
「言い方だけは研究者みたいですね」
「未知の制度に触れる時、仮説の幅を持つことは肝要だ」
「やっていることはAI相談です」
澪は紙に目を戻した。
回答には、派手な言葉が並んでいた。縮地行商、野営の極意、地形適応、ルート開拓。そこまではまだ分かる気がする。けれど、その下には積載量無限、異言語交渉、密輸ルート、国家規模の買収、関税無効化まで並んでいた。
澪は、パンを持ったまま顔をしかめた。
「このAI、だいぶゲーム脳ですね」
「派手なものは信用ならぬ」
「国家規模の買収とか、絶対に駄目です」
「私もそこには興味がない」
「あるって言われたらどうしようかと思いました」
「密輸も好まぬ。商会の品を落とす」
「そこは真っ当に嫌がるんですね」
「無限積載もよくない」
澪は、意外なところで真壁の指が止まったので、思わず聞き返した。
「無限に荷物が持てるの、便利じゃないんですか」
「便利すぎる。荷には重さがある。重さがあるから、順序が生まれる。湿気を避ける位置があり、壊れやすい品の逃がし方があり、重心がある。無限に積める荷など、商いを雑にする」
「そこを品評するんですね」
「商いを雑にする力は、商人を鈍らせる」
澪は反論しかけて、止まった。
真壁が変なことを言っているのはいつものことだ。けれど、今回のそれは少しだけ筋が通っていた。実際、ハイエースの荷室は一トンを運ぶために整えられていた。重さがあるから固定具が必要で、箱の位置が必要で、手順が必要になる。
真壁は、その手順を大事にしている。
無限積載を嫌がる理由が「品がない」なのは、やはりおかしいが。
「では、どれを見てるんですか」
真壁は、紙の一項目を指で押さえた。
縮地行商。
澪は、そこを見た瞬間に嫌な予感が形になった。
「……そこですか」
「左様」
「ファストトラベルとか瞬間移動とか、そういうやつですよね」
「表現は軽い。だが、発想は悪くない」
「ChatGPT先生の想像ですよ」
「承知している」
「承知してる人の顔じゃないです」
真壁は、コーヒーを一口飲んだ。朝の光の中で、その仕草だけが静かだった。
「行商人は道を使う。拠点と拠点をつなぐ。商路を持つ。危険な土地を越え、荷を持って戻る。ならば、移動に関わるスキルがあってもおかしくない」
「でも、あるかどうかは分からないんですよね」
「無論だ。万能の転移とは限らぬ。登録した拠点へ戻るだけかもしれない。商路上でしか使えぬかもしれない。取引のある相手や契約済みの場所に限られるかもしれない。一日に一度かもしれぬ。荷の量に制限があるかもしれぬ」
「それでも欲しいんですか」
「欲しい」
その返事は、いつもの真壁より少し早かった。
澪はパンを包む紙を膝の上で押さえた。朝の採石場は明るい。水路の音も、コーヒーの香りも、焼きたてのパンもある。なのに、真壁の声だけが少し夜に戻ったように聞こえた。
「何のためにですか」
真壁は、すぐには答えなかった。
焚き火はもうない。けれど、昨夜の火の赤が、ハイエースの側面やステンレスの杯に残っているような気がした。
「君と離れていても、直ちに移動できるスキルであれば、守れるだろう」
澪は言葉を止めた。
思っていた答えと違った。
商路がどうとか、利益がどうとか、村と街をつなぐとか、そういう話なら突っ込めた。危険です、やめてください、会社がまた大きくなります、と言えた。
でも、その中心に自分の名前が置かれると、すぐには言葉が出なかった。
「……私を、ですか」
「押入商会の代表取締役社長をだ」
「そこで会社名を出しますか」
「出す」
真壁は紙を畳まず、静かに続けた。
「私が異世界側にいて、君が現代側にいる時もある。逆もある。君が六畳間にいて、私が侯爵領や街道にいる時もある。何かが起きた時、馬車では遅い。ハイエースでも、道がなければ届かぬ」
「だから、縮地か転移」
「名前は問わぬ。戻れるなら、それでよい」
「それ、行商人というより護衛の発想です」
「商いは、守れて初めて続く」
澪は、怒りたいと思った。
勝手に危険なことを考えないでください、と言いたかった。人を守るとか言えば止めにくくなると思っているんですか、と言いたかった。けれど、真壁の顔はいつものように得意げではなかった。
静かだった。
そこが、ずるかった。
「そういう理由を後から出すの、ずるいです」
「先に出せば、君は怒る」
「今も怒っています」
「だが、聞いてはいる」
「聞いてしまっただけです」
古い燭台は、ハイエースの荷室の端で布に包まれていた。朝の光が少しだけ布にかかっている。澪には、その沈黙まで真壁の味方をしているように見えた。
「神さまも納得しないでください」
もちろん、燭台は何も答えなかった。
真壁は、紙をもう一枚めくった。
「旅人では駄目なのか、という話も考えた」
澪は、少し顔を上げた。
「それです。移動したいなら旅人じゃ駄目なんですか」
「旅人というジョブはなかった」
「ないんですか」
「なかった。ただ歩くだけでは、職にならぬらしい」
「じゃあ、行商人は?」
「歩いて、運び、見て、売り、買い、信用を置いてくる者だ」
真壁は、採石場の道の向こうを見た。まだ街は見えない。けれど、彼の目はもうそこを越えた先を見ているようだった。
「この世界は、道を歩く者ではなく、道に価値を運ぶ者を職として認めるらしい」
「その言い方、ずるいです」
「事実だ」
「止めにくくなります」
「ならば、止める理由が弱いということだ」
「あります。危険とか、知らない村とか、知らない街道とか、また会社が大きくなるとか」
「承知している」
「承知している人は、だいたい止まりません」
「正しい」
「正しいじゃありません」
真壁は少しだけ笑った。
朝食のパンは、まだ温かい。コーヒーは少し冷め始めている。澪はそれを見ながら、昨夜の焚き火の前から話が続いていることを改めて感じた。
行商人。
縮地。
転移。
君と離れていても守れる。
その言葉だけが、パンやバターの香りの中で、妙にはっきり残った。
朝食のあと、真壁は手際よく片づけた。
鉄板の汚れを落とし、湯を捨てる場所を選び、焚き火の跡を確認する。露天風呂の湯量も見て、木札を一枚裏返した。荷室には、折りたたみ椅子とテーブルが戻され、コーヒー道具も棚へ収まる。見ていると、腹が立つほど無駄がない。
澪は助手席へ乗り込んだ。
真壁が運転席に座る。
そこで、澪は重大なことに気づいた。
「……免許」
真壁は何食わぬ顔で、懐から一枚のカードを出した。
澪はそれを見て固まった。現代側の運転免許証に似せた何かだった。写真もある。名前もある。妙にそれっぽい。だが、それっぽいだけに、余計に嫌な汗が出る。
「いつ取ったんですか」
「偽造だよ」
「さらっと犯罪を出さないでください!」
「元軍人の、ささやかな嗜みだよ」
「犯罪行為をささやかに嗜まないで下さい」
「異世界側では不要だ」
「不要なら作らないでください」
「澪君が気にすると思ってな」
「偽造されたものを見せられて安心する人はいません」
澪は、カードをつまむように持った。よくできている。よくできているからこそ、すぐに返した。
「現代側では絶対使わないでください」
「無論だ」
「今の『無論』、信用していいやつですか」
「こちらで車を動かすのに、免許制度は存在しない。採石場から街へ戻るだけだ。現代側で使う理由はない」
「理由がないことと、やらないことは違います」
「私は無駄な危険は好まぬ」
「偽造免許を作った人が言うと説得力が薄いです」
「軍の検問を抜けるなら、もう少し凝る」
「凝らないでください」
真壁は、カードをしまってエンジンをかけた。
ハイエースがゆっくり動き出す。採石場基地の水路の音が遠ざかった。朝の光の中で、露天風呂の湯気がまだ薄く上がっている。昨日の夜にはあれほど濃かった焚き火の匂いも、もうほとんど残っていない。
澪は助手席で、窓の外を見た。
採石場の岩肌が後ろへ流れていく。整えられた道を、ハイエースが進む。異世界側の道に現代の車が走っているという事実は、改めて考えるとおかしい。けれど、もう驚きが遅れてくるほど、押入商会はおかしなものを積み重ねていた。
「本当に行くんですね」
「司祭様のもとへな」
「まだ許可してません」
「適性を見るだけだ」
「その『だけ』が怖いんです」
「適性がなければ、話はそこで終わる」
「適性があったら?」
「考える」
「絶対、考えるだけで終わらない顔です」
真壁は答えなかった。
答えない時ほど、だいたい進む。
澪はため息をつき、膝の上の布包みを見た。古い燭台はそこにある。揺れる車内で静かにしている姿が、なぜか同行に納得しているように見えた。
「神さま、止めるなら今ですよ」
何も起きなかった。
「ですよね」
ハイエースは街の近くで、人目につきにくい場所へ入った。真壁は車を停め、荷室と扉を確認する。現代側の車は、この街では目立ちすぎる。用が済むまで、押入商会の関係者しか近づかない場所に置いておくしかない。
街へ入ると、空気が変わった。
採石場の水と石の匂いが薄れ、人の暮らしの匂いがする。朝の店先、焼いた穀物、土の道、遠くの家畜の声。澪はまだ完全に納得していなかったが、真壁が何を考えているのかは分かってしまった。
分かってしまったから、余計に厄介だった。
神殿の石床は、朝の光を受けて薄く冷えていた。
採石場の朝とは違う静けさがある。水路の音はなく、代わりに低い祈りの声が遠くで響いている。香の匂いが、空気の中に細く漂っていた。澪は靴音を抑えながら、真壁の隣を歩いた。
真壁はいつもの顔をしている。
こういう時の真壁は、本当に厄介だ。非常識なことをしに来たはずなのに、本人だけは正規の手続きを踏みに来た顔をしている。
司祭様は、祭壇の近くで二人を迎えた。
「本日は、どのようなご用件でしょう」
真壁は一歩前へ出た。
「行商人へのクラスアップをお願いしたい」
澪は隣で固まった。
「本当に言った……」
司祭様は、少しだけ目を細めた。
「行商人、ですか」
「左様」
「行商人への道は、ただ荷を持てば開くものではありません」
「承知しております」
澪は、真壁の横顔を見ながら小さく言った。
「承知している人ほど、だいたい止まらないんですよね」
司祭様は、静かに祭壇の奥へ目を向けた。
「では、適性を見ましょう」