神殿の石床は、朝の光を受けてもまだ冷たそうに見えた。
外の通りでは、店を開ける音や荷車の軋む音が動きはじめているはずだった。けれど、厚い石壁の内側では、その気配は薄く削られている。祭壇の奥から斜めに差し込む光は白く、香の匂いは細い煙のように空気へ沈んでいた。
真壁は、祭壇の前に立っている。
行商人へのクラスアップを申し出た本人なのに、姿勢はいつもと変わらない。肩に力はなく、目は静かで、まるで品のよい器を前にしている時のような顔をしていた。
澪の方が、よほど落ち着かなかった。
司祭様が、真壁へ向き直る。
「では、適性を見ましょう」
その言葉で、澪は一歩前へ出た。
「……先に見ておきます」
真壁が、ほんの少しだけ視線を動かす。
「今かね」
「今です。ジョブチェンジした後だと、何が増えたのか分からなくなります」
「合理的だ」
「真壁さんに合理的って言われると、少し嫌です」
言い返しながらも、澪は手を止めなかった。
これを先に見ておかなければ、あとで絶対に分からなくなる。真壁は、この一ヶ月であまりにも色々やりすぎた。採石場を整え、チタンを戻し、一トンの納入を終え、ハイエースを仕立て、露天風呂を作り、ジビエまで出し、最後には行商人になると言い出した。
どこまでが積み重ねで、どこからが新しい職の影響なのか。
混ざったら、負ける。
澪は、真壁へ鑑定を向けた。
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真壁久忠
分類:人間/異界漂着者
現在ジョブ:商人 Lv11
前職:指揮官 Lv14
状態:高集中/警戒/目的明確
疲労度:32%
基礎能力値:前回鑑定 七月 → 現在 八月末
体力:74 → 76
筋力:60 → 62
器用:76 → 81
知力:83 → 86
判断:93 → 95
精神:93 → 95
集中:84 → 89
既得スキル:商才 3 → 4/鑑定 9/収納 9/交渉 7 → 8/指揮 7/軍略 6/体術 4/威圧 5/異界適応 3 → 4
成長傾向:商路思考 1/拠点管理 1/荷室運用 1/高精度工程管理 1/異界側事業運営 1
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表示を最後まで読んだ澪は、すぐには声を出せなかった。
七月に見た数字とは違う。体力や筋力の伸びは控えめだが、器用、知力、集中の伸びが目につく。判断と精神は、もともと高かったのにさらに上がっている。交渉も八になっていた。
澪は、表示から真壁へ視線を移す。
「……一ヶ月で、かなり上がってませんか」
「働いたからな」
「働いた、で済む量ですか」
「一トンを扱い、採石場を整え、チタンを戻し、車を仕立て、湯を張り、道へ出ようとしている」
「並べると余計におかしいです」
真壁は、特に否定しなかった。
澪はもう一度、表示を見る。成長傾向の欄には、商路思考、拠点管理、荷室運用、高精度工程管理、異界側事業運営と並んでいる。全部、思い当たることしかないのが困る。
真壁がこの一ヶ月でやってきたことが、項目として並べられてしまうと、異常さがかえって整理されて見える。
「これは、ここ一ヶ月の成長ですね」
「そうなる」
「では、ここから先に出たものが、行商人の分です」
「よかろう」
「よかろう、じゃありません。勝手に解釈しないでください」
「鑑定の主は君だ」
「真壁さんは、鑑定される側なのに勝手に解釈しそうなんです」
司祭様は、二人のやり取りを静かに聞いていた。困った様子ではない。神殿には、いろいろな職を求める者が来るのだろう。けれど、クラスアップ前に成長差分を確認する代表取締役社長は、たぶん多くない。
司祭様は、祭壇の前へ真壁を促した。
「それでは、改めて適性を見ましょう」
「本当に見るんですね」
澪の声が、少し低くなる。
「ここまで来た」
真壁は静かに答えた。
「来たことを理由に進まないでください」
「来るには、来るだけの理由がある」
「そういう言い方をすると、全部それっぽくなるんです」
司祭様が短く祈りを捧げた。
派手な光はなかった。けれど、石床の上に淡い紋様が一瞬だけ浮かぶ。朝の光と香の匂いの中で、その紋様は水面に映った月のように揺れ、真壁の足元で静かに消えた。
澪は息を詰めた。
真壁は、眉ひとつ動かさない。
司祭様が、ゆっくりと顔を上げる。
「適性はあります」
「あるんですか」
澪は思わず言った。
真壁は、小さく息を吐く。
「ふむ」
「今、ちょっと嬉しそうでしたよね」
「適性があると告げられて不機嫌になる者は少なかろう」
「そういう一般論で隠さないでください」
司祭様は少しだけ微笑んだ。
「商人から、行商人への道が開いています」
「開かなくていい道が開きましたね」
「澪君」
「すみません、神殿で言うことではありませんでした」
「いや、心情としては正直だ」
「真壁さんが認めないでください」
真壁の表情は静かだった。けれど、澪には分かる。目の奥が少しだけ楽しそうだった。新しい道具を前にした時と同じ目だ。しかも今回は、ただの道具ではなく、職である。
嫌な予感は、正確だった。
司祭様は、祭壇の横に置かれていた薄い布を取り、真壁の前に広げた。
「行商人は、荷を運ぶ者であると同時に、道を覚える者です」
「道を覚える」
真壁が、ゆっくりと言葉を返す。
「ええ。店を構える商人が棚を見るなら、行商人は道を見ます」
「真壁さんが好きそうな言い方をしないでください」
澪が思わず言うと、真壁は否定しなかった。
「筋がよい言葉だ」
「ほら、好きじゃないですか」
司祭様は、静かに祈りの言葉を続けた。
淡い光が真壁の肩から腕へ、そして指先へ流れるように広がる。強い光ではない。朝の神殿にすでにある明るさと混ざるほどの、柔らかい光だった。香の匂いが、ほんの少し濃くなる。石床が冷たいまま、空気だけがわずかに動いた。
真壁の周囲を包んでいた光は、すぐに収まった。
外見は何も変わらない。
髪も、服も、立ち方もそのままだ。けれど、真壁は自分の手元を見ていた。いや、手元を見ているようで、実際には手の上ではないどこかを見ていた。
澪には何も見えない。
紙もない。線もない。地図らしい光もない。ただ、真壁の目だけが、神殿の石床ではない場所を追っている。
「……少し、見え方が変わったな」
「今、絶対に何か変わりましたよね」
「確認しよう」
「確認します。真壁さんが勝手に解釈する前に」
澪は、すぐに鑑定を向けた。
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真壁久忠
分類:人間/異界漂着者
現在ジョブ:行商人 Lv1
前職:商人 Lv11
前々職:指揮官 Lv14
前職影響:あり
状態:行商人クラスアップ直後/高集中/警戒/目的明確
疲労度:32%
基礎能力値:変化なし
体力:76
筋力:62
器用:81
知力:86
判断:95
精神:95
集中:89
既得スキル:商才 4/鑑定 9/収納 9/交渉 8/指揮 7/軍略 6/体術 4/威圧 5/異界適応 4
新規スキル:地図 1
注意:地図は本人の視界および意識内に表示
注意:本人が訪問済みの場所のみ表示
注意:検索可能対象は、本人と縁のある人物、取引先、商会関係者に限る
注意:未到達地点は表示されない
注意:他者による閲覧不可
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澪は、表示を一行ずつ確認した。
基礎能力値は変化なし。
そこを見て、まず息を吐く。能力値が上がったのは、やはりここ一ヶ月の結果だった。クラスアップで急に跳ねたわけではない。
それから、ジョブ欄を見た。
「行商人、レベル一」
「器が新しくなったのだろう」
「また器の話ですね」
「前職は残っている」
「商人レベル十一が消えたわけではないんですね」
「積み上げたものは失われぬ。新しい器に、前の経験が入った形だ」
「言い方は格好いいですけど、レベル一なんですよね」
「始まりとしては悪くない」
澪は表示の下へ目を移した。
既得スキルはそのまま残っている。鑑定、収納、交渉、指揮、軍略、体術、威圧、異界適応。真壁という人間の来歴が、そこに圧縮されていた。
そして、ひとつだけ新しい項目がある。
「新規スキル、地図」
真壁の目が、そこで静かに変わった。
期待はしていたのだろう。けれど、落胆はない。むしろ、どこか深く納得した顔をしている。
「まずは、目が開いたということだ」
「目?」
「行商人の目だ。悪くない」
「私には何も見えません」
「だろうな」
「そこを当然みたいに言わないでください」
司祭様は、真壁の目の動きを見て静かにうなずいた。
「最初に開いたのは、地図のようですね」
「地図、ですか」
「本人の目と意識に開くものです。他者には見えません」
澪は真壁を見た。
「つまり、真壁さんだけが見えているんですね」
「左様」
「それ、確認が難しいやつじゃないですか」
「私が説明しよう」
「一番信用したくない確認方法です」
「失礼だな」
「信用していないわけではありません。真壁さんが便利なものを見ると、必ず先へ進もうとするのを信用しているだけです」
「それは信用だ」
「嫌な信用です」
真壁は、目の前に開いたものへ意識を戻した。
最初に見えたのは、今いる神殿だった。祭壇、入口、石床の広がり。続いて、街の道が細く伸びる。リュシアの店。セルマ工房。街道の一部。採石場基地。水路。露天風呂。ハイエースを置いた場所。
行った場所だけが、薄い線でつながっていく。
それ以外は白い。
いや、白いというより、まだ意味を持たない空白だった。歩いていない場所は、地図にならない。真壁は、その仕組みにかすかな満足を覚えた。
道は、歩いた者にだけ開く。
「見えている場所は?」
澪が聞く。
「神殿。街の道。リュシア殿の店。セルマ君の工房。街道の一部。採石場基地。水路。露天風呂。ハイエースを置いた場所」
「本当に、行った場所だけなんですね」
「未踏破は空白だ」
「そこで嬉しそうにしないでください」
「地図とは、歩いた者への報酬だ」
「また格好よく言いました」
「事実だ」
真壁は、その地図の片隅に、普通の地形と違う印を見つけた。
道でも建物でもない。丸でも四角でもない。地図の中で、そこだけ空間が少し歪んでいるように見える。街でも採石場でもない。だが、確かにある。
六畳間。
あるいは、押し入れの向こう側。
真壁は、それを口にする前に、ほんの少しだけ考えた。
これは、普通の拠点とは違う。
「妙な印がある」
「妙な印?」
「街でも採石場でもない。おそらく、六畳間か押し入れの向こう側だ」
「地図に押し入れが出るの、嫌なんですけど」
澪の足元に置いていた布包みが、ほんの少しだけ存在感を増した気がした。
古い燭台の神さまは喋らない。動かない。けれど、澪には分かる時がある。今のは、絶対に反応した。
「神さま、今反応しましたよね」
返事はない。
もちろん、ない。
真壁は、その歪んだ印を意識の中で静かに見た。
「普通の拠点とは、少し違う印だ」
「深掘りしないでください」
「今はな」
「今は、も禁止です」
真壁は、少しだけ口元を緩めた。
澪は、その顔を見てさらに嫌な予感を覚えたが、ここで話を広げるともっと危ない。だから、あえて別の話に戻すことにした。
真壁が意識の中で地図の縁に触れた時、ふと別の感覚があった。
「検索できるようだ」
「検索?」
澪は嫌な響きを聞いた気がした。
司祭様が、少し考えてから答える。
「初めは、縁のある者、取引した場所、商いに関わる者に限られるでしょう」
「限られる、ならまだ安全……なんですかね」
「安全かどうかは、使い方次第です」
「司祭様、そこで真面目に返さないでください。不安が増えます」
真壁は、まず意識の中で名を置いた。
リュシア殿。
街の一角に、小さな印が灯る。リュシアの店だ。そこに彼女がいるのか、あるいは店そのものが縁ある場所として反応しているのか、初回ではまだはっきりしない。だが、印は出た。
「リュシア殿は出た」
「私には何も見えません」
「店の位置に印が出ている」
「真壁さんの自己申告だけなんですね」
「次だ。セルマ君」
今度は、工房の位置に別の印が浮かんだ。
「工房だな」
「便利そうなのに、見えないから余計に怖いです」
「便利だ」
「便利だ、で済ませないでください」
「道具は、便利であるほど扱いを問われる」
「そういうことを言う人が、たいてい一番危ないんです」
真壁は、そこで少しだけ間を置いた。
次に試すべき名は、分かっていた。
だが、軽く試すものではない。
それでも、確かめる必要があった。昨夜、火の前で口にした理由は、今も変わっていない。縮地でも転移でもない。だが、もし地図が澪を示すなら、それは最初の一歩になる。
見失わない。
その一点だけでも、意味がある。
「澪君」
「はい?」
印は、すぐ近くに灯った。
神殿の中。真壁のすぐ隣。澪のいる場所。
真壁は、ほんのわずかに息を止めた。
出た。
見失わずに済む。
それは、転移ではない。縮地でもない。戻れる力でもない。だが、戻るより前に必要なものだった。
まず、見つけられること。
「私を検索しないでください」
澪の声で、真壁は顔を上げた。
「出たな」
「出たな、じゃありません。しかも私は何も見えてません」
「少なくとも、見失わずに済む」
「見えない位置情報共有、怖さが増してます」
「商会内安全管理だ」
「言い換えないでください」
「代表取締役の所在を把握するのは、危機管理上当然だ」
「危機管理という言葉で検索される側の気持ちを消さないでください」
司祭様は、少し困った顔をした。
神殿の祭壇前で、見えない位置情報共有と商会内安全管理について言い争うことになるとは、きっと思っていなかったに違いない。
澪は腕を組んだ。
「そもそも、それ、どこまで分かるんですか」
司祭様は、真壁の様子を見ながら答えた。
「初めは、位置と向き、距離の感覚程度でしょう。強い危険が近ければ反応することもありますが、心の中や会話の内容まで映るものではありません」
「そこは安心しました」
「ただ、縁が深い者ほど、印は安定します」
「安心した直後に不安を足さないでください」
真壁は、意識の中にある澪の印を見ていた。
澪はそれに気づく。
「見ないでください」
「地図を見ている」
「私の印を見てますよね」
「見失わぬようにな」
「まだその言い方をしますか」
「必要な言葉は繰り返す」
「繰り返さないでください」
司祭様が、少し控えめに言った。
「確認しますか」
「何をですか」
「実際に動くかどうかです」
澪は、司祭様と真壁を交互に見た。
「私が動くんですか」
「あなたの印ですから」
「とても嫌な正論です」
それでも、確認しないままにする方がもっと気持ち悪い。澪は渋々、神殿の入口の方へ歩いた。石床に足音が小さく響く。朝の光が入口から入っていて、外の空気の匂いが少し混ざった。
入口近くで振り返る。
「動きました?」
真壁は、何もない空間を見ていた。
澪には何も見えない。けれど、真壁の目が、澪の動きに合わせてわずかに動くのが分かった。
「動いた」
「私には確認できないのが嫌です」
「役に立つ」
「役に立つのが問題なんです」
真壁は、そこで意識の中の地図から顔を上げた。
ふざけた顔ではなかった。
「もし君が一人で向こう側に落ちた時、探せる」
澪は返事に詰まった。
石床の冷たさが、足元から少し上がってくる。神殿の静けさが、急に近くなった気がした。
「もし街道で離れた時、戻れる。もし六畳間に異変があった時、気づける。今はまだ地図だけだ。だが、地図があるなら、道は作れる」
「そういう言い方、本当にずるいです」
「ずるくはない。必要だ」
澪は怒りたかった。
自分を検索するな、と強く言いたかった。危機管理という言葉でごまかさないでほしかった。けれど、真壁の言葉の中心にあるものは、やはり昨夜から続いている。
離れていても、見失わない。
見失わなければ、探せる。
探せるなら、向かえる。
それは、便利で、怖くて、少しだけ安心できてしまうものだった。
だから嫌だった。
澪は祭壇の方へ戻りながら、少しだけ声を落とした。
「……必要な時だけにしてください」
「相談しよう」
「今の相談、信用していいやつですか」
「努力しよう」
「駄目な返事です」
真壁は、否定しなかった。
否定しないところが、さらに駄目だった。
司祭様は、静かに言った。
「地図は、行商人の目。道は、その後に開きます」
真壁は、その言葉を意識の奥で受け取るように、地図を見た。
神殿の輪郭。街の道。リュシアの店。セルマ工房。採石場基地。水路。露天風呂。ハイエースを置いた場所。六畳間らしき歪んだ印。そして、神殿の中へ戻ってきた澪の小さな印。
すべてが、真壁の中で細い線と小さな灯りになってつながっている。
澪は、真壁の視線がどこにあるか気づいた。
「見ないでください」
「地図を見ている」
「私の印を見てますよね」
「見失わぬようにな」
澪は言い返そうとして、少しだけ止まった。
言葉の勢いが弱くなるのが、自分でも分かった。
「……必要な時だけにしてください」
「相談しよう」
「今の相談、信用していいやつですか」
「努力しよう」
「駄目な返事です」
真壁は、意識の中で地図の白い端に触れた。
まだ何も描かれていない場所だ。道も、村も、川も、森もない。ただ、真壁がまだ歩いていないという事実だけが、白いまま残っている。
真壁の口元に、静かな笑みが浮かんだ。
「まずは、歩いて地図を広げねばならぬな」
「もう次の話をしないでください」