教会の扉を出ると、朝の街はもう動き出していた。
石畳の上を荷車が軋みながら通り、店先では布を払う音がしている。焼いたパンの匂いがどこかの窓から流れ、別の路地からは煮込みの湯気に混じった香草の匂いが来た。教会の中に残っていた香の静けさが、扉を一枚越えた途端、人の声と靴音に押し流される。
澪は、眩しさに少し目を細めた。
真壁は、教会の石段を降りたところで一度足を止めた。
目が、何もない空間を追っている。
澪には何も見えない。石畳と、通行人と、荷車と、店の看板しか見えない。けれど真壁の視線だけは、その上に重なる別の何かを読んでいた。昨夜から何度も見た顔だ。便利なものを見つけた時の顔であり、面倒なことを思いついた時の顔でもある。
「地図を広げるために散歩するんですか」
澪が言うと、真壁は足元の石畳を見たまま答えた。
「散歩ではない。測量だ」
「測量って言い換えないでください」
「言い換えではない。歩いた場所だけが地図になるなら、歩くことは測ることだ」
「その理屈で街歩きを仕事にしないでください」
真壁はゆっくりと歩き出した。
教会から市場へ向かう道は、真壁の意識の中で細く伸びていく。石畳の曲がり角、壁に埋め込まれた古い井戸、荷車がすれ違うために少し広くなった場所、朝だけ開くパン屋の軒先。歩いたところだけが薄い線になり、見覚えのある場所は小さな印として沈む。
それ以外は白い。
白いというより、まだ意味を持っていない。空白ではあるが、拒んでいるわけではない。足を置けば線になる。目で見ただけでは、まだ道にならない。
真壁は、その仕組みにかすかな満足を覚えた。
「歩いた場所だけが増える。未踏破は白いままだ」
「つまり、行ってない場所は見えないんですね」
「左様。歩かぬ者に道は開かぬ。実に筋がよい」
「また嫌な方向に納得してますね」
「道とは、そういうものだ」
「道を哲学にしないでください」
澪は隣を歩きながら、真壁の横顔を見る。
地図は見えない。けれど、真壁が今どこを見ているかは分かる。角を曲がるたびに目が少し動く。井戸を通る時に、ほんのわずかに視線が沈む。荷車の列を避ける時には、通りの幅と人の流れを同時に測っているようだった。
便利なのだろう。
便利そうだからこそ、怖かった。
「私には見えない地図で予定を立てないでくださいね」
「予定は相談する」
「今の相談、信用していいやつですか」
「努力しよう」
「もう駄目な返事です」
真壁は否定しなかった。
否定しないところが、本当に駄目だった。
リュシアの店は、市場へ向かう通りの少し手前にあった。
朝の店先には、まだ客は多くない。布を掛けた木箱がいくつか並び、瓶や小物を入れた籠が軒下に置かれている。リュシアは、割れやすい物を奥へ移していた。指先で瓶の口を確かめ、布の端を直す仕草には、商品をただ並べるだけではない商人の目がある。
澪たちを見ると、リュシアは最初いつもの顔で手を上げた。
「朝から来るなんて、何かあったのかい」
「少し報告がある」
真壁がそう言うと、リュシアの手が止まった。
澪は、嫌な予感を抱えたまま口を開く。
「真壁さんが、行商人になりました」
リュシアは一瞬だけ目を丸くした。
すぐに、顔が変わった。
商人の顔だ。
「行商人? あんた、店にいる商人で収まらなくなったのかい」
「道を見る必要が出た」
「本人だけが見える地図を持ってしまいまして」
澪が補足すると、リュシアは瓶を布の上に置き、少し身を乗り出した。
「そりゃまた、厄介なものを開いたね」
「厄介ですか」
「便利なものは、たいてい厄介だよ」
「リュシアさん、もっと言ってください」
「でも、商売にはなる」
「そこで真壁さん側に寄らないでください」
リュシアは笑ったが、次の言葉は軽くなかった。
彼女は店先の木箱に腰を預け、手元の小瓶をひとつ持ち上げた。透明ではないが、薄い色つきの瓶だ。中身が完全には見えない。リュシアはその瓶を光にかざし、傷の位置を確かめながら話し始めた。
「行商人ってのは、荷を売るだけじゃないよ」
真壁は黙って聞いた。
真壁の意識の中で、リュシアの店の印がわずかに濃くなる。教会で見た時よりも安定していた。ただの場所ではなく、取引先として、顔を知る者の店として、地図の中に沈んでいる。
「道の先で何が足りないかを見て、次に何を持っていくか決めるんだ。村で小瓶が足りないなら瓶を持っていく。布が足りないなら布を持っていく。逆に、村に余った乾物があれば、街で売れるか考える」
リュシアは瓶を箱に戻した。
「店の商人は客を待つ。行商人は、客の困りごとの方へ歩く」
「歩くという行為に、需要を探す意味が乗るわけか」
「格好つけてるけど、まあそういうことだよ」
澪は、リュシアを見た。
「リュシアさんまで真壁さんに道を与えないでください」
「道はもう見えてるんだろう?」
「本人にだけですけど」
「ならなおさら危ないね。見えてる本人は、だいたい行きたがる」
「分かりすぎて困ります」
リュシアは、今度は空の木箱を指で叩いた。
「ただし、信用のない行商人は駄目だ。村は余所者に財布も倉も見せない。どこに何が足りないかなんて、知らない相手には言わないよ」
「信用が先か」
「そうさ。道に出るなら、品物より先に顔を売りな。あの人なら変な物を混ぜない、壊れた物を押しつけない、困った時に逃げない。そう思われて、ようやく倉の中の話が出てくる」
真壁は、店先の木箱と、リュシアの手元の瓶と、通りを通る荷車を順に見た。
信用もまた、道に残るものか。
そう思った。
地図に線が出るだけではない。何度も通う場所、取引のある店、顔を覚えられた相手。そういうものが印を安定させる。足だけではなく、信用が地図を濃くする。
「信用もまた、道に残るものか」
「だから格好つけてるけど、そういうことだよ。信用のある行商人は、次に何が足りなくなるかを先に教えてもらえる」
「先に、か」
「そう。足りなくなってから売るんじゃ遅い時もある。雨の前に布、寒くなる前に油、収穫前に紐。村の仕事は季節で動くからね」
澪は、だんだん嫌な顔になった。
「真壁さん、今、すごく覚えましたよね」
「有益な情報だ」
「覚えないでくださいとは言えないのが嫌です」
リュシアは肩をすくめた。
「止めるなら、荷を持たせない方がいいね」
「もう遅い気がします」
「遅いね」
「即答しないでください」
真壁は、リュシアの店の印をもう一度意識の中で見た。
ただの店ではない。
信用を置く場所。
行商人として戻るべき場所。
その感覚が、地図の上で少しだけ重くなった。
リュシアの店を出ると、市場の声が近くなった。
魚を並べる台の周りでは水が跳ね、乾物屋の前では布袋を開ける音がする。荷車の車輪が石畳の継ぎ目で小さく跳ね、子どもが割れた瓶の欠片を抱えて、誰かに叱られながら走っていった。井戸のそばでは、濡れた布袋を広げて乾かしている男がいる。
真壁は歩きながら、それらを見る。
地図には、歩いた通り、屋台の並び、井戸、倉庫裏、門へ向かう太い道が少しずつ増えていた。だが、地図とは別に、目の前の街にも線があるように見えてくる。
荷紐を探して店をのぞき込む者。
濡れた袋の口を何度も絞る者。
箱の角を押さえながら人波を抜ける荷運び。
道の上には、不足が落ちている。
「今、どのくらい広がってるんですか」
澪が聞く。
「教会からリュシア殿の店、市場の南側、井戸、倉庫裏。このあたりまでだな」
「言われても見えないのが嫌です」
「見えるものを言葉にするのも、行商人の仕事だろう」
「真壁さんの説明を会社の基礎情報にするの、危うくないですか」
「精度は上げる」
「やっぱり続ける気ですね」
真壁は、井戸のそばで足を止めかけた。
濡れた布袋を広げている男が、袋の中を指でこすり、ため息をついていた。中に入れていた何かが湿ったのだろう。近くの荷運びは箱の角を押さえながら、紐を結び直している。見れば小さなことだ。だが、運ぶ者にとっては、その小さなことが荷を駄目にする。
「見てますね」
澪が言った。
「見えている」
「地図じゃなくて、街の困りごとの方を見てますよね」
「よく分かったな」
「分かりたくありませんでした」
真壁は歩き出した。
まだ動かない。ここで手を出せば話が広がる。澪の顔が、そう言っている。
だが、道の上には、確かに商いの種がある。
セルマ工房は、市場の喧騒から少し離れた場所にあった。
扉を開けると、乾いた薬草の匂いと、煮詰めた薬液の甘苦い匂いが混ざっていた。作業台には布が敷かれ、その上に小瓶、乾いた葉、細い紐、紙片、粉の入った器がきちんと分けて置かれている。棚の端には、前に真壁が持ち込んだ透明な袋や小分けケースもあるが、セルマはそれを現代の便利品として見てはいない。
混ざるか。
濡れるか。
匂いが移るか。
工房の目は、そこを見ている。
セルマは瓶の口を布で拭いていた。真壁たちを見ると、手を止める前に、まず布を決まった場所へ置いた。
「行商人になるのね」
「止まりませんでした」
澪が言うと、セルマは少しだけ笑った。
「止まらなさそうだものね」
「道を見る職だそうだ」
真壁が言うと、セルマは作業台の上へ目を落とした。
「道を見るなら、運ぶ途中のことも見て」
その声は穏やかだが、軽くはなかった。
セルマは、乾いた薬草を入れた小さな布袋をひとつ持ち上げる。袋の口は二重に縛られ、札がついている。隣には粉の入った小瓶があり、その瓶はさらに布で包まれていた。
「行商人は、便利な物を持ってくる人じゃないわ」
「違うのかね」
「ちゃんと分けて、濡らさず、匂いを移さずに運べる人よ」
真壁は、作業台を見る目を変えた。
リュシアの店で聞いた信用の話とは、違う角度だった。こちらは、荷の内側の話だ。道の上で何が起きるか。揺れる。濡れる。混ざる。割れる。匂いが移る。それだけで、品物は品物でなくなる。
セルマは、乾いた葉を少し指先で崩した。
「薬草は、なくなるより、違うものが混ざる方が怖いの。乾いた葉に湿った葉が混ざるだけで、もう薬には使えないことがあるわ」
「なるほど。行商人とは、品を運ぶ者ではなく、品の秩序を崩さず運ぶ者か」
「急に美術館みたいにしないでください」
澪が即座に言った。
セルマは少し考え、うなずく。
「言い方は大げさだけど、そうね。混ぜないで運んでくれる人は、工房では信用されるわ」
「信用とは、荷の形を保つことでもある」
「そう。きれいな箱より、中で粉がこぼれない箱の方が大事」
「セルマさんが現場に戻してくれるので助かります」
セルマは、今度は小瓶を手に取った。
瓶はきれいだった。だが、セルマは見た目ではなく、口の広さ、栓の締まり、匂いの残りを確かめている。
「瓶は、綺麗でも前に何が入っていたか分からなければ、薬には使えないの。甘い油が入っていた瓶に、苦い粉を入れたら匂いが移る。匂いが移れば、薬師は迷う」
「迷いは、薬を曇らせる」
「曇るというより、間違えるの」
「真壁さん、また現場に戻されました」
真壁は、口元をわずかに緩めた。
「よい品は、運ばれる途中で品位を失ってはならぬ。瓶は瓶として、粉は粉として、葉は葉として、あるべき姿を保ったまま届く。それが行商人の仕事なら、悪くない」
「品位というより、混ざると使えないの」
「真壁さん、今、もう一回現場に戻されました」
「現場は常に美しい」
「美しいかどうかは知らないけど、机の上が片づいていると間違えにくいわ」
「セルマさんが強い」
セルマは澪を見て、少しだけ笑った。
「村の薬師は、小瓶が足りなくても仕事が止まるわ。布袋が湿っても止まる。紐が弱くても困る。大きな薬より、そういう小さいものがない時の方が、かえって動けないことがあるの」
真壁は、その言葉を静かに受け取った。
行商人が運ぶべきものは、珍しい品だけではない。高い品だけでもない。作業台の上で足りないもの。ないと手が止まるもの。混ざれば使えなくなるもの。道の先で、誰かの仕事を止めている小さな不足。
「売る物より先に、混ぜない運び方を考えろ、ということか」
「そうね。何を売るかは、その後でいいわ」
澪は、二人を交互に見た。
「二人とも同じことを言っているのに、言語が違います」
真壁は澪を見る。
「同じかね」
「同じです。セルマさんは『混ぜるな、濡らすな、割るな』と言っていて、真壁さんは『品位を保て』と言っています」
「品位は重要だ」
「言語が違うだけで、やっぱり同じです」
セルマは作業台の瓶を一つずつ戻した。
「行商人になるなら、売りたい物だけ見ないで。運ばれる途中のことを見て」
真壁は、深くうなずいた。
「心得た」
澪は嫌な予感を抱えたまま、その横顔を見る。
心得てしまった。
たぶん、かなり深く。
セルマ工房を出た後、真壁はしばらく黙っていた。
街の音は戻ってきた。市場の声、遠くの鍛冶の音、荷車の軋み、井戸の水音。それらの中を歩きながら、真壁の意識の中ではリュシアの言葉とセルマの言葉がつながっていた。
リュシアは、信用と道の話をした。
セルマは、荷の秩序と混入防止の話をした。
どちらも、行商人の話だった。
店にいては見えない不足がある。村の倉、工房の作業台、街道を揺れる荷箱、雨の前に湿る布袋。市場に並ぶ商品だけが商材ではない。むしろ、並ぶ前に壊れ、混ざり、濡れ、足りなくなるものがある。
「店にいては、見えぬ不足がある」
真壁が言うと、澪はすぐに横を見た。
「また始まりましたね」
「市場に並ぶ物だけが商材ではない。作業台の上で足りぬ物、瓶の中で混ざってはならぬ物、道の途中で傷む物。それらもまた、商いの地形だ」
「地形の範囲が広がってます」
「地図は道を映す。だが、行商人は道の先にある不足を見ねばならぬ」
「分かるのが嫌です」
「分かるなら、よい」
「よくありません」
真壁は、街の門へ続く道へ足を向けた。
澪は、すぐに察した。
「外には出ませんよね」
「今日は出ぬ」
「今日は、ですか」
「地図の端を見るだけだ」
「見るだけで終わる人ではないんですよ」
真壁は答えず、門へ向かった。
門に近づくにつれ、意識の中の地図は少しずつ広がった。門の内側、荷車の待機場所、井戸、簡易の荷置き場、外へ続く道の入口。だが、門の外は白い。
白いままだ。
まだ歩いていないからだ。
けれど、その白さの向こうに需要があることは、もう分かってしまった。リュシアが言った村の不足。セルマが言った小瓶や布袋や紐。道の上で傷む荷。信用のない者には見せてもらえない倉。
真壁は、白い端を見た。
「白いままですね」
澪が言う。
「歩いていないからな」
「歩かないでください」
「今はな」
「今は、も禁止です」
真壁は返事をしなかった。
「返事をしてください」
「検討しよう」
「駄目な返事が増えました」
その時、門の外から、嫌な音がした。
ぎい、と車輪が泣くような音だった。
門番が顔を向け、通りの人が少しだけ道を空ける。外から入ってきた荷車は、片側の車輪が傾いていた。車軸が歪んでいるのか、石畳に乗るたびに車体が大きく揺れる。積み荷の箱は紐で押さえてあるが、角が潰れていた。
箱の隙間から、白っぽい粉が少しこぼれている。
荷車を押している男は、額に汗を浮かべ、疲れた顔をしていた。後ろから若い者が箱を押さえているが、揺れるたびに粉がまた少し落ちる。濡れた布が箱の一部にかかっていて、粉と湿気が近すぎる。
澪は、見なかったことにしたかった。
真壁は、見てしまった。
車輪。
紐。
箱。
濡れた布。
こぼれた粉。
真壁の目が、順に追う。
セルマの声が思い出される。
薬草は、なくなるより、違うものが混ざる方が怖いの。
粉は湿気を吸うと駄目になる。
きれいな箱より、中で粉がこぼれない箱の方が大事。
リュシアの声も重なる。
行商人は、客の困りごとの方へ歩く。
品物より先に顔を売りな。
真壁は、静かに息を吐いた。
街の門の外は、まだ地図の上では白い。
けれど、白い地図の端から、困りごとの方がこちらへ来た。
「澪君。最初の行商先が来たようだ」
「向こうから来たのを行商先と言わないでください」