篠原澪は、朝の六畳間で自分用管理表を見下ろしていた。
ちゃぶ台の上には、押入商会の在庫表、鑑定練習メモ、大学の課題ノートが重なっている。その横に、昨夜つくったばかりの自分用管理表が置かれていた。睡眠、食事、水分、大学課題、異世界市場、鑑定練習、仕入れ予定、税金用メモ。商品管理の表に比べれば項目は少ないはずなのに、自分の生活を罫線で区切られると、なぜか商品の箱に入れられたような気分になる。
澪はペンを持ち、睡眠の欄に丸をつけようとして手を止めた。
昨夜は、たしかに少し早く布団に入った。第八話の反省として、睡眠不足を改善するつもりだった。だが、布団の中でスマホを開き、「百均 安全な商品」「小物 誤飲 危険」「異世界 持ち込み 危ない」などと検索していた時間を、なかったことにはできない。最後の検索語は、自分でもどうかと思ったが、睡眠欄の判定には確実に響いている。
澪は丸ではなく、三角を書いた。
「寝ようとはした。これは努力点」
誰も採点していないのに、澪は小さく言い訳した。自分用管理表は返事をしない。ただ、三角になった睡眠欄だけが静かに残る。昨日、公園で自分を鑑定した時に見えた「睡眠:不足」の文字を思い出すと、背中のあたりが少しだけ重くなった。
せめて朝食だけは改善しようと思い、澪は冷蔵庫を開けた。納豆だけで済ませるのは、今日はやめる。卵を一つ割り、インスタントスープの袋を出し、冷凍ご飯を温めた。味噌汁ではなくスープだが、温かい汁物であることには違いない。澪はちゃぶ台にご飯、納豆、卵、スープを並べ、少しだけ胸を張った。
「体調管理、できています」
言ってから、まだ一食だけだと気づいた。だが、一食でも改善は改善だった。押入商会の代表社員は一名しかいないので、代表社員が倒れたら終わる。最近、その当たり前がようやく本気で怖くなってきた。
朝食を食べ終え、食器を流しへ運んだところで、押入れの向こうから声がした。
「ミオ、いる?」
リュシアの声だった。
澪は一瞬、箸を持ったまま固まった。押入れの向こうから声をかけられる生活に慣れ始めている自分が怖い。水で手を洗い、エプロン代わりに使っていた古いシャツで手を拭いてから、押入れの襖を少し開ける。石畳の路地ではなく、リュシアの倉庫側につながっていた。赤茶色の布を頭に巻いたリュシアが、木箱の上に腰かけている。
「おはようございます」
「おはよう。ミオ、今日は顔が少しましね」
「朝食を改善しました」
「朝食?」
「納豆だけではなく、卵とスープを足しました」
リュシアは一瞬だけ分からない顔をし、それからうなずいた。
「よく分からないけど、食べたならいいわ」
「褒められた気がします」
「半分くらいは褒めたわ」
半分でも今はありがたい。澪が押入れの敷居に腰を下ろすと、リュシアは木札を何枚か見せてきた。澪には文字が読めないが、その枚数で何かが増えていることは分かった。
「カラビナ、荷運びの子に評判よ。小袋を腰に留められるし、紐をほどかなくていいって。防水ポーチは雨の日の硬貨袋として商人が興味を持ってる。ムシメガネは、薬草屋と宝石を見る人がまた欲しがってるわ」
「虫眼鏡です」
「ムシメガネ」
「はい」
訂正はした。通らないことも分かっている。澪は小さく息を吐いた。追加注文は嬉しい。嬉しいが、今日の自分用管理表には「無理しない」と書く予定だった。
「リュシア、今日は無理しない日にしようと思っていて」
「なら、無理しない範囲で見てきて」
リュシアは悪気なく言った。
澪は、無理しない範囲、という言葉が一番危ないのではないかと思った。無理しない範囲で少しだけ。無理しない範囲で一店舗だけ。無理しない範囲で追加確認。人間はその「範囲」をだいたい広げる。少なくとも澪は広げる自信があった。
「一店舗だけです」
「うん」
「昼食を食べます」
「食べて」
「帰ったらすぐ帳簿をつけます」
「それはミオの国の呪文?」
「生活を守るための呪文です」
リュシアは少し笑った。澪は自分用管理表に戻り、「仕入れは一店舗だけ」「昼食を食べる」「帰宅後すぐ帳簿」と書き足した。書いた文字を見て、守れるかどうか少し疑う。けれど、書かないよりはましだった。
百円ショップの自動ドアが開いた時、澪は買い物かごを取る前に一度深呼吸した。
今日は売れそうなもの探しではない。売っても危なくないもの探しだ。そう心の中で言ってから、買い物かごを手に取る。白い照明の下で、棚はいつも通り整然と並んでいた。値札も説明ポップもある。現代日本の売り場は、異世界市場に比べると親切すぎるくらい親切だ。だが、今日の澪には、その親切な棚が少しだけ試験会場のように見えた。
最初に向かったのは、アウトドア用品と小物収納のコーナーだった。
カラビナは前回、リュシアの反応が良かった。澪は銀色のものを一つ手に取り、開閉部分を親指で押す。ばねが戻る感触は悪くない。だが、鑑定を意識した瞬間、頭の奥に注意ラベルのようなものが浮かんだ。
軽量小物向け。
強い荷重には不向き。
開閉部の摩耗注意。
短い表示そのものは分かりやすい。けれど、分かりやすいからこそ、澪はかごに入れる手を止めた。異世界の荷運びの子が、これに重い荷袋を吊るす場面が頭に浮かぶ。腰に小物袋を留めるならいい。店先で軽い袋をまとめるのもいい。だが、木箱や人を支えるような使い方をされたら危ない。
澪はもう一度ばねの戻りを確かめ、同じ型を三つだけかごに入れた。五つではなく三つ。数を絞り、リュシアに重い荷には使わせないと念押しする。そう決めると、少しだけ胸の重さが減った。
次に小型フックを手に取る。棚や壁に掛けるだけなら便利そうだ。だが、指先で引っ張った瞬間、また注意が浮かんだ。
軽量品向け。
強く引くと外れる。
吊り荷には不向き。
澪は、異世界の露店でこれに小袋を吊るす場面を想像した。そこまではいい。だが、鍋や刃物や重い革袋を吊るされたら困る。人は便利そうなものを見ると、想定より少し重いものを掛けたくなる。少しだけなら大丈夫だろう、が一番怖い。
澪はフックを一つ戻し、数を減らした。買うには買う。ただし試験用。いきなり売るのではなく、リュシアの倉庫で使ってもらって様子を見る。
防水ポーチの前では、澪はパッケージの文字をじっと見た。防水、と書かれている。現代の感覚では、雨の日の小物入れに便利そうだ。けれど、異世界で「防水」と言えば、池に落としても無事と思われるかもしれない。澪は口の閉まり方を指で確かめ、軽く押してみた。
雨よけ向け。
水しぶきに強い。
長時間の浸水不可。
澪は、心の中で大きくうなずいた。完全防水とは言わない。雨よけ、水しぶきよけ。硬貨袋として、濡れた手で触る程度なら使える。だが、水に沈めても大丈夫とは絶対に言わない。リュシアに説明する時の言葉まで考えながら、澪は三つだけかごに入れた。
そこで、ふと気づく。
鑑定は、一度も「売れます」とは言わない。
見えてくるのは、向き不向き、危ない使い方、壊れやすさ、説明が必要な点ばかりだった。便利になったはずなのに、買える商品が増えるどころか、どんどん減っていく。澪はかごの中を見下ろし、ため息を飲み込んだ。百円ショップに来ているのに、買わない判断ばかりしている。財布には優しいが、商売には厳しい。
生活雑貨の棚で、澪はピーラーを見つけた。
野菜の皮をむく道具。異世界の屋台や料理人が見たら、かなり驚くかもしれない。刃は小さいが、使い方さえ分かれば便利だ。澪はパッケージを手に取り、持ち手の太さを確かめた。台所でじゃがいもの皮をむく自分の手元と、異世界の市場で屋台の人が根菜を削る場面が重なる。
刃が鋭い。
指を切りやすい。
子どもには不向き。
注意が浮かんだ瞬間、澪は指先を少し引いた。売れそうではある。ものすごく売れそうではある。だが、現時点の押入商会には説明責任が重い。使い方を誤れば怪我をする。替えもない。リュシアが相手を選んで売るとしても、最初から持ち込むには早い。
澪はピーラーを棚へ戻した。戻したあと、少し未練が残ってもう一度見たが、結局手は伸ばさなかった。
次に、瞬間接着剤が目に入った。壊れた小物の補修に使える。現代では普通の便利品だ。異世界なら、職人や商人が欲しがるかもしれない。澪は細いチューブを手に取った。
皮膚接着注意。
目に入ると危険。
換気必要。
澪は即座に棚へ戻した。絶対に誰かが指をくっつける。そういう未来が、かなり鮮明に見えた。自分でも、説明書を読みながらたまに怖くなるものを、異世界でいきなり売るのは無理だった。
乾電池式の小型ライトは、とても魅力的だった。暗い道、倉庫、夜の市場。使える場面はいくらでもある。澪はパッケージを持ち上げ、電池の種類を確認した。
暗所確認向け。
電池切れ注意。
強い光で目立つ。
分解危険。
交換品が必要。
澪は、リュシアが夜の倉庫でこれを使う場面を想像した。便利だ。間違いなく便利だ。しかし、売った後に電池が切れたらどうするのか。交換用電池を供給し続けるのか。子どもが分解したらどうなるのか。市場で強い光を出したら、また人が集まるのではないか。
販売品にはしない。澪はそう決めた。自分用、あるいはリュシア用の限定品としてなら検討する。かごには入れず、スマホのメモに「ライト、販売品ではなく限定」とだけ打った。
ホイッスルの前では、澪はしばらく迷った。危ない時に音を出せる。助けを呼べる。荷運びの子や、リュシアの倉庫の人間に持たせるなら役に立つかもしれない。だが、鑑定はやはり軽くはなかった。
大音量。
混乱を招く可能性。
使い方を限定すべき。
澪はホイッスルを指先で揺らした。市場で誰かが面白がって鳴らしたら、ただの迷惑になる。危険時だけというルールが必要だ。販売品ではなく安全用として少数だけ。そう決め、二つだけかごへ入れた。
反射板と蓄光シールも、棚の前で足を止めた。夜道に役立つかもしれない。けれど、異世界で不自然に光ったり反射したりするものは、目立ちすぎる可能性がある。澪はパッケージを手に取り、蛍光灯の光を受けた表面を見て、少しだけ首を横に振った。これはリュシアに相談してからだ。自分一人で決めるには、向こうの夜の見え方を知らなすぎる。
商品を手に取っては戻し、戻してはもう一度見る。澪は棚の前でかなり長く立ち止まっていたらしい。店員が近づいてきた。
「何かお探しですか?」
澪は反射的に答えた。
「危なくないものを……」
店員が少し困った顔をした。澪も同じくらい困った。
「あ、いえ、小物整理用です。あと、防災というか、アウトドアというか」
「用途に合わせてご案内できますよ」
「大丈夫です。用途が、ちょっと、まだ決まってなくて」
自分でも怪しい説明だった。店員は丁寧にうなずいてくれたが、その優しさが痛い。澪はお礼を言い、かごを抱えて別の通路へ逃げた。危なくないものを探している客。言葉にすると、かなり広い。店員さんも困るはずだった。
工具とキッチンの境目あたりで、澪はカッターの棚の前に立った。現代ではただの文房具だ。荷ほどきにも使えるし、紙も切れる。便利だ。だが異世界の市場でこれを説明なしに渡したら、小さな刃物として扱われるかもしれない。パッケージ越しに刃の部分を見た瞬間、頭の奥に鋭い注意が浮かんだ。
鋭利。
誤用危険。
子ども不可。
替刃管理が必要。
澪は伸ばしかけた手を引っ込めた。現時点では扱わない。すぐにスマホを開き、「販売禁止品リスト」と打った。タイトルが重い。けれど、軽い名前にすると自分が後で甘く見る気がした。だから、そのままにする。
次にライターを見た。火がつく。便利だ。異世界なら絶対に驚かれる。だが、棚に並んだ小さなライターを見た瞬間、澪の頭の中には市場の木造屋台、布の日除け、乾いた藁束が浮かんだ。
火災危険。
燃料切れ。
子ども不可。
管理者必要。
悪用注意。
澪はライターの前を通り過ぎた。便利でも、今の押入商会では扱えない。薬品系の棚では、消毒液や洗剤を見ただけで胸の奥が重くなった。飲用不可、皮膚注意、換気、混ぜるな危険。ポカリでさえ誤解されたのだ。薬品を持ち込んだら、たぶん説明だけで日が暮れる。それ以前に事故が怖い。
澪はスマホへ、カッター、ライター、薬品、強力接着剤、刃物系、火関係、電池交換が必要な物の一部、と入力した。商品名を入れるたびに、棚へ戻した時の指先の感触が残る。買わなかったものを記録する。これも商売なのだろうか。澪は分からなかったが、少なくとも、書かなければ後で自分が忘れることだけは分かっていた。
彫金教室のあと、澪はいつもより少し残っていた。
他の生徒たちが帰り、机の上の工具が片づけられていく。修さんは銀線を袋へ戻し、使い終わったヤスリを布で拭いていた。教室には、金属を削ったあとの細かな匂いと、換気扇の低い音が残っている。澪は自分の道具を片づけながら、何度も口を開きかけては閉じた。
「澪ちゃん、今日は金属じゃなくて、言葉の方を曲げてるね」
修さんが手元を見たまま言った。
「そんなに分かりますか」
「分かるよ。銀線より顔が曲がってる」
澪は少しだけ笑いそうになり、それでようやく声が出た。
「あの、修さん。商品って、売った後の使われ方まで考えるものですか」
修さんはヤスリを置いた。驚いた顔はしない。ただ、いつものように少しだけ間を取る。澪が逃げないように待ってくれているのが分かった。
「考えるものだよ。全部を管理できるわけじゃないけど、最低限は想像する」
「たとえば、便利だけど、使い方を間違えると危ないものは」
「相手を選ぶ。説明をつける。売らない、という選択もある」
修さんは机の端に置いた小さな薬品瓶を持ち上げた。
「同じ薬品でも、職人が使えば道具になる。知らない人が使えば事故になる。刃物もそうだね。工具として売るなら、説明と管理がいる。銀線だって、銀だから安全という話じゃない。切り口で怪我をすることもある」
澪は手元の布を握った。百円ショップの棚で、ピーラーやカッターやライターを戻した時の感覚がよみがえる。
「売った後のことまで考えると、商品が減ります」
「減るなら、それは悪いことじゃない」
「悪くないんですか」
「売れない品を減らすのも商売だけど、売ってはいけない品を減らすのも商売だよ」
澪の手が止まった。普通の声だった。修さんはいつも、怖いことを普通の声で言う。だから余計に効く。
「売ってはいけない品」
「うん。澪ちゃんが扱うなら、澪ちゃんが分かる範囲のものから始めればいい。分からないものは、分かるまで売らない。商売は、売ったら終わりじゃないから」
澪はうなずいた。異世界のことは言えない。けれど、相談したかった理由は本物だった。
修さんは片づけ終えた銀線の袋を棚へしまい、澪の顔を見た。
「それと、澪ちゃん」
「はい」
「顔に仕入れって書いてあるよ」
澪は反射的に頬を触った。
「書いてませんよね」
「書いてないけど、見える」
「それは、鑑定ですか」
「何?」
「いえ、何でもないです」
危なかった。澪は慌てて視線を下げる。修さんは深く聞かず、少しだけ笑った。
「今日は早く帰って寝た方がいい」
「はい」
「その返事、たぶん寝ない人の返事だね」
「寝ます。たぶん」
「たぶんは、よくない」
澪は小さくなった。普通の正論が刺さる。今日の修さんは、鑑定よりも正確だった。
リュシアの倉庫で、澪は買ってきたものを木箱の上に並べた。
カラビナ、防水ポーチ、小型フック、ホイッスルが少し。ライトは持ってこなかった。ピーラーも、瞬間接着剤も、カッターも、ライターも、薬品も持ってきていない。澪はそのことを説明しようとして、少しだけ緊張した。売れそうなものを買わなかった、という報告は、商人相手には少し勇気がいる。
リュシアはカラビナを手に取り、開閉部分を確かめてから、澪を見た。
「今日は少ないわね」
「少なくしました」
「売れそうなものがなかったの?」
「売れそうなものはありました。でも、売らない方がいいものも多かったです」
リュシアは不思議そうに首を傾げた。
「売れそうなのに?」
「はい」
澪は紙のメモを出した。スマホのメモを見せかけて、寸前でやめた。異世界でスマホは見せない。そこは学んでいる。代わりに、現代側で書き写した紙を広げた。
「これは、押入商会の販売禁止品リストです」
リュシアは紙を覗き込んだ。日本語なので読めないが、表情は真面目になった。
「禁止?」
「現時点では扱わない品です」
澪は、カッターのことを説明した。荷ほどきには便利だが、刃物として誤用される危険があること。替刃の管理ができないこと。ライターは火がつくが、火事が怖いこと。強力接着剤は便利だが、皮膚や目に危険があること。薬品は、こちらで薬と誤解されると取り返しがつかないこと。
リュシアは最初、少し惜しそうな顔をしていた。火を簡単につける道具や、壊れたものをくっつける薬のようなものがあると聞けば、商人なら興味を持つのだろう。だが、澪が木造の屋台、布の日除け、子ども、誤飲、替えのない部品、使い方を知らない客の話を続けるうちに、表情が少しずつ変わっていった。
「こちらにも、扱う相手を選ぶ品はあるわ」
リュシアは木箱の上にカラビナを置き、指で軽く押した。
「毒草、強い酒、刃物、薬、強い魔道具。誰にでも売るものじゃない。売る相手を間違えると、売った人の信用も落ちる」
「リュシアの市場にも、そういう考えがあるんですね」
「当たり前よ。商人は、品物だけじゃなくて、面倒も売ってるんだから」
澪はその言葉をメモしたくなった。品物だけではなく、面倒も売っている。かなり重い。けれど、たしかにそうだった。
リュシアは紙のメモをもう一度見た。読めないはずなのに、そこに書かれている重さは分かるようだった。
「ミオ、売れそうだから持ってくる、だけじゃなくなったのね」
澪は少し照れた。褒められた気がする。半分くらいは。
「鑑定が止めてくるんです」
「便利なの?」
「便利というより、注意ばかり言ってきます」
「いい目じゃない。商人向きよ」
「儲かる品は教えてくれません」
「儲かる品だけ教える目なんて、あったらみんな奪い合うわ」
それはとても怖い答えだった。澪は自分の鑑定が注意事項寄りでよかったのかもしれないと思った。少なくとも、今のところは。
リュシアはホイッスルを手に取り、不思議そうに振った。
「これは?」
「危ない時に音を出す道具です。売り物ではなく、安全用に少しだけ。使う相手を選びたいです」
「面白がって鳴らす子が出そうね」
「そうなんです」
「じゃあ、荷運びの中でも、落ち着いた子にだけね」
リュシアはすぐにそう判断した。現代知識はない。けれど、市場で誰がどう使うかを想像するのは速い。
澪はほっとした。売らない商品がある。売る相手を選ぶ商品がある。そのことを、リュシアはちゃんと分かってくれる。押入商会は、便利なものをただ持ち込む場所ではなくなってきている。その分、面倒にはなっているが、たぶん必要な面倒だった。
夜の六畳間で、澪は新しいページを開いた。
ちゃぶ台の上には、在庫表、価格表、鑑定練習メモ、自分用管理表が重なっている。さらにもう一冊、ノートを開く。ページの上に「販売禁止品リスト」と書いた時、澪は少しだけ手を止めた。大げさだ。百円ショップの商品相手に、販売禁止品リスト。けれど、名前を軽くすると、あとで自分が甘く見る気がした。
だから、消さなかった。
カッターの欄を書く時、澪は棚の前で刃を見た時の感覚を思い出した。便利だが、刃の管理ができない。替刃を供給できない。子どもが触る可能性がある。澪は理由を書きながら、ペン先に力が入りすぎて紙が少しへこんだ。
ライターの欄では、異世界の木造の屋台や布の日除け、乾いた藁束が頭に浮かんだ。火は便利だが、一度出したら戻せない。澪は「現時点では扱わない」と書き、少し迷ってから「将来、管理者がいる場合のみ再検討」と小さく足した。
強力接着剤の欄では、自分の指がくっつく想像をして顔をしかめた。薬品の欄では、ポカリを高級ポーションと勘違いされかけた記憶が重なった。あれでさえ説明が大変だったのだ。飲用不可、皮膚注意、換気、混ぜるな危険。そういうものを、今の澪が異世界へ持ち込むのは無理だった。
永遠に禁止するわけではない。信用できる相手、説明書、管理者、補充体制が整えば、いつか扱えるものもあるかもしれない。だから、澪は各欄に「現時点では扱わない」と書いた。禁止は終わりではなく、保留でもある。そう思うと、少しだけ息がしやすくなった。
最後に、澪は販売禁止品リストの下へ、商品ではない一行を書き足した。
睡眠不足のまま新商品を選ばない。
書いてから、澪はペンを止めた。これは商品ではない。自分への禁止事項だった。販売禁止品リストに、自分の状態が入り込んでいる。少し複雑な気持ちになったが、消さなかった。売ってはいけないものを決めるのも商売なら、今の自分にやらせてはいけないことを決めるのも、たぶん仕事のうちだった。
澪はノートを閉じようとして、まだ自分用管理表が開いていることに気づいた。明日の仕入れ候補を書く欄が目に入る。そこにペンを置きかけて、やめた。
代わりに、朝食の欄へ書く。
卵、味噌汁、米。
味噌汁はインスタントでもいい。米は冷凍ご飯でもいい。だが、代表社員の体調管理は必要だった。押入商会の次の商品より先に、澪自身が倒れないことを考える。そう決めて、澪はようやくペンを置いた。