押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第90話 白い地図を走る

 

「向こうから来たのを行商先と言わないでください」

 

 澪がそう言った直後、門前の荷車が、もう一度、嫌な音を立てた。

 

 ぎい、と木が泣くような音だった。片側に傾いた車輪が石畳の段差に引っかかり、荷台全体が斜めに揺れる。上に積まれていた杉小箱の角が潰れ、箱と箱の隙間から白い粉がこぼれていた。粉は石畳の上に細く散り、その上に濡れた布の端が触れかけている。

 

 澪は、見なかったことにしたかった。

 

 だが、見てしまった。

 

 荷車を押していた男は、汗で額の髪を張りつかせ、壊れた車輪とこぼれた粉を交互に見ていた。後ろで荷を押さえている若い男も、箱に手を添えたまま、どうにもならない顔をしている。

 

 真壁は、動かなかった。

 

 動かないまま、見ていた。

 

 車輪。軸。荷締めの紐。潰れた杉小箱。濡れた布。こぼれた月白石粉。

 

 その視線の順番を見ただけで、澪は嫌な予感を覚えた。これは、ただ困っている人を見た顔ではない。もう、荷の状態を読んでいる顔だ。

 

 リュシアも、いつの間にか隣に来ていた。

 

 店先で商品を扱っている時の柔らかい顔ではなかった。商人の顔だ。値段を見る顔でもあり、損を数える顔でもあり、あとで揉める場所を先に見つける顔でもある。

 

「これ、月白石粉かい」

 

 リュシアが低く言った。

 

 荷車の男が顔を上げた。

 

「はい。村の市に戻す分です。薬師と乾燥小屋に回す分で……」

 

「濡らしたら厄介だね」

 

「分かってます。分かってるんですが、車輪が……」

 

 男の声は焦っていた。

 

 彼は荷車の横へ回り込み、壊れた車輪を押さえた。車軸が少しずれている。無理に引けば、次の段差で完全に外れそうだった。

 

「村の市は今日だけかい」

 

 リュシアが聞く。

 

 男は唇を噛んでうなずいた。

 

「日暮れ前までです。次は一月後で、これが戻らないと、小瓶も紐も薬草も足りません。荷車なら三時間の道ですが、この車輪では……」

 

「三時間」

 

 澪はその数字だけで、もう駄目な気がした。

 

 今から車輪を直す。荷を積み直す。湿った物と無事な物を分ける。さらに三時間かけて村まで戻る。日暮れ前に市へ間に合わせるには、どう考えても遅い。

 

 普通なら、諦める話だった。

 

 普通なら。

 

 真壁が静かに息を吐いた。

 

「これは、待てぬ荷だ」

 

 澪は、ゆっくり真壁を見た。

 

「待てぬ荷、って言いましたね」

 

「言った」

 

「聞き間違いではないんですね」

 

「聞き間違いではない」

 

 真壁は、潰れた箱の端に落ちかけている布を指で軽く持ち上げた。濡れた布が月白石粉に触れる寸前で止まる。

 

「セルマ君なら、ここでまず怒る」

 

「いない人の怒りを代弁しないでください」

 

「混ぜるな。濡らすな。匂いを移すな」

 

「言い方が完全にセルマさんです」

 

 リュシアが、こぼれた粉と箱の中を覗いた。

 

「全部駄目じゃない。濡れたのは一部だね。けど、このまま揺らして戻れば、無事な分まで混ざる」

 

 荷車の男が青ざめた。

 

「そんな……」

 

「落ち着きな。まだ全部死んじゃいない」

 

 リュシアは男をなだめるように言ったが、その目はもう荷を分けていた。

 

 澪は、二人が同じ方向を見始めたことに気づいた。

 

 真壁は荷の構造を見ている。リュシアは値の落ち方を見ている。荷車の男は焦っている。澪だけが、ここから何が始まるのかを想像して、すでに少し疲れていた。

 

「荷は私が持つ」

 

 真壁が言った。

 

「持つって、どこに」

 

「収納だ」

 

「そうでした」

 

 澪は額を押さえた。

 

 この世界で、たまに常識が抜け落ちる。壊れた荷車を見れば、普通は荷を別の車へ積み替えることを考える。けれど、真壁には収納がある。しかも収納九だ。

 

 リュシアも、すぐに動いた。

 

「濡れた物と売れる物は分けておくよ。混ぜると値が落ちる」

 

「リュシアさんも収納でしたね」

 

「一ヶ月前に取ったからね。こういう時は便利だよ。まだ真壁ほど大きくはないけど、小物の仕分けならこっちの方が商人向きだ」

 

「収納を商人向きとか言わないでください」

 

「使えるものは使うよ」

 

 リュシアは肩をすくめ、濡れた布を別に取り、油壺の近くにあった小袋を手早く分けた。

 

 真壁は大きな箱、壊れやすい瓶の束、急ぐ薬草の包みを次々と消していく。消える瞬間は静かだった。光るわけでも、音が鳴るわけでもない。ただ、そこにあった荷が、次の瞬間には真壁の手元から消えている。

 

 澪には、それ以上は分からなかった。

 

 収納の中で何が起きているのかは見えない。ただ、真壁が荷を雑に扱っていないことだけは、手の動きで分かった。大きな箱を入れる時と、小瓶を入れる時で、指先の角度が違う。月白石粉のこぼれた箱に触れる時だけ、真壁の目が一段細くなる。

 

 リュシアは、油の匂いが移りそうな物を避け、濡れた布を自分の収納へ入れた。

 

 荷車の男は、荷が消えていくたびに口を開けた。

 

「え、あの、荷が」

 

「説明は後だ」

 

 真壁が短く言った。

 

「村まで案内できるかね」

 

「できます。道は、分かります」

 

「なら乗れ」

 

 真壁は、門の脇に停めてあったハイエースへ向かった。

 

 澪は反射的に追いかけながら、荷室を見た。荷は積まれていない。さっきまでの箱も、粉も、瓶も、布袋も、何もない。

 

「荷物を積まないなら、ハイエースは何を運ぶんですか」

 

「人と時間だ」

 

「怖い言い方です」

 

 リュシアが、少し笑った。

 

「でも正しいね。荷車で三時間の道を、一時間弱で行けるなら、運んでるのは時間だよ」

 

「リュシアさんまで詩的にならないでください」

 

「商人は時間も見るものだよ」

 

 澪は、言い返せなかった。

 

 荷車の男は、恐る恐るハイエースの後部座席に乗り込んだ。座席に座るだけで固まっている。澪はその横で、少しだけ同情した。初めて異世界側でこの車に乗る人間の反応としては、むしろ正しい。

 

 真壁は運転席に座り、ハンドルに手を置いた。

 

「荷車なら三時間。道は荒いよ」

 

 リュシアが助手席の後ろから言う。

 

「一時間を切る」

 

 澪は、思わず真壁の横顔を見た。

 

「切るんですか」

 

「速く走るのではない。止まらず、迷わず、崩さずに走る」

 

「初回から納期のある冒険にしないでください」

 

「白い地図は、走りながら描けばよい」

 

「それを格好よく言わないでください」

 

 ハイエースが、街の門を出た。

 

 

 

 

 

 門の外は、真壁の地図では白かった。

 

 街の中、教会から市場、リュシアの店、セルマ工房、門までは線がある。歩いた場所だからだ。だが、門を越えた先は、紙を置いたように白い。道らしきものは目の前にある。だが地図にはまだない。

 

 ハイエースが進む。

 

 真壁の意識の中で、白い場所に細い線が引かれていく。

 

 轍の深い街道。左手の低い石垣。小川にかかる短い橋。荷車がよく止まるらしい広めの土場。林の影。古い石の標識。道端に傾いた祠。水はけの悪いぬかるみ。車体が揺れるたびに、真壁は地図と現実を重ねた。

 

 澪には何も見えない。

 

 ただ、真壁の視線がいつもより細かく動いているのが分かった。前方を見るだけではない。轍の深さ、道端の石、枝の張り出し、濡れた土の色を拾っている。

 

 ハイエースは、荷を積んでいない分だけ軽かった。けれど、道は現代の舗装路ではない。真壁は速度を上げすぎない。石を避け、ぬかるみではわずかに減速し、橋に入る前には車体をまっすぐに整える。

 

 荷は収納にある。

 

 だが、車が壊れれば終わりだ。

 

「……これ、行商人の速度じゃないね」

 

 リュシアが窓の外を見ながら言った。

 

「私もそう思います」

 

「行商人とは、道を使う者だ。使える道具があるなら、使う」

 

「ハイエースを異世界の街道で使う前提にしないでください」

 

「もう走ってるよ」

 

 リュシアは楽しそうだった。

 

 荷車の男は楽しそうではなかった。両手で座席の端をつかみ、窓の外を見たり、真壁の背中を見たりしている。彼にとっては、荷車で三時間かけて通る道が、見慣れない箱のような車で流れていくのだ。怖いに決まっている。

 

「大丈夫ですか」

 

 澪が声をかけると、男はぎこちなくうなずいた。

 

「は、速いです」

 

「私もそう思います」

 

「でも、揺れが……少ない」

 

 それは、澪にも分かった。

 

 速いのに、乱暴ではない。真壁は急いでいるが、急かしていない。車体の揺れを殺し、道の悪い場所を避け、荷車なら一度止まるような小さな段差を、角度を変えて通っていく。

 

「驚かせる目的ではありません」

 

 澪が言うと、真壁は前を見たまま答えた。

 

「間に合わせることが目的だ」

 

「それが一番派手なんだよ」

 

 リュシアの声に、澪は深く同意した。

 

 

 

 

 

 分岐に差しかかった時、荷車の男が前のめりになった。

 

「右です。右の道を行けば、村へ早いです」

 

 真壁の地図では、右も左もまだ白い。

 

 白い道は、どちらも同じように黙っている。見えていないものに優劣はない。だが、現実の道には差があった。

 

 真壁は一瞬だけ速度を落とした。

 

 右の道は轍が深い。荷車がよく通る道だ。左の道は草が少し伸びている。近道かもしれないが、最近はあまり使われていない。リュシアも窓から見て、小さくうなずいた。

 

「右だね。商人の荷が通る道は、轍が太い」

 

「地図は万能ではない。白い場所では、人の言葉と轍を見る」

 

 真壁は右へ切った。

 

「そこで冷静なのは助かります」

 

「行商人らしくなってきたじゃないか」

 

「リュシアさん、褒めると進みます」

 

「進むために褒められている」

 

「自覚しないでください」

 

 道は少しずつ悪くなった。

 

 坂を下った先で、雨の名残らしいぬかるみが広がっていた。荷車なら車輪を取られそうな場所だ。荷車の男が息を呑む。

 

 真壁は速度を落とした。

 

 澪は、急いでいるのに、と思った。だが真壁は迷わなかった。ぬかるみの端、少し高くなった土の筋を選び、車体を斜めに逃がす。

 

「ここで車を傷めれば、残りの時間を失う」

 

 真壁が言った。

 

 澪は窓の外を見た。

 

 白い地図の上に、今このぬかるみも刻まれているのだろう。真壁だけが見ている道。真壁だけが広げている地図。その地図が広がるほど、押入商会の世界も広がっていく。

 

 嬉しいのか、怖いのか、澪にはまだ分からなかった。

 

 

 

 

 

 一時間には、少し届かなかった。

 

 それでも、荷車なら三時間という言葉を思い出せば、明らかに速かった。

 

 林を抜けた先で、布の旗が見えた。赤や黄色に染められた布が、低い竿に結ばれている。煙が上がっている。焼き物の匂いと、干し草の匂いと、人の声が混ざって流れてきた。家畜の鳴き声も聞こえる。

 

 村の市は、まだ開いていた。

 

 荷車の男が、窓に顔を寄せた。

 

「間に合った……」

 

 その声は、本当に小さかった。

 

 真壁は少しだけ目を細めた。

 

 地図の白い端に、村の入口が刻まれる。まだ村の中は白い。けれど、入口と、そこへ至る道だけが線になった。白い地図の端に、村がかかった。

 

 澪は真壁の横顔を見た。

 

「今、何か映りましたね」

 

「村の入口だ」

 

「到着前から次の仕事を見つけないでください」

 

「次どころか、これからが本番だよ」

 

 リュシアが言った。

 

「聞きたくありませんでした」

 

 ハイエースは、村の入口近くの広い土場で止まった。

 

 降りた瞬間、村人たちの視線が集まった。車を見た者は固まり、荷車の男を見た者は駆け寄ってくる。村の中は市でざわついていたが、そのざわめきの一部が、明らかにこちらへ向いた。

 

「こっちです」

 

 荷車の男は、まだ足元を少しふらつかせながらも走り出した。

 

 真壁、澪、リュシアはその後を追った。

 

 市の一角では、すでに騒ぎになっていた。木の台がいくつか空いたままになっている。そこへ置かれるはずだった荷が届いていないのだろう。村の市の責任者らしい年配の男、薬師らしい女、荷受け係、農家、職人たちが集まって、困った顔をしていた。

 

「戻りました!」

 

 荷車の男が叫んだ。

 

「荷はどうした!」

 

 責任者の男が聞く。

 

 荷車の男は真壁たちを振り返った。

 

「あの方々が……」

 

 澪は、一瞬だけ嫌な予感を覚えた。

 

 真壁が前へ出た。

 

 そして、手をかざした。

 

 次の瞬間、市の一角に棚が現れた。

 

 箱ではなかった。

 

 袋でもなかった。

 

 棚だった。

 

 細い木枠の棚が、まるで最初からそこに置かれていたかのように、地面の上に整然と立っていた。棚には小分け容器が並び、袋が並び、束ねられた紐や布袋、瓶を収めた枠まである。袋や容器には、小さな札が付いていた。

 

 澪は固まった。

 

 リュシアも固まった。

 

 村人たちも、声を失った。

 

「収納から棚を出さないでください」

 

 澪は、ようやくそれだけ言った。

 

「棚ごと出す方が、誤りが少ない」

 

「しかも、ただのラベルじゃないですよね」

 

 澪は近づいて、棚の札を覗き込んだ。

 

 そこには品名だけではなかった。

 

 重量。

 

 品質。

 

 注意事項。

 

 そして、ものによっては、本来重量より不足したグラム数まで書かれている。

 

「品名、重量、品質、注意事項って書いてありますよね」

 

「鑑定結果を基にしている」

 

「収納の中で鑑定付き在庫管理システムを作らないでください」

 

「名のない荷は、責任のない荷だ」

 

「いいことを言ってるのに、やってることが怖いです」

 

 棚の上段には、小さな袋が整然と並んでいた。月白石粉の袋だった。十グラムの小袋がいくつも並び、その下には百グラム袋、さらに下の段には一キログラムの袋が置かれている。

 

 澪は、札を読んだ。

 

品名:月白石粉

重量:10g

品質:良

注意:湿気なし/異物混入なし/薬草乾燥補助に使用可

 

品名:月白石粉

重量:100g

品質:可

注意:湿気反応微量/薬師確認後に使用可/本来重量より不足:12g

 

品名:月白石粉

重量:1kg

品質:倉庫用

注意:薬師用途不可/倉庫用湿気取りへ転用可/本来重量より不足:84g

 

「十グラムの袋だけじゃないんですね」

 

「すべてを十グラムにする必要はない」

 

「安いものは百グラムとか一キロなんですね。そこだけ現実的なのが余計に嫌です」

 

「量に合わぬ器は、品を鈍らせる」

 

「また格好よく言いましたけど、袋詰めの話ですよね」

 

 リュシアが、別の棚札を手に取った。

 

品名:青硝子小瓶

重量:140g

品質:良

注意:割れなし/口欠けなし/匂い残りなし/薬液保管可

 

品名:麻布小袋

重量:62g

品質:可

注意:外側湿りあり/内側乾燥/粉物不可/乾燥薬草の短期保管向き

 

品名:荷締め麻紐

重量:1kg

品質:良

注意:乾燥/ほつれ少/荷締め・袋口縛りに使用可

 

 リュシアは、しばらく黙った。

 

「……あんた、収納の中でここまで仕分けてたのかい」

 

「当然だ。混ぜれば価値が落ちる」

 

「品名、重量、品質、注意事項。ここまであるなら、売る時も戻す時も揉めにくいね」

 

「リュシアさんまで納得しないでください」

 

「いや、納得するよ。足りない量まで分かるなら、値引きも謝礼も話が早い」

 

「足りないグラム数まで書かないでください」

 

「揉めぬためだ」

 

 真壁は淡々としていた。

 

 別の段には、小箱と壺、薬草の束があった。村の薬師が、恐る恐る札を読む。

 

品名:杉小箱

重量:740g

品質:良

注意:底板異常なし/匂い移りなし/小瓶六本収納可

 

品名:香油壺

重量:480g

品質:良

注意:漏れなし/栓良好/香気強/薬草・粉末類と別置き推奨

 

品名:銀葉草の乾燥束

重量:50g

品質:良

注意:乾燥均一/他草混入なし/薬湯・湿布用に使用可

 

品名:苦蓬草の乾燥束

重量:45g

品質:良

注意:乾燥良好/虫食いなし/胃薬・虫除け用に使用可

 

品名:赤根草の乾燥根

重量:60g

品質:良

注意:乾燥良好/色移りなし/染料・湿布材に使用可

 

 薬師の女が、月白石粉の袋を持ち上げた。

 

「湿気の有無まで分かれているのか」

 

 荷受け係が、別の袋を覗き込む。

 

「重さが全部書いてあるぞ」

 

 村の商人らしい男が、目の色を変えた。

 

「品質が分かるなら、値を付けられる」

 

 職人が、下の段を見て声を上げた。

 

品名:鉄留め金

重量:120g

品質:良

注意:錆少/曲がりなし/小箱・荷車補修に使用可

 

品名:小釘袋

重量:210g

品質:良

注意:錆なし/曲がり少/木箱補修用

 

品名:荷札用楮紙束

重量:95g

品質:良

注意:乾燥/破れなし/荷札・薬草名札に使用可

 

品名:蜜蝋封片

重量:30g

品質:良

注意:異物混入なし/香気弱/小瓶封緘に使用可

 

品名:乾燥塩板片

重量:1kg

品質:可

注意:角欠けあり/保存食・皮革処理用/本来重量より不足:130g

 

品名:杉箱破片

重量:1.8kg

品質:再利用可

注意:釘抜き必要/小箱補修材として使用可/薬草・粉末とは別保管

 

「これ、荷が届いたというより、店が一つ来たみたいだな」

 

 誰かが言った。

 

 澪は、即座に真壁を見た。

 

「言わないでください。真壁さんが喜びます」

 

「否定はしない」

 

「喜ばないでください」

 

 リュシアは、もう動いていた。

 

 彼女は棚の前に立ち、村の責任者と薬師を前へ呼んだ。表情は完全に商人だった。さっきまで呆れていたはずなのに、もう棚を使いこなしている。

 

「これはそのまま売れる。これは濡れがあるから値を下げる。これは薬師に確認してからだね。袋に名と重さと状態があるから、揉めずに分けられる」

 

「リュシアさん、完全に使いこなしてますね」

 

「使えるものは使うよ。商人だからね」

 

 リュシアは、月白石粉の十グラム袋を薬師に示し、百グラム袋を乾燥小屋の者へ回し、一キログラム袋は倉庫用だと説明した。銀葉草と苦蓬草は薬師に確認させ、赤根草は染料屋にも声をかける。麻布小袋と荷締め麻紐には農家が集まり、鉄留め金と小釘袋には職人が寄ってきた。

 

 真壁は売り込まなかった。

 

 黙って、次の棚を出した。

 

 澪は、その様子を見ていた。

 

 これは、もうただの善意ではない。荷を助けただけでもない。リュシアが前に出て、真壁が棚を出し、村の薬師や商人や農家や職人が集まっている。この場の流れは、完全に商売になっている。

 

 押入商会の初回行商案件。

 

 その言葉が、澪の頭の中に浮かんだ。

 

「これ、もう商売になってますよね」

 

「なってるね」

 

 リュシアがあっさり言った。

 

「初荷だ」

 

 真壁も静かに言った。

 

「初荷の規模じゃありません」

 

 市の一角は、一気に賑わいを取り戻した。

 

 届かないと思われていた荷が届いた。しかも予定より早い。しかも、ただ届いただけではなく、分けられている。重さが書いてある。品質が分かる。不足分まで見える。これなら値を付けられる。これなら薬師が判断できる。これなら農家も職人も買える。

 

 村の市の責任者は、棚とリュシアと真壁を何度も見比べていた。

 

 荷車の男は、まだ信じられないような顔で立っていた。彼が失ったと思っていた荷は、全部ではないにせよ、形を変えて戻ってきた。しかも、戻る前より分かりやすくなっている。

 

 薬師の女が、月白石粉の袋を置き、真壁に向き直った。

 

「全部捨てるしかないと思っていた分も、これなら使い分けられます」

 

 真壁は軽くうなずいた。

 

「混ぜぬとは、分けることだ。分けるとは、名を付けることだ」

 

「セルマさんが聞いたら喜びますね。たぶん、同じくらい呆れます」

 

「セルマ君なら、湿気反応微量の札をもっと細かくしろと言うかもしれぬ」

 

「やめてください。収納の中の表示項目を増やさないでください」

 

 リュシアは笑った。

 

「でも、真壁。これは商人として正しいよ。値を下げる物、薬師確認がいる物、そのまま出せる物が分かる。村側も助かるし、こっちも揉めにくい」

 

「揉めぬ荷は、美しい」

 

「美しいかどうかは知らないけど、売りやすいね」

 

「リュシアさんが現場に戻してくれて助かります」

 

 澪が言うと、リュシアは片目を細めた。

 

「現場に戻さないと、真壁は棚に名前を付け始めるよ」

 

「やりそうなので言わないでください」

 

「棚にも番号はある」

 

「もうありました!」

 

 澪は本気で頭を抱えた。

 

 

 

 

 

 市が落ち着き始めた頃、村の市の責任者が真壁たちの前に立った。

 

 年配の男だった。日に焼けた顔に、深い皺がある。さっきまで慌てていたが、今はきちんと礼をする顔になっていた。隣には薬師、荷車の男、荷受け係が並んでいる。

 

「本当に助かりました。あのままなら、今日の市は半分止まっていました」

 

 責任者はそう言って頭を下げた。

 

 澪は、反射的に少し背筋を伸ばした。押入商会の代表取締役社長として、この場に立っているのだと、急に思い出したからだ。

 

 謝礼の話になった。

 

 金銭。村の産物。乾燥薬草。加工品。村の市での優先取引。次回市への招待。

 

 言葉がひとつ増えるたびに、澪の嫌な予感も増えた。

 

 真壁は、すぐには答えなかった。

 

 リュシアを見た。

 

 リュシアは腕を組み、少しだけ考えてから、商人の顔で言った。

 

「金も受ける。でも、それだけじゃ足りないね」

 

「足りないんですか」

 

 澪は思わず聞いた。

 

「この村で、次の市に店を出す許しをもらう。そっちの方が大きい」

 

 リュシアは責任者の方を見た。

 

「今日のこれは、あくまで急ぎの荷を間に合わせただけだよ。でも、次に来る時は、最初から必要な物を持ってこられる。小瓶、紐、袋、月白石粉、薬草用の紙札、蜜蝋。何がどれだけ要るか、先に分かっていれば、村も困らない」

 

 責任者は、少し目を見開いた。

 

 薬師も、隣で小さくうなずいた。

 

「次の市にも、ぜひ来ていただきたい」

 

 責任者が言った。

 

 真壁は、静かにうなずいた。

 

「承った」

 

「今、受けましたよね」

 

 澪が言う。

 

「受けたね」

 

 リュシアが言う。

 

「顔を売る、か」

 

 真壁が言った。

 

「そういうことだよ」

 

 リュシアは満足げだった。

 

 澪は頭を押さえた。

 

「謝礼が次の仕事になってます」

 

「行商人らしい」

 

「らしくならないでください」

 

 村の市では、まだ棚の前に人が集まっていた。薬師が袋を選び、農家が紐の長さを確かめ、職人が杉箱破片を手に取っている。リュシアは次の説明へ戻りかけていた。真壁は、白い地図の中に刻まれた村の入口を意識していた。

 

 まだ村の中は白い。

 

 だが、道はできた。

 

 真壁は澪を見た。

 

「澪君。次の道ができた」

 

「謝礼を仕事に変えないでください」

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