押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第91話 道が少し速い

 市の一角では、まだ人の声が重なっていた。

 

 真壁が収納から出した棚の前で、村の薬師が月白石粉の小袋を二つ並べている。札を読み比べ、湿気のない方を右へ、薬師確認が必要な方を左へ置いた。農家の男は荷締め麻紐を軽く引き、ほつれの少ない束を選ぶ。職人は杉箱破片を裏返し、釘を抜けば当て木に使えるかどうかを指で確かめていた。

 

 荷が届いた、というだけではなかった。

 

 重さが分かり、状態が分かり、使い道が見えると、人は迷わず手を伸ばす。澪はその動きを眺めながら、胸の奥に小さなざらつきを感じていた。

 

 助けた。

 

 それは確かだ。

 

 けれど、助けた品が村の仕事に組み込まれていくたび、押入商会の名前まで一緒に村の中へ入っていくように見えた。

 

 村の市の責任者が、薬師の女と荷車の男を連れて戻ってきた。責任者は日に焼けた顔をきちんと引き締め、真壁とリュシア、そして澪の前で深く頭を下げる。

 

「本当に助かりました。あの荷が戻らなければ、今日の市は半分止まっていました」

 

 薬師の女も、胸の前で手をそろえた。

 

「月白石粉を全部捨てずに済みました。銀葉草も、苦蓬草も、混ざらずに残った分が使えます」

 

 荷車の男は、まだ少し青い顔をしていたが、声だけは戻っていた。

 

「車輪を壊した時は、もう駄目だと思いました。ありがとうございました」

 

 真壁は、静かにうなずいた。

 

「荷は、届いて初めて荷となる」

 

 責任者が、感心したように目を伏せた。

 

 澪は黙っていた。ここで突っ込むと、真壁の言葉がさらにありがたい感じになってしまう。村の空気が、真壁の言い回しを変に受け止めてくれるのが問題だった。

 

 責任者の合図で、村人たちがいくつかの品を運んできた。

 

 乾いた薬草の包みから、青く苦い匂いが立つ。淡い黄色の蜜蝋片は布袋の中で小さく擦れ、村織り麻布は素朴だが目が詰んでいた。燻製兎肉を包んだ油紙からは、香草と煙の匂いが漏れている。土を払った保存用根菜、白く乾いた塩板片、小さな革袋に入った硬貨も並べられた。

 

 澪は、それらを見てから、リュシアを見た。

 

 リュシアの顔が、礼を受ける顔から、仕入れを見る顔に変わっていた。

 

「リュシアさん、それ謝礼を見る顔じゃなくて、仕入れを見る顔です」

 

「よく見てるね」

 

「認めるところですか」

 

「村は金だけで払うとは限らないよ。むしろ、産物の方がありがたい時もある」

 

「ありがたい、ですか」

 

「街で売れるからね」

 

「今、値札が見えてますよね」

 

「少しね」

 

 リュシアは悪びれない。

 

 真壁が、村織り麻布を手に取った。指で織り目を確かめ、端の織りムラを一度だけ撫でる。

 

「品は道を持つ」

 

 澪は真壁を見た。

 

「今の“道”は比喩ですか。事業計画ですか」

 

「両方だ」

 

「返事が一番怖いやつです」

 

 リュシアが、燻製兎肉の包みを少し持ち上げる。

 

「これは売れるね」

 

「判断が早いんですよ」

 

「香草の匂いがいい。酒場なら話が早い」

 

「もう持ち込み先まで出てる」

 

 責任者は、そのやりとりを聞きながら、少し身を乗り出した。

 

「次の市にも、ぜひ来ていただきたい。出店の場所はこちらで用意いたします。今日のことは村の者が見ていますから」

 

 澪は足元の土を見た。

 

 また、話が前へ進んだ。

 

 真壁はすぐには答えなかった。責任者の顔を見て、薬師の女を見て、まだ棚の前に集まる村人たちを見ている。その沈黙の間に、澪は真壁が何を測っているのかを少しだけ分かってしまった。

 

 一度きりの礼ではない。

 

 次に来る場所。次に必要な物。次に守るべき信用。

 

「場所をもらえるなら助かるね」

 

 リュシアが半歩前へ出た。

 

「ただ、次に来る時は、今日みたいな間に合わせじゃなく、先に必要な物を聞いてからの方がいい」

 

「聞いてから来てくださるのですか」

 

「行商人は、そういうものだろう?」

 

 リュシアが真壁を見る。

 

 真壁は静かにうなずいた。

 

「不足を知らねば、荷は選べぬ」

 

 責任者は深く頭を下げた。

 

 澪は、その姿を見て、反論の言葉を探した。けれど、うまく見つからなかった。村の人たちは助かっている。リュシアは売れる物を見ている。真壁は次の道を見ている。筋は通っている。

 

 筋が通っている話は、止めにくい。

 

 ただ、澪にはまだ、その筋の先で生きていく覚悟まではなかった。

 

 

 

 

 

 村を出る支度を始める頃、真壁は村の産物の一部をリュシアへ渡す分として取り分けた。

 

 大きな棚は出さなかった。

 

 そこは、澪も少し安心した。少しだけだった。なぜなら、真壁の手元には、すでに小袋や包みが整然と並んでいたからだ。

 

 乾燥銀葉草は百グラムずつ。蜜蝋片は五百グラム。村織り麻布は扱いやすい分量にまとめられ、燻製兎肉は油紙ごと重さを測られている。保存用根菜は三キロごとの袋になっていた。

 

 そして、それぞれに札が付いていた。

 

 澪は一枚を見た。

 

品名:乾燥銀葉草 重量:100g 品質:良 注意:乾燥均一/他草混入なし/街側薬師向け

 

 隣にも同じ調子で並んでいる。

 

品名:蜜蝋片 重量:500g 品質:良 注意:異物混入なし/封緘・灯火用に使用可

 

品名:村織り麻布 重量:1.2kg 品質:可 注意:端に織りムラあり/袋材・包み布向き

 

品名:燻製兎肉 重量:800g 品質:良 注意:乾燥良好/香草風味/早めの販売推奨

 

品名:保存用根菜 重量:3kg 品質:可 注意:小傷あり/食用可/長期保存は不向き

 

「真壁さん」

 

「何かね」

 

「作業が早いです。謝礼が包装済み商品になるまでの時間が短いです」

 

「店で扱うなら、分けておいた方がよい」

 

「理屈が正しいのがまた困るんですよ」

 

 リュシアは乾燥銀葉草の袋を持ち上げ、札を読んでいた。最初だけ呆れた顔をしたが、すぐに目が変わる。どこへ置くか、誰に声をかけるか、いくらなら売れるかを考える顔だった。

 

「これだけ書いてあるなら、店に並べやすいね」

 

「便利に慣れる速度が早すぎます」

 

「便利なものには慣れるよ」

 

「商人の順応性が怖い」

 

 リュシアは燻製兎肉を別に置いた。

 

「これは酒場に話を持っていける。香草風味なら早いね。蜜蝋は工房と薬師。銀葉草はセルマにも見せたい。根菜は小傷ありなら値を少し抑えて、まとめ買い向きにする」

 

「リュシアさん、今の十秒で販売計画が三本立ちました」

 

「三本で済ませたよ」

 

「済ませた扱いなんですか」

 

 真壁が満足げにうなずいた。

 

「よい商人だ」

 

「褒める方向が完全に同業者です」

 

「共同で扱うからね」

 

 リュシアは小袋を並べ直し、真壁と澪を見た。

 

「売れた分は半分ずつ。こっちで値付けと店売りをする。そっちは運びと仕分け」

 

「折半の決まり方が、会社の会議より早いです」

 

「遅くすると揉める。商売は、終わった後の分け方で揉めるんだよ。最初に決めておいた方がいい」

 

「急に実務が強い」

 

「実務だからね」

 

「明快だ」

 

 真壁が言う。

 

「真壁さんも納得する速度が行商人です」

 

 リュシアは笑い、袋を自分の収納へ入れていった。真壁ほど大きくはない、と本人は言うが、手つきに迷いがない。店で売る物、セルマに見せる物、日持ちしない物、後で値を決める物。それぞれが、リュシアの中で場所を持っていく。

 

 澪は、真壁の手元に残った控えと、リュシアの収納へ消えていく袋を見比べた。

 

 運ぶ人がいる。売る人がいる。買う人も、たぶんいる。

 

 困ったことに、全部つながっている。

 

「……筋が通ってるのが腹立ちます」

 

「腹を立てるところかい?」

 

 リュシアが笑う。

 

「止めにくくなるんです」

 

 真壁は、紙に村の名を書き足した。

 

「止める理由が弱いということだな」

 

「そういうところです」

 

 澪はそう返したが、声にはいつもの勢いが少し足りなかった。

 

 真壁は迷っていないように見える。

 

 けれど、本当に迷っていないのか。それとも、迷えるほど道を持っていないのか。

 

 その違いを、澪はまだ聞けなかった。

 

 

 

 

 

 帰りのハイエースは、荷室がほとんど空だった。

 

 荷車の男は村に残った。市の責任者や荷受け係に説明し、残った荷の整理をしなければならない。真壁と澪とリュシアだけが乗り込み、村の入口を後にした。

 

 夕方の光が、街道の土を斜めに照らしている。

 

 澪は後部座席から窓の外を見た。行きは、見知らぬ道だった。門の外は真壁の地図にも白く、荷車の男の案内と、轍と、リュシアの勘を頼りに進んだ。

 

 今は違う。

 

 澪には見えない。

 

 けれど、真壁の中には、もうこの道がある。

 

 ハイエースが走り出してすぐ、澪は違和感を覚えた。

 

 揺れが少ない。

 

 真壁が飛ばしているわけではない。エンジン音はむしろ落ち着いている。速度も無理に上げていない。けれど、止まらない。小さな迷いがない。行きに少し跳ねた場所で、車体が先に逃げる。ぬかるみの手前で自然に角度を変え、橋の前では速度がすっと落ち、渡り終えるとすぐに戻る。

 

 真壁の視線は、道の先を拾っていた。

 

 轍の深さ。ぬかるみの端。橋の板の継ぎ目。分岐の石の標識。林から落ちた枝。坂に入る前の土の色。

 

 一度通った道の線と、現実の道が真壁の中で重なっているのだろう。澪には見えないが、運転の滑らかさだけは分かる。

 

「……早くないですか」

 

 真壁は前を見たまま答えた。

 

「道を覚えた」

 

「それだけですか」

 

 リュシアが窓の外を見ながら、目を細めた。

 

「違うね。速いんじゃない。詰まってない」

 

「表現が的確すぎます」

 

「止まってないし、迷ってない。こういうのは速いよりいい」

 

「それ、商人の評価ですよね」

 

「もちろん」

 

 車は急いでいる感じがしない。だが、無駄に止まらない。行きに荷車の男が迷いながら指した分岐も、真壁は自然に進んだ。ぬかるみを避ける時も、橋を渡る時も、まるで先に道が手元へ来ているようだった。

 

「速さとは、乱暴に進むことではない。止まらぬことだ」

 

「真壁さん、今のは名言風の運転技術です」

 

「実用だ」

 

「実用なら余計に強いです」

 

 リュシアが笑った。

 

「でも、商人にはそっちの方が大事だよ。速く走って荷を壊すより、止まらずに着く方がいい」

 

「二人とも同じ方向を見てるのが分かってきました」

 

「いいことじゃないか」

 

「代表取締役としては、胃に来るいいことです」

 

 ハイエースは、行きよりも静かに街道を戻っていく。

 

 澪は時計を見た。まだ決定的な差ではない。それでも、積み重なる小さな差がある。止まるはずのところで止まらない。揺れるはずのところで揺れない。迷うはずのところで迷わない。

 

 便利なものは怖い。

 

 しかも、真壁が使う便利なものは、だいたい商売と安全と次の仕事に結びつく。

 

 澪は窓の外へ視線を戻した。

 

 真壁は、これを生きる道として見ているのかもしれない。

 

 江古田に部屋はある。食器も、寝る場所も、現代の服もある。けれど、それは真壁がこの世界に根を下ろしたという意味ではない。彼にはこちら側の過去がない。大学も、履歴書も、親に説明できる人生もない。

 

 だから、押入商会が道になる。

 

 そう考えた瞬間、澪は少しだけ息を詰めた。

 

 自分には、まだ戻る場所がある。

 

 真壁には、作るしかない場所がある。

 

 その違いを、澪は今までちゃんと見ていなかった。

 

 

 

 

 

 街へ戻った時、帰りは行きより少し短く済んでいた。

 

 真壁は無茶をした様子がない。車体も乱れていない。リュシアも、行きより疲れた顔をしていない。むしろ、窓の外を見ながら何かを考えている顔だった。

 

 人目につきにくい場所にハイエースを停めると、澪は真壁の前に立った。

 

「……見ます」

 

「必要あるまい」

 

「必要がある時の顔を、今しています」

 

 リュシアが横で笑った。

 

「鑑定される顔ってあるのかい」

 

「真壁さんの場合はあります。何か増えている時の静けさです」

 

「ひどい評価だ」

 

 真壁はそう言ったが、抵抗はしなかった。

 

 澪は息を整え、真壁を見る。

 

 鑑定の感覚が、目の奥で開いた。

 

----------------------------------

真壁久忠

分類:人間/異界漂着者

現在ジョブ:行商人 Lv2

前職:商人 Lv11

前々職:指揮官 Lv14

前職影響:あり

状態:高集中/移動後/地図更新中

疲労度:28%

基礎能力値:変化なし

体力:76

筋力:62

器用:81

知力:86

判断:95

精神:95

集中:89

既得スキル:商才 4/鑑定 9/収納 9/交渉 8/指揮 7/軍略 6/体術 4/威圧 5/異界適応 4/地図 1

新規スキル:移動加速 1

注意:移動加速1は、移動時の無駄を軽減する。速度上昇は軽微。停止回数、迷い、疲労、荷揺れを減らす。

----------------------------------

 

 澪は、しばらく黙った。

 

 やっぱり出ている。

 

 しかも、名前がよくない。真壁に渡してはいけない言葉が、何の遠慮もなく鑑定結果に出ている。

 

「取れちゃってるじゃないですか」

 

「初荷を終えたからだろう」

 

「受け止め方が穏やかすぎます」

 

 リュシアは、鑑定内容を聞いて納得したようにうなずいた。

 

「荷を運んで、道を覚えて、時間に間に合わせた。行商人としては、まあ正しいね」

 

「納得する速度が商人なんですよ」

 

「これは納得するよ。行商人が初荷を終えて、道に関わる力が伸びたんだ。変じゃない」

 

「変じゃないのが問題です」

 

 真壁は、鑑定表示の内容を聞いて、少しだけ目を細めた。

 

「移動加速、か」

 

「名前だけで真壁さん向けすぎます」

 

「よい名だ」

 

「ほら、気に入りました」

 

 その言葉に、真壁はほんの少し笑った。

 

 派手に喜んではいない。だが、価値を理解している顔だった。澪はそれが一番困る。

 

「速くなるって言っても、馬鹿みたいに走る力じゃないんだろうね」

 

 リュシアが言った。

 

「おそらく、無駄が減る」

 

 真壁は帰り道を思い出すように言った。

 

「止まる前に道の悪さが分かる。曲がる前に車体の向きが整う。橋の前で、落とす速度が少なくて済む」

 

「なら当たりだよ。荷を揺らさず、疲れを減らして、同じ道を少し早く行ける。行商人には十分すぎる」

 

「地味に強い、という一番厄介なやつです」

 

「派手な力より商売向きだね」

 

「商売向きなのが、また厄介です」

 

 真壁は、街の外へ続く道の方を一度見た。

 

 その目には、澪には見えない地図があるのだろう。村から街へ戻る線。橋、ぬかるみ、分岐、標識。そこへ、移動の無駄を減らす感覚が重なる。

 

「道は、少し速くなるらしい」

 

「真壁さん、道を成長コンテンツみたいに言いましたね」

 

「違うのかね」

 

「違うと言いたいのに、鑑定結果が邪魔をします」

 

 澪の声には、疲れと諦めが混じっていた。

 

 移動加速一。

 

 派手ではない。空を飛ぶわけでも、消えて移動するわけでもない。けれど、真壁の行動範囲を静かに広げる力だった。

 

 怖いのは、スキルそのものではない。

 

 その力が、真壁の生きる場所を少しずつ形にしていくことだった。

 

 

 

 

 

 リュシアの店に戻る頃には、通りの光が夕方の色に変わっていた。

 

 店先では、布を畳む音と、木箱を動かす音がする。リュシアは入口の台を空け、真壁から受け取った村の産物を並べ始めた。乾燥銀葉草、蜜蝋片、村織り麻布、燻製兎肉、保存用根菜、乾燥塩板片。どれも袋詰めされ、札が付いている。

 

 リュシアは完全に店の顔だった。

 

「売れた分は半分ずつ。こっちで値付けと店売りをする。そっちは運びと仕分け」

 

「ちゃんと商売になってる……」

 

 澪は、店の台に並ぶ袋を見ながらつぶやいた。

 

「初荷の後始末だ」

 

 真壁が言う。

 

「後始末が商流になっています。普通の顔で言わないでください」

 

「商流って言葉、嫌いじゃないね」

 

 リュシアが反応した。

 

「拾わないでください。いま私の逃げ道として出した言葉です」

 

 真壁は、預けた品の控えを紙に書いていた。村の名前、品名、数量、品質、リュシアへの預け分、折半の条件。澪はその手元を見る。ちゃんと会社の控えになっている。

 

 これはもう気分ではない。

 

 記録された商売だ。

 

「本当に折半でいいんですか」

 

「あんたたちは運んだ。仕分けた。次の道も作った。私は街で売る。半分でちょうどいいよ」

 

 リュシアは、蜜蝋片の袋を店の奥へ運びながら言った。

 

「乾燥銀葉草はセルマに見せる。燻製兎肉は早めに酒場へ。麻布は袋材に使いたい店に声をかける。根菜は長期保存向きじゃないから、値を間違えないようにする」

 

「もう売る先が決まってる……」

 

「全部じゃないよ。決まってない分を、これから決めるんだ」

 

「未定部分まで前向きです」

 

 真壁は、控えの紙を一枚澪へ渡した。

 

「押入商会控えだ」

 

「こういうところだけ会社として丁寧なんですよね」

 

「会社だからな」

 

「そうでした。逃げ場のない正論でした」

 

 澪は紙を受け取った。

 

 紙は軽い。

 

 けれど、手の中に残る重さは、紙の重さではなかった。

 

 真壁は、この控えを自然に作る。リュシアは、自然に売り先を考える。村の責任者は、自然に次の市の場所を用意すると言った。

 

 自分だけが、まだそこに立つ準備をしていない。

 

 澪は、そのことを誰にも言わなかった。

 

 

 

 

 

 江古田の六畳間に戻ると、畳の匂いがした。

 

 エアコンの低い音が部屋の中に残っている。押し入れの戸は何事もなかったように閉じていて、古い燭台の神さまは布に包まれたまま、いつもの場所に収まっていた。

 

 澪は靴を脱ぎ、六畳間へ上がった瞬間、肩の力が抜けた。

 

 異世界の土埃も、市の声も、ハイエースの揺れも、ここにはない。ないはずなのに、手の中にはリュシアとの控えがあり、真壁は隣で村の名前と次回市の日付をメモしている。

 

「江古田に戻ってきたのに、話が全然終わった気がしません」

 

「道ができたからな」

 

「現代側で聞くと、道という言葉が急に重いです」

 

 古い燭台の神さまが、どこか満足げに見えた。

 

 もちろん喋らない。動かない。光もしない。けれど、澪にはそう見えた。

 

「神さまも納得顔をしないでください」

 

 返事はない。

 

 澪は鞄を置こうとして、床に出しっぱなしになっていた大学の資料に気づいた。履修関係のプリントの端が少し折れている。持ち物のメモもある。日付も、そこに普通に印刷されていた。

 

 真壁の手元には、村の市の控えがある。

 

 澪の足元には、大学の資料がある。

 

 真壁の紙には、異世界で生きるための道が書かれていた。

 

 澪の紙には、まだ学生として戻れる日常が書かれていた。

 

 その二つが、同じ六畳間の床にある。

 

 澪は、しばらく見比べた。

 

 どちらかを選んだわけではない。

 

 けれど、どちらにも明日が続いている。

 

 澪は大学の資料を拾い上げ、深く息を吐いた。

 

「……明日から大学です」

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