押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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超難産でした。
澪が反発ばかりする子になってメンタル心配。
真壁はchatgpt先生に相談します。


第92話 知らぬ戦場

 

 朝の六畳間には、まだ畳の匂いが残っていた。

 

 エアコンの低い音がしている。押し入れの戸は何もなかったように閉じ、古い燭台の神さまは布に包まれたまま、いつもの場所にいる。机の端には、前の夜に澪が拾い上げた大学の資料が重ねて置かれていた。

 

 鞄の口は開いている。

 

 学生証、筆記用具、財布、スマホ、充電器。履修関係のプリントは一度入れて、また出して、もう一度入れ直した。澪はそのたびに、紙の端を指でそろえた。何度も確認しているのに、何か忘れているような気がする。

 

 台所から、軽い朝食の匂いがした。

 

 焼きすぎていないパンと、温かい飲み物。真壁にしては量が控えめだった。異世界側で荷を運ぶ時のように、必要なものを必要なだけ並べた、という感じがする。

 

「真壁さん、今日、本当に異世界の話をしないんですか」

 

 澪は鞄の肩紐を持ったまま、少し探るように真壁を見た。言われないと不安で、言われたら言われたで困る。自分でも面倒な反応だと思ったが、真壁が黙っている朝というものに、まだ慣れていなかった。

 

 真壁は皿を置く手を止めずに答えた。

 

「今日は、大学へ戻る日だ。余計な荷を積む日ではない」

 

「それ、ちょっと気に入ってますよね」

 

 軽く茶化すと、胸の奥の硬いものが少しだけ緩んだ。真壁がいつもの真壁らしい言い方をしてくれると、大学へ行く前の自分に戻れる気がした。

 

「便利な言葉だ」

 

「便利にしないでください」

 

 澪はそう返したが、声は軽かった。止めるための言葉ではない。いつもの調子に戻るための、取っ手のような言葉だった。

 

 昨日までの異世界の土埃、村の市、リュシアの店、移動加速という鑑定表示が、まだ頭のどこかに残っている。けれど、今は靴を履いて、駅へ向かい、大学へ行く。その順番だけを守ればいい。

 

 真壁は、リュシアの名前も、次回市の話も、移動加速の話もしなかった。

 

 玄関で、澪が靴を履く。

 

 本当は何か言われるかと思った。地図だとか、安全だとか、帰りの時間だとか。真壁なら、言いたいことはいくらでもあるはずだった。

 

 だが、真壁はそれらを口にしなかった。

 

「行ってらっしゃい」

 

 澪は少しだけ止まった。

 

 その言葉が、思ったより普通だった。普通すぎて、かえって胸に触れた。異世界でも会社でもなく、ただ大学へ行く人間として送り出された気がした。

 

「……行ってきます」

 

 返事が少し小さくなったのは、照れたからだ。そういうことにして、澪はドアを開けた。

 

 外の空気は、思ったより普通だった。

 

 大学へ向かう道も、電車の音も、駅の階段も、何も変わっていない。変わっていないのに、澪の鞄の中には大学資料があり、頭の中には押入商会の控えが残っている。

 

 それでも、澪は自分に言い聞かせた。

 

 今日は大学の日です。

 

 そう言うと、少しだけ歩きやすくなった。

 

 

 

 

 

 火曜の教室は、夏休み明けのざわつきに満ちていた。

 

 椅子を引く音、プリントを回す音、誰かが小声で「後期、急に重くない?」と言う声。澪は前から三列目の端に座り、配られた資料を受け取った。

 

 専門ゼミ第1部。

 

 その文字を見た時、澪は少し背筋を伸ばした。二年次の後期から、ただ講義を聞いて終わる科目ばかりではなくなる。資料を読む。まとめる。問いを立てる。次回までに発表の準備をする。教員の説明は穏やかだったが、手元の紙は穏やかではない。

 

 履修登録の確認画面も開いた。

 

 他学科科目の一覧がある。興味のある名前もある。学部横断型プロジェクトの説明もある。面白そうだと思う自分がいる一方で、押入商会のことが頭の端で小さく音を立てた。

 

 村の次回市。

 

 リュシアとの折半。

 

 真壁の移動加速。

 

 大学の履修表の上に、異世界側の紙が透けて見えるような気がして、澪はスマホの画面を一度閉じた。

 

 隣の席の学生が、別のプリントを回してくる。

 

「これも今日中に見といた方がいいって」

 

「ありがとう」

 

 澪は笑って受け取った。声は自然に出たと思う。けれど、受け取った紙を机に置く瞬間、また箱が一つ増えた気がした。

 

 一枚なら読める。二枚でも読める。けれど、三枚、四枚と重なると、履修の箱、ゼミの箱、プロジェクトの箱、提出物の箱が頭の中に並び始める。そこへ、押入商会の箱まで開きかける。

 

 澪はシャープペンを持ち直した。

 

 今日は大学の日です。

 

 またそう言い聞かせて、メモを取った。

 

 夜、江古田の六畳間に戻ると、机の上に大学の資料が広がった。澪は鞄からプリントを出し、一枚ずつそろえた。真壁は、異世界側の控えをわざと机の端から退けている。リュシアの店の話もしない。

 

 代わりに、学費関係の封筒だけを見た。

 

「学費の支払期限は見ておきたまえ。未払いの不安は、目に見えぬ重石だ」

 

「大学から帰ってきた日に、そこも来ますか」

 

 澪は封筒を見て、少しだけ顔をしかめた。忘れたかったわけではない。だが、大学の紙を広げた途端に現実のお金まで並ぶと、机の上が急に狭くなる。

 

「よい朝に似合わぬものは、前の晩に退けておく方がよい」

 

「言い方は変ですけど、正しいです」

 

 正しい、と認めるのは少し悔しかった。けれど、未払いの封筒を鞄の奥に入れたまま大学へ行くよりは、ここで一度確認してしまった方が軽い。それも分かってしまうから、澪は封筒を引き寄せた。

 

 封筒を開くと、紙の端に支払期限が印字されていた。数字を見るだけで、ぼんやりしていた不安に輪郭ができる。輪郭ができると、怖さは少し減る。代わりに、現実になる。

 

 会社の金ではない。自分の個人口座から払うものだ。税金分は残す。奨学金は残高と条件を見てから。明石さんに確認する。真壁はそれ以上、長い話にはしなかった。

 

「会社の金と澪君の金を混ぜるのはよくない。粉と香油を同じ箱に入れるようなものだ」

 

「急にセルマさん寄りの比喩になりましたね」

 

 澪は思わず少し笑った。会計の話なのに、頭の中にセルマの工房と薬草の匂いが浮かんだせいだった。現実のお金の話が、ほんの少しだけ扱える形に変わる。

 

「混ぜれば、あとで匂いが残る。会計も同じだ」

 

「そこは明石さん案件ですね」

 

 そう言うと、難しいことを全部ひとまず箱に入れられた気がした。自分だけで抱えなくていい。明石さんに確認する箱。そこへ置いていい。

 

「悪くない判断だ」

 

「褒め方が、鑑定品を見てる時みたいです」

 

 澪は封筒を大学資料の横に置いた。やることは増えたが、置き場所は分かった。少なくとも、会社の紙と学費の紙が同じ山に入ることはない。

 

 そのことだけで、少しだけ机が広くなった気がした。

 

 

 

 

 

 水曜の昼、澪はスマホの履修登録画面を開いて、閉じた。

 

 学部横断型プロジェクトの説明は、思ったより面白かった。異なる学部の学生が集まり、テーマを決め、調査して、発表する。普通なら、少し前向きに悩める話だった。

 

 けれど今の澪には、選択肢が増えるほど、決める箱が増える。

 

 他学科科目も同じだった。選べる。選べるから迷う。迷うから時間が必要になる。時間が必要になると、押入商会の方で使う時間が頭に浮かぶ。

 

 昼休みのベンチで、澪はスマホを膝の上に置いた。

 

「大学に戻れば普通に戻れると思ってたんですけど」

 

 誰に言うでもなく、小さくつぶやいたあと、澪は少しだけ目を伏せた。大学は逃げ場ではなかった。ここにも、ここの重さがある。それを嫌だと思ったわけではない。ただ、自分が勝手に「普通」と呼んでいたものが、こんなに手間と選択でできていたのだと、今さら気づいた。

 

 普通は、思ったより重かった。

 

 夜、六畳間で澪は資料を広げた。スマホには履修表、机には専門ゼミのプリント、横には学費の封筒がある。真壁は少し離れて座り、何も言わずに様子を見ていた。

 

「疲れてるわけじゃないんです」

 

 澪は先に言った。

 

 疲れている、と言われるのが嫌だった。そう言われると、休めば済む話にされてしまいそうだった。今のこれは、たぶんそういうものではない。

 

「そうか」

 

「本当に疲れてるわけじゃないんです。ただ、どこから手をつけるかが分からないだけで」

 

 説明しながら、澪は自分でも少しほっとした。言葉にすると、少なくとも「何も分からない」ではなかった。手が止まっている場所だけは見えた。

 

 真壁は少しだけ目を細めた。

 

 澪は気づいた。

 

「今、見ましたね」

 

 見られた瞬間、少しむっとした。けれど、見てほしかった気持ちもどこかにあって、それが余計にむっとさせた。

 

「確認した」

 

「私を荷物みたいに確認しないでください」

 

 軽口にして出した。軽口にしないと、真壁が心配していることを正面から受け取ってしまいそうだった。

 

「荷物ならば、もう少し分かりやすい」

 

「今の返し、ひどくないですか」

 

 澪は眉を寄せたが、少しだけ笑いそうにもなった。ひどい。けれど、真壁らしい。そう思えるうちは、まだ大丈夫だとも思った。

 

 真壁は否定しなかった。

 

 澪の目の奥で、鑑定の表示ではなく、真壁の鑑定を受ける感覚が一瞬だけ通り過ぎる。見られるのは落ち着かない。けれど、真壁の表情はいつものように静かだった。

 

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篠原 澪

分類:人間/異界渡航者

役割:押入商会代表/育成計画実行者

現在ジョブ:商人

レベル:14

状態:思考過多/軽度緊張/役割負荷/大学再開週

疲労度:34%

身体異常:なし

異界適応:安定

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「疲労度だけなら高くはない。だが、数値に出ぬ歪みというものはある」

 

「人を陶器みたいに見ないでください」

 

 澪は反射的に返したが、その言葉の奥に少しだけ引っかかるものがあった。陶器。器。罅。真壁の言い方は大げさなのに、今の自分には少しだけ当たっている気がした。

 

「よい器ほど、罅は早く見つけねばならぬ」

 

「そういう言い方、ずるいです」

 

 澪はそれ以上、強くは言えなかった。大げさだと笑い飛ばしたかったのに、真壁が本気で見ているのが分かったからだ。

 

 疲れているわけではない。

 

 それは本当だった。

 

 けれど、机の上の紙を見ていると、頭の中でどれから開ければいいのか分からなくなる。紙そのものは読める。説明されれば分かる。分かるのに、最初の一歩が遅い。

 

 真壁はそれ以上、問い詰めなかった。

 

 その沈黙が、少し助かった。

 

 

 

 

 

 真壁は隣室でノートパソコンを開いた。

 

 江古田の夜は静かだった。壁の向こうで、澪が紙を動かす音がする。真壁はキーボードに指を置いたまま、しばらく動かなかった。

 

 リュシアに聞けば、商人の答えになる。

 

 セルマに聞けば、休ませろと言うだろう。

 

 司祭様に聞けば、祈りと休息になる。

 

 明石さんに聞けば、税務と契約の話になる。

 

 どれも間違いではない。だが、澪は明日も大学へ行く。専門ゼミの資料を読み、履修を選び、発表の準備をする。真壁はそこを歩いたことがない。

 

 大学は、真壁の知らぬ戦場だった。

 

 だから、彼は画面に向かって入力した。

 

 大学二年生が、専門ゼミ、履修登録、学部横断型プロジェクト、会社経営、異世界側の仕事を同時に抱えている。疲労度は高くないが、思考過多と役割負荷がある。どう支えればよいか。

 

 少し待つと、画面に返答が現れた。

 

 睡眠を削らないこと。翌朝に決めることを減らすこと。課題は、読解、要約、問い、提出形式、締切に分けること。本人の代わりに答えを書かないこと。一緒に整理し、本人が書ける形にすること。大学側と会社側の紙を混ぜないこと。期限付きの不安は確認だけ済ませること。法人資金と個人資金は混ぜないこと。奨学金は条件確認後に専門家へ相談すること。

 

 真壁は一つずつ読んだ。

 

 そして、最後の部分で指を止めた。

 

 処理能力を上げたい場合も、本人の同意なしに訓練で解決しないこと。安全な環境と本人の納得が必要であること。

 

 鍛えればよい。

 

 その答えは、真壁の中にすぐ浮かんだ。

 

 体力が足りぬなら、走らせる。集中が切れるなら、切れぬところまで負荷を測る。判断が遅れるなら、反復させる。精神が揺れるなら、揺れる場に慣らす。鑑定で数値を見ながら、無理のない範囲を押し広げれば、澪の器は確実に大きくなる。

 

 ブートキャンプも、レベリングも、真壁には組める。集中、判断、精神、体力を伸ばす筋道も、見える。

 

 だが、彼はその考えをそのまま口に出さなかった。

 

 強くすることと、雑に詰め込むことは違う。よい器を作るには、火加減と置き場所を誤ってはならない。澪は兵ではないが、押入商会の代表ではある。道に出るなら、荷と自分を守るだけの力は必要になる。

 

 真壁は画面を見たまま、低く言った。

 

「大学は、私の知らぬ戦場だ」

 

 知らぬ戦場だから、そこを荒らすのは品が悪い。

 

 だが、何もしないわけにもいかない。澪が毎晩、机の前で止まるたびに真壁が箱を分けてやるだけでは、澪自身の荷にはならない。

 

 よい訓練には、よい場が要る。

 

 そして、よい条件が要る。

 

 真壁は画面を閉じず、もう一度だけ回答を読んだ。

 

 説得ではない。

 

 甘やかしでもない。

 

 飲める条件を並べ、飲んだあとは逃がさない。

 

 それが、今夜の方針だった。

 

 

 

 

 

 木曜の夜、澪は専門ゼミのプリントを前にして止まっていた。

 

 六畳間の机には、資料、ノート、スマホ、履修表が広がっている。古い燭台の神さまは部屋の隅で静かにしていた。エアコンの音が低く鳴っている。シャープペンの先はノートの上にあるのに、文字が増えない。

 

 指定資料を読む。要点をまとめる。自分の問いを一つ立てる。次回ゼミで短く話せるようにする。言われていることは分かる。資料も読んだ。分からない単語も、調べれば意味は取れた。なのに、ノートの最初の一行で手が止まる。

 

「分からないわけじゃないんです」

 

 澪は小さく言った。

 

 言い訳に聞こえるだろうか、と一瞬思った。けれど本当に分からないわけではなかった。分かるものが多すぎて、どれを最初に置けばいいのか分からない。

 

 真壁は、向かい側に座った。

 

「ならば、分ける。まず輪郭を見よう」

 

「いきなり作戦会議みたいにしないでください」

 

 澪はそう言いながらも、紙を押しのけなかった。作戦会議みたいなのは嫌だ。嫌だけれど、今の自分には、作戦図のように分けてもらう方が助かるかもしれないと思ってしまった。

 

「目的の見えぬ仕事は、美しくない。課題も同じだ」

 

「大学の課題を美術品みたいに扱わないでください」

 

 反射で突っ込むと、少しだけ息がしやすくなった。真壁が品だの配置だのと言い、澪が止める。この形にすると、怖さが少し薄まる。

 

 真壁は白い紙を一枚出し、線を引いた。

 

 紙の上に、細い区切りができる。真壁はそこへ、澪に見えるように小さく書き込んでいく。何を読めと言われているのか。何をまとめるのか。自分の意見はどこに入れるのか。問いは一つでよいのか。提出形式は何か。締切はいつか。発表で話すなら最初の一文は何か。

 

「まず、求められているものを分ける。棚を作らずに品を積めば、どれほどよい物でも埋もれる」

 

「真壁さん、私の課題を倉庫整理にしないでください」

 

 澪は唇を尖らせたが、目は紙を追っていた。倉庫整理みたいだと文句を言いながら、線が引かれた紙に少しだけ安心している自分がいた。

 

「倉庫整理は悪くない。品の置き場が決まれば、取り出す時に迷わぬ」

 

「それが正しいから嫌なんです」

 

 嫌だと言ったが、置き場という言葉は妙に分かりやすかった。全部を一つの山にしているから重い。そう言われると、机の上の紙たちが少しだけ別々に見えた。

 

 真壁は澪のプリントを指で押さえた。

 

「これは、何を読めと言っている」

 

「この資料です。先生が配ったやつと、参考として載っている短い論文です」

 

 答えられたことに、澪は少し驚いた。聞かれれば、分かる。分かっていないわけではない。それが自分の中でも確認できた。

 

「何をまとめる」

 

「資料の要点と、気になった論点を一つ」

 

 言葉にすると、課題の輪郭が少し見えた。ぼんやりした山ではなく、要点と論点という二つの箱になる。

 

「自分の意見はどこに置く」

 

「最後です。たぶん、問いを立てるところに近いです」

 

 自分の意見、と言われて身構えたが、場所が分かると少し怖くなくなった。最後に置けばいい。最初から全部を背負わなくていい。

 

「問いは一つでよいのか」

 

「はい。一つでいいです。むしろ、広げすぎるなって言われました」

 

 そこまで言って、澪は少しだけ笑った。広げすぎるな。大学の先生にも、真壁にも、同じようなことを言われている気がする。

 

「提出形式は」

 

「次回ゼミで話す用のメモ。提出はまだないです」

 

 提出がまだないと口にすると、少しだけ肩が下がった。全部を完成させる必要はない。話すためのメモでいい。

 

「締切は」

 

「次のゼミまで」

 

 声に出すと、今日中に全部を完成させなければならないわけではないと分かった。急いでいるつもりで、自分で勝手に締切を前倒ししていたらしい。

 

「発表で話すなら、最初の一文は」

 

 澪はそこで一度止まった。

 

 けれど、今度は完全には止まらなかった。プリントを見て、ノートを見て、ペンを持ち直す。

 

「この資料は、問題を解くというより、問題の立て方を見るものです、かな」

 

 自分の口から出た言葉を聞いて、澪は少しだけ目を開いた。書けそうだと思った。完璧ではないが、始めるには足りる。

 

 真壁はうなずいた。

 

「悪くない。まず置いてみたまえ」

 

「はい」

 

 澪はノートにその一文を書いた。

 

 書けた。

 

 一文だけなのに、さっきまで動かなかった手が少し軽くなる。

 

 真壁はさらに紙を見る。

 

「見えている。だが、配置がよくない」

 

「配置?」

 

 澪は顔を上げた。配置という言い方が、今日ずっと感じていたものに近くて、少し嫌だった。言い当てられた気がした。

 

「読むもの、まとめるもの、考えるもの、話すもの。全部を同じ机に広げている。これでは、どの品を手に取るべきか分からなくなる」

 

「言われると、そうです」

 

 認めると、少しだけ悔しかった。自分ではもっと複雑なことで詰まっていると思っていたのに、配置が悪いと言われると、単純な整理の問題にも見える。

 

「混ぜると、品が落ちる」

 

「課題を粉と香油みたいに言わないでください」

 

 澪は突っ込んだが、頭の中ではもう箱を分け始めていた。読むもの。まとめるもの。問いにするもの。話すもの。分けられると、重さが少しずつ変わる。

 

「混ぜれば、あとで匂いが残る」

 

「セルマさんが聞いたら微妙に納得しそうなのが嫌です」

 

 澪は少しだけ笑った。

 

 笑うと、ノートの余白がさっきより白く見えた。怖い白ではなく、書く場所としての白だった。

 

 真壁は答えを書かなかった。言い換えもしなかった。澪が言った言葉を、澪の手で書かせた。問いも、真壁が作るのではなく、澪に選ばせた。

 

「気になったところはどこかね」

 

「この、専門性が上がるほど、他分野との接続も必要になるってところです」

 

 言いながら、澪は少しだけ戸惑った。気になった理由が、大学の外にある。押入商会が頭に浮かんでいる。それを課題に持ち込んでいいのか、少し迷った。

 

「なぜ」

 

「押入商会みたいだからです」

 

 言ってから、澪は少し眉を寄せた。

 

「大学の課題に押入商会を混ぜたくないんですけど」

 

 混ぜたくない、と言いながら、完全に切り離せないことも分かっていた。自分の中で起きていることをなかったことにはできない。

 

「混ぜるのではない。比較として、横に置くのだ。皿を同じにしなければ、匂いは移らない」

 

「今の言い方、ちょっと教授っぽいです」

 

 少し笑えた。押入商会をそのまま課題に流し込むのではなく、一度横に置く。そう言われると、混ぜるのとは違う気がした。

 

「それはあまり、よい評価ではないな」

 

「そこは嫌なんですか」

 

 澪のペンがまた動いた。

 

 資料の要点が一つ、問いの候補が一つ、話し始めの一文が一つ。机の上の紙はまだ多い。それでも、全部が同じ塊ではなくなっていく。

 

 真壁は少し離れて、その様子を見ていた。

 

 澪はできる。

 

 読める。答えられる。自分の言葉も出る。

 

 ただ、同時に抱えすぎると止まる。

 

 その上、以前の彫金作業で、澪には並行思考の芽が出ている。複数工程を同時に扱う兆候は、すでに見えていた。鑑定の精度も上がり、収納は工程保持に適性を示し、手仕事の安定性も増している。

 

 だが、芽は芽でしかない。

 

 便利な芽ほど、扱いを誤れば疲労を増やす。処理数を増やせば、集中切れや確認漏れも起きる。今の澪が止まるのは、何もできないからではない。できるものが増えたのに、置き場の作り方が追いついていないからだ。

 

 真壁には方法がある。

 

 行商人へジョブチェンジさせる。

 

 そして、低い段から実地で伸ばす。

 

 集中、判断、精神。次に体力と器用。筋力は主ではない。澪を前衛にする必要はないが、道に出る以上、荷と自分を守る最低限の力は必要になる。

 

 説得ではない。

 

 甘やかしでもない。

 

 飲める条件を並べ、飲んだあとは逃がさない。

 

 真壁は、言うタイミングを測った。

 

 

 

 

 

 ノートに問いが一つ書かれた頃、六畳間は少し静かになった。

 

 澪はシャープペンを置き、肩を回した。資料の山は消えていない。けれど、さっきまでのように、全部が一つの重い箱に見える感じは薄れていた。

 

「真壁さん、何か言いたそうですね」

 

 澪は先に言った。

 

 真壁が黙っている時の重さが、少し分かるようになってきた。あれは何も考えていない沈黙ではない。何かを言うべきかどうか、選んでいる沈黙だ。

 

 真壁は一拍置き、膝の横に置いていた一枚の紙を取り上げた。

 

「言葉で飾るより、先に品を見せた方がよい」

 

「品って言いましたね。私の話ですよね」

 

 澪は警戒しながらも、真壁の手元から目を離せなかった。大学のプリントではない。リュシアとの折半メモでも、村の市の控えでもない。真壁の字で、丁寧に整えられた鑑定記録だった。

 

「そうだ」

 

「人を鑑定品にしないでください」

 

 澪はそう言ったが、紙を拒まなかった。

 

 真壁はそれを、机の上に静かに置いた。

 

「澪君。これは、私の鑑定で見た君の現状だ。鑑定九で見ている。誤差は少ない」

 

「……見せるんですか」

 

 澪は、すぐには手を伸ばせなかった。

 

 自分のことを数字で見るのは、思ったより怖い。疲労度やスキルだけなら、まだ笑って突っ込める。けれど、体力や判断や集中まで並べられると、逃げ場のない成績表を渡されたような気分になる。

 

「見せる。君のものだからだ」

 

 真壁の声は静かだった。

 

「私が持っているだけでは、配置が悪い」

 

「そういうところだけ、妙に筋が通ってますね」

 

 澪は渋々、紙を引き寄せた。

 

 最初に目に入ったのは、自分の名前だった。

 

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鑑定記録

鑑定者:真壁久忠

鑑定精度:鑑定 9

対象:篠原 澪

用途:育成計画前の現状確認

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篠原 澪

分類:人間/異界渡航者

役割:押入商会代表/育成計画実行者

現在ジョブ:商人

レベル:14

状態:思考過多/軽度緊張/役割負荷/大学再開週

疲労度:34%

身体異常:なし

異界適応:安定

----------------------------------

基礎能力値

体力:44

筋力:31

器用:62

知力:74

判断:63

精神:68

集中:55

----------------------------------

既得スキル

鑑定:8

収納:8

錬金:4

雷:8

火:1

収納内時間停止:芽あり

技能:彫金

技能:手仕事

技能成長:鑑定:精度上昇

技能成長:収納:工程保持に適性あり

技能成長:手仕事:安定性向上

新規発現:並行思考:芽あり

成長項目:防衛用収納展開:1

成長項目:統率個体識別:1

----------------------------------

初期値からの推定成長

体力:37 → 44

筋力:28 → 31

器用:49 → 62

知力:66 → 74

判断:51 → 63

精神:54 → 68

集中:42 → 55

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所見

知力は不足していない。

資料は読めている。

問いも立てられる。

言葉も出る。

問題は、複数の物事が同時に並んだ時の配置である。

現在の澪君は、単独の課題なら処理できる。

また、以前の彫金作業では、複数工程を同時に扱う兆候も確認している。

並行思考:芽あり。

これは弱点ではない。

ただし、まだ整理された技能ではない。

処理数が増えるほど疲労が増え、集中切れや確認漏れを招く危険がある。

伸ばすべきは、知力ではない。

第一優先:集中/判断/精神

第二優先:体力/器用

補助成長候補:並行思考/収納工程保持/手仕事の安定性

筋力は最低限でよい。

澪君を前衛にする計画ではない。

目的は、戦士を作ることではない。

押入商会代表として、道に出ても、荷が増えても、相手が増えても、自分で状況を分けて動けるだけの余白を作ること。

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注意

無理な負荷は避ける。

睡眠を削らない。

大学課題の処理を優先する。

本人の同意なしに訓練へ移行しない。

処理数を増やせば疲労も増える。

材料不足、集中切れ、確認漏れは防げない。

便利に使われすぎる危険がある。

場を整えることと、連れて行くことは同じではない。

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 澪は、しばらく黙っていた。

 

 知力は不足していない。

 

 その一文で、少しだけ息が楽になった。大学の資料の前で止まった自分を、頭が悪いからだと決めつけられたわけではない。それは助かる。助かるのに、その下に並んだ集中、判断、精神という言葉が、妙に重かった。

 

「……細かいですね」

 

 細かい、と言うしかなかった。体力、筋力、器用、知力、判断、精神、集中。自分の中にあるものが、棚に並べられている。嫌だと思う一方で、散らかった頭の中に名前札を貼られたような感覚もあった。

 

「雑な鑑定は、美しくない」

 

「美しくなくていいです。本人は結構しんどいです」

 

 澪は紙を指で押さえた。

 

 レベル十四。商人。鑑定八。収納八。錬金四。雷八。火一。収納内時間停止の芽。彫金と手仕事。並行思考の芽。防衛用収納展開。統率個体識別。

 

 普通の大学生に戻るつもりでいたのに、紙の上の自分は、もうずいぶん遠くまで歩いていた。

 

「だろうな」

 

「だろうな、じゃないんですよ」

 

 澪は顔を上げた。

 

 真壁は、鑑定記録を挟んで机の向こうに静かに座っている。その沈黙が、妙に整っていた。怒られるわけではない。励まされるわけでもない。何かを提示される前の、商談の空気だった。

 

「澪君。これは説得ではない。条件の提示だ」

 

「条件の提示って、交渉ですよね」

 

「違う」

 

 真壁は即座に否定した。

 

 澪は少し目を細めた。真壁がこの早さで否定する時は、言葉の置き場所をかなり選んでいる。

 

「違うんですか」

 

「交渉なら、こちらの望む形へ君を動かす。説得なら、君の考えをこちらへ寄せる。どちらも今は品が悪い」

 

「品で逃げないでください」

 

「逃げてはいない。これは、飲むか飲まぬかを君が決めるために、条件を机に並べるだけだ」

 

 真壁は、鑑定記録の横へ白い紙を置いた。

 

「飲むか、飲まぬかは君が決める。だが、飲める形には整える」

 

「そこが逃げにくいんですよ」

 

「雑な条件を並べるのは、美しくない」

 

「美しくなくていいです」

 

「まず金曜。大学が終わった後、教会へ行く」

 

「教会」

 

「君を行商人へジョブチェンジさせる」

 

 澪は紙から顔を上げた。

 

 来た、と思った。けれど、完全に予想外ではなかった。真壁が道、荷、配置、訓練と並べた時点で、そこへ向かう気配はあった。

 

「商人のまま、道へ出る訓練をするのは配置が悪い。君は押入商会の代表だ。私の荷として運ばれるのではなく、自分で道を見る側になるべきだ」

 

「言い方がずるいです」

 

 真壁についていくのではない。真壁に鍛えられるだけでもない。行商人になる。道を見る側になる。そう言われると、怖い話の中に、少しだけ足場ができる。

 

「ずるくはない。筋が通っているだけだ」

 

「それがずるいんです」

 

「次に、ジョブチェンジ直後、鑑定九で全ステータスを記録する。体力、筋力、器用、知力、判断、精神、集中。すべてだ。紙にして君へ渡す」

 

「私にも渡すんですね」

 

「君の数値だ。私だけが持つのは配置が悪い」

 

 澪は少しだけ目を伏せた。

 

 見たくない。

 

 けれど、見なければ自分の荷にならない。真壁の雰囲気で「上がった」「悪くない」と言われるより、数字で見せられる方が、まだ戦える。

 

「あとで、上がったとか下がったとか、真壁さんの雰囲気で言われても困りますからね」

 

「数値で見る」

 

「そこは信用できます」

 

「悪くない評価だ」

 

「褒めてません」

 

 真壁はそこで、白い紙に次の行を引いた。

 

「土日は、侯爵家管理下で基礎訓練を行う」

 

「基礎訓練」

 

「名称はそうしておく。だが、中身は軽くしない」

 

「そこは軽くしてくれないんですね」

 

「軽くして意味がないものは、最初から出さない」

 

 澪は少し顔をしかめた。

 

「魔物、出ますよね」

 

「出す」

 

「言い切りましたね」

 

「討伐訓練だ。そこを曖昧にする方が品が悪い」

 

「基礎訓練って名前にしたのに、討伐なんですね」

 

「基礎とは、逃げることだけではない。距離を取り、収納を出し、雷を絞り、必要なら倒す。行商人が道に出るなら、そこまでを基礎に含める」

 

「真壁さんの基礎、広くないですか」

 

「道は狭くない」

 

「そういうことではないです」

 

 真壁の声は静かだった。

 

「ただし、対象は選ぶ。強すぎる魔物は選ばない。弱すぎて訓練にならぬ相手も選ばない。侯爵家の監督を入れる。逃げ道も作る。撤退条件も先に置く。だが、討伐から目を逸らすつもりはない」

 

 澪は鑑定記録に視線を落とした。

 

 怖い。だが、真壁は怖い部分を隠していなかった。魔物は出ないかもしれない、などとは言わない。討伐訓練だと言い切った上で、場所と相手と撤退条件を整えると言っている。

 

「……最初から、倒す可能性込みなんですね」

 

「そうだ」

 

「嫌です」

 

「嫌だろうな」

 

「でも、それだけでは止めないんですよね」

 

「止めない。嫌だという感情は、撤退条件ではない」

 

 澪は唇を結んだ。

 

 厳しい。けれど、真壁の言葉は雑ではなかった。嫌だと言って止まるなら、そもそも訓練にならない。そこまで分かってしまう自分が、いちばん嫌だった。

 

「大学はどうするんですか」

 

「大学を理由に訓練を消しはしない」

 

 澪が顔を上げた。

 

「消さないんですか」

 

「消さない。課題が残っているなら、訓練の前に片づける。私が分解する。君が書く。最低限の提出ラインまで終わらせる」

 

「逃げ道がない」

 

「逃げ道ではない。順序だ」

 

「睡眠は」

 

「削らない。睡眠を削る訓練は、訓練ではなく失敗だ。ただし、睡眠を守るために、金曜夜の余計な逃避は削る」

 

「余計な逃避って何ですか」

 

「スマホを見ながら、課題も訓練も考えたくないと座っている時間だ」

 

「刺してきますね」

 

「必要な場所を刺した」

 

 澪は唇を結んだ。

 

 反論したいのに、反論の置き場所がない。大学は守られている。睡眠も守られている。無許可でもない。いきなり荒野に放り出されるわけでもない。だが、逃げるための曖昧な場所は消されている。

 

「撤退条件は」

 

「負傷、疲労度七十%超過、雷制御の乱れ、判断停止、収納展開の失敗が連続する場合、侯爵家監督者の危険判断、私の危険判断、そして君自身の明確な体調異常申告だ」

 

 真壁は白い紙に、短く撤退条件を書き込んだ。

 

「止める時は止める。だが、怖い、面倒、気が重い、では止めない」

 

「厳しいです」

 

「甘くしても、君の役には立たない」

 

 澪は鑑定記録を見た。

 

 知力は不足していない。

 集中、判断、精神。

 そこを伸ばす必要がある。

 

 真壁の条件は優しくない。けれど、雑でもなかった。

 

「飲むか、飲まぬかは君が決める」

 

 真壁は言った。

 

「ただし、飲んだ後の訓練設計は私が行う。君は状態を申告できる。撤退条件に入れば止める。だが、その場の気分で内容を軽くはしない」

 

「本当に条件提示ですね」

 

「そう言った」

 

 澪は紙の上に並んだ条件を見た。

 

 大学は守られる。

 睡眠も守られる。

 勝手に森へ放り込まれるわけではない。

 でも、飲めば逃げられない。

 

 それは、かなり嫌だった。

 

 嫌だったが、真壁が自分を甘やかしていないことも分かった。澪を壊さないようにはしている。けれど、澪が止まったままでいられるようにはしていない。

 

「……分かりました。飲みます」

 

 澪は言った。

 

 声は大きくなかったが、机の上で逃げなかった。

 

「よいのかね」

 

「よくはないです。怖いですし、面倒ですし、魔物とか本当は嫌です」

 

 澪は鑑定記録を指で押さえた。

 

「でも、この条件なら飲めます。大学を犠牲にしない。睡眠を削らない。討伐訓練だけど、侯爵家の監督下。撤退条件もある。先に行商人になって、全ステータスを見せてもらう」

 

 そこで一度息を吸った。

 

「その代わり、飲んだ以上はやります」

 

 真壁は、わずかに目を細めた。

 

「見事だ」

 

「褒められると困ります」

 

「では、一度だけにしておこう」

 

「そうしてください」

 

 澪は鑑定記録を、大学のノートの上へ置いた。

 

 課題の紙。

 鑑定記録。

 行商人への道。

 

 全部が同じ机にある。けれど、今度は混ざっていない。

 

「金曜、大学が終わったら教会です」

 

「承った」

 

「そこで行商人にジョブチェンジして、全ステータスを記録します」

 

「鑑定九で見る」

 

「土日は、基礎訓練です。ブートキャンプじゃありません」

 

「承った」

 

「本当に分かってますか」

 

「よい訓練には、よい名も要る」

 

「そこで納得しないでください」

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