押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第93話 条件はそろった

 

 金曜の朝、六畳間の机の上には、大学の資料と鑑定記録が同じ高さで積まれていた。

 

 澪は鞄の口を開けたまま、専門ゼミのプリントを入れ、履修登録の確認用紙を入れ、いったん入れた鑑定記録の写しを取り出した。大学へ持って行くものではない、と頭では分かっている。けれど、机の上に置き去りにすると、それはそれで背中を見られているような気がした。

 

 畳の匂いと、エアコンの小さな音がある。押し入れは閉まっている。古い燭台の神さまは、いつもの場所で何も言わない。

 

 普通なら、金曜の朝はただ大学へ行く朝だったはずだ。

 

 だが、今の澪の机には、大学資料の横に、自分の体力や判断や集中が書かれた紙がある。昨日までの課題分解メモもある。さらに、土日には侯爵家管理下で基礎訓練をする、という条件まである。

 

 基礎訓練。

 

 その言葉を、澪はまだ信用していない。

 

「条件確認って、聞きたくない言葉ですね」

 

 澪は鞄のファスナーを半分閉めたところで言った。言ってしまってから、口に出すと余計に現実になる気がして、少し後悔した。

 

 真壁は、朝食の皿を片づけながら、落ち着いた声で答えた。

 

「聞かずに済む条件ほど、後で品が落ちる」

 

「朝から品で押さないでください」

 

 澪は眉を寄せたが、強くは言えなかった。真壁の言い方が嫌なのではない。真壁の言うことが、大体の場合、後から効いてくるのが嫌だった。

 

「大学へ行きたまえ。こちらは、こちらの荷を片づける」

 

「その言い方、すでに片づける量が多そうです」

 

 澪は鞄を肩にかけた。肩紐がいつもより重い気がしたが、中身は紙と筆記用具と端末だけだ。重いのは鞄ではない。

 

 真壁は、異世界側の細かな話をそれ以上重ねなかった。

 

 侯爵領へ行くこと。採石場基地使用契約に基づく品を届けること。土日のために、向こうで確認することがあること。

 

 それだけを、静かに置いた。

 

 澪は玄関で靴を履きながら、振り返った。

 

「今日、大学で普通にしてきます」

 

 そう言ってから、自分で少し妙だと思った。普通は、宣言してするものではない。

 

「よい」

 

「よい、なんですか」

 

「普通に戻ろうとすることも、配置の一つだ」

 

「また配置ですか」

 

 澪は少しだけ口を尖らせた。けれど、その言葉で少し落ち着いたことも分かってしまった。普通にすることまで、机の上の一つの箱として置いていいのだと、真壁は言っている。

 

 分かってしまうのが、腹立たしい。

 

「行ってきます」

 

「行ってらっしゃい」

 

 真壁の声はいつもどおりだった。

 

 そのいつもどおりに押されるように、澪は外へ出た。

 

 

 

 

 

 大学の教室は、金曜なのにまだ落ち着いていなかった。

 

 後期の履修登録画面を開いている学生がいて、別の席ではゼミの発表順を相談している声がする。澪の前にも、専門ゼミの追加資料が置かれていた。教員が配った紙は一枚では済まず、次の説明用に別のプリントも回ってくる。

 

 澪は受け取って、上の端をそろえた。

 

 読める。

 

 そこに書かれている文章は読めるし、何を求められているのかも、昨日ほど霧の中ではない。木曜の夜に真壁と分けた課題の棚は、頭の中にある。読むもの、まとめるもの、問いを立てるところ、提出の形。何となくではなく、置き場所として思い出せる。

 

 それなのに、追加資料が机の端に置かれるたびに、その棚の空いているところへ新しい紙が滑り込んでくる。

 

「篠原さん、プロジェクト科目どうする?」

 

 隣の学生が、端末の画面を見ながら声をかけてきた。

 

「あ、まだ迷ってます。面白そうなんですけど、時間が」

 

 澪は答えた。会話はできる。笑うこともできる。相手の言っていることも分かる。

 

 だが、答えたあとに、その会話が処理済みの箱へ落ちていかない。プロジェクト科目、時間、ゼミ発表、履修登録、次回までの要約。どれも未処理のまま、頭の中の棚の前に立っている。

 

 スマホが震えた。

 

 大学ポータルからの通知だった。提出期限の案内と、履修登録の確認についての連絡が入っている。澪は画面を開き、読んで、閉じた。

 

 読めた。

 

 けれど、閉じても終わらない。

 

「寝たんですけどね」

 

 昼休み、澪はベンチに座って小さくつぶやいた。誰に聞かせるでもない声だった。

 

 鞄から、昨日の課題分解メモを出す。そこには、自分の字で、発表の最初の一文が書いてある。真壁が書いたものではない。澪が、自分で書いたものだ。

 

 それは少しだけ支えになった。

 

 けれど、同時に悔しかった。

 

「分からないわけじゃないんです」

 

 また小さく言う。言いながら、胸の奥が詰まる。

 

 分からないわけではない。昨日より悪いわけでもない。むしろ、昨日よりは見えている。なのに、進みが遅い。自分一人だと、棚の位置を決めるまでに時間がかかる。

 

 澪はメモを見下ろした。

 

 知力は不足していない。

 

 真壁の鑑定記録にあった言葉を思い出す。それを見た時、少し安心した。安心した自分が、さらに悔しかった。

 

 問題は配置。

 

 集中、判断、精神。

 

 並行思考は芽があるが、まだ整理された技能ではない。

 

「当たっているから嫌です」

 

 澪はメモの端を指で押さえた。

 

 自分の中にある引っかかりを、先に言葉にされている。真壁に頼りたくない。毎回、箱を分けてもらう人間にはなりたくない。けれど、昨日の紙が役に立っている。

 

 それがいちばん腹立たしい。

 

 土日の基礎訓練が、完全に逃げたいだけのものではなくなっていることにも気づいていた。

 

 怖い。嫌だ。魔物討伐なんて、名前だけでもう十分に嫌だ。

 

 けれど、自分が止まる場所を潰すものでもある。

 

 澪は深く息を吐いて、端末をもう一度開いた。履修画面の文字は相変わらず多い。それでも、さっきよりは少しだけ、紙を置く場所が見える気がした。

 

 

 

 

 

 侯爵家の応接室に、鉄の重みが置かれた。

 

 真壁が収納から取り出した純鉄インゴットは、飾り気のない灰銀色をしていた。金や宝石のように光るわけではない。だが、表面の均一さが妙に目を引く。鍛冶師が手袋をはめた指で縁をなぞり、目を細めた。

 

 技術担当らしき男が、小さな槌で軽く叩く。

 

 高すぎず、濁りすぎない音が、石造りの部屋に短く響いた。

 

「……混じりが少ない」

 

 鍛冶師が低く言った。

 

 別の者が角を確かめる。欠け方を見る。薄く削った面を光にかざす。小さな傷を入れて、刃先の入り方を見る。誰も大げさに騒がない。だが、黙り方が変わっていた。

 

 侯爵家の代理人は、真壁を見た。

 

「これは、贈答か」

 

「いいえ」

 

 真壁は即座に否定した。

 

「本日は、採石場基地使用契約に基づく第一回納入分をお持ちしました。贈り物ではありません。契約の品です」

 

 その言い方で、部屋の空気が少し整った。

 

 贈答なら、礼を言い、好意を測り、裏を読む必要がある。契約品なら、受け取り、検査し、記録すればいい。真壁は、あえてその線を引いた。

 

「採ったままではありません。酸素と不純物を抜き、可能な範囲で均しました」

 

 鍛冶師が、今度は少し強めに叩いた。音を聞き、眉間の皺を深くする。

 

「粗鉄ではないな」

 

「粗鉄のままでは、返す品として美しくありません」

 

 真壁は淡々としていた。誇らない。自慢もしない。だが、差し出した品が軽くないことは、誰よりも分かっている顔だった。

 

「契約を軽く扱う商人は、道を失います」

 

 侯爵家の代理人は、しばらくインゴットを見てから、ゆっくりとうなずいた。

 

「契約以上の品だ」

 

「契約の範囲でございます」

 

「この均一さを、継続できるのか」

 

「量には限りがあります。ですが、工程を崩さなければ、一定の品質は保てます」

 

 真壁はそこで一度、言葉を切った。

 

 純鉄インゴットの検査が続く。記録係が数字を書き、鍛冶師がもう一度表面をなぞり、技術担当が低い声で何かを相談する。

 

 採石場基地を使わせた結果が、本当に返ってきた。

 

 その理解が部屋の中へ沈んだ頃、真壁は別の紙を出した。

 

「鉄とは別件で、ご相談がございます」

 

 侯爵家の代理人の目が少し細くなった。

 

「今の品と結びつける話か」

 

「いいえ。鉄は契約の品です。許可を買うための品ではありません。ただし、契約を守る者の相談として、聞いていただきたい」

 

 真壁は紙を机に置いた。

 

 そこに書かれているのは、澪の名前、押入商会、侯爵家管理地、監督者、撤退条件、記録提出。すぐに許可を求める紙ではなく、条件を並べた紙だった。

 

「澪君を、行商人として育てる必要があります」

 

 侯爵家側の文官が顔を上げた。

 

「異界の娘を、か」

 

「左様」

 

「危うい話だ」

 

「危ういからこそ、場を整えます」

 

 騎士らしき男が腕を組んだ。

 

「何をさせるつもりだ」

 

「魔物討伐によるレベリング訓練です」

 

 その場の空気が少し硬くなった。

 

 侯爵家の代理人は、即答しなかった。澪は取引相手であり、異界人であり、押入商会の代表である。怪我をされれば面倒だ。侯爵家管理地で事故が起きれば責任問題になる。押入商会が勝手に武装商会のように見えれば、外への説明も厄介になる。

 

「逃げる訓練だけでは駄目なのか」

 

「逃げる訓練だけでは、道に出る者の基礎になりません」

 

 真壁は、声を荒げなかった。

 

「行商人が危険に遭えば、逃げるか、守るか、倒すかをその場で選ばねばなりません。澪君を兵にするつもりはありません。ですが、代表が道の危険を知らぬままでは、商会の形が歪みます」

 

 文官が紙を見た。

 

「討伐権、素材処理、記録、外向きの説明。すべて面倒になる」

 

「承知しております」

 

「承知している顔ではないな。むしろ、面倒を分類して持ってきた顔だ」

 

「分類のない面倒は、扱いが悪くなります」

 

 真壁は別の紙を出した。

 

「場所は侯爵家指定地。監督者を付けていただく。私が同行し、澪君の単独行動は禁止。討伐記録は侯爵家へ提出。素材処理は侯爵家の規則に従う。外部向けには、侯爵家管理地での街道周辺安全確認とする。押入商会が勝手に討伐権を持つ形にはしません」

 

 騎士が鼻で息をした。

 

「そこまで並べて、討伐を目的から外す気はないのだな」

 

「討伐は目的に含めます。ただし、場所と相手と撤退条件は整えます」

 

「澪殿を壊すな」

 

「壊すつもりなら、条件など並べません」

 

 真壁は静かに答えた。

 

「押入商会を武装商会に見せるな」

 

「そのために、侯爵家管理下と記録提出を置いております」

 

「侯爵家の名を使う以上、雑な訓練は許さぬ」

 

「雑な訓練は、品がありません」

 

 真壁はそこで、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「場を整えずに人を鍛える者は、指揮官ではありません」

 

 しばらく沈黙があった。

 

 侯爵家の代理人は、鍛冶師がまだ見ている純鉄インゴットへ視線をやり、それから真壁の条件書へ戻した。鉄の話と訓練の話は別だ。だが、契約を守る者の相談として扱うだけの重みは、すでに机に置かれている。

 

「監督者の判断には従え」

 

「従います」

 

「危険と判断した場合は即中止だ」

 

「それも条件に入れてあります」

 

「記録は出せ」

 

「出します」

 

 代理人は息を吐いた。

 

「限定許可とする。場所はこちらが指定する。素材は侯爵家の規則に従え。澪殿の単独行動は認めん」

 

「承りました」

 

 真壁は深くは頭を下げなかった。必要なだけ、正確に礼をした。

 

 条件が、机の上で形になった。

 

 

 

 

 

 採石場基地の一角にあるそれは、外から見ると資材置き場にしか見えなかった。

 

 石粉をかぶった板壁、やや無愛想な扉、端に積まれた木箱。だが真壁が鍵を開け、扉を内側へ押すと、外の乾いた粉っぽい匂いとは違う、冷えた空気が流れ出した。

 

 中は、明るかった。

 

 太陽光発電用の機材から引いた電力が蓄電設備を通り、照明と空調を動かしている。作業台には傷がなく、工具棚は高さをそろえて固定され、奥には錬成作業用の区画、別の壁際には保管棚が並んでいた。採石場の石粉を持ち込まないための簡易区画もある。休憩できる小さな空間と、最低限の寝具も整えてあった。

 

「先日より作ってある」

 

 真壁は誰に聞かせるでもなく言った。

 

「太陽光発電。蓄電。冷暖房。作業環境が悪いと、品も判断も落ちる」

 

 声は落ち着いている。

 

 だが、目が少し違った。

 

 侯爵家から限定許可は取れた。澪は夜に行商人となる。全ステータスを記録し、ここへ連れて来る。明日の朝、ここから始める。

 

 ならば、置き場を整える必要がある。

 

「澪君が来る前に、置き場を整えておくべきだ。今夜はここに泊まらせる。移動時間を朝に置くのは、美しくない」

 

 真壁は上着を脱ぎ、袖を整えた。

 

 そこからの動きは速かった。

 

 収納から金属塊が出る。布が出る。箱が出る。覆い布、札、容器、工具、鑑定済みの素材。どれも用途別に置かれ、手に取られ、光を受け、また別の場所へ移される。

 

 真壁は銃本体を錬成し、薬莢を整え、弾を鑑定で弾き分けた。銃弾に使うための無煙火薬はすでに整えてある。ここで行われているのは、作り方を探る作業ではない。真壁の中にある未来知識と、錬成と収納管理と鑑定で、異世界にない形をこの場所へ置いていく作業だった。

 

「ふむ。銃というものは、野蛮だ」

 

 彼は、金属の筒を光にかざした。

 

「だが、野蛮を制御するための形には、美がある」

 

 作業台の上に、機関砲の部品が静かに形を成していく。澪でも扱えるように、という条件が真壁の手の動きを乱さない。むしろ、制約があるほど形は整う、とでも言いたげだった。

 

「群れには、群れを崩す礼儀が要る。一本の剣で三十の牙を相手にするのは、あまりに無粋だ」

 

 箱の横に札が貼られる。

 

 用途:群れ対策。

 

 真壁はそれを見て、少し満足げにうなずいた。

 

「薬莢はよい。撃った後に、責任の形が残る」

 

 薬莢の箱には、別の札が付いた。品質、用途、確認済み。危険なものほど、真壁は几帳面になる。弾薬にも名札が貼られていく。

 

「弾薬にも名札を付けるべきだ。名のない弾は、責任のない言葉に似ている」

 

 次に、購入したドローンが作業台に乗った。

 

 現代側で買ったものだが、そのままでは役に立たない。噴霧する液体を切り替えられるように、真壁は錬成した容器と機構を合わせ、鑑定し、不要なものを外し、必要なものだけを残した。液体の名は札に書かない。用途だけを書く。

 

 可視化。

 

 誘導。

 

 遮蔽。

 

「見えぬものには、色を与えればよい。神秘を剥がすのは、蛍光塗料で足りる」

 

 真壁は静かに笑った。

 

 その笑いは大きくない。声を上げるわけでもない。だが、一人きりの秘密基地で、異世界には存在しない装備を並べている男の顔としては、十分に楽しそうだった。

 

「この世界に機関砲がないのは、惜しいことだ。いや、ないからこそ、ここで作る価値がある」

 

 今度は別の覆い布を外す。

 

 レールガン。

 

 未来知識で自作したそれは、無骨で、静かで、明らかにこの世界の物ではなかった。自作バッテリーも横に置かれている。性能は高い。だが、気軽に使えるものではない。

 

「レールガン。響きがよい。だが三発で数万円か。美しいものは、維持費がかかる」

 

 真壁は、まるで高価な美術品の維持費を語るように言った。

 

 秘密基地の太陽光発電は、照明や冷暖房や工具を動かすには十分だ。だが、この高出力のバッテリーを実用時間内に戻すには足りない。今回の分は、すでに充電してある。切り札は、切り札として置く。

 

 札には、短く書かれた。

 

 高威力保険。

 

「群れ。大型。不可視。なるほど、よい教材だ。澪君には悪いが、実に配置がよい」

 

 防護服が出る。

 

 防刃、防弾、空調機能付きのパイロットスーツ。澪の体格に合わせ、動きを妨げないように整えてある。前衛にするための服ではない。壊さないための服だ。

 

「防護服に空調は要る。汗で判断を鈍らせるなど、品がない」

 

 さらに、ネットランチャー。

 

 名は直截だが、用途は明快だ。半径七メートル分を絡め取る捕縛装備。真壁はそれを持ち上げ、重心を確かめ、静かに棚へ置いた。

 

「ネットランチャー。名は少々直截だが、用途は美しい。一網打尽という言葉には、古来より浪漫がある」

 

 札が増える。

 

 退避。

 

 遮蔽。

 

 捕縛。

 

 噴霧。

 

 可視化。

 

 記録。

 

 高威力保険。

 

 予備。

 

 澪用。

 

 監督者確認。

 

 危険なものが増えるたびに、分類も増える。武器が増えるたびに、棚が整う。真壁の中では、それが自然な順番だった。

 

「名のない武器は、責任のない武器だ。置き場のない装備は、事故になる」

 

 彼は最後に、宿泊用の寝具を確認した。毛布、枕、水、灯り。そこだけ妙に生活感がある。

 

「寝床も必要だ。睡眠を削らぬ条件を、こちらが破るわけにはいかん」

 

 真壁は棚を見渡した。

 

 冷暖房の効いた快適な室内に、異世界にはないロマン武器が整然と並んでいる。覆い布の下から、金属の輪郭が静かに眠っている。

 

「ふふ。これは基礎訓練だ。基礎とは、最初から美しく過剰であるべきだ」

 

 本人は、本気でそう思っている顔だった。

 

 

 

 

 

 江古田へ戻った時、六畳間の灯りはまだついていた。

 

 澪は机に向かっていた。大学の資料は閉じられていない。課題分解メモの横に、金曜のメモが置かれ、真壁から渡されていた鑑定記録の写しも端にある。鉛筆の線は少し増えている。何も進んでいないわけではない。

 

 だが、すっきりしている顔ではなかった。

 

 澪は顔を上げる。

 

「遅かったですね」

 

 言った瞬間、真壁の服や靴に、わずかに石粉の気配があることに気づいた。表情は静かだ。けれど、どこか妙に充実している。嫌な予感が、背中のあたりをゆっくり上がってきた。

 

「条件をそろえてきた」

 

「聞きたくない言い方です」

 

 澪は机の上の紙に視線を落とした。聞きたくないのに、聞くしかない。自分で飲んだ条件だからだ。

 

 真壁は座らず、淡々と報告した。

 

 純鉄インゴットは契約品として納入した。侯爵家は受け取った。魔物討伐訓練の限定許可も取れた。侯爵家管理下。監督者付き。撤退条件あり。討伐記録提出。素材処理は侯爵家の規則に従う。

 

 言葉が一つずつ、机の上へ置かれていく。

 

 澪は、それが昨日の条件と噛み合っていることを理解した。理解したくないのに、分かる。大学は犠牲にしない。睡眠は削らない。無許可ではない。撤退条件もある。雑ではない。

 

 だから逃げにくい。

 

「何と戦うんですか」

 

 澪は聞いた。声は平らに出したつもりだったが、少しだけ喉が硬かった。

 

「明日、場で見る」

 

「今、教えないんですか」

 

 澪は眉を寄せた。名前だけでも知っておきたい。だが、知ったら知ったで一晩中その名前と戦う気がした。

 

「先に名前を聞けば、君は名前と戦う。明日は相手の形を見る訓練だ」

 

「絶対ろくでもない相手ですね」

 

 澪は反射で返したが、真壁の言葉が少し刺さった。名前と戦う。たしかに、知れば想像が膨らむ。膨らんだ想像は、たぶん実物より先に澪の頭を埋める。

 

「侯爵家の監督下だ」

 

「否定してません」

 

 否定してほしかったわけではない。けれど、否定されないと、やはりろくでもないのだと分かってしまう。

 

 真壁はさらに続けた。

 

「採石場の秘密基地に、明日の装備は置いてある」

 

「秘密基地」

 

 澪はそこで止まった。

 

「先日より作ってある。太陽光発電。蓄電。冷暖房完備で快適だよ」

 

「快適にしないでください。断りにくいじゃないですか」

 

 言ってから、澪は自分でも、突っ込む場所がそこなのかと思った。違う。問題は、採石場に秘密基地があることだ。さらに、そこに明日の装備が置いてあることだ。

 

 なのに、冷暖房完備という言葉が妙に強い。

 

「今からですか」

 

「そうだ」

 

「教会へ行って、それから採石場ですか」

 

「そうだ」

 

「家で寝ればいいじゃないですか」

 

「明朝の移動時間を削る。睡眠時間は削らない」

 

「採石場に泊まるって、普通の大学生の金曜夜じゃありません」

 

 澪はそう言いながら、もう鞄の横に手を伸ばしていた。寝間着や最低限の着替えが必要になる。自分が動こうとしていることに気づき、少し悔しくなった。

 

 真壁は静かに言った。

 

「移動を朝に置く方が品が悪い」

 

「品で外泊を正当化しないでください」

 

 澪は立ち上がった。

 

 嫌だ。怖い。面倒だ。だが、昨日、飲んだ。しかも、真壁は条件を破っていない。むしろ、守るために採石場に泊まると言っている。

 

 逃げ道がないのではない。

 

 逃げ道の前に、札が付いている。

 

 そういう感じがした。

 

 

 

 

 

 夜の教会は、昼よりも石の匂いが強かった。

 

 人の出入りが少ないせいか、床の冷たさも、燭台の光も、いつもよりはっきりしている。司祭は事情を聞いていたのか、長くは問わなかった。真壁が必要な言葉を整え、澪はその横で、自分の手が少し冷えていることに気づいた。

 

 商人から、行商人へ。

 

 言葉にすると、たったそれだけだ。

 

 けれど、教会の静けさの中でその手続きを受けると、澪の中で何かが少しずれた。

 

 店の中で品を見る感覚が、薄く後ろへ下がる。その代わりに、道、荷、距離、時間というものが、まだ見えないのに、体の端へ触れてくる。部屋の中に置かれた品ではなく、外へ持ち出す荷。棚の前ではなく、分岐の前。値札ではなく、距離と時刻。

 

 体が変わったというより、見る場所が少し外へずれた。

 

「本当に変わった気がします」

 

 澪は小さく言った。

 

 声に出すと、余計に本当になった。戻れない、というほど大げさではない。けれど、昨日までの自分と同じ場所には立っていない気がする。

 

「嫌な納得感があります」

 

 真壁は何も言わずに待った。

 

「商人より、外へ出る感じがします」

 

 澪は自分の胸元を押さえた。怖いのに、言葉は正確だった。正確なのが嫌だった。

 

「逃げ道がなくなっていく音がします」

 

「逃げ道ではない。道だ」

 

「言い換えが強いです」

 

 澪は顔をしかめたが、少しだけ息ができた。真壁の言い換えは、逃げる余地を削る代わりに、足場も置く。そこがずるい。

 

 真壁はすぐに澪を鑑定した。

 

 夜の教会の片隅で、燭台の光が揺れる。澪は、真壁の手元を見る。紙が出る。書き付ける準備が整っている。自分の数字がまた並ぶのだと思うと、胃のあたりが重くなった。

 

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篠原 澪

分類:人間/異界渡航者

役割:押入商会代表/育成計画実行者

現在ジョブ:行商人 Lv1

前職:商人 Lv14

状態:ジョブチェンジ直後/軽度緊張/処理負荷残存

疲労度:39%

身体異常:なし

異界適応:安定

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基礎能力値

体力:45

筋力:31

器用:63

知力:74

判断:65

精神:69

集中:57

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既得スキル

鑑定:8

収納:8

錬金:4

雷:8

火:1

収納内時間停止:芽あり

技能:彫金

技能:手仕事

技能成長:鑑定:精度上昇

技能成長:収納:工程保持に適性あり

技能成長:手仕事:安定性向上

並行思考:芽あり

防衛用収納展開:1

統率個体識別:1

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新規スキル

地図:1

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注意

地図1は、現在地、通過経路、目印、分岐、退避方向を記録する初歩段階。

真壁久忠が行商人へ転じた際に得た地図1と同系統。

ただし、篠原澪は行商人としての実地経験がないため、地図情報を現場判断へ結びつける訓練が必要。

移動加速は未発現。

危険察知は未発現。

行商人としての成長には、実際の道行き、荷管理、危険遭遇時の判断経験が必要。

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「本当に全部出しましたね」

 

 澪は紙を見ながら言った。

 

 自分の体力、筋力、器用、知力、判断、精神、集中。並んだ数字は、大学の成績表とは違うのに、妙に逃げ場がない。けれど、知力が不足していないこと、集中と判断が少し上がっていることも見える。

 

「筋力、上がらないんですね」

 

 そこだけ少し安心しかけて、すぐに自分で嫌になった。安心する場所がそこなのか、と思う。

 

「そこは安心していいんですか」

 

「君を前衛にする計画ではない」

 

「それは、ちょっとだけ安心します」

 

 澪は本当に少しだけ安心した。少しだけだ。真壁の「前衛にしない」は、「安全圏に置く」と同じ意味ではないことを、もう知っている。

 

「集中と判断、ちょっと上がってますね」

 

「行商人に必要な方向だ」

 

 真壁は紙を見て、そこで目を止めた。

 

「地図が出たか」

 

「地図が出てます」

 

 澪はその文字を見た瞬間、背中が少し冷えた。道に出る側になった、と表示で言われた気がした。

 

「真壁さんと同じですか」

 

「同じだ。違うのは、地図ではない。地図を見る者の経験だ」

 

「つまり、私の使い方がまだ下手なんですね」

 

 澪はそう言いながら、少し口を曲げた。下手と言われる前に自分で言った方が、痛みが小さい気がした。

 

「下手ではない。未使用だ」

 

「言い方を整えても、意味は同じです」

 

「明日、白いところに線を引く」

 

「それ、明日ちゃんと外に出るって意味ですよね」

 

「そうだ」

 

「聞きたくない確認でした」

 

 澪は紙を受け取った。

 

 嫌だった。だが、折らなかった。乱暴に鞄へ突っ込むこともしなかった。ステータスメモを丁寧に重ね、端をそろえた。

 

 自分のものだからだ。

 

 真壁だけが持っている紙ではない。自分がこれから増やすものの基準になる紙だ。

 

 それが分かってしまうのが、また嫌だった。

 

 

 

 

 

 教会を出たあと、ハイエースは夜の道を走った。

 

 澪は助手席で、窓の外を見ていた。暗い道に、街灯の少ない区間が続く。大学で資料を読み、六畳間で真壁を待ち、夜の教会で行商人になり、今は採石場へ向かっている。

 

 金曜の一日の中に並べるには、どれも重すぎる。

 

「大学から教会へ行って、行商人になって、採石場に泊まる大学生って何ですか」

 

 澪は窓に映る自分を見ながら言った。

 

 笑いにしたかったが、あまり笑えなかった。けれど、言葉にしないと、頭の中で一つに固まってしまいそうだった。

 

「押入商会代表だ」

 

「答えになってるのが嫌です」

 

 澪は少しだけ肩を落とした。

 

 もう、ただの大学生です、と言い切れない。だからといって、大学生ではなくなったわけでもない。二つの紙を同じ机に置かず、分けて扱えと真壁は言った。今、まさにその二つを持って夜道を移動している。

 

 採石場に近づくにつれて、空気の匂いが変わった。

 

 夜の冷えた空気に、乾いた石粉の匂いが混じる。ハイエースが止まると、周囲は静かだった。昼の作業音はなく、遠くで小さな虫の声がするだけだ。

 

 真壁が先に降り、澪も続いた。

 

 暗がりの中に、資材置き場のような小屋が見える。真壁が鍵を開け、扉を押す。

 

 中から、冷暖房の効いた空気が流れた。

 

 澪は固まった。

 

 照明がつく。作業台がある。工具棚がある。保管棚がある。奥には寝具が整えてある。壁際には、覆い布をかけられた何かが複数並び、札の下が少し見えている。金属の箱もある。布のかかった長いものもある。何か、明らかに普通ではない気配がする。

 

「先日より作ってある。太陽光発電。蓄電。冷暖房完備で快適だよ」

 

「秘密基地って、本当に秘密基地なんですか」

 

 澪は呆然とした。

 

 突っ込みたい場所が多すぎて、最初の一つが分からない。採石場にこんな部屋を作っていたこと。冷暖房が効いていること。寝具があること。覆い布の下に、どう見てもろくでもない物が並んでいること。

 

「採石場の作業拠点だ」

 

「冷暖房完備の作業拠点を、普通は秘密基地って言うんです」

 

「快適な方が、判断は落ちない」

 

「快適にしないでください。断りにくいじゃないですか」

 

 澪はそう言ってから、また自分の反応がおかしいと思った。断りにくいことが問題ではない。いや、問題ではある。だが、それ以前に、真壁が採石場に快適な秘密基地を作っていたことが問題だ。

 

 視線が、覆い布の列へ吸い寄せられる。

 

「何か並んでますよね」

 

 澪の声が少し低くなった。見たいような、見たくないような。見たら眠れなくなる気がする。

 

「明朝見る」

 

「今、見たら駄目ですか」

 

 聞いた瞬間、自分でもなぜ聞いたのか分からなくなった。見たくないはずなのに、分からないまま寝るのも嫌だった。

 

「睡眠を削らぬことも条件の一つだ」

 

「そこだけ真面目に守るの、ずるいです」

 

 澪は寝具の横に腰を下ろした。

 

 床は清潔で、空気は快適で、外の採石場の粉っぽさが嘘のようだった。だから余計に、覆い布の下の気配が強くなる。快適な部屋に物騒なものが眠っている。

 

「よい訓練は、前夜から始まる」

 

「だから、ブートキャンプじゃありません」

 

 澪はステータスメモを膝の上に置いた。

 

 体力、筋力、器用、知力、判断、精神、集中。

 

 現在ジョブ、行商人。

 

 新規スキル、地図。

 

 その文字を見て、澪はようやく、自分が本当に一段進んだことを認めた。

 

 怖い。

 

 嫌だ。

 

 でも、もう飲んだ。

 

 真壁は照明を少し落とした。寝るための明るさだけが残る。

 

「寝たまえ。明日は道を見る」

 

 澪はメモを胸元に引き寄せた。

 

「……本当に明日なんですね」

 

「条件はそろった」

 

「そこまでそろえなくていいんですよ」

 

「そろえぬ訓練は、品が落ちる」

 

「最後までそれですか」

 

 真壁は答えなかった。

 

 外では、夜の採石場が静かに冷えている。中は、冷暖房が効いていて、寝具があり、覆い布の下に明日のための装備が眠っている。

 

 澪は目を閉じた。

 

 眠れるかどうかは分からない。

 

 けれど、睡眠を削らないことも条件の一つだった。

 

 それすら、もう逃げ道ではなく、道の一部になっていた。

 

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