押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第94話 秘密基地の朝

 

 澪は、知らない天井を見て目を覚ました。

 

 正確には、知らない天井ではなかった。昨夜、真壁に連れてこられ、見せられ、寝具まで整っていた場所だ。だが、眠りから浮かび上がった直後の頭には、江古田の六畳間でもなく、実家でもなく、教会でもない天井が、ひどくよそよそしく見えた。

 

 空気は快適だった。

 

 冷えすぎてもいない。暑くもない。寝具は普通に寝具として成立していて、昨夜の自分が、悔しいことにわりと眠れてしまったことを、体が先に認めている。

 

 その快適さの外側から、乾いた石粉の匂いが薄く入っていた。

 

 採石場だ。

 

 澪はまばたきをしてから、寝具の横に置いた紙へ手を伸ばした。折らずに置いたステータスメモである。端をそろえた紙の中央には、「行商人 Lv1」と「地図:1」の文字が、昨夜よりもはっきりした現実として残っていた。

 

 その二つが目に入った瞬間、教会の石床、燭台の光、真壁が鑑定した時の静かな声、夜のハイエース、採石場の扉、冷暖房の効いた秘密基地が、順番を無視して戻ってきた。

 

「……夢じゃないんですね」

 

 澪は小さく言った。

 

 夢であってほしい、というほど都合よくはなかった。足元に寝具があり、横には水があり、少し離れたところには作業台がある。壁際には棚が並び、棚の一部には札がついている。昨日、覆い布の下に隠れていたもののいくつかが、今朝は隠れていなかった。

 

 棚には、金属の箱や噴霧用らしい容器が整然と並び、長い覆い布の端から硬い輪郭が覗いていた。札には、退避、遮蔽、捕縛、可視化といった言葉が整った字で書かれている。見たことのある防護服らしきものもあれば、見たことがないのに見たくないと分かるものもあった。

 

 そして、布をかけられていてもなお、そこだけ空気の密度が違うように感じる長い装置がある。

 

 澪は、寝具の上でしばらく固まった。

 

「朝から秘密基地って、情報量が多いです」

 

 声に出してから、今日最初の言葉がそれでよかったのかと少し思った。けれど、ほかに言いようがなかった。

 

 真壁はすでに起きていた。

 

 作業台の前に立ち、紙の束を確認している。昨夜、真壁が一人で何をしていたのかは、棚の量を見ればだいたい分かる。分かりたくないが、分かる。

 

「よく眠れたなら、よかった」

 

「そこじゃありません」

 

 澪は起き上がった。冷暖房の効いた室内で、寝起きの声があまり乱れないのがまた腹立たしい。外は採石場なのに、中は快適すぎる。

 

「何か、昨日より布が減ってます」

 

「明朝見ると言った」

 

「明朝になったから見せる、じゃないんですよ」

 

 澪は棚を見た。

 

 札は、武器の名前ではなく用途を示していた。逃げる場所、隠れる方法、捕まえる手段、見えないものを見えるようにする準備。どれも朝起きて最初に見る言葉としては不穏すぎる。

 

 真壁は平然としていた。

 

 平然として、さらに不穏なものを取り出した。

 

「まずこれを着たまえ」

 

 出てきたのは、服というより装備だった。人間の形をしている。だが、大学へ行く服では絶対にない。黒っぽい生地と硬い部位があり、内側には空調のための薄い機構が仕込まれている。真壁の手つきは、昨日の食器を出す時と変わらない。

 

「まずこれを着たまえ、じゃないんですよ」

 

 澪は反射で言った。言ったあと、目の前の物が本当に自分用なのだと分かり、胃のあたりが少し重くなった。

 

「防刃防弾パイロットスーツだ。空調機能も付けてある」

 

「女子大学生に出す朝の服じゃありません」

 

「今日は大学ではない。服も、講義に合わせるものではなく、場に合わせるものだ」

 

「そういう問題じゃありません」

 

 真壁は、少しだけ澪を見た。

 

「澪君を前に出すための服ではない。壊さぬための最低条件だ。見栄えより、壊れぬことを優先する日もある」

 

 澪は黙った。

 

 突っ込みたい。非常に突っ込みたい。だが、着ないで外へ出ることを想像すると、そちらの方が怖かった。真壁の準備は過剰だ。過剰なのに、過剰なだけではない。

 

 それがいちばん困る。

 

 澪は防護服を受け取った。重さを覚悟したが、思ったより動かしやすい。袖を通すと、内側の空気が流れ、体に妙に合った。

 

「……動きやすいのが腹立ちます」

 

「動きにくい防護服は、品が落ちる」

 

「防護服に品を求めないでください」

 

 着替え終わる頃には、澪は自分がもう「今日は行きません」と言える位置から一段降りてしまったことを自覚していた。

 

 服を着る。

 

 その行為だけで、今日が始まってしまう。

 

 外で車の音がした。

 

 採石場の朝の光が、扉の隙間から少し入る。真壁が扉を開けると、石粉を含んだ空気が室内の快適さを一瞬だけ破った。

 

 入ってきたのは、現場用の外套を着た青年だった。

 

 年齢は二十代後半から三十代前半ほどに見える。貴族らしい整った所作があるが、靴は現場の土を踏むためのものだ。腰の剣も飾りではない。澪を見て、真壁を見て、それから室内の棚を見た。

 

 その視線が、一瞬止まった。

 

 棚には、用途ごとの札と、用途に従って収められた装備がある。金属箱も、覆い布も、防護服も、容器も、長い装置も、どれも使う場面を待っているように並んでいた。

 

 貴族青年は、何か言いかけて、言わなかった。

 

 その抑制だけで、彼がただの机上の貴族ではないことが分かった。

 

「バルツァー男爵家長男、レオンハルト・バルツァーと申す。侯爵家より、此度の監督を命じられた」

 

 礼儀正しいが、硬すぎない名乗りだった。

 

 澪も名乗った。自分が押入商会代表として扱われていることを、こういう場で改めて知る。パイロットスーツ姿で名乗る押入商会代表。意味が分からないが、もう現実だ。

 

 レオンハルトは真壁へ向き直った。

 

「真壁殿。確認する。これは訓練であり、私の中止判断が最優先される。そこに異論はないな」

 

 声は静かだった。だが、そこには侯爵家側の責任があった。

 

 真壁は軽くうなずいた。

 

「ありません。今回もっとも重い札は、監督者殿の中止権限ですな」

 

 レオンハルトの眉が、わずかに動いた。

 

 中止権限を邪魔な制約ではなく、もっとも重い札と呼ぶ。その言い方が気になったのだろう。澪にも少し分かった。真壁は相手を立てている。だが、へりくだってはいない。侯爵家の顔を潰さずに、その場の中心を取っている。

 

「侯爵家の監督者殿を、飾りにするつもりはありません」

 

 真壁は続けた。

 

「止める者のいない訓練は、訓練ではなく事故です。事故には品がありません」

 

 レオンハルトは棚を見た。

 

「……この量を用意して言う言葉か」

 

「量が多い時ほど、止める権限は重くなりますな」

 

 澪は、レオンハルトがもう一度棚を見たのを見逃さなかった。

 

 引いている。

 

 ただし、引きながらも見ている。

 

 真壁は装備を収納へ入れるもの、車両へ載せるもの、手元に置くものに分け始めた。澪には何も持たせない。防護服を着た澪がぼんやり立っている間に、棚の札が次々と確認されていく。

 

 レオンハルトは札を一枚ずつ追った。退避、遮蔽、捕縛、噴霧、可視化、高威力保険、監督者確認。そこに並んでいるのは武器の名前ではなく、失敗した時の置き場だった。

 

 雑ではない。

 

 そう思った顔だった。

 

「この格好で外に出るんですか」

 

 澪は自分の腕を見下ろしながら言った。防護服は動きやすいが、気持ちはまったく動きやすくない。

 

「外へ出るための服だ。今日の服は、気分ではなく条件で選ぶものだな」

 

「正論がつらいです」

 

 澪は息を吐いた。

 

 正論は、こういう時いちばん逃げにくい。

 

 

 

 

 

 ハイエースのタイヤが、採石場の細かな石粉を踏んだ。

 

 朝の光は白かった。石壁に反射した光が、普通の道より少し乾いて見える。車の窓から外を見ると、昨日の夜には見えなかったものが見えた。採石場の出口にある曲がった柵、低い石壁、林道へ入る手前の分岐、侯爵家の標識杭。

 

 レオンハルトは案内役として同乗している。侯爵家側の者たちも、少し離れて続いた。真壁は進路を確認しながら、窓の外へ視線を流している。道幅、曲がり角、標識杭、林道の奥にある開けた場所。声に出してはいないが、見ているものはただの景色ではなかった。

 

 澪は、真壁が黙っている時ほど危ない準備をしているのだと、最近ようやく分かってきていた。

 

 車は、ただ指定地へ向かっている。

 

 ただ、それだけのはずだった。

 

 澪の頭の中に、線が残った。

 

 採石場の入口で曲がった道、低い石壁の横を抜ける場所、侯爵家の標識杭が立つ分岐、林道の曲がり、そして車を下げる時に使えそうな開けた場所が、見た順番のまま白い地図の上に落ちていく。記憶している、というのとは少し違う。もっと勝手だ。道が、自分の中に置かれていく。

 

「これ、勝手に覚えていく感じなんですね」

 

 澪は窓の外を見たまま言った。

 

 便利だと思った瞬間に、便利だと思いたくなくなった。便利なものは、真壁の世界ではだいたい次の行動につながる。

 

「地図1だ。道を見るための最初の道具だな」

 

「便利ですけど、便利って言いたくないです」

 

「便利なものほど、使い方を誤ると品が落ちる」

 

「道まで品で管理しないでください」

 

 澪はそう返したが、頭の中に残る線から目を離せなかった。

 

 自分が行商人になったのだと、朝の車中で改めて思い知らされる。店にいる商人ではなく、道へ出る商人。道を覚え、戻る場所を覚え、荷を運び、危険を避ける者。

 

 それは、大学の履修表よりもずっと物騒な地図だった。

 

 レオンハルトは何も言わなかった。

 

 彼には澪の頭の中の白い地図は見えない。だが、澪と真壁が普通の地図ではない何かを共有していることは察したらしい。視線が一度、澪の顔と真壁の横顔の間を行き来した。

 

 車は林道を抜け、侯爵家管理地の外縁で止まった。

 

 そこはまだ戦闘区域ではなかった。

 

 車両を下げられるだけの空間があり、森の縁と旧採草地らしい低い草地が見える。斜面もある。遮蔽になりそうな木立もある。遠くは静かで、ぱっと見ただけでは何もいない。

 

 真壁は車から降りた。

 

 レオンハルトも降り、周囲を確認する。侯爵家側の者たちが位置を取る。澪は一呼吸遅れて降りた。足元の土が、採石場の粉とは違う柔らかさを持っている。

 

 真壁はレオンハルトへ向いた。

 

「監督者殿。戦う前に、まず場を見ます」

 

「敵ではなく、場か」

 

「ですな。敵だけを見る者は、己の退く線を忘れます」

 

 真壁の声は、上位の客に品を見せる時のように静かだった。だが、語っているものは、壺でも絵でもない。戦場だった。

 

「東方の古い兵法家に、孫子という者がおりましてな」

 

「ソンシ?」

 

 レオンハルトは聞き慣れない名をそのまま返した。

 

「こちらにはない名でしょう。敵を知り、己を知れば、百戦して危うからず。よい言葉です。ですが、私はその前に、場を知れ、と置きたい」

 

 真壁は森の縁、斜面、車両を下げる場所、レオンハルトが立つべき場所を順に視線で示した。

 

「場を知らぬ者は、己の置き場所すら誤りますからな」

 

 レオンハルトは黙って聞いていた。侯爵家で受けてきた騎士教育には、勇気、忠義、剣、隊列、命令があったのだろう。だが、真壁はその前に、場と情報と退避線を置いている。

 

「情報を買わぬ者は、人の命で代金を払うことになる。戦場の勘定は、なかなか高くつきますな」

 

「……厳しい言葉だ」

 

「戦場は、請求書を待ってくれませんので」

 

 澪は、言い方が変なのに、妙に刺さるのが嫌だと思った。

 

 真壁はそこで、収納から小さな機械を取り出した。

 

 レオンハルトの表情が変わる。

 

「……鳥ではないのか」

 

 小さな機械は、羽ばたかずに浮いた。回転する音が細く響き、まっすぐ上へ上がる。鳥でも虫でもない。魔道具とも違う。レオンハルトが見上げるのも無理はなかった。

 

「鳥ではありません。鳥でないからよいのです。怯えず、疲れず、命令に従う」

 

 真壁は端末の画面を開いた。

 

 上空からの映像に、森の縁が映る。斜面、旧採草地、車両を下げられる場所、レオンハルトが立つ位置、澪が射撃するなら使える角度。真壁は敵より先に、それらを見ていた。

 

 澪は横から画面を見る。

 

 同時に、自分の地図1が薄く動いた。

 

 白い地図の上に、赤い点が複数浮かぶ。

 

 それは一つではない。散っているが、ひとまとまりの動きとして見える。森の縁の奥、草地へ向かう線に沿って、赤が増える。

 

「赤いの、増えて……」

 

 澪は言いかけた。

 

 真壁の声が低く入った。

 

「澪君。見えたものを、そのまま言葉にしない」

 

「あ」

 

 澪は喉を止めた。

 

 レオンハルトには見えていない。自分と真壁の地図に出ている赤は、普通の情報ではない。見えたからといって、何でも口にしていいわけではない。

 

 これも訓練だ。

 

 そう気づいた瞬間、背中が少し冷えた。

 

 真壁は、レオンハルトにはドローンの画面を示した。

 

「監督者殿。群れです。数が多い。まずは群れの形を崩します」

 

「群れを、形で見るのか」

 

「一匹ずつ見れば、多い。形で見れば、崩す線がある」

 

 真壁は車両の位置を変えさせた。

 

 ハイエースを射撃台にする。車体を固定し、前方の角度を取る。澪が上がるための足場を出し、レールガンを遠距離射撃用に配置する。レオンハルトには監督位置を確認させ、侯爵家側には側面と退避線を見させた。

 

 澪はハイエースを見た。

 

「ハイエースって、射撃台になる車でしたっけ」

 

「今日はなる」

 

「車の用途がかわいそうです」

 

 そう言いながら、澪はもう足場を見ていた。上がるのが怖い。上がらない方がもっと怖い。自分の中で、嫌だとできないが別々の箱に分かれ始めている。

 

 レオンハルトは配置の進み方を見ていた。

 

「真壁殿。貴殿は、武器を見せているのではないな」

 

「左様。並べているのは、失敗した時の逃げ道です」

 

「逃げ道を先に並べるのか」

 

「勇気というものは、退く線が見えてこそ品を持ちますな」

 

 レオンハルトは、その言葉をすぐには返さなかった。

 

 澪には、レオンハルトの顔が少し変わったように見えた。警戒は消えていない。だが、ただの異界商人を見る目ではなくなっている。

 

 真壁は澪を呼んだ。

 

「澪君。上がりたまえ」

 

 澪はハイエースの上へ上がった。

 

 足元の硬さが、靴底越しに伝わる。防刃防弾パイロットスーツの空調が、変に律儀に効いていた。怖いのに、汗で崩れにくい。そこまで準備されていることが、余計に逃げにくくする。

 

 遠くに森の縁が見えた。

 

 画面にはドローン映像。

 

 頭の中には赤い点。

 

 現実の草地と、地図1の赤と、真壁の示す射線が、まだ完全には重ならない。澪は唇を噛んだ。

 

「澪君。漫然と撃ってはならん」

 

「撃つ前に説教ですか」

 

 声が少し震えた。冗談にしたかったが、息が浅い。

 

「説教ではない。成長の向きを決める」

 

 真壁はハイエースの横に立ち、見上げる形で言った。

 

「レベルが上がる時、何が伸びるかは、倒した事実だけで決まるものではない。何を意識し、何を使い、何を選んだか。それが効く」

 

 澪はレールガンを見た。

 

 重い。持ち上げて振り回すものではない。ハイエース上に固定され、角度を合わせられている。自分はそれを扱う。扱う、というより、真壁が作った配置の中で発射する。

 

「君が伸ばしたいのは、力任せの筋力ではない」

 

 真壁の声は静かだった。

 

「集中。判断。精神。地図。器用。収納。そして、恐怖の中で手順を崩さないことだ」

 

 澪は目を閉じた。

 

 怖い。

 

 狼が怖い。レールガンが怖い。自分が撃つことが怖い。撃ったあと、何が起こるか分からないのが怖い。

 

「赤い反応を見る。現実の森を見る。二つを重ねる」

 

 真壁の声に合わせて、澪は目を開けた。

 

「狼ではなく、群れの形を見る。撃つのは敵ではない。群れの進路を崩す一点だ」

 

「怖いです」

 

 澪は正直に言った。

 

 言った瞬間、少しだけ楽になった。怖いと言っても、止まるとは限らない。それを昨日から真壁に分けられている。

 

「怖いまま、手順を守りたまえ」

 

「怖いまま、やるんですね」

 

「怖さを消す必要はない。だが、怖さに指揮権を渡してはならん」

 

 澪は息を吸った。

 

 地図1の赤。

 

 ドローン映像の森の縁。

 

 真壁が示した角度。

 

 群れの中心ではない。広がる前の進路を切る一点。

 

 手順を、頭の中で一つずつ置く。怖い、を横に置く。消えない。だが、手順の上には乗せない。

 

「伸ばす能力を意識しろ。集中、判断、精神、地図。今の一撃は、敵を減らすためだけのものではない」

 

「……私を上げるため」

 

「左様。狼を撃つのではない。君の次の器を作る」

 

「そういう言い方をされると、逃げにくいんですけど」

 

「逃げにくくするために言っている」

 

 ひどい。

 

 澪はそう思った。

 

 けれど、そのひどさが、今は足場になっている。優しく「無理しなくていい」と言われたら、きっと崩れる。真壁は崩れないように、逃げ道ではなく手順を置いている。

 

 澪は構えた。

 

 指先が震える。だが、震えたまま確認する。角度。固定。視線。赤い点。森の縁。群れの進路。

 

 真壁の声がした。

 

「よろしい。撃ちたまえ」

 

 一発。

 

 音より先に、空気が裂けた。

 

 澪の視界の端で、草が平たく倒れる。遠くの地面がえぐれ、土煙が遅れて上がった。森の縁を走っていた群れの進路に穴が開き、先頭と後続の動きが噛み合わなくなる。走る形そのものが壊れ、左右へ割れた狼たちの赤が、白い地図の上で一気に欠けていった。

 

 半分。

 

 数えるより早く、そのくらい消えたと分かった。

 

 澪は息を止めた。

 

 耳の奥に、遅れて音が来る。足元の車体が硬い。防護服の中の空調だけが、場違いに静かに動いている。

 

 レオンハルトも、侯爵家側の者たちも、言葉を失っていた。

 

「これ、私が撃ったんですか」

 

 澪は自分の声を、遠くから聞いた。

 

 倒した、ではない。

 

 消した。

 

 自分の指の動きと、遠くの赤が消えたことが、同じ線でつながってしまった。その感覚が、胸の真ん中に重く置かれた。

 

 真壁だけが驚かなかった。

 

 彼は遠方の土煙と、地図の反応と、残った群れの動きを見た。

 

「残敵掃討」

 

 短い声だった。

 

 真壁が用意していた機関砲が動く。細かな説明は何もない。真壁はただ、残った狼の動きを見て、逃げ道と射線が重ならない位置から、残敵を処理していく。

 

 澪に全部をやらせない。

 

 最初の一撃は澪の役割だった。群れの形を崩し、地図と現実を重ね、自分の行動が戦場を変えることを知る。その後の掃討は、真壁が引き受けた。

 

 赤い点が減っていく。

 

 それが現実の遠方の土煙と重なる。

 

 澪はハイエースの上で膝に力を入れようとした。入ったのか入っていないのか分からない。立ってはいる。崩れてはいない。だが、平気ではない。

 

 レオンハルトは、真壁の動きから目を離せなかった。

 

 レールガンの威力に驚いたのではない。いや、驚いてはいる。だが、それだけではない。火力を置く位置が先に決められていた。撤退線も、監督位置も、車両位置も、澪の射撃位置も、先に置かれていた。

 

 真壁は、戦場が始まる前に戦場を作っていた。

 

「……真壁殿。これは訓練計画ではなく、軍令書に近い」

 

 狼の最後の反応が消えた後、レオンハルトが低く言った。

 

 真壁は機関砲から手を離し、静かに答えた。

 

「そう見えたなら、配置は崩れていないのでしょうな。ですが、澪君は兵ではありません。行商人です」

 

「行商人に、ここまでの配置を」

 

「道は、戦場ほど親切ではありませんので」

 

 レオンハルトは黙った。

 

 その沈黙は、反論のためのものではなかった。何かが彼の中で組み替わっている沈黙だった。

 

 それでも、彼は監督者だった。

 

 レオンハルトはハイエースの上の澪を見上げ、次に真壁を見た。

 

「続行可能なのか」

 

 その一言で、澪は少しだけ救われた。驚いているだけではない。真壁に心を奪われかけていても、レオンハルトは監督者として澪を見ている。

 

 真壁は澪の顔色、手の震え、足元、呼吸を順に確認した。

 

「手順は崩れていない。恐怖はあるが、指揮権は渡していませんな」

 

「本人に聞け」

 

 レオンハルトの声は短かった。

 

 真壁はうなずき、澪を見上げる。

 

「澪君。立てているか」

 

「立ってます」

 

 澪は答えた。答えたことで、自分が本当に立っていると分かった。

 

「手順を思い出せるか」

 

「思い出せます。嫌ですけど」

 

「よい」

 

「よい、なんですか」

 

 澪は息を吐いた。

 

 狼の群れはもういない。

 

 土煙が薄くなっていく。赤い点は消えている。自分が撃った結果が、現実にも地図にも残っている。

 

「半分、消えましたよね」

 

 澪はようやく言った。

 

 言葉にしないと、飲み込めなかった。自分が何をしたのか、形にしないと胸の中で暴れそうだった。

 

「群れの形は崩れた」

 

「言い換えないでください。消えました」

 

 澪は真壁を見下ろした。

 

 責めたいわけではない。だが、真壁の言い換えだけで、今見たものを小さくされたくなかった。

 

 真壁は受け止めた。

 

「見たものを正しく持つのはよい。だが、そこで止まるな」

 

「止まらせてくださいよ」

 

 澪の声は少し震えていた。怖かった。今も怖い。撃った。赤い点が消えた。自分がやった。

 

 だが、泣くところまでは落ちていない。崩れてはいない。怖いまま、立っている。

 

 真壁は澪の手元、姿勢、呼吸、視線をもう一度見た。

 

「手順は崩れていない」

 

「それ、褒めてますか」

 

「評価している」

 

「褒めてください。いや、褒められても困ります」

 

 澪は自分で言って、自分で混乱した。

 

 褒められたい。褒められたら、敵を消したことを肯定されたようで困る。評価なら少し受け取れる。だが、評価だけでは怖さが残る。

 

 真壁はそこまで分かっているような顔をした。

 

「澪君。今の感覚を忘れるな。敵を倒した感覚ではない。手順を守った感覚だ」

 

「忘れたいんですけど」

 

「忘れにくいようにした」

 

「そういうところです」

 

 澪は息を吐いた。

 

 レオンハルトが遠くの土煙を見ていた。やがて、静かに言った。

 

「真壁殿。貴殿は、戦う前に勝つ形を置いたのだな」

 

 真壁は首を横に振った。

 

「勝つ形ではありません。負けぬ形です」

 

「……なるほど」

 

 レオンハルトの声には、先ほどまでとは違う重さがあった。

 

 澪はハイエースの上で、まだ足に力を戻そうとしていた。

 

 狼の群れはもういない。

 

 だが、今日の訓練が終わったわけではないことも、どこかで分かっていた。

 

 地図の白い部分は、まだ広いままだった。




異世界に機関銃とレールガンとドローンを持ち込む男
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