押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第95話 動く地形

 

 土煙は、まだ草地の低いところに残っていた。

 

 風が一度、林道の方から吹き抜ける。折れた草の先が揺れ、乾いた土が細く流れ、ハイエースの屋根に乗った澪の靴先へ、薄い粉のようなものが飛んできた。

 

 赤い点は、もう地図の上にほとんど残っていない。

 

 さっきまで、群れだった。

 

 地図の中でばらばらに動き、現実の草地で黒い影になり、レールガンの照準の向こうで一つの形を作っていた。それが今は、点ではなく、跡になっている。

 

 澪はハイエースの上で、手すりに触れたまま膝に力を戻そうとしていた。

 

 撃った時の音は、外にはもうない。耳の中にも残っていない。けれど、肩には残っている。指にも、息を止めた喉にも、まだ何かが張りついている。

 

 群れを半分崩した。

 

 そう言ってしまえば短い。短くなることが嫌だった。自分がやったことまで、短い言葉の中に押し込まれて軽くなる気がした。

 

 それでも、澪は倒れなかった。

 

 手順は守った。地図を見た。現実を見た。真壁の声を聞き、撃つと決め、撃った。怖さはあったが、途中で投げ出さなかった。その事実も、体のどこかに小さく残っている。

 

 レオンハルト・バルツァーは、草地と澪を交互に見た。

 

 侯爵家監督者としての顔だった。驚きはある。だが、驚きに立場を奪われていない。中止の権限を持つ者の目が、真壁ではなく、澪の足元まで見ている。

 

「続行可能なのか」

 

 問いは短かった。

 

 澪は答えようとして、声がすぐ出ないことに気づいた。喉に土煙が入ったわけではない。自分の中のものが、まだ形になっていないだけだった。

 

 真壁が先に答えた。

 

「まず確認します」

 

「今、ですか」

 

 澪は、自分の声が思ったより小さいことに気づいた。

 

 真壁は、ハイエースの脇に立ち、土のついた足元を少しだけ見てから顔を上げた。表情は変わらない。上品で、余裕がある。けれど、何も見逃していない。

 

「今だ。戦場の熱が残っているうちに、伸び方を見ておく」

 

 澪は息を吸った。

 

 嫌だ、と言いたくなった。だが、今見ないままにしたら、後で自分の頭の中で何倍にも膨らみそうだった。見なかったものほど、夜に大きくなる。澪はそれを知っている。

 

「……分かりました。見ないままにする方が、後で怖くなりそうです」

 

「よろしい。自分の荷は、自分で見た方がよい」

 

「荷、なんですね」

 

「重いものほど、扱いを誤ると落とす」

 

 真壁の目が澪を捉えた。

 

 鑑定を使われる感覚は、何度も経験している。だが、今日は体を見られているだけではない気がした。さっきの射撃、息を止めた瞬間、撃ったあとに残った震えまで、まとめて表示の中へ置かれるようだった。

 

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篠原 澪

現在ジョブ:行商人 Lv1 → Lv3

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基礎能力値

体力:45 → 47

筋力:31 → 32

器用:63 → 67

知力:74 → 75

判断:65 → 70

精神:69 → 73

集中:57 → 63

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自動成長

収納:8 → 9

地図:1 → 2

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取得スキルポイント

保有SP:24

今回取得SP:+2

割振前SP:26

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 表示を見た瞬間、澪の胸の奥で何かが跳ねた。

 

 二つ上がっている。

 

 体力も、判断も、精神も、集中も、数字が動いている。見間違いではない。自分が怖いまま立って、地図を見て、撃って、手順を守った結果が、数字としてそこにある。

 

 嬉しい。

 

 そう思った瞬間、草地の向こうで崩れた群れの跡が目に入った。嬉しいだけではいられない。けれど、嬉しくないと言い切ることもできない。両方が同じ胸の中にあった。

 

「二つ上がってます」

 

「澪君。行商人Lv3だ」

 

「嬉しいのに、少し重いです。でも……上がったものは、使わないと駄目なんですよね」

 

「そうだ。伸びた力は、飾るものではない」

 

 真壁の声は静かだった。励ますための甘さはない。けれど、澪がその重さを見ていることを、否定もしなかった。

 

「基礎能力、数字も上がってます。判断と集中が、かなり」

 

「記録しておく。こういうものは、熱の中で見て、帳面には冷えてから写す」

 

「次に考えて動けるようになった、と思えばいいですか」

 

「よろしい。使い方の品がよくなってきた」

 

「褒められた気がするのに、商材みたいです」

 

「価値ある荷は、雑に扱わぬものだ」

 

 澪は少しだけ口元を動かした。

 

 笑った、というほどではない。だが、息が少しだけ戻った。真壁の言い方は相変わらず逃げ場を狭める。しかし今は、その狭い場所の先に、道があるようにも思えた。

 

 真壁は、澪の表示を見たまま、次の言葉を置いた。

 

「澪君、SPを地図に割り振りたまえ」

 

「地図ですか」

 

「君が次に見るべきものは、敵ではない。道だ」

 

 澪は地図の感覚へ意識を向けた。

 

 狼の群れは点だった。点は消えた。けれど、周囲の白い場所はまだ広い。行商人が道を見るという真壁の言い方は、最初に聞いた時よりも少しだけ体に入ってくる。

 

「敵より先に、道を見る」

 

「逃げるためにも、進むためにも、道は要る」

 

 澪は鑑定表示の中のSPを見た。

 

 保有SP二十四。今回取得二。割振前二十六。そこから地図へ二を割り振る。数字は単純だ。だが、真壁が勝手に動かすのではない。自分で選ぶ。

 

 澪は目を閉じかけ、途中で止めた。

 

 見ながら選ぶ。

 

「分かりました。広がるなら、先に見えます」

 

「その判断でよい」

 

 澪は、自分の意思で地図を選んだ。

 

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スキルポイント割振

割振対象:地図

消費SP:2

地図:2 → 3

割振後SP:24

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現在反映

収納:9

地図:3

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 白い範囲が、一段外へ広がった。

 

 視界が変わったわけではない。草地が急に透けて見えるわけでもない。けれど、頭の中に置かれている地図の余白が押し広げられ、そこへ線が引かれていく。

 

 林道の先。低い草地。斜面の裏。ハイエースを下げられる場所。射線が通りそうな筋。水の気配がある低い窪み。人が走るには危ない石の多い場所。通れる線と、通るべきではない線。

 

 澪はハイエースの屋根に手をつき、ぐっと息を整えた。

 

 広がった。

 

 怖い。けれど、怖いだけではない。

 

「広がりました」

 

「よろしい」

 

「広がったなら、先に分かりますね。怖いですけど、見えないままよりはいいです」

 

「地図は、安心するためだけの道具ではない。見落とさぬための道具だ」

 

「はい。敵じゃなくて、道を見るんですね」

 

 真壁は軽く頷いた。

 

 レオンハルトは、そのやり取りを黙って見ていた。彼には澪の地図は見えない。だが、澪の顔が少し変わったことは分かるのだろう。震えた者の顔から、見ようとする者の顔へ、ほんの少しだけ移ったことを。

 

 澪はハイエースから降りるために、真壁が置いた踏み台へ足を伸ばした。膝はまだ少し頼りない。けれど、足場の硬さが分かる。自分の体が、地面に戻ってくる。

 

「真壁さんは?」

 

「こちらも見ておくか。品物の片方だけを量るのは、形が悪い」

 

 真壁は、まるで自分自身も商談の品目の一つであるように、平然と鑑定を向けた。

 

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真壁 久忠

現在ジョブ:行商人 Lv2 → Lv3

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基礎能力値

体力:76 → 78

筋力:62 → 64

器用:81 → 83

知力:86 → 87

判断:95 → 97

精神:95 → 96

集中:89 → 91

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既得スキル

商才:4

鑑定:9

収納:9

交渉:8

指揮:7

軍略:6

体術:4

威圧:5

異界適応:4

錬金:5

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自動成長

地図:2

移動加速:1 → 2

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取得スキルポイント

Wolf Pack退治前SP:0

今回取得SP:+2

割振前SP:2

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スキルポイント割振

割振対象:地図

消費SP:2

地図:2 → 3

割振後SP:0

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現在反映

地図:3

移動加速:2

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「真壁さんも上がってます」

 

「残敵掃討をした。上がらぬ方が不自然だな」

 

「行商人ですよね」

 

「道を塞ぐものを払うのも、行商人の仕事だ」

 

 澪は真壁の表示を見ながら、錬金の文字に目を止めた。そういえば、真壁は当たり前のように物品を作り、調整し、場に合わせて出してきた。何もないところから出てくるのではなく、本人の中にそういう荷がある。

 

 真壁は澪の視線に気づいたが、そこを大きく語りはしなかった。

 

 語らないところが、真壁らしかった。

 

「移動加速も上がってます」

 

「配置を変え、残敵を掃き、退く線を維持した。道を速く使ったのだ」

 

「行商人の説明なのに、だんだん納得しそうで怖いです」

 

「納得できるなら、よい荷になっている」

 

「人を荷にするの、そろそろ慣れてきた自分が嫌です」

 

「慣れたのではない。形を見始めたのだ」

 

 レオンハルトが、横で小さく息を吐いた。

 

 行商人という言葉の意味が、彼の中でも音を立てて広がっているのだろう。荷を運ぶ者。道を扱う者。障害を払い、配置を決め、退く線まで守る者。その広がりが、常識の形を少しずつ崩している。

 

「真壁殿」

 

「何でしょうかな、監督者殿」

 

「貴殿は、討伐そのものより、討伐の仕方を見ているのだな」

 

「その通りですな。倒した事実は一つ。だが、どう倒したかで、次に持ち越すものが変わる」

 

 レオンハルトは、倒れた草地を見た。

 

「……騎士教育でも、それは同じか」

 

「剣を振るう前に、何を見るか。そこからでしょうな」

 

 澪はその言葉で、少しだけ顔を上げた。

 

 自分は、ただ撃たされたのではない。次に持ち越すものを作った。怖さも、重さも、数字も、地図も、その中に入っている。

 

 それを全部、持っていくのだ。

 

 

 

 

 

 広がった地図の端で、赤が動いた。

 

 澪は足を止めた。

 

 Wolf Packの時のような点ではない。群れでもない。長い赤い線が、林道の先を横切るように伸びている。道をなぞる線ではなく、道を断つ線だった。

 

「……点じゃないです」

 

 真壁の目も、同じ方向へ動いた。

 

「線だな」

 

「群れじゃない。道を横切っています」

 

「よく見た。慌てて名を付けるものではない。まず、見る」

 

「はい。先に形を見ます」

 

 真壁は収納から偵察ドローンを出した。

 

 小さな機体は、まっすぐ高くは上がらなかった。草地の起伏を拾うように、低く前へ滑る。風に逆らわず、地面のふくらみを見る高さを保っている。真壁の指が端末を動かし、映像が澪とレオンハルトの見える位置へ出た。

 

 画面の中で、低い草地が横に割れた。

 

 地面が長く盛り上がる。黒く光る外殻の一部が草の間から覗き、すぐに隠れる。節の影が連なり、無数の細い足が草を刻んでいる。地図の赤い線と、映像の中の動きが、じわじわと重なった。

 

 足元の小石が鳴った。

 

 レオンハルトにも、その揺れは伝わった。彼は剣ではなく、まず周囲の者たちを見た。監督者としての目が、前へ出る衝動より先に配置を確認する。

 

「何か来るのか」

 

 澪は映像を見た。

 

 顔が引きつるのは止められなかった。だが、目は逸らさなかった。気持ち悪い。長い。脚が多い。けれど、地図の線と、映像の節が合っている。

 

「大きな虫……いえ、長いです。地図の線と、映像の節が合っています」

 

「大ムカデだな」

 

「赤い線の理由、分かりました」

 

「道を塞ぐには十分な長さだ」

 

「なら、道を空ける方法を考えるんですね」

 

「その通りだ。成長は、温かいうちに使うものだ」

 

 澪は、喉の奥で息を整えた。

 

 さっきなら、嫌だと先に思ったかもしれない。今も嫌ではある。見た目は完全に嫌だ。だが、地図が広がり、映像があり、現実の揺れがある。重ねられる。考えられる。

 

「はい。今なら、見て考えられます」

 

 真壁はすぐに攻撃しなかった。

 

 レールガンの固定台はそこにある。だが、真壁はそれを見もしない。大ムカデの形、進路、速度、曲がる位置を見ている。澪にも、それを見せている。

 

 ドローンがさらに回り込む。大ムカデは地面を押し、低い草を割り、林道へ向かって長い体を滑らせていた。

 

 真壁が問うた。

 

「澪君。百足の弱点は何だ」

 

 澪は映像の中の節と、地図の赤い線を同時に見た。

 

 見た目は嫌だ。嫌だが、そこだけを見ている場合ではない。

 

「……見た目は嫌ですけど、考えます」

 

「よろしい。君の荷を使う」

 

 荷。

 

 その言葉を、今は少しだけ違う意味で受け取れた。自分の中にあるものを、戦場へ置く。きれいな言い方ではない。けれど、役に立つなら、出せるものはある。

 

「寒くなると、見ません」

 

「よい。続けたまえ」

 

「冬は出てこない、くらいしか」

 

「それで十分だ。百足は節足動物だ。寒さに弱い。十度を下回れば動きが鈍る。冬は土の中などで動かなくなる。ならば、冷やせばいい」

 

 真壁の声は、澪の生活の断片を、戦場で使える形に並べ替えた。

 

 レオンハルトの目が、そこでわずかに変わった。真壁が答えを与えたのではない。澪の知識を引き出し、形を整え、場へ置いた。それが分かったのだろう。

 

「私の答えが、戦い方になりました」

 

「君が箱を開けた。私は中の品を並べただけだ」

 

「なら、その荷を使います」

 

「よろしい」

 

 真壁はその場に膝をついた。

 

 澪は一瞬、何をするのかと思った。真壁は収納から細い金属棒を出し、土の上に線を引き始めた。

 

 現在位置。ハイエース。林道。低い草地。水場。赤い線の進路。退避線。澪が立つ場所。真壁が制圧する場所。レオンハルトが全体を見る位置。侯爵家側が記録を取る位置。近づいてはいけない線。

 

 地面に、もう一つの地図ができていく。

 

「ここが我々の位置だ。赤い線はこの林道を横切る。水場は右下。ハイエースはここまで下げる」

 

「皆にも見える形にするんですね」

 

「その通りだ。見える者だけが見えていては、配置にならん。品のよい指揮とは、同じ形を共有することだ」

 

 澪は、地面の地図を見た。

 

 自分の頭の中にある地図3ほど細かくはない。だが、全員が見られる。レオンハルトも、侯爵家側の者たちも、これなら同じ形を持てる。

 

「私たちだけが見えていても、動けませんから」

 

「よろしい」

 

 レオンハルトは、真壁の横へ一歩近づき、地面の線を見下ろした。

 

 彼の目は、もう単なる見物人のものではない。自分の権限がどこに置かれ、どの線を越えてはいけないのかを、線として見ている。

 

「監督者殿は、この線を越えずに全体を見る。中止を告げる声が届く位置だ」

 

「承知した」

 

「剣を前に出す場ではありません。中止の声を、最後まで届く位置に置いていただきたい」

 

 レオンハルトの手が、剣の柄から少し離れた。

 

「……分かった。記録班、後退線を維持しろ」

 

 侯爵家側の者たちが、短く応じる。

 

 真壁は、次に澪の位置を示した。

 

「澪君は水場。前へ出るな。君が扱うのは距離と水だ」

 

「はい。距離と水を見ます」

 

「ハイエースはここまで下げる。車体を壁にするのではない。退く道を塞がぬ位置に置く」

 

「退く道も、次に動く道なんですね」

 

「そうだ。逃げ道ではない。次の道だ」

 

 真壁が立ち上がると、場が一気に動き出した。

 

 ハイエースが地面の地図通りに下がる。侯爵家側の記録係が位置を変える。レオンハルトは剣を前に出さず、声の届く位置へ下がる。真壁は移動加速2で配置の隙間を縫い、足りない場所へ線を足すように人と物を置いていった。

 

 速い。

 

 だが、慌ただしくない。動きが先走らない。すでに地図に描かれた形へ、現実を重ねていくだけだった。

 

 

 

 

 

 水場は林道の脇から少し下がったところにあった。

 

 小川と呼ぶには細い流れだったが、石の間から水が湧くように動き、浅い溜まりを作っている。湿った土の匂いがあり、草の根が水際を押さえていた。

 

 澪は、地図3で赤い線の進路を見ながら、水面へ手を近づけた。

 

「水場へ寄る」

 

「水を荷として使うんですね」

 

「以前やっただろう。水分子の運動量を固定する。水を氷として止める」

 

「氷にするんですね」

 

「氷にする。塊ではない。雪に近い方がよい」

 

「節の隙間に入れるためですね」

 

「よろしい。長いものを止めるには、動く場所へ入り込む形がよい」

 

 澪は水を収納した。

 

 ただ入れるだけではない。収納内で水を薄く広げる。広げた水に空気を含ませる。以前、真壁に言われた、水分子の運動量を固定する感覚を思い出す。水を氷として止める。だが、塊にはしない。

 

 重い氷塊では、外殻の上を滑るだけかもしれない。必要なのは、節の隙間に入り、足元にまとわりつき、冷たさを散らさず残すものだ。

 

 収納の内側に、冷たさが生まれた。

 

 手のひらに氷を持っているわけではないのに、意識の端が白くなる。水が薄く止まり、空気を含み、細かな粒になっていく。透明な氷ではなく、白い雪のような氷。

 

「水分子の運動量を固定する。塊じゃなくて、空気を含ませる」

 

「雪に近い方がよい」

 

「節の隙間に入れるため。広く撒くより、曲がる場所ですね」

 

「その判断でよい」

 

 澪は地図を見た。

 

 赤い線は、もうかなり近い。林道の脇で、大ムカデの長い体がこちらの進路へ乗り出そうとしている。赤い線の曲がる場所が濃い。そこが節の動きだ。映像の中の節と重なる。

 

 低い草地が、横に大きく割れた。

 

 黒く光る外殻が現れた。濡れた石のように鈍く光り、節がいくつも連なる。足が草を刻む音がした。細かい音が重なり、地面を押し分ける長い体が、林道へ伸びていく。

 

 澪は本能的に一歩引いた。

 

 体が引くのは仕方がない。だが、目は地図へ戻した。

 

「長いです。でも、曲がる場所は見えます」

 

「よろしい。全身を見るな。進路を見る。長いものは、長さに呑まれた時点で負ける」

 

「赤い線の曲がるところを見ます」

 

 レオンハルトが剣に手をかけた。

 

 真壁の声が、静かに届いた。

 

「監督者殿。前へ出る必要はありません。止める権限を、前へ出してはならん」

 

 レオンハルトは踏みとどまった。

 

 剣を抜くことはできたはずだ。だが、その場で止まった。自分が前へ出ることが、この配置の形を崩すと理解したのだろう。

 

 澪は雪氷を放った。

 

 白い冷気が、風ではなく布のように広がる。外殻の上を滑り、足元へ落ち、節の隙間へ入り込む。大ムカデは構わず進もうとした。黒い体が林道へ乗り出し、足が石を弾く。

 

 一度では止まらない。

 

 だが、足の動きがわずかに遅れた。

 

 曲がろうとした節が、ほんの少しだけ追いつかない。地図3の赤い線が、その場所だけ歪んだ。

 

「鈍ってます」

 

「見えているな」

 

「地図でも、現実でも。次は曲がる節に寄せます」

 

「それが地図3の使い方だ」

 

 澪はさらに雪氷を出した。

 

 今度は広く撒かない。曲がる節へ置く。外殻の上ではなく、足元と隙間へ入れる。白い雪氷が、黒い節の間に入り、草の緑を白く曇らせる。

 

「広く撒くより、ここですね」

 

「よろしい。道具の使い方に品が出てきた」

 

「品は分かりませんけど、効いてます」

 

 大ムカデの体が、不自然に揺れた。

 

 長い体は力だった。だが、曲がれなくなると、同じ長さが重さになる。前へ進みたい節と、遅れた節がずれ、外殻同士が嫌な音を立てる。

 

 澪の雪氷が鈍らせた場所へ、真壁の氷が重なった。

 

 量が違う。速さが違う。澪の雪氷が動きを鈍らせるなら、真壁の氷はそこから形を作る。節を噛む形。足元を縫い止める形。外殻の隙間に入り、暴れるほど締まる形。

 

 それはただの氷ではなかった。

 

 冷たさに形がある。形に品がある。雑に固めたものではなく、長い体の動く場所だけを選んで噛みつくように、白い氷が置かれていく。

 

 大ムカデは暴れた。

 

 だが、長い体の一部が白く固まり、別の一部が遅れ、さらに別の一部が地面に縫い止められる。進めない。戻れない。頭だけが地面を削るように動く。

 

「止まってます」

 

「止めただけでは足りん」

 

 澪は背筋を伸ばした。

 

 その声は、終わらせる声だった。怖さはある。けれど、ここで止まったままにする方が、もっと悪い。道を空ける。自分たちは、そのためにここへ来ている。

 

「はい。道を空けるんですね」

 

「そうだ。道を塞ぐものは、払う」

 

 

 

 

 

 真壁の収納から、さらに白い氷が伸びた。

 

 雪ではない。氷塊でもない。

 

 それは、大きな鎌の刃の形をしていた。

 

 朝の光を受け、反った刃が白く光る。透明な氷ではない。細かな雪氷と冷気を押し固めたような白さで、縁だけが硬く冷えている。美しいと言っていい形だった。だが、その美しさは飾るためではない。

 

 レオンハルトが息を詰めた。

 

「真壁殿、それは」

 

「道を塞ぐものを払う」

 

 真壁は氷の大鎌を、大ムカデの頭上へ置いた。

 

 落とすだけではない。振り下ろすだけでもない。切るというより、押し潰す。逃げる隙間を氷で奪い、動く節を雪氷で遅らせ、頭部へ重い白を重ねる。

 

 氷の大鎌が叩き込まれた。

 

 黒い外殻が割れる。

 

 鈍い音が、凍った地面を伝って足元まで来た。白い氷が砕け、砕けた氷がさらに頭部を覆う。大ムカデの足が一度、草を乱暴に刻み、それからばらばらに止まっていく。

 

 地図3の赤い線が大きく歪んだ。

 

 長かった線の先端が潰れ、残りの赤が震え、細くなった。澪はその消え方を見ていた。目を逸らさず、地図の上で、線が消えるのを見届けた。

 

「線が、消えました」

 

「道が空いた」

 

「倒した、じゃなくて?」

 

「行商人にとっては、道が空いたことが先だ」

 

 澪は凍った林道を見た。大ムカデの巨体は倒れている。頭部は白い氷に覆われ、黒い外殻の割れ目から、砕けた氷が落ちている。

 

 倒した。

 

 けれど、真壁の言う通り、林道は空いた。

 

「……でも、今度は私も道を空けましたよね」

 

 真壁が澪を見た。

 

 その目に、過度な称賛はない。けれど、値踏みでもない。仕事の出来を認める商人の目だった。

 

「その通りだ。よい仕事だった」

 

 澪は息を吐いた。

 

「ちょっとだけ、嬉しいです」

 

「ちょっとでよい。大きく喜ぶには、場がまだ冷えておらん」

 

「そういうところは、本当に帳面なんですね」

 

「熱い帳面は、数字を歪める」

 

 澪は今度こそ、小さく笑った。

 

 笑えたことに、少し驚いた。さっきは狼の跡を見て、笑うことなどできないと思っていた。今も軽くなったわけではない。ただ、怖いものを見て、考えて、手を動かして、道を空けた。その実感が、足元を少し支えている。

 

 レオンハルトは、凍った地面と大ムカデの巨体を見ていた。

 

 彼の顔には、まだ驚きがある。だが、それ以上に、理解しようとする目があった。真壁が単に火力で押したのではない。澪に弱点の入口を考えさせ、水場を使わせ、雪氷を作らせ、地図3で線を読ませた。地面の地図で、見えない情報を全員の配置へ変えた。最後に真壁が終わらせた。

 

「真壁殿。貴殿は、澪殿の知識を戦場に置いたのだな」

 

「行商人は、持っている荷を知らねばなりません。知識もまた、荷ですな」

 

「荷物扱いはまだ慣れません」

 

「価値ある荷だ」

 

 澪は少しだけ考えた。

 

 荷という言葉は、まだ微妙に腹が立つ。けれど、今の自分が使ったものは、たしかに持っていたものだった。水を扱った。地図を見た。冬に百足を見ないという生活の記憶を、戦い方に変えた。

 

「それなら、少しだけ受け取ります」

 

「よろしい。受け取る姿勢にも品がある」

 

「褒め方が毎回わかりにくいです」

 

 レオンハルトの口元が、かすかに動いた。

 

 笑ったと言うには薄い。だが、張り詰めていた顔に少しだけ人間らしい隙間が戻った。

 

 それでも、彼は剣から完全には手を離さなかった。監督者としての役割は、まだ終わっていない。

 

 真壁は、大ムカデの赤い線が消えたことを確認してから、澪へ視線を戻した。

 

「確認する」

 

「はい」

 

 今度の返事は、先ほどより早かった。

 

 怖くないわけではない。だが、見ないままにしようとは思わなかった。見れば、次に使える。今は、そのことを少し知っている。

 

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篠原 澪

現在ジョブ:行商人 Lv3 → Lv4

状態:大型魔物討伐参加/冷却制圧成功/収納運用継続/軽度緊張

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基礎能力値

体力:47 → 48

筋力:32 → 33

器用:67 → 68

知力:75 → 78

判断:70 → 73

精神:73 → 76

集中:63 → 67

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自動成長

錬金:4 → 5

収納:9

地図:3

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取得スキルポイント

Wolf Pack後割振後SP:24

今回取得SP:+1

割振前SP:25

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SP割振

割振:なし

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現在反映

保有SP:25

錬金:5

収納:9

地図:3

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成長

弱点看破:1

冷却制圧:1

線状敵対反応把握:1

収納雪氷生成:1

水分子運動固定応用:1

地形利用:1

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「また上がってます」

 

「大型を止め、道を空けた。上がらぬ方が不自然だな」

 

「今度は私、考えましたよね」

 

「その通りだ。撃ったのではない。見て、考え、冷やした」

 

「それは、ちゃんと嬉しいです」

 

「よろしい。では、その感覚を持ったまま次を見る」

 

 澪は少しだけ眉を上げた。

 

「次を見る、ですね」

 

 嫌だ、とは言わなかった。

 

 次があることは重い。けれど、見られるようになったことも、今の自分の中にある。

 

 真壁は自分の鑑定も確認した。

 

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真壁 久忠

現在ジョブ:行商人 Lv3 → Lv4

状態:配置変更/冷却制圧補助/氷刃形成/大型魔物討伐完了

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基礎能力値

体力:78 → 79

筋力:64 → 65

器用:83 → 84

知力:87 → 88

判断:97 → 98

精神:96 → 97

集中:91 → 92

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自動成長

収納:9

錬金:5 → 6

地図:3

移動加速:2

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取得スキルポイント

Wolf Pack後割振後SP:0

今回取得SP:+1

割振前SP:1

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SP割振

割振:なし

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現在反映

保有SP:1

収納:9

錬金:6

地図:3

移動加速:2

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成長

大型進路制圧:1

氷刃形成:1

冷却拘束:1

地形利用:1

育成指揮:2

配置共有:1

地図共有指揮:1

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 真壁は表示を閉じた。

 

 林道は白く凍っている。大ムカデの巨体は横たわり、黒い外殻の上に細かな氷が薄く乗っている。Wolf Packの赤い点はもうない。長い赤い線も消えている。

 

 澪は、ほっとしかけた。

 

 その瞬間、地図3の端に、赤い点が一つ出た。

 

 群れではない。

 

 線でもない。

 

 一つだけだった。

 

 森の奥。斜面の向こう。近くではない。肉眼では確かめようがない距離に、小さな赤が置かれている。現実の森は、朝の光を受けて葉を揺らしているだけだった。

 

 けれど、地図にはある。

 

「……地図に、一つ出ました」

 

 真壁の目が、森の奥へ向いた。

 

「位置は」

 

「森の奥です。斜面の向こう。遠いです」

 

 レオンハルトが同じ方向を見る。

 

「敵影か」

 

「見えません。距離があります。でも、見落としてはいません」

 

 真壁は名前を言わなかった。

 

 正体も言わない。対策も言わない。装備も出さない。ただ、森の奥を見ている。澪はその横顔を見て、言葉を待った。

 

「よろしい。道が空いたから、次の道が見えた」

 

「続き、ありますよね」

 

 真壁は答えなかった。

 

 大ムカデの巨体は倒れている。Wolf Packもいない。林道は空いた。

 

 だが、地図3の端には、赤い点が一つ残っている。

 

 近くはない。肉眼では確かめようがない。それでも、地図にはある。

 

 真壁は森の奥を見た。

 

「道は空いた」

 

 澪は、その続きが来る前に地図を見直した。

 

「続き、ありますよね」

 

 真壁は答えなかった。

 

 答えないことが、答えだった。

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