土煙は、まだ草地の低いところに残っていた。
風が一度、林道の方から吹き抜ける。折れた草の先が揺れ、乾いた土が細く流れ、ハイエースの屋根に乗った澪の靴先へ、薄い粉のようなものが飛んできた。
赤い点は、もう地図の上にほとんど残っていない。
さっきまで、群れだった。
地図の中でばらばらに動き、現実の草地で黒い影になり、レールガンの照準の向こうで一つの形を作っていた。それが今は、点ではなく、跡になっている。
澪はハイエースの上で、手すりに触れたまま膝に力を戻そうとしていた。
撃った時の音は、外にはもうない。耳の中にも残っていない。けれど、肩には残っている。指にも、息を止めた喉にも、まだ何かが張りついている。
群れを半分崩した。
そう言ってしまえば短い。短くなることが嫌だった。自分がやったことまで、短い言葉の中に押し込まれて軽くなる気がした。
それでも、澪は倒れなかった。
手順は守った。地図を見た。現実を見た。真壁の声を聞き、撃つと決め、撃った。怖さはあったが、途中で投げ出さなかった。その事実も、体のどこかに小さく残っている。
レオンハルト・バルツァーは、草地と澪を交互に見た。
侯爵家監督者としての顔だった。驚きはある。だが、驚きに立場を奪われていない。中止の権限を持つ者の目が、真壁ではなく、澪の足元まで見ている。
「続行可能なのか」
問いは短かった。
澪は答えようとして、声がすぐ出ないことに気づいた。喉に土煙が入ったわけではない。自分の中のものが、まだ形になっていないだけだった。
真壁が先に答えた。
「まず確認します」
「今、ですか」
澪は、自分の声が思ったより小さいことに気づいた。
真壁は、ハイエースの脇に立ち、土のついた足元を少しだけ見てから顔を上げた。表情は変わらない。上品で、余裕がある。けれど、何も見逃していない。
「今だ。戦場の熱が残っているうちに、伸び方を見ておく」
澪は息を吸った。
嫌だ、と言いたくなった。だが、今見ないままにしたら、後で自分の頭の中で何倍にも膨らみそうだった。見なかったものほど、夜に大きくなる。澪はそれを知っている。
「……分かりました。見ないままにする方が、後で怖くなりそうです」
「よろしい。自分の荷は、自分で見た方がよい」
「荷、なんですね」
「重いものほど、扱いを誤ると落とす」
真壁の目が澪を捉えた。
鑑定を使われる感覚は、何度も経験している。だが、今日は体を見られているだけではない気がした。さっきの射撃、息を止めた瞬間、撃ったあとに残った震えまで、まとめて表示の中へ置かれるようだった。
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篠原 澪
現在ジョブ:行商人 Lv1 → Lv3
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基礎能力値
体力:45 → 47
筋力:31 → 32
器用:63 → 67
知力:74 → 75
判断:65 → 70
精神:69 → 73
集中:57 → 63
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自動成長
収納:8 → 9
地図:1 → 2
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取得スキルポイント
保有SP:24
今回取得SP:+2
割振前SP:26
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表示を見た瞬間、澪の胸の奥で何かが跳ねた。
二つ上がっている。
体力も、判断も、精神も、集中も、数字が動いている。見間違いではない。自分が怖いまま立って、地図を見て、撃って、手順を守った結果が、数字としてそこにある。
嬉しい。
そう思った瞬間、草地の向こうで崩れた群れの跡が目に入った。嬉しいだけではいられない。けれど、嬉しくないと言い切ることもできない。両方が同じ胸の中にあった。
「二つ上がってます」
「澪君。行商人Lv3だ」
「嬉しいのに、少し重いです。でも……上がったものは、使わないと駄目なんですよね」
「そうだ。伸びた力は、飾るものではない」
真壁の声は静かだった。励ますための甘さはない。けれど、澪がその重さを見ていることを、否定もしなかった。
「基礎能力、数字も上がってます。判断と集中が、かなり」
「記録しておく。こういうものは、熱の中で見て、帳面には冷えてから写す」
「次に考えて動けるようになった、と思えばいいですか」
「よろしい。使い方の品がよくなってきた」
「褒められた気がするのに、商材みたいです」
「価値ある荷は、雑に扱わぬものだ」
澪は少しだけ口元を動かした。
笑った、というほどではない。だが、息が少しだけ戻った。真壁の言い方は相変わらず逃げ場を狭める。しかし今は、その狭い場所の先に、道があるようにも思えた。
真壁は、澪の表示を見たまま、次の言葉を置いた。
「澪君、SPを地図に割り振りたまえ」
「地図ですか」
「君が次に見るべきものは、敵ではない。道だ」
澪は地図の感覚へ意識を向けた。
狼の群れは点だった。点は消えた。けれど、周囲の白い場所はまだ広い。行商人が道を見るという真壁の言い方は、最初に聞いた時よりも少しだけ体に入ってくる。
「敵より先に、道を見る」
「逃げるためにも、進むためにも、道は要る」
澪は鑑定表示の中のSPを見た。
保有SP二十四。今回取得二。割振前二十六。そこから地図へ二を割り振る。数字は単純だ。だが、真壁が勝手に動かすのではない。自分で選ぶ。
澪は目を閉じかけ、途中で止めた。
見ながら選ぶ。
「分かりました。広がるなら、先に見えます」
「その判断でよい」
澪は、自分の意思で地図を選んだ。
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スキルポイント割振
割振対象:地図
消費SP:2
地図:2 → 3
割振後SP:24
----------------------------------
現在反映
収納:9
地図:3
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白い範囲が、一段外へ広がった。
視界が変わったわけではない。草地が急に透けて見えるわけでもない。けれど、頭の中に置かれている地図の余白が押し広げられ、そこへ線が引かれていく。
林道の先。低い草地。斜面の裏。ハイエースを下げられる場所。射線が通りそうな筋。水の気配がある低い窪み。人が走るには危ない石の多い場所。通れる線と、通るべきではない線。
澪はハイエースの屋根に手をつき、ぐっと息を整えた。
広がった。
怖い。けれど、怖いだけではない。
「広がりました」
「よろしい」
「広がったなら、先に分かりますね。怖いですけど、見えないままよりはいいです」
「地図は、安心するためだけの道具ではない。見落とさぬための道具だ」
「はい。敵じゃなくて、道を見るんですね」
真壁は軽く頷いた。
レオンハルトは、そのやり取りを黙って見ていた。彼には澪の地図は見えない。だが、澪の顔が少し変わったことは分かるのだろう。震えた者の顔から、見ようとする者の顔へ、ほんの少しだけ移ったことを。
澪はハイエースから降りるために、真壁が置いた踏み台へ足を伸ばした。膝はまだ少し頼りない。けれど、足場の硬さが分かる。自分の体が、地面に戻ってくる。
「真壁さんは?」
「こちらも見ておくか。品物の片方だけを量るのは、形が悪い」
真壁は、まるで自分自身も商談の品目の一つであるように、平然と鑑定を向けた。
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真壁 久忠
現在ジョブ:行商人 Lv2 → Lv3
----------------------------------
基礎能力値
体力:76 → 78
筋力:62 → 64
器用:81 → 83
知力:86 → 87
判断:95 → 97
精神:95 → 96
集中:89 → 91
----------------------------------
既得スキル
商才:4
鑑定:9
収納:9
交渉:8
指揮:7
軍略:6
体術:4
威圧:5
異界適応:4
錬金:5
----------------------------------
自動成長
地図:2
移動加速:1 → 2
----------------------------------
取得スキルポイント
Wolf Pack退治前SP:0
今回取得SP:+2
割振前SP:2
----------------------------------
スキルポイント割振
割振対象:地図
消費SP:2
地図:2 → 3
割振後SP:0
----------------------------------
現在反映
地図:3
移動加速:2
----------------------------------
「真壁さんも上がってます」
「残敵掃討をした。上がらぬ方が不自然だな」
「行商人ですよね」
「道を塞ぐものを払うのも、行商人の仕事だ」
澪は真壁の表示を見ながら、錬金の文字に目を止めた。そういえば、真壁は当たり前のように物品を作り、調整し、場に合わせて出してきた。何もないところから出てくるのではなく、本人の中にそういう荷がある。
真壁は澪の視線に気づいたが、そこを大きく語りはしなかった。
語らないところが、真壁らしかった。
「移動加速も上がってます」
「配置を変え、残敵を掃き、退く線を維持した。道を速く使ったのだ」
「行商人の説明なのに、だんだん納得しそうで怖いです」
「納得できるなら、よい荷になっている」
「人を荷にするの、そろそろ慣れてきた自分が嫌です」
「慣れたのではない。形を見始めたのだ」
レオンハルトが、横で小さく息を吐いた。
行商人という言葉の意味が、彼の中でも音を立てて広がっているのだろう。荷を運ぶ者。道を扱う者。障害を払い、配置を決め、退く線まで守る者。その広がりが、常識の形を少しずつ崩している。
「真壁殿」
「何でしょうかな、監督者殿」
「貴殿は、討伐そのものより、討伐の仕方を見ているのだな」
「その通りですな。倒した事実は一つ。だが、どう倒したかで、次に持ち越すものが変わる」
レオンハルトは、倒れた草地を見た。
「……騎士教育でも、それは同じか」
「剣を振るう前に、何を見るか。そこからでしょうな」
澪はその言葉で、少しだけ顔を上げた。
自分は、ただ撃たされたのではない。次に持ち越すものを作った。怖さも、重さも、数字も、地図も、その中に入っている。
それを全部、持っていくのだ。
広がった地図の端で、赤が動いた。
澪は足を止めた。
Wolf Packの時のような点ではない。群れでもない。長い赤い線が、林道の先を横切るように伸びている。道をなぞる線ではなく、道を断つ線だった。
「……点じゃないです」
真壁の目も、同じ方向へ動いた。
「線だな」
「群れじゃない。道を横切っています」
「よく見た。慌てて名を付けるものではない。まず、見る」
「はい。先に形を見ます」
真壁は収納から偵察ドローンを出した。
小さな機体は、まっすぐ高くは上がらなかった。草地の起伏を拾うように、低く前へ滑る。風に逆らわず、地面のふくらみを見る高さを保っている。真壁の指が端末を動かし、映像が澪とレオンハルトの見える位置へ出た。
画面の中で、低い草地が横に割れた。
地面が長く盛り上がる。黒く光る外殻の一部が草の間から覗き、すぐに隠れる。節の影が連なり、無数の細い足が草を刻んでいる。地図の赤い線と、映像の中の動きが、じわじわと重なった。
足元の小石が鳴った。
レオンハルトにも、その揺れは伝わった。彼は剣ではなく、まず周囲の者たちを見た。監督者としての目が、前へ出る衝動より先に配置を確認する。
「何か来るのか」
澪は映像を見た。
顔が引きつるのは止められなかった。だが、目は逸らさなかった。気持ち悪い。長い。脚が多い。けれど、地図の線と、映像の節が合っている。
「大きな虫……いえ、長いです。地図の線と、映像の節が合っています」
「大ムカデだな」
「赤い線の理由、分かりました」
「道を塞ぐには十分な長さだ」
「なら、道を空ける方法を考えるんですね」
「その通りだ。成長は、温かいうちに使うものだ」
澪は、喉の奥で息を整えた。
さっきなら、嫌だと先に思ったかもしれない。今も嫌ではある。見た目は完全に嫌だ。だが、地図が広がり、映像があり、現実の揺れがある。重ねられる。考えられる。
「はい。今なら、見て考えられます」
真壁はすぐに攻撃しなかった。
レールガンの固定台はそこにある。だが、真壁はそれを見もしない。大ムカデの形、進路、速度、曲がる位置を見ている。澪にも、それを見せている。
ドローンがさらに回り込む。大ムカデは地面を押し、低い草を割り、林道へ向かって長い体を滑らせていた。
真壁が問うた。
「澪君。百足の弱点は何だ」
澪は映像の中の節と、地図の赤い線を同時に見た。
見た目は嫌だ。嫌だが、そこだけを見ている場合ではない。
「……見た目は嫌ですけど、考えます」
「よろしい。君の荷を使う」
荷。
その言葉を、今は少しだけ違う意味で受け取れた。自分の中にあるものを、戦場へ置く。きれいな言い方ではない。けれど、役に立つなら、出せるものはある。
「寒くなると、見ません」
「よい。続けたまえ」
「冬は出てこない、くらいしか」
「それで十分だ。百足は節足動物だ。寒さに弱い。十度を下回れば動きが鈍る。冬は土の中などで動かなくなる。ならば、冷やせばいい」
真壁の声は、澪の生活の断片を、戦場で使える形に並べ替えた。
レオンハルトの目が、そこでわずかに変わった。真壁が答えを与えたのではない。澪の知識を引き出し、形を整え、場へ置いた。それが分かったのだろう。
「私の答えが、戦い方になりました」
「君が箱を開けた。私は中の品を並べただけだ」
「なら、その荷を使います」
「よろしい」
真壁はその場に膝をついた。
澪は一瞬、何をするのかと思った。真壁は収納から細い金属棒を出し、土の上に線を引き始めた。
現在位置。ハイエース。林道。低い草地。水場。赤い線の進路。退避線。澪が立つ場所。真壁が制圧する場所。レオンハルトが全体を見る位置。侯爵家側が記録を取る位置。近づいてはいけない線。
地面に、もう一つの地図ができていく。
「ここが我々の位置だ。赤い線はこの林道を横切る。水場は右下。ハイエースはここまで下げる」
「皆にも見える形にするんですね」
「その通りだ。見える者だけが見えていては、配置にならん。品のよい指揮とは、同じ形を共有することだ」
澪は、地面の地図を見た。
自分の頭の中にある地図3ほど細かくはない。だが、全員が見られる。レオンハルトも、侯爵家側の者たちも、これなら同じ形を持てる。
「私たちだけが見えていても、動けませんから」
「よろしい」
レオンハルトは、真壁の横へ一歩近づき、地面の線を見下ろした。
彼の目は、もう単なる見物人のものではない。自分の権限がどこに置かれ、どの線を越えてはいけないのかを、線として見ている。
「監督者殿は、この線を越えずに全体を見る。中止を告げる声が届く位置だ」
「承知した」
「剣を前に出す場ではありません。中止の声を、最後まで届く位置に置いていただきたい」
レオンハルトの手が、剣の柄から少し離れた。
「……分かった。記録班、後退線を維持しろ」
侯爵家側の者たちが、短く応じる。
真壁は、次に澪の位置を示した。
「澪君は水場。前へ出るな。君が扱うのは距離と水だ」
「はい。距離と水を見ます」
「ハイエースはここまで下げる。車体を壁にするのではない。退く道を塞がぬ位置に置く」
「退く道も、次に動く道なんですね」
「そうだ。逃げ道ではない。次の道だ」
真壁が立ち上がると、場が一気に動き出した。
ハイエースが地面の地図通りに下がる。侯爵家側の記録係が位置を変える。レオンハルトは剣を前に出さず、声の届く位置へ下がる。真壁は移動加速2で配置の隙間を縫い、足りない場所へ線を足すように人と物を置いていった。
速い。
だが、慌ただしくない。動きが先走らない。すでに地図に描かれた形へ、現実を重ねていくだけだった。
水場は林道の脇から少し下がったところにあった。
小川と呼ぶには細い流れだったが、石の間から水が湧くように動き、浅い溜まりを作っている。湿った土の匂いがあり、草の根が水際を押さえていた。
澪は、地図3で赤い線の進路を見ながら、水面へ手を近づけた。
「水場へ寄る」
「水を荷として使うんですね」
「以前やっただろう。水分子の運動量を固定する。水を氷として止める」
「氷にするんですね」
「氷にする。塊ではない。雪に近い方がよい」
「節の隙間に入れるためですね」
「よろしい。長いものを止めるには、動く場所へ入り込む形がよい」
澪は水を収納した。
ただ入れるだけではない。収納内で水を薄く広げる。広げた水に空気を含ませる。以前、真壁に言われた、水分子の運動量を固定する感覚を思い出す。水を氷として止める。だが、塊にはしない。
重い氷塊では、外殻の上を滑るだけかもしれない。必要なのは、節の隙間に入り、足元にまとわりつき、冷たさを散らさず残すものだ。
収納の内側に、冷たさが生まれた。
手のひらに氷を持っているわけではないのに、意識の端が白くなる。水が薄く止まり、空気を含み、細かな粒になっていく。透明な氷ではなく、白い雪のような氷。
「水分子の運動量を固定する。塊じゃなくて、空気を含ませる」
「雪に近い方がよい」
「節の隙間に入れるため。広く撒くより、曲がる場所ですね」
「その判断でよい」
澪は地図を見た。
赤い線は、もうかなり近い。林道の脇で、大ムカデの長い体がこちらの進路へ乗り出そうとしている。赤い線の曲がる場所が濃い。そこが節の動きだ。映像の中の節と重なる。
低い草地が、横に大きく割れた。
黒く光る外殻が現れた。濡れた石のように鈍く光り、節がいくつも連なる。足が草を刻む音がした。細かい音が重なり、地面を押し分ける長い体が、林道へ伸びていく。
澪は本能的に一歩引いた。
体が引くのは仕方がない。だが、目は地図へ戻した。
「長いです。でも、曲がる場所は見えます」
「よろしい。全身を見るな。進路を見る。長いものは、長さに呑まれた時点で負ける」
「赤い線の曲がるところを見ます」
レオンハルトが剣に手をかけた。
真壁の声が、静かに届いた。
「監督者殿。前へ出る必要はありません。止める権限を、前へ出してはならん」
レオンハルトは踏みとどまった。
剣を抜くことはできたはずだ。だが、その場で止まった。自分が前へ出ることが、この配置の形を崩すと理解したのだろう。
澪は雪氷を放った。
白い冷気が、風ではなく布のように広がる。外殻の上を滑り、足元へ落ち、節の隙間へ入り込む。大ムカデは構わず進もうとした。黒い体が林道へ乗り出し、足が石を弾く。
一度では止まらない。
だが、足の動きがわずかに遅れた。
曲がろうとした節が、ほんの少しだけ追いつかない。地図3の赤い線が、その場所だけ歪んだ。
「鈍ってます」
「見えているな」
「地図でも、現実でも。次は曲がる節に寄せます」
「それが地図3の使い方だ」
澪はさらに雪氷を出した。
今度は広く撒かない。曲がる節へ置く。外殻の上ではなく、足元と隙間へ入れる。白い雪氷が、黒い節の間に入り、草の緑を白く曇らせる。
「広く撒くより、ここですね」
「よろしい。道具の使い方に品が出てきた」
「品は分かりませんけど、効いてます」
大ムカデの体が、不自然に揺れた。
長い体は力だった。だが、曲がれなくなると、同じ長さが重さになる。前へ進みたい節と、遅れた節がずれ、外殻同士が嫌な音を立てる。
澪の雪氷が鈍らせた場所へ、真壁の氷が重なった。
量が違う。速さが違う。澪の雪氷が動きを鈍らせるなら、真壁の氷はそこから形を作る。節を噛む形。足元を縫い止める形。外殻の隙間に入り、暴れるほど締まる形。
それはただの氷ではなかった。
冷たさに形がある。形に品がある。雑に固めたものではなく、長い体の動く場所だけを選んで噛みつくように、白い氷が置かれていく。
大ムカデは暴れた。
だが、長い体の一部が白く固まり、別の一部が遅れ、さらに別の一部が地面に縫い止められる。進めない。戻れない。頭だけが地面を削るように動く。
「止まってます」
「止めただけでは足りん」
澪は背筋を伸ばした。
その声は、終わらせる声だった。怖さはある。けれど、ここで止まったままにする方が、もっと悪い。道を空ける。自分たちは、そのためにここへ来ている。
「はい。道を空けるんですね」
「そうだ。道を塞ぐものは、払う」
真壁の収納から、さらに白い氷が伸びた。
雪ではない。氷塊でもない。
それは、大きな鎌の刃の形をしていた。
朝の光を受け、反った刃が白く光る。透明な氷ではない。細かな雪氷と冷気を押し固めたような白さで、縁だけが硬く冷えている。美しいと言っていい形だった。だが、その美しさは飾るためではない。
レオンハルトが息を詰めた。
「真壁殿、それは」
「道を塞ぐものを払う」
真壁は氷の大鎌を、大ムカデの頭上へ置いた。
落とすだけではない。振り下ろすだけでもない。切るというより、押し潰す。逃げる隙間を氷で奪い、動く節を雪氷で遅らせ、頭部へ重い白を重ねる。
氷の大鎌が叩き込まれた。
黒い外殻が割れる。
鈍い音が、凍った地面を伝って足元まで来た。白い氷が砕け、砕けた氷がさらに頭部を覆う。大ムカデの足が一度、草を乱暴に刻み、それからばらばらに止まっていく。
地図3の赤い線が大きく歪んだ。
長かった線の先端が潰れ、残りの赤が震え、細くなった。澪はその消え方を見ていた。目を逸らさず、地図の上で、線が消えるのを見届けた。
「線が、消えました」
「道が空いた」
「倒した、じゃなくて?」
「行商人にとっては、道が空いたことが先だ」
澪は凍った林道を見た。大ムカデの巨体は倒れている。頭部は白い氷に覆われ、黒い外殻の割れ目から、砕けた氷が落ちている。
倒した。
けれど、真壁の言う通り、林道は空いた。
「……でも、今度は私も道を空けましたよね」
真壁が澪を見た。
その目に、過度な称賛はない。けれど、値踏みでもない。仕事の出来を認める商人の目だった。
「その通りだ。よい仕事だった」
澪は息を吐いた。
「ちょっとだけ、嬉しいです」
「ちょっとでよい。大きく喜ぶには、場がまだ冷えておらん」
「そういうところは、本当に帳面なんですね」
「熱い帳面は、数字を歪める」
澪は今度こそ、小さく笑った。
笑えたことに、少し驚いた。さっきは狼の跡を見て、笑うことなどできないと思っていた。今も軽くなったわけではない。ただ、怖いものを見て、考えて、手を動かして、道を空けた。その実感が、足元を少し支えている。
レオンハルトは、凍った地面と大ムカデの巨体を見ていた。
彼の顔には、まだ驚きがある。だが、それ以上に、理解しようとする目があった。真壁が単に火力で押したのではない。澪に弱点の入口を考えさせ、水場を使わせ、雪氷を作らせ、地図3で線を読ませた。地面の地図で、見えない情報を全員の配置へ変えた。最後に真壁が終わらせた。
「真壁殿。貴殿は、澪殿の知識を戦場に置いたのだな」
「行商人は、持っている荷を知らねばなりません。知識もまた、荷ですな」
「荷物扱いはまだ慣れません」
「価値ある荷だ」
澪は少しだけ考えた。
荷という言葉は、まだ微妙に腹が立つ。けれど、今の自分が使ったものは、たしかに持っていたものだった。水を扱った。地図を見た。冬に百足を見ないという生活の記憶を、戦い方に変えた。
「それなら、少しだけ受け取ります」
「よろしい。受け取る姿勢にも品がある」
「褒め方が毎回わかりにくいです」
レオンハルトの口元が、かすかに動いた。
笑ったと言うには薄い。だが、張り詰めていた顔に少しだけ人間らしい隙間が戻った。
それでも、彼は剣から完全には手を離さなかった。監督者としての役割は、まだ終わっていない。
真壁は、大ムカデの赤い線が消えたことを確認してから、澪へ視線を戻した。
「確認する」
「はい」
今度の返事は、先ほどより早かった。
怖くないわけではない。だが、見ないままにしようとは思わなかった。見れば、次に使える。今は、そのことを少し知っている。
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篠原 澪
現在ジョブ:行商人 Lv3 → Lv4
状態:大型魔物討伐参加/冷却制圧成功/収納運用継続/軽度緊張
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基礎能力値
体力:47 → 48
筋力:32 → 33
器用:67 → 68
知力:75 → 78
判断:70 → 73
精神:73 → 76
集中:63 → 67
----------------------------------
自動成長
錬金:4 → 5
収納:9
地図:3
----------------------------------
取得スキルポイント
Wolf Pack後割振後SP:24
今回取得SP:+1
割振前SP:25
----------------------------------
SP割振
割振:なし
----------------------------------
現在反映
保有SP:25
錬金:5
収納:9
地図:3
----------------------------------
成長
弱点看破:1
冷却制圧:1
線状敵対反応把握:1
収納雪氷生成:1
水分子運動固定応用:1
地形利用:1
----------------------------------
「また上がってます」
「大型を止め、道を空けた。上がらぬ方が不自然だな」
「今度は私、考えましたよね」
「その通りだ。撃ったのではない。見て、考え、冷やした」
「それは、ちゃんと嬉しいです」
「よろしい。では、その感覚を持ったまま次を見る」
澪は少しだけ眉を上げた。
「次を見る、ですね」
嫌だ、とは言わなかった。
次があることは重い。けれど、見られるようになったことも、今の自分の中にある。
真壁は自分の鑑定も確認した。
----------------------------------
真壁 久忠
現在ジョブ:行商人 Lv3 → Lv4
状態:配置変更/冷却制圧補助/氷刃形成/大型魔物討伐完了
----------------------------------
基礎能力値
体力:78 → 79
筋力:64 → 65
器用:83 → 84
知力:87 → 88
判断:97 → 98
精神:96 → 97
集中:91 → 92
----------------------------------
自動成長
収納:9
錬金:5 → 6
地図:3
移動加速:2
----------------------------------
取得スキルポイント
Wolf Pack後割振後SP:0
今回取得SP:+1
割振前SP:1
----------------------------------
SP割振
割振:なし
----------------------------------
現在反映
保有SP:1
収納:9
錬金:6
地図:3
移動加速:2
----------------------------------
成長
大型進路制圧:1
氷刃形成:1
冷却拘束:1
地形利用:1
育成指揮:2
配置共有:1
地図共有指揮:1
----------------------------------
真壁は表示を閉じた。
林道は白く凍っている。大ムカデの巨体は横たわり、黒い外殻の上に細かな氷が薄く乗っている。Wolf Packの赤い点はもうない。長い赤い線も消えている。
澪は、ほっとしかけた。
その瞬間、地図3の端に、赤い点が一つ出た。
群れではない。
線でもない。
一つだけだった。
森の奥。斜面の向こう。近くではない。肉眼では確かめようがない距離に、小さな赤が置かれている。現実の森は、朝の光を受けて葉を揺らしているだけだった。
けれど、地図にはある。
「……地図に、一つ出ました」
真壁の目が、森の奥へ向いた。
「位置は」
「森の奥です。斜面の向こう。遠いです」
レオンハルトが同じ方向を見る。
「敵影か」
「見えません。距離があります。でも、見落としてはいません」
真壁は名前を言わなかった。
正体も言わない。対策も言わない。装備も出さない。ただ、森の奥を見ている。澪はその横顔を見て、言葉を待った。
「よろしい。道が空いたから、次の道が見えた」
「続き、ありますよね」
真壁は答えなかった。
大ムカデの巨体は倒れている。Wolf Packもいない。林道は空いた。
だが、地図3の端には、赤い点が一つ残っている。
近くはない。肉眼では確かめようがない。それでも、地図にはある。
真壁は森の奥を見た。
「道は空いた」
澪は、その続きが来る前に地図を見直した。
「続き、ありますよね」
真壁は答えなかった。
答えないことが、答えだった。