押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第96話 見えない捕食者

 

 大ムカデの巨体は、まだ林道の脇に横たわっていた。

 

 氷は朝のものではなく、戦いの熱が冷めたあとに残った白さだった。黒い外殻の割れ目に細かな氷が入り込み、草の上には、踏み荒らされた土と冷えた水の匂いが混じっている。Wolf Packの死体も、離れた草地に点々と残っていた。

 

 道は空いた。

 

 真壁がそう言った通り、林道を塞いでいた長い赤い線は消えた。澪の地図3の中でも、大ムカデの反応はもうない。

 

 けれど、端に一つだけ赤い点があった。

 

 遠い。

 

 森の奥、斜面の向こう。肉眼では確認できる距離ではない。澪は何度か目をこすりたい気分になったが、地図の赤は消えなかった。点は点のまま、遠くに置かれている。

 

 レオンハルトは、大ムカデの巨体と森の奥を見比べた。

 

「真壁殿。追うのか」

 

 真壁はすぐには答えなかった。

 

 日の傾き、侯爵家側の疲労、記録係の足元、澪の顔色、ハイエースの位置、そして森の奥へ伸びる斜面を見た。目線が一つひとつを量っていく。戦場の熱が残っている時ほど、真壁の声は静かになる。

 

「夜に遠い点を追うのは、品が悪い」

 

 澪は地図を見たまま、顔だけを上げた。

 

「追わないんですか」

 

「追わぬのではない。追う形を整える」

 

「地図には残っています」

 

「ならば見失ってはいない。慌てて夜道に荷を散らす方が悪い」

 

 澪は赤い点を見た。

 

 追えるなら追った方がいいのではないか、という焦りはある。けれど、今の自分の足元は、まだ完全に戻っていない。狼の群れ、大ムカデ、雪氷、赤い線。体の奥が、遅れてそれらを整理しようとしている。

 

 見落としてはいない。

 

 なら、見張りながら休むことも、逃げではない。

 

「見落としていないなら、見張りながら休む方がいいですね」

 

 真壁の目が、わずかに細くなった。

 

「よろしい。地図を持つ者の答えだ」

 

 レオンハルトも頷いた。

 

 監督者として、夜の森へ部隊を入れる判断は重い。相手の正体は分からない。侯爵家側には記録係も負傷者もいる。大ムカデを倒したばかりの場所で、さらに遠くへ追うには、形が悪すぎる。

 

「ここで野営する。道は空いた。次は、朝に見る」

 

 真壁の言葉で、場の空気が変わった。

 

 戦闘の形から、夜を越える形へ移る。澪はその切り替わりを、地図の上で見るような気がした。

 

 

 

 

 

 野営地は、大ムカデの巨体から距離を取った場所に作られた。

 

 ハイエースは風よけになる位置へ置かれ、同時に退避導線を塞がないよう斜めに向けられた。真壁は土の上に金属棒で線を引き、戦うためではなく、休むための地図を描いた。

 

 ハイエース。焚き火。見張り。侯爵家側の記録班。測量役。レオンハルトの監督位置。澪の休憩位置。真壁の作業場所。赤い点の方向。夜間に越えない線。大ムカデとWolf Packの回収待ち位置。

 

 澪はそれを覗き込んだ。

 

「休むためにも地図なんですね」

 

「戦う地図と、休む地図は違う。だが、どちらも道を乱さぬために要る」

 

「ものすごく商人っぽいのに、言ってることは戦場ですね」

 

「行商人の道は、寝る時も道だ」

 

「寝る時くらい、道から離れてもよくないですか」

 

「離れ方にも品がある」

 

 澪は返事に困った。困ったが、少しだけ笑えた。

 

 レオンハルトは真壁の地図を見下ろし、侯爵家側へ指示を出した。

 

「侯爵家側は外周警戒と記録を維持する。交代で休め。測量役、赤い点の方向を記録しろ。澪殿と真壁殿の地図とは別に、侯爵家側の記録を残す」

 

「承知しました」

 

 測量役と呼ばれた記録係が、腰の道具を確かめた。彼も地図のスキルを持っている。ただし、澪や真壁の地図3ほど広くも細かくもない。遠い反応の形までは拾えない。それでも、方向と大まかな位置、夜の間の変化を記録するには十分だった。

 

 澪は少し安心した。

 

 自分と真壁だけが見ているものではない。弱くても、別の地図がある。記録がある。照合できる。それだけで、赤い点の重さは少しだけ現実の中へ置かれた。

 

 真壁はハイエースから毛布、簡易寝具、携帯食、温かい飲み物を出した。あまりにも手際がよく、侯爵家側の兵が一瞬だけ目を丸くした。

 

 澪は渡された器を両手で持った。

 

 温かい。指の震えが、少しずつ器の熱に負けていく。食べられるだろうかと思っていたが、口に入れると意外にも飲み込めた。Wolf Packの直後より、ずっと早く体が受け付けている。

 

「食べられるの、ちょっと意外です」

 

「よい。食べられる時に食べるのは、品のよい生存だ」

 

「生存に品がつきました」

 

「つく。崩れた生き残り方は、次の道を汚す」

 

「真壁さんの中で、品がないもの多すぎませんか」

 

「品がないものは多い。だから、整える」

 

 焚き火は小さく保たれた。

 

 大きく明るくすると、こちらの位置を知らせる。暗すぎると、足元を誤る。真壁は火の高さまで地図に合わせるように見ていた。

 

 夜が深くなると、森の音が増えた。

 

 枝が鳴り、どこかで小さな獣が草を踏む。澪はそのたびに地図を確かめた。赤い点は遠い。時折わずかに動くが、接触する距離ではない。

 

「赤い点、まだ遠いです」

 

「よろしい。地図が嘘をついていないなら、こちらも慌てる必要はない」

 

「見えているのに追わない、って変な感じです」

 

「見えているからこそ、追わぬ選択ができる。見えていなければ、焦りで動く」

 

 澪は地図の赤を見た。

 

 確かに、見えていなければ不安だけが大きくなっていたかもしれない。今は、不安にも位置がある。遠い。動いている。夜のうちは来ない。そう分かるだけで、眠りは浅くても、目を閉じることはできた。

 

 レオンハルトが、焚き火の向こうから声をかけた。

 

「真壁殿。貴殿は急がぬ時もあるのだな」

 

「急ぐのは、急ぐ形が整った時だけですな」

 

「いい言葉っぽいのに、たぶん普通の人は真似できません」

 

「真似するなら、まず荷を減らすことだ」

 

「私たち、荷が増えてませんか」

 

「よい荷だ」

 

 澪は毛布を肩に引き寄せた。

 

 よい荷。

 

 その中に、自分の地図も、今日の怖さも、考えて動けたことも入っているのだろう。そう思うと、少しだけ重さを持っていてもいい気がした。

 

 夜は、赤い点を残したまま過ぎていった。

 

 

 

 

 

 朝の草は濡れていた。

 

 ハイエースの窓には薄い水滴がつき、焚き火跡からは細い煙が上がっている。侯爵家側の記録係は、夜間の赤い点の位置変化をまとめていた。測量役は自分の地図と記録板を見比べ、眠気の残る顔で線を引いている。

 

 澪は寝不足だった。

 

 だが、顔は沈みきっていない。目の奥は重い。肩も重い。それでも、昨夜何度も地図を確かめたことで、見落としていないという感覚が残っている。

 

 レオンハルトは記録を確認し、真壁へ尋ねた。

 

「赤い点は、夜の間に大きくは動かなかったのだな」

 

「ええ。向こうも、こちらを測っていたのかもしれませんな」

 

 澪はその時、地図の中で赤い点が動くのを見た。

 

 遠かった点が、ゆっくりとこちらへ寄ってくる。速いわけではない。だが、向きがはっきり変わっている。

 

「……動きました」

 

 真壁がすぐに振り向いた。

 

「方向は」

 

「こちらです。向こうから近づいて来ます」

 

 森は、朝の光を受けていた。

 

 斜面の草は濡れている。枝は静かに揺れている。鳥の声も完全には途切れていない。獣の匂いも、足音も、気配もない。

 

 それでも地図3には赤い点がある。

 

 しかも近づいている。

 

 レオンハルトは森を見た。

 

「何も見えぬが」

 

「地図にはいます。近づいています」

 

 真壁はレオンハルトへ視線を向けた。

 

「監督者殿、昨夜の記録と照合を。侯爵家側にも、地図を持つ測量役がいたはずですな」

 

 レオンハルトは背後の記録係へ視線を向けた。

 

「測量役。昨夜の赤い点を出せ」

 

 測量役が、自分の地図を確認した。澪や真壁の地図3ほどの広さも精密さもない。それでも、昨夜の反応の方向と、今朝の反応の方向を重ねることはできた。

 

 測量役の顔が強張る。

 

「昨夜の位置と同じ反応です。距離は詰まっています」

 

 レオンハルトは、森から澪へ、澪から真壁へ目を移した。

 

「……地図の反応は継続している」

 

「ならば、姿より先に地図を信じるべきですな」

 

 真壁は偵察ドローンを出した。

 

 まず見る。

 

 それは昨日の大ムカデの時と同じだった。だが、今回は映像に何も映らない。朝の森、濡れた草、斜面、細い枝、石、倒木。どこにでもある風景が映るだけだった。

 

 澪は地図と映像を重ねる。

 

 赤い点の位置に、映像では何もない。

 

「そこです。地図では、そこにいます」

 

「映像には何もない」

 

「はい。でも、赤は消えていません」

 

 真壁は映像を見たまま、静かに言った。

 

「見えていないものを、いないものとして扱うのは品が悪い」

 

 澪は息を吸った。

 

 怖い。何も見えないのに、いる。昨日の大ムカデは長くて嫌だったが、少なくとも見えた。今は見えない。けれど、地図にはいる。

 

 ならば、次に考えることは決まっている。

 

「なら、見えるようにするんですね」

 

 真壁が少しだけ口元を動かした。

 

「よろしい。答えが早くなった」

 

 その時、赤い点が地図の上で横へずれた。

 

 澪は反射で声を出した。

 

「右です。侯爵家側の右列に寄っています」

 

 レオンハルトが振り向く。

 

「右列、警戒しろ」

 

 右列の兵が首を巡らせた。

 

 何もいない。

 

 そのはずだった。

 

 次の瞬間、兵の体が肩から弾かれた。鎧が鈍い音を立て、濡れた草の上へ転がる。肩口と腕に裂けるような痕が走り、脇腹の革帯が切れた。致命傷ではない。だが、何も見えない場所から受けた攻撃に、列が一瞬乱れた。

 

「そこです!」

 

 澪は収納から熊退治スプレーを出した。

 

 迷いはあった。だが、迷いすぎなかった。地図には位置が出ている。赤い点は、倒れた兵のすぐ近くにある。

 

 澪は赤い点へ向けて噴射した。

 

 白っぽい霧が、何もない空間へ広がる。

 

 何もないはずの場所で、何かが嫌がるように動いた。霧が妙な形に裂け、赤い点が地図の上で跳ねる。倒れた兵は、侯爵家側の仲間に引きずり戻された。

 

 レオンハルトが負傷者の前へ出ようとし、途中で踏みとどまる。監督者の位置を崩さず、声だけを飛ばした。

 

「負傷者を下げろ。傷を確認しろ」

 

 兵の肩と腕には裂傷がある。打撲もある。だが、深く食い込まれてはいない。澪の噴射が間に合わなければ、もっと悪かったかもしれない。

 

 レオンハルトが澪を見た。

 

「助かった。今のは、澪殿か」

 

「地図で位置だけは見えました。目では無理です」

 

 真壁は赤い点の動きを見ながら頷いた。

 

「よい判断だ。相手の目鼻に効くかはともかく、近づかれた兵を剥がすには十分だ」

 

「熊用ですけど、効きました」

 

「相手が熊でなくとも、嫌がるものはある」

 

 澪はスプレーを持つ手に力を入れた。心臓は速い。だが、手は動いた。昨日より、考えてから動くまでが短い。怖いままでも、動けた。

 

 レオンハルトは森を睨んだ。

 

 見えない敵。被害が出た。攻撃が通るかも分からない。監督者として、続行を認めていい状況ではない。

 

「真壁殿。これは撤退を考えるべきではないか。見えぬ相手では、守りようがない」

 

 真壁は森を見たまま答えた。

 

「見えない敵なら、見えるようにすればよい」

 

「見えるようにする、って……どうやってですか」

 

「軍務では、見失ってはならぬ物に色を置く」

 

「色、ですか」

 

 真壁は収納から噴霧タンクを取り出した。

 

 透明な容器の中で、濃い蛍光色の塗料が揺れた。澪はそれを見て、ようやく意図を理解した。

 

「目印、識別、追跡。使い道は多い。品は少々ないが、見失うよりはよい」

 

「そこにいるなら、塗れば見える」

 

「よろしい。地図で場所を押さえ、現実に色を置く」

 

 

 

 

 

 真壁はドローンを戻し、噴霧タンクを交換した。

 

 製造の説明はしない。真壁はただ、当然そこにある物品のように扱った。軍務で目印に使うもの。見失ってはならない対象へ色を置くもの。そういう顔で、噴霧量と風向きを見る。

 

「澪君、赤い点を追え。私は塗料を置く」

 

「地図で追います」

 

 レオンハルトが確認する。

 

「侯爵家側は」

 

「記録と退避線を維持。剣は、見えてからでよい。見えぬものに剣を振るのは、形が悪い」

 

「分かった。全員、真壁殿の指示線を越えるな」

 

 真壁は地面の地図を更新した。

 

 赤い点の移動位置。ドローンの噴霧経路。侯爵家側の退避位置。澪の観測位置。負傷者の退避位置。レオンハルトが踏み込める線。

 

 澪は地図3の赤い点を追った。

 

 点は熊退治スプレーでひるんだあと、少し距離を取っている。だが、逃げきろうとはしていない。木の間を回り、こちらの列を測るように位置を変えている。

 

「逃げてません。距離を取って、回っています」

 

「捕食者の動きだな」

 

「見えないのに、嫌な納得があります」

 

「ならば、なおさら姿を取る」

 

 ドローンが低く飛んだ。

 

 赤い点の上を通るように、蛍光塗料が噴霧される。最初は何も起きないように見えた。塗料の粒が、空中へ流れていくだけに見える。

 

 次の瞬間、何もないはずの空間に蛍光色が絡んだ。

 

 粒が止まる。曲がる。流れず、形を作る。そこに何かがいると分かる形で、塗料だけが輪郭を浮かべていく。

 

「つきました。そこにいます」

 

 レオンハルトが息を呑んだ。

 

「見える……いや、塗料が乗っているのか」

 

 蛍光塗料は完全な姿を描かなかった。

 

 だが、背の高さ、肩の動き、尾のような線、頭部の位置、牙のあたり、脚の運びが見えた。体の内側はまだ背景に溶けているようで、存在と不在が混ざっていた。

 

 それは虎だった。

 

 塗料が乗ったところだけが、獣の形を取っている。見えるのに、見えていない。姿があるのに、体の中に森の色が残っている。

 

「虎……ですか」

 

「捕食者としては、分かりやすい形だな」

 

「分かりやすいのに、見えないのは反則です」

 

「反則も、見える形にすればただの条件だ」

 

 蛍光塗料の虎が、低く身を沈めた。

 

 澪は地図と輪郭を重ねる。赤い点が沈み、蛍光の肩が沈み、前足がためを作る。

 

「来ます」

 

 真壁の声が短く入った。

 

「今だ、澪君」

 

 澪はネットランチャーを構えた。

 

 狙うのは姿の全部ではない。蛍光塗料で浮いた輪郭と、地図3の赤い点。その二つを重ねる。

 

 息を止めた瞬間、狼の群に対するレールガンの時の重い感覚が一瞬戻った。

 

 撃つ。

 

 だが、今回は撃ち抜くためではない。捕まえるためだ。あの時と同じように息を止める。けれど、引き金に乗せる意味は違う。

 

「輪郭、合わせます」

 

「よろしい」

 

 澪は発射した。

 

 ネットが広がり、蛍光塗料の輪郭にかぶさる。虎が空中で絡め取られ、地面へ落ちた。見えない体が網の中で暴れる。網が浮き、歪み、蛍光塗料の線が乱れる。

 

 完全には見えない。

 

 けれど、そこにいることは全員に分かった。

 

 レオンハルトが踏み込んだ。

 

「今なら届く」

 

 真壁は止めなかった。レオンハルトにも役割を置く。澪を前に出さず、踏み込める線の中で、剣を使わせる。

 

 レオンハルトの剣が虎へ振り下ろされた。

 

 刃は当たった。金属と硬いものがぶつかる音がした。だが、入らない。硬いのか、滑るのか、見えている輪郭と実体がわずかにずれているのか、剣は弾かれた。

 

「刃が通らん」

 

「やはり、見えるようにしただけでは足りんか」

 

 虎が網の中で身を捩った。

 

 金具が鳴る。繊維が裂ける。蛍光塗料の輪郭が、澪の方へ向いた。

 

 澪は地図で赤い点の向きを見た。

 

「網、もちません」

 

「下がりたまえ」

 

 真壁の声が鋭くなった。

 

 澪は反射で下がる。だが、虎の動きは速い。網が破れ、蛍光の線が飛び散る。赤い点が距離を詰めてくる。

 

 真壁が低く言った。

 

「やむをえん」

 

 収納が開いた。

 

 出てきたのは、ただの柄ではなかった。柄の先には、すでに白い光が立っていた。光は刃の形をしているが、炎のようには揺れず、金属のようにも見えない。そこだけが空気から切り離され、白く押し固められているように見えた。

 

 澪は余計なことを聞けなかった。

 

 真壁の顔が、いつもの余裕を保ったまま、ほんの少しだけ本気になっていたからだ。

 

「澪君、下がれ」

 

 澪はさらに下がった。

 

 白い刃は、収納から出た瞬間から少しずつ細く痩せていくように見えた。長く使うものではない。今この一瞬だけ、形を保っている光だった。

 

 虎が飛びかかる。蛍光塗料の線が空中で伸びる。牙の位置だけが不気味に浮き、体の残りはまだ森の色に溶けている。

 

 真壁が一歩前へ出た。

 

 移動加速で踏み込みの位置がずれる。虎の頭部が来る場所に、白い光の刃が置かれる。

 

 抵抗がなかった。

 

 プリンを切るように、虎の頭部が弾き飛ばされた。切るというより、光の刃がそこにあった部分を押し分けたように見えた。虎の体が地面へ落ち、蛍光塗料が遅れて散る。

 

 地図3の赤い点が震えた。

 

 消えた。

 

 白い光は、数秒後にすっと失われた。柄だけが真壁の手に残る。

 

 澪は口を半開きにしたまま、真壁の手元を見た。

 

「へ、ライトセーバー?」

 

「十秒程度しか形を保てぬ半端ものだがね。こんな事もあろうかと用意しておいて良かった」

 

「半端ものの威力じゃないです」

 

「外に出すと形が崩れる。売り物にするには、少々品が悪い」

 

「説明になってるようで、全然説明してません」

 

「今は、それでよい」

 

 真壁は、当然のように柄を軽く持ち直した。

 

 澪は、そこに原理を聞くべきなのか迷った。だが、聞いたところで、真壁は売り物にならないだの、品がどうだのと言ってはぐらかすだろうという確信があった。

 

 レオンハルトは呆然としていた。

 

 倒れた虎。光を失った柄。平然としている真壁。

 

 三つを見比べ、そして声を上げた。

 

「真壁殿は……伝説の勇者でしたか!!」

 

 澪は変な顔になった。

 

 真壁は柄を収納へ戻した。

 

「いえ、単なる行商人ですよ」

 

「単なる行商人は、光る剣を十秒だけ出しません」

 

「品物としては半端だ。長く持たぬ」

 

 レオンハルトは、なおも食い下がった。

 

「十秒あれば、今の虎を斬れるのだぞ」

 

「十秒しか持たぬ、と見るべきですな」

 

「それを半端と呼ぶのか」

 

「売り物にならぬものは半端です」

 

「商人の基準が怖いです」

 

 レオンハルトの中で、勇者伝説と行商人が混ざっているのが、澪にも分かった。真壁の言葉は勇者を否定している。だが、行動が否定していない。

 

「いや、しかし、あれは伝説の」

 

「監督者殿。まず負傷者の確認を」

 

 レオンハルトは、そこで我に返った。

 

「……負傷者を見ろ。記録係、討伐位置を残せ」

 

 真壁は、勇者疑惑も原理説明も、まとめて森の朝の空気へ流した。

 

 

 

 

 

 澪は地図3を確認した。

 

 赤い点はない。

 

「消えました」

 

「よろしい」

 

「今度は、見えないものを見えるようにしました」

 

「そして、捕まえた。よい仕事だ」

 

「最後は真壁さんの光る剣でしたけど」

 

「最後だけだ。途中の形が悪ければ、十秒は使えん」

 

 澪はその言葉を少し考えた。

 

 確かに、地図で見て、スプレーで剥がし、塗料で姿を取って、ネットで捕まえた。そこまでの形がなければ、あの十秒は使えなかったのかもしれない。

 

 レオンハルトは、負傷した兵の状態を確認してから、澪の前へ来た。

 

「澪殿。部下を救ってくれた」

 

「地図に出ていましたから。間に合ってよかったです」

 

「それでも、動ける者ばかりではない」

 

 澪は、熊退治スプレーを収納へ戻した。

 

 自分が大きなことをしたとは、まだ思えない。だが、間に合った。そのことは、ちゃんと受け取っていい気がした。

 

 蛍光塗料と破れたネットの残骸の中で、虎の姿が見えていた。

 

 死ぬ前のように背景へ溶けてはいない。濡れた草の上に、異様な体が横たわっている。普通の虎とは違う。筋肉のつき方も、毛並みの光り方も、何かがずれている。だが、もう透明ではなかった。

 

「見えるようになってます」

 

「死ねば、形を隠す力も失うのだろう。記録にはそのまま残せる」

 

 レオンハルトは虎を見て、光る剣の消えた真壁の手元を見て、負傷者を見た。

 

「……見えぬ虎、光の剣、透明でなくなった死体。どこから報告すればよい」

 

「順番は大切ですな。まず、道は空いた、と」

 

「絶対それだけじゃ足りません」

 

「足りぬ分は、監督者殿の品に任せます」

 

 レオンハルトは遠い目をした。

 

 しかし、すぐに監督者の顔へ戻った。

 

「記録係、回収前の状態を残せ。測量役、地図の反応消失地点も記録しろ」

 

「承知しました」

 

 記録係たちが動き始めた。

 

 虎の討伐位置。蛍光塗料の散った範囲。ネットの破損。負傷者の位置。地図の赤い点が消えた場所。測量役は自分の地図に、澪と真壁の報告を照合して線を入れていく。

 

 澪は収納を開いた。

 

「これ全部、持ち帰るんですか」

 

 回収対象は多い。

 

 狼の群。大ムカデ。虎。

 

 昨日からの戦闘が、そのまま荷物になっている。討伐証明、素材、報告材料、記録対象。どれも置いていくわけにはいかないらしい。

 

「討伐証明、素材、記録対象。道で得たものを、道に置いたままにするのは品がない」

 

「行商人の荷がどんどん怖くなってます」

 

「よい荷だ」

 

「虎もですか」

 

「透明でなくなったのだ。むしろ運びやすくなった」

 

「そこを前向きに見るんですね」

 

「見える形になったものは、扱える」

 

 大ムカデは真壁が収納した。巨体のままではなく、危険な部位と素材になりそうな部位を区分して収めていく。澪は狼の群の回収を手伝った。数と状態は記録係が確認し、収納へ入れるたびに印をつける。

 

 虎は、レオンハルトが特に念入りに記録させた。

 

 見えない状態で襲撃し、蛍光塗料で輪郭を取り、討伐後に実体化した個体。そう書こうとして、記録係の筆が何度か止まった。無理もない、と澪は思った。

 

 真壁は、破れたネットや蛍光塗料の残りまで回収した。

 

「そこまで持ち帰るんですか」

 

「痕跡も荷だ。余計なものを野に残すと、後の道が汚れる」

 

「本当に何でも荷になりますね」

 

「行商人ですからな」

 

 野営地も片づけられた。

 

 焚き火跡は処理され、地面の地図は消された。蛍光塗料のついた枝や草も、可能な限り回収された。負傷者はハイエースと侯爵家側の馬車に分けて乗せられ、外周警戒は帰路の隊列へ組み替えられる。

 

 レオンハルトが全体を見渡した。

 

「これ以上の継続は不要だ。侯爵家へ戻る」

 

「妥当ですな。道は空いた。荷もまとまった」

 

 澪は息を吐いた。

 

「戻れるんですね」

 

「戻るまでが行商だ」

 

「討伐訓練じゃなかったんですか」

 

「荷を持ち帰らねば、商いにはならん」

 

「訓練と商いの境目、どこですか」

 

「道の上では、よく混ざる」

 

 ハイエースが動き出した。

 

 侯爵家側の一行も続く。朝の森は、さっきまで見えない虎がいた場所とは思えないほど静かだった。草にはまだ露があり、ところどころに蛍光塗料の痕がかすかに残っている。

 

 澪は地図3を見た。

 

 赤い点はない。

 

 林道は空いている。野営地も、戦闘位置も、回収地点も地図の中に収まっている。見えなかったものを見えるようにした感覚が、まだ手の中に残っていた。

 

「地図に出ていれば、見えなくても探せますね」

 

「見える形にすれば、荷になる」

 

「見えない敵まで荷にするんですか」

 

「行商人ですからな」

 

 後ろの馬車で、レオンハルトが真壁の手元を見ていた。

 

 もう光る剣はない。柄も収納されている。だが、レオンハルトの中では、白い光の刃がまだ消えていないらしい。

 

「勇者ではなく、行商人……」

 

 澪は振り返った。

 

「そこ、まだ引っかかってるんですね」

 

 真壁は前を見たまま言った。

 

「監督者殿。記録は、品よく頼みます」

 

「……どう書けというのだ」

 

「見えぬ敵を、見えるようにして、道を空けた。それで十分ですな」

 

「光る剣は?」

 

「十秒の半端ものだ。記録するほどの品ではない」

 

「それは絶対に無理があります」

 

 レオンハルトは、深く息を吐いた。

 

 澪は少し笑った。

 

 林道の先に、侯爵家へ戻る道が続いていた。地図にも、現実にも、赤い点はもうない。

 

 ただ、荷は増えた。

 

 見えないものを見える形にした記録と、透明でなくなった虎と、十秒の光る剣を見た者たちの誤解が、しっかりと荷台に載っていた。

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