帰り道は、行きよりも静かだった。
ハイエースの窓の外を、朝の森が後ろへ流れていく。露に濡れた草が光り、遠くの斜面にはまだ薄い霧が残っていた。侯爵家の馬車と護衛の列が、一定の距離を保って続いている。車輪の音、馬の鼻息、革具の擦れる音が、戦いの後の耳には妙にはっきり聞こえた。
澪は、膝の上で両手を組んだまま地図を見ていた。
赤い点はない。
森の奥にも、斜面の向こうにも、林道の端にも、さっきまであれほど嫌だった赤は見えない。地図は静かだった。静かすぎて、逆に何度も確かめてしまう。
「地図、赤はありません」
言葉にすると、少しだけ肩が落ちた。
真壁は運転席ではなく、助手席側で外を見ていた。ハイエースの走りはゆっくりで、侯爵家の馬車の速度に合わせている。急ぐ必要はもうなかった。
「よろしい。道としては上出来だ」
「道としては、なんですね」
「道は、空いていればまず合格だ。余計な飾りは後でよい」
澪は小さく息を吐いた。
収納の中には、狼の群、大ムカデ、虎がある。ある、という言い方がもうおかしい。普通の大学生の収納に入るものではない。だが、今はそこに入っている。しかも、虎は透明ではなくなっている。蛍光塗料の跡も、破れたネットも、記録対象としてまとめてある。
自分の生活が、だいぶ変な方向へ進んでいる気がする。
後方の馬車から、レオンハルトが何度かこちらを見ているのが分かった。正確には、真壁の手元を見ている。もう何も持っていない。白く光る刃も、柄も、収納に戻っている。
それでも、あの光は簡単には消えないらしい。
馬車が少し近づき、レオンハルトが声をかけた。
「真壁殿。あの光の剣は、本当に伝説の類ではないのか」
真壁は、少しだけ首を傾けた。
「監督者殿。伝説は値札が付かぬから厄介ですな」
「否定の仕方が商人です」
澪が思わず言うと、真壁は平然としていた。
「あれは十秒程度しか形を保てぬ半端ものだ」
「十秒で虎を斬った」
レオンハルトの声には、まだ納得できない響きがあった。
「十秒しか持たぬ、と見るべきですな」
「その十秒で、刃の通らぬ虎の頭部が飛んだのだぞ」
「だからこそ、扱いが悪い。長く持たぬ刃を頼みにするのは、品がない」
澪は口を開きかけて、閉じた。
確かに、十秒しか持たないのは欠点なのだろう。けれど、その十秒で全部終わった場面を見てしまったあとでは、半端ものという言葉がどうしても軽く聞こえない。
「真壁さんの半端もの、基準がおかしいです」
「商売に出せぬものは半端だ」
「売る前提なんですね」
「売れぬから手元に残っている」
レオンハルトは、馬車の上でまだ何か言いたそうにしていた。だが、真壁は光る剣の仕組みには触れなかった。澪も聞かなかった。聞いたところで、真壁は別の言い方で逃げるだろうし、たぶん本当に聞かない方がいいこともある。
ハイエースが、林の切れ目を抜けた。
道幅が広くなり、馬車が揺れにくくなる。真壁はそこで、澪へ視線を向けた。
「澪君。荷を持ち帰る前に、帳面を見ておく」
「また確認するんですか」
「帰り道で崩れる者もいる。道は最後まで道だ」
「今度は戦場じゃなくて帰り道です」
「帰り道で気を抜いて、荷を落とす者は多い」
「反論しづらくなってきました」
澪は背筋を伸ばした。
怖い気持ちはまだ残っている。けれど、今は見ない方が怖かった。見えない虎を見える形にしたあとだからだろうか。知らないまま荷台に乗せているより、確認しておいた方が、体の中で場所が決まる気がした。
真壁が鑑定をかけた。
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篠原 澪
現在ジョブ:行商人 Lv4 → Lv6
状態:見えない虎討伐参加/可視化補助/捕縛成功/軽度疲労
----------------------------------
基礎能力値
体力:48 → 50
筋力:33 → 34
器用:68 → 72
知力:78 → 83
判断:73 → 80
精神:76 → 82
集中:67 → 75
----------------------------------
自動成長
地図:3 → 4
収納:9 → 10
防衛用収納展開:1 → 2
並行思考:芽あり → 芽強化
----------------------------------
維持
鑑定:8
錬金:5
雷:8
火:1
収納内時間停止:芽あり
技能:彫金
技能:手仕事
統率個体識別:1
----------------------------------
取得スキルポイント
確認済み保有SP:25
Lv5到達ボーナス:+3
Lv6到達:+2
今回取得SP:+5
割振前SP:30
----------------------------------
SP割振
割振:なし
----------------------------------
現在反映
保有SP:30
地図:4
収納:10
防衛用収納展開:2
並行思考:芽あり/芽強化
----------------------------------
成長
敵対反応追跡:1
見えない対象照合:1
即応防衛展開:1
捕縛支援:1
恐怖下判断保持:1
複数情報処理:1
----------------------------------
表示を見た瞬間、澪はしばらく声が出なかった。
行商人Lv6。
数字が二つ上がっている。基礎能力値も、知力、判断、精神、集中が大きく伸びている。地図は4。収納は10。防衛用収納展開も2になっている。
そして、保有SPが30。
「二つ上がってます」
「ボスを相手にした。妥当だな」
「妥当、ですか」
「見えぬ敵を追い、見える形にし、捕らえ、部隊の被害も軽くした。低く見積もる方が形が悪い」
澪は、表示の中の「防衛用収納展開:2」を見た。
倒れた兵の近くに赤い点があり、反射で熊退治スプレーを出した。霧が何もない空間へ広がり、何かが嫌がるように動いた。あの兵は軽症で済んだ。
思い出すと、手のひらが少し熱くなる。
「防衛用収納展開も上がってます」
「倒れた兵を救った。あれはよい使い方だった」
「……間に合って、よかったです」
「その受け取り方でよい」
真壁の声は淡々としているが、突き放してはいない。澪は少しだけ俯いた。褒められているのに落ち着かない。けれど、否定する気にもなれない。
「地図が四になってます。収納も十」
「君は見えぬものを追い、見える形にした。道と荷が伸びるのは自然ですな」
「行商人の説明で合ってるのに、内容が変です」
「道と荷に変も正もない。扱えるかどうかだ」
澪は表示の最後に目を留めた。
並行思考:芽あり/芽強化。
今はそこを深く考えない。けれど、何かが奥で引っかかった。地図、収納、防衛。戦いの成果としては分かりやすい。並行思考だけは、少し違う気がした。
真壁は次に自分を確認した。
----------------------------------
真壁 久忠
現在ジョブ:行商人 Lv4 → Lv6
状態:野営指揮/可視化運用/捕縛支援/光刃使用/回収指揮
----------------------------------
基礎能力値
体力:79 → 81
筋力:65 → 67
器用:84 → 87
知力:88 → 91
判断:98 → 100
精神:97 → 99
集中:92 → 95
----------------------------------
自動成長
収納:9 → 10
錬金:6 → 7
地図:3 → 4
移動加速:2 → 3
指揮:7 → 8
軍略:6 → 7
----------------------------------
維持
商才:4
鑑定:9
交渉:8
体術:4
威圧:5
異界適応:4
----------------------------------
取得スキルポイント
確認済み保有SP:1
Lv5到達ボーナス:+3
Lv6到達:+2
今回取得SP:+5
割振前SP:6
----------------------------------
SP割振
割振:なし
----------------------------------
現在反映
保有SP:6
収納:10
錬金:7
地図:4
移動加速:3
指揮:8
軍略:7
----------------------------------
成長
野営配置:1
敵対反応照合:1
可視化戦術:1
捕縛連携:1
短時間切札運用:1
危険物回収管理:1
侯爵家部隊統制:1
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澪は表示を見て、真壁を見た。
「真壁さん、判断が百になってます」
「上限が見えたなら、使い方を誤らぬようにするだけだ」
「その台詞、普通は百になってから言わないと思います」
「言うべき時に言えばよい」
「収納も十、錬金も七、地図も四、移動加速も三、指揮八、軍略七……本当に行商人ですか」
「行商人ほど、道と荷を使う職はない」
「光る剣も荷ですか」
「半端ものだがね」
後ろから、レオンハルトが思い切り反応した。
「それを半端と呼ぶ感覚が、私にはまだ分からん」
「分からぬ方がよいこともありますな」
真壁は品よく言った。品よく言ったが、説明する気はまったくなさそうだった。
澪は収納の中へ意識を向けた。
そこで、今までとの違いに気づいた。
これまでの収納は、広い箱のようだった。大量に入る。取り出せる。中で物が迷子にならないように、澪自身が気をつける必要があった。
今は違う。
棚がある。区画がある。
狼の群は狼の群としてまとまり、大ムカデは大ムカデの区画にあり、虎は虎として隔離されている。蛍光塗料のついた残骸、破れたネット、危険な部位、討伐証明として出すもの、食料や衣類、救急用品。それぞれが混ざらない。
血の臭いが、他の荷に移っていない。蛍光塗料も、食料の方へ回っていない。大ムカデの危険そうな部位は、触れてはいけない棚に置かれているように感じられる。
取り出す順番まで、頭の中で追えた。
「収納の中が、棚みたいになってます」
澪が呟くと、真壁は満足そうに頷いた。
「収納が十に届くと、ただの箱ではなくなる」
「容量が増えるんですか」
「それもある。だが本質はそこではない。荷を分け、汚さず、崩さず、取り違えずに持てる」
「倉庫ですね」
「よろしい。行商人にとっては、容量より目録の方が大切な時がある」
澪は、収納の中の虎を思い出した。
討伐後に透明ではなくなった体。蛍光塗料の跡。破れたネット。侯爵家側の記録に必要な部位。全部が一緒くたではなく、それぞれ証拠として出せる。
なるほど、と思ってしまった。
レオンハルトも、そこに気づいたらしい。
「それも、売れる技術ではないのか」
「売れますな」
「売れますって言っちゃうんですね」
澪が驚くと、真壁は外の森を見たまま答えた。
「売れることと、売るべきことは違う」
その声で、車内の空気が少し変わった。
レオンハルトの表情も変わる。光る剣への驚きから、領を預かる者に近い顔へ戻っていく。
「真壁殿。あの光の剣も、収納十も、侯爵家が知ってよい技術なのか」
「知るだけなら、まだよい。問題は欲しくなった時ですな」
「欲しくなると、まずいんですか」
澪が尋ねると、真壁は穏やかに答えた。
「高価すぎる技術は、買う側の形を歪める」
「形を」
「技術とは、刃だけを見るものではありませんな」
レオンハルトが眉を寄せる。
「刃だけではない?」
「それを買う金がどこから出るか。払った金がどこへ消えるか。残された者の給金が、明日の麦に届くか。そこまで見て、初めて技術を扱うと言えます」
澪は、光る剣の白い刃を思い出した。
虎の頭部を、抵抗なく弾き飛ばした光。あれを見れば、欲しくなるのは当然だと思う。見えない敵がいる世界なら、なおさらだ。
けれど、真壁の話は刃から離れていく。
「光る剣の話から、物価の話になるんですね」
「剣一本で済むなら、商人は要らん」
レオンハルトはゆっくり頷いた。
「金貨が流れれば、領は痩せる」
「ええ。高すぎるものを外から買えば、金貨が流出する。金貨が減れば、物の値は上がる。給金は相対的に軽くなる。暮らせぬ者は、より安い土地か、より高い給金を出す土地へ移る」
「人が流出する」
澪の口から自然に出た。
「扱う場合は、そこまで見るべきですな」
レオンハルトは黙った。
強い武器を買えば、強くなる。そんな単純な話ではない。高すぎるものを買うために、領が金を吐き出す。物価が上がる。給金が届かなくなる。人が出ていく。守るために買ったものが、守るべき領を痩せさせる。
「強い武器を得るために、領を弱くすることがある」
「ありますな。強い刃ほど、鞘も強く要る」
「鞘って、領の経済ですか」
「よろしい。刃だけ持てば、手を切る」
澪は、ハイエースの窓に映った自分の顔を見た。
疲れている。けれど、頭は動いている。地図だけではなく、技術、金貨、物価、給金、人の流れ。それらを一つずつ分けて置かないと、すぐに絡まりそうだった。
侯爵家の門が見えた時、澪は少しだけ背筋を伸ばした。
出発した時より、荷が多い。物理的にも、精神的にも。
門前で隊列が整えられ、負傷者はすぐに手当へ回された。軽症とはいえ、見えない虎に襲われた兵である。侯爵家の者たちの顔には、安堵と緊張が同時に出ていた。
石畳の広場に移動すると、アルベルトが待っていた。
若いが、すぐに言葉を挟むような軽さはなかった。レオンハルトの報告を最後まで聞くため、静かに立っている。記録係と測量役も控え、筆と板を用意していた。
レオンハルトは、まず負傷者と地図反応の照合から報告した。
「見えぬ敵は、地図反応として確認された。澪殿の報告、侯爵家測量役の記録、真壁殿の地図が一致している」
測量役が一歩前へ出る。
「夜間から朝にかけて、同一反応の接近を確認しております」
記録係が続いた。
「負傷者一名。澪殿の即応により軽症。討伐対象は現在、収納内にて保管」
アルベルトは真壁を見た。
「確認しよう」
「よろしい」
澪は収納へ意識を向けた。
収納10になった感覚は、ここでさらに分かりやすくなった。取り出すものが、順番に並んでいる。記録係が混乱しないよう、狼の群、大ムカデ、虎、破れたネット、蛍光塗料のついた残骸、討伐証明に必要な部位。それぞれを、混ぜずに出せる。
最初に、狼の群が出された。
記録係が数を確認し、状態を記す。次に、大ムカデの巨体と必要な部位が、区切られた形で出される。黒い外殻、冷却の跡、頭部を潰された部位。広場にいた者たちの空気が重くなった。
最後に、虎が出された。
もう透明ではない。
蛍光塗料の痕が残り、破れたネットの繊維が絡んでいる。普通の虎とは違う体つきに、何人かが息を呑んだ。見えない敵だったという説明だけなら疑えたかもしれない。だが、塗料の痕とネットの破損は、そこにあった戦いを物として示している。
記録係の筆が止まった。
「状態が分けられている……」
澪は小さく頷いた。
「収納が十になって、区画で分けられるようになったみたいです」
真壁が静かに補った。
「討伐証明として出すなら、荷姿もまた証拠ですな」
アルベルトは、獲物そのものだけを見ていなかった。
目の前に並べられたものの順番、状態、混ざっていないこと、記録係がそのまま書けること。討伐だけではない。証明と管理まで成立している。それを見ている顔だった。
報告はさらに続いた。
見えない敵を地図で追ったこと。侯爵家測量役の記録と一致したこと。澪の熊退治スプレーで負傷者が軽症で済んだこと。蛍光塗料で輪郭を取ったこと。ネットランチャーで捕縛したこと。レオンハルトの剣が通らなかったこと。
光る剣については、言葉が一度止まった。
レオンハルトが慎重に言葉を選ぶ。
「最後に、真壁殿が短時間のみ形を保つ光の刃を用いた。詳細は確認できていない」
真壁は何も足さなかった。
アルベルトも、そこで急いで聞かなかった。
沈黙が落ちる。
机の上には、狼の群、大ムカデ、虎の記録が置かれている。見えない獣を塗料で浮かび上がらせ、捕らえ、最後に十秒だけ光る刃で断ったという報告は、どれだけ言葉を整えても異様だった。
だが、異様だからこそ、欲しがってはならないものがある。
アルベルトは真壁を見た。
「真壁殿。これは、我が領、我が国の技術となすべきものか」
場が静まった。
レオンハルトは口を挟まなかった。報告者としての役目は果たした。ここから先は、領を預かる側の判断だった。
真壁も答えを急がない。
「それを決めるのは、私ではありませんな」
アルベルトは、静かに目を伏せた。
強い技術は魅力だ。
見えない敵を暴き、刃の通らぬ虎を断つ力があれば、領は守れる。そう思うのは簡単だった。目の前には、その証拠が並んでいる。負傷者は軽く済み、討伐対象は回収され、道は空いた。
だが、その力を買う金はどこから出るのか。
払った金貨はどこへ流れるのか。
その技術を維持する者を、誰が育てるのか。
給金が物の値に届かなくなった時、領民はどこへ向かうのか。
アルベルトは、ゆっくりと首を振った。
「今の我が領の器ではない」
真壁は、そこで初めて満足そうに頷いた。
「結構」
澪は、その短い返事に少し驚いた。
真壁は続けた。
「良い君主に、良い家臣です。品がある領です」
レオンハルトは深く息を吐いた。
アルベルトは欲しがらなかった。欲しがってもおかしくないものを、今の領の器ではないと判断した。真壁はその判断を評価したのだ。
澪は小声で真壁に聞いた。
「今の、試しました?」
「商談では、相手の器も見るものだ」
「怖い商談ですね」
「よい商談です」
レオンハルトは真壁を見ていた。
勇者疑惑は、完全には消えていないのだろう。だが、それ以上に、違う見方が重なっているようだった。この人は、売れる技術を売らない。相手の領を壊す商売をしない。
アルベルトは記録係へ視線を向けた。
「狼の群、大ムカデ、虎の討伐は正式に記録する。見えない虎の詳細は限定記録とする。光の刃と収納の詳細は、必要以上に広げるな」
「承知しました」
レオンハルトも頷いた。
「見えぬ敵を、見えるようにし、道を空けた。まずはそう記す」
澪が思わず尋ねる。
「光る剣は?」
レオンハルトは少しだけ渋い顔をした。
「……限定記録とする」
「結局書くんですね」
「見なかったことにはできぬ」
真壁は品よく頷いた。
「見なかったことにするより、見た範囲を狭く書く方が品がある」
「記録にも品が増えてきました」
澪の言葉に、レオンハルトがわずかに苦笑した。
アルベルトは真壁と澪へ向き直った。
「押入商会の協力に感謝する。負傷者の手当と討伐記録を優先する。報酬と素材の扱いは、記録を整えた後に改めて相談したい」
「よろしい」
真壁は、いつもの調子で頷いた。
澪は、広場に並ぶ獲物と記録係の手元を見た。
戦いが終わった後も、道は続いている。荷を出し、記録し、判断し、広げないものを決める。行商人の仕事は、倒して終わりではないらしい。
六畳間に戻ると、空気が一気に変わった。
石造りの侯爵家、森の湿った匂い、血と蛍光塗料の痕、記録係の筆音。そういうものが、畳、ローテーブル、本棚、押し入れ、水の供えに置き換わる。
澪はローテーブルの前に座り込んだ。
「帰ってきた感じがします」
「畳もまた、道の終点ですな」
「そこまで道にします?」
「戻る場所があるから、道は道になる」
澪は少し黙った。
それは、少し良い言葉として受け取ってもいい気がした。だから突っ込まなかった。
本棚最上段には、白い布を敷いた上に古い燭台が置かれている。横には、水を入れた小さな茶碗。水面は静かで、黒くくすんだ古い金属に、六畳間の明かりがやわらかく乗っていた。
古い燭台は喋らない。
けれど、そこには確かに同居人の神様がいる。鑑定欄や、時々出る妙な表示や、水の揺れで、返事をしてくる存在だ。
真壁は澪の向かいに座り、湯気の立つマグカップを置いた。
「澪君。次にSPを使うなら、並行思考を考えたまえ」
澪はマグカップから顔を上げた。
「戦闘用ですか」
「違う」
真壁の否定が早かったので、澪は少し驚いた。
「違うんですか」
「君に必要なのは、戦うための頭ではない。生きるための頭だ」
「生きるため」
「学校の課題、商会の帳面、侯爵家との約束、素材の管理、君自身の休み方。不安、予定、手順、人との会話。全部を一つの塊にすると、押し潰される」
澪は、言い返せなかった。
戦いのことなら、怖かったと言える。地図が見えたから動けたと言える。けれど、学校の課題、商会の帳面、侯爵家との約束、素材管理、不安、休み方。その言葉は、もっと日常に近い場所を刺してきた。
「……それは、分かります」
「問題は、分ければ軽くなる。期限のあるもの。今すぐやるもの。人に渡せるもの。記録すればよいもの。考えるだけ無駄なもの。それを分けて並べる」
「仕事のやり方ですね」
「そうだ。それを、スキルで少し補助する」
「武器じゃないんですね」
「武器にしてはならん。これは、君が君の人生を持ち運ぶための荷台だ」
澪は黙った。
戦いの話より、その言葉の方が重かった。怖い敵を倒すための力なら、使う場所は限られる。けれど、人生を持ち運ぶための荷台と言われると、逃げ場がない。
真壁は、自分の指でマグカップの取っ手を軽くなぞった。
「私は、それを普通にやっている。スキルとして見えぬだけだ」
「真壁さんは、スキルじゃなくて自前なんですね」
「長く荷を運べば、荷崩れしにくい積み方を覚える」
「私にも、それが必要だと」
「必要になる。戦場ではなく、日々にだ」
真壁はそこで、古い燭台を見た。
「同居人の神様が与えてくれたスキルなのだろう。ならば、戦場だけを見るためのものではあるまい」
澪は本棚最上段を見上げた。
白い布。供えた水。黒くくすんだ古い金属。古い打ち跡。蝋の残り。煤。磨いていいところと、触りすぎてはいけないところ。由来を消してはいけないもの。
以前から知っているはずなのに、今日は違って見えた。
澪は古い燭台へ鑑定をかけた。
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古い燭台
現在地:本棚最上段
状態:暫定安置
供え:水
水交換:済
評価:礼を失わない努力あり
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確認項目
蝋残り:あり
煤:あり
台座歪み:軽度
古い打ち跡:保持推奨
磨き過多:非推奨
金属疲労:要確認
----------------------------------
作業方針
由来を消すな
盛るな、磨け
古い打ち跡は残せ
色で隠すな、引き立てよ
見ていない歴史を書くな
宿ったものを売り文句にするな
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並行処理補助
蝋落とし:別工程
煤拭い:弱い布で確認
歪み確認:力を入れすぎない
磨き:範囲を限定
記録:作業前後を分ける
休憩:疲労前に挟む
----------------------------------
備考
分けて見ること、良
----------------------------------
澪は、しばらく表示を見ていた。
古い燭台が、一つの古い道具ではなくなっていた。
蝋を落とす。煤を拭う。歪みを見る。力を入れすぎない。磨く場所を限定する。記録を分ける。休憩を挟む。由来を消さない。盛らない。磨く。見ていない歴史を書かない。宿ったものを売り文句にしない。
ばらばらになったのではない。
扱える形に、分かれた。
「……分かれました」
「問題は、分ければ軽くなる」
「これ、戦うためじゃなくて、作業するための見え方ですね」
「そうだ。君が君の人生を持ち運ぶための荷台だ」
水の表面が、ほんの少し揺れた。
風はない。六畳間の空気は静かだった。けれど、その揺れ方は、うんうんと頷いているように見えた。
澪は燭台を見た。
「これ、そういうスキルだったんですか」
水がまた、小さく揺れた。
うんうん。
そんな返事に見えた。
真壁は、少しだけ目を細めた。
「よい神様だ。戦場の刃ではなく、机の上の荷まで見ている」
「机の上まで見られてるの、ちょっと恥ずかしいです」
水面がまた揺れた。
さっきより、少し嬉しそうに見えた。
「そこ、喜ぶところなんですね」
澪が言うと、水面はもう一度、うんうんと揺れた。
澪は、並行思考:芽あり/芽強化の表示を思い出した。
保有SPは30ある。使おうと思えば、使える。けれど、真壁は強制しなかった。神様も、嬉しそうにするだけで、選べとは言わない。
澪は古い燭台の前の水を少し見つめた。
森の赤い点はもうない。
けれど、ローテーブルの上にも、本棚の上にも、生活の中にも、分けて考えるべきものはある。学校の課題、商会の仕事、侯爵家との約束、素材、手仕事、休むこと、不安。全部を一つの塊にしたら、たぶん押し潰される。
分ければ、軽くなる。
澪はマグカップを両手で包んだ。
「考えます」
真壁は頷いた。
「よろしい。考えて選ぶなら、それは君の荷になる」
水面が、小さく揺れた。
神様が、うんうんと嬉しそうにしている。
澪はすぐに何かを決めなかった。ただ、問題を一つの塊にしないで見るという感覚だけを、手の中の温かさと一緒に持っていた。