押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第97話 十秒の値段

 

 帰り道は、行きよりも静かだった。

 

 ハイエースの窓の外を、朝の森が後ろへ流れていく。露に濡れた草が光り、遠くの斜面にはまだ薄い霧が残っていた。侯爵家の馬車と護衛の列が、一定の距離を保って続いている。車輪の音、馬の鼻息、革具の擦れる音が、戦いの後の耳には妙にはっきり聞こえた。

 

 澪は、膝の上で両手を組んだまま地図を見ていた。

 

 赤い点はない。

 

 森の奥にも、斜面の向こうにも、林道の端にも、さっきまであれほど嫌だった赤は見えない。地図は静かだった。静かすぎて、逆に何度も確かめてしまう。

 

「地図、赤はありません」

 

 言葉にすると、少しだけ肩が落ちた。

 

 真壁は運転席ではなく、助手席側で外を見ていた。ハイエースの走りはゆっくりで、侯爵家の馬車の速度に合わせている。急ぐ必要はもうなかった。

 

「よろしい。道としては上出来だ」

 

「道としては、なんですね」

 

「道は、空いていればまず合格だ。余計な飾りは後でよい」

 

 澪は小さく息を吐いた。

 

 収納の中には、狼の群、大ムカデ、虎がある。ある、という言い方がもうおかしい。普通の大学生の収納に入るものではない。だが、今はそこに入っている。しかも、虎は透明ではなくなっている。蛍光塗料の跡も、破れたネットも、記録対象としてまとめてある。

 

 自分の生活が、だいぶ変な方向へ進んでいる気がする。

 

 後方の馬車から、レオンハルトが何度かこちらを見ているのが分かった。正確には、真壁の手元を見ている。もう何も持っていない。白く光る刃も、柄も、収納に戻っている。

 

 それでも、あの光は簡単には消えないらしい。

 

 馬車が少し近づき、レオンハルトが声をかけた。

 

「真壁殿。あの光の剣は、本当に伝説の類ではないのか」

 

 真壁は、少しだけ首を傾けた。

 

「監督者殿。伝説は値札が付かぬから厄介ですな」

 

「否定の仕方が商人です」

 

 澪が思わず言うと、真壁は平然としていた。

 

「あれは十秒程度しか形を保てぬ半端ものだ」

 

「十秒で虎を斬った」

 

 レオンハルトの声には、まだ納得できない響きがあった。

 

「十秒しか持たぬ、と見るべきですな」

 

「その十秒で、刃の通らぬ虎の頭部が飛んだのだぞ」

 

「だからこそ、扱いが悪い。長く持たぬ刃を頼みにするのは、品がない」

 

 澪は口を開きかけて、閉じた。

 

 確かに、十秒しか持たないのは欠点なのだろう。けれど、その十秒で全部終わった場面を見てしまったあとでは、半端ものという言葉がどうしても軽く聞こえない。

 

「真壁さんの半端もの、基準がおかしいです」

 

「商売に出せぬものは半端だ」

 

「売る前提なんですね」

 

「売れぬから手元に残っている」

 

 レオンハルトは、馬車の上でまだ何か言いたそうにしていた。だが、真壁は光る剣の仕組みには触れなかった。澪も聞かなかった。聞いたところで、真壁は別の言い方で逃げるだろうし、たぶん本当に聞かない方がいいこともある。

 

 ハイエースが、林の切れ目を抜けた。

 

 道幅が広くなり、馬車が揺れにくくなる。真壁はそこで、澪へ視線を向けた。

 

「澪君。荷を持ち帰る前に、帳面を見ておく」

 

「また確認するんですか」

 

「帰り道で崩れる者もいる。道は最後まで道だ」

 

「今度は戦場じゃなくて帰り道です」

 

「帰り道で気を抜いて、荷を落とす者は多い」

 

「反論しづらくなってきました」

 

 澪は背筋を伸ばした。

 

 怖い気持ちはまだ残っている。けれど、今は見ない方が怖かった。見えない虎を見える形にしたあとだからだろうか。知らないまま荷台に乗せているより、確認しておいた方が、体の中で場所が決まる気がした。

 

 真壁が鑑定をかけた。

 

----------------------------------

篠原 澪

現在ジョブ:行商人 Lv4 → Lv6

状態:見えない虎討伐参加/可視化補助/捕縛成功/軽度疲労

----------------------------------

基礎能力値

体力:48 → 50

筋力:33 → 34

器用:68 → 72

知力:78 → 83

判断:73 → 80

精神:76 → 82

集中:67 → 75

----------------------------------

自動成長

地図:3 → 4

収納:9 → 10

防衛用収納展開:1 → 2

並行思考:芽あり → 芽強化

----------------------------------

維持

鑑定:8

錬金:5

雷:8

火:1

収納内時間停止:芽あり

技能:彫金

技能:手仕事

統率個体識別:1

----------------------------------

取得スキルポイント

確認済み保有SP:25

Lv5到達ボーナス:+3

Lv6到達:+2

今回取得SP:+5

割振前SP:30

----------------------------------

SP割振

割振:なし

----------------------------------

現在反映

保有SP:30

地図:4

収納:10

防衛用収納展開:2

並行思考:芽あり/芽強化

----------------------------------

成長

敵対反応追跡:1

見えない対象照合:1

即応防衛展開:1

捕縛支援:1

恐怖下判断保持:1

複数情報処理:1

----------------------------------

 

 表示を見た瞬間、澪はしばらく声が出なかった。

 

 行商人Lv6。

 

 数字が二つ上がっている。基礎能力値も、知力、判断、精神、集中が大きく伸びている。地図は4。収納は10。防衛用収納展開も2になっている。

 

 そして、保有SPが30。

 

「二つ上がってます」

 

「ボスを相手にした。妥当だな」

 

「妥当、ですか」

 

「見えぬ敵を追い、見える形にし、捕らえ、部隊の被害も軽くした。低く見積もる方が形が悪い」

 

 澪は、表示の中の「防衛用収納展開:2」を見た。

 

 倒れた兵の近くに赤い点があり、反射で熊退治スプレーを出した。霧が何もない空間へ広がり、何かが嫌がるように動いた。あの兵は軽症で済んだ。

 

 思い出すと、手のひらが少し熱くなる。

 

「防衛用収納展開も上がってます」

 

「倒れた兵を救った。あれはよい使い方だった」

 

「……間に合って、よかったです」

 

「その受け取り方でよい」

 

 真壁の声は淡々としているが、突き放してはいない。澪は少しだけ俯いた。褒められているのに落ち着かない。けれど、否定する気にもなれない。

 

「地図が四になってます。収納も十」

 

「君は見えぬものを追い、見える形にした。道と荷が伸びるのは自然ですな」

 

「行商人の説明で合ってるのに、内容が変です」

 

「道と荷に変も正もない。扱えるかどうかだ」

 

 澪は表示の最後に目を留めた。

 

 並行思考:芽あり/芽強化。

 

 今はそこを深く考えない。けれど、何かが奥で引っかかった。地図、収納、防衛。戦いの成果としては分かりやすい。並行思考だけは、少し違う気がした。

 

 真壁は次に自分を確認した。

 

----------------------------------

真壁 久忠

現在ジョブ:行商人 Lv4 → Lv6

状態:野営指揮/可視化運用/捕縛支援/光刃使用/回収指揮

----------------------------------

基礎能力値

体力:79 → 81

筋力:65 → 67

器用:84 → 87

知力:88 → 91

判断:98 → 100

精神:97 → 99

集中:92 → 95

----------------------------------

自動成長

収納:9 → 10

錬金:6 → 7

地図:3 → 4

移動加速:2 → 3

指揮:7 → 8

軍略:6 → 7

----------------------------------

維持

商才:4

鑑定:9

交渉:8

体術:4

威圧:5

異界適応:4

----------------------------------

取得スキルポイント

確認済み保有SP:1

Lv5到達ボーナス:+3

Lv6到達:+2

今回取得SP:+5

割振前SP:6

----------------------------------

SP割振

割振:なし

----------------------------------

現在反映

保有SP:6

収納:10

錬金:7

地図:4

移動加速:3

指揮:8

軍略:7

----------------------------------

成長

野営配置:1

敵対反応照合:1

可視化戦術:1

捕縛連携:1

短時間切札運用:1

危険物回収管理:1

侯爵家部隊統制:1

----------------------------------

 

 澪は表示を見て、真壁を見た。

 

「真壁さん、判断が百になってます」

 

「上限が見えたなら、使い方を誤らぬようにするだけだ」

 

「その台詞、普通は百になってから言わないと思います」

 

「言うべき時に言えばよい」

 

「収納も十、錬金も七、地図も四、移動加速も三、指揮八、軍略七……本当に行商人ですか」

 

「行商人ほど、道と荷を使う職はない」

 

「光る剣も荷ですか」

 

「半端ものだがね」

 

 後ろから、レオンハルトが思い切り反応した。

 

「それを半端と呼ぶ感覚が、私にはまだ分からん」

 

「分からぬ方がよいこともありますな」

 

 真壁は品よく言った。品よく言ったが、説明する気はまったくなさそうだった。

 

 澪は収納の中へ意識を向けた。

 

 そこで、今までとの違いに気づいた。

 

 これまでの収納は、広い箱のようだった。大量に入る。取り出せる。中で物が迷子にならないように、澪自身が気をつける必要があった。

 

 今は違う。

 

 棚がある。区画がある。

 

 狼の群は狼の群としてまとまり、大ムカデは大ムカデの区画にあり、虎は虎として隔離されている。蛍光塗料のついた残骸、破れたネット、危険な部位、討伐証明として出すもの、食料や衣類、救急用品。それぞれが混ざらない。

 

 血の臭いが、他の荷に移っていない。蛍光塗料も、食料の方へ回っていない。大ムカデの危険そうな部位は、触れてはいけない棚に置かれているように感じられる。

 

 取り出す順番まで、頭の中で追えた。

 

「収納の中が、棚みたいになってます」

 

 澪が呟くと、真壁は満足そうに頷いた。

 

「収納が十に届くと、ただの箱ではなくなる」

 

「容量が増えるんですか」

 

「それもある。だが本質はそこではない。荷を分け、汚さず、崩さず、取り違えずに持てる」

 

「倉庫ですね」

 

「よろしい。行商人にとっては、容量より目録の方が大切な時がある」

 

 澪は、収納の中の虎を思い出した。

 

 討伐後に透明ではなくなった体。蛍光塗料の跡。破れたネット。侯爵家側の記録に必要な部位。全部が一緒くたではなく、それぞれ証拠として出せる。

 

 なるほど、と思ってしまった。

 

 レオンハルトも、そこに気づいたらしい。

 

「それも、売れる技術ではないのか」

 

「売れますな」

 

「売れますって言っちゃうんですね」

 

 澪が驚くと、真壁は外の森を見たまま答えた。

 

「売れることと、売るべきことは違う」

 

 その声で、車内の空気が少し変わった。

 

 レオンハルトの表情も変わる。光る剣への驚きから、領を預かる者に近い顔へ戻っていく。

 

「真壁殿。あの光の剣も、収納十も、侯爵家が知ってよい技術なのか」

 

「知るだけなら、まだよい。問題は欲しくなった時ですな」

 

「欲しくなると、まずいんですか」

 

 澪が尋ねると、真壁は穏やかに答えた。

 

「高価すぎる技術は、買う側の形を歪める」

 

「形を」

 

「技術とは、刃だけを見るものではありませんな」

 

 レオンハルトが眉を寄せる。

 

「刃だけではない?」

 

「それを買う金がどこから出るか。払った金がどこへ消えるか。残された者の給金が、明日の麦に届くか。そこまで見て、初めて技術を扱うと言えます」

 

 澪は、光る剣の白い刃を思い出した。

 

 虎の頭部を、抵抗なく弾き飛ばした光。あれを見れば、欲しくなるのは当然だと思う。見えない敵がいる世界なら、なおさらだ。

 

 けれど、真壁の話は刃から離れていく。

 

「光る剣の話から、物価の話になるんですね」

 

「剣一本で済むなら、商人は要らん」

 

 レオンハルトはゆっくり頷いた。

 

「金貨が流れれば、領は痩せる」

 

「ええ。高すぎるものを外から買えば、金貨が流出する。金貨が減れば、物の値は上がる。給金は相対的に軽くなる。暮らせぬ者は、より安い土地か、より高い給金を出す土地へ移る」

 

「人が流出する」

 

 澪の口から自然に出た。

 

「扱う場合は、そこまで見るべきですな」

 

 レオンハルトは黙った。

 

 強い武器を買えば、強くなる。そんな単純な話ではない。高すぎるものを買うために、領が金を吐き出す。物価が上がる。給金が届かなくなる。人が出ていく。守るために買ったものが、守るべき領を痩せさせる。

 

「強い武器を得るために、領を弱くすることがある」

 

「ありますな。強い刃ほど、鞘も強く要る」

 

「鞘って、領の経済ですか」

 

「よろしい。刃だけ持てば、手を切る」

 

 澪は、ハイエースの窓に映った自分の顔を見た。

 

 疲れている。けれど、頭は動いている。地図だけではなく、技術、金貨、物価、給金、人の流れ。それらを一つずつ分けて置かないと、すぐに絡まりそうだった。

 

 

 

 

 

 侯爵家の門が見えた時、澪は少しだけ背筋を伸ばした。

 

 出発した時より、荷が多い。物理的にも、精神的にも。

 

 門前で隊列が整えられ、負傷者はすぐに手当へ回された。軽症とはいえ、見えない虎に襲われた兵である。侯爵家の者たちの顔には、安堵と緊張が同時に出ていた。

 

 石畳の広場に移動すると、アルベルトが待っていた。

 

 若いが、すぐに言葉を挟むような軽さはなかった。レオンハルトの報告を最後まで聞くため、静かに立っている。記録係と測量役も控え、筆と板を用意していた。

 

 レオンハルトは、まず負傷者と地図反応の照合から報告した。

 

「見えぬ敵は、地図反応として確認された。澪殿の報告、侯爵家測量役の記録、真壁殿の地図が一致している」

 

 測量役が一歩前へ出る。

 

「夜間から朝にかけて、同一反応の接近を確認しております」

 

 記録係が続いた。

 

「負傷者一名。澪殿の即応により軽症。討伐対象は現在、収納内にて保管」

 

 アルベルトは真壁を見た。

 

「確認しよう」

 

「よろしい」

 

 澪は収納へ意識を向けた。

 

 収納10になった感覚は、ここでさらに分かりやすくなった。取り出すものが、順番に並んでいる。記録係が混乱しないよう、狼の群、大ムカデ、虎、破れたネット、蛍光塗料のついた残骸、討伐証明に必要な部位。それぞれを、混ぜずに出せる。

 

 最初に、狼の群が出された。

 

 記録係が数を確認し、状態を記す。次に、大ムカデの巨体と必要な部位が、区切られた形で出される。黒い外殻、冷却の跡、頭部を潰された部位。広場にいた者たちの空気が重くなった。

 

 最後に、虎が出された。

 

 もう透明ではない。

 

 蛍光塗料の痕が残り、破れたネットの繊維が絡んでいる。普通の虎とは違う体つきに、何人かが息を呑んだ。見えない敵だったという説明だけなら疑えたかもしれない。だが、塗料の痕とネットの破損は、そこにあった戦いを物として示している。

 

 記録係の筆が止まった。

 

「状態が分けられている……」

 

 澪は小さく頷いた。

 

「収納が十になって、区画で分けられるようになったみたいです」

 

 真壁が静かに補った。

 

「討伐証明として出すなら、荷姿もまた証拠ですな」

 

 アルベルトは、獲物そのものだけを見ていなかった。

 

 目の前に並べられたものの順番、状態、混ざっていないこと、記録係がそのまま書けること。討伐だけではない。証明と管理まで成立している。それを見ている顔だった。

 

 報告はさらに続いた。

 

 見えない敵を地図で追ったこと。侯爵家測量役の記録と一致したこと。澪の熊退治スプレーで負傷者が軽症で済んだこと。蛍光塗料で輪郭を取ったこと。ネットランチャーで捕縛したこと。レオンハルトの剣が通らなかったこと。

 

 光る剣については、言葉が一度止まった。

 

 レオンハルトが慎重に言葉を選ぶ。

 

「最後に、真壁殿が短時間のみ形を保つ光の刃を用いた。詳細は確認できていない」

 

 真壁は何も足さなかった。

 

 アルベルトも、そこで急いで聞かなかった。

 

 沈黙が落ちる。

 

 机の上には、狼の群、大ムカデ、虎の記録が置かれている。見えない獣を塗料で浮かび上がらせ、捕らえ、最後に十秒だけ光る刃で断ったという報告は、どれだけ言葉を整えても異様だった。

 

 だが、異様だからこそ、欲しがってはならないものがある。

 

 アルベルトは真壁を見た。

 

「真壁殿。これは、我が領、我が国の技術となすべきものか」

 

 場が静まった。

 

 レオンハルトは口を挟まなかった。報告者としての役目は果たした。ここから先は、領を預かる側の判断だった。

 

 真壁も答えを急がない。

 

「それを決めるのは、私ではありませんな」

 

 アルベルトは、静かに目を伏せた。

 

 強い技術は魅力だ。

 

 見えない敵を暴き、刃の通らぬ虎を断つ力があれば、領は守れる。そう思うのは簡単だった。目の前には、その証拠が並んでいる。負傷者は軽く済み、討伐対象は回収され、道は空いた。

 

 だが、その力を買う金はどこから出るのか。

 

 払った金貨はどこへ流れるのか。

 

 その技術を維持する者を、誰が育てるのか。

 

 給金が物の値に届かなくなった時、領民はどこへ向かうのか。

 

 アルベルトは、ゆっくりと首を振った。

 

「今の我が領の器ではない」

 

 真壁は、そこで初めて満足そうに頷いた。

 

「結構」

 

 澪は、その短い返事に少し驚いた。

 

 真壁は続けた。

 

「良い君主に、良い家臣です。品がある領です」

 

 レオンハルトは深く息を吐いた。

 

 アルベルトは欲しがらなかった。欲しがってもおかしくないものを、今の領の器ではないと判断した。真壁はその判断を評価したのだ。

 

 澪は小声で真壁に聞いた。

 

「今の、試しました?」

 

「商談では、相手の器も見るものだ」

 

「怖い商談ですね」

 

「よい商談です」

 

 レオンハルトは真壁を見ていた。

 

 勇者疑惑は、完全には消えていないのだろう。だが、それ以上に、違う見方が重なっているようだった。この人は、売れる技術を売らない。相手の領を壊す商売をしない。

 

 アルベルトは記録係へ視線を向けた。

 

「狼の群、大ムカデ、虎の討伐は正式に記録する。見えない虎の詳細は限定記録とする。光の刃と収納の詳細は、必要以上に広げるな」

 

「承知しました」

 

 レオンハルトも頷いた。

 

「見えぬ敵を、見えるようにし、道を空けた。まずはそう記す」

 

 澪が思わず尋ねる。

 

「光る剣は?」

 

 レオンハルトは少しだけ渋い顔をした。

 

「……限定記録とする」

 

「結局書くんですね」

 

「見なかったことにはできぬ」

 

 真壁は品よく頷いた。

 

「見なかったことにするより、見た範囲を狭く書く方が品がある」

 

「記録にも品が増えてきました」

 

 澪の言葉に、レオンハルトがわずかに苦笑した。

 

 アルベルトは真壁と澪へ向き直った。

 

「押入商会の協力に感謝する。負傷者の手当と討伐記録を優先する。報酬と素材の扱いは、記録を整えた後に改めて相談したい」

 

「よろしい」

 

 真壁は、いつもの調子で頷いた。

 

 澪は、広場に並ぶ獲物と記録係の手元を見た。

 

 戦いが終わった後も、道は続いている。荷を出し、記録し、判断し、広げないものを決める。行商人の仕事は、倒して終わりではないらしい。

 

 

 

 

 

 六畳間に戻ると、空気が一気に変わった。

 

 石造りの侯爵家、森の湿った匂い、血と蛍光塗料の痕、記録係の筆音。そういうものが、畳、ローテーブル、本棚、押し入れ、水の供えに置き換わる。

 

 澪はローテーブルの前に座り込んだ。

 

「帰ってきた感じがします」

 

「畳もまた、道の終点ですな」

 

「そこまで道にします?」

 

「戻る場所があるから、道は道になる」

 

 澪は少し黙った。

 

 それは、少し良い言葉として受け取ってもいい気がした。だから突っ込まなかった。

 

 本棚最上段には、白い布を敷いた上に古い燭台が置かれている。横には、水を入れた小さな茶碗。水面は静かで、黒くくすんだ古い金属に、六畳間の明かりがやわらかく乗っていた。

 

 古い燭台は喋らない。

 

 けれど、そこには確かに同居人の神様がいる。鑑定欄や、時々出る妙な表示や、水の揺れで、返事をしてくる存在だ。

 

 真壁は澪の向かいに座り、湯気の立つマグカップを置いた。

 

「澪君。次にSPを使うなら、並行思考を考えたまえ」

 

 澪はマグカップから顔を上げた。

 

「戦闘用ですか」

 

「違う」

 

 真壁の否定が早かったので、澪は少し驚いた。

 

「違うんですか」

 

「君に必要なのは、戦うための頭ではない。生きるための頭だ」

 

「生きるため」

 

「学校の課題、商会の帳面、侯爵家との約束、素材の管理、君自身の休み方。不安、予定、手順、人との会話。全部を一つの塊にすると、押し潰される」

 

 澪は、言い返せなかった。

 

 戦いのことなら、怖かったと言える。地図が見えたから動けたと言える。けれど、学校の課題、商会の帳面、侯爵家との約束、素材管理、不安、休み方。その言葉は、もっと日常に近い場所を刺してきた。

 

「……それは、分かります」

 

「問題は、分ければ軽くなる。期限のあるもの。今すぐやるもの。人に渡せるもの。記録すればよいもの。考えるだけ無駄なもの。それを分けて並べる」

 

「仕事のやり方ですね」

 

「そうだ。それを、スキルで少し補助する」

 

「武器じゃないんですね」

 

「武器にしてはならん。これは、君が君の人生を持ち運ぶための荷台だ」

 

 澪は黙った。

 

 戦いの話より、その言葉の方が重かった。怖い敵を倒すための力なら、使う場所は限られる。けれど、人生を持ち運ぶための荷台と言われると、逃げ場がない。

 

 真壁は、自分の指でマグカップの取っ手を軽くなぞった。

 

「私は、それを普通にやっている。スキルとして見えぬだけだ」

 

「真壁さんは、スキルじゃなくて自前なんですね」

 

「長く荷を運べば、荷崩れしにくい積み方を覚える」

 

「私にも、それが必要だと」

 

「必要になる。戦場ではなく、日々にだ」

 

 真壁はそこで、古い燭台を見た。

 

「同居人の神様が与えてくれたスキルなのだろう。ならば、戦場だけを見るためのものではあるまい」

 

 澪は本棚最上段を見上げた。

 

 白い布。供えた水。黒くくすんだ古い金属。古い打ち跡。蝋の残り。煤。磨いていいところと、触りすぎてはいけないところ。由来を消してはいけないもの。

 

 以前から知っているはずなのに、今日は違って見えた。

 

 澪は古い燭台へ鑑定をかけた。

 

----------------------------------

古い燭台

現在地:本棚最上段

状態:暫定安置

供え:水

水交換:済

評価:礼を失わない努力あり

----------------------------------

確認項目

蝋残り:あり

煤:あり

台座歪み:軽度

古い打ち跡:保持推奨

磨き過多:非推奨

金属疲労:要確認

----------------------------------

作業方針

由来を消すな

盛るな、磨け

古い打ち跡は残せ

色で隠すな、引き立てよ

見ていない歴史を書くな

宿ったものを売り文句にするな

----------------------------------

並行処理補助

蝋落とし:別工程

煤拭い:弱い布で確認

歪み確認:力を入れすぎない

磨き:範囲を限定

記録:作業前後を分ける

休憩:疲労前に挟む

----------------------------------

備考

分けて見ること、良

----------------------------------

 

 澪は、しばらく表示を見ていた。

 

 古い燭台が、一つの古い道具ではなくなっていた。

 

 蝋を落とす。煤を拭う。歪みを見る。力を入れすぎない。磨く場所を限定する。記録を分ける。休憩を挟む。由来を消さない。盛らない。磨く。見ていない歴史を書かない。宿ったものを売り文句にしない。

 

 ばらばらになったのではない。

 

 扱える形に、分かれた。

 

「……分かれました」

 

「問題は、分ければ軽くなる」

 

「これ、戦うためじゃなくて、作業するための見え方ですね」

 

「そうだ。君が君の人生を持ち運ぶための荷台だ」

 

 水の表面が、ほんの少し揺れた。

 

 風はない。六畳間の空気は静かだった。けれど、その揺れ方は、うんうんと頷いているように見えた。

 

 澪は燭台を見た。

 

「これ、そういうスキルだったんですか」

 

 水がまた、小さく揺れた。

 

 うんうん。

 

 そんな返事に見えた。

 

 真壁は、少しだけ目を細めた。

 

「よい神様だ。戦場の刃ではなく、机の上の荷まで見ている」

 

「机の上まで見られてるの、ちょっと恥ずかしいです」

 

 水面がまた揺れた。

 

 さっきより、少し嬉しそうに見えた。

 

「そこ、喜ぶところなんですね」

 

 澪が言うと、水面はもう一度、うんうんと揺れた。

 

 澪は、並行思考:芽あり/芽強化の表示を思い出した。

 

 保有SPは30ある。使おうと思えば、使える。けれど、真壁は強制しなかった。神様も、嬉しそうにするだけで、選べとは言わない。

 

 澪は古い燭台の前の水を少し見つめた。

 

 森の赤い点はもうない。

 

 けれど、ローテーブルの上にも、本棚の上にも、生活の中にも、分けて考えるべきものはある。学校の課題、商会の仕事、侯爵家との約束、素材、手仕事、休むこと、不安。全部を一つの塊にしたら、たぶん押し潰される。

 

 分ければ、軽くなる。

 

 澪はマグカップを両手で包んだ。

 

「考えます」

 

 真壁は頷いた。

 

「よろしい。考えて選ぶなら、それは君の荷になる」

 

 水面が、小さく揺れた。

 

 神様が、うんうんと嬉しそうにしている。

 

 澪はすぐに何かを決めなかった。ただ、問題を一つの塊にしないで見るという感覚だけを、手の中の温かさと一緒に持っていた。

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