押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第98話 分ければ軽くなる

 

 朝の駅の階段は、いつも通り混んでいた。

 

 前を歩く会社員の鞄が左右に揺れ、後ろから来た学生のスニーカーが一段飛ばしで音を立てる。改札を抜けたばかりの人の流れは、まだ眠そうなのに妙に速い。澪は肩にかけた鞄の紐を少し持ち直し、いつものように階段を上がった。

 

 三段目で、あれ、と思った。

 

 息が上がるのが遅い。

 

 鞄は軽くなっていない。中身も減っていない。大学ノート、配布資料を挟んだファイル、筆箱、水筒、財布、スマホ。いつもの重さのはずなのに、肩に食い込む感じが少し弱い。手のひらで紐を押さえる力も、いつもより安定している。

 

 踊り場に着いても、胸の奥が慌てていなかった。

 

「……階段、前より楽かも」

 

 声に出してから、澪は周囲を見た。誰も気にしていない。階段で自分の体力を確認している大学生は、たぶんそれほど目立たない。たぶん。

 

 ホームに出ると、電車を待つ人の列ができていた。澪は列の後ろに立ち、駅の表示板を見る。乗り換えの時刻、次の電車、大学までの歩き時間。いつもならスマホの地図アプリを開いて確認するところだが、今日は頭の奥に薄い線が引かれるような感覚があった。

 

 危ない反応はない。

 

 当然だ。ここは駅で、大学へ行く朝で、森でも採石場でもない。

 

 それでも、改札からホームまでの流れ、乗り換え位置、人が詰まりやすい階段、大学までの時間が、ほんの少しだけ整理されて置かれていく。緊張の中で使った地図ではない。けれど、道としては見えている。

 

「地図って、こういう使い方もあるんだ」

 

 呟いてから、澪はまた周囲を見た。

 

 近くの女子学生がイヤホンをつけ直しているだけだった。安全だった。

 

 電車が来た。人の流れに合わせて乗り、吊革につかまる。揺れに体を持っていかれそうになっても、踏ん張り方が少しだけ分かる。超人になったわけではない。満員電車が楽しいわけでもない。ただ、体の中に余裕が一枚増えたようだった。

 

 大学の門をくぐる頃には、澪はその違いを何度も確かめていた。

 

 足が軽い、というほどではない。

 

 でも、荷物を持って歩く自分が、昨日までより少しだけ崩れにくい。

 

 その程度の変化が、妙に現実的だった。

 

 

 

 

 

 講義室は、薄い暖房の匂いが残っていた。

 

 前の授業で使ったチョークの粉が、黒板の端に白く溜まっている。教授が入ってくると、学生たちの小声が少しだけ下がり、ノートを開く音がぱらぱらと重なった。澪は真ん中より少し後ろの席に座り、配布資料を机に置いた。

 

 講義が始まる。

 

 教授の声。黒板に書かれる言葉。配布資料の該当箇所。隣の席の学生がペンを落とす音。スマホが机の中で震える気配。蛍光灯の低い音。

 

 以前なら、それらが一度に来た。

 

 教授の説明を聞いているのに、資料のどこを見ればいいのか分からなくなる。資料を見ているうちに、黒板の文字が増えている。黒板を写していると、スマホの通知が気になり、次の課題を思い出し、そこで講義の流れを落とす。

 

 今日は、少し違った。

 

 教授の話は、今聞くもの。

 

 資料のこの段落は、講義の説明とつながるもの。

 

 この用語は、あとで調べるもの。

 

 この図は、レポートに使えそうなもの。

 

 ここは、今は分からないまま印をつけておくもの。

 

 全部が理解できるわけではない。分からない部分はある。むしろ、分からない部分が前よりはっきり見える。けれど、それは「全部分からない」ではなかった。

 

 澪はペン先を止めた。

 

「聞きながら、分けられてる」

 

 小さすぎる声だったが、前の席の学生が少しだけ振り向いた。澪は慌ててノートに視線を落とし、何か重要そうな顔で線を引いた。重要そうな顔は、大学生の防衛手段としてかなり便利だった。

 

 講義の後半になると、こめかみの奥が少し熱くなった。

 

 便利だ。けれど、楽ではない。見える情報が増えた分、頭の中で置く場所も増える。机の上に資料を広げすぎた時に似ていた。散らかってはいないが、広げたこと自体に疲れる。

 

 講義終了のチャイムが鳴ると、澪はペンを置いて、こめかみを軽く押さえた。

 

「便利だけど、頭が熱い」

 

 隣の学生が、今度ははっきりこちらを見た。

 

「大丈夫?」

 

「あ、大丈夫。ちょっと、講義が濃くて」

 

「分かる。あの先生、板書の量多いよね」

 

「うん。量が、多い」

 

 嘘ではない。量は多い。ただ、澪が熱くなっている理由は、板書だけではなかった。

 

 頭の中で、講義が分かれている。

 

 それが、嬉しくて、疲れる。

 

 

 

 

 

 昼休みの講義室には、まだ人の声が残っていた。

 

 次の講義まで三十分ある。以前なら、澪はその三十分をうまく使えなかった。机の上にノートを開き、スマホを見て、配布資料を横に置いて、結局どれにも手をつけられないまま時間だけが減っていく。そういうことが、珍しくなかった。

 

 今日も、机の上には同じように物が並んでいる。

 

 レポートの提出期限が書かれたシラバス。グループ課題の連絡が来ているスマホ。次回講義の資料。押入商会の予定確認をするためのメモ。商会の商品について、あとで真壁に聞くつもりだった走り書き。

 

 五つ。

 

 澪は、そう数えた。

 

 いつもなら、五つではなかった。もっと大きな、名前のない塊だった。大学のこと。商会のこと。返事をしないといけないこと。読まないといけないもの。決めないといけないもの。それらが全部一緒になって、胸のあたりに乗ってくる。

 

 けれど今日は、少し違った。

 

 レポートは、締切を見るもの。

 

 グループ課題は、まず返信するもの。

 

 次回講義の資料は、今日のうちに全部覚えるものではなく、必要なところに印をつけるもの。

 

 商会の予定確認は、六畳間に戻ってから真壁と共有するもの。

 

 商品メモは、今すぐ結論を出すものではなく、項目だけ分けておくもの。

 

 頭の中で、それぞれが別の箱に入った。

 

 澪は、シャープペンを持ったまま、しばらく動けなかった。動けなかったのは、困ったからではない。分かったからだ。分かったものは、もう「分からないもの」のふりをしてくれない。

 

「……一つずつなら、いける」

 

 声に出すと、近くの席の学生が少しだけこちらを見た。澪は慌ててノートへ目を落とし、レポート提出期限の横に丸をつけた。

 

 次にスマホを開き、グループ課題の連絡へ短く返信する。まだ完璧な答えではない。けれど、沈黙したまま抱えるよりはいい。

 

 次回講義の資料には、最初の三ページだけ印をつけた。全部読もうとしない。全部を一度に抱えない。商会の予定確認は、ノートの右端に小さく「真壁さん」と書いた。商品メモは、思いついたことを三つに分けて並べるだけにした。

 

 終わってはいない。

 

 何もかも片づいたわけではない。

 

 それでも、机の上のものは、さっきより少し軽くなっていた。

 

「便利だけど、逃げられなくなるやつだ」

 

 澪は小さく笑った。

 

 戦場ではない。

 

 赤い点も、虎も、光る剣もない。

 

 けれど大学の机の上にも、ちゃんと荷はあった。澪はそれを、一つの大きな不安にせず、分けて置けるようになり始めていた。

 

 

 

 

 

 次の教室へ移動する時、澪は鞄の中を見て、眉を寄せた。

 

 現実の鞄は、あまり成長していなかった。

 

 ファイルの角にプリントが引っかかり、筆箱の下に昨日のメモが入り込んでいる。水筒の横で、商会の商品メモが少し折れていた。収納の中に意識を向けると、大学用の資料、商会メモ、筆記用具、提出物、まだ読んでいない資料、真壁に見せる予定のメモが、それぞれきれいに区画へ収まる感覚がある。

 

 それに比べて、鞄は雑だった。

 

「鞄の中が、収納の中より散らかってる……」

 

 声に出してから、澪はまた周囲を見た。

 

 誰も聞いていなかった。たぶん。

 

 収納10は便利だった。入れたものが混ざらない。どこに何があるか分かる。取り出しやすい。けれど、大学の廊下で急に資料を収納から出すわけにはいかない。人前で、何もないところからプリントが出たら、それはもう便利ではなく事件である。

 

 澪は、収納に入れてよいものと、普通の鞄に入れておくべきものを分けた。

 

 すぐに使う資料は鞄。

 

 商会の商品メモは収納の商会区画。

 

 提出に使う紙は、現実のファイル。

 

 真壁に見せるだけのメモは収納。

 

 学生として見える範囲を守る。便利でも、目立ち方を間違えるとあとが面倒になる。

 

「便利でも、使い方を間違えると目立つ」

 

 真壁の声が頭の中で再生された。

 

 品が悪い。

 

 実際に言われたわけではない。けれど、言いそうだった。

 

「……目立ち方に品がない、って言われそう」

 

 澪は鞄の中を少しだけ整え、現実のファイルに必要な資料を入れ直した。

 

 収納より鞄を整える方が面倒だというのは、大学生活として何か間違っている気がする。けれど、そこを雑にすると、たぶん真壁に「荷姿が惜しい」と言われる。

 

 それは少し嫌だった。

 

 

 

 

 

 夕方、六畳間に戻ると、畳の匂いがした。

 

 大学の廊下のざわめき、講義室の乾いた空気、駅の人混み。そういうものが、押し入れとローテーブルと本棚のある部屋に入った途端、少し遠くなる。

 

 澪は鞄を置き、ローテーブルの前に座った。

 

 疲れている。けれど、潰れてはいない。

 

 真壁は、いつものように湯気の立つマグカップを置いた。何をどこから出したのか、もうあまり考えないことにしている。

 

「今日は、荷が大きく崩れなかったようだな」

 

 声は穏やかだった。試すような響きではなく、戻ってきた澪の状態を確かめるような声だった。

 

「大学で変でした」

 

「悪い変化かね」

 

「いえ。講義が、前より分けて聞けました。課題も、全部一緒に襲ってくる感じじゃなかったです」

 

 真壁は椅子に腰を下ろし、澪の顔色を見た。

 

「よろしい。能力値が生活へ戻ってきたのだな。よいことだ。君の力は、戦場だけのものではない」

 

「戦闘じゃなくても、上がった分って出るんですね」

 

「当然だ。君の体も頭も、君の日々を運ぶためにある。戦場だけに置いておくには、惜しい荷だ」

 

 澪はマグカップを両手で包んだ。

 

 温かい。大学で使った頭の熱とは違う。こっちは、少し落ち着く。

 

「昼休みに、五つありました」

 

「聞こう」

 

「レポート提出期限。グループ課題の連絡。次回講義の資料。商会の予定確認。商会の商品メモ」

 

 真壁は、ひとつずつ頷いた。

 

「よい分け方だ。まず荷札が付いた。それだけでも、かなり運びやすくなる」

 

「全部終わったわけじゃないです」

 

「全部終わらせる必要はない。終わらせる前に、分ける。今日は、そこまでできたなら十分だ」

 

「それ、今日ちょっと分かりました」

 

 澪は本棚の最上段を見た。

 

 白い布の上に、古い燭台が置かれている。横には水を入れた小さな茶碗。黒くくすんだ金属に、部屋の明かりが柔らかく乗っている。

 

 古い燭台を鑑定した時の感覚が戻ってくる。

 

 蝋、煤、歪み、磨き、記録、休憩。

 

 一つの古いものが、扱える形に分かれた。大学の机の上も、同じだった。レポート、連絡、資料、予定、商品メモ。分ければ軽くなった。

 

 澪は、真壁を見た。

 

「真壁さん。並行思考、取ります」

 

 真壁はすぐには頷かなかった。

 

 けれど、その沈黙は冷たくなかった。澪が自分の理由を言うのを、待っている沈黙だった。

 

「理由を聞こう」

 

「戦うためじゃなくて、生活を分けるためです。課題と商会と予定と不安を、一つの塊にしないため」

 

 真壁の目が、少しだけ柔らかくなった。

 

「よろしい。その理由なら、よい。戦うためではなく、生きるために選ぶなら、その荷は君のものだ」

 

 澪は自分の鑑定表示を見る。

 

 保有SP30。

 

 並行思考:芽あり/芽強化。

 

 数字だけなら、使える。けれど、数字を使う理由が必要だった。今日、その理由がようやく手の中に来た気がする。

 

 澪は、自分で選んだ。

 

----------------------------------

篠原 澪

保有SP:30

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スキルポイント割振

割振対象:並行思考

消費SP:3

並行思考:芽あり/芽強化 → 2

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現在反映

保有SP:27

並行思考:2

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注意

並行思考2は、複数の問題を分解し、処理順を保ちやすくする。

疲労、確認漏れ、材料不足、睡眠不足を無効化するものではない。

----------------------------------

 

 表示が変わった瞬間、頭が急に良くなる、という感じではなかった。

 

 代わりに、ローテーブルの上に置いたものの場所が、すっと落ち着いた。

 

 大学ノート。レポート資料。グループ課題のメモ。次回講義資料。商会予定確認。商会の商品メモ。端に置いた古い燭台の作業メモ。

 

 それぞれが、同じ机の上にあるのに、同じ塊ではなくなった。

 

「保有SP、二十七」

 

「よい使い方だ。刃ではなく、荷台を選んだ。澪君らしい選び方ですな」

 

「真壁さんが言うと、仕事が増える予感もします」

 

「見える仕事は、増えたのではない。見える形になっただけだ。形が見えれば、休む場所も選べる」

 

「それ、逃げられなくなるやつです」

 

「逃げるものと、片づけるものを分けるためのスキルでもある。逃げ道は悪ではない。品よく残すべき道だ」

 

 澪は納得してしまった。

 

 納得してしまうと、少し悔しい。

 

「言い方がずるいです」

 

「君が選びやすい言葉を使っただけだ」

 

「商人ですね」

 

「行商人ですな」

 

 真壁は涼しい顔をしている。けれど、いつものように逃げ道を塞ぐ言い方ではなかった。逃げ道を残して、その上で選ばせてくれた。

 

 澪は大学ノートを開いた。

 

 並行思考2、と意識した瞬間、何かが勝手に終わっていくわけではなかった。

 

 スマホの返信は、スマホを開かなければ送れない。大学の端末へ入力する作業も、現実の手でやらなければ終わらない。休憩も、自分で作業を止めなければ休憩にはならない。

 

 けれど、収納の中にあるものは違った。

 

 大学の配布資料。レポート用に借りた本。商会の商品メモ。真壁へ見せる予定表。古い燭台の作業メモ。収納10の区画に分けて置いたそれらへ、意識が同時に届く。

 

 澪は講義資料へ鑑定をかけた。

 

 文字を一字一句読むのではない。重要な語、提出期限に関わる箇所、あとで調べるべき用語が、薄く浮く。次にレポート用の本へ意識を移すと、同じように該当する章と引用に使えそうな段落が分かれた。

 

 その横で、収納内のノートに細い文字が走る。

 

 真壁が荷にラベルを貼る時のように、内容が短くまとめられていく。

 

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収納内ノート

レポート提出期限:設問確認。参考資料一冊。下書きは一項目だけ。

グループ課題の連絡:返信文案を作成。送信は現実のスマホで行う。後でノートを撮影し、文字化して送る。

次回講義の資料:三ページまで確認。残りは明日。

商会の予定確認:真壁へ共有。五分で済ませる。

商会の商品メモ:候補を三つに分ける。決定はしない。

古い燭台:今日は磨かない。水交換と状態確認だけ。

休憩:二十分後に作業を止めるための予定枠。

----------------------------------

 

 澪は、思わず顔を上げた。

 

「……収納の中で、ノートが増えてます」

 

 真壁は静かに頷いた。

 

「よろしい。収納十は倉だ。並行思考は、その倉で同時に荷札を付ける手だな」

 

「スマホの返信は?」

 

「それは現実の手でやりたまえ。収納の中から通信はできん」

 

「ですよね。でも、文面は先に作れます。ノートを出して、写真にして、文字にすれば送れます」

 

「よろしい。通信は道の外だが、文面は荷の内だ。先に整えておけば、手は迷わぬ」

 

「休憩は?」

 

「休むのは君だ。スキルは、休む場所を仕事に押し流されぬよう、先に荷札を付けるだけだ」

 

「仕事を増やすスキルじゃなくて、休む場所も作るスキルなんですね」

 

「それを忘れぬなら、長く使える。長く使える道具は、派手な刃より価値がある」

 

 本棚最上段の水が、ほんの少し揺れた。

 

 風はない。窓も閉まっている。けれど、古い燭台の横に置いた水面が、うんうんと頷くように揺れた。

 

 澪は反射的に鑑定をかける。

 

----------------------------------

同居人の神様

反応:うんうん

評価:お仕事できる子になりました

追記:休憩も仕事

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「休憩も仕事、って言われてます」

 

「よい神様だ。働かせるだけでなく、休ませる場所まで見ている」

 

「神様にまで休めって言われる大学生……」

 

 澪は少し笑った。

 

 神様は、またうんうんと嬉しそうにした。澪が休むと言ったことが、そんなに嬉しいのだろうか。いや、たぶん嬉しいのだろう。前に「作業が増える」と喜んだ神様である。今回は、休憩まで作業に入れて満足しているように見える。

 

 澪はレポートの設問を三つに分けた。

 

 一つ目だけ、今日は下書きする。

 

 グループ課題は、収納内ノートに作った返信文案を取り出した。スマホで写真を撮り、文字化する。少しだけ語尾を直して送信すると、胸の奥にあった小さな引っかかりが一つ外れた。次は相手の返答待ち。そこまで決めると、もう何度も画面を開かなくてよくなった。

 

 次回講義資料は、印をつけた三ページだけ読む。商会予定確認は、真壁に明日の予定を聞く。商会の商品メモは、候補を三つに分けるだけで、決定しない。

 

 古い燭台は、水を交換するだけにした。

 

 磨かない。

 

 疲れている時に手を入れると、触りすぎる。そういう判断が、以前より自然にできた。

 

 澪は立ち上がり、古い燭台の横の茶碗をそっと手に取った。水を換え、白い布の端を乱さないように戻す。黒くくすんだ金属に指が触れないように気をつける。

 

 戻ってくると、ノートの上にペンを置いた。

 

「今日は、ここまでにします」

 

「よろしい。今日はここまででよい。全部を掴んだまま倒れるより、明日へきれいに残す方が品がある」

 

「真壁さんに言われると、休憩まで商談みたいです」

 

「よい休憩は、次の仕事の信用を作る。今夜は、それを選びたまえ」

 

「やっぱり商談でした」

 

 水面が、うんうんと嬉しそうに揺れた。

 

 澪は大学ノートの端に、小さく書いた。

 

 分ければ軽くなる。

 

 その文字を見て、少し笑う。

 

 戦場で覚えたことではない。古い燭台と、大学の机と、真壁の言葉と、神様のうんうんで分かったことだった。

 

 明日の課題はまだある。商会の商品メモも残っている。講義資料も全部は読めていない。

 

 それでも、一つの大きな不安ではなかった。

 

 澪はマグカップを持ち、温かさを両手で包んだ。

 

「明日も、分けます」

 

「よろしい。明日も、荷を分けて運びたまえ。急がずともよい」

 

 古い燭台の横で、水が小さく揺れた。

 

 神様が、うんうんと嬉しそうにしている。

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