押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第99話 店に入る前

 

 九月のゼミ教室には、夏の残りがまだ少しだけ居座っていた。

 

 窓際のブラインドは半分だけ下ろされていて、細い光が机の端に斜めに落ちている。エアコンは動いているのに、教室の後ろには湿った空気が溜まり、久しぶりに顔を合わせた学生たちの声も、どこか落ち着かない。夏休みが終わったことを受け入れきれていない顔と、もう秋学期の予定に追われている顔が、同じ部屋に並んでいた。

 

 澪は鞄からノートを出し、表紙の端を指で押さえた。

 

 以前なら、ゼミで何かが始まるというだけで、胸の奥にまとめて重さが来ていた。誰と組むのか。何を話すのか。自分がどこかで発言しなければならないのか。そうした不安は、名前のない大きな塊になって、考える前に押し寄せてきた。

 

 今日は違う。

 

 不安が消えたわけではない。人の前で話すことは、やはり苦手だ。隣の席の学生が笑っているだけでも、自分の声が小さすぎないか、相槌のタイミングがおかしくないかと考えてしまう。それでも、以前のように全部が一つになって襲ってくる感じはなかった。

 

 教員の説明を聞くこと。班を確認すること。テーマを決めること。次回までの課題を持つこと。

 

 それぞれが別の札を付けられて、澪の頭の中に置かれていく。便利だと思うより先に、澪は小さく息を吐いた。見えるようになった分だけ、逃げられないものも増える。けれど、逃げられないものの形が分かるだけで、手を伸ばす順番は決められた。

 

 担当教員が教卓の前に立ち、資料を手に取った。

 

「十二月にゼミ大会があります。各班で研究テーマを決めて、調査、分析、発表資料の作成まで進めてもらいます。これから毎週、進捗確認の時間を取ります」

 

 教室のあちこちで、ペンが動き始める音がした。

 

 澪も日付を書き、その下に教員の言葉を短くまとめていく。十二月。毎週。テーマ。次回課題。調査前に絞る。以前の澪なら、説明を聞いている途中で「発表」という言葉に引っかかり、そこから先の話が少し遠くなっていたかもしれない。けれど今は、発表はまだ先に置けばよいものとして、ノートの中で場所を分けられた。

 

「今日は、テーマを決めるところまでで構いません。調査を始める前に、何を調べるのかを狭めてください。広すぎるテーマは、途中で必ず崩れます」

 

 崩れる、という言葉に、澪は反射的に反応した。

 

 荷が崩れる。

 

 真壁なら、たぶんそう言う。澪はノートの端に「崩れない形」と書き、書いてから自分で少しだけ目を伏せた。大学のゼミ資料の横に、自然に荷物みたいな言葉が出てくる。変な影響を受けていると思う。けれど、その影響は役に立っていた。

 

 班分けが読み上げられ、澪は佐伯、神谷、三浦と同じ班になった。

 

 澪はノートと筆箱を持ち、指定された机へ移動した。三つの机を寄せると、脚が床を擦って小さな音を立てる。正面に座った佐伯は、鞄からペンケースを出しながら明るく笑った。

 

「えっと、よろしく。テーマ決めからだよね」

 

 神谷は資料の端をまっすぐ揃えていた。真面目そうな指先で、配られたプリントを重ね直している。

 

「ゼミ大会だから、浅すぎるテーマは避けたい」

 

 三浦は椅子に座り直し、机の角に肘を置いた。

 

「でも広すぎても無理じゃない? 十二月まで毎週あるっていっても、できる範囲にしないと」

 

 澪は三人の顔を順に見た。何か気の利いたことを言おうとすると、言葉が詰まる。だから、まずは無理をしない。

 

「よろしくお願いします」

 

 声は小さかったが、きちんと届いた。

 

 それ以上の雑談は、まだ出てこない。夏休みにどこへ行ったのか、何をしていたのか、そんな話を振られても困る。狼の群、大ムカデ、見えない虎、侯爵家、光る剣、家具配送。どれも大学の机には載せられない。

 

 澪は代わりに、ノートへ三人の言葉を写した。佐伯は若者目線、SNS、入りやすさ、雰囲気。神谷は研究として成立するか、データ、先行研究、認知度。三浦は現実の入りづらさ、価格、店の外から分かる情報、店主との会話不安。自分の欄には、商品情報、用途、説明札、初回来店、店に入る前の理由、と小さく書いた。

 

 話す前に、話が分かれていく。

 

 それは少し怖くて、同時に少し助かった。

 

 

 

 

 

「若者が商店街に行かない理由、とか?」

 

 佐伯が最初に案を出した。

 

「広いけど、分かりやすいと思う。あと、SNS映えする店とそうじゃない店とか。若者向け商店街活性化、みたいな」

 

 神谷は少し考えてから、ペンの先で資料を軽く叩いた。

 

「SNSだけにすると、研究として少し弱いかも。認知度とか情報接触とか、消費者行動に寄せた方がいいと思う」

 

「地域商店街における若年層消費行動?」

 

 三浦が言うと、佐伯が肩をすくめる。

 

「急にゼミっぽい」

 

「ゼミだからね」

 

 神谷が真顔で返したので、佐伯が笑った。

 

 三浦はそのやり取りを見てから、机の上に置いたスマホを伏せた。

 

「でもさ、個人店って入りづらいところあるよ。値段が分からない店とか、何を売ってるか外から分からない店とか。店主と話さないといけない感じのところ、ちょっと怖い」

 

「あ、それ分かる」

 

 佐伯がすぐに頷いた。

 

「外から見て、何売ってるか分からない店ある。おしゃれなのか、常連向けなのか、そもそも入っていいのか分からないやつ」

 

「価格表示と購買意欲、もあるか」

 

 神谷がメモを取る。

 

「商品情報の不足、か」

 

 澪のペン先が、そこで止まった。

 

 商品情報。

 

 足が止まる。

 

 店に入る前。

 

 大学の机の上で出たその言葉が、押入商会の棚の前に置かれていた札と重なった。

 

 澪はすぐには喋らなかった。喋ると、押入商会の匂いや、リュシアの声や、セルマの手つきまでこぼれそうだった。だから、まずノートの端へ静かに線を引いた。

 

 入りづらい理由。知らないから入らない。値段が見えない。何が買えるか分からない。誰向けか分からない。使い方が分からない。店主との会話が不安。店に入る前。

 

 最後の言葉を書いた瞬間、澪の中で教室の空気が少しだけ遠のいた。

 

 行商先の押入商会の棚の前には、見本の小瓶と説明札が並んでいた。澪はその時、商品名、用途、価格、量、説明札をどう置くかで迷っていた。良いものを出せば届く、というほど商いは簡単ではない。良いものだと言われても、客が何に使うのか分からなければ、手は伸びない。

 

 リュシアは棚に並べた見本と説明札を見比べ、腕を組んでいた。

 

「名前だけじゃ弱いね。何に使うものか、先に分からないと客は手を出しにくいよ」

 

 その言い方は軽いのに、目はまったく軽くなかった。客が棚の前で足を止めるか、通り過ぎるか。そこを見ている商人の目だった。

 

 セルマは小瓶を一つ持ち上げ、底に貼った札を読んだ。瓶を少し傾け、中身の色と量を見る。指先は細かく、迷いがない。

 

「量と値段は見えるわ。でも、初めて見る人には、これが高いのか安いのか判断できない。比べるものが要るわね」

 

「そうだね」

 

 リュシアは頷いた。

 

「値段、量、使い道。誰に売るか。そこまで見えれば、客は足を止める」

 

 セルマは瓶を棚に戻し、隣の札の向きを少しだけ直した。

 

「使う時に何を間違えやすいかも要るわ。薬でも道具でも、初めて使う人はそこを怖がるもの」

 

 少し離れて棚全体を見ていた真壁が、静かに目を細めた。

 

「悪くない。客が迷うのは、品が悪いからではない。品へ至る道が見えぬからだ」

 

 澪は、その言い方に首を傾げた。

 

「品へ至る道、ですか」

 

「そうだ、澪君」

 

 真壁は説明札を一枚取り、棚の前に置き直した。

 

「用途、量、価格、見本、扱い方。これは売り文句ではない。客が足を止めた時、迷わぬための荷札だ」

 

 リュシアが説明札を指で押さえる。

 

「客に聞かせる前に、店が先に答えを置く。そういうことだね」

 

「それでよい。押しつけず、隠さず、選べるように置く。商いとして品がある」

 

 澪は、その時に覚えた。

 

 商品名だけでは届かない。使い方が見えないと、手が伸びない。価格が妥当か分からないと、財布は開かない。品質を信じる理由がないと、買う前に足が止まる。見本があれば、客は覗き込む。説明札があれば、質問の前に確認できる。用途が書いてあれば、誰に必要なものか想像できる。価格と量が並んでいれば、買うかどうかを自分で決められる。

 

 真壁は、それをまとめて「客が店に入る前の道」と呼んだ。

 

 澪は大学の机に戻った。

 

 佐伯がまだ話している。

 

「若者って、そもそも商店街の店に入りづらくない?」

 

 神谷が、資料の余白へ何かを書きながら言った。

 

「情報接触と認知度の問題かな」

 

 三浦は首を傾げる。

 

「でも、店の前で何売ってるか分からないところ、普通にあるよ」

 

 澪のノートには、いつの間にか言葉が増えていた。商品名、用途、価格、見本、品質、誰向けか。初めての人が、聞かなくても分かること。そして、店に入る前の道。

 

 押入商会の話はできない。リュシアの商人の目も、セルマが瓶を確かめる手つきも、真壁が荷札を整える指先も、この机の上には出せない。

 

 でも、経験は使える。

 

 澪は小さく息を吸った。

 

 

 

 

 

「どうしよう、広いね」

 

 佐伯が、ペンを回しながら言った。

 

「若年層の商店街利用、だけだと広すぎる」

 

 神谷が資料の上に指を置く。

 

 三浦が、伏せたスマホの端を指で軽く叩いた。

 

「入る前の話に絞る?」

 

 澪は、自分のノートを見た。

 

 店に入る前。買う理由。見えていないもの。

 

 喉が少し詰まる。発言するのは、まだ得意ではない。雑談なら逃げたかもしれない。でもこれは、雑談ではなかった。今、言わないと、テーマがまた散る。

 

 澪は顔を上げた。

 

「店に入る前に、買う理由が見えていないのかもしれません」

 

 三人がこちらを見た。

 

 澪は一瞬固まった。視線が集まるのは苦手だ。けれど、ここで止まると、言葉が中途半端なまま落ちる。ノートの端を指で押さえ、短く続けた。

 

「何を売っているか、いくらくらいか、どう使うのか、誰向けなのか。そこが見えないと、入る前に止まると思います」

 

 佐伯が、目を少し開いた。

 

「それ、分かる。店の前で一回止まって、結局入らないやつ」

 

 三浦も頷いた。

 

「値段見えないと怖いしね。入ってから高かったら出にくいし」

 

 神谷はペンを止め、澪の言葉を自分のノートに移した。

 

「商品情報の見える化と、初回来店行動……かな」

 

 澪は少しだけ肩の力を抜いた。

 

 散っていた言葉が、ひとつの線に寄っていく。自分が場を回したわけではない。誰かの上に立ったわけでもない。ただ、散っていた荷に札を付けただけだ。

 

 佐伯が笑った。

 

「篠原さん、今の分かりやすい」

 

「……今の、記録します」

 

 言ってから、澪は自分で驚いた。

 

 記録します。

 

 真壁みたいだった。

 

 佐伯も少しだけ目を瞬いた。神谷は気づいたように口元を緩め、三浦は「議事録っぽい」と小さく笑った。

 

 澪は慌ててノートに視線を落とした。

 

 顔が熱い。けれど、嫌な熱ではなかった。

 

「研究テーマとしては」

 

 神谷が言葉を整え始める。

 

「小規模店舗における商品情報の見える化と若年層の初回来店行動、かな」

 

 佐伯は少しだけ眉を上げた。

 

「長いけど、ゼミっぽい」

 

 三浦は腕を組んで、もう一度テーマを口の中で転がすように呟いた。

 

「何を調べるかは分かる」

 

 澪はノートにテーマを書いた。長い。漢字が多い。けれど、確かに何を見るかは分かる。

 

「仮題として、記録します」

 

 また言った。

 

 佐伯が笑いをこらえきれない顔をした。

 

「篠原さん、今日すごく実務的じゃない?」

 

「え」

 

 澪は顔を上げる。

 

 神谷が真面目な顔で頷いた。

 

「前より、整理が早い」

 

 三浦も続ける。

 

「なんか、議事録係向いてそう」

 

 陽気な褒め方ではなかった。からかわれているわけでもない。普通に、便利だと言われている。

 

 澪は少し困った。

 

 自分は明るくなったわけではない。人前で何でも話せるようになったわけでもない。けれど、分けて、記録して、必要な時に短く言うことなら、少しできる。

 

「議事録なら、少しできます」

 

「助かる」

 

 佐伯が即答した。

 

 澪は小さく頷き、またノートへ戻った。嬉しいと言うには大げさだったが、胸の中で小さな荷が一つ、きれいに置かれた気がした。

 

 担当教員が、各班を見て回ってきた。

 

「ここは、どんなテーマになりましたか」

 

 神谷が背筋を伸ばし、ノートを少し手前に寄せた。澪は自分のノートを見せられるように向きを整える。

 

「小規模店舗における商品情報の見える化と若年層の初回来店行動、で考えています」

 

 教員は、神谷の言葉を聞きながら、澪のノートにも視線を落とした。商品名、用途、価格、見本、品質、誰向けか。並んだ項目を見て、少し頷く。

 

「かなり絞れていますね。いいと思います。ただ、次回までに、何を持ち寄るかを決めてください。調査に入る前に、項目を整理すること」

 

 澪はすぐに「項目整理」と書いた。

 

 ペンが動くのを見て、三浦が少し笑う。

 

「速い」

 

「記録、しておきます」

 

 澪は小さく返した。

 

 教員が次の班へ移ると、佐伯が机に両肘をついた。

 

「じゃあ、次回までに何持ってくるかだね」

 

 神谷はすぐに資料を見た。

 

「僕は先行研究と統計を探す。若年層の消費行動、商店街利用、情報接触、価格表示あたり」

 

「じゃあ私、若者目線で入りやすい店と入りにくい店の例を探す。SNSとか、近所の商店街とか。写真は……勝手に撮るとまずいか」

 

 三浦が言った。

 

「撮影は気をつけた方がいいね。俺は店頭観察かな。価格表示とか、商品説明とか、外から何が分かるか。聞き取りはまだしない方がいいよね」

 

「まだ早いと思う」

 

 神谷が頷く。

 

 佐伯は澪を見た。

 

「篠原さんは?」

 

 澪はノートの自分の欄を見た。

 

 商品名。用途。価格。量。見本。品質。誰向けか。使い方。注意点。質問しなくても分かること。店に入る前に分かること。

 

 そのまま出してはいけないものがある。押入商会の匂いを抜き、大学の言葉に直す必要がある。けれど、項目表なら作れる。

 

「私、商品情報の項目表を作ります。初めて見る人が、何を知りたいかを分けます」

 

 佐伯が、ほっとした顔をした。

 

「助かる。そういうの、私たぶん散らかる」

 

 神谷も頷く。

 

「項目表があると、調査票にしやすい」

 

 三浦は自分のノートを指で叩いた。

 

「店頭を見る時にも使えるね」

 

 澪は息をひとつ吸って、頷いた。

 

「では、次回までに表にします」

 

 また実務的だった。

 

 もう少し普通に言えなかったのか、と思う。けれど、三人は誰も変な顔をしなかった。むしろ、次に進みやすくなったようだった。

 

 澪はノートに役割を書き込んだ。佐伯は若者目線の店例を探す。神谷は先行研究と統計を調べる。三浦は店頭観察をする。澪は商品情報の項目表を作る。罫線で囲まなくても、頭の中ではもう表になっていた。

 

 神谷がそれを見て言った。

 

「これ、写真撮っていい?」

 

「あ、はい」

 

 澪はノートを少し前へ出した。

 

 佐伯もスマホを構える。

 

「私も撮る。篠原さんのノート、分かりやすい」

 

 澪は、どう返していいか分からず、少しだけ頭を下げた。

 

 褒められるのは苦手だ。

 

 でも、役に立ったことは、分かった。

 

 

 

 

 

 ゼミが終わると、外の空気は少しだけ涼しくなっていた。

 

 澪は大学の門を出て、駅へ向かう道を歩いた。学生たちの声が後ろへ流れていく。スマホのメモを開き、仮題を打ち込む。

 

 小規模店舗における商品情報の見える化と若年層の初回来店行動。

 

 長い。

 

 でも、確かに自分たちのテーマになった。

 

「長いけど、分かる」

 

 小さく呟く。

 

 以前なら、グループ作業の後はぐったりしていた。今日も疲れている。肩は重いし、頭も使った。三人の視線が自分に向いた瞬間を思い出すと、まだ少し体が固くなる。

 

 それでも、ただ疲れただけではなかった。

 

 発言できた。テーマを絞れた。自分の経験を、そのままではなく別の言葉に変えられた。押入商会のことは言わなかった。リュシアも、セルマも、真壁も、大学の机には出さなかった。

 

 でも、使えた。

 

 澪はスマホを閉じ、鞄の紐を持ち直した。

 

 駅までの道が、少しだけ短く感じた。

 

 

 

 

 

 六畳間に戻ると、ローテーブルの上がいつもより商会らしかった。

 

 畳の上には、傷防止用の布が畳まれている。ローテーブルには配送先一覧、納品予定表、家具の寸法メモ、搬入経路の確認メモ、荷札、説明札、納品時の注意書きが並んでいた。押し入れの方は静かだが、収納の中に家具が納品先ごとに区画分けされていることが、なんとなく分かる。

 

 真壁は荷札に細い字を書いていた。

 

 その手つきは、戦場で地図を描く時よりも静かで、けれど同じくらい迷いがない。

 

「ただいま戻りました」

 

 澪が言うと、真壁は筆を止めずに顔だけを上げた。

 

「お帰り、澪君。今日は大学の荷が増えた顔ですな」

 

「増えました。でも、少し分けられました」

 

「聞こう」

 

 澪は鞄を置き、ローテーブルの端に座った。家具の配送準備を邪魔しないように、ノートを自分の前に開く。

 

「十二月にゼミ大会があります。毎週、打ち合わせをします。今日は研究テーマを決めて、次回までの課題も割り振りました」

 

「形になっていますな」

 

「テーマは、小規模店舗における商品情報の見える化と若年層の初回来店行動、です」

 

 真壁の筆が、そこで止まった。

 

「悪くない題ですな。店に入る前の道を見ている」

 

「道、ですか」

 

「客が店に入るまでにも道はある。看板、価格、見本、用途、信用。どれかが欠けると、足は止まる」

 

 真壁は、ローテーブルの上に置いてあった説明札を一枚、澪の方へ滑らせた。

 

 椅子用の札だった。用途、寸法、置き場所の注意、湿気を避けること、納品後に確認する箇所、脚のがたつきがある場合の連絡先が、短い言葉で並んでいる。

 

「家具も同じく。良い椅子でも、どこへ置くか、何に使うか、どれほどの重さまで無理がないか、先に分からねば客は迷う」

 

「今日、ゼミで話したことと同じです」

 

「商いの形は、世界が違ってもあまり変わらぬ」

 

 澪は少し笑った。

 

「押入商会の話は出してません」

 

「それでよい。使うべきは経験であって、看板ではない」

 

 その言葉に、澪は今日の教室を思い出した。

 

 佐伯が驚いた顔。神谷が言葉を整えた時のペン先。三浦が「値段見えないと怖い」と言った時の現実感。自分の声。

 

「店に入る前に、買う理由が見えていないのかもしれません、って言いました」

 

 真壁は少しだけ目を細めた。

 

「君の言葉になっている。客の足が止まる場所を見ているな」

 

「佐伯さんたちが、ちょっと驚いてました」

 

「澪君の荷が、外にも見え始めたのだろう」

 

「荷、ですか」

 

「急がずともよい。見える荷から、少しずつ出せばよい」

 

 澪は、胸の奥が少し落ち着くのを感じた。

 

 全部を見せなくていい。でも、少しずつ出していい。そのくらいなら、できる気がした。

 

 真壁は、また荷札へ視線を戻した。今度は別の家具の札だった。小さな棚らしい。寸法と置き場所、壁との隙間、湿気を避ける注意が書かれている。

 

「真壁さんは、家具の配送準備ですか」

 

「ええ。納品先ごとに荷を分けている。家具は売って終わりではない。届き、置かれ、使われて初めて品になる」

 

「配送も、店に入る前の道なんですね」

 

「その見方でよい。客が迷う場所は、一つではない」

 

 澪は、大学のノートと真壁の配送メモを並べた。

 

 紙の匂いが混ざる。大学のプリントの薄いインクの匂いと、真壁の荷札に使われている少し乾いた紙の匂い。どちらも紙なのに、用途が違う。けれど、並べると似ている。

 

 ゼミ課題メモには、店頭で何が分かるか、価格が見えるか、用途が分かるか、見本があるか、質問しなくても買う理由が見えるか、といった言葉が並んでいた。家具配送メモには、納品先、家具名、寸法、用途、設置場所、搬入経路、傷防止、設置後の説明、納品確認。商会の商品メモには、用途、価格、量、納品単位、品質、見本、説明札、誰向けか、再購入理由、注意点。

 

 澪は三つの紙を見比べた。

 

「大学の課題と、商会の商品メモと、配送準備が同じ形に見えます」

 

「同じではない。だが、似た道を持っている」

 

「店に入る前。買う前。届く前。使う前」

 

「その筋で見ればよい。客が迷う場所は、順に現れる」

 

「これ、商会の商品メモをそのまま出すわけにはいかないけど、項目は使えます」

 

 真壁は、荷札の端を揃えながら頷いた。

 

「荷札の張り替えですな。押入商会の経験を、大学の言葉に直す。品のよい応用だ」

 

 澪は少し照れた。

 

 大学の課題を褒められたのか、商会の仕事を褒められたのか、少し分からなかった。たぶん両方だった。

 

 澪は大学ノートを引き寄せる。

 

 次回までに自分が作るものは、商品情報の項目表だ。初めて見る人が知りたいこと。店に入る前の不安。買う理由が見えるか。質問しなくても分かること。届いた後に、使う姿が見えるか。

 

 ペンを動かすたびに、ゼミの教室と押入商会の棚と、真壁の家具配送メモが、少しずつ同じ机の上に置かれていく。

 

「次回までに、商品情報の項目表を作ります」

 

「その筋で進めたまえ。急がず、だが形よく整えるとよい」

 

「大学の課題なのに、配送準備みたいです」

 

「商いも学びも、荷を運ぶことに変わりはない」

 

 真壁は荷札を一枚、すっと収納へ送った。目の前から札が消えたのではなく、行き先のある荷に結び直されたように見えた。

 

 澪はノートの端に、今日の一行を書いた。

 

 店に入る前に、買う理由が見えるか。

 

 少し考えて、その下にもう一行足す。

 

 届いた後に、使う姿が見えるか。

 

 ゼミ大会のテーマ。商会の商品メモ。家具の配送準備。

 

 別々だったはずのものが、同じ机の上で少しだけつながった。

 

 澪はノートを閉じた。

 

 まだ課題は始まったばかりだ。調査もしていない。発表資料もない。来週には、また新しい荷が増える。

 

 それでも、今は分けられている。

 

 分けられていれば、運べる。

 

 澪は、真壁が次の荷札を書く手元を見ながら、小さく息を吐いた。

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