蒼翼のフリューゲル“Two beyond dimensions.” 作:フルス・シュタイン
それは、何気ない一日のはずだった。
ユーヤが初めてその子を見つけたのは、次元リアクター管理局の長い廊下の片隅。
人の気配の少ないその場所に、ぽつんと――金髪の少女が座り込んでいた。
その姿はひどく寂しそうにも見えた。
「……何してんの?」
思わず声をかける。
少女はびくりと肩を揺らし、驚いたようにこちらを見上げた。だが、返事はない。
「一人?」
もう一度問いかける。
それでも、やはり返事はなかった。ただ静かに、こちらを見つめるだけ。
その沈黙に、少しだけ戸惑う。
ふと頭をよぎるのは、父の言葉――“待ってるから、早く来いよ”。
(……行かないと)
そう思ったのに、なぜか足が動かなかった。
目の前の少女から、どうしても目を離せなかった。
「……一緒に遊ぶ?」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
理由なんて分からない。ただ、なんとなく――この子と一緒にいたいと思った。
少女は少しだけ目を見開く。
そして、かすかな声で問い返した。
「……遊んでくれるの?」
それが、彼女の声を初めて聞いた瞬間だった。
透き通るように綺麗で、どこか儚い響き。
ユーヤは迷わず頷く。
「うん」
それだけでよかった。
二人は管理局の中を歩き回った。
特別なことは何もない。ただ廊下を進み、部屋を覗き、知らない場所を探して――。
それは遊びと呼ぶにはあまりに素朴で、けれど確かに楽しい時間だった。
やがて、父に見つかる。
「ユーヤ、何してる」
少し呆れたような声に、軽く叱られる。
どうやら帰る時間らしい。
そのとき、ふと思い出す。
「……あ、そうだ。名前、聞いてなかった」
振り返ると、少女は少しだけ上目遣いでこちらを見ていた。
「俺はユーヤ。君は?」
ほんの一瞬の間。
そして、静かに答えが返ってくる。
「……エリス」
その名前を、大事にするように口にした。
「また……遊んでくれる?」
不安と期待が入り混じった声。
ユーヤは、当たり前のように答える。
「うん」
その瞬間だった。
エリスの表情が、初めて変わる。
――笑った。
ほんの小さな、けれど確かな笑顔。
それが、二人の始まり。
何でもない、けれど決して忘れることのない――最初の出会いだった。
ユーヤが七歳になった年――世界は再び、かつてない危機に見舞われる。
観測史上最大規模のギアノイド大隊が襲来。
その進軍は止まることなく、日本の次元リアクタープラント周辺にまで到達する。
国際連合軍は総力を挙げて迎撃にあたるが、圧倒的な物量の前に戦線は徐々に押し込まれていく。
防衛線は崩壊寸前。もはや、打つ手は残されていなかった。
その時――関谷リョウイチは、最後の決断を下す。
次元リアクタープラントに併設された粒子貯蔵タンク群の、一斉起爆。
それは施設ごと周囲一帯を消し飛ばす、最終手段だった。
だが、その起爆には精密な調整が必要となる。
リョウイチは自ら一人、貯蔵タンク施設へと残る道を選ぶ。
その最中、彼のすぐ近くには、ユーヤとエリスの姿があった。
すでにリョウイチの身体は、ギアノイドの攻撃により致命傷を負っていた。
それでもなお彼は二人を守ることを最優先とし、緊急脱出用の奪取ポッドへと押し込む。
閉じゆくハッチの向こう、彼が残した最後の言葉はただ一つ――
「ナツキに……すまんと、伝えてくれ」
その直後、光がすべてを飲み込んだ。
次元粒子の大爆発は、迫り来るギアノイド大隊を巻き込み、壊滅させる。
だが同時に、一人の天才科学者の命もまた、そこに消えた。
混乱の中で、エリスの育ての親であった研究者夫婦も命を落とす。
すべてを失った彼女は、天涯孤独の身となった。
すべてを失ったあの日のあと、静寂だけが残った。
関谷リョウイチの死。
そして、エリスを育ててきた研究者夫婦の死。
一度に訪れた喪失は、あまりにも大きすぎた。
気がつけば、エリスは一人になっていた。
どこへ行けばいいのかも分からず、ただ立ち尽くすだけの少女。
その小さな背中を見て、ユーヤは強く拳を握りしめる。
「……母さん」
ナツキの前に立ち、ユーヤはまっすぐに見上げた。
「エリスを……引き取ってほしい」
その声は震えていたが、迷いはなかった。
「俺、誕生日プレゼントもいらない。クリスマスもいらない」
「ご飯も……服も……半分でいい。俺の分、全部エリスにあげていいから」
幼い子供の言葉。
けれど、その一つひとつはあまりにも真剣だった。
エリスは何も言えず、ただそのやり取りを見ている。
その瞳は揺れ、すがるようにユーヤを見つめていた。
――この時すでに、彼女の中でユーヤの存在は特別なものになっていた。
それは恋と呼ぶにはあまりに強く、ほとんど“依存”に近い想い。
ナツキは、しばらく黙っていた。
夫を失った悲しみは、まだ胸の奥に深く残っている。
それでも――目の前の二人を見て、静かに息を吐いた。
「……二人とも、私の子供よ」
その言葉は、優しく、そして強かった。
「大丈夫。ちゃんと守るから」
こうして、三人での生活が始まる。
ナツキは次元リアクター管理局の副指令へと就任。
その責任は重く、日々は多忙を極め、家に帰れない夜も少なくなかった。
それでも家には、小さな日常があった。
エリスは、ユーヤのために家事を覚え始める。
最初はぎこちなかった手つきも、やがて驚くほどの上達を見せる。
特に料理の腕は飛躍的に伸び、いつしか“得意”と呼べるほどになっていた。
すべては――ユーヤのために。
彼の隣にいられることが、彼女にとってのすべてだった。
けれどエリスは、まだ何も知らない。
自分が何者であるのかも。
なぜここにいるのかも。
ただ一つ確かなのは、
この場所が――ユーヤのいるこの家が、彼女にとっての“居場所”だということだけだった。