星海前進   作:Jefflocka

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第10話 正義の値段

 第10話 正義の値段

 

 

 

 ——前回までのあらすじ。

 

 アダマンタイトを含む超硬度防壁が破られた。

 

 フレイヤ・ファミリアのアレンとオッタルは、第二級冒険者を含む守備隊が瞬時に制圧された現場を確認する。

 

 壁は盗まれたのではない。

 

 破られた。

 

 中へ至るために。

 

 あるいは、中の何かへ触れるために。

 

 一方、地下ではオリヴァス・アクトが撃鉄めいた装置を整え、名を呼ばれぬ巨大な影と問答を交わしていた。

 

 魔石。

 

 部品。

 

 信仰。

 

 南方デタイン。

 

 何かが集められている。

 

 ヘルメスはそれを「哀れ」と評し、アスフィはリオンの変化を気にかけた。

 

 そしてアストレア、フレイヤ、ロキの会合では、フレイヤがエルヴィンの魂の古さを見抜いた。

 

 エルヴィンは三柱の女神の前で、自らの前世を語った。

 

 閉ざされた世界。

 

 外を知りたかった男。

 

 多くを率い、多くを帰せなかった男。

 

 だから今度は、進む道だけではなく、帰る道を作る。

 

 そう語った。

 

 そして夜。

 

 リュー・リオンは、路地で再びエレンと遭遇した。

 

 四百四十四ヴァリスの男神。

 

 危険な観察者。

 

 彼は、リューの変化を見抜いた。

 

 裁くだけではない怒り。

 

 守りたいものが増えた色。

 

 その問いは、今も続いている。

 

 

 

 

 

 本編

 

 

 

 星屑の庭の朝は、騒がしかった。

 

 少しだけ、ではない。

 

 はっきり言って、食堂の椅子と皿がまだ無事であることを平和と呼ぶなら、平和だった。

 

「四百四十四ヴァリスの男神?」

 

 アリーゼ・ローヴェルが、パンを片手に目を丸くした。

 

「何それ、安いの? 高いの?」

 

「金額の問題ではありません」

 

 リュー・リオンが即座に答える。

 

「では、何の問題なのですか」

 

 ノインが首を傾げた。

 

 ライラがパンをかじりながら言う。

 

「胡散臭さの単位じゃね?」

 

「単位にしないでください」

 

「でも覚えやすいだろ。四百四十四ヴァリスの男神」

 

「覚えやすいことと、呼んで良いことは別です」

 

 リューの声はいつも通り冷静だった。

 

 ただし、耳の先が少しだけ硬い。

 

 エルヴィン・スミスはそれを見たが、指摘しなかった。

 

 代わりに、食卓の端に置かれた簡易地図へ視線を落とす。

 

「呼称としては不正確だ」

 

「ほら、エルヴィンもそう言っています」

 

 リューが頷く。

 

 だが、エルヴィンは続けた。

 

「正確には、四百四十四ヴァリスを奪われたと主張した男神だ」

 

「細かい!」

 

 アリーゼが笑った。

 

「でも長いわ! 四百四十四ヴァリスの男神でいいじゃない!」

 

「略称としては機能する」

 

「機能させないでください」

 

 リューが額に手を当てた。

 

 輝夜は湯気の立つ茶を飲みながら、淡々と言う。

 

「胡乱な神であることは確かだ。呼び名など、分かればよかろう」

 

「輝夜まで……」

 

「リオン。神相手に警戒心を持つのは悪いことではない」

 

 その言葉に、リューは少しだけ黙った。

 

 その隙に、ライラがにやりと笑う。

 

「で、その四百四十四ヴァリスの男神、リオンに興味津々だったわけだ」

 

「ライラ」

 

「いい目だ、だったか? いやぁ、神に目を褒められるとは、リオンも隅に置けないねぇ」

 

「黙ってください」

 

「照れるなよ」

 

「照れていません」

 

「耳が硬い」

 

「見ないでください」

 

「見なくても分かる」

 

「余計に悪質です」

 

 アリーゼが笑い、マリューが苦笑し、リャーナが小さく肩を揺らした。

 

 アスタはパンを皿へ置き、真面目な顔で言う。

 

「でも、神様がリオンを気にしているなら、警戒した方がいいよね」

 

「神の気まぐれは読めませんから」

 

 ネーゼが頷く。

 

 イスカも小さく手を挙げた。

 

「それで、その男神は敵なの?」

 

「敵意があるなら分かりやすい」

 

 ライラは、ふっと声を落とした。

 

「悪意があるなら潰せばいい。けど、あいつは違う」

 

エルヴィンが言った。

 

「見ているだけだ。楽しそうに。好意すら混じっているように見える」

 

「好意があるなら安全、というわけではない」

 

 食堂の空気が、少しだけ変わる。

 

「好意は、相手の自由を尊重するとは限らない」

 

 リューは、その言葉にわずかに視線を伏せた。

 

 エレンの目を思い出す。

 

 楽しげで。

 

 優しげで。

 

 それでいて、こちらの内側を覗き込もうとする目。

 

 アリーゼは腕を組んだ。

 

「でも、また接触してくると思う?」

 

「来る可能性は高い」

 

 エルヴィンは短く答えた。

 

 リューの肩が、わずかに動く。

 

「理由は?」

 

 輝夜が問う。

 

「リューが変化しているからだ」

 

「エルヴィン」

 

 リューの声が少し尖った。

 

「事実だ」

 

「何がですか」

 

「以前の君なら、盗人に対して迷わず裁きを優先した。今は、原因と再犯防止にも目を向けている」

 

「それは……」

 

「悪いことではない」

 

 エルヴィンは静かに言った。

 

「見えるものが増えた。それだけだ」

 

 リューは、言葉を飲み込んだ。

 

 見えるものが増えた。

 

 それは、昨夜のエレンの言葉と似ていた。

 

 だが、まったく違う温度だった。

 

 エレンは面白がった。

 

 エルヴィンは、ただ事実として認めた。

 

 その違いが、胸の奥に残る。

 

「よし!」

 

 アリーゼがぱん、と手を叩いた。

 

「今日は巡回強化ね!」

 

 団長の声で、空気が切り替わる。

 

 エルヴィンは地図の端を軽く叩いた。

 

「団長。経路案を出しても?」

 

「お願い!」

 

「東区は昨夜の接触地点を含む。リューが再確認するのが最も自然だ。商店街は人目が多いから、アリーゼが行けば安心感が出る。工業区寄りは荒事が起きやすい。輝夜が適任だ。裏通りはライラ。ノインは本拠で情報整理。マリューとリャーナは救護備品の確認。アスタ、ネーゼ、イスカは北側避難導線の再点検がいい」

 

 エルヴィンはそこで口を閉じた。

 

 決定はしない。

 

 視線をアリーゼへ戻す。

 

 アリーゼは少しだけ真面目な顔になって、全員を見渡した。

 

「うん。採用するわ」

 

 そして、明るく頷く。

 

「みんな、聞いた通りに動いて。巡回が終わったら、合流はしなくていいわ。各自、星屑の庭に帰還。異常があったら無理せず持ち帰って報告。いい?」

 

「了解」

 

 輝夜が短く頷く。

 

「了解です」

 

 リューも続いた。

 

「はーい」

 

 ライラが気の抜けた返事をする。

 

 アリーゼがじとりと見る。

 

「ライラ?」

 

「了解しました、団長殿」

 

「よろしい!」

 

 アリーゼが満足げに頷く。

 

 ノインが紙束を整えながら問う。

 

「エルヴィンは?」

 

 アリーゼも地図を見る。

 

「そうね。エルヴィンは北東区画だったわね?」

 

「ああ。ガネーシャ・ファミリアが廃教会を調査する。違法市の倉庫に関する情報がある」

 

「ガネーシャのところが動くなら、アーディちゃんもいるのかしら?」

 

「可能性は高い」

 

「なら大丈夫よ。アーディちゃん、元気だし!」

 

「元気で済まない相手が出る可能性がある」

 

 エルヴィンの声は静かだった。

 

 食堂の空気が、少しだけ引き締まる。

 

 アリーゼは笑みを収めた。

 

「何かあるのね」

 

「まだ点だ。だが、点のまま放置するには悪い匂いがする」

 

「嫌な言い方ね」

 

 アリーゼはそう言いながらも、すぐに判断した。

 

「分かった。エルヴィンは先に北東区画へ。ガネーシャ・ファミリアとの衝突は避けて。あくまで確認と補佐。いい?」

 

「了解した」

 

「あと」

 

 アリーゼは少しだけ目を細める。

 

「一人で無茶しないこと」

 

「努力する」

 

「そこは『了解した』でしょ!」

 

「了解した」

 

 ライラが吹き出す。

 

「言い直したぞ」

 

「言い直せばいいものではないわ!」

 

 アリーゼがむくれる。

 

 リューは思わず口を挟んだ。

 

「エルヴィン。一人で向かうのですか」

 

「ああ」

 

「危険では?」

 

「危険だから先に見る」

 

「答えになっていません」

 

「よく言われる」

 

「言われ慣れないでください」

 

 今度はマリューとリャーナまで笑いをこらえた。

 

 アリーゼは改めて手を叩く。

 

「よし、出発! みんな、無事に帰ってくること! それが最優先よ!」

 

 その言葉だけは、軽くなかった。

 

 全員が頷いた。

 

 ***

 

 昼過ぎ。

 

 東区の巡回路は、いつもより人通りが少なかった。

 

 商店の戸は開いている。

 

 だが、店主たちは奥に引っ込みがちで、客の足も早い。

 

 リューは通りを歩きながら、昨日と違う点を確認していた。

 

 柵の位置。

 

 路地の荷物。

 

 壁に貼られた古い告知。

 

 いつもあるはずの花売りの姿がない。

 

 その全てを頭に入れていく。

 

 エルヴィンなら、どう見るだろう。

 

 そう考えた瞬間、リューは小さく眉を寄せた。

 

 なぜ、今あの人の判断を考えたのか。

 

 任務上、参考にしているだけだ。

 

 そう思おうとした。

 

「やあ」

 

 路地の奥から、声がした。

 

 軽い声。

 

 芝居がかった声。

 

 しかし、もう聞き間違えない声。

 

 リューは足を止める。

 

 薄い影の中から、青年が現れた。

 

 エレン。

 

 四百四十四ヴァリスを奪われたと騒いだ男神。

 

 今は財布袋すら持っていない。

 

「今日は盗まれていないのですか」

 

 リューは冷たく言った。

 

「残念ながら」

 

 エレンは笑う。

 

「今日は財布が空なんだ。つまり、盗まれようがない」

 

「それはそれで問題では?」

 

「うん。神としては少し寂しいね」

 

「用がないなら、私は巡回中です」

 

「だから話しかけた」

 

 エレンは、当然のように言った。

 

「巡回中の君に興味がある」

 

 リューは剣の柄に触れない。

 

 だが、姿勢はいつでも動ける形に変わっていた。

 

「暇つぶしですか」

 

「半分」

 

「残り半分は?」

 

「好奇心」

 

「迷惑です」

 

「知ってる」

 

 エレンは楽しそうに笑った。

 

「ところで、アストレアは優しいね」

 

 唐突だった。

 

 リューは眉をひそめる。

 

「何の話ですか」

 

「正義の女神。慈愛の女神。優しいお姉さん代表」

 

「……」

 

「僕の中では、膝枕されながらヨシヨシされたいランキング一位だ」

 

 リューは沈黙した。

 

 深く、長い沈黙だった。

 

「……あなたは、神を何だと思っているのですか」

 

「神」

 

「なら、もう少し敬意を持ってください」

 

「敬意はあるよ。だから一位なんだ」

 

「基準がおかしいです」

 

「ロキは二位かな。膝枕というより、耳元で悪口を囁かれそうだけど」

 

「聞きたくありません」

 

「フレイヤは?」

 

「本当に聞きたくありません」

 

「ちなみに三位は——」

 

「聞きません」

 

「厳しいなぁ」

 

「当然です」

 

 リューは、真剣に帰りたくなった。

 

 だが、エレンの目は笑っているのに、奥だけは笑っていない。

 

 彼は軽口を言っている。

 

 だが、軽口の裏に刃がある。

 

 リューはそれを感じ取っていた。

 

「君たちは、いつまで巡回を続けるんだい?」

 

 エレンが問う。

 

「街の治安が安定するまでです」

 

「安定?」

 

「闇派閥の活動が止み、市民が安心して暮らせるようになるまで」

 

「無償の奉仕をしなくなるのは?」

 

 リューは答える。

 

「真の平和が訪れ、アストレア・ファミリアの警備が必要なくなった時です」

 

 エレンは、少し目を細めた。

 

「正義感が枯れるまでじゃないんだ?」

 

 挑発だった。

 

 分かりやすいほどに。

 

 リューの目が鋭くなる。

 

「私たちの正義は、枯れるものではありません」

 

「そう言える元気があるうちはね」

 

 エレンの声は軽い。

 

 だが、そこには妙な優しさのようなものがあった。

 

「見返りを求めない奉仕は、きついよ。感謝されるうちはいい。称えられるうちはいい。子供が笑ってくれるうちはいい。でも」

 

 彼は壁に背を預ける。

 

「疲れ果てた時。助けた相手に責められた時。守った街が、君たちに石を投げた時。同じことが言える?」

 

「言えます」

 

 リューは即答した。

 

 エレンは微笑む。

 

「早いね」

 

「迷う必要がありません」

 

「本当に?」

 

「ええ」

 

「すごいな」

 

 その言葉には、嘲笑がなかった。

 

 リューは一瞬、目を細める。

 

 エレンは本当に、少しだけ感心しているように見えた。

 

「僕はね、リオン。そういう光を見ると、すごいなと思うんだ」

 

「……」

 

「どこまでもまっすぐで、高潔で、自分が傷つく可能性を知っていて、それでも立っている。綺麗だよ」

 

 リューは返事をしなかった。

 

「でも同時に」

 

 エレンの声が少し低くなる。

 

「それが儚く崩れ落ちる光景を見たら、きっと悲しいだろうと思う」

 

 風が吹いた。

 

「とても悲しくて」

 

 エレンは笑った。

 

「少し、危うい高揚すら覚えるかもしれない」

 

 リューは、今度こそ剣の柄に手を置いた。

 

「あなたは……」

 

「敵意はないよ」

 

「悪意はあります」

 

「どうかな」

 

 エレンは首を傾げる。

 

「僕は君を壊したいわけじゃない。ただ、見たい。君の正義が、どこまで君でいられるのか」

 

「それを悪意と言います」

 

「なら、好意も混じっている」

 

「余計に質が悪いです」

 

 エレンは嬉しそうに笑った。

 

「いいね。やっぱり君は面白い」

 

 リューは一歩踏み込もうとした。

 

 だが、そこで止まった。

 

 エルヴィンは、ここにはいない。

 

 誰かが間に入るわけではない。

 

 今、この問いを受けるのは自分だ。

 

 リューは、剣から手を離した。

 

 エレンの目が、わずかに細くなる。

 

「おや」

 

「……続けてください」

 

「怒らないの?」

 

「怒っています」

 

「でも斬らない」

 

「今は、あなたの問いを聞くべきだと判断しました」

 

 エレンは、ゆっくりと笑った。

 

「変わったね、リオン」

 

「変わったのではありません」

 

「じゃあ?」

 

「見るものが増えただけです」

 

 エレンの笑みが、少し深くなる。

 

「いいね」

 

 ***

 

 エレンはリューへ向き直った。

 

「じゃあ、最後の質問」

 

 リューは無言で見返す。

 

「正義って何?」

 

 路地の音が、遠ざかったように感じた。

 

 リューは、答えを知っている。

 

 知っているはずだった。

 

 幼い頃から、アストレア・ファミリアに来てから、アリーゼに出会ってから、ずっと考えてきた。

 

 だから答える。

 

「正義とは、無償に基づく善行です」

 

 声は揺れなかった。

 

「いついかなる時も揺るがない、唯一無二の価値。己の利ではなく、誰かのために手を伸ばすこと」

 

 エレンは黙っている。

 

「そして、悪を切り、悪を討つこと。誰かを傷つけ、踏みにじり、奪う者を止めること。それが、私の正義です」

 

 エレンは、しばらく黙っていた。

 

 それから、ゆっくりと手を叩いた。

 

 一度。

 

 二度。

 

 三度。

 

 乾いた音が路地に響く。

 

「分かりやすい」

 

「馬鹿にしているのですか」

 

「していないよ」

 

 エレンは本当に穏やかに言った。

 

「分かりやすい方がいい。言葉は鋭いほど、人を動かす」

 

「なら、何が言いたいのですか」

 

「君の正義は、こうも見える」

 

 エレンは指を一本立てる。

 

「善意を押し売り、従わないものを悪と呼び、暴力をもって制す。力づくの正義」

 

 リューの瞳が鋭くなる。

 

「違います」

 

「違うだろうね。君の中では」

 

「事実として違います」

 

「でも、悪が同じ論法を使ったら?」

 

 リューの言葉が止まった。

 

 エレンは笑わない。

 

 淡々と、続きを置く。

 

「我々こそが無償の善意だ。我々こそが揺るがぬ価値だ。我々に逆らう者こそ悪だ。だから切る。だから討つ。だから奪う」

 

 風が冷たくなる。

 

「同じ形の言葉を、悪が使った時、君は何で見分ける?」

 

 リューは答えようとした。

 

 だが、すぐには出ない。

 

 エレンは、そこを刺したのではない。

 

 ただ、待った。

 

 その待ち方が、ひどく不快だった。

 

 敵意がない。

 

 悪意がない。

 

 どころか、好意すらあるように見える。

 

 それなのに、刃より深く入ってくる。

 

 リューは唇を噛む。

 

「……結果です」

 

「結果?」

 

「誰かを救うか。誰かを踏みにじるか。そこに違いがあります」

 

「でも、救うために踏みにじる時は?」

 

「それは……」

 

 言葉が詰まる。

 

 エレンは小さく息を吐いた。

 

「君を選んだ理由が分かる?」

 

「選んだ?」

 

「そう。ターゲットにした」

 

 エレンは、悪びれずに言った。

 

「君が高潔だからだ」

 

 リューは睨む。

 

「高潔なものは、傷がつくとよく見える。汚れたものに傷がついても、あまり変わらない。でも、綺麗なものに入った傷は、誰の目にも残る」

 

「あなたは本当に……」

 

「ひどい?」

 

「最低です」

 

「そうかもしれない」

 

 エレンは、少しだけ寂しそうに笑った。

 

 その表情が、またリューを苛立たせた。

 

 なぜ悲しそうにする。

 

 なぜ楽しそうにする。

 

 なぜ心配しているように見える。

 

 分からない。

 

 分からないから、不気味だった。

 

 だが、リューは剣を抜かなかった。

 

 持ち帰る。

 

 今、そう思った。

 

 この問いは、ここで切り捨てるものではない。

 

 持ち帰って、考えるものだ。

 

「エレン」

 

 リューが言った。

 

「私は、あなたの問いを忘れません」

 

「嬉しいな」

 

「ですが、あなたの望むようには崩れません」

 

 エレンの目が細くなる。

 

「なぜ?」

 

 リューは一瞬だけ、星屑の庭を思い浮かべた。

 

 アストレア。

 

 アリーゼ。

 

 輝夜。

 

 ライラ。

 

 仲間たち。

 

 そして、帰る道を作る金髪の男。

 

「私は一人ではないからです」

 

 エレンは、ゆっくりと微笑んだ。

 

「いいね」

 

 彼は満足したように背を向ける。

 

「じゃあ、もう一つだけ土産話」

 

「まだあるのですか」

 

「あるよ。君の家の金髪の作戦補佐に関わるかもしれない話」

 

 リューの目が変わった。

 

「エルヴィンに?」

 

「裏通りで妙な噂がある」

 

 エレンは、楽しげに言った。

 

「小柄な男が、闇派閥の溜まり場を潰して回っているらしい。敵は倒れているのに、床だけやけに綺麗だったとか。血の跡まで拭かれていたとか。『汚い』と呟いていたとか」

 

 リューは眉をひそめる。

 

「それが、エルヴィンと何の関係が?」

 

「その小柄な男が、金髪の作戦補佐の噂を集めているらしい」

 

「……」

 

「道を作る男。帰る道を見る男。子供に変な呼び名を付けられた男」

 

「道の人、ですか」

 

「本人は否定しそうだね」

 

「します」

 

 即答だった。

 

 エレンは笑った。

 

「名前は知らない。顔も知らない。噂は噂だ。でも、伝えたら面白い反応をするかもしれない」

 

「あなたは、それを見たいのですね」

 

「うん」

 

「最低です」

 

「今日は二回目だね」

 

「何度でも言います」

 

 エレンは肩をすくめた。

 

「またね、リオン。君の正義と、君の家の金髪がどんな顔をするか。楽しみにしている」

 

 そう言って、彼は路地の闇へ溶けるように消えた。

 

 リューは、しばらくその場に立っていた。

 

 正義の問い。

 

 そして、名前のない小柄な男の噂。

 

 持ち帰るものが増えた。

 

 リューは静かに息を吐く。

 

「……戻りましょう」

 

 自分に言い聞かせるように言って、彼女は星屑の庭へ歩き出した。

 

 ***

 

 同じ頃。

 

 北東区画の廃教会に、エルヴィン・スミスは先に到達していた。

 

 古い石造りの建物。

 

 割れた窓。

 

 腐りかけた扉。

 

 煤と苔の付いた壁。

 

 かつては祈りの場所だったのだろう。

 

 今は、悪人どもが違法市で捌く品を保管する倉庫にしている。

 

 エルヴィンが中へ入った時、悪人どもは既に床に転がっていた。

 

 死んではいない。

 

 だが、全員が意識を刈り取られている。

 

 血は少ない。

 

 音も少ない。

 

 少なすぎる。

 

 廃教会の奥。

 

 古い祭壇の前に、一人の女が立っていた。

 

 灰色の髪。

 

 黒に近い衣。

 

 目を閉じている。

 

 眠っているようにも見える。

 

 だが、その周囲だけ空気が違った。

 

 静かすぎる。

 

 静寂そのものが、彼女に従っているようだった。

 

「来客か」

 

 女が言った。

 

「騒がしい足音ではないな」

 

「騒がせるつもりはない」

 

 エルヴィンは答えた。

 

 剣は抜かない。

 

 距離も詰めない。

 

 入口と祭壇と女の位置。

 

 倒れた悪人どもの配置。

 

 窓。

 

 裏口。

 

 崩れた壁。

 

 すべてを見て、彼は立ち位置を決めた。

 

 女はゆっくりと顔を向ける。

 

「お前は誰だ」

 

「エルヴィン・スミス。アストレア・ファミリアの者だ」

 

「正義の女神の眷属か」

 

「そうだ」

 

「なら、私を捕らえに来たか」

 

「違う」

 

 エルヴィンは即答した。

 

「被害を増やさないために来た」

 

 女の瞼が、わずかに動いた。

 

「私が被害だと?」

 

「あなたが動けば、周囲が被害になる」

 

「言うな」

 

「事実だ」

 

「不遜な男だ」

 

「よく言われる」

 

 女はわずかに笑ったように見えた。

 

 だが、その笑みは温かくない。

 

「ここは汚された」

 

 女は祭壇へ顔を向けた。

 

「雑音どもが踏み荒らした。祈りの場所を、商いの棚にした。記憶の残る場所を、腐った欲で埋めた」

 

「だから黙らせた」

 

「そうだ」

 

「殺さなかった」

 

 女は答えなかった。

 

 エルヴィンは続ける。

 

「あなたは怒っている。だが、目的は殺しではない。ここをこれ以上汚されたくない。それが優先だ」

 

「分かったように語るな」

 

「分かってはいない。だが、配置は見える」

 

 エルヴィンは祭壇周辺を指ささない。

 

 ただ視線だけを向けた。

 

「倒れている者たちは雑に制圧されている。だが、祭壇の周囲だけ壊されていない。木箱も一部避けられている。あなたが壊したくないものがある」

 

 女は黙った。

 

 沈黙が重くなる。

 

 普通なら、その重さだけで膝をつくだろう。

 

 だが、エルヴィンは動かなかった。

 

「間もなくガネーシャ・ファミリアが来る」

 

「鬱陶しい神の眷属か」

 

「治安維持のために来る。あなたがここに残れば、彼らは止めようとする」

 

「止められると思っているのか」

 

「思っていない」

 

 エルヴィンは淡々と言った。

 

「だから問題だ。彼らは止めようとし、あなたは退かない。結果、負傷者が出る。ここもさらに壊れる」

 

「……」

 

「あなたの目的が、この場所をこれ以上汚させないことなら、今ここで衝突するのは逆効果だ」

 

 女は、ゆっくりと目を開いた。

 

 片方は灰。

 

 片方は翠。

 

 エルヴィンはその目を正面から受けた。

 

「私に退けと?」

 

「違う。場所を守るために、ここを彼らに引き渡せと言っている」

 

「正義の眷属らしい詭弁だな」

 

「詭弁でも、結果が変わるなら使う」

 

 女は鼻で笑った。

 

「お前、正義の眷属にしては汚い言い方をする」

 

「正義を掲げるだけで人が助かるなら、私は必要ない」

 

「……」

 

 女は少しだけ黙った。

 

「お前は、あの女神の眷属にしては静かだ」

 

「騒がしい者もいる」

 

「だろうな」

 

 エルヴィンは一歩だけ横へ動く。

 

 入口を塞がない。

 

 女の退路を開ける。

 

「ここにある証拠品は、ガネーシャ・ファミリアが押収する。違法市の流れを追える。あなたが潰してしまえば、枝葉は消えても根は残る」

 

「根を断てると?」

 

「今は断てない。だから追う」

 

「悠長だな」

 

「殺して終わるなら楽だ。だが、終わらない」

 

 女は、彼をじっと見た。

 

「お前は何を守りたい」

 

「帰る道だ」

 

 迷いのない答えだった。

 

 女の表情は変わらない。

 

 だが、空気の圧がほんの少しだけ変わった。

 

 エルヴィンは、その変化を見逃さなかった。

 

 この女は、全てを壊したいわけではない。

 

 ここを壊さなかった。

 

 殺さなかった。

 

 何かを残した。

 

 いや。

 

 何かを、残したいのか。

 

「あなたは、自分のために怒っているわけではない」

 

 エルヴィンが言った。

 

 静寂が落ちた。

 

 倒れた悪人どもの呻きすら、遠のいたように感じた。

 

「何だと」

 

「この場所を壊さなかった。殺し尽くさなかった。証拠も焼いていない。あなたは、終わらせる者の目をしていない」

 

「分かったように言うな」

 

「分かってはいない」

 

 エルヴィンは静かに返す。

 

「だが、あなたには残したいものがある」

 

 女の圧が変わった。

 

 空気が沈む。

 

 殺気に近い。

 

 だが、殺気そのものではない。

 

「それ以上、口を開くな」

 

「開かない方がいいなら、そうしよう」

 

「……」

 

「だが、ここであなたがガネーシャ・ファミリアと衝突すれば、残したいものへ繋がる道も濁る」

 

「貴様……」

 

「私はまだ、何も知らない」

 

 エルヴィンは言った。

 

「だからこそ、ここで無駄に血を流すべきではない」

 

 長い沈黙。

 

 女は祭壇を見る。

 

 そして、低く言った。

 

「私に命令するな」

 

「していない」

 

「なら何だ」

 

「提案だ」

 

「拒めば?」

 

「ガネーシャ・ファミリアが来る。私はあなたと彼らの間に立つ。結果、ひどく面倒になる」

 

「お前が死ぬぞ」

 

「その前に、あなたが嫌う雑音が増える」

 

 女は、初めてはっきりと笑った。

 

 酷薄な笑みだった。

 

「脅しか」

 

「交渉だ」

 

「面白くない男だ」

 

「それもよく言われる」

 

「……いいだろう」

 

 女は出口へ歩き出した。

 

 悪人どもの身体を踏まない。

 

 祭壇にも触れない。

 

 ただ、静かに通り過ぎる。

 

「ここを二度と汚すな」

 

「努力する」

 

「努力では足りん」

 

「なら、仕組みにする」

 

 女は足を止めた。

 

 振り返らない。

 

「お前は、面倒な男だな」

 

「よく言われる」

 

「次に会う時も、静かに来い」

 

「保証はしない」

 

「騒がしければ潰す」

 

「伝えておく」

 

 女はそのまま廃教会の外へ消えた。

 

 エルヴィンは、しばらくその背を追わなかった。

 

 追っても意味がない。

 

 追えば、退路を失う。

 

 彼は祭壇へ視線を戻す。

 

 静寂には、残したい何かがある。

 

 それは物ではない。

 

 おそらく、人だ。

 

 だが、まだ確証はない。

 

 だから、名を付けるべきではない。

 

 エルヴィンはそう判断し、ガネーシャ・ファミリアの足音を聞いた。

 

 ***

 

 数分後。

 

 ガネーシャ・ファミリアが廃教会へ到着した。

 

 先頭に立つのは、シャクティ・ヴァルマ。

 

 その隣には、アーディ・ヴァルマがいる。

 

「お姉ちゃん、ここ?」

 

「ああ。情報にあった廃教会はここだ」

 

 シャクティは古い石造りの建物を見上げた。

 

 窓は割れ、扉は半ば腐り、壁には煤と苔が付着している。

 

「配置確認。正面は私が見る。裏口は第二班。左右の路地は塞げ。中に人質がいる可能性を捨てるな」

 

 シャクティの指示に、隊員たちが頷く。

 

 その時、扉の内側から声がした。

 

「中の敵性対象は制圧済みだ」

 

 シャクティの目が鋭くなる。

 

「誰だ」

 

「アストレア・ファミリア、エルヴィン・スミス」

 

 扉が開く。

 

 エルヴィンが姿を見せた。

 

 剣は抜いていない。

 

 だが、彼の背後には、床に転がる悪人どもが見えた。

 

 アーディが目を丸くする。

 

「えっ、エルヴィンさん?」

 

「アーディ、下がれ」

 

 シャクティは妹を制し、エルヴィンを見る。

 

「説明してもらおう」

 

「あなた方が包囲する前に、中で別の者が制圧していた」

 

「別の者?」

 

「静寂」

 

 シャクティの顔が強張る。

 

 隊員たちにも緊張が走った。

 

「今は」

 

「去った。追うべきではない」

 

「理由は」

 

「追えば負傷者が出る。捕縛は不可能。加えて、彼女の目的はここの悪人どもの保護ではない」

 

 シャクティはしばらく黙った。

 

 エルヴィンの言葉を、感情ではなく状況で測っている。

 

「お前が逃がしたのか」

 

「衝突を避けた」

 

「言い方を変えただけにも聞こえる」

 

「結果が違う。あなた方は無傷で押収に入れる」

 

「……」

 

 シャクティは短く息を吐いた。

 

「分かった。今は押収と救護を優先する」

 

「助かる」

 

「ただし、後で詳しく聞く」

 

「当然だ」

 

 アーディがエルヴィンの背後を覗き込む。

 

「悪人、全員倒れてる……」

 

「死者はない」

 

「すごい。静かに怖い」

 

「正確だ」

 

 エルヴィンが答えると、アーディは少しだけ笑った。

 

「お姉ちゃん、今のエルヴィンさんもちょっと怖い」

 

「アーディ」

 

「はい」

 

「任務中だ」

 

「はい!」

 

 シャクティは隊員へ合図する。

 

「負傷確認。倒れている者は拘束。違法品は押収。罠が残っている可能性がある。焦るな。順に確認しろ」

 

 ガネーシャ・ファミリアが動き出した。

 

 アーディは祭壇近くに積まれた木箱を見て、そわそわしている。

 

 シャクティはそれを横目で見た。

 

「アーディ」

 

「はい!」

 

「まだ触るな」

 

「まだ何もしてないよ!」

 

「顔が走っている」

 

「顔!?」

 

「お前はすぐ走り出す。だから先に止めている」

 

「信頼だね!」

 

「警戒だ」

 

 アーディが頬を膨らませる。

 

 エルヴィンはそのやり取りを横で聞いていた。

 

 アーディは明るい。

 

 そして、その明るさのまま誰かの痛みに触れようとする。

 

 危うさもある。

 

 だが、だからこそ救われる者もいる。

 

 隊員が木箱の一つを開封した。

 

 布に包まれた、古い枝が姿を見せる。

 

 空気がわずかに変わった。

 

 アーディの目が見開かれる。

 

「お姉ちゃん……これ」

 

 シャクティは目を細めた。

 

「記録を取れ。不用意に触るな」

 

 エルヴィンも近づき、初めてそれを見る。

 

 古い枝。

 

 ただの木ではない。

 

 何か、静かな気配がある。

 

「これは?」

 

 エルヴィンが問う。

 

 アーディが小さく言った。

 

「リオンの故郷の……大聖樹の枝かもしれない」

 

 エルヴィンは、そこで初めて理解した。

 

 廃教会にそれがあるとは知らなかった。

 

 だが、静寂がここを壊さなかったこと。

 

 祭壇周辺を避けたこと。

 

 そして、この品が悪人どもの棚にあったこと。

 

 それらが、不快なほど繋がっていく。

 

「リオンに確認させるべきだ」

 

 エルヴィンが言う。

 

 シャクティは頷いた。

 

「正式な押収手続き後、アストレア・ファミリアへ連絡する」

 

「私が持って行ってもいい?」

 

 アーディが期待に満ちた目で言う。

 

「手続きが終わってからだ」

 

「やった!」

 

「まだ許可は出していない」

 

「でも半分くらい出た!」

 

「出ていない。落ち着け」

 

 アーディは胸の前で拳を握った。

 

「でも、もし本物なら返したい。リオン、きっと喜ぶよ」

 

 シャクティは妹を見る。

 

 厳しい目ではない。

 

 だが、任務中の目だった。

 

「その気持ちは否定せん。だが今は任務だ」

 

「分かってる。分かってるけど、喜ばせたい」

 

「お前らしい」

 

「褒めた?」

 

「半分だけだ」

 

「半分!」

 

「残り半分は任務後だ」

 

「お姉ちゃん、そういうところ厳しい!」

 

「潰れるのも、仕方あるまい」

 

「私、潰れるの!?」

 

「任務を忘れて走ればな」

 

「走りません!」

 

「顔はまだ走っている」

 

「顔!」

 

 廃教会の緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

 それでも、押収は続く。

 

 悪人どもの呻き。

 

 記録係の声。

 

 箱の蓋が開く音。

 

 そして、布の中で静かに眠る大聖樹の枝。

 

 エルヴィンはそれを見つめた。

 

 リューは今、星屑の庭へ戻っているはずだ。

 

 エレンの問いを抱えて。

 

 そして、この枝もまた、彼女が持ち帰るべきものになる。

 

 問い。

 

 故郷。

 

 正義。

 

 帰る道。

 

 今日という日は、持ち帰るものが多すぎる。

 

 ***

 

 夕刻。

 

 星屑の庭では、各自が順に帰還していた。

 

 最初に戻ったのはノインだった。

 

 本拠で整理していた情報を抱え、女神アストレアの前に立つ。

 

「報告します。東区、北側、工業区周辺で流言が増えています。内容は闇派閥への恐怖、ガネーシャ・ファミリアの動き、そして一部、アストレア・ファミリアの巡回強化についてです」

 

 アストレアは柔らかく頷いた。

 

「ありがとう、ノイン。人々が不安を言葉にし始めているのね」

 

「はい。不安が噂になり、噂が行動を乱す可能性があります」

 

「分かりました。明日は聞き取りの仕方も少し考えましょう」

 

 次に、アスタ、ネーゼ、イスカが戻った。

 

「北側避難導線、確認完了です!」

 

「一部、荷車が道を塞いでいました」

 

「店主には移動をお願いしてあります」

 

 アリーゼが頷く。

 

「よし! よくやったわ!」

 

 アストレアも微笑む。

 

「三人ともありがとう。避難する道が守られていることは、戦うことと同じくらい大切よ」

 

 アスタたちは少し照れた。

 

 マリューとリャーナは救護備品の確認を報告した。

 

「包帯、消毒薬、携帯食、全部確認しました」

 

「一部補充が必要です。明日、買い出しに出ます」

 

「ええ。お願いするわ」

 

 アストレアの声は穏やかだった。

 

「支える準備をしてくれる人がいるから、前に出る人も戻ってこられるの」

 

 そこへ、ライラが帰ってきた。

 

「裏通り、妙な噂あり。闇派閥の下っ端が数人消えた。あと、妙に綺麗な現場があるって話もちらほら」

 

 リューの顔がわずかに動く。

 

 ライラはそれを見逃さなかったが、今は茶化さなかった。

 

「詳しくは後でエルヴィンに回す」

 

 アリーゼが腕を組む。

 

「ライラ、危ないことはしてないでしょうね?」

 

「してないしてない。ちょっと屋根から屋根へ渡って、ちょっと鍵の開いた窓を覗いて、ちょっと人の話を盗み聞きしただけ」

 

「全部危ない!」

 

「通常営業だって」

 

「通常を見直しなさい!」

 

 空気が少し緩む。

 

 その後、輝夜が戻った。

 

「工業区寄りは大きな異常なし。ただし、武器の搬入量が増えている。表向きは護身需要だが、流れが悪い」

 

 エルヴィン不在のため、アリーゼがきちんと受ける。

 

「分かったわ。明日、重点確認に入れましょう」

 

「そうだな」

 

 輝夜は短く頷いた。

 

 最後に、リューが戻った。

 

 足取りは乱れていない。

 

 だが、アストレアは彼女を見て、すぐに何かを感じ取った。

 

「リュー」

 

「はい」

 

「報告をお願いしてもいいかしら」

 

 リューは頷いた。

 

 そして、エレンとの問答を報告した。

 

 巡回中に接触されたこと。

 

 正義とは何かと問われたこと。

 

 悪が同じ言葉を使った場合、どう見分けるのかと問われたこと。

 

 そして、名前の出ない小柄な男の噂を聞いたこと。

 

 報告が終わると、食堂は静かになった。

 

 アリーゼは、しばらく黙っていた。

 

 それから、明るく笑った。

 

「リュー、よく持ち帰ったわ」

 

 リューは目を瞬かせる。

 

「答えられなかったのですが」

 

「それでもよ」

 

 アリーゼは胸を張った。

 

「分からないことを、分からないまま持って帰ってくるのも大事。勝手に一人で決めつけて、勝手に突っ走るよりずっといいわ!」

 

 ライラが横から言う。

 

「団長、たまに自分に刺さること言うよな」

 

「ライラ?」

 

「何でもありません」

 

 アストレアは静かに笑った。

 

「リュー。正義は、口にした瞬間に完成するものではないわ。あなたが悩んだことも、持ち帰ったことも、きっと必要なことよ」

 

「……はい」

 

 リューは小さく頷いた。

 

 その時、玄関側から足音がした。

 

 エルヴィンが戻ってきた。

 

 彼の服には大きな汚れはない。

 

 だが、場にいた者たちは、彼がただ歩いて帰ってきたわけではないと分かった。

 

「エルヴィン!」

 

 アリーゼが立ち上がる。

 

「報告を」

 

「ああ」

 

 エルヴィンは短く頷いた。

 

「廃教会は違法市の倉庫だった。到着時、悪人どもは既に制圧されていた。制圧したのは、静寂だ」

 

 空気が固まる。

 

 リューも息を呑んだ。

 

 エルヴィンは続ける。

 

「ガネーシャ・ファミリア到着前に接触した。衝突は回避。彼女は去った。追跡は不可能と判断した」

 

 アリーゼは真剣な顔で聞いていた。

 

「怪我人は?」

 

「ガネーシャ側に大きな被害はない。悪人どもは拘束。押収作業中に、エルフ由来と思われる古い枝が見つかった」

 

 リューの表情が変わる。

 

「枝……?」

 

「アーディは、君の故郷の大聖樹の枝かもしれないと言っていた。私は事前に知らなかった。正式な押収手続き後、確認依頼が来る」

 

 リューは言葉を失った。

 

 故郷。

 

 大聖樹。

 

 捨てた場所。

 

 忘れたふりをしていた場所。

 

 それが、違法市の倉庫から出てきた。

 

 アストレアはリューを見つめる。

 

「リュー。無理に今、答えを出さなくていいわ」

 

「……はい」

 

 リューは小さく頷いた。

 

 アリーゼは拳を握る。

 

「よし。今日は夕食にしましょう!」

 

「団長?」

 

 リューが驚く。

 

「重い話は大事。でも、ご飯も大事! お腹が空いてると、正義も故郷も小柄な男も全部暗くなるわ!」

 

「小柄な男まで混ぜないでください」

 

 ライラが笑う。

 

「いや、飯食ってる小柄な掃除好きの男、ちょっと見てみたいな」

 

「ライラ」

 

「悪かったって」

 

 アストレアはくすりと笑った。

 

「そうね。食事にしましょう。戻ってきた人たちが、ちゃんと温かいものを食べられるように」

 

 ***

 

 夕食の食堂は、朝とはまた違う騒がしさだった。

 

 煮込み料理の湯気。

 

 焼きたてのパン。

 

 器を配る音。

 

 アリーゼの大きな声。

 

 ライラの余計な一言。

 

 輝夜の静かな突っ込み。

 

 ノインの真面目すぎる確認。

 

 マリューとリャーナの手際の良い配膳。

 

 アスタ、ネーゼ、イスカの小さな笑い声。

 

 そして、女神アストレアの穏やかな眼差し。

 

「リュー、ちゃんと食べなさい!」

 

 アリーゼが器を押し出す。

 

「食べています」

 

「いつもより遅いわ!」

 

「観察しないでください」

 

「団長の観察よ!」

 

「それは職務ですか」

 

「愛よ!」

 

「なお悪いです」

 

 ライラが横から言う。

 

「リオン、今日は持ち帰り品が多いからな。正義の問い、小柄な男の噂、故郷の枝。あとエルヴィンへの変な信頼」

 

「最後のものはありません」

 

「あるだろ」

 

「ありません」

 

「耳」

 

「言わないでください」

 

 輝夜が茶を飲みながら言った。

 

「ライラ。あまり茶化すな。リオンが煮込み料理を剣で切りかねん」

 

「それは見たい」

 

「見なくてよい」

 

 ノインが真面目に器を見た。

 

「煮込み料理は切れますか?」

 

「ノイン、試さないで」

 

 マリューが慌てて止める。

 

 リャーナが小さく笑う。

 

「でも、リオンなら綺麗に切りそう」

 

「料理を切る訓練はしていません」

 

「してないのか?」

 

 ライラが言う。

 

「なぜ少し残念そうなのですか」

 

 少しずつ、食堂に笑いが戻る。

 

 だが、完全に軽いわけではなかった。

 

 リューは煮込み料理の湯気を見つめる。

 

 問いは消えていない。

 

 故郷の枝も、まだ見ていない。

 

 名前のない小柄な男の噂も、エルヴィンの中に何かを残した。

 

 そして、静寂。

 

 あの女には、残したいものがあるかもしれない。

 

 エルヴィンがそう言った時の声が、耳に残っている。

 

「エルヴィン」

 

 リューは小さく呼んだ。

 

「何だ」

 

「あなたは、静寂について調べるのですね」

 

「ああ」

 

「裏情報に詳しい神を探す、と」

 

「ライラに聞く」

 

「なら、私も」

 

「駄目よ」

 

 遮ったのは、アリーゼだった。

 

 リューは驚いて団長を見る。

 

 アリーゼはパンを持ったまま、真面目な顔をしていた。

 

「リュー。あなたは今日、十分持ち帰ったわ。今すぐ次の荷物を背負わなくていい」

 

「ですが」

 

「団長命令」

 

 アリーゼはにっこり笑った。

 

「今日は食べる。寝る。明日、考える」

 

 リューは言葉に詰まる。

 

 アストレアも優しく頷いた。

 

「アリーゼの言う通りね。問いを持ち帰ったなら、休む時間も必要よ。考え続けるためには、心も体も戻る場所を覚えていなくてはいけないもの」

 

「……はい」

 

 リューは静かに頷いた。

 

 エルヴィンは何も言わなかった。

 

 ただ、アリーゼの判断を尊重するように、静かに食事を続けた。

 

 それが、リューには少し意外だった。

 

 彼は何でも決める人ではない。

 

 必要な時に提案し、必要な時に退く。

 

 団長が決めるべき場では、団長に委ねる。

 

 その距離感が、今日ははっきり見えた。

 

「ところで」

 

 ライラが唐突に言った。

 

「裏情報に詳しい神なら、まずヘルメスだろうな」

 

 食堂の空気が、微妙に変わった。

 

「ヘルメス神?」

 

 アリーゼが首を傾げる。

 

「旅と情報と面倒ごとの神だな」

 

「面倒ごとの神という神格はありません」

 

 リューが突っ込む。

 

「でも実態は近いだろ」

 

「否定しきれませんが」

 

 エルヴィンは短く頷いた。

 

「明日、接触を検討する」

 

「検討で済む?」

 

 ライラがにやつく。

 

「済ませたい」

 

「無理だな」

 

「だろうな」

 

「諦め早いな」

 

「相手がヘルメスなら、想定は悪く置く」

 

 アリーゼが腕を組む。

 

「エルヴィン。動くなら私に話を通してからよ」

 

「もちろんだ」

 

「よろしい!」

 

 アリーゼは満足げに頷いた。

 

「作戦補佐が勝手に走ったら、団長の私が困るもの」

 

「その通りだ」

 

「……素直すぎると逆に怖いわね」

 

「どう答えれば正解だった」

 

「もう少し反抗して!」

 

「難しい注文だ」

 

 食堂に笑いが起きた。

 

 リューも、少しだけ笑いかけた。

 

 その笑みはすぐに消えたが、アストレアは見ていた。

 

 見ていたが、何も言わなかった。

 

 夜は更けていく。

 

 星屑の庭の食堂には、温かい湯気と、仲間たちの声があった。

 

 外のオラリオには、まだ闇がある。

 

 静寂の影。

 

 名前のない小柄な男。

 

 ヘルメスへ続く道。

 

 そして、遠いどこかにあるかもしれない、誰かが残した未来。

 

 けれど今は。

 

 リューは器を手に取る。

 

 温かい。

 

 問いは、まだ答えにならない。

 

 それでも、持ち帰る場所はある。

 

 それだけは、確かだった。

 

 第10話 正義の値段 完




あとがき

エレン

今回、リオンに絡みました。
内容は重いです。
やっていることは哲学問答です。
でも冒頭の話題はこれです。
アストレアは膝枕されながらヨシヨシされたいランキング一位
何のランキングだ。
誰が集計した。
投票母数はいくつだ。
全部不明です。
しかもロキ二位とか言い始めました。
リューが聞きたくないと言ったのは正しい判断です。
そして今回は、名前の出ない小柄な男の噂まで置いていきました。
手土産が重い。
お菓子にしてください。


リュー・リオン

今回は本当に頑張りました。
エルヴィンが問答に現れません。
つまり、リオンが自分で受け止める回です。
エレンに、
正義とは何?
悪が同じ言葉を使ったらどうする?
と聞かれました。
嫌すぎる。
巡回中に出す質問ではありません。
でも逃げませんでした。
そして本拠へ持ち帰りました。
これが成長です。
今回のリオンは、答えを完成させたわけではありません。
でも、
問いを捨てずに持ち帰った
ここが大事です。
一人で抱え込まなかった。
そこが偉い。


アリーゼ・ローヴェル

今回はかなり大事です。
アリーゼが団長です。
なので、巡回方針の最終判断も、帰還後の報告の受け口も、食事でリューを休ませる判断も、ちゃんとアリーゼが担っています。
エルヴィンは提案する。
アリーゼが決める。
この形です。
「今日は食べる。寝る。明日、考える」
団長、強い。
シンプルだけど正しい。
リューが問いを抱えて戻ってきた時に、さらに問いを積ませるのではなく、まず温かい食事へ戻す。
これがアリーゼの団長力です。


エルヴィン・スミス

今回はエレン問答に出ません。
なぜなら、リオンの成長に必要だからです。
その代わり、廃教会で静寂と交渉しています。
やっていることが地味におかしい。
普通は逃げる。
エルヴィンは交渉する。
しかも交渉内容が、
ここに残ると雑音が増える。
だから退け。
です。
相手に合わせた説得。
嫌なほど有効。
ただし、今回のエルヴィンは団長ではありません。
作戦補佐です。
だから巡回案は出しますが、最終決定はアリーゼ。
帰還後も報告します。
夕食時にも、ヘルメス方面へ動くならアリーゼに話を通す姿勢を見せています。
ここが今回の修正ポイントです。


ライラ

ライラはリオン呼び捨てです。
今回も茶化します。
でも本質も突きます。
扉の外で八割聞くし、裏情報に詳しい神としてヘルメスを即座に挙げます。
有能。
でも絶対に余計なことを言います。
そこがライラ。
八割くらい聞いてた
八割はほぼ全部です。
でも情報屋としては非常に頼れるので、怒りきれません。
厄介。


シャクティ

今回も硬め口調です。
「ああ」
「下がれ」
「焦るな」
「任務中だ」
「仕方あるまい」
この方向。
冷静。
厳格。
団長。
でもアーディの気持ちは否定しません。
ただし甘くはありません。
褒めるのは半分だけ。
残り半分は任務後。
厳しい。
でもそれがシャクティ。
アーディ相手にも柔らかすぎず、姉として制する感じに寄せています。


アーディ

今回のアーディは、とにかく前のめりです。
現場でそわそわします。
顔が走ります。
足も走りそうです。
シャクティに止められます。
「顔が走っている」
名言です。
アーディは人を喜ばせたい気持ちが強い子ですが、任務中なのでシャクティに止められます。
この姉妹の温度差が書いていて楽しいです。


アルフィア

静寂です。
怖いです。
今回はガネーシャ・ファミリア到着前に、エルヴィンと接触しました。
廃教会を壊していない。
祭壇周辺を避けている。
悪人どもを殺していない。
ここから、エルヴィンは「残したいもの」の匂いを拾います。
まだ名前はありません。
まだ確証もありません。
でも導線は立ちました。
静寂には、残したい何かがある。
それは物ではなく、人かもしれない。
ここから後のアルフィア攻略導線に繋がります。
まだベルの名前は出ません。
出すには早い。


名前の出ない小柄な男

出ていません。
でも噂だけ出ました。
小柄
速い
闇派閥の拠点を潰す
床や血の跡を妙に綺麗にする
金髪の作戦補佐の噂を集めている
誰でしょうね。
名前は出しません。
まだ出しません。
エルヴィンは「この世界では知らない」と言いました。
この世界では。
言い方。
リオンは気づきました。


ヘルメス導線

今回の最後で、ヘルメス方面への導線が立ちました。
エルヴィンが「裏情報に詳しい神」を探そうとする。
ライラがその候補としてヘルメスを挙げる。
この流れです。
ここから先は、
ヘルメスとの接触
秘密依頼
エルヴィン単独行
ゼウスとの邂逅
ベルとの接触
血縁確認
アルフィア揺さぶり
へ繋がっていきます。
ただし、第10話ではまだ入口だけ。
いきなり全部は出しません。
匂わせで止めます。


夕食シーン

今回、夕食シーンを追加しました。
報告後に全員で食事。
ここで重い話を完全に消すのではなく、温かい場所に戻します。
リューが「問いを持ち帰った」だけでなく、
持ち帰れる場所がある
ことを見せる場面です。
アリーゼ、アストレア、ライラ、輝夜たちがいるから、リューは潰れずに済む。
ここが大事です。
重い問いを抱えても、食卓に戻れる。
それが星屑の庭です。


今回のまとめ

第10話は、ざっくり言うとこうです。
エレン:
正義を問い詰める。

リオン:
問いと噂を持ち帰る。

アリーゼ:
団長として判断する。

エルヴィン:
作戦補佐として提案し、静寂と交渉する。

ライラ:
八割聞いて、ヘルメス導線を出す。

シャクティ:
硬め口調で半分だけ褒める。

アーディ:
顔が走る。

アルフィア:
静かに怖い。

名前の出ない小柄な男:
噂だけ出る。

ヘルメス:
次の面倒ごとの入口。
大事なのはこれ。
リオンは一人でエレンの問いを受け止めた。
でも、一人で抱え込まずに本拠へ持ち帰った。
これが成長です。
そしてもう一つ。
エルヴィンは団長ではない。
作戦補佐として提案し、必要な場面で動く。
最終判断はアリーゼが担う。
ここも大事です。


次回

次回、リオンは持ち帰った問いとどう向き合うのか。
エルヴィンは名前の出ない小柄な男の噂をどう扱うのか。
ライラはどこまで裏取りするのか。
そしてエルヴィンは、ヘルメスへ接触するのか。
たぶん接触します。
絶対に面倒ごとになります。

          第10話 正義の値段 後書き完
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アストレア・レコードは、リューの成長のために必要とはいえ、あまりにも救いがない。とはいえ、最強オリ主を入れるのは何かが違う。正義の刀といえば、誰かほかにいないだろうか。そういえば、鬼滅の刃も正義が巡るという点では同じではないだろうか――。▼そんな思いつきでクロスさせてみました。▼※【要注意】ここに出てくる杏寿郎とアストレアは作者の妄想です。色々と解釈違いもあ…


総合評価:3421/評価:8.86/連載:20話/更新日時:2026年03月23日(月) 23:30 小説情報

歌譚《サーガ》(作者:ベート)(原作:僕のヒーローアカデミア)

▼ ダンまち読者がヒロアカに転生!?▼ ─注意─▼ 主人公は結構辛い思いをします。また、主人公はヒロアカを知りません。厳密に言えば見ようと思っていた時に転生したので存在は知っているけど中身は全く知らない。基本的に原作に沿って進めていきます。▼ また、キャラ崩壊をする可能性があります。気をつけますね。▼ 今後、タグが変更する場合がございます。


総合評価:138/評価:6/連載:7話/更新日時:2026年06月04日(木) 20:47 小説情報

ダンジョンに家族を求めるのは間違っているだろうか(作者:親父)(原作:ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか)

頂上戦争で死んだはずの白ひげが若返りダンまち世界にきたお話。


総合評価:1785/評価:7.92/連載:7話/更新日時:2026年05月20日(水) 17:19 小説情報

適応って強すぎんか?(作者:マーボーマコマコ)(原作:僕のヒーローアカデミア)

ヒロアカ世界に生まれ変わった男が手にした個性は『適応』だった!▼彼はこのチート個性でヒーローを目指す!


総合評価:243/評価:3.58/連載:9話/更新日時:2026年06月03日(水) 04:27 小説情報

異常過ぎるのは間違っているだろうか?(作者:ダーク・シリウス)(原作:ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか)

冒険者として生活をする事になったとある並行世界の兵藤一誠を知った神々と冒険者。▼色々無視できないことばかりするので・・・・・。▼「イッセー! ワシと覗きに行くぞ!」▼「お前はお前を愛する女を裏切らなきゃいいんだよ!」▼「なぁなぁ、なーんか楽しい事しようやー」▼「どんな手を使ってでもあなたは私のオーズにするわ」▼「炉の炎に照らされるあなた横顔と鎚の音を見聞きす…


総合評価:877/評価:7.43/連載:16話/更新日時:2026年06月13日(土) 00:00 小説情報


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