「今日も暑いなぁ……」
ハンガリーに行った時の時差ボケもすっかり落ち着いて、今日は午前中につぐみのお店を手伝っていた。机を布巾で拭いてから、コーヒーを煎れる練習をさせてもらう。
私はどっちかって言うと、甘党だからコーヒーはあまり飲めない。だけど、コーヒーの匂いは好き。それは、柚月も一緒だった。
あれは、夏帆をバンドに誘う前? 柚月の運転するバイクに乗って、横浜行った時に、柚月が缶コーヒーを凄い苦そうに飲んでた記憶が蘇ってくる。
ドアベルが鳴った音に気がつく。お店に、新しい客が入ってきた。
黒髪に入れられたその特徴的な赤いメッシュには、見覚えがあった。
「それで、私もあったことある人って誰なの?」
「蘭」
伏し目に柚月は、親指を擦り合わせている。
「蘭さんって、髪の毛を赤く染めた……あの、メッシュって言うのを入れた人だよね」
以前、授業をサボった時に、受験生であるはずなのに私と同じように授業をサボっていて、屋上で会った『お姉さん』のことだった。
その蘭は、私がギターを弾いていることを、知っていた。
柚月は返事をせず、黙って頷く。
「誘って欲しいんなら、柚月さんが言えばいいんじゃ?」
「蓮がさ、どうしてもライブやりたいって言ったんでしょ」
どこか覇気のないような、力のこもってない声で言った。
「私は、別に誘わなくても……。だってギターはもう私がいるし、ライブやるなら四人でも全然充分でしょ」
「私が、どうしても蘭のことを誘って欲しいの。蘭が入ってくれなきゃ、やだよ」
ちょっとだけ泣きそうな、子どもみたいな甘い声。そういう声には、聞き覚えがある。子どもの頃や、ガンビーを亡くしてしまった時のお姉ちゃんを彷彿とさせる。
ほっとけないような、ちょっとだけ弱っちゃうな。
「そんな、やだよって言われても……私が蘭さんを誘うよりも、柚月さんが誘った方が、バンドに入ってくれそうだと思うんだけど……」
付き合う、か。私自身、本当に柚月と付き合いたいのか、分からなくなってきたけど、とりあえず頼まれちゃったから、蘭にお願いだけでもしてみないと。
それよりも、命令とか、偉そうに言うな。柚月もなんだかんだで泣き虫の癖に。
蘭をバンドに誘う理由だって、そもそも理屈でもなんでもないし。
お姉ちゃんといい、柚月といい、私って、ちょっと抜けてるような、頼りない感じの人に弱すぎる気がする。
「あ」
昨日の柚月との、会話を思い出して、声を出しあぐねてしまった。蘭の視線が私に向いてきた。
もう、逃げられないと思ってしまった。
「逃げるって、どういうこと?」
「あっ、いえっ、そのっ、えーと……なにか、その。飲まれますか」
蘭は、天井を仰ぎ、やや落ち着いたような低い声で注文をする。
「とりあえず、アイスコーヒー」
「は、はい……」
注文を承ってから、しばらく動けずに硬直している私を、蘭は怪訝そうに見つめてくる。軽く会釈をし、言葉をかける。
「私たち以前、学校の屋上で会いましたよね?」
「あ、うん。あったね。で、あれから、ちゃんと授業に戻った?」
「はい。先生には、お腹が痛すぎて、トイレに籠ってましたって言い訳しときました……」
蘭は小さく、「やだ」と言うと、クスッと笑った。
なんかちょっとだけ、私の尊厳が破壊されたような、人生史上最悪な気分になってしまった。
「アアアアア、アイスコーヒー! すすすす、すぐにお持ちしししししますね!」
蒼弥みたいな、いや恐らく蒼弥以上の、キョドり方をしてしまった。
アイスコーヒー用の豆は深煎りがベスト!
ドリップを終え、サーバーに氷を入れる。
その後サーバーには蓋をして、グラスに新しい氷を入れると、氷を通さず、コーヒーだけをグラスに注いでいく。
「蓮ちゃん! 復唱聞いてる限りでは、完璧なアイスコーヒーの煎れ方だよ!」
嬉しそうなつぐみの声が店の奥から聴こえてきた。またしても声に出てしまっていた。
蘭はまたしてもくすくすと笑っている。最悪だ。私のこの悪癖が、自分で恥ずかしいと思うことなんて、そうそうないはずなのに。
「お待たせしました……。あぁー!?」
蘭のテーブルに置こうと思ったけど、手が震えてしまって、グラスを倒して、中身が零れてしまった。
不幸中の幸いか、蘭に中身がかかることはなかった。
「途中までは、完璧だったのにね」
「まだ時差ボケが残っていたのかも……」
「時差ボケ?」
もう、時差ボケは大丈夫だったはずなのに。我ながら酷い言い訳ときた。テーブルと床を水気がなくなるまで布巾で拭いた。
「とにかく、また新しく煎れなおして来ます……」
アイスコーヒーを煎れなおし、蘭のテーブルに持っていく。
「単刀直入に訊くけど、あたしになにか頼みたいことがあるんだって?」
「え、なんでそれを……」
「さっき自分で、あたしを誘う理由とかって言ってたから、なんかあるのかなって……」
そこから訊かれてたらしい。それ以前に思ってたことは、訊かれてない……よね?
もしも、訊かれてたら恥ずか死ぬ。
「あれは……お姉さんとギターのセッションがしたいなぁって思っただけで……」
「あたしとギターのセッション?」
蘭は私の言葉に意表を突かれたように、その鋭い目つきの目を、丸くした。