左手の指が一本増えていた。
会社の同僚も、家族も、昔の写真も、
最初から六本だったと言う。
五本だった記憶だけが、
俺の中に残っていた。
静かに侵食されていく、
認識異常ホラー短編『五本』。
淡々と進みます。
朝、目が覚めて最初に見たのが左手だった。
指が一本、多い。
布団の中で、何度か握り直した。確かに六本ある。親指、人差し指、中指、薬指、小指、その隣にもう一本。形も大きさも他と変わらない。爪まで揃っている。
ただ、密着が、わずかに濃い。隣り合う指の腹同士が触れる面積が、昨日までよりも多い。
寝ぼけているのかと思った。目を擦って、もう一度見る。六本のままだった。
手を顔に近づけて、関節を曲げる。動く。痛みはない。違和感もない。指として、それは完全に俺の手に属していた。
ただ、昨日までは五本だった。
洗面所で水を顔にかけた。手のひらで頬を覆ったとき、指の先がいつもより一本分、こめかみまで届いた。
鏡で確認した。間違いなく六本ある。鏡像の中でも、左手の指は六本だった。右手は五本だった。両手を並べて見ると、左側だけ密度が高い。
会社で、隣の席の田所に左手を見せた。
「これ、おかしくないか」
田所は俺の手を一瞥して、書類に目を戻した。
「何が」
「指。多い」
田所はもう一度俺の手を見た。怪訝そうに眉を寄せて、それから笑った。
「何言ってんの。寝ぼけてる?」
田所の机に、去年の社員旅行の写真が貼ってある。集合写真の中で俺は、左手をカメラに向けて何かのサインを作っていた。指が三本、立っている。残りの三本は折りたたまれている。六本指でしか取れない形だった。何のサインだったのか、思い出せなかった。
昼休みに実家に電話した。
「またその話?」
母親は呆れた声を出した。何十回目かは、もう数えていなかった。電話を切った。
帰宅して、押し入れから古いアルバムを出した。物心ついた頃の俺、小学生の俺、中学生の俺、成人式の俺。どの写真でも、左手の指は六本だった。記録は全て、六本指の俺を支持していた。
それでも、五本指だった記憶があった。
椅子に座って、両手を眺めた。
奇妙なことに、六本指で生きてきた記憶も、出てくる。鉛筆を握ったときの感触。ピアノの鍵盤を六本で押さえたときの違和感のなさ。野球のグローブが特注だったこと。スマホの片手操作が異常に速いこと。すべて、六本指の人生として整合していた。
同時に、五本指だった記憶もあった。
握手したときに余る指がなかったこと。子供の頃に「お前の手は普通だ」と言われたこと。指折り数えて、ちょうど五で終わったこと。
二つの記憶が、並んで存在していた。
どちらかが嘘だった。
俺は、五本指側の記憶の細部を辿ろうとした。最初に「指」を意識して数えたのはいつか。誰と、どこで。何があったから数えたのか。
辿れなかった。
五本だった記憶には、景色がなかった。「五本だった」という事実だけが、芯として残っていた。
六本指側の記憶は、ありありと色を持っていた。鉛筆の木目。鍵盤の冷たさ。グローブの革の匂い。すべて細部まで、思い出せた。
絶対に、五本だった。
そう思った瞬間に、その「絶対」を支える根拠を、何ひとつ挙げられないことに気づいた。
机の上に、ノートを開いた。今日のことを書きとめておくことにした。あとで読み返せるように、事実だけを並べた。
「指は五本だったはずだ」
書いて、ペンを置いた。
それから、しばらく自分の左手を眺めていた。
朝、目が覚めた。
左手を見た。指は六本ある。当たり前だ。生まれたときから六本だった。何を確認しているのか分からなかった。
布団から起き上がって、洗面所で顔を洗った。鏡の中の俺は、いつも通りの顔をしていた。
机の上に、ノートが開きっぱなしになっていた。
昨日の日付の欄に、文字が並んでいる。
「指は五本だったはずだ」
俺の筆跡だった。線の癖、止めの形、すべて間違いなく俺が書いたものだった。
ただ、書いた覚えがなかった。
しばらく見ていた。文字の意味が、頭に入ってこなかった。
「五」の字だけが、輪郭を結ばなかった。何度見ても、見覚えのない形に見えた。
「指は五本だったはずだ」
俺は、ペンを取った。同じページの下に、付け足した。
「何のことだろう」
字が、揃っていた。
朝食を作って、いつも通り会社に行った。
電車の中で、左手で吊り革を握った。
指は、ちょうどよく収まっていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
記録は、いつも正しいとは限りません。