俺だけが君たちを救えない   作:曇らせ聖女最高

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雨の日に拾った聖女

 

雨は嫌いだった。

 

 

石畳を叩く音が、どうしてもあの日のことを思い出させる。

 

 

馬車の車輪が泥を跳ねる音。

 

誰かの悲鳴。

 

伸ばした手が、あと少し届かなかった感触。

 

 

カイは濡れた前髪をかき上げ、路地裏の奥を見た。

 

 

「……いるんだろ」

 

 

返事はない。

 

 

ただ、雨音に混じって、小さな息遣いが聞こえた。

 

 

リューネの旧市街は、昼間でも薄暗い。

 

ましてや今は夕暮れで、雨で、巡回兵も早々に詰所へ戻っている。

 

 

こんな場所に子どもが一人でいるなら、理由はだいたい三つしかない。

 

 

捨てられたか。

 

逃げてきたか。

 

あるいは、誰かを殺した後か。

 

 

カイは腰の短剣に触れず、ゆっくりと屈んだ。

 

 

「怖がらせるつもりはない。灯の家から来た。腹が減ってるなら、パンがある」

 

 

懐から布包みを出す。

 

 

雨に濡れないように包んでいた黒パン。

 

固くて、少し酸っぱい。

 

けれど、空腹には勝てる。

 

 

路地の暗がりが、わずかに揺れた。

 

 

出てきたのは、少女だった。

 

 

年は十三か十四。

 

白い髪。

 

血の気のない肌。

 

ぼろぼろの修道服。

 

そして、胸元に焼き印のような紋章。

 

 

カイはそれを見て、息を止めた。

 

 

聖印。

 

 

ただし、正規のものではない。

 

実験体につけられる、偽物の聖印。

 

 

「……教会から逃げたのか」

 

 

少女は答えない。

 

 

代わりに、カイの手元のパンを見た。

 

 

その目には、飢えがなかった。

 

恐怖もなかった。

 

あるのは、底の抜けた諦めだけだった。

 

 

カイはパンを半分に割り、片方を地面に置いた。

 

 

「取っていい。近づかなくていい」

 

 

少女はしばらく動かなかった。

 

 

やがて、泥に膝をつき、震える指でパンを拾った。

 

噛んだ。

 

飲み込んだ。

 

それから、初めてカイを見た。

 

 

「……毒、入ってないんですね」

 

 

声は鈴みたいに澄んでいた。

 

 

なのに、言葉だけがひどく古びていた。

 

 

「入れる理由がない」

 

 

「理由がなくても、人は毒を入れます」

 

 

カイは返事に詰まった。

 

 

それは否定したかった。

 

けれど、この子の目の前で言うには、あまりにも薄っぺらい嘘だった。

 

 

「名前は?」

 

 

「ありません」

 

 

「呼ばれてた名前は?」

 

 

少女は少し考えた。

 

 

「七番」

 

 

カイの奥歯が、ぎり、と鳴った。

 

 

雨が強くなる。

 

路地の向こうで、鐘が鳴った。

 

夜の合図だ。

 

 

「じゃあ、俺が名前をつけてもいいか」

 

 

少女は首を傾げた。

 

 

「名前をつけると、所有物になりますか」

 

 

「ならない」

 

 

「嘘です。教会では、そうでした」

 

 

「灯の家では違う」

 

 

「違う場所なんて、ありますか」

 

 

その問いが、妙に胸に残った。

 

 

違う場所なんて、あるのか。

 

 

カイ自身、答えを知っているわけではなかった。

 

ただ、そういう場所を作りたくて、しがみついているだけだ。

 

 

「あるってことにしたい」

 

 

少女はまばたきをした。

 

 

初めて、表情らしいものが浮かんだ。

 

 

困惑。

 

 

それだけで、カイは少し安心した。

 

この子はまだ、人間の顔を忘れきっていない。

 

 

「……変な人」

 

 

「よく言われる」

 

 

「名前は?」

 

 

「カイ」

 

 

「あなたの名前じゃなくて、私の」

 

 

カイは空を見上げた。

 

 

灰色の雲。

 

降り続ける雨。

 

路地裏の暗さ。

 

 

その全部の中で、少女の白い髪だけが、かすかに光って見えた。

 

 

「リリア」

 

 

口にしてから、少し照れた。

 

 

「嫌なら変える」

 

 

少女は、何度かその名前を唇だけでなぞった。

 

 

リリア。

 

リリア。

 

リリア。

 

 

そして、パンの残りを胸に抱いた。

 

 

「……それは、優しい名前ですか」

 

 

「たぶん」

 

 

「じゃあ、嫌じゃないです」

 

 

カイは外套を脱いで、少女の肩にかけた。

 

 

リリアはびくりと身体を強張らせたが、逃げなかった。

 

 

「灯の家に来るか。飯がある。風呂もある。寝床もある」

 

 

「見返りは?」

 

 

「ない」

 

 

「嘘」

 

 

「ない」

 

 

「人は、見返りがないと優しくしません」

 

 

カイは笑えなかった。

 

 

その言葉は、たぶん正しい。

 

誰かを救いたいという願いにだって、結局は自分の傷を埋めたいという見返りが混じっている。

 

 

だからカイは、嘘をつかなかった。

 

 

「俺は、昔、妹を助けられなかった」

 

 

リリアが顔を上げる。

 

 

「だから、たぶん俺は、自分のためにお前を助けたい」

 

 

雨音だけが、二人の間に落ちた。

 

 

「それでもよければ、来い」

 

 

リリアはカイをじっと見ていた。

 

 

まるで、魂の裏側まで覗こうとしているみたいに。

 

 

「カイさん」

 

 

初めて名前を呼ばれた。

 

 

その声に、カイは一瞬だけ、死んだ妹の声を思い出した。

 

胸が痛んだ。

 

 

「私を助けたら」

 

 

リリアは外套の端を握った。

 

 

「最後まで、助けてくれますか」

 

 

その問いの重さを、カイはまだ知らなかった。

 

 

だから、答えてしまった。

 

 

「ああ」

 

 

リリアは微笑んだ。

 

 

それは、笑い方を知らない子どもが、必死に真似たような笑みだった。

 

 

けれどカイには、その瞬間だけ、雨が少し弱くなったように思えた。

 

 

「約束ですね」

 

 

「ああ、約束だ」

 

 

リリアは立ち上がり、カイの後ろを歩いた。

 

 

一歩分だけ離れて。

 

けれど、影だけはぴたりと重なる距離で。

 

 

その夜、灯の家に新しい子どもが増えた。

 

 

白い髪の少女。

 

偽物の聖女。

 

名前はリリア。

 

 

彼女は三日後、初めて声を出して笑った。

 

 

一週間後、カイ以外の人間に触れられると吐くようになった。

 

 

十日後、カイが他の子どもの頭を撫でた夜、厨房の包丁が一本消えた。

 

 

そして一か月後。

 

 

リリアは、眠るカイの手を両手で包みながら、祈るように囁いた。

 

 

「カイさん」

 

 

返事はない。

 

 

「私を救ったこと、後悔しないでくださいね」

 

 

少女の目は、暗闇の中で濡れていた。

 

 

「後悔したら、許しません」

 

 

雨は、まだ降っていた。

 

 

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