ひぐらしのなく頃に〜後祭り編〜   作:村人A

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面会

 廊下からもう消毒薬の匂いがする。

 

 病院というのはどこもそうなのか、あるいはこういう施設に特有のものなのか。鼻の奥にこびりつくようなその臭気を嗅ぐたびに、俺はあの白い部屋を思い出す。天井のシミ。動かない時間。まぁ、あの場所と違って今日は自分の意志でここに来ているわけだが。

 

「随分と古い建物ですねぇ。こんなのウチにありましたっけ」

 

 詩音が呟く。隣を歩く葛西さんは「ええ」と短く返した。

 

「あまり公にしている施設じゃありませんから」

「……ま、まさかどこぞの厚生館みたいに日常的な虐待や不正が横行してたり?」

「はっはっは」

 

 俺の言葉に珍しく葛西さんが声を上げて笑ってみせた。

 

「安心してください、前原さん。ちゃんとした施設です、ただあまり世間には理解されない方々がいるのも事実なので、こうしてひっそりとやっているのが実情です」

「そうですよぅ圭ちゃん。私たち、お天道様に顔向けできないことなんてやってませんから」

「ははは……」

 

 ヤクザ自体お天道様に顔向けできない商売じゃないのか。という身もふたもないツッコミは辛うじて飲み込んでおく。

 

 

 俺たちが来ていたのは、地区の外れ、少し小高い山中にある精神病院だった。

 外観は確かに古かった。窓枠が黒ずんで、蔦が壁を這っている。けれど手入れはされている――荒れ果てているというより、ひっそりと、人目を避けるように建っている。なるほど、葛西さんの話を聞いた今ではそのたたずまいにも一定の説得力があるように感じた。

 

 事前にしっかり話は通していたのだろう、葛西さんの手配で受付はすんなり通過できた。案内されたのは一般病棟とは別の、隣の小さな建物だ。一般病棟よりもなんとなく、空気が重い感じがして、早足になりたい衝動があった。

 

 

「……面会は短めにお願いします。刺激を与えすぎると、落ち着くまでに時間がかかりますので」

 

 職員がドアを開けると、最初に目に入ったのは、白い天井だった。次に、ベッド。そこに横たわっている男。

 

 年齢が読めなかった。三十代にも五十代にも見える。頬がこけて、瞼が半開きのまま——焦点が、どこにも合っていない。口が小さく動いている。音になっているのかどうかも分からないくらいの、かすかな動き。

 

 なんともいえない気持ちが、胸の底から這い上がってきた。

 

 俺も、こんな感じだったのか。

 

 あの白い部屋で天井を見上げていた頃。焦点の合わない目も、動いているのか止まっているのか分からない口元も――気づいたら背筋が冷えていた。詩音が最初に病室に来た時、あいつが見ていたのはこういう人間だったのか。それでも構わず話しかけてきたのか。

 

 ……そりゃ、ため息も出るわけだ。

 

「……」

 

 神妙な面持ちの詩音が一歩前に出る。

 

「……こんにちは」

 

 反応はない……いや、口の動きだけが続いている。これはおそらく返事ではないだろう、か細い独り言だろう。つーかめっちゃ怖いんだが。

 

「あの、入江診療所を知っていますよね。雛見沢村の入江診療所、入江涼介が院長をしている……」

 

 なにも変わらない。男の視線は天井のどこかに固定されたまま、詩音の方に意識を傾ける気配すらない。

 

「診療所のスタッフだったんですよね。大災害の前日に、村を出たと聞きました」

 

 詩音の声のトーンは一定を保っており、焦っている様子ではない。ただ——少しずつ、削られていくような声だと思った。希望が……唯一かもしれない手がかりが……水面をすくった両手から、水が零れ落ちていってしまうような。

 

「北条悟史という少年を知っていますか。当時中学生で、昭和五十七年の綿流しの日に——」

 

 蚊の鳴くような音が返ってくるだけ。意味をなしていないというよりも、言葉に成っているのかも分からない。

 俺は壁際で、それを聞いていた。どう声をかければいいか分からない。そもそも、かけていい場面なのかも。ただ立って、その繰り返しを聞き続けた。

 

 

 

 どのくらい時間が経っただろう。

 根気強く語り掛けていた詩音が、ついに口を閉じた。問いかけをやめたというより、言葉が尽きた、という感じの沈黙。部屋に、男の独り言だけが残る。低く、途切れ途切れの、意味をなさない呟き。

 

「……」

 

 すると、赤坂さんが寄りかかっていた壁から背中を離した。

 一歩、前に出る彼を反射的に見る。

 

「……東京」

 

 ぽつり、と。それだけをつぶやく赤坂さん。だが、男の唇の動きがはたと止まった。

 静寂。さっきまでとは違う種類の静寂だ。……なんだ?男の目が——初めて、動いた。天井から離れて、赤坂さんを捉える。焦点が、合っている?

 

 赤坂さんの知り合い、なのか?いや、それなら予めそうと言ってくれるはずだ。

 詩音と顔を見合わせる暇もなかった。赤坂さんはすでに男のベッドへと歩を進めていた。傍らに立って、それからゆっくりと──膝を折るように、姿勢を落とす。男の目線に、合わせるように。

 

「この名前に、聞き覚えは?」

 

 男の目が見開かれる。声は出ないものの、ただ、その表情には確かに何かがあった。驚愕か。恐怖か。あるいはその両方か。いずれにせよ、さっきまでの虚ろとは全く違う——極めて人間らしい顔だった。

 

 男の表情をじっと見つめていた赤坂さんが、静かに続ける。

 

「私は警視庁公安部の赤坂といいます。私は──いえ、私たちならば、貴方を“助けられる”かもしれない」

「……」

「だからどうか、彼女たちの問いに答えてあげてほしい」

 

 沈黙。

 長い沈黙の後、男は糸が切れたように枕へ体を預けた。天井を、ぼんやりと見上げる。さっきと同じ姿勢のはずなのに、雰囲気が全く違う。

 そして── 男は震えが残る指でベッドの脇にあった小さな引き出しをさす。

 

「……ノート」

「え?」

 

 ……話し、た?通じたのか?それくらい、先ほどとは打って変わってはっきりとした声だった。

 はっきりと……しかし、それも一瞬のこと。

 

「……ここに、何が?」

 

 赤坂さんがそう問いかけるが、男は再びぶつぶつと音にならないようなか細い独り言を続ける。何度か話しかけても、もう焦点のあっていない瞳で天井を見つめ続けるのみ。

 

 俺たちは顔を見合わせてから、ベッドの横の引き出しへと目を向ける。なんの変哲もない、鍵のついた引き出しだ。差し口が錆びていて、もうずっと使われていないことが伺える。ひとまず引き出しを引っ張ってみるが……開かない。

 

「鍵は……」

 

 あった。引き出しの上の壁に、古びた鍵がかかっている。見落としそうなくらい小さな鍵だ。詩音がそれを外して、ベッド横の引き出しに差し込む。硬い。少し力を入れると、かちりと音がした。

 

 引き出しの中には、一冊のノートが入っていた。

 

 表紙に何も書いていない。手に取ると、思ったより軽かった。開いてみて——すぐに気づく。ページの大半が、破り取られていた。残っているのはほんの一部で、破り取られた痕がのこぎりの歯のように並んでいる。

 

「……これは」

 

 詩音が男に向けて口を開く。反応はない。目を閉じたまま、動かない。

 

「なぜ破ったんですか。何が書いてあったんですか?」

 

 沈黙。

 もう一度呼びかける。やはり沈黙。力尽きたように──あるいは最初からそのつもりだったように、男はもう口を開かなかった。

 

「すみません……そろそろ」と、ドアの側にいた職員が控えめに声をかける。これ以上は負担をかけると判断したのだろう、タイムリミットだ。

 何か声をかけなければ、そう感じるものの、何を言えばいいのか。そもそも何か言うべき立場なのかすら分からない。

 

 詩音と目が合う。困惑と、そして得体の知れない怖さが混じったような瞳と……きっと、俺も同じような顔をしてるんだろう。

 どれくらい沈黙が続いていたんだろう。「参りましょう」。そう静かに切り出した葛西さんに、従ってようやく廊下に出ると、消毒薬の匂いが戻ってくる。来た時と同じ匂いのはずなのに、どこか重く感じた。

 

 

 

 外に出ると、初夏の夜気が一気に押し寄せてくる。

 

 昼間の熱が少し残っているが、それでも建物の中とは空気の質が違って、深く息を吸うと、ようやく肺が広がる感じがした。さっきまでいたあの部屋の——消毒薬と、もっと言えば何か別のものが混ざったような、あの空気とはまるで違う。あの空気は、やはりどうも苦手だ。

 

 

 駐車場へ向かう四人の足音だけが、静かな敷地に響いている。

 先頭を葛西さんが、その隣に赤坂さん。二人とも前を向いたまま、言葉を交わす様子がない。俺は自然と後ろに下がる形になって──詩音の横に並ぼうとして、やめた。

 

 詩音は俺の半歩前を、うつむき加減で歩いていた。ノートを両手で抱えたまま。大切に抱えているのとは程遠い、この値の知れない代物を、どうしていいのか分からずに手から離すことができないような。そんな感じ。

 

 

 表情は……読めない。

 

 声をかけるべきか。ずっとそれを考えながら歩いていた。結局のところ、この面会が何かしらの進展をもたらしたのかといえば、多分イエスなのだろう。男から差し出されたそのノートに、何かの手掛かりがあるという期待は出来るだろう。

 しかし、俺たちはすぐにそれを読めずにいた。なぜか、答えは簡単だ。怖いからだ。

 

 無造作に半分以上のページが破かれたそのノートからは……言い知らない恐怖のようなものを感じていた。中身なんて知らない、確証もないのにそう思ってしまう。見てしまったら、何かが終わってしまうような……そんないい知れない恐怖。

 

 詩音もそうなのだろうか……なんて、分かった上で聞くのは、かえって残酷な気がした。かといって変に惚けて振る舞うのも違う。じゃあ何か──何か気の利いたことの一つでも言えないのか俺は。何の為の付き人だ。

 

 

 車が走り出してしばらく、誰も喋らなかった。

 

 葛西さんが運転席。助手席に赤坂さん。後部座席の窓側に詩音、俺はその隣。シートの間に、さっきの部屋の残像みたいなものがまだ漂っている気がして、妙に居心地が悪かった。

 

 詩音はずっと窓の外を見ていた。ノートは膝の上に置かれたまま、両手がその上に重なっている。街灯の光が車内に差し込むたびに、その横顔がぼんやりと浮かび上がる。考え込んでいるような……しかし、この角度からは分からない。

 

 前を向くと赤坂さんの後頭部が目に入る。

 言い知らぬ恐怖といえば、彼の発言もそうだ。 

 

 「東京」

 

 あの一言で、男の何かが変わった。何故か。東京に、何か思い出でもあるんだろうか。それとも……何か地名以外を指す言葉なのか。

 

 驚愕とも恐怖ともとれるあの表情──廃人同然だった男が、一瞬だけ確かに人間の顔に戻った。赤坂さんはなぜあの言葉を口にしたのか。「助けられるかもしれない」という言葉は、どういう意味だったのか。そもそも赤坂さんは一体、何をどこまで知っているのか。

 

 ただ──詩音の隣で、この車内で、俺からその話を切り出すのが正しいのかどうか。赤坂さんへの疑問と、隣の詩音への気遣いが、頭の中でぐるぐると混ざり合って、どちらも言葉にならないまま喉の奥に沈んでいく。

 

 詩音が、小さく息をついた気がした。

 気のせいかもしれない。それでも俺は、もう一度だけ横を見た。詩音はまだ窓の外を見ていた。ノートの上の手が、拳を作っている。

 

 

 結局、俺も窓の外に目を向けた。初夏の夜の街並みが、街灯の光の中をひとつずつ後ろへ流れていく。

 言葉に出来ない怖さ。しかし、もう“それ”と向き合わざるを得ない所まで来てしまっている。そんな漠然とした思いは、窓の外の長閑な景色に溶けていってしまいそうだった。

 

 

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