ひぐらしのなく頃に〜後祭り編〜   作:村人A

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罪と罰

 白い天井だった。

 

 俺が一日のうちに見るものといえば、それだけだ。白い天井と、白い壁と、点滴の管と、拘束具の留め金。窓はあるけどカーテンが引かれていて外は見えない。時刻も分からない。朝なのか夜なのかも、最近は判断するのをやめた。

 

 腹が減れば誰かが来て何かを食わせる。眠ければ眠る。目が覚めれば、また天井を見る。

 

 ただ、それだけ。

 

 消毒液の匂いがする。どこかで機械が一定のリズムを刻んでいる。廊下を歩く靴音が、遠くで聞こえて、消える。

 

 俺はそれらを、何も感じないままにただ受け流していた。

 

 感じないんじゃなくて、正確には——感じていることを処理するのをやめていたのだ。音は聞こえる。匂いもする。ただ、それが俺の内側で何かを引き起こすことを、どこかの時点で俺自身が拒絶した。外からくる全ての刺激は、右から左へ流れていくだけだ。

 

 天井のシミを、ぼんやりと眺める。

 

 右から三番目のシミが、少し染みを広げている。数日前から少しずつ形が変わっているのを、俺は知っていた。他にすることがないから、知っている。

 

 そういえば、俺は誰だっけ。

 

 冗談でも皮肉でもない疑問だ。名前があったはずだ。親に付けてもらった、ちゃんとした名前が。でもそれが今、するりと出てこない。自分の名前を忘れるなんてことがあるのかと、どこか遠いところで思う。驚きすら湧かなかった。

 

 視線だけを横に動かす。ベッドの柵に、小さなネームプレートが下がっていた。

 

 ——前原 圭一。

 

 ああ、そうか。そんな名前だったか。

 俺はまた天井に視線を戻した。目を閉じると、見たくないものが見える。

 

 だから俺は目を閉じない。天井を見る。シミを見る。それでも、まぶたの裏側に焼き付いたものは、目を開けていても滲んでくる。

 

 金属バットだった。血に塗れた、鉄に人の血と肉がへばりつくような──あの感触を、俺はまだ覚えている。覚えてしまっている。拭っても拭っても取れない、手のひらに残ったあの重さを、振り下ろした瞬間の、空気を切る音を。北条鉄平が事切れたあの瞬間を。

 

 沙都子を守るためだった。そう思っていた。そう思って、やった。

 俺が殺した。間違いない、俺がアイツを殺した。

 

 

 でも死体は消えた。

 俺が殺したはずの人間が、翌朝にはどこにもいなかった。それだけで、俺の頭の中の何かがぐらりと傾いた。傾いて、傾いて、もう戻らなかった。俺は本当に殺したのか。あれは現実だったのか。俺はいつから狂っていたのか。疑えば疑うほど、地面が消えていくような感覚だった。

 

 

 考え始めると止まらない、意識しなくても脳内に再生される場面が勝手に移ってしまう。

 古手神社の境内だ。

 

 カラスの羽音が先にあった。ばさばさという、重たい音。それが何なのかを理解する前に、俺は見てしまった。

 

 梨花ちゃんが──梨花ちゃん“だったもの”がそこにあった。

 それ以上は、考えるのをやめる。いつもそこで止める。それでも鮮明に残っている。消えない。半年経っても、一ミリも薄れない。腹を引き裂かれて、内臓が抉り出されたあの──

 

(……うっ)

 

 込み上げてくる吐き気に、まだ人間らしさが残っていたのかと安堵と悔恨が入り混じる。一度考え始めるともう、止まらない。あの日の光景がまるでスライドショーのように浮かんでは消えて、また浮かぶ。

 

 沙都子の顔。橋の上で、アイツは泣いていた。鉈を持った俺を見て、梨花を殺したのは俺だと思って、泣きながら叫んでいた。

 

──人殺し!!!

──にーにーを返してっ!!!

──圭一さんを返してよっ!!!

 

 あの悲鳴が、今も消えない。人を殺すことの代償が、こんなにも重くて辛い事だったなんて。悔恨は嗚咽にすらならず、行き場を失って霧散する。

 

 体が宙に浮いた感覚を、俺は今でも覚えている。橋の欄干を越えて、落ちていく感覚。冬の空気が耳元を切っていって、川面が近づいてきて。

 

 その瞬間に、俺は確かに願ったんだ。

 

 雛見沢の——死を。

 

 

 

 

 

 

 気がついたとき、俺は知らない場所にいた。

 

 最初に認識したのは、空の色。夏の、近くて大きい入道雲が高く高く伸びている空。それが視界いっぱいに広がっていて、俺は自分が地面に寝かされているのだと、少し遅れて理解した。担 簡易的な担架の上に横たえられて、俺は空を見ていたのだ。

 

 体が動かなかった。動かないのか、動かし方を忘れたのか、その区別もつかない。

 

「──身元確認を──、──搬入急いで」

 

 声が聞こえた。複数の、男の声。くぐもっていて、何を言っているのか分からない。足音が近くで、遠くで、あちこちで鳴っている。

 

 首だけを、ゆっくりと横に向けた。

 

 見覚えのある校庭、雛見沢分校のグラウンドだった。毎日通って、毎日走り回って、レナや魅音や梨花ちゃんや沙都子と、散々遊んだあの場所だ。そんな場所に──

 

 

 頭陀袋が、並んでいた。

 

 整然と。几帳面なくらい、等間隔に。

 

 

 いくつあるのか、数える気にもなれないほど大量に。端から端まで、視界に収まりきらないくらいの数が、ただ静かに並んでいた。あの鬼ごっこをした場所に。野球をした場所に。夕暮れ時に魅音と肩を並べて歩いた場所に。

 

 自衛隊の人間が動いていた。迷彩服の、若い男たちが。その顔を、俺はぼんやりと眺めた。泣いている人間がいた。唇を固く結んで、表情を殺して作業を続けている人間がいた。嘔吐している人間がいた。それでも手を止めない人間がいた。

 

 人間の顔じゃない。

 限界を超えた人間の、それでも動き続けるしかない人間の顔だった。

 

 

 どこかで車のドアが開く音と同時に、ラジオの音声が、風に乗って流れてきた。

 

 ——本日未明、昭和五十八年雛見沢村において発生した大規模災害により、村民のほぼ全員にあたる約千二百名が死亡、もしくは行方不明となっております。政府は現在——

 

 

 千二百名。

 

 雛見沢村──大災害──村民全員──

 

 

 “死亡”

 

 

 その言葉が、俺の頭の中でゆっくりと形を持った。千二百という数が、人間の数だと理解するまでに、少し時間がかかった。

 

 レナ。

 

 魅音。

 

 梨花ちゃん。

 

 沙都子。

 

 大石刑事。富竹さん。鷹野さん。監督。村のじいちゃんとばあちゃん。公由村長。そして両親。

 

 全員の顔が、一瞬で浮かんで、消えた。

 

 

「……くっくく」

 

 俺の口から、何かが漏れ出した。

 声だったのか、笑いだったのか、悲鳴だったのか、自分でも分からなかった。ただ何かが溢れて止まらなくて、空が歪んで、誰かが俺の名前を呼ぶ声が遠くなって——

 

 

 ——俺が、願ったから。

 

 

 

 意識が落ちる直前に、それだけが頭の中に残った。

 

 俺が死を願ったから、村は死んだ。

 千二百人、全員、俺が殺した。

 

 

 俺が──“祟り殺した”

 

 

 

 

 

 

 あれからどれくらい時が経ったのだろう。一年かもしれないし、十年かもしれない。時間の感覚がない。何しろ、ずっと天井を見つめるだけの日々を過ごしているのだから。寿命がくるくらいの時が経っていて欲しいな……誰か早く俺を殺してくれ。

 

 手を動かそうとして、硬い金属の感触が動きを制する。足も同様。俺はまるで囚人のように拘束されていた。

 理由は多分、俺が死のうとするからだ。

 

 一度目に死のうとしたのは、入院して数日だった。方法は単純。点滴の管で首を絞めようとした。けど、失敗した。看護師に見つかって、取り押さえられて、それからしばらく意識がなかった。

 

 二度目は数ヶ月後だったと思う。一度目より、ずっと静かな気持ちでやった。感情的になっていた一度目と違って、二度目はただ淡々と、やるべきことをやるような感覚だった。それも失敗した。

 

 それからは両手両足を拘束されて、今に至る。

 

 死ねない。

 

 それが今の俺の状況を一言で表すなら、そういうことだった。死にたいのに死ねない。生きたいわけじゃないのに生かされている。誰かが俺を生かし続けている。

 

 窓の外がたまに明るくなる。それが朝だと分かる。やがて暗くなる。それが夜だと分かる。それを繰り返すだけで、どれくらいの時が過ぎたのか……もう数えるのもやめた。

 

 

 皆に会いたい、とたまに思う。

 レナに会いたい。魅音に会いたい。梨花ちゃんに会いたい。沙都子に会いたい——でも、すぐに自分でその思考を打ち消す。

 俺が死んでも、皆のいる場所には行けない。

 落ちながら俺は願った。雛見沢の死を願った。そういう人間が死んで、どこへ行けるというんだ。天国でも地獄でもない、どこでもない場所に行くだけだ。皆には会えない。永遠に会えない。それが俺への罰だと、俺は理解していた。

 

 生かされ続けることと、死んでも皆に会えないこと。

 どちらも等しく、きっと罰だった。

 

 涙は、もう出なかった。いつ頃から出なくなったのか、覚えていない。泣き尽くしたのか、それとも泣く資格を失ったのか。どちらでもよかった。どちらだとしても、何も変わらない。

 

 俺はただ天井を見る。シミを見る。時間が流れるのを、ただ受け取る。

 

 朽ちていく、という言葉が頭に浮かんだことがある。そうだな、これは朽ちていくことだ。腐るわけでも、燃えるわけでも、砕けるわけでもなく——ただゆっくりと、音もなく、朽ちていく。

 

 それでいい、と思っていたのに──

 

 

 

 不意に病室のドアが開く音。

 俺は反射的に視線をそちらへ動かした。看護師が来る時間じゃない、とぼんやり思った。それだけだった。別に誰が来ようと、どうでもよかった。

 

 でも。

 

 「はろろーん、圭ちゃん。お久しぶりです」

 

 その声を聞いた瞬間、俺の中で何かがわずかに揺れる。

 知っている声、知っている顔だ。

 

 長い翠の髪を、黄色いリボンでハーフアップにまとめて。魅音によく似た、でも魅音じゃない顔。園崎詩音。魅音の双子の妹。綿流しの夜に、確か——

 

 綿流しの夜。

 あの夜、詩音は村にいたはずだ。村にいたということは——千二百人の中の、一人のはずだ。

 

 つまり今俺の目の前にいるこいつは、すでに死んでいる。

 じゃあこいつは何だ。

 

 ──幻覚。

 

 とうとう来たか。ずっとこうしていれば、死んだ人間が見えるようにもなるか。まあそうだろうな。むしろ今まで見えなかったのが不思議なくらいだ。

 

 俺は小さく笑った。声は出なかった。口の端が、ひきつるように動いただけだ。でも笑いがだんだん大きくなっていった。声にならないまま、肩だけが揺れた。おかしくて笑っているわけじゃなかった。ただ何かが溢れてくるのを、笑いという形でしか出せなかった。

 

 幻覚の詩音が、その様子を見て眉を寄せた。一瞬だけ、何かを堪えるような顔をした——と思ったら、すぐに「あちゃあ」という顔になった。

 

 「……自殺未遂ってのは本当だったんですねぇ」

 

 そう言いながら、迷いなく病室に入ってくる。ベッドの真横まで来て、俺の顔を上から覗き込む。

 幻覚にしては妙にリアルだな。消毒液に混じって、かすかに知らない香りがした。足音も、ちゃんとある。

 

 視線が合った。

 

 多分弱りきって、濁った俺の目に——詩音の、真っ直ぐな目が映った。

 

 「あいにくと幻覚なんかじゃないですよぅ、圭ちゃん」

 

 内心を言い当てられる。幻覚じゃ……ない?

 

 「でも残念。私はアンタを助けにきた天使なんかじゃありません」

 

 彼女は笑った。迷いのない、自信に満ちた——どこか残酷な笑みだった。

 

 「アンタに”罰”を与えにきた死神です⭐︎」

 

 俺はしばらく、その顔を見つめていた。

 幻覚じゃない?

 本物の園崎詩音が、面会謝絶の病室に、今ここに立っているのか。

 

 どちらでもよかった。本物だろうと幻覚だろうと、俺にはもう関係ない。

 

 ただ——死神、という言葉だけが、静かに耳の奥に残っていた。

 

 

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