ひぐらしのなく頃に〜後祭り編〜 作:村人A
部屋に戻ると、葛西さんがいつものように壁際に立った。
そして俺たち三人はテーブルを囲む形で落ち着く。皆の視線は一様にテーブルの中心にある、一冊の古びたノートに向けられている。
ボロく、ところどころ色が飛んだ表紙。破り取られたページの痕。あの男──入江診療所にいたという男の所有物と思われる一冊のノート。視線は向けるものの、誰も、すぐには手を伸ばさなかった。
さっきまであの部屋にいた男の気配が、まだそこに残っているような──そんな気がして、なんとなく躊躇いが生まれている。パンドラの箱、そんな逸話を思い出していた。神が人への罰として、パンドーラを創造した。彼女に持たせたその箱には、あらゆる悪・不幸・災いが封じ込めらていたという。
俺だけじゃなかったはずだ。詩音も、赤坂さんも、一瞬だけ静止していた。しかし、いつまでもそうしている訳にもいかない。詩音は小さく息をついたかと思うと、そっと手を伸ばして表紙に触れた。
「……開けますね」
返事を待たずに、そっも表紙をめくる。
最初のページ……から、几帳面な、しかし小さな文字がびっしりと並んでいる。読み進めようとして──すぐに詰まった。
「……読みにくいですね」
確かに読みにくい。というより、正確に読めないというのが正しいか。文字自体は丁寧なのに、独特の略記が随所に混じっていて、意味がすぐに取れない。専門用語らしき言葉も散見される。なんだこれ。暗号か。
「医療用語だね、これは」
赤坂さんが静かに手元を覗いて言った。「ここは投薬記録の略記だろう。この記号は経過観察を意味するんじゃないかな」。淡々と、しかし的確に補足していく。
「……あの」
詩音が、ふと顔を上げた。ノートから目を離して、じっと文字を見つめている。
「この字……見覚えがあります」
「……詩音?」
「圭ちゃんも、見覚えないですか?これ、監督の字です……多分間違いないと思います」
ほら、と指差された先の文字をじっと見つめる。言われてみると……そんな気もする。いや、監督の文字なんて意識して見たことはないから正確に言えば分からないというのが本音だが。けれど、監督に診療を受けた時、薬を処方してもらった時……何となく思い出すとあの人の雰囲気を感じるような……
葛西さんが壁際から一歩進んで、静かに覗き込んだ。しばらく無言で見ていて。
「……私も、以前入江先生からいただいた書類を見たことがあります。詩音さんの仰る通りかと」
部屋の空気が、少し変わった気がした。おそらく、という話だ。断定はできない。でも──特に物覚えの良い詩音と葛西さんが揃って同じことを言うなら、もうほぼ確信していいだろう。赤坂さんも小さく頷いて、それ以上は何も言わなかった。
監督がこのノートに何かを記した。そして、それをあの男が持っていた。
なぜ?何のために?
ページをめくると、「患者S」という表記が出てきた。患者……つまり、これはそのSの記録、という事なのだろうか。S……エス……少しだけ、いや明確に嫌な予感が込み上げてくる。だって病院に行く前に話したばかりだから、“彼”と監督との接触の可能性を。
その後も赤坂さんの補足を受けながら、少しずつ読み進めていく。
記録は淡々としていた。内容はひたすら患者の状態の観察。投薬の内容と量。経過。慣れてくると略記の意味も掴めてきて、ページをめくる速度が少しずつ上がっていく。「患者S」──その二文字が、繰り返し繰り返し出てくる。患者S、今日の状態は。患者S、昨日との比較。患者S、患者S、患者S。
そうして詩音は何かに気づいた──いや、いい加減指摘せざるを得なかったように、ページを巻き戻す。それは記録が始まったメモ……の横にある日付だった。
『S57.06.20』
「この日付……」
ページを指でそっと押さえて、動かない。俺も覗き込む。赤坂さんも。
記録の開始日──それがいつなのかは、詩音には俺よりもずっとはっきりと分かるはずだ。“その年のその日”を、彼女が忘れるはずがないから。
「……綿流しの、翌日ですね」
詩音がぽつりと言った。声に感情がないままに。
沈黙が部屋に広がる。テーブルの上のノート。開かれたページ。そこに書かれた日付。俺の頭の中で、点と点が静かに近づいていく。近づいているのに、繋げたくない。繋がってしまったら、それは──
偶然かもしれない。まだ、決まったわけじゃ……日付が一致しているだけで、患者Sが誰なのかはまだ何も分からない。
分からない──はずなのに。
「……」
詩音は何も言わなかった。ただ、静かに次のページをめくった。その横顔を見て、俺は気づく。詩音も、もう分かっているんだろう。分かった上で、それでも確かめないといけないから、ページをめくり続けているんだ。
読み進めるうちに、記録の内容が変わってきた。
投薬記録や経過観察だけでなく、『患者S』の素性に触れる記述が少しずつ混じり始める。入江の筆致は相変わらず几帳面で淡々としているのに、その行間から何かが滲み出してくるような――そんな気がして、俺はページから目が離せなくなっていた。
最初に出てきたのは、家族構成についての記述。両親は不慮の事故で死亡。現在は親族の元に身を寄せている。
「……」
詩音の手が、一瞬止まった。すぐにまたページをめくる。
次のページ。妹がいる、という記述。妹の存在が患者Sの精神状態に大きく影響しているとある。妹を守りたいという意志が、辛うじて患者Sを繋ぎ止めていた――筆者はそう分析していた。
沙都子だ。
名前は出ていない。でも、間違いない。
詩音はもう何も言わなかった。ページをめくる手だけが動いている。赤坂さんも葛西さんも黙っていた。部屋の中の空気が、少しずつ、少しずつ重くなっていく。
叔父叔母による虐待の記述が出てきた時、詩音の息が微かに乱れた。
読み進めながら、詩音は自分の呼吸すら殺すようにして、このノートと向き合っていた。その静けさの中に、小さな揺れが生まれた。
黙って隣に座っているだけの自分が、ひどく無力に思えた。何もできない。ただ、同じページを目で追うことしかできない。
そうして、最後。患者Sがここに至る決定的な事象、叔母の死。その記述が出てきた時、詩音がページの上に指を置いた。
押さえるように。確かめるように。
「……悟史くん」
もう、声に出さずにいられなかった、という感じの声色で。
俺は何も言えない。頷くことも、否定することも、どちらも違う気がした。
「……」
だから詩音の震えている左手に、そっと右手を重ねる。どの道今ここで俺に出来ることなんてない、無力な付き人でしかない。だから、何も言わず寄り添って、目の前のことを受け止めるしかないんだ。強くその華奢な手を握りしめると、彼女もまた力を込めて握り返してくれた。
小さく息をついて、そして彼女はまた、ノートをめくる。
それは、破られていない最後のページ。
日付は――忘れもしない、あの綿流しの日。すべてが狂った、あの悪夢の前夜。
『S58.6.18』
それまでの淡々とした医療記録とは全く違う文章が現れた。日記でも記録でもない。誰かに宛てた手紙のような――いや、遺言のような。これまでそんな文章は一度も出てこなかったのに。急に、まるで堰を切ったように。
『私は今日まで、皆さんのことを裏切ってきました。悟史くんは……ずっと診療所の地下、皆さんのすぐそばにいたのに……沙都子ちゃんに、詩音さん、皆さんに……その事実を伝えることができなかった。いえ、伝えることをしなかった』
……予感はあった。監督が悟史を隔離しているなら、その場所はどこか。
そう、診療所だ。あの診療所内のどこかに、悟史がいたのかもしれない、と。だから驚きなんてない。あるのはただ、悲しさとやるせなさと、悔しさと。
ずっと……ずっとすぐそばにいたんだ。手を伸ばせば届くかもしれないくらい近くに。
いつも、沙都子が通っていたすぐそばに、詩音がふらりと訪れるくらいのすぐそばに。
何か、何か本当に些細なきっかけ一つがあれば。もしかしたら、彼女たちは……皆は、悟史を見つけることができたのかもしれないのに。なのに――
『悟史くんは今、予断を許さない状態にあります。せめて彼を目覚めさせてあげたい、その一心で今日までここに彼を閉じ込めていました。皆さんには言い訳の余地もありません。許してくれとも言えません。私は医師として、いえ、人として許されないことをしてきました。その罪滅ぼしを彼に負わせること自体がお門違いだとは分かっています。でもせめて……この作』
そこでページが破られていた。そこから先のページはすべて乱暴に、残った紙の端がささくれ立っているのみだった。
誰も、口を開かない……いや、開けなかった。
言葉にすれば確定するような気がしたからか。だから誰も言わなかったのか。でももう、確定しているようなものだった。診療所の地下に……大災害の前夜まで、悟史はそこにいた。そしてその夜を境に、監督の記録は途絶えた。村は消えた。診療所も、監督も、その中にいた全ての人も――まるごと。
「……」
詩音が、静かにノートを閉じる。パタン、という小さな音だけが室内にやけに大きく響く。
どれくらい時間が経ったのだろうか。椅子を引く音だけが部屋に響く。赤坂さんが静かに立ち上がっていた。それに続いて、葛西さんも続いて壁際から離れる。二人とも、余計なことは何も言わなかった。言えなかったのか、言わないと決めたのか――どちらにしても、今この場で言葉を探すことの無意味さを、二人ともきっとよく分かっているから。
「前原くん、園崎さん……今日はゆっくり休んで」
赤坂さんは部屋全体に向けたような、静かな声でそう言った。
「赤坂さん……ありがとうございました」
詩音が返す。顔は上げなかった。テーブルの上のノートを、まだ見つめたまま。
ドアが閉まった。足音が遠ざかる。
葛西さんも出ていったのだろう……残されたのは、詩音と俺だけ。
深海にでもいるかのようだ。息を吸うたびに胸の奥に何かが溜まっていくような――そういう重さが、部屋全体を押しつぶそうとしていた。テーブルの上のノート。閉じられた表紙。さっきまで四人で囲んでいたはずのテーブルが、今は途方もなく広く感じた。
何か言うべきか。言えることが、どこかにあるか。探しても、何も出てこない。気の利いた言葉どころか、当たり障りのない一言すら、今この部屋では場違いな気がした。
だから何も言わなかった。
詩音も、何も言わない。ただテーブルの上のノートを見つめて、微動だにしない。その背中が、重さに押しつぶされそうに見えて……でも俺はその背中を見ながら、声をかけることも、席を立つことも、どちらもできないまま座るしかない。
見れば、窓の外は暗くなっていた。いつもは明るいとさえ感じる綺麗な星空なのに、今日はなぜだか途方もなく暗く、鈍く見えた。
おかしいよな、昼間はあんなに晴れていたのに……今日は曇り予報でもなかったのに。
詩音が、ゆっくりと立ち上がった。
「……おやすみなさい」
静かに、しかしはっきりと。ただ、それだけを言って。廊下へと足音が消えて、そしてドアが静かに閉まる。
部屋には、俺一人が残された。
テーブルの上のノートが、そのままそこにある。さっきまで詩音が見つめていた表紙が、今は俺の方を向いている。重さは、詩音がいなくなっても消えなかった。むしろ一人になった分、逃げ場がなくなった気がした。
パンドラの箱。開けてしまった。その中身は——やはり、災いだったのか。開けるべきではなかったのか。
人は火を手に入れ、神の怒りに触れて、箱によって災難に苛まれたという。
火を奪ったのは、人ではなく別の神だったのに、怒りを受けた。箱を開けたのも別の神だったのに、報いを受けた。
いつだって、神々の気まぐれに、人は巻き込まれる。
隣の部屋で今頃一人、天井でも見つめているだろうあいつは、一体どの神に目をつけられたんだ。何をした。何を犯した。園崎に生まれたことか。双子だったことか。そのどちらも、あいつが選んだことじゃないだろう。
閉じられたその表紙は、もう一度開くには、途方もなく重く映った。