ひぐらしのなく頃に〜後祭り編〜   作:村人A

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やりますよ 園崎詩音はやりますよ(字余り)

 

 

 ふんふんふーん、と。

 

 鼻歌のひとつも出てしまうのは、仕方のないことだと思う。

 

 私は朝、いつもより少しだけ早く起きて、机の引き出しから、昨日買ったばかりの新しいペンケースを取り出した。淡いミントグリーンの革製で、ちょっとだけ大人っぽいやつ。中には、これまた新調したシャープペンと、色とりどりのマーカー。ついでに可愛い付箋もちゃんと用意した。

 

 ……別に、そこまで深い意味はない。

 

 ただ、ほら。気分というものがあるでしょう。何事もまず形から入るのが大事だって、世間でもよく言うじゃないですか。道具が新しいと、やる気も出るというもの。

 

 鏡の前で、前髪をちょっとだけ気にしてみたのも、ただの身だしなみだ。リボンの角度を三回ほど直したのも、まあ、たまたま。

 気合い?を入れてる理由はただ一つ。

 

 今日から、放課後の勉強会が始まるのだ。

 

 まぁ正直、面倒だという気持ちは変わらない。誰が好き好んで勉強なんかに積極的に取り組みたいというのか、というある意味学生らしい反発心だってある。あるものの。

 

 同級生の男の子と二人きり。放課後の教室、あるいは図書室で。机を並べて、お勉強。

 

 実を言うと……ほんの少し、密かにこういうのに憧れていた節もあるのだ。「同学年の男の子と二人きりで勉強する」というシチュエーションそのものに。つまりは王道にして、鉄板。年頃の乙女ならば誰しもが、一度は夢見る青春の一ページであるはずだ。

 

 考えてもみてほしい。シャープペンの走る音だけが響く、静かな放課後。窓から差し込む夕日。同じ問題集を、肩を寄せ合うようにして覗き込む。教科書の同じ行を、二人の視線が同時になぞる。たまにふっと顔を上げれば、すぐそこに男の子の横顔があって——ああ、もう、それだけで物語が始まってしまうではないかというくらいに。

 

 ルーチアにいた頃は、まわりは女の子ばかりだった。それも、はっきり言って身の毛もよだつくらいにお上品なお嬢様たちに囲まれ、厳しい教育方針と規則でがんじがらめにされて抑圧される毎日。間違いなく灰色の青春時代だ。

 その前だって、私の人生は、そういう甘酸っぱいイベントとは、とんと無縁だったわけで。だからこそ、この機会への期待は、密かに持ってしまっている自分もいる訳である。

 

 ……あ。念のため言っておくが、相手が圭ちゃんだから、というのは、全く、これっぽっちも関係ない。むしろそこは、どうでもいいまである。あくまで重要なのはシチュエーションだ。だから別に圭ちゃんじゃなくてもそこは全然──いやまぁ、誰でも良いって訳でもない、か。圭ちゃんは……まぁ、良しとしてあげるくらいだ。

 

 じゃあこれっぽっちもではないじゃないか、という反論は一切受け付けない。ともかく! 「同級生と二人きり」「放課後のお勉強」——この、単語の連なりそのものに、私の心は浮き立っているのであって。相手の顔とか名前とか、そんなものは些末な問題なのだ。うん。

 

 たとえば、難しい問題で「うーん」と首をひねっていたら、隣から「どうしたの?」なんて優しく覗き込まれて。「ここが分からなくて」と眉を下げれば、「ああ、ここはね」とふっと微笑まれて。教わるうちに、ふと顔を上げたら思いがけず近くに顔があって、目が合って──なんて。

 

「……っ」

 

 いけない。気づけば、口元が緩んでいた。私は小さく咳払いをして、表情を引き締める。

 

 ……まあ、つまり。そういう、ささやかな楽しみくらいは、あったっていいではないか。面倒な勉強に付き合わされるのだ。それくらいの役得は、もらったって罰は当たるまい。

 

 うん。そういうことにしておく。

 

 

 

 そんなこんなで。

 あっという間に日中が過ぎ去り、迎えた、放課後。

 

 生徒会の業務を早めに切り上げて、私と圭ちゃんは図書室の隅の、四人がけのテーブルに陣取った。窓際の、いい席だ。夕方の光が差し込んで、なんだか、それだけで絵になる気がする。

 

 私は、新調したペンケースをそっと机に置いて、ちらりと向かいの圭ちゃんを窺った。さあ、シチュエーションとしては悪くない。圭ちゃんは空気が読めない上にそんじょそこらの男子とは一線を画す朴念仁ぶりだ。きっとこんな雰囲気も容易くぶち壊してくる可能性は大いにある。まぁ、それはそれで青春っぽい気もするので良しとしよう。

 

 なんて、あれこれと思いを巡らせていると──

 

 どさっ。

 

「……え?」

 

 どさっ。どさっ。どさどさどさっ。

 

 重い音を立てて。目の前に何かが、積み上げられていく。

 

 ……これは、問題集だ。分厚い問題集が、一冊、また一冊と。私と圭ちゃんの間に、まるで万里の長城のごとく、灰色の壁が築かれていく。

 

「とりあえず、これ全部な」

「???」

 

 壁の向こうから、圭ちゃんの平坦な声がした。私は訳が分からず目を点にすることしかできない。なのに、そんな私に構わずこの男は……

 

「五教科分。基礎から応用まで一通り揃えといた。今日、と明日はまず、お前が今どのへんにいるか把握すっから、最初の三教科、頭から解いていこう。分からなくても飛ばすなよ、間違えたとこは全部チェック入れて」

「……ちょ、ちょっと待ってください」

「ん?」

 

 本の山が、少しだけ動いて、隙間から圭ちゃんが顔を覗かせた。にこりともしていない。やる気に満ちた、それでいて──どこか、冷たい目をしていた。

 

「どうした。早くやるぞ。時間がもったいねぇぞ」

「…………」

 

 あれ。

 

 あれれ?

 

 私が思い描いていた、あの、甘酸っぱい青春の一ページは──いったい、どこへ。

 

 目の前にそびえる、問題集の万里の長城。それを見上げて、私は思わず後ずさりかけた。

 む、無理だ。こんなの。一冊でも音を上げそうなのに、五教科って。しかもこれ、序の口って顔してますし!

 

「……あの、圭ちゃん。やっぱり、今日は顔合わせってことで、軽めに――」

「ん?」

 

 本の山の向こうから、圭ちゃんがひょいと顔を出した。そして、にやり、と口の端を吊り上げる。腹立つことこの上ない笑みで。

 

「なんだ。天下の園崎詩音ともあろうお方が、たかが問題集の山ごときに、もう尻尾巻いて逃げるのか?」

「なっ」

「次期当主候補が聞いて呆れるな。口じゃ威勢のいいこと言っといて、いざとなったら借りてきた猫のごときにヘタレるのか……まぁいいぜ、だったら1冊にするか」

 

 こ、こいつッ……!

 分かっている。分かっているのだ。これが安い挑発だってことくらい。乗ったら負けだってことくらい。しかし、だ。

 

「……上等じゃないですか」

 

 私は、新調したシャープペンを、ばちんと音を立てて握りしめた。

 

「やりますよ、園崎詩音はやりますよ!二十位どころか、一桁取ってアンタを後悔させてあげます。せいぜい、目ん玉ひん剥いて見てろってんです!」

「おう、その意気だ」

 

 しまった。

 圭ちゃんの満足げな顔を見て、即座にそう思った。完全に乗せられた。こいつ、最初から私が安い挑発にも乗ると踏んでやがった。

 

 だが、もう遅い。啖呵は切ってしまった。園崎詩音に二言はない。ないったらない。

 なんでも来いだ。受けて立ってあげましょう!

 

「じゃ、始めるか」

 

 圭ちゃんが、ストップウォッチを取り出した。

 

「分からなくても考え込むな。手が止まったら飛ばせ。とにかく全部解け」

「え……教えてくれないんですか?」

「今日は教えない」

 

 え。

 

「まずお前が今どこにいるか、ちゃんと把握する。だから今日はとにかく解くだけだ。はい、スタート」

 

 ぴっ。

 

 ……あ、そうか。さっきもそう言ってたっけ。すっかり忘れていた。啖呵を切った勢いで、なんとなく今日から指導が始まるものだと思い込んでいたが。

 

 

 ……いや待って。もしかしなくても、これ、教えてももらえないまま、ただひたすら解かされるやつ?

 

「手、止まってるぞ」

「わ、分かってますよ!」

 

 圭ちゃんは、何もしない。説明もしない、ヒントも出さない、ただ私の解答用紙を横から眺めながら、時折「次」「飛ばせ」「手を止めるな」と淡々と言うだけ。

 

 正直、最初はなんとかなっていた。得意分野は解けるし、苦手なところは「うーん」と唸りながらも、なんとか埋めていく。初日はまだ余力があったものの……二日目にまたぐと、じわじわと、脳みそが熱を持ち始めた。

 

 そうして、やっとこさの五教科目……も、もうダメ。

 

 

「つ、疲れました。ちょっと休憩を」

「よし。この辺にするか、概ね良いだろう」

 

 え、いいの? と思ったら、圭ちゃんは私の解答用紙を全部回収して、ざっと目を通し始めた。赤ペンで何かをチェックしながら、難しい顔をしている。

 

「明日から本格的に始めるけど。ひとまず今日はよく頑張ったな」

 

 そういって、そっと口元を緩める。

 よく頑張ったな。彼のその一言が、なぜかじわっと沁みた。疲労と屈辱でへとへとになっていたのに。ちょっと嬉しくなってしまいそうになって、慌てて首を振る。

 

 ……悔しい。

 

 

 

 そして、次の日。

 

「ざっと見た感じ、お前の弱点は――」

 

 圭ちゃんが、私の解答用紙を広げながら次々と指摘していく。結果、特に理系科目に指摘は集中した。

 

「うぅ……仕方ないじゃあないですか。私ゃ数字があんまり得意じゃないんですよぅ」

「あぁ、全部を1つ1つこの1週間でやろうなんて考えてねーよ。ただ、根本を直せばまとめて対応できるものもある」

「こ、根本?」

 

 私が首をかしげると、彼は数学のある大問の欄を指さす。

 

「例えばここだ。式の変形でいつも詰まってる。原因は公式を丸暗記してるからだ。なんでその公式がそうなるのか、根っこから入れ直すぞ」

「……根っこから」

「ああ。この公式、どうしてこうなるかを考えてみるぞ。例えば、そうだな……」

 

 私が首を振ると、圭ちゃんは説明を始めた。

 

 そして――これが、悔しいことに。よく分かるのだ。

 

 暗記しろ、で済ませない。なぜそうなるのか、どこで考え方がずれるのか。いくつもの角度から、噛んで含めるように。すると——あんなにこんがらがっていたものが、ある瞬間、すとん、と腑に落ちてくる。

 

「……あれ。あ、分かった」

「だろ。じゃあ類題」

 

 くっ。悔しい。こんなに分かりやすく教えられたら、文句の言いようがない。普段あんなに口が減らないくせに、こういうところだけ無駄に有能なんだから。

 

 でみ……ほんの少し、見直した。ほんの少しだけ、だけど。

 

 圭ちゃんって、もともと先生とかは向いているって思ってたけど。熱血系とかじゃなくても、意外と理知的なスタイルとかも向いてる、のかも。どっちも合わせれば、生徒とかにも人気でそうだな……

 

 

 

 ──なんて、思っていた時期が、私にもありました。

 

「はい次」

「えっ、今のやっと終わったとこ」

「英語な。長文三本と文法問題。はいスタート」

「ちょっ、待って、せめて休憩を――」

「手が止まってる」

 

 そう。問題は教え方じゃなかったのだ。

 量。そしてスピード。そして、休憩という概念の完全な欠如。

 

 一単元終わればすぐ次。「はい次」「そこ手が止まってる」「さっきの類題だぞ」。容赦という二文字を生まれた時に置いてきたんじゃないかと思うくらい、矢継ぎ早に飛んでくる。しかも、教え方が上手いものだから、分かってしまう。分かってしまうから、止まる理由がどこにもない。理解できる、できてしまう、だからまた次の問題を解かされる——これは底なし沼だ。

 

 気力と体力が、じわじわとではなく、ごりごりと音を立てて削られていく。新調したペンケースの可愛さも、窓際の素敵な夕日も、今となってはどうでもよかった。甘酸っぱい青春の一ページ?笑わせないでほしい。今の私の目の前にあるのは無限に増殖する問題集と、血も涙もない鬼の顔だけだ。

 

「……鬼ッ……ここに鬼がいるッ……」

「うるさい、手を動かせ」

 

 これが数日続いた。数日——いや、体感では数年くらいに感じた。

 そしてついに。

 

 中盤に差し掛かった、ある日の放課後。私は、限界を迎えた。

 

「……ちょっと待ってください」

「ん?」

「確かに、二十位以内は目指すって言いましたよ。言いましたけど」

 

 私はシャープペンを置いた。ちゃんと抗議するために、ちゃんと圭ちゃんの顔を見て。

 

「それはあくまで、意識の高い目標って言いますか……ほら、勉強って、戦争じゃないじゃないですか。別にそんなにマジにならなくても、ゆっくり着実に積み上げていくのが本来の——」

「いいや、これは戦争だ」

 

 圭ちゃんが、静かに言った。

 ……は?何を言ってるんだこいつは。

 

「いいか、詩音。勉強って言葉にはいろんな種類がある。知識を深める勉強、人生を豊かにする勉強、好きなことを極める勉強——そういうのは、俺も戦争だとは思わない。人の数だけ意味があって、それぞれのペースでやればいい」

「……」

「けどな、テスト勉強だけは別だ。こいつには慈悲も絆もない。過程なんて一切考慮されない。あるのはただひとつ、数字で出てくる結果だけだ。どんなに頑張ったか、どんだけ努力したか——答案用紙には何も書かれない。書かれるのは、点数だけだ」

 

 圭ちゃんの声は、穏やかなのに、どこか冷たかった。

 

「その数字を出すためには、クラスメートも友人も、この瞬間だけは全員が敵だ。いかに自分以外より高い点を取るか。それだけを考える。――これは戦争なんだよ」

  

 いや待って、急にモードが変わったんですけど。あれ、私何かのトリガーを引いてしまった?ただ少し手加減してほしかっただけなのに。

 

「……ふぇ」

 

 目の奥が、じわっとした。これがまだ何日も続くと思ったら、それだけで泣けてきたのだ。

 

「そ、そんな考え方で、圭ちゃんは追い詰められたんでしょ!第二の圭ちゃんを作り出してもいいってんですか!」

 

 せめてもの抵抗をと、か細い声を上げる。

 

 こいつは勉強に追い詰められて凶行に走ってしまったのではないのか。そんな過ちをまた、犯そうっていうのか!しかもよりによって、この私を人身御供にして!

 

「もうそんなことに囚われないって、雛見沢に来たんじゃなかったんですか。なのに、また同じことを――」

「心配すんな」

 

 圭ちゃんが、にこやかに、サムズアップした。

 

「俺がああなった頃の十分の一にも満たねぇよ、これは。だから大丈夫」

 

 ……えぇ。この人は何を言ってるんだろう。

 

「ぜんっぜん大丈夫じゃないんですけど、私が!」

 

 圭ちゃんの十分の一とはいえ、これが地獄なのは変わらないではないか。私の残り少ない精神力が、じわじわと消耗されていくのは変わらないってのに!

 

「大体ですね、私が思い描いてたのは、こーんなのじゃないんですよ!」

 

 もう、堪忍袋の緒が切れた。溜まりに溜まった不満が、堰を切ったように溢れ出す。

 

「もっとこう、あるじゃないですか。分からない問題を、二人で頭を突き合わせて。『ここが分からなくて』って眉を下げる私に、優しーく微笑みかけてくれて。それに私がキュンってしちゃったりなんかして!不意に目が合ったり、ノートの上でちょっと手が触れてドキッとしたり……そういう、甘酸っぱい感じ!例えば、悟史くんとなら、絶対そういう感じになるわけですよ!」

「そうか?」

「そうです!私、憧れてたんですから。同い年の男の子と二人っきりでお勉強、という名の青春の一ページを、ついにめくる日が来たんだって!ひっそりと、それはもう密かーに、期待してたんですからね!」

「俺、方一個下だけどな」

「しゃらっぷ!なんでそういう、どうでもいい細かいことばっかり拾うんですかアンタは!」

 

 こっちは青春の話をしているのだ。学年がどうとか、そんな些事はこの際どうだっていい。

 

「とにかく!こーんな血も涙もない缶詰勉強、私の思い描いてたシチュエーションからは、月とスッポン、いや天と地ほども程遠いんですっ。さんざん期待させておいて、この仕打ち。私をぬか喜びさせてくれた責任、いったいどう取ってくれる気ですかッ」

 

 はぁ、はぁ、と肩で息をする。言いたいことは、言い切った。これだけぶちまけてやれば、さしもの圭ちゃんも、少しは——。

 

「気が済んだか?時間勿体ないから続けるぞ」

 

 ひどッ!?

 私の渾身の訴えを、そんな一言で……

 

 がっくりと肩を落とす。言い訳も抗議も、全部無駄なのは分かった。もう何を言ってもこの鬼は止まらないし、止められない。鬼が淵は沈んだってのに、鬼は死んでないんですけど。どうなってんですかオヤシロ様!!

 

 嗚呼、私の思い描いていた甘酸っぱい青春の一ページは、完全に塵の消え去っていく。代わりに残ったのは、分厚い問題集と、鬼と、二十位以内という遠い目標だけだった。

 

 

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